ネロとパトラッシュは、この世で二人きりでした。
彼らは、実の兄弟よりも仲のよい大の親友でした。ネロは、アルデンネ生まれの少年でした。パトラッシュは、大きなフランダース犬でした。どちらも年は一緒でした。けれども、ネロはまだ若く、パトラッシュはもう年寄りでした。彼らは生きている間、ほとんど一緒に暮らしていました。どちらも両親を亡くし、非常に貧しく、同じ人の手で養われていました。二人には、初めて出会った時から、共感というきずなが存在しました。そして、その共感のきずなは日を追う
彼らの家は小さな村のはずれにある、小さな小屋でした。村は、フランダース地方にあり、アントワープから五キロばかり離れていました。村は、広々とした牧草地と、とうもろこし畑に挟まれた平野にありました。平野を横切る運河のほとりには、ポプラとハンノキの長い並木がそよ風に吹かれてたなびいていました。村には、およそ二十軒ばかりの家と農家がありました。その家々は、雨戸は明るい緑か空色で、屋根はばら色か白と黒のまだらで、壁は日差しに照らされると雪とみまがうほどに真っ白でした。村の中心には、風車小屋がありました。その小屋は、少しこけの生えた斜面に建っていました。風車小屋は、あたり一帯の平野からは、よい目印になっていました。かつて風車小屋は、帆も何もかも真っ赤に塗られていました。しかしそれは、まだ風車小屋ができた頃の話で、もう半世紀以上も前のことでした。当時は、この小屋はナポレオン将軍の兵士のために小麦を
風車は、時々奇妙な具合に動きました。それは、まるで年取って痛風や関節炎になったかのようでした。けれども、近隣一帯の人たちはみな、この風車小屋で小麦を
ネロとパトラッシュは、ほとんどの生涯を、時を告げるもの悲しい鐘の音が聞こえる場所で一緒に暮らしていました。二人が住んだ村のはずれの小屋の北側にはアントワープの大聖堂の
年老いたジェハンじいさんが八十歳になったとき、娘がアルデンヌ地方のスタヴロ近くで亡くなり、
その小屋は、実際とても粗末で小さく、泥でできていました。けれども、きちんと整とんされ、
というのは、二人にとって、パトラッシュは、すべてのすべてでした。
二人の宝庫であり、穀倉。二人の黄金の蓄えであり、富の杖。二人のパンのかせぎ手であり、召使い。二人の唯一の友だちであり、なぐさめ。パトラッシュが死ぬか、二人からとりあげられてしまうと、二人とも倒れて死んでしまったにちがいありません。パトラッシュは、二人にとって胴体であり、頭であり、手足でした。パトラッシュは、二人にとって人生であり、魂でした。というのは、ジェハン・ダースは足が不自由な老人で、ネロはほんの子どもに過ぎなかったからです。そして、パトラッシュは彼らの飼い犬でした。
フランダースの犬は、茶色い色をし、頭と手足は大きく、まっすぐに立ったおおかみのような耳をして、足は曲がり、何世代にもわたる
パトラッシュの両親は、東西フランダースやブラバントの、あちこちの町のするどいとがった敷石と、長く、日陰のない、うんざりするような道を、一生働き通したのでした。パトラッシュが両親から受け継いだものと言えば、同じような苦しみと重労働だけでした。パトラッシュは、
この行商人は、大酒飲みで
幸か不幸か、パトラッシュはとても丈夫だったのです。パトラッシュは、鉄の種族の生まれでした。その種族は、情け
この長くて死にそうな苦しみを味わって二年経ったある日のこと、パトラッシュはルーベンスの住んだアントワープに通じるまっすぐな、
パトラッシュが倒れたのは、日差しの強烈なまぶしい光を浴びた、白い、
翌日は、ルヴァンの町で祭りの市が立つ日でした。だから、ブラバンド生まれの男は、早く市が立つ場所に駆けつけて、金物の商品をつんだ自分の荷車に、いい場所を確保しようとやっきになっていました。彼は激しく怒りました。というのは、パトラッシュは今までがん丈で
彼がパトラッシュに費やしたお金といえば、ほとんどないに等しいものでした。そして、二年もの長い、残酷な月日を、朝から晩まで、夏も冬も、天気のよい日も悪い日も、絶え間なく酷使し続けたのです。
彼は、パトラッシュを利用するだけ利用しつくし、けっこうなお金をパトラッシュから得ていました。しかし、彼は人間らしくずる賢く、犬がみぞで最後の息を引き取るにまかせておきました。カラスがパトラッシュの血走った目をえぐりだすかもしれませんが、彼はルヴァンで物乞いをしたり、盗んだり、食べたり、飲んだり、踊ったり歌ったり、楽しむために、道を進んでいきました。死にかけた犬、荷車引きの犬。なぜそんなものの苦しみに付き合って時間を無駄にし、小金を稼ぎそこなったり、笑うような楽しい思いをふいにしなければならない危険を冒さなければならないのでしょうか。
パトラッシュは、道ばたの草むらが茂るみぞに投げ捨てられたまま、そこで横たわっていました。その日は人通りが多い日でした。何百人もの人々が歩いたり、ラバに乗ったり、荷馬車や荷車に乗ったりしてルヴァンに向かって急ぎ足で陽気に通り過ぎていました。何人かはパトラッシュをみました。ほとんどの人は、見向きさえしませんでした。皆、通り過ぎていきました。死んだも同然の犬。それは、ベルギー人にとって価値はありませんでした。いや、世界中のどこだって、何の価値もなかったでしょう。
しばらくして、休日を楽しむ人々に混ざって、小柄な老人がやってきました。その老人は、腰が曲がり、足が不自由で、とても弱々しそうでした。彼はとても貧しく、みすぼらしい服を着ていて、とても祭りに行くような格好ではありませんでした。そして、彼は祭りを楽しもうとしている人たちの群れでほこりが立っている中を、とぼとぼとゆっくりと歩いていきます。老人は、パトラッシュを見て立ち止まり、不思議に思って脇により、みぞの草むらにうずくまって、同情のこもった優しい目で犬を調べました。二、三歳くらいの、少しバラ色で金髪の、黒目をした子どもが老人と一緒にいました。子どもは、胸の高さもある草むらの中をぱたぱたと走って、このかわいそうな、大きな、じっとしている動物を、立ったまま、かわいらしくまじめにじっと見つめました。
小さなネロと大きなパトラッシュは、このようにして出会ったのでした。
その日の結末はというと、年老いたジェハンじいさんは、たいそう骨を折って苦しんでいるパトラッシュをジェハンじいさんが住んでいる小さな小屋に引きずっていったのでした。その小屋は、パトラッシュが倒れていた場所から、石を投げれば届くような、ごく近いところにありました。そこでパトラッシュはじゅうぶんに介抱されました。病気は熱と渇きと疲れによる
何週間もパトラッシュは使い物にならず、無力で、体中が痛み、ほとんど死にかけていました。けれども、この間、パトラッシュは粗いことばを耳にしませんでしたし、残酷にぶたれることもありませんでした。そのかわりにただ、同情のこもった子どものつぶやきと、老人のいたわるような愛撫だけを感じたのでした。
パトラッシュが病気の間、この孤独な男と小さな幸せな子供は、パトラッシュが好きになりました。小屋の片隅に干し草を積んで、パトラッシュのベッドにしました。そして、二人は、パトラッシュが生きているかどうか確かめるために、暗闇の中でパトラッシュの息づかいに聞き耳をたてるようになりました。そして、パトラッシュがはじめて大きくうつろな、切れ切れの鳴き声をたてた時、パトラッシュが回復したという確かなしるしに、二人は声をたてて笑い、一緒に喜んで、ほとんど泣き出しそうになりました。そして、小さなネロは、喜びのあまり、マーガレットの花輪をパトラッシュのがん丈な首にかけて、新鮮な赤い唇で彼にキスしました。それから、パトラッシュがたくましい、大きな、やせた、力のある犬として再び立ち上がったとき、大きな熱心な目は、穏やかな驚きに満たされました。なぜなら、二人は、パトラッシュをののしって駆り立てたり、ぶって歩かせたりはしなかったからです。パトラッシュの心に強い愛が芽生えました。そして、この忠実な愛は、パトラッシュの命ある限り、決して揺らぐことがありませんでした。
しかし、パトラッシュは、犬らしく、恩の心も忘れませんでした。パトラッシュは横たわり、まじめな、優しい、茶色い目で友人たちの動きを見つめながら、じっと物思いにふけっていました。
年をとった元兵士のダースじいさんが生計を立てるための仕事といえば、今や毎日小さな荷車でミルクをアントワープの町まで、足を引きずりながら運ぶこと以外ありませんでした。ジェハンじいさんよりは幸運な近所の村人たちのミルクの缶がその荷物でした。村人たちは、ジェハンじいさんに同情してちょっとした仕事を彼に与えたのでした。もう一つ、とても正直な運び手に町までミルクを運んでもらって、その間自分たちは家にいて、牛やアヒルの世話をしたり、庭や小さい田畑の仕事をする方が好都合だった、というのがもっと大きな理由でした。しかし、この仕事は、老人にとっては大変骨の折れる仕事になってきました。彼は八十三歳でした。そして、アントワープまでは五キロか、もっとありました。
パトラッシュが回復して、マーガレットの花輪を
翌朝、老人が荷車に触れる前に、パトラッシュは起きて、荷車に歩いて行って、ハンドルの間に自分の体を置きました。こうすることで、食べさせてくれたお返しに働かせてほしい、それに自分には働く能力もあると、はっきりと訴えたのでした。ジェハンじいさんは、ずいぶんと抵抗しました。というのは、老人は犬に労働させるのは犬の本性に反していて、恥ずべき行為だ、と考えていたからです。
しかし、パトラッシュはあきらめませんでした。引き具をつけてくれないとわかると、パトラッシュは歯でかじって荷車を前に引っ張ろうとしました。
ついにジェハンじいさんは根負けしました。彼が助けたこの動物の
冬が来たとき、ジェハンじいさんは、ルヴァンの祭りの時にみぞで死にかけていた犬を、自分の小屋に連れ帰ってきた幸運に感謝しました。
というのは、老人はとても年をとっていて、年を
その上、仕事は三時か四時には終わり、その後、パトラッシュは自分のやりたいように過ごせたのです。のびをしたり、日なたで眠ったり、野原をぶらついたり、ネロといっしょに飛び回ったり、仲間の犬と遊んだり、何でもすることができました。パトラッシュは、とても幸せでした。
パトラッシュにとって幸いなことに、元の主人は、メクレンの祭りの市で大酒を飲んで暴れ、死んでしまいました。だから、元の主人が新しい愛情に満ちた家に、パトラッシュを追いかけてきたり、じゃまをする心配はなかったのです。
年とったジェハンじいさんは、いつもびっこを引いていました。数年経ってひどい痛風で足がほとんど動かなくなってしまい、もうこれ以上荷車につきそって外出することもできなくなってしまいました。そのとき、ネロは六歳になっていました。ネロは、何度もおじいさんに連れられて一緒に町に行ったことがあるので、町をよく知っていました。それで、ネロが代わりに町に荷車を運ぶことになりました。町でミルクを売ってその代金を受け取り、今度はそのお金をかわいらしくもけなげに、それぞれの牛の持ち主のところにとどけるのでした。そうしたネロの様子に、見る人は皆、
小さいアルデンネ生まれの少年は、きれいな子供でした。黒目勝ちの、まじめな、優しい目をして、金髪がふさふさして、肩までのびていました。そして、多くの画家が、ネロたちが通り過ぎるとき、その姿をスケッチしました。テーニルスやミーリスやファン・ダイクの絵に出てくるような、真ちゅう製のミルク缶を積んだ緑の荷車と褐色の大きな犬。引き具には鈴がつけられていて、進むたびにチリンチリンと鳴ったのでした。そして、そばには、小さい白い足に大きな
ネロとパトラッシュはとても立派に、楽しそうに仕事をしました。そして、夏が来て、ジェハンじいさんが再びよくなったときも、ジェハンじいさんは外に出かける必要はなく、朝は小屋の戸口に座って中庭の戸口から二人が出かけるのを見送り、ちょっと昼寝して夢を見て、少しお祈りをして、そして三時になるとまた目を覚まして二人が帰ってくるのを待つのでした。そして、家に帰り着くと、パトラッシュは喜びの
このように月日が過ぎてゆきました。ネロとパトラッシュの過ごした人生は、幸せに満ち、清らかで、健やかなものでした。
とりわけ、春と夏は楽しい季節でした。フランダースは美しい土地ではありません。中でも、ルーベンスで有名な、アントワープのあたりは、おそらく一番美しくなかったでしょう。トウモロコシ畑とナタネ畑、牧場と畑が、特徴のない平野に互い違いに広がっていました。そして、それがいやというほど繰り返されていたのでした。
平野にぽつぽつと立っている
山や森の中に住んでいる人ならば、果てしなく続く広大で陰気な平原に退屈して気が滅入り、牢屋に入れられたような気分を味わったことでしょう。けれども、その光景は緑がいっぱいでとても
確かに、冬はもっと大変でした。ひどく寒い朝、まだ暗いうちから起きなければなりませんでした。それに、腹いっぱい食べられることなんか、ほとんどありませんでした。暖かい季節にはブドウの
だから、だいたいのところ、とてもよかったのです。パトラッシュは、大きな街道や通りで、夜明けから夜遅くまでこき使われている犬を、いっぱい見てきました。そうした犬は、
ただ、パトラッシュには、一つだけ気がかりなことがありました。それは、こんなことでした。誰でも知っているように、アントワープの町には、あちこちに古い、黒ずんだ、古風な、でも
この
その大きな白い墓の近くは、とてもひっそりと静まり返っています。ときおりオルガンの音や聖歌隊が「たたえよ、マリア」や、「主よ、あわれみたまえ」を歌う音が聞こえるのを除いては。ルーベンスが生まれたアントワープの町のまん中に位置する聖ジャック教会の
ルーベンスがいなければ、アントワープの町は何だったというのでしょうか?
国よ! あなたは国に生まれた偉人を大切にしなければなりません。というのは、未来の人は、ただ偉人によってだけ国を知るからです。この時代のフランダースの人たちは賢明でした。ルーベンスが生きている間、アントワープの町は、アントワープが生んだ最も偉大な息子に名誉を与えました。そして、ルーベンスの死後は、アントワープの町はその名前を賛美します。けれども、実を言うと、フランダースの人たちがこのように賢明だったことは、めったにありませんでした。
さて、パトラッシュの問題というのは、次のようなものでした。子どものネロは、むらがりあっている屋根の中でひときわ大きくそびえ立つ、この大きな、陰気でもの悲しい、石造りの教会の中に、幾度となく入っていきました。一方、パトラッシュは一人歩道に取り残されました。そして、退屈しながら、ちょっとの間でも離れていたくない、大好きな友だちを惹きつけ、パトラッシュから離れさせているものが一体全体何だろうか、とじっと考え込みましたが、無駄なことでした。一、二度、パトラッシュは自分自身で何が起こっているかを確かめようとしました。そして、ミルクの荷車を引きながら音を立てて階段を登っていきました。けれども、そうすると、パトラッシュは背の高い、黒い服と銀色の鎖を身に付けた守衛の人にすぐに追い返されました。パトラッシュは、小さい主人を問題に巻き込むことを恐れ、教会の中に入ろうとするのはやめて、少年が再び現れるまで、教会の前で根気強く待ったのでした。パトラッシュを悩ませたのは、教会に入れなかったことではありませんでした。パトラッシュは人間が教会に行く、ということは知っていました。村人たちは、みんな、赤い風車小屋の反対側にある、小さな、今にも潰れそうな、灰色の教会に行っていました。パトラッシュを悩ませたのは、ネロが教会から出てきたとき、とても様子が変だったからです。いつも、とても顔を真っ赤にするか、とても青白い顔をしていました。そして、そのように教会に行った後に家に帰るときは、いつもじっと座って、夢見るような様子でした。遊ぼうともせず、運河の向こうにある夕方の空をじっと見つめ、ふさぎ込んで、ほとんど悲しそうでした。
「いったいこれはどうしたことだろう?」、とパトラッシュは不思議に思いました。パトラッシュは、小さな少年がそんなに深刻になることは、よいことではないし、普通ではないことだ、と思いました。そこで、パトラッシュは、ものは言えませんでしたが身振りでなんとかネロを日なたの野原やにぎやかな市場に
「パトラッシュ、あれを見ることができたらなあ。あれを見ることができたらいいのに」
「あれ、ってなんだろう?」、とパトラッシュは思いました。そして、大きな、思いこがれた、同情的な目でネロを見上げました。
ある日、門番が扉を半開きにしたままで立ち去ったとき、パトラッシュは、小さな友人の後を追って様子を見るために、教会に入りました。「あれ」というのは、聖歌隊席の両側にある、布で
ネロはうっとりと無我夢中で
「あれを見られないなんて、ひどいよ、パトラッシュ。ただ貧乏でお金が払えないからといって! ルーベンスは、絵を描いたとき、貧しい人は絵を見ちゃいけないなんて、夢にも思わなかったはずだよ。ぼくには分かるんだ。ルーベンスなら、毎日、いつでも絵を見せてくれたはずだよ。絶対そうだよ。なのに、絵を覆うなんて! あんなに美しいものを、
けれども、ネロはその絵を見ることができませんでした。そして、パトラッシュはネロを助けることができませんでした。というのは、教会が「キリスト
小さなアルデンネ生まれの少年の魂は、芸術に対する激しい情熱でいっぱいでした。まだ日も昇らず、みんな起きない早朝からミルクを引いている大きな犬を連れて、ミルクを運んで売るために家々を回っていたネロは、一見ただの小さな農民の少年に見えましたが、ルーベンスが神様である、夢の天国に住んでいました。ネロは、こごえておなかをすかし、靴下も着けずに
ネロは、貧しく育ち、運命にもてあそばれ、読み書きも教えられず、誰にも顧みられませんでしたが、その見返りに、いや、災いだったかも知れませんが、「天才」と呼ばれる才能を
ただ、パトラッシュだけが、いつもネロと一緒にいたので、ネロがあらゆる動物や植物の姿をチョークで
「ネロや、おまえが大きくなって、この小屋と小さな畑を自分で持って、自分で働いて、近所の人からだんな、と呼ばれるようになったら、わしも安心してお墓にいけるというものだよ」
ジェハンじいさんは、ベッドに横になりながらよくこういったものでした。というのは、ちょっとした土地を自分で持って、まわりの村人たちからだんな、と呼ばれるのが、フランダースの百姓にとって、最高の夢だったからです。ジェハンじいさんは、兵士として若い頃はいろんな土地をあてもなくさまよって、何も持ち帰りませんでしたが、年をとると、同じ場所につつましやかに満足して暮らすことが、望みうるもっともよい運命であると考えるようになったのです。けれども、ネロは何も言いませんでした。
その昔活躍したルーベンスやヨルダンス、ヴァン・アイク、そのほか驚異の種族と同じ天分が、ネロの中に息づいていました。近年では、ディジョンの町の古い城壁をムーズ川が洗う、緑のアルデンヌ地方は、英雄パトロクロス(ギリシャ神話の英雄で、アキレスの親友)を描いた偉大な芸術家を生み出しています。けれども、その画家は私たちの時代に近すぎて、その才能を適切に評価することは難しいのです。
ネロの夢は、ちっぽけな畑を耕し、かやぶきの屋根に住み、自分よりすこし貧しいか、豊かな近所の人たちから「だんな」と呼ばれることではありませんでした。真っ赤な夕焼けの空のかなたに、あるいは灰色に霧がかった朝もやのかなたにそびえる大聖堂の
というのは、そのような夢をなかなか理解してくれない人が聞き手の場合は、夢を具体的に言葉にして話すことは、簡単ではなかったからです。そして、そんな夢をジェハンじいさんに話すのは、部屋の片隅で寝たきりの、この貧しい老人を困らせるだけだったでしょう。というのは、ジェハンじいさんは、アントワープの町にでかけたとき、わずかなお金で黒ビールを飲むことがありましたが、そのようなときに見る居酒屋の壁に青と赤で書かれている
ネロがとほうもない夢を話すことができた相手が、パトラッシュ以外にもう一人だけいました。それは、アロアでした。アロアは、草が青々とはえた岡の上の古びた風車小屋のそばに住んでいました。父親は粉屋で、村一番の金持ちでした。小さなアロアは、優しい黒っぽい目をした、明るく血色のよい、とてもかわいい女の子でした。ところで、こうした面立ちはフランダース人にはよく見かけます。これは、アルバ公によるスペイン
小さなアロアは、よくネロとパトラッシュと一緒にいました。三人は野原で遊び、雪の中で走り、ヒナギクの花やコケモモの実を集めました。また、一緒に古い灰色の教会に行きました。そして三人は、よく粉屋の家の、火が赤々と燃える暖炉のそばに一緒に座りました。実際、小さなアロアは、村で一番金持ちの子どもでした。アロアには、兄弟も姉妹もいませんでした。彼女の青いサージ・ドレスに穴があることは、決してありませんでした。お祭りの日には、金ぴかにぬったクルミや、神の子羊をかたどったお菓子を両手に持ちきれないほどたくさんもらいました。そして、アロアが最初に教会の
アロアの父親であるコゼツのだんなは、いい人でしたが、いくぶん
ある日のこと、コゼツのだんなは、牧草の二番刈りが済んだばかりの風車小屋の裏の細長い牧草地で、かわいい子どもたちの姿を目にしました。
それは、彼の小さい娘が牧草の間に座り、
きれいななめらかな松の板に、少年ネロは、木炭で二人の似顔絵を描いていました
粉屋は立って、目に涙を浮かべながら似顔絵を見ていました。その似顔絵は、不思議なくらいアロアそっくりでした。粉屋は、一人っ子であるアロアを深く愛していました。
それから粉屋は、「お母さんがおうちで用があるというのに、こんなところで怠けて遊んでいるなんて」と、アロアをしかりつけました。アロアはおびえて泣きながら家に戻りました。それからネロの方に向き直り、ネロの手から板をうばい取りました。
「おまえは、いつもこんな馬鹿なまねをしているのか?」
粉屋は
ネロは、赤くなってうなだれました。
「ぼくは、目に入るものは、なんでも描きます」と、ネロはつぶやきました。
粉屋は、黙っていました。それから、粉屋は一フランを手に持って差し出しました。
「今言ったように、これは馬鹿げたことだぞ。とてもよくないことだ。時間の無駄だ。けれども、この絵はアロアそっくりで、お母さんは喜ぶだろう。この銀貨でこの絵をおれに売ってくれ」
若いアルデンネ生まれの少年は色を失いました。ネロは頭を上げて、手を背中の後ろに隠しました。
「お金も絵も持っていって下さい、コゼツのだんな。だんなには、今までに何度も親切にしてもらいましたから」
ネロは短く答えました。それから、ネロはパトラッシュを呼んで、野原のむこうに行ってしまいました。
「あのお金があれば、あれを見ることができたんだ。でも、ぼくはアロアの絵を売ることができなかった。たとえあれが見られたとしても」
ネロはパトラッシュにつぶやきました。
コゼツのだんなは、とても心を悩ませながら家に入りました。その晩、粉屋は妻にこう言いました。
「あの若者をアロアに近づけさせてはいけないよ。将来問題が起きるかも知れん。ネロは十五で、アロアは十二だ。ネロは、格好もよくて、なかなか美男子だからな」
「それに、気だてもいいし、人を裏切らない子ですよ」
松の板の絵をうれしそうにながめながらアロアのお母さんは答えました。その松の板は、
「そうだな、否定はせんよ」
粉屋は
「それなら、もしあなたの考えるようなことが万が一起こったとしても」と、妻はためらいながら言いました。
「それがそんなに大変なことなのでしょうか? アロアは二人でやっていけるものは十分あるし、それになんていったって幸せなのが一番ですからね」
「お前はやっぱり女だ。だから、そんな馬鹿なことを言うのだ」
粉屋はきびしく、パイプをテーブルでどん、とたたきながら言いました。
「あの子は、
かわいそうな母親は
何が粉屋を怒らせたのか、ネロには本当のことは分かっていませんでした。ネロは、草むらでアロアの絵を描いていたことが、何かの理由でコゼツのだんなを怒らせたのだと思いました。そして、ネロのことが大好きだったアロアがネロに助けを求めて、ネロの手を取ってきたとき、ネロはとても悲しげに彼女に微笑み、やさしくアロアのことを心配して言いました。
「だめだよ、アロア。お父さんを怒らせてはいけないよ。アロアのお父さんは、ぼくがアロアを怠け者にすると思っているんだよ。アロアがぼくと一緒にいると、お父さんは不愉快に思うよ。アロアのお父さんは、いい人で、アロアのことを、とって愛しているじゃないか。ぼくたち、お父さんを怒らせないようにしなくっちゃ、アロア」
そうはいったものの、ネロは悲しくてしかたありませんでした。日が昇ってパトラッシュといっしょにポプラの並木道を歩くとき、世界は昔ほど輝いて見えませんでした。古い赤い風車小屋は、ネロにとって目印でした。ネロは行き帰りの途中でそこで立ち止まったものでした。というのは、アロアがいつも小さい亜麻色の頭を製粉場の低い木戸からのぞかせ、にこやかにあいさつしてくれるからでした。そして、アロアは小さいバラ色の手で、パトラッシュに肉のついた骨やパンの皮を投げてくれるのでした。
今や、犬は物足りなそうに閉じた
「こうするのが一番いいのだ。あの若者はほとんど
粉屋は世慣れていました。そして、ごくまれに、特別のはれがましい儀式のようなことがないかぎり、ネロに対して
二人は、とても長い間毎日楽しく、気兼ねなく、幸せに
この間中ずっと、小さい松の板の絵は、カッコウ時計と蝋でできたキリストの像と一緒に、粉屋の家の
けれども、ネロは不満を言いませんでした。おとなしくしているのがネロの習慣でした。年取ったジェハン・ダースは、これまでもネロにこう言ってきました。
「わしたちは、貧しいのじゃ。神様がくださるものを、よいものでも悪いものでも、受け取らなければならないよ。貧しい者は、選択をすることができないのじゃよ」
少年は、年とったおじいさんを尊敬していましたので、いつも黙って聞いていました。それにもかかわらず、よく天才少年の心がとらえられる、ある
「貧乏人だって、時には選ぶことができるんだ。誰からも『だめだ』なんて言われないように、偉くなることを選ぶことだってできるはずだ」
ネロは今でも無邪気にそう思っていました。
ある日、アロアは運河のそばのトウモロコシ畑でネロが一人でいるところをたまたま見つけると、ネロに駆け寄ってきました。そして、ネロをかたく抱きしめ、はげしく泣きました。というのは、明日はアロアの名前にゆかりのある
「いつか、将来、きっと状況は変わるよ。いつか、アロアのお父さんが持っている小さな松の板の絵が、同じ重さの銀と同じ価値があるようになる日が来るよ。そうなれば、お父さんもぼくに対して
「じゃあ、もしも、わたしがあなたのこと、好きじゃなかったら?」
かわいらしいアロアは、女の子によくありがちなことでしたが、目に涙を浮かべて、ネロの気をひくように、ちょっとすねたように
ネロの目はアロアの顔からそれ、遠くをさまよいました。そこには、真っ赤と金色に染まるフランダース地方の夕焼けの中にそびえる、大聖堂の
「ぼくはそれでも偉くなるよ」
ネロはそっと小さな声で言いました。
「それでも偉くなるか、死ぬかだ。アロア」
「あなたは私のこと、好きじゃないのね」
ネロを押しのけて、小さい
けれども、ネロは首を振って、
いつか遠い将来、故郷に戻ってきて、アロアの両親にアロアをお嫁さんにもらいたいと申し込むんだ。すると、断られたりせずに、喜んで受け入れてもらえる。一方、村の人は、みんなぼくを見ようとして群がってきて、互いにこう話している。「あの男を見たかい? あの男は、まるで王様のようなものだよ。何と言ったって彼は偉大な芸術家で、世界中に名前が響きわたっているのだから。けれどもあの男は、昔は貧しい、あのネロ少年だったんだよ。乞食同然で、飼い犬に助けられてやっと食べていけた、あの子なんだよ」
そして、おじいさんには毛皮のついた、紫色の服を着せてあげて、聖ヤコブ教会の礼拝堂にある、「聖家族」の肖像画みたいな絵を描こう。それから、パトラッシュには、金の首輪をかけてやって、右側に座らせるんだ。そして、みんなにこう言うんだ。
「かつては、この犬がわたしのただ一人の友だちでした」と。
それから、大聖堂の
「いや、感謝するならぼくにではなく、ルーベンスに感謝してください。ルーベンスがいなかったら、ぼくはどうなっていたか、分からないんだから」
こうした美しい、とても実現できそうもない、けれども無邪気で自分の欲を離れた、ただただルーベンスへの英雄的なあこがれに満ちた夢は、歩いているとき、ネロはとても身近に感じていました。悲しいアロアの
「気にすることはないよ、パトラッシュ」
ネロはパトラッシュと二人で小屋の戸口に座って、犬の首を抱きしめてそう言いました。粉屋の家のにぎやかなお祝いの音が、夜風に乗って小屋まで聞こえてきました。
「気にすることはないんだ。未来は変わるんだから」
ネロは、未来を深く信じきっていました。ネロよりもっと人生経験を積んできて、世の中というものをもっと
「今日はアロアにゆかりの深い
その晩、小屋の隅っこのベッドに横たわっていたジェハンじいさんは言いました。
少年は、そうだという身振りをしました。ネロは、おじいさんがそんなにちゃんと憶えてなくて、記憶がもっとあやふやだったらいいのに、と思いました。
「じゃあ、なぜ行かないのかね? 今まで一度だって呼ばれなかったことはなかっただろう、ネロや」
おじいさんは、追求しました。
「おじいさんがこんなのに、行けないよ」
ネロはベッドの上で格好のいい頭を傾けてつぶやきました。
「いや、いや! ヌレットのおばさんが来て、一緒にいてくれるよ。今までだって何度もそうしてくれたんじゃから。一体何があったんだね、ネロや? まさか、けんかでもしたんじゃあるまいな?」
老人はしつこく尋ねました。
「いや、そんなことは絶対にないよ」
少年はうつむいた顔を真っ赤にしながら答えました。
「本当のこと言うと、コゼツのだんなが今年は呼んでくれなかったんだ。コゼツのだんなは、ぼくに対して何か怒っているみたいなんだ」
「でも、何にも悪いことはしとらんのじゃろう?」
「うん、何もしてないよ。ただ、松の板にアロアの肖像を描いてただけなんだ。それだけなんだ」
「ああ! そうか」
老人は黙ってしまいました。少年の純真な答えから、おじいさんには事情がのみこめました。おじいさんは、今でこそぼろ小屋の隅っこで、乾燥した木の葉っぱをしきつめたベッドに寝たきりになっていますが、世間のやり方というのがどういうものかを、完全に忘れた訳ではありませんでした。
おじいさんは、いつもより優しい身振りでネロの金髪の頭を彼の胸に抱き寄せました。
「おまえは、ひどく貧しいんじゃよ」と、震える声でジェハンじいさんはいいました。
「かわいそうに! どんなにつらかろう」
「ううん、ぼくは豊かだよ」
ネロはつぶやきました。ネロは無邪気にそう思っていました。王の力より強大な、不滅の力をもつ財宝を持っていると。
ネロは静かな秋の夜に、小屋の戸口にいって、柱によりかかりました。そして、星の群れを見上げました。高いポプラの木は、風でたわんで揺れていました。粉屋の家の窓は、すべて灯りがともり、時々フルートの音が聞こえてきました。涙が
ネロは、あたりが静かになり、闇につつまれるまで、そこにたたずんでいました。それからネロとパトラッシュは、小屋の中に一緒に入って、並んでぐっすりと眠りました。
さて、ネロには、秘密がありました。そのことは、パトラッシュだけしか知りませんでした。小屋には小さな離れがありました。ネロ以外は誰も入らなかった部屋で、ひどくわびしい場所でした。でも、北側からたっぷりと光が入ってきました。ここにネロは、そまつな板で、適当に
そして、ネロが見たものを形にするのは、ただ白と黒だけでした。
彼がクレヨンで描いていたこのすばらしい画は、倒れた木に座っている老人、ただそれだけのものでした。ネロは、年をとった木こりのミッシェルが夕方にそうやって座っている姿を、しょっちゅう見たことがありました。ネロには、デッサンとか遠近法とか解剖学とか影の描き方といった、絵の技法について教えてくれる人はいませんでした。それなのに、年老いた弱々しい木こりの、とても悲しげで静かに
もちろん、絵は荒削りで、いろいろな欠点もありました。それなのに、その絵は真に迫っていて、とても自然で、芸術的で、そしてとてももの悲しく、美しかったのです。
パトラッシュは、ネロが毎日の仕事が終わった後で作品を少しずつ完成させようとしているのを、数え切れないほどの時間、おとなしく見守ってきました。そして、パトラッシュはネロがある望みを抱いていることを知っていました。それは、おそらく空しく、
春と夏と秋の間中、ネロはこの絵を描き続けました。もし優勝すれば、暮らしの心配もなくなり、今までめくらめっぽう、ただ訳もなく情熱的にあこがれてきた芸術の神秘に向けて、一歩踏み出せるのです。
ネロは、誰にもこのことを話しませんでした。おじいさんには分からなかったでしょうし、ネロはアロアを失ってしまっていました。
「もしルーベンスがこのことを知っていたなら、きっと賞をぼくにくれると思うんだ」と、パトラッシュだけに思いのすべてを話しました。
パトラッシュもそう思いました。なぜなら、パトラッシュはルーベンスが犬好きだったことを知っていました。そうでなかったら、あんなに見事に生き生きと犬の絵を描けなかったでしょう。そして、パトラッシュが知っていたように、犬が大好きな人は、誰でも皆、憐れみ深いものなのです。
絵の提出期限は、十二月一日で、賞の発表は二十四日でした。優勝者が優勝をクリスマスに家族と一緒にお祝いできるようにしていたのでした。
ひどく寒い冬の
「この絵には、何の価値もないのかも知れない。どうしたら、それがぼくに分かるんだ?」と、ネロはおどおどと胸を痛めながら思いました。ネロが公会堂に絵を置いた今、ネロは、自分のような靴下もはかず、ほとんど文字さえ読めないような少年が、偉大な画家であり、本物の芸術家である審査員が認めてくれるような絵を描けると夢見るなんて、とても無茶で途方もなく、ばかげたことのように思えました。
それでも、大聖堂を通り過ぎたとき、ネロは元気を取り戻しました。ネロには、ルーベンスの偉大な姿が霧と闇の中からぼうっと現れて、くちもとにやさしい笑みを浮かべながら、ネロに向かって次のようにささやいたように思われました。
「だめだよ、勇気を出しなさい。私の名前がアントワープの町に永久に刻まれたのは、わたしが弱気になったり、おどおどとおびえたりしなかったからだよ」
ネロはその言葉に
とりわけ、パトラッシュにとってはそうでした。月日が経って、ネロが力強い若者に成長した一方、パトラッシュは年寄りになっていました。関節はこわばるし、骨はずきずきと痛みました。しかし、パトラッシュは自分の仕事を絶対にあきらめようとはしませんでした。ネロはむしろパトラッシュをいたわり、自分だけで荷車を引いていきたかったくらいです。しかし、パトラッシュがそれを許しませんでした。パトラッシュが許し、受け入れたのは、せいぜい氷のわだちの中をガタピシと進むとき、荷車の後ろから後押ししてもらうことだけでした。
パトラッシュは引き具とともに生きてきました。そして、パトラッシュはそれを誇りにしていました。パトラッシュは、ときどき
「パトラッシュ、家で休んでいたらどうだい? もうお前は休んでいる時分だよ。それに、ぼく一人で十分荷車を引くことができるよ」
ネロは、よくパトラッシュに休むようすすめました。
パトラッシュはネロが何をいっているか、分かっていましたが、進軍ラッパが鳴り響くとしりごみしない歴戦の兵士のように、けっして家でじっとしてようとはしませんでした。そして、毎朝パトラッシュは起きるとかじ棒に体を入れ、長い長い間四本の足で無数の足あとを刻んできた雪の積もった平原を、とぼとぼと歩いていくのでした。
「死ぬまで休んじゃいけない」と、パトラッシュは思いました。けれども、時々、もう休む時がそう遠くないように思われることがありました。目は昔ほどよく見えないようになっていました。それに、教会の鐘が五時を告げて、夜明けの労働がはじまることを知らせた時、パトラッシュはわらの寝床からぱっと飛び起きていましたが、今では夜寝た後、起きるのがつらくなってきていました。
「パトラッシュや、かわいそうになあ。わしたちは二人とも、もうすぐ静かに休むことになるじゃろうよ」
年老いたジェハンじいさんは言って、しわだらけの手でパトラッシュの頭をなでてやりました。その手は、いつもパトラッシュと粗末なパンのかけらを分かち合ってきた手でした。そして、老人と老犬は、同じ思いに胸を痛めていました。
二人が去ったあと、誰が愛しいネロの面倒をみてくれるのだろうかと。
雪の中、アントワープからの帰り道のことでした。雪は、フランダース地方の平野を、まるで大理石のように固くなめらかにしていました。そこで、二人はタンバリン奏者の格好をした小さな人形を拾いました。赤色と金色の服を着て、高さは十五センチほどでした。高い地位にある人が運から見失われて転落した場合と違って、この人形は転落してもまったくよごれておらず、傷もついていませんでした。それは、かわいらしいおもちゃでした。ネロは持ち主を探そうとしましたが、どうしても見つかりませんでした。ネロは、それならアロアにあげて喜ばせてあげよう、と思いました。
ネロが粉屋を通り過ぎたときは、もう夜遅い時間でした。ネロは、アロアの部屋の小さな窓をよく知っていました。持ち主の分からない小さな人形をアロアにあげることは、何も悪いことではないと、ネロは思いました。なにしろアロアとは、ずっと長い間遊び仲間だったのですから。アロアの部屋の窓の下には、傾いた屋根のある小屋がありました。ネロはここによじ上り、窓格子をそっとたたきました。室内には小さな灯りがともっていました。アロアは窓を開け、半ばおびえながら外を見ました。
ネロは、タンバリン奏者の人形を彼女の手に入れました。
「アロア、この人形、雪の中で見つけたんだ。アロアにあげるよ。アロアに神様のお恵みがありますように!」と、ネロがささやきました。
アロアがお礼を言う間もなく、ネロはすばやく屋根から降り、暗闇の中を走り去っていきました。
その晩、粉屋で火事がありました。外の建物ととうもろこしの多くが焼けました。けれども、風車小屋と家は無傷でした。村中みな家の外に出て、火事にびっくりしてしまいました。そして、消防車が雪の中、アントワープから駆けつけてきました。粉屋は保険をかけていたので、何も損はしませんでした。けれども、彼はものすごく怒って、火は事故ではなく、誰かの悪意による放火だ、と大声で決めつけました。
ネロは眠りから覚めて、他の人たちと一緒に消火の手伝いにいきました。コゼツのだんなは、怒って彼を押しのけました。
「おまえは日が暮れてからこのへんをうろついていたな。おまえは、他の誰よりも今度の火事のことを知っているはずだ」
コゼツのだんなは、荒々しく言いました。
ネロはぼう然として、返事もできませんでした。そんなこと、冗談でなければ言えるはずがない。けれど、こんな時に、どうして冗談が言えるのだろう、と思って、訳が分からなかったのです。
それにもかかわらず、粉屋は次の日以降も、おおっぴらに村人たちにひどいことを言いました。少年に対して正式な
「あなたは、あの子になんてひどい仕打ちをするの」
粉屋の妻が、彼女の主人に泣いて訴えました。
「もちろんネロは無実だし、あの子は人を裏切ったりしない子ですよ。どんなに心が傷ついていたって、そんな悪いことをしようだなんて、夢にも思うはずはありません」
けれどもコゼツのだんなは、
一方、ネロの方は、不満を言うのは馬鹿げていると思い、
「コンクールに優勝することができれば! そのときはみな、きっと済まなかったと思うに違いない」
それでも、ずっとこの村で育ってきて、子どもの頃は皆から甘やかされ、ほめられてきた、まだ十六歳にも満たない少年にとって、無実の罪のためにこの小さな村で
そして、暖炉にくべる
いつも通り、パトラッシュはよく知っている家の前で止まりますが、今や
まもなくクリスマスでした。
天気はひどく荒れ、
ネロとパトラッシュはまったく孤独のまま取り残されてしまいました。というのは、クリスマスの前の週のある晩、死に神がこの小屋にやってきて、貧乏と苦労以外は何も知らなかった、年老いたジェハンじいさんの命を永久に奪っていったからでした。ジェハンじいさんは、もう随分長い間死んだも同然の状態で、ときどきかすかな身振りをする以外は、動くこともありませんでした。また、やさしい言葉をかけてくれたりする以外は、無力でした。それなのに、ジェハンじいさんに死なれてみると、二人はぞっとするほど恐ろしい気がしました。二人は、ひどく悲しみました。ジェハンじいさんは、眠っている間に亡くなりました。明け方に、二人はジェハンじいさんが亡くなったことを知りました。ことばで言い表せないようなさびしさとわびしさとが、ひしひしと迫ってくるように感じました。ジェハンじいさんは、もう長い間、貧しくて弱々しい、体が不自由な、ただの老人でした。二人を守るために、手を上げることすらできませんでした。けれども、ジェハンじいさんは、二人を深く愛していましたし、笑顔で帰りを迎えてくれました。
白い雪の降る冬の日に、二人は小さな灰色の教会のそばにある名もない墓地に、ジェハンじいさんの亡きがらを送っていきました。その間中ずっと二人は、ジェハンじいさんの死を悲しみました。どんななぐさめの言葉も耳に入らなかったことでしょう。ジェハンじいさんの葬式の会葬者は、じいさんが死んでこの世に二人きりで取り残された、若い少年と年をとった犬だけでした。
「こうなったら、うちの人だって優しくなって、かわいそうな少年をうちに来させるようになるだろう」
暖炉のそばで煙草を吸っていた夫をちらっと見て、こう粉屋の奥さんは思いました。
コゼツのだんなは、彼女の考えを知っていました。けれどもいっそう
「あの子は、
粉屋の奥さんは、あえて何も言いませんでした。けれども葬式が終わり、会葬者が去った時、永久花(乾燥しても、もとの形や色が長く変わらない、ムギワラギクなどの花)でできた花輪をそっとアロアに手渡し、雪をかきわけ、黒い土がかぶせられた、印もない塚にそれを置いてくるように言いつけました。
ネロとパトラッシュは、悲しみに暮れながら家に帰りました。けれども、この
ひと月の家賃を
小屋はとても
一晩中、少年と犬は、火の気のない暖炉のそばに座っていました。ぴったり寄りそって体を暖めあい、悲しみをなぐさめあいました。二人の体は寒ささえ感じなくなり、なんだか心までがすっかり凍えたような気がしました。
白く雪の積もった、冷え切った大地の上に夜が明けました。この日は、クリスマス・イブの朝でした。震えながら、ネロはたった一人の友人を抱きしめました。熱い涙がぽたぽたとパトラッシュの広い額にこぼれ落ちました。
「行こう、パトラッシュ、とても大好きなパトラッシュ。追い出されるまで待つことはないよ。行こう」
彼はこうつぶやきました。
パトラッシュはネロのいうことなら何でも従いました。そして、二人は悲しげに一緒に並んで、小さな家を出て行きました。二人にとってはとても大事だった場所です。どんな
二人は通い慣れたアントワープへの道を歩きました。やっと夜が明けたばかりの時間でした。ほとんどの家の雨戸はまだ閉められましたが、いくつかの家ではもう起きていました。犬と少年が前を通っても、誰も気にかけようとはしませんでした。ある一軒の家の
「パトラッシュにパンの皮をやってくれませんか? パトラッシュは年寄りです。それに、昨日の朝から何も食べてないんです」
おどおどとネロは言いました。
その家のおかみさんは、「この時期はライ麦や小麦もなかなか高くてねえ」、と何かはっきりしないことをつぶやきながら、急いで
少年と犬は、再び弱々しく歩きはじめました。二人は、もうこれ以上何も食べ物を求めたりはしませんでした。
さんざん苦労しながらゆっくりと歩き続け、二人はアントワープに到着しました。鐘が十時の時を告げていました。
「ぼくが何か持ってたら、それを売って、パトラッシュのためにパンを買ってやれるのに」と、ネロは思いました。しかし、ネロはリネンのシャツとサージの服を着て、
パトラッシュはそうしたネロの気持ちを理解しました。そして、自分のために悩んだり心配したりしないで欲しいと願うかのように、鼻を少年の手にすり寄せました。
絵のコンクールの優勝者は、正午に発表されることになっていました。ネロは苦心して描いた大事な絵を提出した公会堂に向かって歩きました。
階段や入口の広間に大勢の若者がいました。みんなネロと同じくらいか、少し年をとっていました。皆、両親や親戚や友だちと一緒でした。
パトラッシュを近くに引き寄せて彼らの中に入っていったとき、ネロは不安でどきどきしました。町の大きな鐘が、騒々しく正午を告げました。内側のホールのドアが開けられました。熱気に
ネロは、目の前に霧がかかったようにぼんやりとしました。頭はぐらぐらし、足はがたがたとふるえて、じっと立っていられないくらいでした。
視力が回復したとき、ネロは高くかかげられた絵を見ました。それは、ネロのものではありませんでした! ゆっくりした、朗々と響く声は、優勝者はアントワープ市で生まれた、
気が付くと、ネロは外の
ネロは、よろめきながら立ち上がり、パトラッシュを抱きました。
「ねえ、パトラッシュ、何もかももうおしまいだ。もうおしまいなんだよ」
ネロは、つぶやきました。
ネロは、何も食べていなくて体は弱っていましたが、できるだけ元気を出して、村に引き返しました。パトラッシュは、飢えと悲しみで頭を垂れ、年取った手足がふらつくのを感じながら、ネロのそばをとぼとぼと歩いていました。
雪がはげしく降っていました。北から激しい嵐がやってきました。平野は、死んだようにひどく冷え切っていました。通いなれた道なのに、とても時間がかかりました。そして、村に帰りついたときには、四時を告げる鐘の音が鳴っていました。突然、パトラッシュは雪の中にある、何かのにおいに気がついて立ち止まりました。そして、しきりに雪をかきわけて、クンクン鳴いたかと思うと、小さな茶色の革袋を口にくわえました。パトラッシュは、暗闇の中でネロにそれを差し出しました。二人がいたところには、小さなキリストの像があって、十字架の下でランプが鈍く燃えていました。少年は、機械的に革袋を光の方に向けました。革袋には、コゼツのだんなの名前が書いてあって、中には、二千フランもの紙幣が入っていました。
これを
ネロは、風車小屋に向かってまっすぐ進み、ドアのところに行って、
「まあ、かわいそうに。あなただったの?」
彼女は泣きながら、優しく言いました。
「主人が帰ってきてあなたを見つける前に、帰ってちょうだいね。わたしたちは、今夜、とても大変なの。主人は今、外で家に帰る途中でなくした財布を探しているのよ。でも、こんなに雪が降っていては、見つけることなんて、とてもできないでしょうね。そうすると、もう私たち、お
ネロは、財布を彼女の手に渡して、パトラッシュを家の中に呼び寄せました。
「今晩お金を見つけたのは、パトラッシュです」と、ネロは素早く言いました。
「そうコゼツのだんなにおっしゃってください。そうすれば、コゼツのだんなも年とった犬に、住みかと食べ物を与えてやらないとはおっしゃらないと思います。パトラッシュがぼくを追いかけてこないようにしてください。どうかパトラッシュにやさしくしてやってください。お願いします」
どちらの女性もパトラッシュも、ネロが何を言っているのか見当がつかないうちに、ネロはかがみこんでパトラッシュにキスをすると、急いで
女と子供は喜びと恐れとで、言葉も出ない状態でした。
パトラッシュは、かんぬきをかけたがんじょうな
二人は、なんとかパトラッシュをなだめようと考えられる限りのことをしました。パトラッシュに、甘いケーキと
粉屋が反対の入口から帰ってきました。もう六時でした。疲れ果ててぼろぼろになった様子で、妻の前に来ました。
「もう、出てこない。ランタンを持って、隅々まで探したが、消えてしまった。アロアの分も全部!」
青ざめた顔つきで、声を震わせながらそう言いました。
彼の妻は、お金を彼の手に渡し、どのようないきさつでそのお金が彼女のもとに戻ってきたか、話しました。この気の強い男は、体を震わせてソファーに座り、大いに恥じて、まるでおびえたように顔を覆いました。
「おれは、あの若者に
アロアは勇気を振りしぼって父親の近くに忍び寄り、金髪の巻き毛をすり寄せました。
「お父さん、ネロに、また来てもらってもいい? 前みたいに。明日にでも来てもらってもいい?」と、アロアはささやきました。
粉屋は、アロアをしっかりと抱きしめました。彼のたくましい、日焼けした顔はとても青白く、口は震えていました。
「もちろん、いいとも」と、子供に答えました。
「クリスマスの日にはネロに来てもらおう。いや、いつでも来たいときに来てもらおう。神さまが助けてくださったんだ。おれは、ネロに
アロアは、感謝と喜びの気持ちを示すために父親にキスしました。そして、父親のひざの上からすべり落ち、
「それから、今晩は、パトラッシュをもてなしてもいい?」
アロアは子どもっぽくやたらにはしゃぎながら叫びました。
父親は、大きくうなずきました。
「そうだね、そうだね。できるだけのことをしてやろう」
というのは、この
その晩は、クリスマス・イブでした。粉屋の家には、
けれども、パトラッシュは暖かいところにやってこようともせず、一緒に楽しもうともしませんでした。
パトラッシュは、とても飢えて凍えていましたが、ネロがいないところでは、ぬくぬくとしたり、おいしいものを食べたりする気にはなりませんでした。すべての誘惑を退け、パトラッシュは
「少年を探しているのだな。いい犬だ! おれは、明日朝一番に少年を迎えにいくよ」と、コゼツのだんなは言いました。
というのは、パトラッシュ以外、ネロが小屋を立ち退いたことを知らなかったのです。そして、パトラッシュ以外、誰一人、ネロがひとりぼっちでみじめに飢え死にしようとしていたことを知らなかったのでした。
粉屋の台所は、とても暖かでした。大きな
夕食がテーブルの上で湯気を立て、話し声がひときわ大きくなり、おさな子イエスの格好をした小さい子どもが、アロアにとっておきのプレゼントを持ってきたその時でした。パトラッシュは、ずっと機会をうかがっていましたが、新しいお客さんが不注意にもドアの掛け金をはずしてとびらを開けたのを見て、さっと外に飛び出しました。そして、疲れ果てて弱りきった体が耐えられる限り、すばやく激しく雪が降っている夜の闇の中を、ひた走りに走っていきました。
パトラッシュには、ただひとつの思いしかありませんでした。それは、「ネロについて行く」という思いでした。
もし人間の友だちだったら、おいしいごちそうや陽気な暖かさや心地よい居眠りのために、アロアの家にとどまったかも知れません。でも、パトラッシュの友情は、そんなものではありませんでした。パトラッシュは、昔のことを覚えていました。ある老人と小さな子供が、道端でのたれ死にしかけていた自分を見つけてくれた時のことを。
一晩中、雪が降り続いていました。もう夜中の十時近くでした。
少年の足跡のこん跡は、ほとんどかき消されていました。パトラッシュは、においを発見するのに手間取りました。とうとうにおいを見つけた、と思ったら、すぐに見失ってしまいました。見失っては見つけ、見失っては見つけ、ということを百回以上も繰り返したのです。
その晩は、吹雪でした。十字路のそばのランプの明かりは、風で吹き消されてしまいました。道は、まるで氷の板のようでした。見通しのきかない暗闇が、家々の気配を隠しました。外には、生き物はいませんでした。牛はみんな牛小屋に入れられ、家々では、男も女もごちそうを楽しんでいました。パトラッシュだけが
ネロの足跡のこん跡は、新しく積もった雪の下にあって、かすかであいまいでしたが、それは、通い慣れたアントワープへの道に向かっていました。パトラッシュがアントワープの町境を超え、町の狭い、曲がりくねった、暗い通りへと追跡を続けたのは、もう真夜中過ぎでした。町はまったく闇に閉ざされていました。光といえば、ところどころ、家のよろい戸のすき間から
とてもたくさんの通行人が雪の上を通った後でしたし、たくさんの小道が複雑に入り組んで交差していましたので、追跡しているネロの足跡を見失わないようにするのは、大変骨が折れました。寒さが骨身に
「ネロは、大好きだったあれのところにいったんだ」と、パトラッシュは思いました。パトラッシュには芸術は理解できませんでしたが、ネロの芸術に対する情熱はとても尊いものだと感じていました。ネロの情熱に対して、パトラッシュは悲しみと哀れみでいっぱいでした。
大聖堂の入口は、真夜中のミサの後も、閉められていませんでした。
門番が不注意で、
パトラッシュは忍び寄り、少年の顔を触りました。
「ぼくがあなたに忠実でなく、あなたを見捨てるとでも思ったのですか? ぼくが犬だからって?」
パトラッシュは人間の言葉は話せませんでしたが、黙ってさわることでこうネロに語りかけたのです。
少年は低く叫びながら起きあがり、パトラッシュを抱きしめました。
「一緒に死のう」と、ネロはつぶやきました。
「みんな、ぼくたちに用はないんだ。ぼくたち、二人きりなんだよ」
その答えに、パトラッシュはもっとネロのそばに近づき、頭を若い少年の胸の上に乗せました。パトラッシュの茶色の、悲しい目に、大粒の涙が浮かびました。自分自身のためではありませんでした。なぜなら、パトラッシュは幸せだったのですから。
彼らは刺し通すような寒さの中で、一緒にぴったり寄り添って横たわっていました。北の海からフランダース地方の堤防を吹き抜けてきた激しい風は、まるで氷の波のようでした。それは触れた生き物すべてを凍らせました。彼らがいた巨大な石造りの丸天井の建物の内部は、雪に
一緒になって、彼らは昔の楽しかった日のことを夢見ました。夏の草原の中、花が咲いている草の間をぬって追いかけっこをしたり、晴れた日に高いガマの木陰の水際に座って、船が海の方へ行くのを見た日のことを。
突然、暗闇の中から、大きな白い光が通路いっぱいに流れ出しました。雲の間から、月が輝きました。雪は、やみました。外の雪から反射される光は、夜明けの光のように明るく輝きました。光はアーチを伝って二つの絵の上を照らしました。ネロはその絵をおおっていた覆い布をさっと取りました。その瞬間、「キリスト
ネロは立ち上がって、腕を絵の方に伸ばしました。熱烈な歓喜の涙が、彼の血の気のない顔に輝きました。
「ぼくは、とうとう見ることができた!」
ネロは声を出して泣きました。
「神さま、もう十分です!」
足で支え切れなくなってひざまづきましたが、ネロはなおあこがれていたキリスト像を見上げ続けていました。ほんのしばらくの間、まるで天国の玉座から流れ出してきたかのように、明るく、甘く、強い光が、あんなにも長い間ネロが見ることができなかった神聖な光景を照らしだしました。突然、光は消えてしまいました。再び暗闇がキリストの顔を
再び少年は両腕で犬の体をだきしめました。
「ぼくたち、もうじきイエスさまに会えるんだよ、あそこで」と、ネロはつぶやきました。
「イエスさまは、ぼくたちを離ればなれになさりはしない、と思うんだ」
翌朝、教会の大聖堂の聖壇のそばで、アントワープの人々は二人を見つけました。彼らは、どちらも死んでいました。夜の寒さは、若い命も、年老いた命も等しく、凍え死なせたのでした。クリスマスの朝が明けて、司祭たちが教会にやってきた時、ネロとパトラッシュが一緒に石の上に横たわっているのを発見したのです。
日が高くなると、年老いた、
「おれは、この子にひどくつらくあたってきた」
彼はつぶやきました。
「やっと今、
さらに日が高くなると、世界的に有名なある画家もやってきました。その画家は、物惜しみをしない、
「私は、きのう当然優勝すべきだったはずの少年を探しているところだ。その子は、まれに見る将来有望な天才なのだ」と、みんなに言いました。
「たそがれどきに倒れた木に腰かけている、年をとった木こり。その子の絵は、ただそれを描いただけのものだった。けれども、その絵には将来の偉大さが隠されていた。何とかその子を見つけ出して、連れて帰って芸術を仕込んでやりたいのだ」
それから金髪の巻き毛の女の子が、父親の腕にしがみつきながらはげしくすすり泣き、「ネロ、きてちょうだい!」と叫びました。
「もう準備は出来ているのよ。おさな子イエスの格好をした子どもが手にクリスマスのプレゼントをいっぱい抱えているし、笛吹きのおじいさんが私たちのために笛を吹いてくれることになっているのよ。お母さんだってクリスマスの週の間中、いいえ、王様のお祭りの間までだって、私たちと一緒に暖炉のそばでクルミを焼きましょう、って言っているのよ。パトラッシュもとっても喜ぶわよ! ああ、ネロ。起きて、来てちょうだい!」
しかし、若く青白い顔は、光輝くルーベンスの名画に向けられ、口もとに笑みを浮かべながら、彼ら皆に答えました。
「もう手遅れです」
甘く朗々とした鐘の音が、凍てつくような寒さの中で鳴り響きました。そして、太陽は雪の野原の上で輝いていました。にぎやかに楽しげに人々が通りに集まってきました。でも、もうネロとパトラッシュが人々に施しを求めることはありませんでした。
彼らが必要としたものすべてを、アントワープの町は求められないままに与えました。彼らにとって死は、なまじ生き長らえるよりも慈悲深かったのでした。死は、パトラッシュから忠実な愛を、ネロから純粋無垢な信頼の心を奪い去りました。この世で愛は報いられず、信じる心は実を結びませんでした。
生涯ずっと、彼らは一緒でした。そして、死んでも別れませんでした。というのは、少年の腕が犬をしっかりと抱きしめていて、手荒に扱わなければ引き離すことができないことが分かった時、小さな村の人々は後悔し、恥じ入って、神様の格別のお慈悲を願い、彼らのために一つのお墓を作ったのです。一緒に安らかに眠ることができるように。いつまでも!