小公女

A LITTLE PRINCESS

フランセス・ホッヂソン・バァネット Frances Hodgeson Burnett

菊池寛訳




はしがき(父兄へ)


 この『小公女』という物語は、『小公子』を書いた米国のバァネット女史が、その『小公子』の姉妹篇として書いたもので、少年少女読物としては、世界有数のものであります。
『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『小公女』は、金持の少女が、ふいに無一物の孤児みなしごになることを書いています。しかし、強い正しい心を持っている少年少女は、どんな境遇にいても、敢然かんぜんとしてその正しさをげない、ということを、バァネット女史は両面から書いて見せたに過ぎないのです。
『小公子』を読んで、何物かを感得された皆さんは、この『小公女』を読んで、また別な何物かを得られる事と信じます。

昭和二年十二月
菊池 寛
[#改丁]

一 印度いんどからロンドンへ


 ある陰気な冬の日のことでした。ロンドンの市中は、非常な霧のために、街筋まちすじには街燈が点り、商店の飾窓かざりまど瓦斯ガスの光に輝いて、まるで夜が来たかと思われるようでした。その中を、風変りなどこか変った様子の少女が、父親と一緒に辻馬車に乗って、さして急ぐともなく、揺られて行きました。父の腕に抱かれた少女は、脚を縮めて坐り、窓越しに往来の人々を眺めていました。
 セエラ・クルウはまだやっと七歳なのに、十二にしてもませすぎた眼付をしていました。彼女は年中大人の世界のことを空想してばかりいましたので、自然顔付もませてきたのでしょう。彼女自身も、もう永い永い生涯を生きて来たような気持でいました。
 セエラは今、父のクルウ大尉と一緒に、ボムベイからロンドンに着いたばかりのところなのです。あの暑い印度のこと、大きな船のこと、甲板かんぱんのこと、船の上で知り合いになった小母おばさん達のことなど思い起しますと、今この霧の町を妙な馬車で通っていることさえ、不思議に思われてなりませんでした。セエラは父の方にぴたりと身を寄せて、
「お父様。」とささやきました。
「何だえ、嬢や?」クルウ大尉はセエラをひしと抱きしめて、娘の顔を覗きこみました。「何を考えているの?」
「ねえ、これがあそこなの?」
「うむ、そうだよ。とうとう来たのだよ。」
 セエラはほんの七歳でしたが、そういった時の父が、悲しい思い出に打たれていることを悟りました。
 父がセエラの口癖の「あそこ」のことを話し出したのは、ずっと前のことでした。母はセエラの生れた時亡くなってしまいましたので、セエラは母のことは何も知らず、したがって恋しいとも思いませんでした。若くて、風采ふうさいの立派な、情愛の深い父こそは、セエラにとってたった一人の肉親でした。父子ふたりはいつも一緒に遊び、お互にまたなきものと思っていました。セエラは皆が彼女に聞えないつもりで話しているのを耳にして、父は裕福なのだと知りました。それで、彼女も大きくなれば裕福になるのだと知りました。裕福とはどんなことか、それはセエラには解りませんでした。が、セエラは美しい平屋建バンガローに住んでいましたし、召使はたくさんいましたし、何でもセエラの自由にならないものはありませんので、こんなのが裕福というのかなと彼女は思っていました。
 七歳ななつになるまでの間にセエラの気がかりになっていたことは、いつかれて行かれる「あそこ」のことだけでありました。印度の気候は子供達の体によくなかったので、印度で生れた子供達は出来るだけ早く英国へ送られ、英国の学校に入れられるのでした。セエラはよその子供達が英国へ帰って行くのを見たり、親達が子供から受けとった手紙の話をしているのを、聞いたりしました。で、セエラもいつかは印度を去ることになるのだろうと思っていました。父が時々してくれる航海の話、新しいお国の話には惹きつけられないでもありませんでした。が、あそこに行けば、父と一緒にいることが出来ないのだと思うと、セエラの胸は痛むのでした。
「パパさんは、あそこへ一緒に行って下さらないの?」そう尋ねたのは五歳いつつの時でした。
「一緒に学校へいらっしゃらない? 私、お父さんのおさらいしてあげてよ。」
「でもセエラや、別れているのはそんなに永いことじゃァないのだよ。それにお前は、小さいお嬢さんのたくさんいる素敵なおうちへ行くのだよ。そして、みんなと遊ぶのだよ。お父さんはたくさん御本を送って上げる、お前はどしどし大きくなって、一年も経つかたたないうちにすっかり大人になって、利口になって帰ってくる。そうして、お[#「、お」は底本では「お、」]父さんの世話をしてくれる――。」
 その時のことを考えると、セエラはうれしくなりました。父のために家の中を片付けたり、父と一緒に馬に乗ったり、父が宴会を催す時には食卓の上座しょうざに坐ったり、父の話相手になったり、父に本を読んであげたり、――そんなことを覚えるためだったら、よろこんで英国へ行こう、とセエラは思いました。セエラは学校でお友達がたくさん出来ることなどは、うれしいとも思いませんでしたが、御本をたくさん送ってもらえるのは、うれしいに違いありませんでした。セエラは本が何より好きでした。本さえあれば寂しいとも思いませんでした。それにセエラは、美しい物語を自分で作って、自分で語り聞かせるのが好きでした。時には、それを父に話して聞かせることもありました。父もセエラ同様、その物語を喜んで聞きました。
「ねえ、お父様。」セエラは馬車の中でそっといい出しました。「もうここに来たのなら、諦めなければならないわねエ。」
 父はセエラがあまりませたことをいうので、笑って、そして彼女に接吻キスしました。父はその実ちっとも諦めてはいなかったのでしたが、セエラにそうと知らしてはならないと思いました。妙におどけた小さいセエラは、父にとってこそ、なくてはならぬ伴侶みちづれだったのです。印度の家へ帰っても、セエラがあの白い上衣うわぎを着て迎えに出て来ないのだとしたら、どんなに寂しいだろう、とクルウ大尉は思わずにはいられませんでした。父は娘をしかと抱き寄せました。馬車はその時陰気な街筋へがらがらと入って行きました。そこに二人の目ざす家があったのでした。
 その街並は、皆大きな陰鬱いんうつ煉瓦建れんがだてでした。その一つの家の、正面の扉の上に、真鍮しんちゅうの名札が輝いていました。そこに黒でこう彫ってありました。

ミス・ミンチン女子模範学校

「さあここだよ、セエラ。」とクルウ大尉は出来るだけ機嫌よさそうにいって、セエラを馬車から抱き下ろしました。セエラはあとになってよく思い合せたことでしたが、この家はどことなくミンチン先生にそっくりでした。かなりきちんとしていて、造作ぞうさくなどもよく出来てはいましたが、家にあるものは何もかもぶざまでした。椅子いすも、絨氈じゅうたんの模様も、真四角で、柱時計まできびしい顔つきをしていました。
「あたし、何だかいやになったわ。」とセエラは父にいいました。「兵隊さんだって、いざとなったら、ほんとうは戦争に行くのが、いやになりはしないだろうかしら。」
 その妙ないいかたを聞くと、クルウ大尉はからからと笑い出しました。
「ほんとに、セエラ! お前のように真面目に物をいってくれるものがなくなると、わたしも困るね。」
「じゃア、なぜ真面目なことをお笑いになるの?」
「だって、お前が真顔でいうと、それがまた莫迦ばかに面白く聞えるからさ。」
 そこへ、ミンチン先生が入ってきました。ミス・ミンチンは魚のようなつめたい大きな眼をして、魚のような微笑みかたをしました。先生はこの学校をクルウ大尉に推薦したメレディス夫人の口から、クルウ大尉が金持で、わけてもセエラのためなら何万金も惜しまないということを聞いていました。先生にとっては願ってもない話だったのです。
「こんなお綺麗きれいなお子さんをおひきうけ申しますのは、ほんとうに嬉しゅうございます。メレディス夫人のお話では、大変御利発なそうで――」
 セエラはミス・ミンチンの顔を見つめたまま、静かに立っていました。
「私はやせっぽちで、毛は黒くて短いし、眼は緑色だし、ちっとも綺麗なんかじゃないのに、あの方はうそばっかしいっている。」とセエラは思いました。後々セエラは、ミンチン先生がどの子供の親にでも[#「親にでも」は底本では「で親にも」]同じようなお世辞をいうのを知りました。そうはいっても、セエラは自分が思っているほど醜い子では決してありませんでした。ほっそりして、しとやかな身体つきで、人好きのする顔立をしていました。黒い髪も、緑色の眼も、見る眼には見事に映るくらいだったのです。
 セエラは寄宿生は寄宿生でも、普通の生徒と違って、特別に美しい寝室と居間とをあてがわれることになりました。それから、子馬を一頭と、馬車を一台と、乳母代りの女中一人とがあてがわれるはずでした。
「この子の教育については、少しも心配はありませんが。」と、父はセエラの手を撫でながら、愉快そうに笑っていいました。「ただ、あまり勉強をさせすぎないようにして頂きたいと思います。今まででさえ、この子は鼻の先を本の中にうずめるようにして坐っているのですからねエ。読むんじゃアないのですよ、ミス・ミンチン。狼の子みたいに、本を貪り食っちまうんですからね。それに、大人の本を欲しがっているんですから。歴史であれ、伝記であれ、詩であれ――それに、フランスやドイツのものまで。ですから、なるべく本から引離して、小馬に乗せたり、町へ人形を買いに伴れてってやったりして下さい。」
「でもお父様、町へ出るたびにお人形を買ってたら、とても仲よしになりきれないほどの数になってしまうでしょう。エミリイちゃんは、私の親友になるはずですけど。」
「エミリイさんて、どなた?」とミス・ミンチンがたずねました。
「お話しておあげ、セエラ。」
 父にいわれると、セエラは大変気高く、物優しい眼になって、話し出しました。
「エミリイちゃんは、まだ買ってないけど、お父様が私に買って下さるはずのお人形ですの。お父様がいらっしゃらなくなったら、私エミリイちゃんとお父様のことをいろいろお噂するつもり。」
「まア、何て御利発な――」
「ええ。」と父はセエラをひきよせて、「この子はまったく可愛い子です。どうか私に代って、よく面倒をみてやって下さい。」とミス・ミンチンにいいました。
 それから五六日、セエラは父とホテルに滞在しました。二人は毎日町へ出ては、おびただしい買物をしました。高価な毛皮で縁どった天鵞絨びろうどの服や、レエスの着物や、刺繍のある衣服や、駝鳥だちょうの羽根で飾った帽子――てんの皮の外套がいとう、それから小さな手袋、手巾ハンケチ、絹の靴下――帳場の後方うしろに坐っていた婦人達は、あまり贅沢な買物をするので、セエラはどこかの姫宮プリンセスじゃアないかとささやき合ったくらいでした。
「私は、あの子を生きているように見せたいの。でも、お人形ってものは、何だかいくらお話しても聞いてないような顔しているから、私気になってしょうがないの。」
 二人は方々の人形屋に馬車を走らせ、黒眼の人形、青眼の人形、茶色の髪の人形、金色の髪を編んだ人形、衣裳をつけた人形、裸人形などいちいち覗いて歩きましたが、どれもセエラの『エミリイ』ではありませんでした。失望を重ねたあげく、二人は馬車を降りて、軒並に陳列窓を覗いて歩くことにしました。二三の店を通りすぎて、とある小さな店の前に来かかった時でした。セエラは突然飛び上って、父の腕にひしとすがりつきました。
「あそこに、エミリイちゃんが!」
 セエラの顔にはさっとべにかれました。青鼠色あおねずみいろの眼には、たった今、大好きなお友達を認めたというような表情が浮びました。
「あの子は、ほんとうに私を待ってるのよ。さ、あの子の所へ行きましょう。」
「おやおや、誰かに紹介してもらわないでもいいのかね。」
「お父様が私を紹介して下さるの。そしたら、私もお父様を紹介してあげるわ。でも、私はあの子を見た時すぐわかったんですもの、あの子だってきっと私を知っててよ。」
 エミリイもきっとセエラだとわかっていたのでしょう。セエラが抱きかかえると、エミリイはほんとうに利口そうな眼つきをしていました。大きな人形でしたが、大きすぎて持ち運びが出来ぬというほどではありませんでした。癖のない金色の巻毛が、マントのようにふさふさと垂れ、眼は深い、澄みきった藍鼠色あいねずみいろでした。そして、そのふちには、ほんもののまつげが生えていました。
 二人は、エミリイを子供衣裳屋こどもいしょうやに伴れて行き、セエラの通りに立派な衣裳を整えました。
「私は、誰がみてもこの子はいいお母様を持っていると思うようにしておきたいの。私はこの子のお友達で、そしてお母さんなのよ。」
 父はセエラと一緒にこの買物をよろこびました。が、この可愛い、愛嬌のある娘から、じきに別れなければならないのを想い出すと、たまらなく悲しくなりました。
 クルウ大尉は、真夜中に自分の床を出て、立ってセエラを見下ろしていました。セエラはエミリイを抱いて眠っていました。乱れた黒い髪が枕の上で、エミリイの金髪ともつれ合っていました。二人ともレエスのひだをとった寝衣ねまきを着、二人とも長い、先のそり上った睫をほおの上に落していました。エミリイは真実生きた子供のようでした。
 翌日、大尉はセエラをミス・ミンチンのもとに連れて行きました。彼は次の日印度へ立つことになっていましたので、先生にいろいろ後の事を頼みました。彼は一週に二度セエラに手紙を書くことを約束しました。それから、セエラの望みなら何でも叶えてやってくれといいました。
「この子は感じやすい子でして、自分でこれと思ったもの以外には、何も欲しがらないのですよ。」
 それから、彼はセエラと一緒に彼女の小さな部屋に行き、お互にさよならをいい合いました。セエラは父のひざに乗り、上衣の折返しの所を小さな手で握って、永いことじっと父の顔を見つめていました。父はセエラの髪を撫でて、
「私の顔をそらで覚えこむつもりなのかい? セエラ。」といいました。
「いいえ、私ちゃんともうそらで知ってるわ。お父様は私の胸の内側にいらっしゃるのよ。」
 二人は抱き合って、もう離さないというような接吻キスをしました。
 辻馬車が戸口から駈け出すと、セエラはエミリイと一緒に二階の部屋の床の上に坐り、あごを両手の上にのせて、馬車が角を曲るまで、窓から見送っていました。
 ミンチン先生が心配して、妹のアメリア嬢を見にやると、扉には中から錠がおりていました。セエラは中から、
「あたし、一人で静かにしていとうございますから。」と、慎ましい小声でいいました。
 アメリア嬢はふとっちょの背の低い婦人で、姉をひどく怖がっていました。彼女はセエラのしうちに吃驚びっくりして、階下したに降りて行きました。
「お姉さん、ませた変な子ね。あの子はまア、錠をかけて閉じこもっているのですよ。ことりとも音をさせずに。」
「他の子のように、暴れたり、泣いたりするより、その方がましさ。あんなに甘やかされているから、家中がひっくりかえるような騒ぎをするかと、私は思っていたんだよ。」
「あの子のトランクには大変なものが入っていますのね。黒貂皮セエブルや、貂皮アアミンを縫いつけた上衣や、それに下着には本場のレエスがついているのですよ。」
「まったく莫迦げてるね。でも、教会へ行く時、あれを生徒の先頭にすると立派でいい。」
 二階ではまだセエラとエミリイとが、馬車の消えて行く町角を見つめていました。馬車の中のクルウ大尉も、ふり返っては手を振り、もうたまらなくなったというように振った自分の手を接吻キスしていました。

二 フランス語の課業


 次の朝、セエラが教室へ入って行きますと、生徒は皆眼を見張って、物珍しそうに彼女を見つめました。生徒達はもうセエラのことをいろいろ聞いて知っていました。前の晩到着したセエラつきの女中、フランス人のマリエットをちらと見たものさえありました。すっかり大人顔をしているラヴィニア・ハアバアトなどは、開きかけたドアの間から、マリエットがどこかの店から着いた箱を開けているのを見たくらいでした。
「レエスの縁飾フリル[#ルビの「フリル」は底本では「フルリ」]のついた下袴ペティコートで一杯だってよ。」ラヴィニアは身をこごめて地理の本の上から、ジェッシイにささやきました。「あの方、今もあの下袴ペティコートを着けてるのよ。腰をかける時ちょっと見えたわ。」
「まあ、あの方の靴下絹ね。」ジェッシイも地理書越しに小声でいいました。「それに、可愛い足ね。」
「でも、足なんて靴次第で小さく見えるものよ。それにあの方、ちっとも綺麗じゃアないのね。眼だって変な色だわ。」
「綺麗さがちょっと違うのよ。なんだか振り返って見たくなるような顔よ。そして睫の長いこと!」
 セエラは静かにミス・ミンチンの机のそばの、自分の席につきました。セエラは皆に見られても別に羞らう様子もありませんでした。かえって、自分を見つめている子供達が珍しいので、静かに皆の方を見返すのでした。皆は何を考えているのかしら? 皆はミンチン先生が好きなのかしら? めいめいの課業に精を出しているのかしら? みんな私のパパさんみたいなパパさんを持っているのかしら? などと思ってもみました。セエラはその朝、エミリイと永いこと父の噂をして来たのでした。
「エミリイ、お父様は今頃もうお船の上よ。仲よくして何でも話し合いましょうね。私の顔をごらんなさい。まアお前は、何て綺麗なお眼々をしているんでしょう。ほんとに、お前お口がきけたらいいのにね。」
 セエラは空想や気まぐれな考えを一杯持っていました。エミリイを生きたものと考えて、そこに限りないよろこびを感じるのも、その空想の一つでした。セエラは女中に紺の学校服を着せてもらい、同じ色のリボンを結んでもらってから、椅子の上のエミリイに本を一冊持って行ってやりました。
「私が教室へ行っている間、それを読んでらっしゃい。」
 女中のマリエットが怪訝けげんそうな顔をしたので、セエラは真面目くさっていいました。
「私達にはわからないけど、お人形には読んだり、歩いたり、いろんなことが出来るんじゃアないかと、あたし思うのよ。ただそれは誰もいない時だけなの。なぜって、お人形にも何でも出来るとわかれば、お仕事やなんかをおしつけるようになるでしょう。だからきっと、お人形さん達の間には、何にも出来ないような顔をしていようというお約束があるのよ。マリエットが見ているうちは、そこにじっとしているけど、外へ出かけでもすると、きっと本を読んだり、窓の外を見に行ったりするのよ。そして、私達の足音が聞えるや否や、その椅子の中に飛び帰って、さっきからそこに坐っていたような顔してすましているのよ。」
 マリエットは、「おかしなお嬢さん。」とひとりごとをいいました。彼女はこの風変りな御主人がすっかり好きになりかけていました。彼女はこれまでに、セエラ程たしなみのいい子の世話をしたことはありませんでした。セエラはやさしくて、わかりよい口のきき方をしました。「どうぞ、マリエット」とか、「ありがとうよ、マリエット」とか、ひどく人を惹きつけるようにいうのでした。マリエットは階下したに降りると、早速女中頭にセエラの話をしました。お嬢様はまるで貴婦人に対するように丁寧に私に頭をおさげになる、と自慢しました。そしてから、こういいました。
「あの小さい方は、まるで宮様プリンセスですわ。」
 セエラが教室に入って二三分間もした頃、ミンチン先生はおごそかに立って、自分の机をとんと叩きました。
「皆さん! 今日は、皆さんに新しいお友達をご紹介したいと思います。」少女達はめいめいの席から立ち上りました。セエラも立ち上がりました。「皆さん! クルウさんと仲よくして下さいますね。クルウさんは大変遠いところから――ええ、印度からお着きになったばかりなのです。課業がすんだら、お互にお近づきにならなければなりませんよ。」
 少女達は改まって目礼しました。セエラはちょっとはかまをつまんで礼を返しました。それから、皆腰を下して、またまじまじと見つめあうのでした。
「セエラさん、ここへお出でなさい。」
 ミンチン先生は机から本を取りあげ、ページをめくっていました。セエラは行儀よく先生のところへ出て行きました。
「お父さんが、あなたにフランス人の女中をやとって下すったのは、あなたにフランス語の勉強を特にさせたいお考えからだと思いますが。」
 セエラは少しもじもじしました。
「あの、お父様があの方を傭って下すったのは――あの、お父様が、私あの方が好きとお考えだったからでしょう。ミンチン先生。」
「どうも、あなたは‥‥」とミンチン先生は少し意地の悪い薄笑いを浮べました。「大変甘やかされていたとみえて、何でも好きだから人がして下さると考えているようですね。私の考えでは、お父様はあなたにフランス語を勉強させたいのだと思いますがね。」
 セエラはただ黙って頬を紅らめました。かたくなな先生は、セエラなどはフランス語を何一つ知っているはずがないと思いこんでいるらしいのでした。が、実はセエラは、フランス語を知らない時はなかったようなものでした。セエラの母はフランス人でした。父は母の国の言葉が好きでしたので、母がセエラを生んで亡くなってしまった後も、よく赤ん坊のセエラにフランス語で話しかけたものでした。で、セエラも自然幼い時からフランス語は聞きなれていたのでした。が、ミンチン先生にそういわれると、先生の思い違いをただすのは失礼なように思えて、申し開きも思うようには出来ないのでした。
「私――私、ほんとにフランス語の勉強をしたことはないのですけど、でも――でも。」
 ミス・ミンチンの人知れぬ悩みの重なるものは、自分にフランス語の出来ないということでした。で、彼女はこの苦しい事実をなるべくかくおおそうとしていました。ですから先生は、セエラに何か問われて、ぼろを出してはならないと思ったのでした。
「それでよろしい。まだ習わないのなら、早速始めなければなりません。もうじきフランス語の先生のジフアジさんが見えるはずですから。見えるまでこの本を持って行って、下読をしてお置きなさい。」
 セエラは席へ戻って、第一ページを開いてみました。この場合、笑っては失礼だと思ったのですが、「ル・ペール」は「父」、「ラ・メール」は「母」などということを、今更教わらなければならないのかと思うと、どうしてもおかしくなるのでした。
 ミンチン先生は、セエラの方をちらと探るような眼で見て、
「何をふくれているのです。セエラさん。」といいました。
「フランス語を勉強するのが、いやなのですか?」
「私、大すきなのです。でも――」
「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、御本を見るのですよ。」
 セエラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セエラはおかしさをこらえつづけました。セエラは心の中で、
「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。
 ジュフラアジ先生はじき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセエラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。
「これが、私の方の新入生ですか?」と、彼はミンチン女史の方へ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」
「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせがっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」
「それはいけませんね、お嬢さんマドモアゼール。」彼は親切そうにいいました。
「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」
 セエラは辱められでもしたかのような気持で、立上りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラアジ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セエラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。女先生マダムにはもちろん何をいっているのだかわかりませんでした。が、セエラはこういったのでした。「先生ムシューが教えて下さるのなら、何でもよろこんで勉強します。しかし、この本にあることはとうに知っているということを、女先生マダムに申し開きしたいのです。」
 ミンチン先生はセエラが語り出したのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セエラを見つめました。ジュフラアジ先生は微笑みはじめました。先生の微笑は非常に喜んでいるしるしでした。セエラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界のはてのように遠く思われるのでしたが。‥‥セエラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付で、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。
「ねエ先生マダム、もう教えるほどのものはありませんよ。この子はフランス語を覚えたのじゃアない、この子自身がフランス語ですよ。アクセントなんぞ素敵なものだ。」
「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セエラに向き直るのでした。
「私――私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しがまずかったんでしょう。」
 ミンチン女史にはセエラのいい出そうとしていたことが解っていました。またセエラがいい出し得なかったのは、ミンチン女史に恥をかかさないためだったということも解りました。けれども、女史は、生徒達がセエラの話を聞き、仏語文法書のかげで忍び笑いをしているのを見ると、急にむらむらして来ました。
「静かになさい、皆さん。」女史は机を叩いて、きびしい声を出しました。「静かになさいったら?」
 その時以来、女史はセエラに対して、いくらか敵意を感じたようでした。

三 アアミンガアド


 その最初の朝、セエラは、室内の生徒全体が自分を熱心に見守っているのを感じながら、ミンチン女史のそばに坐った時、自分と同じ年頃の少女が一人、明るい、ものうげな青い眼でセエラをじっと見ているのにじき気が付きました。肥った、唇のつき出たその子は、あまり怜悧りこうそうではありませんでしたが、気質きだては大変よさそうに見えました。亜麻色の髪をかたく結び、リボンをつけていました。ジュフラアジ氏がセエラに話しかけた時、その少女はちょっと怯えた眼をしました。が、セエラがいきなりフランス語で答えると、少女は吃驚びっくりして飛び上り、真紅まっかになりました。何週間も何週間も、仏語の「ペールメール」さえ覚えられずに泣いていたところへ、ふいに自分の知らぬ単語まで造作なく動詞でつなぎ合せて話しているのを見ると、少女はたまらなくなったのでした。
 彼女は夢中で見つめながら、思わずリボンを噛んだので、ミンチン女史に見つかってしまいました。女史はちょうどむしゃくしゃしているところだったので、たちまち少女に喰ってかかりました。
「セント・ジョン! そのお行儀は何ですか。ひじをお直しなさい。口からリボンをお出しなさい。すぐお立ちなさい!」
 セエラはそれを見ると、その子がひどく可哀そうになり、お友達にでもなってあげたいような気持になりました。他人ひとが悩んでいたり、不幸であったりすると、すぐそのいさかいの中に飛びこんで行きたくなる性癖くせのセエラでした。
「もしセエラが男の子で、二三百年前に生れていたら。」と、よくお父さんはいったものです。
抜身ぬきみをひっさげて、苦しんでいる人なら、誰でも助けたりかばったりしながら、諸国を遍歴へんれきしただろうになア。この子は困っている人達を見ると、いつでも戦いたくなるのだから。」
 課業が終ると、セエラは肥った少女を探しに出ました。少女はしょんぼり窓の下の席にうずくまっていました。セエラはこんな場合誰でもいうようなことを云っただけなのでしたが、セエラがいうと、それは何かしら情がこもっていて、気持よく聞えるのでした。
「お名前、何ておっしゃるの?」
 肥った少女は吃驚びっくりしました。新入生は初め妙に近づきにくいものである上、セエラは前の晩から皆の間でいろいろ噂の出た新入生で、馬車や、小馬や、おつきの女中や、身のまわりのものから考えても、ちょっとよりつきにくい少女なのでした。
「私、アアミンガアド・セント・ジョンって名なのよ。」
「私はセエラ・クルウ。あなたのお名前、ほんとに綺麗ね。まるでお伽噺とぎばなしの名みたいに聞えるわ。」
「あなた、お好き?」とアアミンガアドは飛び上りそうになっていいました。「私――私はあなたの名前大好き。」
 セント・ジョンは、学者の父を持っているために、いつも苦しめられていました。父は七八ヶ国語に通じ、何千巻の蔵書を暗記しているというような人でした。ですから、父は娘が、簡単な歴史やフランス語ぐらい覚えるのがあたりまえだと思っているのでした。ところが、セント・ジョンは学校の中でも一番頭が悪いほどだったのです。
「こいつは、無理にも覚えさせるようにして下さらなければ駄目です。」と、父はミンチン女史に頼んだのでした。
 こういう訳で、アアミンガアドは、いつでも恥しめられたり、泣かされたりしていました。彼女は覚えたかと思うと、すぐ忘れてしまいました。覚えこんでも、何のことだか一向解らないという風でした。で、彼女は、セエラを感嘆の眼で見るより他ありませんでした。
「あなた、フランス語お上手なのね。」
 セエラは大きな、奥の深い窓際席ウィンドウシイトに坐り、両手で縮めた足の膝を抱いていました。
自家うちでしょっちゅう聞いていたから話せるのよ。あなただって、聞きつければ、きっと話せるようになってよ。」
「まア、私なんか駄目よ。私、どうしても話せないの。」
「なアぜ?」
 アアミンガアドは頭を振りました。下髪おさげがぶらぶら揺れました。
「あなたは、お利口なのね。」
 セエラは窓越しに暗い街を眺めやりました。濡れた鉄の欄干らんかんや、すすけた樹の枝などに、すずめが飛びかいながら、さえずっていました。セエラはちょっとの間心のうちで考えてみました。自分は何度となく「お利口だ」といわれたことがある。ほんとにそうなのかしら? ――もしそうだとしたら、全体どういう訳でお怜悧りこうなのだろう。――
「私、わからないわ。」
 セエラは相手の丸ぽちゃな、むっくりした顔の上に、悲しげな眼付を見ると、かすかに笑いながら話を変えました。
「あなた、エミリイちゃん御覧になって?」
「エミリイちゃんて、どなた?」
 アアミンガアドは、さっきのミンチン女史のように聞き返しました。
「私のお部屋に入らっしゃいな。見せてあげるわ。」
 二人は一緒に窓席まどいすから飛び降りて、二階へ上って行きました。
「ほんと?」客間を通り抜ける時、アアミンガアドは囁きました。「あなた一人の遊び部屋があるってほんと?」
「ええ。父様とうさまがミンチン先生にお願いして下すったの。だって――ねえ、私、おあそびする時、自分でお話をこしらえて、自分に話してきかすからなの。ひとに聞かれるのはいやでしょう? それに、人が聞いてると思うと、お話が駄目になってしまうんですもの。」
 その時二人は、もうセエラの部屋の前の廊下に来ていました。アアミンガアドはふと立ち止って眼をみはり、息を呑んで、
「お話をこしらえるんですって?」とあえぐようにいいました。「そんなこと、あなたに出来るの?――フランス語みたいに? ほんとに出来て?」
 セエラは驚いて、少女を見返しました。
「誰にだって出来るんじゃないの? あなたやってみたことないの?」
 セエラは何か前ぶれするように少女の手を握りました。
「そうっとドアのところへ行きましょう。それからさっと戸をあけるわ。そうすれば、きっと捕まるから。」
 セエラは笑っていましたが、その眼には神秘な望みが動いていました。アアミンガアドは、なぜどうして何を捕えるのだか、さっぱりわかりませんでしたが、セエラの眼付にはすっかり魅せられてしまいました。何でもいい、きっと面白いことに違いない――アアミンガアドは胸を躍らせながら、爪先立ってセエラの後から戸口に近づきました。不意にドアが開くと、小綺麗に片づいた静かな部屋が眼に入りました。炉には穏やかに火が燃えていました。椅子の上には見事な人形が、ちゃんと本を読んでいました。
「あら、もう席にかえっているわ。」とセエラが叫びました。「いつだってああなのよ。稲妻いなずまみたいに早いんですもの。」
 アアミンガアドは、セエラから人形へ、人形からセエラへ眼を移しました。
「あのお人形――歩けるの?」
「ええ。どうしても歩けるはずだと思うの。歩けると思ってるつもりなのよ。そう思うとほんとにそう見えるんですもの。あなた、いろんなことのつもりになってみたことある?」
「いいえ、ちっともないわ。私――ね、お話してちょうだいな。」
 エミリイは、少女が今まで見たこともない見事な人形でしたが、少女はセエラにすっかり魅せられてしまったので、風変りなこの新しいお友達の方へ眼を向けました。
「まア、腰をかけましょうよ。」セエラはいいました。「お話を作るなんて、ほんとに造作もないことよ。そして、始めたらとても止められないの。エミリイ、あなたも聞いてなくちゃアいけないことよ。この方はアアミンガアド・セント・ジョンさんなの。アアミンガアドさん、こちらはエミリイと申します。あなた、抱いてやって下さいましな?」
「抱いてもいい? ほんとによくって? まア、綺麗だこと。」
 それから一時間は、セント・ジョンにとって、今まで考えたこともないような楽しい時間でした。午餐おひるベルが鳴って、食堂に降りて行くのもしぶしぶなくらいでした。
 その一時間の間、セエラは炉の前に身をちぢめて坐り、様々の不思議な話をしました。緑色の目は輝き、頬には紅がさしてきました。航海の話、印度の話――しかし、アアミンガアドを一番恍惚うっとりさせたのは、お人形についてのセエラの空想でした。お人形が皆のいない間に歩いたり、物をいったりする事、だがそれをかくす必要から、人の気配がすると、「稲妻のように」自分の席に飛び戻るのだという事などでした。
「私達には真似も出来ないわねエ。まア、魔術てじなみたいなものね。」
 一度セエラがエミリイを探し廻った話をした時、ふいにセエラの顔色が変りました。暗い雲がおもてをよぎり、眼にちた輝きを消してしまったように思われました。セエラは激しく息を吸いこんだので、声も妙に悲しく、低くなりました。それから口を閉じ、何かをしようか、しまいか、どっちにしようかと思いまどうように、きりりとくちびるを引きしぼりました。アアミンガアドは、たいていの子なら声をあげて泣き出すところだが、と思いました。セエラは、しかし、泣きませんでした。
「あなた、どこかお痛いの?」
「ええ。」セエラはちょっと黙って、それからいいました。「でも、体が痛いのじゃアないのよ。」それから何事かをしっかり言おうとして、つい小声になりました。「あなただって、世の中の何よりも、お父様がお好きでしょう。」
 アアミンガアドは微かに口を開けたままでした。彼女は父を愛し得るなどと思ったことは、一度もありませんでした。のみならず、ほんの十分間でも父と二人きり向き合っていることを避けるためには、どんなすてばちな事でもしかねない彼女でした。が、そんなことを口に出すのは、模範学校の生徒らしくないと思いました。で、彼女はひどく当惑して、
「私――私めったにお父様と会うことなんかないのよ。」といいました。「お父様は年中お書斎にいらしって――何か読んでばかりいらっしゃるんですもの。」
「私は世界を十倍したよりかも、お父様の方が好き。だから、私悲しいのよ。お父様は、もう行ってしまいになったんですもの。」
 セエラは頭を静かに膝の上にのせ、しばらくは身動きもしませんでした。アアミンガアドは、セエラが今にも泣き出すかと思いましたが、セエラはやはり泣きませんでした。彼女はやがて顔を上げずにいい出しました。
「私お父様に、悲しくてもこらえるってお約束したの。まだ私もきっと耐え通すつもりよ。誰でも耐えなければならないのね。兵隊さんたちの我慢なんか大変なものだわ。私のお父様は軍人なのよ。戦争でもあると、お父様はのどのひりつくようなこともあるし、深傷ふかでを負うことだってないとはいえないでしょう。でも、お父様は一言だって、苦しいと仰しゃったことはないわ。」
 アアミンガアドは、セエラを見つめるばかりでした。この少女の胸には、セエラをあこがれる気持が湧き始めていました。
 ふと、セエラは顔を上げて、妙な微笑を見せながら、黒い髪を背後うしろに振り上げました。
「でも、こうしてつもりになるお話なんかしていると、私いくらか楽なのよ。苦しいことは忘れられないにしても、いくらか耐えやすくなるでしょう。」
 アアミンガアドは我知らず喉がつまって、涙のこみ上げて来そうな気がしました。
「ラヴィニアとジェッシイは仲よしなのよ。私達も仲よしになれればいいと思うの。あなた、私のお友達になって下すって? あなたはお利口で、私は学校中で一番出来ないのですけど、私はあなたがほんとに好きなのよ。」
「私も嬉しいわ。好かれていると思うと、うれしいものね。ほんとうに、これからお友達になりましょうね。」不意にセエラの顔は輝き出しました。「あたし、あなたのフランス語のおさらいをしてあげましょうね。」

四 ロッティ


 セエラが普通の子供だったら、次の十年間ミス・ミンチンの学校で送った生活は、ちっとも彼女のためにならなかったかもしれません。セエラは、生徒というよりは、大事なお客ででもあるように待遇されていました。ミンチン女史は、心ではセエラを嫌っていましたが、こんな金持の娘を失ってはならないという慾から、事ごとにセエラをほめそやして、学校生活をあかすまいとしました。セエラは幸い利発なよい頭脳あたまを持っていましたので、甘やかされてつけ上るような事はありませんでした。彼女は時々アアミンガアドにこんな事を打ちあけるようになりました。
「人はふとしたはずみで、いろいろになるものね。私はふとしたはずみから、あんないいお父様の子に生れたのね。ほんとうは私、ちっともいい気質きだてじゃアないのでしょうけど、お父様は何でも下さるし、皆さんは親切にして下さるんですもの、気質がよくなるより他ないじゃアありませんか。私がほんとうによい子なのか、いやな子なのか、どうしたらわかるでしょうね。きっと私は身ぶるいの出るほどいやな子なのよ。でも、私は一度もひどい目にあわなかったものだから、どなたも私のわるい所がわからないのだわね。」
「ラヴィニアだって、ひどい目になんかあわないけど‥‥」アアミンガアドはのろのろといいました。「でもあの人は、ほんとうにいやな人だわ。」
 セエラは小さな鼻先を擦って、何かを思い出そうとしました。
「きっとあの人は、大人になりかけているからなのよ。」
 いつかアメリア嬢が、ラヴィニアに、あまり育ち方が早いので、気質きだてまで変り出しているのだろう、といっていたことがありました。セエラはそれを思い出して、こう云ったのでした。
 ラヴィニアはまったく不快な娘でした。彼女は一方ひとかたならずセエラを嫉んでいました。セエラが来るまでは、彼女こそこの学校の首領だと思っていました。彼女は他の生徒達がいうことをきかないと、意地悪く当り散らすので、皆怖がって、仕方なく彼女に従っていたのでした。ラヴィニアはどちらかというと綺麗な方で、生徒が二列に並んで散歩に出る時などには、中で一番よい着物を着ていたのでしたが、今はセエラの贅沢な衣裳に押されている形でした。天鵞絨の服や、貂皮てんがわ手套マッフを着けたセエラは、いつもミンチン女史と並んで先頭に歩かされることになりました。セエラは初めはそれがいやでなりませんでしたが、いつかセエラは、事実上皆の上に立つようになりました。それももちろん、ラヴィニアのように意地悪をするからではなく、かえって決して意地悪などしなかったために、皆から敬われるようになったのでした。
「でも、セエラ・クルウには一つこんな事があってよ。」と、ある時ジェッシイは正直にいったために、かえって仲よしのラヴィニアを怒らせたことがありました。「それは、セエラはちっとも偉がらないということなの。私がセエラなら、威張らずにはいられないけど。でも、ミンチン先生が、父兄にセエラを見せびらかすのを見ていると、胸がむかむかするわ。」
『さ、セエラさん、応接室へ行ってマスグレエヴの奥さんに印度のお話をして上げるのですよ。』ラヴィニアは、得意なミンチン女史の口真似を始めました。「『さ、セエラさん、ピトキン夫人にフランス語を聞かしてさし上げるのですよ。この子のアクセントは、それは確かなものでございますよ。』ですって、フランス語を学校で習ったわけでもないのにね。ただお父さんの喋ってるのを聞いてたから話せるというまでのことよ。それに、お父さんが印度の軍人だからって、ちっとも偉いことなんかありゃしないわ。」
「それはそうね。そのお父さんの殺した虎の皮が、セエラの部屋にあるのよ。セエラは毛皮の上に寝ては、頭の所を撫でたり、猫に話すように何かいいかけたりしているのよ。」
「あの子は、いつでも何かしら莫迦げた事をしているのね。」ラヴィニアは、声を高くしていいました。「うちのお母さんがいってたわ。あの子みたいに、ありもせぬことをありそうに考えるのは莫迦げているって。そういう女は大きくなってから変物エクセンドリックになるんですって。」
 セエラの『偉がらなかった』のは真実ほんとうでした。彼女は思いやりがあって、つつましやかな少女でした。で、持っているものは、惜気おしげもなく分けてやりました。いじめられている小さい子供達は、よくいたわって[#「よく劬って」は底本では「よく※[#「旬+力」、38-4]って」]やりました。転んで膝小僧をすりむいたりしていると、母らしく駈け寄って助け起し、ポケットからボンボンを出してやるという風でした。
 だから、年下の少女達はセエラを崇拝していました。彼女は幾度も嫌われている少女達を自分の部屋に招いて、お茶の会をしました。そんな時にはエミリイも一緒にあそびの相手をしました。そして、エミリイもやはりお茶の仲間入りをするのでした。エミリイのお茶は、青い花模様のあるお茶碗に、うすめて注がれるのでした。少女達は、人形用の茶道具など見たこともありませんでした。で、それ以来初級の少女達は、セエラを女神か女王様のように崇めはじめました。
 ロッティ・レエなどは、しつこいほどセエラにつきまとうていました。セエラは母らしい気持を持っていましたので、別にうるさいとも感じませんでしたが、ロッティも早く母を失った一人でした。彼女は誰かが、母のない子は特別可愛がらなければならないといっているのを聞き、いい気になって我儘わがままをつのらせました。若い父親は彼女をもてあましたあげく、学校にでも入れるより他ないと思って、ここに伴れて来たのでした。
 セエラが初めてロッティの面倒をみてやったのは、ある朝のことでした。セエラがある部屋の前を通ると、誰かが怒って泣き喚く声と、それをおし鎮めようとしているミス・ミンチンと、アメリア嬢との声を聞きました。少女はなだめられるとよけい武者むしゃぶりついて泣き立てるのでした。さすがのミス・ミンチンもそれにはたまりかね、室外に聞えるほどの声で喚きはじめました。
「何で、泣くんです。」
「うわア、うわア、うわア、わたい――おおお母ちゃんがないイ!」
「まア、ロッティったら!」アメリア嬢は金切声を上げました。「泣くのはやめてちょうだいね。いい子だから、泣かないでね。後生だから。」
「うわア、うわア、うわア」ロッティは嵐のように吠え立てました。「おおおおおかあちゃん――い――いないィ!」
「この子は、鞭打ってやる。」とミス・ミンチンは宣告しました。「鞭で打ってやる。我儘者め。」
 ロッティは更に大きな声を立てました。ミンチン女史の声もらいのようでした。とふいに、女史は裾を蹴って廊下に飛び出して来ました。女史はセエラを見ると、困った顔をしました。あの声を聞かれて困ったのでした。
「あら、セエラさん。」と、女史はつくり笑いをしました。
「私あのロッティちゃんだと思いましたので、立ち止って居りましたの。――それに、私あの、きっと――きっと、あの子なら鎮めてさし上げられるだろうと思いまして、行ってみてあげてもよろしゅうございますか? 先生。」
「出来るならやって御覧なさい。あなたは利口だから」先生は口を尖らしましたが、セエラが自分の剣幕に、おどおどしているのを見ると、急に顔をやわらげていいそえました。「あなたは何でもお出来になるから、きっとあの子の世話も出来るでしょう。お入んなさい。」
 ロッティは床に転って、ひいひいいいながら、小さな肥った脚で猛烈に蹴り立てていました。アメリア嬢は真紅まっかになって、ロッティの上にのしかかっていました。
「まア、可哀そうね、お母ちゃんのないことも知っててよ。可哀そうにねエ――」というかと思うと、今度は調子をがらりと変えて、「黙らないと振り廻してやるぞ! そら、そら、また!この根性曲りの憎まれっ子。ってやるから!」
 セエラは静かに二人のそばへ行きました。
「アメリアさん。」と、セエラは低声こごえでいいました。「あのミンチン先生が、とめてみてもいいと仰しゃいましたので。」
 アメリア嬢はふり返って、
「あなたにとめられるつもりなの?」とおぼつかなさそうに喘ぎました。
「出来るかどうか、判りませんけど、まアやってみますわ。」
 アメリア嬢はほっと嘆息して、膝を立て直しました。ロッティはむくむくした脚を、またはげしく、じたばたやり出しました。
 セエラはアメリア嬢を送り出すと、しばらく吠え立てるロッティのそばに、黙って立っていました。喚き声の他には何の音もしませんでした。ロッティにとってこんな事は初めてでした。涙の眼を開いて見ると、そこに立っているのはあのセエラでした。ロッティはセエラをみとめるまで、ちょっとの間泣きやんでいましたが、すぐまた泣きはじめなければなるまいと、思ったようでした。が、そこらはあまり静かだし、セエラは黙って立っているので、泣くのにも気がのりませんでした。
「わたい――お――お――おかあちゃんが――ないイ!」
「あたしだって、ないわ。」
 思いがけないセエラの言葉に、ロッティはたちまちじたばたするのをやめて、寝たままセエラの方をじっと見はじめました。ロッティはまだ泣き足りない気持でしたが、やっと少し拗ね泣きが出来ただけでした。
「お母ちゃん、どこ?」
「お母様は天国へいらしったのよ。でも、きっと時々私達に逢いにいらっしゃるのだわ。私達の眼には見えないけど、あなたのお母様だって、きっとそうなのよ。お二人は今頃、私達を見ていらっしゃるかもしれないわ。お二人とも、きっとこの部屋にいらっしゃるのよ。」
 ロッティはいきなりしゃんと坐って、あたりを見廻しました。彼女は美しい巻毛を持っていました。つぶらな彼女の眼は、濡れしとった忘勿草わすれなぐさのようでした。
 セエラは、母のことをいろいろに話しつづけました。
「天国は花の咲いた野原ばかりなのよ。微風そよかぜが吹くと、百合ゆりの匂いが青空に昇って行くのよ。そして、皆いつでもその匂いを吸っているのよ。小さい子達は花の中を駈け廻って、笑ったり、花輪を造ったりしているの。街はぴかぴか光ってるの。いくら歩いても疲れるなんてことはないの。どこにでも行きたいところへ飛んで行けるの。それから町のまわりには、真珠や金で出来た壁が立っているの。でも、みんなが行って寄りかかれるように低く出来ているのよ。みんなそこから下界を覗いては、にっこり笑って、そしていいお便りを送って下さるのよ。」
 セエラがどんな話をしたにしても、ロッティはきっと泣きやんで、うっとりと聞きとれたことでしょう。ましてこの話は、他のどんな話よりも美しいものでした。ロッティはセエラの方にすり寄って、一言々々に夢中になっているうち、いつの間にかもうおしまいになってしまいました。ロッティはあまりの残り惜しさに、またしても泣き出しそうな口の尖らせ方をしました。
「わたいも、そこへ行きたいわ。わたい――学校、お母ちゃんいないイ!」
 セエラはロッティがまた泣き出しそうなのを知ると、自分の夢からさめて、ロッティのむっちりした手をとり、自分のそばへひきよせました。
「私、あなたのお母ちゃんになってあげてよ。あなたは私の娘、エミリイはあなたの妹よ。」
 ロッティの泣顔に、えくぼが湧いて来ました。
「ほんと?」
「ええ」セエラは飛び起きました。「さ、行って、エミリイちゃんにも、[#「も、」は底本では「、も」]お姉さんが出来たって話してあげましょう。それから、あなたのお顔を洗って、髪を結ってあげるわ。」
 ロッティはすっかり元気になって肯きました。彼女は今まで小一時間も騒いでいたのは、昼飯前ちゅうはんまえに顔を洗ったり、髪をいたりするのがいやだったからだということも、けろりと忘れているようでした。彼女はセエラと一緒にちょこちょこと部屋を出て、二階へ上って行きました。
 その時以来、セエラは養母かあさまになったのであります。

五 ベッキイ


 セエラは贅沢な持物や、学校の『看板生徒』である事実によっても、たくさんの崇拝者を造りましたが、それにもまして人を惹きつけたのは、お話が上手だということでした。セエラが話すと、どんなくだらない事でも、立派なお話になってしまうのでした。ラヴィニアなどはセエラのその力を大変羨ましがっていましたが、多少の反感を持って近づいて行っても、セエラの話のうまさには、つい酔わされてしまうのでした。
 あなた方も学校で、皆が夢中になって、話の巧い人を取りかこむ所を見たことがあるでしょう。セエラはお話が巧いばかりでなく、彼女自身お話をするのが大好きでした。皆にとりまかれて自分でつくったお話をする時、セエラの緑色の眼は輝き、頬は紅をさすのでした。彼女は話しているうちに知らず識らず物語にふさわしい声色や身振を始めるのが常でした。セエラは少女達が耳を澄ましていることなど、いつの間かに忘れてしまいました。セエラの眼に見えるのは、お話の中の妖精達や、王様、女王様、美しい貴婦人達などなのでした。語り終った時、セエラは興奮のあまり息を切らしてしまうこともありました。そんな時、セエラはどきどきする胸に手を当て、自分を嘲笑うかのようにこういうのでした。
「私、お話をしていると、あなた方や、この教室よりも、話していることの方が、ずっとほんとらしく思えてくるのよ。私はお話の中の人になっているような気がするの、何だか変ね。」
 セエラがミンチン先生の塾に入ってから、二年目の冬でした。ある薄霧の日の午後、セエラが厚い天鵞絨や毛皮にくるまって馬車から降りると、みすぼらしい小娘が、地下室の入口に立っていました。少女は首を長くして、一生懸命にセエラを見ていました。セエラはおどおどしている少女にふと目を惹かれました。眼が合うとセエラはいつものように、にっこり笑いました。
 が少女の方は、有名なセエラをぬすみ見たりしたら、きっと叱られるとでも思ったらしく、まるでびっくりばこの中の人形のように、ひょこりと台所の中へ隠れてしまいました。ふいにひょこりと消えてなくなったので、セエラはあぶなく笑い出すところでした。が、その少女はあまりみすぼらしく、あまり寂しそうなので、笑うことも出来ませんでした。その晩のことでした。セエラが教室でいつものお話をしているところへ、その少女は重そうな石炭函を持って、こそこそと入って来ました。少女は炉の前に跪き、火をおこしたり、灰をかき取ったりしていました。
 少女はさっきよりはきちんとしていましたが、相変らずおどおどしていました。話を聞きに来たのだと思われてはならないとでも思っているらしく、音を立てないように手でそっと石炭を入れたり、火箸ひばしを動かしたりして[#「動かしたりして」は底本では「動かしたたして」]いました。しかしセエラはすぐ、少女がセエラの話に気を取られていること、セエラの言葉を聞き洩すまいと、休み休み火をおこしていることなどを、見てとりましたので、セエラは声をはり上げては、はっきりと話しつづけました。
「人魚達は、真珠で編んだ綱を曳いて、青水晶のような水の中を静かに泳ぎ廻りました。お姫様は白い岩の上に坐って、それを見守っていらっしゃいました。」
 それは、人魚の王子様に愛されたお姫様の面白いお話でした。姫は海の底のまぶしいような洞穴の中に王子と住んでいたのでした。
 少女は一度炉を掃き清めてしまうと、同じ事を二度も三度も繰り返しました。三度目の掃除が終ると、跪いていたかかとの上にぺたりと腰を落して、酔ったようにセエラの話に聞き入りました。彼女は、いつか海の底の立派な御殿に引きこまれていました。身の廻りには珍しい海草がなびき、遠くの方から美しい音楽が聞えて来るような気がしました。
 箒が少女の荒れた手からことりと落ちました。ラヴィニアは少女の方へ振り向きました。
「あの、聞いてたのよ。」
 とがめられた少女は、いきなりほうきを取り上げ、石炭函を抱えて、怯えた野兎のうさぎのようにそそくさと出て行きました。
 それを見ると、セエラはむらむらして来ました。
「私、あの娘が聞いているのを知っていたのよ、なぜ聞いてちゃアいけないの?」
 ラヴィニアは大気取りで頭を振り上げました。
「そりゃア、あなたのお母さんは、女中にお話をしてやってもいいと仰しゃるかもしれませんさ。だけど、私のお母さんは、そんなことしちゃアいけないと仰しゃってよ。」
「私のお母さんですって?」セエラは吃驚びっくりしたようにいいました。「ママはきっといけないなんて仰しゃらないと思うわ。ママは、お嬢さんであれ、女中であれ、誰であれ、同じようにお話を聞いていいとお思いになってるわ。」
「でも、あなたのママは、もうお亡くなりになったんでしょう。亡くなった方に、どうしてそんなことが解るの?」
「じゃア、ママにそれが解らないって[#「解らないって」は底本では「解ならいって」]仰しゃるの?」セエラは低い、きびしい声でいいました。すると、ロッティがそこへ口を出しました。
「セエラのママは、何でも知ってるのよ。あたいのママもよ。――ここでは、セエラがあたいのママだけど、もう一人のママには何でも解るのよ。往来はぴかぴか光っててどこもかしこも百合の原で、皆百合を摘んでるの。いつだったか、あたいが寝る時、セエラちゃんが話してくれたわ。」
「まア悪い人。」ラヴィニアは、セエラの方に向き直っていいました。「天国のことを、お伽噺にして話すなんて。」
「でも、聖書の黙示録もくじろくの中には、もっと素敵なことが書いてあってよ。ちょっと開けて読んで御覧なさい。私のお話がお伽噺だか、お伽噺でないか、どうして解るの? もう少しお友達に対して親切な心持を持ってごらんなさい。そうすれば、私のお話がお伽噺じゃないことも解るでしょう。さ、ロッティ向うへ行きましょう。」
 セエラはロッティと伴れ立って歩いて行く間も、そこらを見廻してみましたが、あの小娘はどこにも姿を見せませんでした。
 その晩、セエラは女中のマリエットに、
「あの火をおこしに来る子は、何ていうの?」
と訊ねてみました。マリエットは、その子についていろいろのことを話してくれました。
 いかにも、セエラの嬢様のお訊きになりそうなことだと、マリエットは思いました。あの寂しそうな小娘は、ついこの間日働きに雇われたばかりなのでしたが、台所に限らず、どこにでも追い使われているのでした。靴や金具を磨かされたり、重い石炭函の上げ下しをさせられたり、床や窓の雑巾がけをさせられたり。――身体の発育が悪いので、十四なのに十二くらいにしか見えませんでした。マリエットも、少女が可哀そうでならないと思っているところでした。ひどく内気で、人から物をいいかけられたりすると、眼が顔から飛び出しそうに怯えるのでした。
 セエラはテエブルに頬杖ほおづえをついて、マリエットの話を聞いていましたが、そこまで来ると
「何て名前なの?」とまた訊ねました。
 名前はベッキイでした。マリエットは台所で、五分と間をおかず、「ベッキイ、これをおし。」とか「ベッキイ、あれをおし。」とかいう声を聞くのでした。
セエラは一人になってからしばらくの間、炉の火を見つめながら、ベッキイの事ばかり考えていました。いつかセエラは、ベッキイを可哀そうな物語の女主人公にしていました。あの娘は食物さえお腹一杯はあてがわれていないのに違いないと、セエラは思いました。
 それから二三週間経った頃でした。やはり薄霧のかかった午後でした。居間に帰ってきたセエラは、自分の安楽椅子の中に、ぐっすり眠りこんでいるベッキイを見付けました。ベッキイの鼻の先や、前掛のそこここには、炭がついていました。見すぼらしい帽子は落ちかけていました。
 ベッキイはその午後、生徒達の寝室を片付けるようにいいつけられたのでした。彼女はお姫様の部屋のように美しいセエラの部屋は、一番おしまいに片付けることにしました。寝室はかなりたくさんあったので、それを片付け終って、セエラの部屋に来た時には、小さな足も痛むばかりでした。で、暖かな炉のそばに腰を下すと、汚れた顔にものうげな微笑を湛えたまま、つい快い眠りにおちてしまったのでした。
 ベッキイが足の痛くなるほど働き廻っていた間、セエラは舞蹈ぶとうのお稽古けいこで夢中になっていました。薔薇色ばらいろの服を着け、黒い髪の上には薔薇の冠を載せ、まるで薔薇色の蝶々ちょうちょうのように、新しい舞蹈の練習をしていたのでした。習ったばかりの足どりで、踊りながら居間に飛びこんで、そしてあの眠っている小娘を見付けたのでした。
「まア。」セエラは思わず小さい声でいいました。「可哀そうに!」
 セエラは、大事な椅子に薄汚い子が掛けているのを見ても、腹を立てるどころか、かえってベッキイに逢えてよかったと思いました。ここに眠っているのは、セエラの作ったお話の主人公で、彼女が眼を覚しさえすれば、セエラはその主人公のお話をすることも出来るのです。セエラは、そっとベッキイの方に歩みよりました。ベッキイは微かにいびきをかいていました。
「自然に眼を覚してくれればいいが。」とセエラは思いました。「そっと眠らしといてあげたいけど、ミンチン先生に見つかりでもすると、きっと叱られるから、可哀そうだわ。もうちっとの間、そっとしといてあげましょう。」
 セエラはテエブルの端に腰かけて、細い脚をぶらぶらさせながら、どうするのが一番いいかと、思いまどいました。今にもアメリア嬢が入って来ないとも限りません。そうすれば、ベッキイはきっと叱られるに違いありません。
「でも、とても疲れているのね。」
 セエラがそう思ったとたん、一塊ひとかたまりの石炭が燃え砕け、炉枠にぶっつかって、音を立てました。ベッキイは怯えて飛び上り、息をはずませながら、大きな眼をあけました。ベッキイはいつの間にか寝てしまったのだとは思いませんでした。ちょいと坐って、身体を暖めていただけなのに――と、ここでベッキイは、自分が眼をお皿のようにして、薔薇色の妖精ようせいみたいなあの評判なお嬢さんと向き合っているのに、気がつきました。
 ベッキイは躍り上って、落ちかけた帽子を掴みました。私はとうとう罰を受けるようなことをしでかしてしまった。しゃあしゃあとこの小さい貴婦人の椅子の中で眠ったりして、きっと私はお給金ももらえずに、い出されてしまうのだろう。
 ベッキイは息もつまるばかりに、欷歔すすりなきをはじめました。
「お嬢様、お嬢様! か、かんにんして下さいまし、どうか、かんにんして下さいまし。」
 セエラは椅子から飛び降りて、ベッキイのそばへ行きました。
「何にも怖いことはないのよ。」セエラは自分と同じ身分の娘にでもいうようにいいました。「ここでは、眠ったってちっともかまわないのよ。」
「私は、眠るつもりなんかちっともなかったのでございますよ、お嬢様。ただこの火があんまりほかほかといい気持なので――それに私、疲れていたものですから、決して厚かましく寝こんだわけではないのでございますから。」
 セエラはふと親しげに笑って、ベッキイの肩に手をかけました。
「あなた疲れていたのね。眠るのも無理はありませんわ。まだ眼が覚めきらないんでしょう。」
 ベッキイはたまげたようにセエラを見返しました。ベッキイは今までこんなやさしい情の籠った声を聞いたことはありませんでした。用をいいつけられたり、叱られたり、耳を打たれたりばかりしているベッキイでした。それなのに、この薔薇色の舞蹈服を着たお嬢さんは、同じ身分の娘ででもあるかのように、ベッキイを見ているのです。そして、ベッキイは疲れるのがあたりまえだ――居眠りするのさえあたりまえだ、というような眼でベッキイを見ているのです。セエラはその細い柔かな手先を、ベッキイの肩にのせています。そんなことをされる気持もベッキイは、まだあじわったことがありませんでした。
「あの、あの、お嬢様。怒ってらっしゃるのじゃアございませんの? 先生達にいいつけたりなさりゃアしません?」
「いいえ、そんなことするものですか。」
 汚れた小娘の顔が、おどおどしているのを見ると、セエラは見ていられないほど気の毒になりました。
「だって、あなたも私も、同じ小娘じゃアありませんか。私があなたのように不幸でなく、あなたが私のように幸せでないのは、いわば偶然アクシデントよ。」
 ベッキイには、セエラのそういう意味がちっとも解りませんでした。ベッキイが『アクシデント』だと思っているのは、人が車にかれたり、梯子はしごから落ちたり、あのいやな病院へ伴れて行かれたりする、そうした災難のことだったのでした。ベッキイの解らないのを察しると、セエラは話題を変えました。
「もう御用すんだの? もうしばらくここにいても大丈夫?」
「ここにですって? お嬢様、あの私が?」
「そこらには誰もいないようよ。だから、ほかの寝室を片付けてしまったのなら、ちょっとぐらいここにいてもいいでしょう? お菓子でも一つ上らない?」
 それから十分ほどの間、ベッキイはまるで熱に浮かされたようでした。セエラは戸棚から厚く切ったお菓子を一切ひときれ出して、ベッキイにやりました。セエラは、ベッキイがそれをがつがつ食べるのを、うれしそうに見ていました。セエラが心おきなく話しかけるので、ベッキイも、いつか怖れを忘れ、思いきってこんなことまで問うようになりました。
「あの、そのお召ね? ――それ、お嬢様の一番いいお着物?」
「まだこんな舞蹈服ぶとうふくはいくらもあるけど、私はこれが好きなのよ。あなたも好き?」
 ベッキイは感嘆のあまり、しばらく言葉も出ないような風でしたが、やがてびくびくした声でいいました。
「私いつか、宮様プリンセスを見たことがあるの。公園の外の人混に混って見ていると、いい着物を着た人達が行く中に、一人桃色づくめの衣裳なりをした、もう大人になった女の方があったの。それが宮様みやさまだったのよ。今しがた、あなたがテエブルに腰かけていらっしゃるのを見た時、私はその女の人を思い出したのよ。お嬢様はちょうど、その宮様プリンセスそっくりなのだもの。」
 セエラは一人ごとのようにいいました。
「私、時々こんなことを考えたことがあるわ。私も宮様プリンセスになりたいなアって。宮様プリンセスになったら、どんな気持でしょう。きっともうじき、宮様プリンセスになったつもりを始めるのでしょう。」
 ベッキイは眼をお皿のようにして、セエラに見とれていました。が、相変らず、セエラが何をいっているのだか判りませんでした。セエラは、じき我にかえって、ベッキイに問いかけました。
「ベッキイ、あなたこの間、私のお話を聞いていたんでしょう。」
「聞いてました。」ベッキイはちょっとまたどぎまぎしました。「私、聞いたりしちゃアいけないと思ったんだけど、でも、あのお話、あんまり面白くって、私――聞くまいと思っても、聞かずにいられなかったの。」
「私も、あなたに聞いてもらいたかったのよ。誰だって聞きたい人に話してあげたいものでしょう? あの話のつづき聞きたくない?」
「私にも聞かして下さるって? あのお嬢様がたのように? 王子様のことや、白い人魚の子のことや、お星様の飾りをつけた髪のことや、みんな聞かして下さるのですって?」
「でも、今日はもう時間がないから駄目じゃアない? これからお掃除に来る時間を教えて下されば、私その時お部屋にいて、少しずつお話してあげるわ。かなり長くて、綺麗なお話よ。それに私、繰り返して話すたびに、何かしら新しいことを入れるのよ。」
 セエラの部屋を出たベッキイは、今までの可哀そうなベッキイではなくなりました。彼女のポケットには、余分にもらったお菓子がありました。いかにも満腹そうです。そして暖かそうでした。彼女のお腹をみたし、身体を暖めてくれたのは、お菓子や火ばかりではありません。お菓子でも火でもなく、ベッキイを養い暖めてくれたものは、もちろんセエラでした。
 ベッキイが出て行ったあと、セエラは、テエブルの端に腰を下し、椅子の上に脚をのせ、脚に肱をついて、それに顎をのせました。
「もし、私がほんとうの宮様プリンセスだったら、私は人民に贈物おくりものきちらすことが出来るんだけどな。宮様プリンセスのつもりになっただけでも、皆さんのためにしてあげられることは、いろいろあるわ。たとえば、ベッキイをいい気持にしてやるということは、贈物をするようなものだわ。私は、これから人をよろこばすことは、贈物をするのと同じだというつもりになろう。そうすると、私は今、ベッキイに一つの贈物をしたばかりだということになるのね。」

六 ダイヤモンド鉱山


 セエラがベッキイと近づきになってからしばらくの後、心をおどらすようなことが起りました。セエラ自身胸を躍らしたばかりでなく、学校中の生徒も胸を躍らして、それから何週間もの間、寄ると触ると、その話ばかりしていたというほどの事でした。それは、クルウ大尉からセエラへ来た手紙の中に書いてあったのでした。ある日、クルウ大尉の同窓生の一人が、印度に訪ねてきて、現在採掘中のダイヤモンド鉱山が、順調に行けば非常な利益を挙げることになるので、クルウ大尉もこの事業の仲間入りをしてはどうかと、勧めたのだそうでした。何かほかの事業でしたら、セエラ初め学校の中の少女達は、どんなにお金が儲かるにしても、あまり気にとめずにすんだでしょうが、ダイヤモンドの鉱山だというので、『アラビアン・ナイト』を聞いた時のように、耳をそばだてたのでした。
 セエラはそのことで夢中になりました。で、アアミンガアドやロッティに説明するため、地の底の迷園のような道を描いて見せたりしました。その穴道の中では、黒ん坊が、そこら中に光っている宝石を掘り出しているのでした。
 ラヴィニアは、その話をせせら笑って、ジェッシイにいいました。
「私のお母さんは、四百円もするダイヤモンドを持ってるのよ。でも、それだってそんな大きい石じゃアないのよ。それなのに、ダイヤモンドの山なんか持ってる人があるとすれば、お金がありすぎて莫迦げて見えるわ。」
「セエラさんは、莫迦げたほどのお金持になるのかもしれないわね。」
「あの子は、お金があったって、なくたって、莫迦げた子じゃアないの。」
「あなた、セエラが嫌いらしいのね。」
「嫌いじゃアないわ。でも、ダイヤモンドの鉱山があるなんて、私信じられないわ。」
「山がないとすると、ダイヤモンドはどこからってくるのでしょうね。」ジェッシイはくすくす笑いながらいいました。「あなた、ガアトルウドが、何といったとお思いになる?」
「知らないわ。セエラのことなら、もう聞かないでもいいことよ。」
「ところが、やっぱりセエラのことなのよ。あの人、この頃宮様プリンセスつもりってのも始めたんですって。アアミンガアドにも、プリンセスのつもりになれっていうんだそうよ。でも、アアミンガアドは、宮様プリンセスにしてはふとりすぎているから駄目だっていってるのよ。」
「あの子は、ほんとに肥っちょね。そして、セエラはせっぽちときているわ。」
 ジェッシイは吹き出しました。
「セエラは、そのつもりになるためには、顔とか持物とかは、どんなでもかまわないっていうのよ。何を考え、何をするかということが、かんじんなんですって。」
「きっとあの人は、自分が乞食こじきであっても、宮様プリンセスになれると思ってるんでしょうよ。これから、セエラを『殿下』と呼んでやりましょうか。」
 煖炉ストーブの前で、ラヴィニアがまだしゃべっている所へ、戸が開いて、セエラがロッティと一緒に入って来ました。ロッティはまるで小犬のように、セエラの行く所へはどこにでもついて行くのでした。
「ほら、セエラが来た。またあのいやな子を伴れて。」ラヴィニアは小声でいいました。「そんなに可愛いなら、自分の部屋の中に飼っとけばいいじゃないの。いまにまたきっと吠え出すことよ。」
 ロッティは果して、何程もたたないうちに吠え出しました。セエラはその時、窓のそばでフランス革命の本を、夢中になって読んでいたのでした。で、ロッティの喚き声を聞いて、夢から覚まされた時には、さすがにいやな気持がしました。本の好きな人は、誰でもそうでしょうが、セエラは読書の邪魔をされると、妙に腹が立ってならない性質でした。その気持をセエラはいつかアアミンガアドにないしょで話したことがありました。
「そんな時には、誰かにたれたような気がするの。すると、私も打ちかえしてやりたくなるの。だから、そんな時には、つい失礼なことなど口走るといけないから、大急ぎでいろいろの事を思い出さなければならないのよ。」
 ロッティははじめ教室の床の上をすべり廻っていたのでしたが、とうとう転んで丸い膝をすりむいたのでした。
「たった今お黙り、泣虫坊主! 早く黙らないか!」と、ラヴィニアがいいました。
「わたい、泣虫じゃない、泣虫じゃアない。セエラちゃアん、セエラちゃアん。」と、ロッティは金切声で喚きました。
 ジェッシイは、ミンチン先生に聞えると大変だといって、ロッティに、
「五銭玉をあげるから、お黙んなさいね。」といいました。
「五銭玉なんか、欲しかアない!」
 そこへ、セエラが本を棄てて飛び出てきたのでした。
「ほうら、ロッティちゃん。セエラに約束したのを忘れたの?」
「あの人が、わたいを泣虫っていったんだい。」
「でも泣けば、泣虫になるわ。いい子のロッティちゃん、あなたは泣かないってお約束したんじゃアないの。」
 ロッティはその約束は思い出しましたが、それでも泣声をあげるばかりでした。
「わたい、お母ちゃんがないイ。わたい、お母ちゃん、これんばかしも、ないイ!」
「いいえ、ありますとも。」と、セエラはにこにこしながらいいました。「もう忘れたの? セエラがあなたのママだってことを忘れたの? お母ちゃんのセエラは、もう要らないの?」
 ロッティはやっと少し笑顔になって、セエラに縋りつきました。
「さ、一緒に窓の所に坐りましょう。そして、小さい声であなただけにお話してあげましょう。」
「ほんとにしてくれる? あの、ダイヤモンドのお山のお話、してくれる?」
 それを聞くと、ラヴィニアは、
「ダイヤモンドの山ですとさ。」と口を出しました。「私、あの意地悪の駄々っ子を、打ってやりたいわ。」
 セエラはいきなり立ち上りました。セエラとても天使エンゼルではない以上、ラヴィニアまで愛すわけにはいきませんでした。
「あなたをこそ打ってあげたいわ。だけど、私あなたを打つのなんかいやだわ。打ってやりたいけど、打つのはよすわ。あなただって、私だって、もう物が解ってもいい年頃なんですものね。」
 ラヴィニアは、えたりとそこへつけこみました。
「さようでございますよ、殿下。私共は宮様プリンセスなんでございますものね。少くとも二人のうちの一人はそうなんでございますものね。ミンチン先生は、宮様プリンセスを生徒にお持ちだから、私達の学校も今は有名なものですね。」
 宮様のつもりになる事は、セエラにとって、たくさんのつもりの中で、一番大切なものでした。大切なだけ、人に知られたくないつもりでした。それを、ラヴィニアは今、ほとんど学校中の生徒の前で、嘲ったのでした。セエラは顔がほてり、耳が鳴るのを覚えました。彼女は今にもラヴィニアを打ちそうでしたが、セエラはやっとのことで怒をこらえました。かりにも宮様プリンセスと呼ばれるものが、怒りに駆られたりしてはならないと彼女は思いました。セエラは手を垂れて、しばらくじっと立っていました。口を開いた時、セエラの声はもう落付いて、しっかりしていました。「仰しゃる通り私は、時々宮様プリンセスになったつもりでいるのよ。宮様プリンセスのつもりになれば、自然宮様プリンセスのように立派な振舞が出来るかもしれないでしょう。」
 今までにもよくそんな事がありましたが、ラヴィニアはセエラに何と答えていいかわかりませんでした。というのは、周囲まわりの人達が、何かセエラの方に味方しているようだったからです。少女達は、実をいうと、皆宮様プリンセスが好きだったのです。で、今話に出た宮様プリンセスというのは、どんな宮様プリンセスなのかそれをもっと詳しく知ろうとして、セエラのそばへ寄り集って来ました。
 ラヴィニアはやっと一言、いうべきことを考え出しました。が、それも奇抜なものではありませんでした。
「あああ、じゃア、あなたが玉座に上る時には、私達のこともお忘れにならないでね。」
「忘れるものですか。」
 セエラはそれだけいうと、ラヴィニアがジェッシイと腕を組んで出て行くのを、黙って見ていました。
 それ以来、セエラをそねんでいる少女達は、何か辱しめてやりたい時に限って、セエラを『宮様プリンセス』といいました。またセエラの好きな少女達は、セエラへの愛のしるしに、セエラを『宮様プリンセス』と呼ぶようになりました。それを聞いたミンチン女史は、生徒の父兄が見えた時、幾度も『宮様プリンセス』の話をしました。『宮様プリンセス宮様プリンセス』というと、この塾が何か貴族の学校のように、お上品に見えるだろうと思ったからでした。
 ベッキイは、セエラを『プリンセス』と呼ぶほどふさわしいものはないと思いました。彼女はいつかの薄霧の日以来、ミンチン女史や、アメリア嬢に隠れて、セエラと親しくなるばかりでした。セエラからお菓子をもらって、屋根裏の自分の部屋に帰る時、ベッキイはいいました。
「このお菓子、気を付けて食べないと大変なのよ、お嬢様。うっかりパン屑なんかと一緒に置いとくと、ねずみが出てきて、食べてしまうのよ。」
「鼠が?」セエラは怖くなりました。「あそこに、鼠がいるの?」
「どっさりいますよ、お嬢様。」ベッキイは平気でした。「大鼠や、廿日鼠はつかねずみがたくさんいるわ。ちょろちょろ出て来て、うるさいけど、慣れればやかましいとも思わないわ。ただ枕の上を飛び越えたりされると、いやですけど。」
「あら。」
「何だって少し慣れれば平気になるのよ。小使娘こづかいむすめに生れると、いろんな事に慣れなけりゃアなりませんよ。油虫なんかよりは、鼠の方がよっぽどましだわ。」
「私もそう思うわ。鼠となら、時がたてばお友達になれるかもしれないけど、油虫となんて、とても仲よくなれないと思うわ。」
 時とすると、ベッキイはセエラの部屋に五分といられないことがありました。そんな時には、セエラはちょっと話して、それからベッキイのポケットに何かを入れてやるのが常でした。セエラはよくベッキイに与えるために、かさのない何か変った食物を探し歩きました。初めて肉饅頭ミート・パイを買って帰った時には、セエラはいいものを見付けてきたと思いました。ベッキイはそれを見ると眼を輝かせて、
「まアお嬢様、これはおいしくて、お腹がふくれて、ほんとに結構ですわ。カステラなんか、それはおいしいけど、じきお腹がすいてしまって――お嬢様なんかには、おわかりにならないかもしれませんけど。」
 そのほかベッキイの気に入ったのは、牛肉のサンドウィッチ、巻パン、ボロニア腸詰ソーセージなどでした。で今はベッキイも、お腹がすいたり、疲れはてたりするようなことはなくなりました。石炭函もそんなに重いとは思わなくなりました。料理人などにいくらいじめられても、午後にセエラの部屋へ行けると思うと、辛くはありませんでした。セエラの顔さえ見ることが出来れば、おいしいものなどもらわないでもいいくらいでした。
 セエラが十一歳のお誕生日を迎える二三週間前、印度の父から一通の手紙が届きました。手紙を見ると、父がいつものような子供らしい元気に充ちて書いたのではないということが、セエラにはわかりました。父は身体があまりよくないらしいのでした。ダイヤモンド鉱山の仕事がせわしすぎるのに違いありませんでした。手紙には、こう書いてありました。
「セエラよ、お父さんは、知っての通り事務家ではない。数字や、書類はひどく私を苦しめる。熱があるせいだろう、夜中まで寝られないで、よろよろ歩き廻っている。やっと寝ついたかと思うと、いやな夢ばかりだ。私の小さい奥さんがそばにいてくれたら、きっと何かよい忠告をしてくれるにちがいないと思う。きっと何かいってくれるだろうねエ。」
 セエラはませた様子をしていたので、父はよく戯談じょうだんに『小さな奥様』と呼んでいたのでした。
 父はセエラの誕生日のため、パリイに新しい人形をあつらえたのでした。その人形の衣裳といったら大したものでした。父はセエラに、人形の贈物は好ましいかどうかと訊ねて来ました。それに出したセエラの返事は、なかなかふるったものでした。
「私は、だんだん年をとってきたので、またお人形を戴くまで生きていられないだろうと思います。だから、今度戴くお人形は、最後のお人形となるでしょう。そう思うと、何だかいろいろ考えさせられます。出来るなら『最後の人形』という題の詩でも作りたいのですが、でも、私には詩は書けません。幾度も書いてみたのですが、吹き出すようなものばかりしか出来ませんでした。詠んでみても、ワッツや、コルリッジや、シェイクスピアのように美しくは聞えないのです。どんなお人形も、エミリイの代りにはなりません。が、今度下さる『最後のお人形』は十分大事にするつもりです。皆さんがきっと大騒ぎなさるでしょう。人形のきらいな子なんてありませんもの。もっとも十五くらいの方達は、もう大きくなったから、お人形となんか遊ばないというような顔をしておいでですが、その方達だって、好きでないわけはないのです。」
 印度のバンガロウにこの手紙の着いた時、クルウ大尉はちょうど割れそうな頭痛に苦しめられていたのでしたが、手紙をよむと、幾十日目かで思わず笑い出しました。
「あの子は一年ごとに面白くなってくる。神様、どうかこの仕事がひとりでに片付いて、私が自由にあの子の所へ飛んで行けるようにして下さい。たった今、あの子の腕が私の首にまきついてくるとしたら、そのためには何でもあげる。どんなものでもあげる。」
 セエラのお誕生日は、大げさに祝われることになりました。贈物の函は、飾った教室で、皆の目の前で開けられ、その後で、ミンチン先生のお部屋で御馳走ごちそうがあるはずでした。その日が来ると学校の中は妙にそわそわとしておりました。朝のうちは皆夢中になって飾りつけをしました。
 その朝、セエラが居間に入って行くと、テエブルの上に、褐色の紙に包んだ、小さなふくれ上ったものが置いてありました。誰から贈られたのだか、セエラにはたいていわかっていました。そっとといてみると、中は針さしでした。あまり美しくもない赤フランネルに、黒いピンが『お目出度めでとう』という字の形に並んでささっていました。
「一生懸命こしらえてくれたのだわ。あんまりうれしくて、何だか悲しいような気がするわ。」
 が、針さしの下に着けてある名刺を読んだ時には、セエラは何だか狐につままれたような気がしました。名刺にはきれいな文字で、『ミス・アメリア・ミンチン』と書いてありました。
「アメリアさんですって? そんなはずはないわ。」
 セエラが名刺を見ながら、そういっているところへ、ドアをそっと押して、ベッキイが顔を出しました。
「それ、お気に入って? お嬢様。」
「気に入らないはずがあるものですか。ベッキイさん、あなた何から何まで自分で作って下すったのね。」
 ベッキイは神経的ヒステリックに、しかしうれしそうに、鼻先で笑いました。眼はうれしさのあまり潤んでいました。
「フランネルの古切なんですけどね、お嬢様に何かさし上げたいと思って、幾晩も幾晩もかかってこさえたんですの。お嬢様はきっとそれを、繻子しゅすの地へダイヤモンドのピンがささったつもりになって下さると思ったから。わたしだって、そのつもりでこさえていたのよ。それから、その名刺はねえ、お嬢様。それ、私塵箱ごみばこから拾って来たんだけど、いけなかったかしら? アメリアさんが棄てた名刺なの。わたし、名刺なんて持ってないし、名刺がなくちゃアほんとの贈物にならないと思ったもんだから――それで、アメリアさんのをつけてあげたのよ。」
 セエラはベッキイに飛びついて、ひしと彼女を抱きしめました。なぜか、妙に喉のつまる気がしました。
「ベッキイちゃん。」セエラは一種変った笑い方をしました。「私、ベッキイちゃんが大好きよ。それはそれは好き!」
「まアお嬢様。もったいないわ、お嬢様。そんなにしていただくような贈物でもないのに。あの、――あのフランネルは古物だし。」

七 その後のダイヤモンド鉱山[#「ダイヤモンド鉱山」は底本では「ダトヤモンド鉱山」]


 お誕生日の午後、セエラは着飾ったミンチン先生に手を引かれ、先頭に立って、柊で飾られた教室に入って行きました。セエラのうしろには、『最後の人形』の箱を持ったしもべが続きました。次は第二の贈物の箱を持った女中、それからさっぱりした前掛を掛け、新しい帽子を被ったベッキイが、やはり贈物の箱を持ってついてきました。
 セエラはほんとうは、そんな仰山ぎょうさんな真似はしたくなかったのでしたが、ミンチン先生はわざわざセエラを自分の部屋に呼んで、自分と一緒に行列の先頭に立てと仰しゃったのでした。セエラがぎょうぎょうしく教室に入って行くと、上級の少女達は肱をつきあいました。小さい少女達はただ嬉しそうにざわざわいいはじめました。それを見ると、セエラは何となく気はずかしくなるのでした。ミンチン先生は
「皆さん、静かになさい。」と一応注意してから、僕達しもべたちに向って、
「ジェームス、その箱をテエブルの上に置いて、蓋をお開けなさい。エムマ、お前のは椅子の上にお置きなさい。それから、ベッキイ!」と急にきびしい口調でいいました。ベッキイはちょうどロッティと眼を見合せながら、にやにやしているところでしたので、ミンチン先生の尖った声を聞くと、びっくりして一種滑稽なお辞儀をしました。それを見ると、ラヴィニアやジェッシイはくすくす笑い出しました。
傍見わきみなんかしてちゃアいけません。その箱を下に置くんですよ。それがすんだら、お前達は向うへ行くんですよ。」
 僕と女中が退いてしまうと、ベッキイは思わずテエブルの上の箱の方へ首を伸しました。青繻子で出来た何かが、薄い包紙の皺の間に、透いて見えました。
「あの、ミンチン先生。」とセエラは突然いいました。「ベッキイさんだけは、もうちょっとの間、ここにいてもいいでございましょう?」
「ベッキイなんかを、どうしてここに置くのです。」
「でも、あの娘だって贈物を見たいでしょうから。あの娘だって、私達と同じ小さい女の子なのですもの。」
「まア、セエラさん、ベッキイは下女ですよ。下女なんて――あなた方のようなお嬢さんとは身分が違います。」
 ミンチン女史は、今までに一度も、ベッキイをセエラ達と比べて考えてみた事はありませんでした。女史の考えに従えば、小使娘などというものは、石炭を運んだり、火をおこしたりする機械でしかなかったのでした。
「でも私、ベッキイだって、私と同じ女の子だと思います。今日は私のお誕生日ですから、私のお願いをかなえて、あの娘をよろこばしてやって下さいませんか。」
「じゃア、今日は特別に許してあげましょう。レベカ、お前セエラさんにお礼を仰しゃい。」
 この話の間、ベッキイは、部屋の片隅にしりごみしながら、前掛のへりをいじくっていましたが、ミンチン女史にそういわれますと、ひょこひょこ出てきてお辞儀をしました。彼女は思うようにお礼の言葉もいえませんのでした。
「ほんとに、どうも、お嬢様。もううれしくって、私はお人形が見たくてたまらなかったの。ありがとうございます。それから、先生、ありがとうございます。」
「あっちの隅に立ってお出で。」ミンチン先生は出口の方をさしていいました。
「あんまり皆さんのそばに寄っちゃアいけないよ。」
 ベッキイはにやにや笑いながらその隅へ退きました。どんな隅にでも居残ることを許されたのは、台所で胸をわくわくさせているより、どんなにいいかしれませんでした。ミンチン先生はやがて一ツ咳払いをして、そうしていいました。
「皆さんがたにちょっと申し上げておきたいことがあります。御存じの通り、セエラさんは今日十一歳になられました。」
「ひいきのセエラ嬢だ。」と、ラヴィニアがそっと囁きました。
「あなたがたの中にも、もう十一になられた方が五六人はあるでしょう。が、セエラさんのお誕生日は、それらの方々のお誕生日とは、少し意味が違います。というのは、セエラさんはもう少し大きくなると、非常な財産を相続なさるからです。その時が来たら、セエラさんは、世の中のためになるように、そのお金を使わなければならないと思います。」
「ダイヤモンド鉱山のことか。」とジェッシイは小声でいって、忍び笑いをしました。
 セエラは先生のいうことを聞いていたわけではありませんでしたが、青鼠色の眼でじっと先生を見ていると、何となくくわっとして来るのを覚えました。先生がお金のことを話していると知ると、私はあの先生が好きだったためしはないというような気持になりました。子供のくせに、大人を憎むなんて、生意気なことだとは解っていましたが。――
 ミンチン女史は訓話を続けました。
「クルウ大尉が、セエラさんを印度から伴れて来て、私に預けた時、大尉は戯談じょうだんらしくこういわれました。『先生、私はこの娘が近い将来に大変な成金になるのだと思うと心配です。』で、私は大尉にこうお答え申し上げたのです。『私の教育は、お嬢様の財産の飾りとなるようなものでなければなりますまい。』と。今セエラさんは、学校中で一番よくお出来になる生徒さんです。セエラさんのフランス語や舞踏は、学校のほこりと申さねばなりません。それにセエラさんのお行儀は、プリンセス・セエラと呼ぶにふさわしいほど、非の打ちどころがありません。セエラさんは今日、皆さんに対する愛情のしるしとして、このお茶の会を開くことになさったのです。皆さんはセエラさんの物惜しみしない気持を、きっとうれしくお思いになることと存じます。そのしるしに皆さん、大きい声で『セエラさん、ありがとう。』と仰しゃって下さい。」
 皆は、いつかセエラが初めて来た時のように、いっせいに立ち上って、
「セエラさん、ありがとう。」といいました。ロッティなどは、いいながら高く飛び上ったほどでした。セエラははずかしそうにもじもじしていましたが、やがて裾をつまんで、優雅な礼をしました。
「皆さん、ようこそお出で下さいました。」
「セエラさん、よく出来ました。」とミンチン先生は褒めました。「まるで宮様プリンセスが人民から『万歳』をあびせかけられた時とそっくりです。ラヴィニアさん、今あなたはいびきのような声をたてましたね。セエラさんがねたましいのなら嫉ましいで、もう少し上品に、嫉ましさを表したらいいでしょう。さ、皆さんは何でも好きなことをしてお遊びなさい。」
 先生の背後うしろドアが閉されるや否や、少女達はまるで呪文を解かれたように、椅子から飛び出して、箱の周囲まわりに駈け集りました。セエラもうれしそうに、箱の一つを覗きました。
「これは、きっと本よ。」
 すると、アアミンガアドは
「あなたのパパも、お誕生日に本を下さるの? 私のパパとちっとも違わないのね。そんなもの開けるのおよしなさいよ。」
「でも、私は本が大好きなのよ。」
『最後の人形』は実に見事なものでした。少女達はそれを見ると、声をあげ、息もつまるほど喜びました。
「ロッティと大してちがわないくらいね。」
 いわれてロッティは手を叩き、笑いこけながら踊り廻りました。
「まるでお芝居にでも行くように盛装しているのね。」と、ラヴィニアまでいいました。「外套には貂の毛皮がついているわ。」
「あら、オペラ・グラスまで持っててよ。」とアアミンガアドは前へ出てきました。
「トランクもあるわ。開けてみましょうよ。」
 セエラは床に坐って、トランクの鍵を外しました。懸子かけごが一つはずされるごとに、いろいろの珍しいものが出てきました。たとえばレエスの衿飾えりかざりや、絹の靴下、それから首飾や、ペルシャ頭巾の入った宝石函、長い海獺らっこのマッフや手套、舞踏服、散歩服、訪問服、帽子や、お茶時の服や、扇などが、あとからあとからと出てくるのでした。
 セエラは無心にほほえんでいる人形に、大型の黒天鵞絨くろびろうどの帽子をかぶせてやりながら、こういいました。
「ことによると、このお人形には私達のいっていることが解るのかもしれないわね。皆さんにほめられて、得意になっているのかもしれないわね。」
 すると、ラヴィニアは大人ぶっていいました。
「あなたは、いつもありもせぬことばかり考えているのね。」
「そりゃアそうよ。私空想ほど面白いものはないと思うわ。空想はまるで妖精のようなものよ。何かを一生懸命に空想していると、ほんとうにその通りになってくるような気がするものよ。」
「あなたは何でも持っているから、何を空想しようと御勝手よ。でも、万一あなたが乞食になって屋根裏に住むようになるとしたら、それでもあなたは、空想したり、つもりになったりしていられるでしょうかね。」
「私きっと出来ると思うわ。乞食だって空想したり、つもりになったり出来ないことはないと思うわ。でも、辛いことは、辛いでしょうねえ。」
 そのとたんに、アメリア嬢が入って来ました。セエラはあとで思い返して、ほんとうに不思議なとたんだったとよく思いました。
「セエラさん、あなたのお父様の代理人のバアロウさんがいらしって、ミンチン先生とお二人きりで御相談なさらねばならないことがあるそうですから、あなたがたは客間に行って、御馳走を食べてらっしゃい。その間に姉は、この教室でバアロウさんとお話を済ますでしょうから。」
 御馳走と聞いて、皆は眼を光らせました。アメリア嬢は皆を並ばせ、セエラを先頭に立てて、客間の方へ出て行きました。あとには、あの『最後の人形』だけが、おびただしい衣裳とともに教室に残されていました。
 ベッキイだけは、御馳走をいただくことも出来ないと思いましたので、悪いこととは知りながら、ちょっとあとに残って、美しい人形や、衣裳を眺め廻しておりました。ちょうどベッキイがそっとマフを摘み上げ、それから外套を手に取って見ている時でした。ベッキイはミンチン女史の声が、戸のすぐ外にするのを聞き、震え上って、テエブルの下に身を隠しました。
 ミンチン女史は、骨張った体つきの、小柄な紳士を伴れて入ってきました。紳士は何か落ちつかない風でした。ミンチン先生も確かに落ちついていたとはいえません。彼女はいらいらした顔つきで、この小柄な紳士を見つめました。
「バアロウさん、どうかお掛け下さい。」
 バアロウ氏は、すぐには腰を下しませんでした。氏は、そこらに散らばっている人形や、人形の小道具に眼を惹かれているようでした。彼は眼鏡をかけ直し、何か咎めだてるように、それらのものを見詰めました。『最後の人形』は、そんなことは、一向無頓着に、ただ真直まっすぐに立って、彼を見返しているばかりでした。
「千円はするだろうな。皆高価な材料で出来ているし、しかもパリイ製だからな。あの若僧は、めちゃくちゃに金を使っていたとみえるな。」
 ミンチン女史はむかむかとしました。バアロウ氏は、いくら代理人でも、クルウ大尉のすることに、さし出がましいことをいう権利はないはずです。ミンチン女史は、セエラとセエラの学校のために、惜しげなくお金を出してくれる、大事なクルウ大尉のことを、悪くいわれたくなかったのでした。
「バアロウさん、失礼ですが、どうして、そんなことを仰しゃるのですか。」
「十一になる子供の誕生祝いに、こんなものを贈るなんて、まったく気違いじみているじゃアありませんか。」
「しかし、クルウ大尉は財産家でいらっしゃるじゃアありませんか。ダイヤモンド鉱山だけでも――」
 バアロウ氏は、くるりと女史の方へ向き直りました。
「ダイヤモンド鉱山なんて、そんなもの、あるものですか。そんなものは、あったためしもない。」
 ミンチン女史は、たちまち椅子から立ち上りました。
「え? 何と仰しゃいます?」
 バアロウ氏は、意地悪く答えました。
「とにかく、そんなものは、なかった方がよかったくらいです。」
「なかった方がよかったって?」
 ミンチン女史は、椅子の背をしかと掴んで叫びました。何か素敵な夢が消えて行くような気がしました。
「ダイヤモンド鉱山などというものは、富よりも破産を意味する場合が多いものです。事業に明るくない人が、親友の手のうちにまるめこまれて、その親友の鉱山に投資するなんて、大間違いです。死んだクルウ大尉にしても――」
 今度は、ミンチン女史が皆までいわせませんでした。
「死んだ大尉ですって? まさか、あなたはクルウ大尉が――」
「大尉は亡くなられました。事業が面白くないところへ、マラリヤ熱に襲われて亡くなられたのです。」
 ミンチン女史は、どかりと腰を落しました。女史はぼんやりしてしまいました。
「面白くなかったと申すのは?」
「ダイヤモンド鉱山がです。大尉はその親友のためにも、破産のためにも、悩まれたようですな。」
「破産ですって?」
「一文なしになられたのです。大尉は若いくせに金がありすぎるくらいだったのでしたが、その親友がダイヤモンド鉱山に夢中になって、大尉の金まですっかりその事業に注ぎこんでしまったのでした。親友が逃げたと聞いた時には、大尉はもう熱病にとりつかれていました。おそろしい打撃だったに違いありません。大尉は昏々こんこんと死んで行きました。娘のことを口走りながら――が、その娘のためには、一文も残さずに。」
 ミンチン先生は、それでやっと事情をのみこむことが出来ました。こんなひどい目にあったのは初めてでした。お自慢の生徒と、お自慢の出資者が、一度に模範学校から、さらい取られてしまったのです。女史は何か盗まれたような気がしました。クルウ大尉も、セエラも、バアロウ氏も、皆悪いのだというような気がしました。
「じゃア、あなたは、大尉が一文も残さずに死んだと仰しゃるのですね。つまり、セエラには財産がない。あの娘は乞食だ。お金持になるどころか、食いつぶしとして、私の手に残されたのだと仰しゃるのですね。」
 バアロウ氏は、抜目のない事務家でしたので、もうここらで自分の責任を果してしまった方がいいと思いました。
「乞食として残されたに違いありません。またあなたの手に残されたのにも違いございません。他に身よりというものはないようですからな。」
 ミンチン女史は急に歩き出しました。女史は今にも部屋から飛び出して、今たけなわな祝宴しゅくえんをやめさせてしまおうと思っているようでした。
「莫迦にしている。あの子は今私の部屋で、私のお金で、御馳走をしているのだ。」
「そりゃアその通りですな。」バアロウ氏は平気でいいました。「我々代理人は、もう何の支払いも出来ませんからな。クルウ大尉は、我々への支払いもせずに死んでしまいました。それも、かなりな額だったのです。」
 ミンチン女史は、ますます不機嫌になって、ふり返りました。こんな災難がふりかかろうとは、今の今までは、夢にも思わないことでした。
「私は、あの娘のために、どんなにお金を使ったって、きっと払ってくれることを、信じきっていたのです。あの莫迦々々しい人形の代も、衣裳の代も、皆この私が立てかえておいたのです。あの子のためなら、何でも買ってやってくれ、といわれていたのですからね。あの子は馬車も持っているし、小馬も持っているし、女中もつけてある。この前の送金があってからこっちは、私がみんなその費用を立てかえているのですよ。」
 バアロウ氏は、それ以上ミンチン女史の愚痴話を聞こうとしませんでした。
「これ以上は、もうお支払いなさらんがいいでしょう。あの御令嬢に贈物をなさる思召しなら別ですがな。」
「ですが、私は、この際どうしたらいいのでしょう。」
 女史は、バアロウ氏に処置をつけてもらうのがあたりまえだというように、訊ねました。
「どうするも、こうするもないですな。」バアロウ氏は眼鏡をたたんで、ポケットに入れました。「クルウ大尉は死んでしまったと。子供は食いつぶしになってしまったと。あの娘について責任のあるものがあるとすれば、あなたぐらいなものですな。」
「何で、私に責任があると仰しゃるのです。そんな責任は、断然おことわりします。」
 ミンチン女史は、立腹のあまり蒼白くなりました。バアロウ氏は立ちかけて、気のない声でいいました。
「あなたが、責任をお持ちになろうと、お持ちになるまいと、私はこの際どうすることも出来ません。こんなことになって、お気の毒とは存じておりますが。」
「それで、私にあの娘をおしつけたおつもりなら、大間違いですよ。私は泥棒にあったのだ、だまされたんだ。あの娘は、おもてに追い出してやるばかりだ。」
 バアロウ氏は、平然と戸口に立っていいました。
「私なら、そんなことはしませんな。世間の眼によく見えるはずはありませんからね。この学校に関して悪い評判がたつばかりでしょうからね。それよりもいっそ、あの子を養っておいて、役に立てたらいかがです。なかなか利口な子だから、大きくなりさえすれば、あの子からうんとしぼれますぞ。」
「大きくならないうちにだって、うんとしぼりとってやるから。」
「確かにしぼれるでしょう。では、さようなら。」
 バアロウ氏は、皮肉に笑ってお辞儀をしながら、戸を閉めて去りました。ミンチン女史は、しばらく突っ立ったまま、閉された戸を睨んでおりました。男のいったことはほんとうだと、彼女は思いました。もうどうすることも出来ないのです。今まで一番大事な生徒だったセエラは、いきなり乞食娘になってしまったのです。今までセエラのために立てかえたお金は、もう戻してもらうすべもないのです。
 ふと、宴会場にあてたミンチン女史の部屋から、わっという歓声が聞えて来ました。この宴会だけでも中止して、そのために使ったお金を取り戻そうと、女史は思いました。が、女史がその方へ立ちかけたとたんに、アメリア嬢が戸を開けて入って来ました。アメリア嬢は姉のただならぬ様子を見ると、思わずあとじさりしました。
「姉さん、どうしたの?」
 姉は、みつくような声でいいました。
「セエラ・クルウはどこにいる?」
「セエラ? セエラは子供達と一緒に、姉さんのお部屋にいるのにきまってますわ。」
「あの子は、黒い服を持ってるかい?」
「え? 黒い服?」
「たいていの色の服は持ってるようだけど、黒いのはあったかしら、というんだよ。」
 アメリア嬢は[#「アメリア嬢は」は底本では「サメリア嬢は」]真蒼まっさおになりました。
「黒いのはないでしょう。あ、あるわ。でも、あれはもう丈が短すぎるわ。古い黒天鵞絨の服で、あの子が小さい時着ていたのですわ。」
「あの子にそういっておくれ、早くその大それた桃色の服を脱いで、短くても何でも、その黒い服を着ろって。いい着物どころの騒ぎじゃアないんだから。」
「まア姉さん、何事が起きたの?」
「クルウ大尉が死んだのさ。一文なしで死んじゃったのだよ。あの気まぐれな我儘娘は、私の居候になったわけさ。」
 アメリア嬢は、手近の椅子にどかりと腰を下しました。
「莫迦々々しい。私はあの子のために何千円ってお金を使ってしまったんだよ。もう一銭だって返しちゃアもらえないんだ。だから、早くあいつのお誕生祝いなんか止めてしまわなければ。すぐ着物をきかえろっていっておくれ。」
「あの、あたし、もう少したってからじゃアいけません?」
「たった今行って話せといってるんだよ。何だい、鵞鳥みたいな眼つきをしてさ。早くおいでったら。」
 アメリア嬢は、鵞鳥と呼ばれることには慣れきっていました。鵞鳥みたいな人間だからこそ、いやなことばかりいいつけられるのだと、自分でも思っていたくらいでした。でも、子供達のよろこんでいる最中さなかに出て行って、その会の主人公であるセエラに、お前はもう乞食になり下ったのだ、父の喪のためちんちくりんの黒い服に着かえなければいけない、というのは、何だかいやでなりませんでした。
 アメリア嬢は眼の赤くなるほど、手巾ハンケチでこすると、黙って姉のいる部屋から出て行きました。妹が出て行ってしまうと、ミンチン先生は、思わず大きな声で独言ひとりごとをいいながら、部屋の中を歩き廻りました。この一年間、ダイヤモンド鉱山のことは、ミンチン女史にいろいろの未来を想わせていたのでした。ダイヤモンド鉱山の持主が助けてくれれば、株でお金を儲けることも出来ると思っていたのでした。が、今はお金儲けの代りに、自分がセエラのために使って失くしたお金のことを考えなければならないのでした。
「ふん、セエラ女王殿下か。あいつは、まるで女王クウィンででもあるかのように、したい放題にふるまっていたのだ。」
 そういいながら、女史は腹立たしげに、部屋の隅にあるテエブルのかたわらを掠め過ぎようとしました。と、テエブル掛のかげから、急に欷歔すすりなきの声が響き出て来るのに吃驚びっくりして、思わず一あしをひきました。
「どうしたというんだろう。」
 すすり泣く声がまた聞えたので、女史は身をかがめて、テエブル掛を捲り上げました。
「こんなところで、立ち聞きしていたな。さっさと出ておいで。」
 這い出してきたのはベッキイでした。ベッキイは泣き声を出すまいとこらえていたので、真紅まっかな顔をしていました。
「あのう、御免下さい。私悪いとは思ったのですけれど。でも、私、お人形を見ていたんですの。そこへ、奥様が入っていらしったので、私吃驚びっくりして、この中に隠れてしまったんですの?」
「じゃアお前は、そこではじめっから立ち聞きをしていたわけだね。」
「いいえ、奥様。立ち聞きするつもりなんぞありゃアしません。見つからずに逃げ出せるものなら、逃げ出そうと思ったのですけど、とても駄目だと思いましたから、仕方なしに、ここに隠れていたんです。立ち聞きなんてするつもり、ちっともなかったんですけど、でも、聞えたんだから仕方ありません。」
 ベッキイは、おそろしい奥様が目の前にいるということも忘れたかのように、わっと泣き出しました。
「お、お、奥様。わたし叱られると知っても申さずにはいられません。わたし、あのセエラ様がお可哀そうで、お可哀そうで――」
「出て行きなさい。」
「ええ、まいります。でも、ちょっとわたし奥様に伺いたいことがあるんでございますの。セエラ様は、あんなに御不自由なく暮しておいでだったのに、これから、女中なしではどうすることも出来ないでしょう。ですから、もしなんでしたら、わたしにお勝手の御用がすんだ後で、あの方の御用をしてあげさせて下さいませんか。出来るだけ早く片付けますから。」ベッキイは更にすすりあげながら、「奥様、セエラ様は、お可哀そうでございますわね。宮様プリンセスとさえいわれてらしったのに。」
 ミンチン先生はベッキイにこういわれて、なぜかよけいに腹を立てました、小使娘の分際で、セエラの肩を持つなんてしからん。――するとミンチン先生は、初めてはっきりと、セエラなんかちっとも可愛くなかったのだという事実を悟ったような気がしました。先生はがたがたと床を踏み鳴しながらいいました。
「あの子の用をしてやることなんて、断じて許さないよ。あの子には自分の用はもちろん、ほかの人の用までさせなければならないのだから。」
 ベッキイは前掛で顔を隠しながら、逃げて行きました。
「まるで、何かのお話の中のようだわ。あの辛い世の中に追い出される不幸な宮様プリンセスのお話そっくりだわ。」
          *        *        *
              *        *        *
 それから二三時間たつと、セエラはミンチン先生の所に呼び迎えられました。その時の先生は、今までにないほど冷かな、無情な顔をしていました。
 もうその時セエラには、あのお誕生日の宴会は夢としか――あるいはずっと昔生きていた、誰か別の少女の生涯に起ったこととしか、思えませんでした。
 その間に教室や、先生の居間はすっかりいつものように片付けられてしまいました。先生はじめ生徒達は、平常ふだんの着物に着かえてしまいました。少女達は教室のそこここにかたまって、ひそひそと囁き合ったり、昂奮して話し合ったりしていました。
 ミンチン女史が妹に、セエラを呼んで来いといった時、アメリア嬢はこういいました。
「お姉さん、あの子はずいぶん変ってる子ね。この前クルウ大尉が印度へ発った時もそうでしたが、今度も私が事の次第をいってきかすと、あの子はただ黙って、私の顔を見つめているんですの。あの子の眼は見る見る大きくなって、そして顔色は真蒼になって来ました。そうしてちょっとの間立ったままでしたが、わなわなと顎がふるえ出したと思ったら、ふいにくるりとうしろを向いて、部屋を飛び出して行ってしまいました。ほかの子達がかえって泣き出しましたけれども、セエラは子供達の泣声になどは耳もさない風でした。あの子はまるで生きている以上、こんなことになるのがあたりまえだ、というような顔をしていました。あの子が何にもいってくれないので、私は変な気持になって困りました。誰だって、ふいにあんなことをいわれれば、何とかいわずにはいられないはずですものね。」
 セエラが、二階の部屋の中で何をしていたか、セエラ以外には誰にもわかりませんでした。セエラ自身も、その時はほとんど夢中でした。ただ彼女は、しきりに部屋の中を歩き廻って、「お父様はおなくなりになったのよ。お父様はおなくなりになったのよ。」と、自分にいい聞かしていたのは憶えています。そういう声も自分の声とは思えないほどでしたが、一度などは椅子の上からじっとセエラを見守っているエミリイの前に立って、狂わしそうにいいました。
「エミリイちゃん、お前わかって? パパがおなくなりになったの、わかって? パパはね、遠い遠い印度で、おなくなりになったのよ。」
 セエラが呼ばれてミンチン先生の部屋に来た時、彼女の顔は蒼白く、眼のまわりには黒いくまが出来ていました。セエラは、今まで苦しみぬいたこと、いまだに悲しくてならないことを、人に見破られるのがいやなので、きっと口をしめて我慢していました。さっきの薔薇色の胡蝶こちょうとは別人としか思われませんでした。
 セエラはマリエットの助けも借りず、古い天鵞絨の服を着て来たのでした。その服はもう小さすぎるので、短い裾の下に出たセエラの細い脚が、よけいに細く長く見えました。黒いリボンがなかったので、短い黒髪が蒼ざめた頬に乱れ落ち、頬の色をよけい蒼白く見せていました。セエラはエミリイをひしと抱いていました。エミリイも何か黒いものを着ていました。ミンチン先生はすぐそれを見とがめていいました。
「人形なんか、下にお置きなさい。何のために人形なんか持ってきたのです?」
「下に置くのなんかいやです。このお人形だけは私のものです。お父様が私に下すったのですから。」
 ミンチン先生はセエラに何かいわれると、いつも妙にいらいらして来るのでしたが、今もこうきっぱりいわれると、何か御しがたいような気がして、落ち着いていられませんでした。殊に今日は、むごい人間らしくないことをしようとしているだけ、何か気がとがめるのでしょう。
「もうこれからは、人形どころのさわぎじゃアないのだよ。お前は働かなければ――悪い所を直して、役に立つような人間にならなければならないんだよ。」
 セエラは、大きな眼でミンチン女史を見つめたまま、一言も口をきかずに立っていました。
「もう、アメリアさんから聞いて知っているだろうが、何もかも、今まで通りだと思ったら大間違いだよ。」
「よくわかっています。」
「お前は乞食なんだ。身よりはないし、世話をしてくれる人なんて、一人もないのだからね。」
 セエラはちょっと痩せた小さい顔をしかめました。が、やはり何ともいいませんでした。
「何をそうじろじろ見てるんだよ。乞食になったってことがわからないほど、莫迦でもあるまいにね。もう一度いってきかしてあげようか。お前はみなし子で、私がお慈悲で置いてやらない限りは、誰もかまってくれるものはないのだよ。」
「わかってます。」
 セエラは低い声でいいました。何か喉に詰っているものを呑みこもうとしているようでした。ミンチン先生は、すぐそこに置きすてられてあったお誕生祝いのお人形を指していいました。
「その人形も――その莫迦々々しい人形のお金を払ったのも、私なんだ。」
 セエラは椅子の方に顔を向けて、「最後の人形、最後の人形」と、思わず口の中でいいました。
「最後の人形だって? まったくだよ、この人形は私のものだ。お前の持ってるものは、何もかも私のものなのだよ。」
「じゃア、どうか、そのお人形を持ってらしって下さい。私、そんなもの要りません。」
 セエラが喚いたり怯えたりしたら、ミンチン女史はセエラをもう少しはいたわってやったかもしれません。女史は人を支配して、自分の力を試してみるのが愉快だったのでした。が、セエラの凛とした顔を見、ほこりのある声を聞くと、自分の力が空しく消えて行ったような気がして、口惜しくなるのでした。
「勿体ぶった様子なんかおしでないよ。もう、お前は宮様プリンセスじゃアないのだからね。お前は、もう、ベッキイと同じことさ。自分で働いて、自分の口すぎをしなければならないのだよ。」
 意外にも、セエラの眼には、ふと輝きが――救いのかげが浮んで来ました。
「働かして下さいますの? 働けさえすりゃア、何もそう悲しかアありませんわ。何をさして下さいますの?」
「何でも、いいつけられたことをするんだよ。お前はよく気のつく子だから、役に立つように心がけるのなら、ここに置いてあげてもいいと思うのだよ。フランス語もよく出来るのだから、小さい人達のおさらいもしてあげられるだろう。」
「おさらい、させて下さいます? 私、フランス語なら教えられると思いますわ。小さい人達は私を好いて下さるし、私も小さい人達が好きですから。」
「人が好いてくれるなんて、莫迦なことをおいいでない。小さい人達のおさらいをするほか、お前はお使いに行ったり、お台所の手伝いをしたりしなければならないのだよ。私の気に入らないことでもあったら、すぐ逐い出してしまうから、そのつもりでおいで。じゃア、向うへおいで。」
 そういわれても、セエラはまだちょっとの間、ミンチン先生を見つめていました。幼い心の中で、セエラはいろいろのことを考えていたのでした。やっと立ち去ろうとしますと、
「お待ち!」と先生はいいました。「私に、ありがとうございます、という気はないのかい?」
「何のために?」
「私の親切に対してさ。お前に家庭ホームを恵んでやる親切に対してさ。」
 セエラは小さい胸を波立てながら、二三歩先生の方に進み出ました。
「先生は、御親切じゃアありません。それに、ここは家庭ホームでも何でもありません。」
 いいすててセエラは、駈け出しました。ミンチン先生はそれを止める術もなく、いかりのあまり石のように立って、セエラを見送るばかりでした。
 セエラは、落ち着いて梯子を登って行きましたが、息はきれるばかりでした。彼女はエミリイをしかと脇に抱きしめていました。
「この子に口がきけたら――物がいえさえしたら、どんなにいいだろう。」
 セエラは自分の部屋に行き、虎の皮の上に寝ころんで、炉の火に見入りながら、考えられるだけいろいろのことを考えてみようと思っていました。が、まだ彼女が二階へ登りきらないうちに、アメリア嬢がセエラの部屋から出て来ました。嬢はぴたりと戸をしめ、戸の前に立ち塞って、気づかわしげな顔をしました。嬢は、姉にいいつけられたことをするのが、うしろめたくてならないのでした。
「もう、ここへ入ってはいけないのですよ。」
「入っちゃアいけないのですって?」
 セエラは一歩あとじさりしました。アメリア嬢は少し紅くなって、
「ここは、もうあなたのお部屋じゃアないのですよ。」といいました。
「じゃア、私のお部屋は、どこなの?」
「今晩からあなたは、屋根裏の、ベッキイのお隣の部屋に寝るんですよ。」
 セエラは、かねてベッキイから聞いていたので、その部屋がどこにあるか、よく知っていました。セエラはくるりとうしろを向いて、二つ続いた梯子段を登って行きました。二つ目の梯子は狭くて、きれぎれな古絨毯ふるじゅうたんが敷いてあるばかりでした。セエラはそこを登り登り、今までの――今は自分とも思えぬ昨日までの、あの幸福な少女の住んでいたところから、ずっと遠くの方へ去って行くような気がしました。小さすぎる古い服を着て、梯子を登って行く今の少女は、事実昨日までのセエラとは別人になっていました。
 屋根裏の戸を開けた時には、さすがに侘しい気がしました。が、セエラは中に入ると、戸に寄りかかって、そこらを見廻しました。
 まったく、これは別な世界です。天井は屋根の傾斜で片方が低くなっていますし、壁は粗末な白塗です。その白塗も、もう薄汚くなっていて、はげ落ちているところさえあります。錆のふいた煖炉だんろ、それからこちこちな寝床。階下したの部屋には置けないほど使いふるした椅子、テエブル。明りとりの天窓ひきまどには、物憂い灰色の空がのぞいているばかりです。その下に、こわれた紅い足台があるのを見つけて、セエラはそこに腰を下しました。セエラは膝の上にエミリイを寝かし、両手で抱きながら、エミリイの上に自分の顔を伏せて、しばらくじっと坐っていました。
 ひかえめに戸を叩く音がして、戸の間に泣き濡れたベッキイの顔が現れました。ベッキイは、さっきから泣きづめに泣きながら、前掛であまり眼をこすったものですから、すっかり顔が変っていました。
「お、お、お嬢様、ちょっと、あの、ちょっと入っちゃアいけませんか。」
 セエラは、ベッキイに笑ってみせようとしましたが、どうしても笑うことが出来ませんでした。が、ベッキイが心から悲しんでいるのを見ると、セエラは急に子供らしい顔になり、手をさしのべて、しくしく泣き出しました。
「ベッキイちゃん、いつか私あなたに、私達は同じような娘同士だといったことがあるでしょう。ね、嘘じゃアなかったでしょう? 二人の間には、もう身分の違いなんてないんですもの。私は、宮様プリンセスでもなんでもなくなってしまったのよ。」
 ベッキイは駈けよって、セエラの手をとり、自分の胸におしあてました。ベッキイは欷歔すすりなきながら、セエラのかたわらに跪いていいました。
「お嬢様は、どんなことが起ったって、やっぱり宮様プリンセスよ。何が起ったって、どうしたって、宮様プリンセス以外のものにはなるもんですか。」

八 屋根裏にて


 セエラはいつまでも、初めて屋根裏に寝た晩のことを忘れることは出来ませんでした。夜もすがらセエラは、子供にしては深すぎる、狂わしい悲しみにひたされていました。が、セエラはそのことを誰にも話しませんでした。また話したとて、誰にも解る悲しみではなかったでしょう。セエラは、寝られぬ夜の闇の中で、ともすると、寝慣れぬ堅い寝床や、見慣れぬあたりのものに心をわずらわされました。が、それはかえって彼女の気をまぎらしてくれたようなものでした。そんなまぎれがなかったら、セエラは悲しみのあまりどうなったかわからなかったでしょう。
「パパは、おなくなりになったのだ。パパは、おなくなりになったのだ。」
 寝床に入ってしばらくの間は、そのことばかり考えていました。寝床が堅いと気のついたのは、寝てからずいぶんたった後のことでした。寝返りを打っているうちに、そこらがひどく暗いのに気がつきました。それから、風が屋根の上で、何か大声に泣き悲しんでいるようなのに気がつきました。更に気味の悪いのは、壁の中や、戸棚のうしろから、きいきい、がりがりという音が聞こえて来たことでした。セエラは、いつかベッキイから話を聞いていましたので、すぐ鼠のいたずらだなと気づきました。セエラは一二度、鋭い爪が床を掻いて走る音を聞いて、思わず床の上に飛び起きました。それから、頭から夜具をかぶって横になりました。
 セエラの生活は、その日からがらりと変りました。マリエットは翌朝暇を出されました。昨日までセエラのいた部屋はすっかり片付けられ、新入生のためのあたりまえの寝室にされました。
 朝食堂へ出て見ると、ラヴィニアが、昨日までセエラの坐っていたところに坐っていました。ミンチン先生は冷かにセエラにいいました。
「セエラ、お前は、お前の用をすぐ始めるんだよ。小さい方達と、小さい方のテエブルに坐って、皆さんがお行儀よく食べるように、見てあげるんだよ。これからもっと早く出て来なきゃアいけないよ。ほら、ロッティはもうお茶をこぼしてるじゃアないか。」
 セエラの仕事は、この様にして始まりました。来る日ごとに用事はふえるばかりでした。フランス語を見てあげるのは、一番楽な仕事でしたが、そのほかお天気の悪い時でもかまわずお使いにやられたり、皆の残為しのこした用事をいいつけられたりしました。料理番や、女中までが、ミンチン女史の真似をして、今まで永いことちやほやされていたこの娘っ子を、いい気持にこき使うのでした。
 セエラは、初めの一二ヶ月の間は、素直に働いていれば、こき使う人達の心も、そのうちにはやわらぐだろうと思っていました。自分は、お慈悲を受けているのではなく、食べるために働いているのだということも、そのうちには解ってくれるだろう、と思っていました。が、やがて彼女も、皆が心を柔げてくれるどころか、素直にすればつけあがるだけだということを、悟らなければなりませんでした。
 セエラが、もう少し大人らしくなっていたら、ミンチン女史も、セエラを大きい子達のフランス語の先生にしたでしょうが、何分セエラはまだ子供々々していますので、大きくなるまで、女中代りに使った方が得だと思ったのでした。セエラなら、むずかしい用事や、こみいった伝言ことづてなども、安心して頼むことが出来ました。お金を払いにやっても間違いはないし、ちょっとしたお掃除も、器用にやってのけるのでした。
 セエラは、今はもう勉強どころではありませんでした。楽しいことは、何も教わりませんでした。忙しい一日がすんでから、古い本を抱えて、人気のない教室へ行って、一人夜学を続けるばかりでした。
「気をつけないと、習ったことまで忘れてしまいそうだわ。これで、何にも知らないとすれば、ベッキイと選ぶところがなくなるわけだわ。でも、私忘れることなんて出来そうもないわ。歴史の勉強なんか、殊にやめられないわ。ヘンリイ八世に六人の妃があったことなんか、忘れられるもんですか。」
 セエラの身の上が、こういうように変ると同時に、お友達との関係も妙なものになって来ました。今までは、何か皇族ででもあるかのように尊ばれていたのに、今はもう皆の仲間入りもさせてくれなそうでした。セエラが一日中忙しいので、少女達と話す暇がないのも事実でしたが、同時にミンチン女史が、セエラを生徒達からひきはなそうとしている事実も、セエラは見のがすわけにはいきませんでした。
「あの子が、ダイヤモンド鉱山を持っていたなんて。」と、ラヴィニアはひやかしました。「ほんとうにお笑い草ってな顔してるじゃアないの。あの子は、ますます変人になって来たわね。今までだって、あの子好きじゃアなかったけど、この頃のような変な眼付で黙って見ていられると、たまらなくなるわ。まるで人を探るような眼をしてさ。」
 それを聞くと、セエラはすぐやり返しました。
「その通りでございますよ。まったく私は、探るために人を見るのですよ。いろいろのことを嗅ぎつけて、そして、あとでそのことを考えて見るんですよ。」
 そういったわけは、ラヴィニアのすることを見張っていたおかげで、いやな目に逢うことを避けることが出来たからでした。ラヴィニアはいつも意地悪で、この間まで学校の誇とされていたセエラをいじめるのは、殊にいい気味だと思っていたのでした。
 セエラは、自分で人に意地悪をしたり、人のすることの邪魔をしたりすることは、少しもありませんでした。セエラは、ただ奴隷のように働きました。だんだん身なりがみすぼらしく、みなし子らしくなって来ますと、食事も台所でとるようにいわれました。彼女は誰からも見離されたもののように扱われました。彼女の心は我強く、同時に痛みやすくなって来ました。が、セエラはどんなに辛いことも、決して口に出していったことはありませんでした。
「軍人は愚痴なんかこぼさない。」セエラは歯をくいしばりながらいうのでした。「私だって、愚痴なんかいうものか。これは私、戦争の一つだっていうつもりなのだから。」
 そうはいうものの、彼女を慰めてくれる三人の友がなかったら、セエラの心は寂しさのあまり破れたかもしれなかったでしょう。
 その友の一人は、あのベッキイでした。初めて屋根裏に寝た晩も、壁一つ越した向うには、自分のような少女がいるのだと思うと、セエラは何となしに慰められるような気がしました。その慰めの気持は、夜ごとに強くなって来るのでした。日のうちは二人とも用が多くて、言葉を交す折はほとんどありませんでした。立ち止ってちょっと話そうとすると、すぐ怠けるとか、暇をつぶすとか思われるので、それも出来ないのでした。初めての朝、ベッキイはセエラに囁きました。
「私が丁寧なことを言わないでも、気にしないで下さいね。そんなことをいってると、きっと誰かに叱られるからね、私、心の中では『どうぞ』だの、『もったいない』だの、『御免なさい』だのといってるつもりだけど、口に出すと暇がかかるからね。」
 しかし、ベッキイは、夜の明ける前に、きっとセエラの部屋にこっそりと入ってきて、ボタンをはめたり、その他いろいろ手伝ってくれるのでした。夜がくると、ベッキイはまたそっと戸を叩いて、何かセエラの用をしに来てくれるのでした。
 三人のうちの第二は、アアミンガアドでした。アアミンガアドがセエラを慰めに来るまでには、いろいろ思いがけないいきさつがありました。
 セエラの心が、やっと少し新しい生活になじんで来ると、セエラはしばらくアアミンガアドのことを忘れていたのに気づきました。二人はいつも仲よくしていましたが、セエラは自分の方がずっと年上のような気持でいました。アアミンガアドは人なつっこい子でしたが、同時にまた頭の鈍いことも争われませんでした。彼女は、ただひたむきにセエラに縋りついていました。おさらいをしてもらったり、お話をせがんだり――が、アアミンガアド自身には、別に話すこともないという風でした。つまり彼女は、どんな事があっても忘れられない、というたちの友達ではありませんでした。だからセエラも、アアミンガアドのことは自然忘れていたのでした。
 それに、アアミンガアドは急に呼ばれて、二三週間自宅うちに帰っていましたので、忘れられるのがあたりまえだったのです。彼女が学校へ帰って来た時には、セエラの姿は見えませんでした。二三日目にやっと見付けた時には、セエラは両手に一杯繕物つくろいものを持っていました。セエラはもう着物の繕い方まで教わっていたのでした。セエラは蒼ざめて、人のちがったような顔をしていました。小さくなった、おかしな着物を着て、黒い細い脚をにょきりと出していました。
「まア、セエラさん、あなただったの!」
「ええ。」
 セエラは顔を紅らめました。
 セエラは衣類をうずたかく重ねて持ち、落ちないように顎で上を押えていました。セエラにまともに見つめられると、アアミンガアドはよけいどうしていいか判らなくなりました。セエラは様子が変ったと同時に、何かまるで知らない女の子になってしまったのではないか?――アアミンガアドにはそうも思えるのでした。
「まア、あなた、どう? お丈夫?」
「わからないわ。あなた、いかが?」
「私は――私は、おかげ様で、丈夫よ。」アアミンガアドは羞しくてわけがわからなくなって来ました。で、急に、何かもっと友達らしいことをいわなければならないと思いました。「あなた――あなた、あの、ほんとにお不幸ふしあわせなの?」
 その時のセエラのしうちは、よくありませんでした。セエラのきずついた心臓は、ちょうどたかぶっている時でしたので、こんな物のいいようも知らない人からは、早くのがれた方がいいと思いました。
「じゃア、あなたはどう思うの? 私がしあわせだとお思いになるの?」
 セエラはそういい残して、さっさと去って行ってしまいました。
 その後、時がたつにつれて、セエラは、アアミンガアドを責むべきではなかったと思うようになりました。ただあの時は、自分の不幸のため、何もかも忘れてしまっていたので、アアミンガアドの心ない言葉に腹が立ってならなかったのでした。それに、落ち着いて考えて見ると、アアミンガアドはいつも気のきかない子で、心を籠めて何かしようとすると、よけいやりそこなうのが常だったのでした。
 それから五六週間の間、二人は何かにさえぎられていて、近よることが出来ませんでした。ふと行きあったりすると、セエラはわきを向いてしまいますし、アアミンガアドはアアミンガアドで、妙にかたくなってしまって、言葉をかけることも出来ませんでした。時には、首だけ下げて挨拶あいさつすることもありましたが、時とすると、また目礼さえせずに過ぎることもありました。
「あの子が、私と口をききたくないのなら、私はあの子になるべく会わないようにしよう。ミンチン先生は会わせまいとしているんだから、避けるのは造作ないわけだわ。」
 で、自然二人はほとんど顔も会わさないようになりました。アアミンガアドは、ますます勉強が出来なくなりました。彼女はいつも悲しそうで、そのくせそわそわしていました。彼女はいつも窓のそばに蹲まり、黙って外を見ていました。ある時、そこへ通りかかったジェッシイは、立ち止って、怪訝そうに訊ねました。
「アアミンガアドさん、何で泣いてるの?」
「泣いてなんて、いやしないわ。」
「泣いてるわよ。大粒の涙が、そら、鼻柱はなばしらをつたって、鼻の先から落ちたじゃアないの。そら、また。」
「そう。私なさけないの――でも、かまって下さらない方がいいのよ。」
 アアミンガアドは丸々とした背を向けて、手巾ハンケチおもてをかくしました。
 その晩、セエラはいつもよりも遅く、屋根裏へ登って行きました。と、自分の部屋の扉の下から、ちらと光の洩れているのを見付けて、吃驚びっくりしました。
「私のほか、誰もあそこへ行くはずはないけど、でも、誰かが蝋燭ろうそくをつけたとみえる。」
 誰かが火をともしたのにちがいありません。しかも、その光は、セエラがいつも使う台所用の燭台のではなく、生徒が寝室につける燭台の火に違いないのです。その誰かは、寝衣ねまきのまま紅いショオルにくるまって、くずれた足台の上に坐っていました。
「まア、アアミンガアドさん!」セエラは怯えるほど吃驚しました。「あなた、大変なことになってよ。」
 アアミンガアドはよろよろと立ち上りました。彼女は大きすぎる寝室用のスリッパをひっかけて、すり足にセエラの方へ歩いて来ました。眼も、鼻も、赤く泣き腫らしていました。
「見付かれば、大変なことになるのはわかっているわ。でも、私、叱られたってかまわないわ。ちっともかまわないわ。それよりもセエラさん、お願いだから聞かしてちょうだい。ほんとうにどうなすったの? どうして、私が嫌いになったの?」
 アアミンガアドの声を聞くと、セエラの喉にはまた、いつものかたまりがこみ上げて来ました。アアミンガアドの声は、いつか仲よしになってちょうだいといった時の通り、人なつっこく、真率でした。この数週間の間、よそよそしくするつもりなんか、ちっともなかったのに、というような響でした。
「私、今でも、あなたが大好きなのよ。」と、セエラはいいました。「私ね――もう何もかも、前とは違ってしまったでしょう。だから、あなたも、前とは変っちまったんだろうと思ったの。」
 アアミンガアドは、泣き濡れた眼を見張りました。
「あら、変ったのはあなたの方よ。あなたは、私に物をいいかけても下さらなかったじゃアないの。私、どうしていいか判らなかったの。私がうちへ行って来てから、変ったのはあなたよ。」
 セエラは思い返して、自分が悪かったのだと知りました。
「そうよ、私変ったわ。あなたの考えてるような変り方ではないけど。ミンチン先生は皆さんとお話しちゃアいけないって仰しゃるのよ。皆さんだって、私と話すのはおいやらしいの。だから、私あなたもきっと、おいやなんだろうと思って、なるべくあなたを避けていたのよ。」
「まア、セエラさん。」
 アアミンガアドは、セエラを咎めるように泣きじゃくりました。二人は眼を見合わせて、そして、お互に抱きつきました。セエラはしばらくの間、小さい黒髪の頭を、赤いショオルでおおわれたアアミンガアドの肩にじっと乗せていました。アアミンガアドが、身を引こうとすると、セエラはひどく寂しい気がしました。
 それから、二人は床に坐りました。セエラは手で膝をかかえ、アアミンガアドはショオルにからだを包んで、
「私は、もうとてもたまらなかったのよ。セエラさんは、私なしでも暮せるでしょうけど、私は、セエラさんなしにはいられないのよ。私は生きてる気もしなかったの。今夜も、夜具の中で泣いていたら、ふと急に、ここへ登ってきて、あなたにあやまって、もう一度お友達になっていただこうって気になったの。」
「あなたは、私なんかよりよっぽどいい方なのね。私は我が強いから、仲直りしようなんて気にはなかなかなれないのよ。ほら、いつかもいったように、今度のように辛い目にあって見ると、私はいい子じゃアないということが、あばかれてしまったでしょう。こんなことになりはしまいかと、私気にしていたのよ。」セエラは考え深そうに額に皺を寄せて、「ことによると、それを私に解らせるため、辛い目にあわせられたのかもしれないわ。」
「そんな目にあったって、ちっともありがたくはないと思うわ。」
「私だって、ほんとうはありがたいと思ってるわけじゃアないのよ。でも、私達にはわからないところに、よいものがないとも限らないでしょう。ミンチン先生にしたって――。」
 セエラは疑わしげに――「いいところが、あるのかもしれないわ。」
 アアミンガアドは、怖々こわごわそこらを見廻して、セエラに訊ねました。
「あなた、こんなところに住めると思うの?」
「こんな所でも、こんなじゃアないつもりになれば、住めると思ってよ。でなければ、これは、あるお話の中の場面だと思っていればね。」
 セエラは静かに語りました。うまい具合に空想がまた働き出して来ました。ふいに辛い目にあってからこのかた、セエラは一度もまだ、空想によって慰められたことがなかったのでした。
「もっとひどい所に住んでた人もあるのよ。モント・クリスト伯爵はシャトオ・ディフの牢屋に押しこめられていたでしょう。それから、バスティユにほうりこまれた人達だってあるでしょう。」
 アアミンガアドは口の中で、
「バスティユ。」といいました。いつかセエラが芝居がかりで話してくれた事がありましたので、アアミンガアドもフランス革命の話だけは覚えこんでいました。
 セエラの眼は、いつものように輝いて来ました。
つもりになるのは、バスティユがいいわ。私はバスティユの囚人なの。私は、もう幾年も幾年もここに押しこめられていたの。世の中の人達は皆、私のことなんか忘れてしまっているの。ミンチン先生は監守で、それからベッキイは――」ふと新しい光が、セエラの眼に加わりました。
「ベッキイは、お隣の監房にいる囚人なの。」
 セエラは、昔の通りな顔になって、アアミンガアドの方を向きました。
「私、そのつもりになるわ。つもりになってると、どんなにまぎれていいかしれないわ。」
 アアミンガアドは、たちまち夢中になりました。
「そしたら、私にもつもりのお話をみんなしてちょうだいね! 見付けられそうもない晩には、いつでもここに来ていいでしょう? そしたら、あなたが昼間のうちに作っといたお話を聞かしてちょうだいね。そんなことをしていると、きっと今までよりも、もっと仲よしになったような気がすることよ。」
「いいわ。何か事が起ると、人の心もわかるものね。私の不幸ふしあわせは、あなたがほんとうにいい方だってことを教えてくれたのね。」

九 メルチセデク


 セエラを慰めてくれた三人組トリオの第三人目はロッティでした。ロッティはまだねんねエでしたので、不幸とはどんなことだかも、よく解りませんでした。で、若い養母おかあさんの様子がすっかり変ってしまったのを見ると、途方にくれるばかりでした。彼女は、セエラの身の上に何か起ったということは耳にしましたが、だからといって、どうしてあんな古い服を着ているのだか、なぜ教室でも自分の勉強はせず、他人の勉強ばかり見てあげているのだか、合点が行きませんでした。小さい子供達は、あのエミリイのいた美しい部屋に、セエラはもういないのだということを、しきりに小声で話し合っていました。それにセエラに何か問いかけても、ろくに返事もしません。
 セエラが、初めて小さい子達のフランス語を見てやった朝、ロッティは、そっとセエラに尋ねました。
「セエラちゃん、あなた、ほんとにもうお金持じゃアないの? あなたは、乞食みたいに貧乏なの? 乞食みたいになんかなっちゃアいや。」
 ロッティは今にも泣き出しそうでしたので、セエラは周章あわててロッティをなだめにかかりました。
「乞食には、おうちなんかないけど、私には、お部屋があるのよ。」
「どこにあるの? 私、行ってみたいわ。」
「おしゃべりしちゃア駄目よ。ミンチン先生が睨めてるじゃアないの。あなたにおしゃべりさせたといって、いまに私が叱られるわ。」
 が、ロッティは、一度いい出したら、なかなか諦めない性質の子でした。で、セエラがいる所を教えてくれないなら、何か他の方法で、セエラのいる所をつきとめようと思いました。ロッティは大きい子達のおしゃべりに耳をすましているうち、ある時、ふとした言葉尻から、セエラが屋根裏にいるのだということを知りました。その日の暮近く、ロッティは一人、今まであるとも気づかなかった階段を登って行きました。二つ並んでいる戸の一つを開けると、セエラは古ぼけたテエブルの上に立って、天窓から外を見ておりました。
「セエラちゃん、セエラ母ちゃん。」
 ロッティは呆気あっけにとられた形でした。室内があまりにみすぼらしく、世の中からあまりかけ離れた所のように思えたからでした。
 セエラは振り向くと、これも呆気にとられた形でした。これから、どうなることだろう。もしロッティが泣き出しでもしたら――泣声がひょっと誰かの耳にでも入ったら、二人とももうおしまいだ。――セエラはテエブルから飛び下りて、ロッティの方へ走り寄りました。
「泣いたり、騒いだりしちゃア駄目よ。そうすると、私が叱られるからね。でなくても、私一日中叱られ通しなんですもの。ね、この部屋は、そんなにひどくもないでしょう?」
「ひどくない?」
 ロッティは唇を噛みながら、部屋の中を見まわしました。彼女は甘やかされてはいましたが、セエラが非常に好きなので、この養母おかあさんのためになら、どんな我慢でもしようと思っていました。すると、セエラの住んでいる所なら、どんな所でもよくなるような気がして来ました。
「ひどいなんてことないわ。セエラちゃん。」
 セエラはロッティを抱きしめて、無理にも笑おうとしました。ロッティのむっちりした身体の温かさを感じると、セエラは何か慰められるような気がしました。その日は、セエラには殊に辛い日でしたので、ロッティの入ってきた時には、眼を紅くして、窓の外を見つめていたのでした。
「ここからはね、階下では見えないものが、たくさん見えるのよ。」
「どんなものが見えるの?」
「煙突や、雀や、それからよその屋根裏の窓や。――窓からよく人の顔がひょいと出て来るのよ。すると、あれはどこのおうちの人かしらと思うでしょう。それに、何だか高い所にいるような気がするでしょう――まるで、どこか違った世界に来たような。」
「私にも見せて。抱いてみせて!」
 セエラはロッティを抱き上げ、一緒に古いテエブルの上に立ちました。二人は天井の明りとりの窓から頭を出して、そこらを見廻しました。
 屋根裏の窓から外を見た経験のない方には、二人の眼に何が映ったか、想像もつかないでしょう。石盤スレート葺の屋根が、左右の両樋の方へなだれ落ち、雀等が、そこらを何の怖れもなさそうに飛び歩きながら、さえずっていました。そのうちの二羽は、すぐそこの煙突の先にとまって、大喧嘩をした末、一羽はそこから逐いたてられてしまいました。隣家となりは空家なので、屋根裏部屋の窓も閉っていました。
「あそこにも誰かが住んでいてくれるといい、と私思うのよ。」セエラはいいました。「近いから、あそこに娘さんでも住んでるとしたら、窓越しにお話も出来るわ。落ちる心配さえなければ、屋根から屋根へ行き来も出来ると思うの。」
 空は、往来から見上げた時より、ずっと近くに見えるので、ロッティは恍惚うっとりとなってしまいました。下界に起っているいろいろの事は、煙突にかこまれてこの窓からは、まるで嘘のように思われました。ミンチン先生も、アメリア嬢も、教室も、ほんとうにあるのかないのか、判らなくなって来ます。広場の車馬の響さえ、何か別の世界の物音のように聞えて来るのでした。ロッティは思わずセエラの腕にしがみつきました。
「セエラちゃん、私このお部屋好き――大好き。私達の部屋よりよっぽどいいわ。」
「あら、雀が来てよ。パン屑でもあれば、やりたいのだけど。」
「私、持っててよ。」
 雀は、屋根裏にお友達がいようとは思わなかったので、パン屑を投げられると、驚いて一つ向うの煙突の先へ飛び退きましたが、セエラがちゅっちゅっと雀の通りに口を鳴らしますと、雀はせっかくの御馳走に脅かされたのだと気づいたらしく、首を傾げてパン屑を見下しました。それまで、おとなしくしていたロッティは、こらえきれなくなりました。
「来るでしょうか?」
「来そうな眼をしてるわ。来ようか、来まいか、と迷っているのよ。あら、来そうだわ。ほら、来たわ。」
 雀は、しばらくためらって後、大きなかけらを素早くつまんで、煙突の向うへ飛び去りました。が、じき一羽の友を伴れて、戻って来ました。友はまた友を伴れて来ました。ロッティは[#「ロッティは」は底本では「ロィテッは」]うれしさの余り、初め部屋のみすぼらしさに胸を打たれたことなど忘れてしまいました。セエラ自身も、ロッティによって、今まで気づかなかったここの美しさを知りました。
「この部屋は、小さくて高いところにあるから、鳥の巣といってもいいわね。天井がかしいでいるのも面白いでしょう。こっちの方は低くて、頭がつかえそうね。私夜が明けると、床の上に坐って、窓から空を見上げるのよ。すると、窓はまるで四角な明るみの継布つぎみたいなのよ。お天気の日には、小さな薔薇色の雲がふわふわ浮いてて、手を伸したら届きそうなの。雨の日には雨だれの音が、何かいい事を話してくれてるようよ。星の夜は、継布の中にいくつの星が光ってるか、数えて見るの。あれっぱかしの所にずいぶんたくさんあってよ。それから、あの小さな炉にしたって、磨いて火を入れれば、素敵じゃないの。ね、そう考えてみると、ここだってずいぶんいい部屋でしょう。」
 そういわれると、ロッティも、セエラのいう通りのものが見えるような気がしました。セエラが描くものなら、何でもほんとうだと思いこむロッティでした。セエラは、なおつづけていいました。
「床には厚い、柔かい、青の印度絨毯を敷くとしましょう。それから、あそこの隅には、クッションを一杯のせた長椅子を置くとしましょう。椅子から手を伸すと取れるところに、本箱を置くの。炉の前には毛皮を敷くの。壁は壁掛と額とで隠してしまうの。小さいのでなきゃア似合わないけど、小さくても綺麗なのがあるわ。薔薇色の置ラムプが欲しいわね。真中にはお茶道具をのせたテエブル。丸い銅の茶釜が、炉棚ホップの上でちんちん煮立にえたってるの。寝台もすっかり変えなければ。それから、小雀達は窓に来て入ってもようござんすかというように、慣らしてしまうの。」
「セエラちゃん、私もここに来たいわ。」
 ロッティを送り出してしまうと、セエラには室内の惨めさが、前よりひどく思われました。セエラはしばらく足台の上に坐って、両手で顔をおおうていました。
「寂しい所だわ。世の中で一番寂しい所のように思えることさえあるわ。」
 ふと、セエラはことという微かな音を聞きました。見ると、大きな鼠が一匹、後肢あとあしで立って、物珍しげに鼻をうごめかしていました。ロッティの持ってきたパン屑が、そこらに散らかっていましたので、鼠はその匂いに惹かれて出て来たもののようでした。
 鼠はまるで、灰色の頬鬚ほおひげをはやした侏儒こびとのようでした。何か問うようにセエラをみつめているのでした。眼付が妙におどおどしているので、セエラはふとこんなことを考えました。
「鼠はきっと辛いに違いないわ、皆に嫌がられて。私だって、皆に嫌がられて、罠をかけられたりしたらたまらないわ、雀は、鼠とは大違いだわ。でも鼠は鼠になりたくてなったわけじゃアないのね。雀の方に生れたくはないかい? なんて聞いてくれる人があるわけじゃアないから。」
 鼠は、初めはセエラを怖がっているようでしたが、雀のような心を持っているとみえ、さっきの雀のように、だんだんパン屑の方に寄って来ました。
「おいで。私は罠じゃアないから。食べてもいいのだよ、可哀そうに。バスティユの囚人達は、鼠と仲よしになったっていうから、私もお前と仲よくなろうかしら。」
 どうして動物に物が解るのか。その訳は解りませんが、しかし、動物に物の解るのは事実です。ことによると世の中には言葉でない言葉があって、何にでも、それが通じるのかもしれません。ことによると、また世の中の事物には、何にでも、目に見えぬ魂があって、声も立てず、話し合うことが出来るのかもしれません。それはとにかく、鼠はセエラがこういった瞬間、もう安心だと思ったようでした。彼はそろそろとパン屑の方に行き、それを食べはじめました。彼は食べながら、さっきの雀のように、時々セエラの方を見て、どうもすみません、というような眼をしました。セエラは、それにひどく心を動かされました。
 それから一週間ほどたったある晩、アアミンガアドがそっと屋根裏へ忍び登って、戸を叩きますと、室内は妙にひっそりしていました。セエラは寝てしまったのかしら、といぶかっているところへ、ふいにセエラの低い笑い声が聞えて来ました。
「ほら、メルチセデク、それを持ってお帰り。おかみさんのところへお帰り。」
 そういうと、すぐセエラは戸を開きました。
「セエラさん、誰? 誰と話してたの?」
「お話してもいいけど、あなたびっくりして、声を立てたりしちゃア、駄目よ。」
 アアミンガアドは、その場であぶなく声を立てるところでした。見渡したところ、室内には誰もいないので、セエラはおばけと話していたのかと、アアミンガアドは思ったのでした。
「何か、怖いお話なの?」
「怖がる人もあるわ。私だって初めは怖かったけど、もう何でもないわ。」
「お化?」
「いやアだ。――鼠よ。」
 アアミンガアドは一飛に飛んで、寝台ベットの真中に坐りました。声は立てませんでしたが、怖さのあまり息をはずませていました。
「鼠? 鼠ですって?」
「慣れてるから怖かアないのよ。私が呼べば出てくるくらいよ。あなたさえ怖くなければ、呼んでみるわ。」
 アアミンガアドは、初めは怯えて寝台ベットの上で足を縮めてばかりいましたが、セエラが落ち着いた顔で、メルチセデクが初めて出て来た時の話をするのを聞いていると、だんだん鼠を見てみたくなりました。彼女は寝台ベットの端にのり出して来て、セエラが壁の腰板にある抜穴のそばに跪くのをじっと見ていました。
「そ、その鼠、ふいに駈け出して来て、寝台ベットの上に上って来たりしやアしなくって?」
「大丈夫。私達と同じようにお行儀がいいのよ。まるで人間のようだわ。さ、見てらっしゃい。」
 セエラは聞えるか聞えないほどに、口笛を吹きました。何か呪文をとなえるように、四五たび吹きました。すると、それを聞きつけて、灰色の頬鬚を生やした鼠が、眼をきらきらさせて、穴から顔を出しました。セエラがパン屑をやると、メルチセデクは静かに出て来て、それを食べました。彼は少し大きな屑を持って、小忙こぜわしげに帰って行きました。
「ね、あれは、おかみさんや子供達に持ってってやるのよ。えらいでしょう。自分は小さいのだけ食べるのよ。帰って行くと、うちのもの達がよろこんで、ちゅうちゅう大騒ぎよ。ちゅうちゅうにも三通りあるのよ、子供のちゅうちゅうと、メルチセデク夫人のちゅうちゅうと、それからメルチセデク君のちゅうちゅうと。」
 アアミンガアドは笑い出しました。
「セエラさんは変ってるわね。でも、いい方ね。」
「私変っていてよ。私はまたいい人になりたいと思ってるのよ。」セエラは小さな手で顔をこすりました。そして、やさしい少し悩ましい顔になりました。「パパもよく私を笑ったものだわ。でも、私笑われてうれしかったわ。私は変人だけど、私のいう出まかせは面白いと、パパは仰しゃってたわ。私、お話を作らずにいられないのよ。お話を作らずには生きていられないのよ。」セエラはちょっと口をつぐんで、部屋の中を見廻しました。「少くとも、こんなところに住んでいられるはずはないわ。」
 アアミンガアドは、だんだん惹き入れられて来ました。
「あなたが話すと、何でも、皆ほんとのように思えてくるわ。あなたは、メルチセデクのことを人間のように仰しゃるでしょう。」
「人間なのよ。あれは私達と同じように、ひもじくなったり、吃驚びっくりしたりするわ。それから結婚して、子供も持ってるわ。だから、あれだって私達のように、何も考えないとはいえないでしょう? あれの眼は、人間の眼のようだわ。だから私、あれに名をつけてやったのよ。」
 セエラは、いつものように膝を抱えて、床に坐っていました。
「それにあれは、私の友達としてつかわされたバスティユ鼠なのよ。」
「まだバスティユのつもりなの? いつでも、ここはバスティユだというつもりでいらっしゃるの?」
「たいていそのつもりよ。時とすると、どこか別の所のつもりにもなるけど、バスティユのつもりになら、すぐなれるわ。殊に寒い日などには。」
 ちょうどその時、アアミンガアドは寝台ベットからころがり落ちそうになりました。向うから壁をコツ、コツと叩く音を聞いたからでした。
「なアに? あれ?」
 セエラは立ち上って、お芝居の口調で答えました。
「あれこそは、隣の監房にいる囚人じゃ。」
「ベッキイのこと?」
「そうよ。こうなの、コツ、コツ、と二ツ叩くのは、『囚人よ、そこにいるのですか?』という意味なの。」
 セエラは返事でもするかのように、こちらから壁を三度叩きました。
「ね、これは、『はいおります。別に変りはありません。』という意味なの。」
 すると、ベッキイの方から、コツ、コツ、コツ、コツと、四つ叩く音がしました。
「あれは、こうなの、『では、同胞きょうだいよ、安らかに眠りましょう。お休みなさい。』」
 アアミンガアドは、うれしさのあまり眼を輝かせました。
「まるで、何かのお話みたいね。セエラさん。」
「みたいじゃアなくて、ほんとにお話なのよ。何だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし――私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっぱり物語だわ。」
 セエラはまた床に坐って話し出しました。アアミンガアドは、自分がいわば脱走囚のようなものだということなぞ忘れて、セエラの話に聞きとれていました。で、セエラは彼女に、このバスティユに夜通しいてはならないから、そっと梯子を降りて、自分の寝室ベットへ行くように、注意しなければなりませんでした。

十 印度の紳士


 が、アアミンガアドやロッテイは、そう毎晩屋根裏に忍んで行ったわけではありません。セエラはいつ行っても屋根裏にいるというわけではありませんし、抜け出たあとをアメリア嬢に見舞われるおそれもないではありませんでした。で、セエラはたいてい一人ぼっちでした。彼女は屋根裏に一人いる時よりも、階下したで皆の間にいる時の方が、よけい一人ぼっちな気がしました。
 プリンセス・セエラとして馬車に乗り、女中を従えていた時には、よく通りがかりの人が振り返って見たものでしたが、今は、使つかいに出歩くセエラを、眼にとめるものもありませんでした。ぐんぐん脊丈せたけは伸びて行くのに、古い着残りしかないので、形の整わないのはもとよりのことでした。セエラは時々商店の鏡に映る自分の姿をちらと見て、思わず吹き出すこともありましたが、時とすると顔を紅らめ、唇を噛んで、逃げ出さずにはいられませんでした。
 日が暮れて、窓の中に灯がともると、セエラは通りがかりに暖かそうな部屋を覗いて見るのが常でした。火の前に坐ったり、テエブルを囲んで話したりしている人達を見て、彼女は、よくその人達のことを想像してみるのでした。ミンチン女塾のある一劃いっかくには、五つか六つの家族が住んでいました。セエラはそれぞれの家族と、彼女の空想の中で親しくなっていました。その中で一番好きな家族を、セエラは『大屋敷おおやしき』と呼んでいました。というわけは、そのうちの人が大きいからではなく、その家には人がたくさんいるからでした。そのたくさんの人達は、大きいどころか、子供の方が多いくらいでした。肥った血色のいいお母さんと、肥った血色のいいお父さんと、これもまた肥った血色のいいお祖母さんと、八人の子供と、たくさんの召使と――これが『大屋敷』の人達でした。大屋敷のほんとうの名は、モントモレンシイというのでした。
 ある晩のことでした。非常に滑稽なことが持ち上りました。もっとも、考えようによっては、ちっとも滑稽なことではなかったかもしれません。
 セエラがモントモレンシイ家の前を通りかかると、子供達はどこかの夜会へでも出かけるらしく、ちょうど舗道ペーヴメントを横切って馬車の方へ歩いていくところでした。二人の女の子は、白いレエスの服に美しい飾帯サッシを着けて、先に馬車へ乗りました。それにつづいて、五歳の少年ギイ・クラアレンスが乗りこもうとしていました。少年の頬は紅く、眼は青で、丸い可愛い頭は巻毛に被われていました。あまり美しいので、セエラは手籠を持っていることも、自分の身装みなりのみすぼらしいことも――何もかも忘れ、もう一目少年を見たい気持で一杯になりました。で、彼女は思わず立ち止って、少年を眼で追いました。
 ちょうど降誕祭こうたんさいの前でしたので、大屋敷の人達は貧しい子供達の話をいろいろ聞いていました。ギイ・クラアレンスは、その日そんな話を読んで涙ぐんだほどでした。で、彼はどうかしてそんな子を見付け、持合せの二十銭銀貨を施したいと思っていたところでした。彼はその二十銭で、貧しい子の一生が救えるものと思っていたのでした。彼が姉につづいて馬車へ乗ろうとした時にも、その銀貨はポケットの中にありました。乗ろうとしてクラアレンスは、ふとセエラが餓えたような眼で自分を見ているのに気づいたのでした。
 セエラが餓えたような眼をしていたのは、この少年に抱きついて接吻せっぷんしたいからでした。が、少年は、セエラが一日中何にも食べなかったから、そんな眼をしているのだろうと思いました。で、彼はポケットに手を入れ、銀貨を持って、セエラの方へ歩いて行きました。
「可哀そうに。この二十銭を上げるよ。」
 セエラはびっくりしました。が、すぐ、今の自分は、昔自分が馬車に乗るのを見上げていた乞食娘にそっくりだと気づきました。セエラも、よくそうした娘達に銀貨を施してやったものでした。セエラは一度紅くなってから、また真蒼になりました。セエラはそのなさけのこもった銀貨に、手も出せないような気がしました。
「あら、たくさんでございます。わたくし、ほんとうにいただくわけはございません。」
 セエラの声は、そこらの乞食娘の声などとは似ても似つかぬものでしたし、ものごしも良家の令嬢そっくりでしたので、馬車の中の少女達はのり出して耳を傾けました。
 が、ギイ・クラアレンスは、せっかくの施しをやめるのがいやでしたので、銀貨をセエラの手の中に押しこみました。
「君、とってくれなくちゃア困るよ。これで、何か食べるものでも買いたまえ。二十銭あるんだからね。」
 少年は、非常に親切な顔をしていました。セエラがこの上拒みでもすると、ひどく気を落しそうなので、セエラは素直にお金を取らなければ悪いと思いました。で、ようよう我を折りはしましたが、頬は真赤に燃えました。
「ありがとう。坊ちゃんはほんとうに御親切な、可愛い方ね。」
 少年が悦ばしげに馬車へとびこむのを見ると、セエラもそこを去りました。息苦しいけれど、ほほえみたい気持でした。彼女の眼は霧の中できらきら光っていました。セエラは自分が妙な恰好かっこうをしていること、みすぼらしいことは、前からよく知っていましたが、乞食に間違えられようとは思いもよりませんでした。
 走り出した馬車の中で、大屋敷の子供達ははしゃいで、しゃべり出しました。
「どうして、お金なんかやったの?」ジャネットはギイ・クラアレンスにいいました。「あのは乞食なんかじゃアないと思うわ。」
 ノラもいいました。
「口の利き方だって、乞食みたいじゃアなかったわ。顔も乞食のとは見えなかってよ。」
「それに、おねだりしたわけでもないじゃアないの。」ジャネットはいいつづけました。「私、あの娘が怒りゃアしないかと思って、はらはらしていたのよ。乞食でもないのに、乞食と見られたら、腹の立つのがあたりまえだわ。」
「でも、あの娘は怒ってやしなかったよ。」と少年はいいました。「あの娘はちょいと笑って、あなたはほんとに親切な、可愛い方だといったよ。その通りさ。僕は僕の持ってるだけをやったんだもの。」
 ジャネットとノラは眼を見合せました。
「乞食の子なら、そんなことはいうはずがないわ。『おありがとう、旦那様、おありがとうございます』っていう風にいって、ぴょこぴょこ頭を下げるはずだわ。」
 セエラはそんな話があったとは、知るよしもありません。が、その時以来、大屋敷の人達は、セエラが大屋敷に感じているような興味を、セエラに対して持ちはじめていたのでした。セエラが通りますと、子供部屋の窓に、子供達の顔がいくつも現れました。皆はよく炉のまわりでセエラのことを話し合いました。
「あの子は、学校で小使娘みたいなことをしているらしいのよ。」と、ジャネットはいいました。「誰もめんどうを見てやるものはないようよ。きっと孤児みなしごなのだわ。でも、決して乞食じゃないことよ。なりは汚いけど。」
 で、それからはセエラを『乞食じゃアない小さな女の子』と呼ぶようになりました。あまり長い名なので、小さい子達が急いでいうと、ひどく滑稽に聞えました。
 セエラは、あの銀貨に工夫して穴をあけ、細いリボンの切端きれはしを穴に通して、首に掛けました。セエラは、大屋敷がだんだん好きになりました。好きなものは何でもますます好きになるのが、セエラの癖でした。ベッキィにしても、雀達にしても、鼠の家族にしても――エミリイに対しては、殊にそうでした。セエラは前から、エミリイには何でも解ると思っていたのでしたが、時とすると、今にもエミリイが口をきき出しはしまいかと思われるのでした。が、エミリイは何を訊ねられても、返事だけはしませんでした。
「返事といえば、私だってよく返事をしないことがあるわ。はずかしい目にあった時などは、黙って皆を見返して考えていると、一番いいのよ。いかりくらい強いものはないけど、怒をじっと我慢しているのはなお偉いわ。だから、苛める人達には返事をしないに限るわ。殊によるとエミリイは、私自身が私に似ているよりよけいに、私に似ているのかもしれないわ。エミリイは味方にさえも返事なんかしない方がいいと思っているのかもしれないわ、何もかも自分の胸一つに包んで。」
 そう思いはしましたが、あまり酷い目にあったり、恥しい目にあったりすると、ただ棒のように立っているきりのエミリイを、生きてるものと想って、自分を慰めるのも、莫迦らしくなって来ることがありました。
 ある寒い晩のことでした。セエラは空いたお腹をかかえ、煮えくりかえるような胸を抱いて、屋根裏へ帰って来ました。と、エミリイは今までにないうつろな眼をして、鋸屑おがくずを詰めた手足を棒のように投げ出しているのです。たった一人のエミリイまでこんなでは――セエラはがっかりしてしまいました。
「私は、もうすぐ死んでしまうよ。」
 そういわれても、エミリイは、うつろな眼を見開いているばかりでした。
「もう我慢が出来ないわ。寒いし、着物は濡れてるし、お腹は死にそうに空いているんだもの。死ぬにきまってるわ。朝から晩まで、まア何千里歩いたことだろう。それなのに、料理番の要るものが見付からなかったからといって、晩御飯を食べさせてくれないの。ぼろ靴のおかげで、私がすべったら、皆は私をわらうのよ。私は泥まみれになってるのに、皆はげらげら笑ってるのさ。エミリイ、わかったかい?」
 エミリイの硝子玉ガラスだまの眼や、不服もなさそうな顔付を見ると、セエラは急にむかむかして来ました。彼女は小さい手を荒々しく振り上げて、エミリイを椅子から叩き落しますと、急に欷歔すすりなきはじめました。セエラが泣くなどとは、今までにないことでした。
「お前はやはり、ただの人形なのね。人形よ、人形よ。鋸屑のつまってる人形に、何が感じられるものか。」
 ふと、壁の中にただならぬ物音が起りました。メルチセデクが誰かを折檻せっかんしているのでした。
 セエラの欷歔すすりなきはだんだんおさまって来ました。こんなにへこたれるのは、いつもの自分らしくない、とセエラは意外に思いました。彼女は顔をあげて、エミリイの方を見ました。エミリイは横眼を使ってセエラの方を見ているようでした。その眼は硝子玉にはちがいありませんでしたけれど、何かセエラに同情しているようでした。彼女は身をかがめて人形を抱き上げました。悪かったという気持で、胸が一杯でした。
「お前が人形なのは、あたりまえだわね。お前は鋸屑なりに、出来るだけのことはしているのかもしれないわね。」
 そういいながら、セエラはエミリイに接吻し、着物の皺を伸して、いつもの椅子の上にかけさせてやりました。
 前からセエラは、隣の空家に誰か住めばいいのにと思っていました。というのは、そのうちの屋根裏の窓が、セエラの部屋のすぐ向うにあるからでした。その窓が開かれて、四角い口から誰かの頭や肩が出て来たら、どんなにいいだろうと思われました。
「立派な顔の人だったら、こっちから挨拶してみよう。でも、こんな屋根裏には、召使のほかいるはずはないわね。」
 ある朝、セエラがお使から帰って来ますと、引越の荷車がそのうちの前に止っていました。セエラは運びこまれる家具の類から、そこに住むのがどんな人か、たいてい想像のつく気がしました。
「お父様と初めて来た時、ここのお道具はミンチン先生そっくりだ、と思ったことがあったわ。大屋敷にはきっと、むくむくした肱掛椅子ひじかけいすや、寝椅子ソファーがあるに違いないわ。あの紅い壁紙の色だって、大屋敷の人達のように温かで、親切そうで、幸福そうに見えるわ。」
 引越の荷車からは、丹念に加工した麻栗樹チイクテーブルや、東洋風に縫取ぬいとりの施してある衝立ついたてなどが下されました。それを見ると、セエラは妙に懐郷的ノスタルジャーな気持になりました。彼女は印度にいた時には、よくそうしたものを見たものでした。ミンチン先生に取り上げられたものの中にも、彫刻のある麻栗樹チイクの机が一つあったのでした。
「綺麗なお道具だこと! きっとこれを持ってるのは立派なお方よ。大がかりなところもあるから、お金持なのかもしれないわ。」
 その家具には、どこか東洋的なところがある上、立派な仏殿ぶつだんに入った仏像が一つ運び出されたのを見ると、このうちの人は印度にいたことがあるに違いありません。
「屋根裏の窓から首を出す人はないかもしれないけど、このうちの人とは、何だかもう親しいような気がするわ。」
 夕方牛乳を運び入れる時、セエラは大屋敷の御主人が、新しく越してきたうちへ入って行くのを見かけました。そのうち出て来て、人夫達に指図をしたりするのでした。きっと大屋敷とこのうちとは親しい間柄なのでしょう。
「子供があれば、大屋敷の子供達も、きっとこのうちに遊びに来るわ。そして、面白がって屋根裏へ登って来ないとも限らないわ。」
 その晩、セエラのところに来たベッキィは、こんなことをいいました。
「お嬢さん、お隣に越して来たのは、印度の人ですってさ、色は黒いかどうか知らないけど。大変なお金持で、大屋敷の旦那様は、その方の弁護士なんですって。あまり心配事があったので、身体を悪くしてしまったのですって、あの人は、木や石を拝む邪宗徒なのよ。何か妙な偶像を運んで行くのを、私見てよ。」
「でもそれは、拝むわけじゃアないんでしょう。仏像にはいいものがあるから、拝むためじゃアなく、眺めるために持ってる人があるのよ。うちのお父様も、一ついいのを持ってらしったわ。」
 ある日、一台の馬車がそのうちの前に止りました。馭者ぎょしゃが戸を開けると、大屋敷の父親や、看護婦が下りました。すると、玄関から下男げなんが二人駈け降りて来ました。馬車から助け下された印度の紳士は、骸骨がいこつのように痩せ衰えた体を毛皮で包んでいました。大屋敷の主人はひどく心配そうでした。まもなく、お医者様の馬車が着きました。
 その日、セエラがフランス語の組に出た時、ロッティはそっといいました。
「セエラちゃん、お隣には黄色い顔の小父おじさんがいるのね。支那人しなじんかしら? 地理の本には、支那人は黄色い顔をしている、と書いてあったけれど。」
「支那人じゃアないことよ。あの小父さんは、大変おからだが悪いのよ。――さア、練習問題をおやんなさい。『ノン・ムシウ。ジュネ・パ・ル・カニフ・ド・モンノンクル。』(いいえ、私は伯父さんのナイフを持っていません。)」
 そうして、それから印度紳士の話が始まりました。

十一 ラム・ダス


 時とすると、広場で見る夕焼ゆうやけもなかなか美しいものです。が、街からは、屋根や煙突に囲まれたほんの少しの空しか見えません。台所の窓からは、そのほんの少しも見えはしないでしょう。壮麗そうれいな夕焼の空をくまなく見渡すことのできるのは、何といっても屋根裏の天窓ひきまどです。セエラは夕方になると、用の多い階下からそっとぬけて来て、屋根裏部屋の机の上に立ち、窓から頭を出来るだけ高く出して見るのでした。大空はまるでセエラ一人のもののようでした。どの屋根の上にも、空を眺めている人の頭は見えませんでした。セエラは一人何もかも忘れて、いろいろの形にかたまったり、解けたりする雲を、見つめていました。
 ある夕方、セエラはいつものようにテエブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は金色こんじきの光に被われ、地球の上に金のうしおを流しているようでした。その光の中に、飛ぶ鳥の姿が黒々と浮んで見えました。
「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起るのじゃアないかしら。」
 とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振返ると、お隣の窓が開いて、白い頭布タアベンを捲いた印度人の頭が、続いて白衣びゃくえの肩が出て来ました。――「東印度水夫ラスカアだ。」と、セエラはすぐ思いました。――彼の胸もとには、一匹の小猿がまつわりついていました。さっき聞いた妙な音は、小猿の声だったのでした。
 セエラが男の方を見ると、男もセエラを見返しました。男の顔は悲しげで、故郷ふるさと恋しいというようでした。霧の多いロンドンでは、めったに太陽を見ることが出来ないので、男はきっと印度で見なれた太陽を見に上って来たのでしょう。セエラはまじまじと男を見て、それから屋根越にほほえみました。セエラは辛い日を送って来た間に、たとい知らぬ人からでも、ほほえみかけられるのはうれしいということを、身にみて感じていたのでした。
 セエラの微笑ほほえみは、男を喜ばしたに違いありません。彼は夕闇ゆうやみのような顔をぱっと輝かして、白い歯並を見せて笑いました。
 猿は男が挨拶しようとした隙に、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セエラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セエラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に――あのラスカアが主人なら、あのラスカアに――返してやらなければならないと思いました。が、セエラはどうして猿を捕えたらいいか、判りませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セエラは、昔ならい覚えた印度の言葉で、
「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。
 男は、セエラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セエラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。
「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」
「造作ないことです。」
「じゃア来てちょうだい。怯えて向うへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」
 ラム・ダスは、天窓からするりと屋根の上に上ると、生れてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身も軽々とセエラの方へ渡って来ました。彼は[#「彼は」は底本では「後は」]足音も立てず、天窓からセエラの部屋にすべりこみ、セエラに向き直って、印度流の額手礼サラアムをしました。猿はラム・ダスを見ると小さな叫声さけびごえを揚げました。が、彼が天窓を閉めて捕えにかかると、戯談じょうだんにちょっと逃げ廻って、すぐラム・ダスの首にかじりつきました。
 ラム・ダスは、セエラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セエラに向っては何にも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼はじき暇を告げました、「病気の御主人は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。
 ラム・ダスが去ったあと、セエラはしばらく屋根裏部屋の真中に立ったまま、思い出に耽っておりました。セエラはラム・ダスの印度服や、うやうやしげな態度を見ると、印度にいた時のことを思い起さずにはいられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセエラが、かつてはたくさんの召使にかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセエラが相当の年になるのを待って、たくさんの組を受け持たせるでしょう。そのつとめが、今の雑用より楽だとは思えません。着るものなどは先生らしくさせられるかもしれませんが、それとてきっと女中の着るようなひどいものでしょう。これから先、何かよい方に変化が起って、再び幸福な身分になろうとは、セエラにはどうしても思えませんでした。
 ふと、また何かを思いついたので、セエラの頬は紅くなり、眼は輝き出しました。彼女は痩せた身体をしゃんと伸し、顔を起しました。
「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくら私が襤褸ぼろや、古着を着ていても、私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣裳を着て宮様プリンセスになっているのは容易たやすいけど、どんなことがあっても、見ている人がなくても、宮様プリンセスになりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ。マリイ・アントアネットは玉座を奪われ、牢に投げこまれたけど、その時になってかえって、宮中にいた時よりも、女王様らしかったっていうわ。だから、私マリイ・アントアネットが大好き。民衆がわアわア騒いでも、女王はびくともしなかったそうだから、女王は民衆よりずっと強かったのだわ。首を斬られた時にだって、民衆に勝ってたんだわ。」
 この考えは、今考えついたわけではありません。セエラはいままででも、辛い時には、いつもこの事を考えて、自分を慰めていたのでした。ミンチン先生にひどいことをいわれる時など、セエラは心の中でこういいながら、黙って先生を見返しているのでした。
「先生は、そんなことを、宮様プリンセスにいってるのだということを御存じないのね。私がちょっと手を上げれば、あなたを死刑にすることだって出来るのですよ。私は宮様プリンセスなのに、先生は愚かな、意地悪なお婆さんなのだと思えばこそ、何といわれても、赦してあげているのよ。」
 セエラは宮様プリンセスである以上、礼儀深くなければいけないと思いましたので、ミンチン先生はもとより、召使達が彼女にどんなひどい事をした時も、決して取り乱した様子などしませんでした。
「あの若っちょは、バッキンガムの宮殿からでも来たみてエに、いやにもったいぶってやがる。」と、料理番も笑ったほどでした。
 ラム・ダスとお猿の訪問を受けた次の朝、セエラは教室で、下の組の少女達にフランス語を教えていました。授業時間が終ると、セエラは教科書を片付けながら、御微行ごびこう中の皇族方がさせられたいろいろの仕事のことを考えていました。――アルフレッド大帝は、牛飼のおかみさんにお菓子を焼かされ、横面よこつらを張りとばされました。牛飼のおかみさんは、あとで自分のした事に気づいて、どんなに空恐ろしくなったでしょう。もしミンチン先生に、セエラがほんとうの宮様みやさまだと解ったら、先生はどんなに狼狽あわてるでしょう。――その時のセエラの眼付がたまらなかったので、ミンチン先生は、いきなりセエラの横面を張りとばしました。今考えていた牛飼の女のした通りのことをしたわけです。セエラは夢から醒めて、この事に気がつくと、思わず笑い出しました。
「何がおかしいんです。ほんとにずうずうしい子だね。」
 セエラは、自分が宮様プリンセスだったということをはっきり思い出すまで、ちょっとまごまごしていました。
「考えごとをしていたものですから。」
「すぐ『御免なさい』といったらいいだろう。」
 セエラは答える前に、ちょっと躊躇ためらいました。
「笑ったのが失礼でしたら、私あやまりますわ。でも、考えごとをしていたのは、悪いとは思えません。」
「いったい何を考えていたのだい? え? お前に、何が考えられるというのさ。」
 ジェッシイはくすくす笑い出しました。それからラヴィニアと肱をつつきあいました。ミンチン先生がセエラに喰ってかかると、生徒達は皆面白がって見物するのでした。セエラは何と叱られても、少しもへこたれないばかりか、きっと何か変ったことをいい出すのです。
「私ね――」と、セエラは丁寧にいいました。「私、先生は御自分のなすってることが、何だか御存じないのだろうと、考えていたのです。」
「私のしていることが、私に解らないっていうのかい?」
「そうです。私が宮様プリンセスで、先生が宮様プリンセスの耳を打ったりなどなさったら、どんなことになるかしら――私は宮様プリンセスとして、先生をどう処置したらいいだろうか、と思っていたところです。それから、私が宮様プリンセスだったら、先生は私が何をしようと、耳を打つなんてことは、なさらないだろうと思っていました。それからまた、お気がついたら、先生はどんなに驚いて、お狼狽あわてになるだろうと――[#「――」は底本では「―」]
「何、何に気がついたらというんですよ。」
「私が、ほんとうの宮様プリンセスだということに。」
 教室にいるだけの少女達の眼は、お皿のようになりました。ラヴィニアは席から乗り出して来ました。
「出て行け。たった今、自分の部屋に帰れ。皆さんは傍見よそみせずに勉強なさい。」
 セエラはちょっと頭を下げ、
「笑ったのが失礼でしたら、御免下さい。」といい残して、教室を出て行きました。
「皆さん、セエラを見て? あの子の、妙な様子を見て?」ジェッシイがまず口を開きました。
「私だけは、セエラは身分のある子だということが今にわかっても、ちっとも驚きゃアしないわ。もしあの子がえらくなったら、どうでしょう。」

十二 壁を隔てて


 壁つづきに出来た家並やなみの中に住んでいますと、壁のすぐ向うの物音に、つい気をとられるものです。印度の紳士のうちは、セエラの学校と壁一つでつながっていますので、セエラはよく紳士の生活を空想して、心を楽しませました。教室と、紳士の書斎とは、背中合せになっていますので、セエラは放課後など、やかましくはないだろうかと心配しました。音の通らないように、壁が厚く出来ていればいいがとも思いました。
 セエラは、印度の紳士がだんだん好きになりました。大屋敷が好きになったのは、家族が皆幸福そうだったからでしたが、印度の紳士は不幸そうに見えたので、好きになったのでした。紳士は何か重い病気がなおりきらない風でした。台所の人達の噂によると、彼は印度人ではなく、印度に住んでいたイギリス人で、非常な失敗のため、一時は命までも失いかけたというのでした。彼の事業というのは、鉱山に関したものだそうでした。
「その鉱山やまからダイヤモンドが出るんだとさ。」と、料理番はいいました。「鉱山やまなんてものはなかなか当るもんじゃアないさ。殊に、ダイヤモンドの鉱山やまなんてものはね。」彼は横眼でセエラをじろりと睨みました。「わしらは、誰だって、そんな事ぐらい知ってるさ。」
「あの方は、お父様と同様の目におあいになったのだわ。」と、セエラは思いました。「それから、お父様と同じ病気におかかりになったのだわ。ただあの方は生き残ったばかりだわ。」
 こうしたことから、セエラの心はますます印度の紳士の方へ惹き寄せられて行きました。夜お使に出される時など、窓から、あのお友達の姿が見られるかもしれないと思うと、何となしにいそいそしました。そこらに人影のない時には、セエラは鉄の格子につかまって、彼に聞かすつもりで、「お休みなさい」といって見たりしました。
「聞えないにしても、きっと何かお感じにはなるわ。あたたかい気持ってものは、窓とか、壁とか、そんな障碍物しょうがいぶつを越えて、相手の心に通じるものだと思うわ。貴方はなぜか、和んで温くなるような気がなさりはしない? 私が外で、御病気のよくなるように祈っているからよ。私、あなたがお気の毒でならないの。お父様が頭の痛む時してあげたように、私、あなたの『小さい奥様』になって慰めてあげたいわ。お休みなさい、安らかに。」
 セエラはそういうと、セエラ自身温められ、慰められるのが常でした。
「あの方は、今あの方を苦しめているもののことを、考えていらっしゃるようだわ。でも、もう失ったお金は戻ってきたのだし、御病気だってじきによくおなりになるのだから、あんな悩ましい顔をなさってるはずはないのに。きっと何か、別の御心配があるのよ。」
 もし別の心配があるとすれば、あの大屋敷のお父さんだけは知っているはずだ、とセエラは思いました。モントモレンシイ氏は、よく印度の紳士を訪ねました。モントモレンシイ夫人も、子供達も、時々紳士を訪問しました。病人は、上の二人の女の子――あのセエラがお金をもらった時、馬車の中にいたジャネットとノラを可愛がっているようでした。病人は、子供に対して――殊に小さい女の子に対して、やさしい気持を持っているようでした。ジャネットとノラも、非常に病人になついていました。
小父様おじさまは、お気の毒な方なのよ。私達が行くと、小父様は元気が出るのですって。だから、静かにしていて、元気のつくようにしてあげなければならないわね。」
 ジャネットは長女でしたので、弟や妹が暴れ出さないように、気をつけていました。病人の様子を見て、よい時には印度の話をしてもらったり、疲れたようだと思うと、あとをラム・ダスに頼んでそっといとまを告げたり、そんな気使いをするのもジャネットでした。子供達は皆ラム・ダスが好きでした。ラム・ダスに英語が話せたら、きっと面白い話をたくさんしてくれるだろう、と思っていました。
 印度の紳士は、名をカリスフォドといいました。ある時、ジャネットが彼に『乞食じゃアない小さな娘』に出会った時の話をすると、カリスフォド氏はひどく心を惹かれたようでした。更にラム・ダスが、彼女の屋根裏部屋で猿を捕えた話をすると、ますます心を動かされたようでした。ラム・ダスは、屋根裏部屋の中の様子を、目に見えるように話しました。その話を聞くと、カリスフォド氏は大屋敷の主人にいいました。
「カアマイクル君、この近所には、そんなひどい屋根裏がきっとたくさんあるのだろうね。そして、たくさんの惨めな少女達は、そんな堅い寝床にねているわけだね。それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷にひしがれ、悩まされぬいているのだ。しかも、その財産というのは、大部分私のものじゃアないのだ。」
「いや、しかし。」カアマイクル氏は元気づけるようにいいました。「そう自分ばかり責めるのは、早くめた方が、あなたのためにいいですよ。たとい貴方が、全印度の富をことごとく持ってらしったところで、世の中からわざわいをなくすわけにはいかないでしょう。この近所の屋根裏部屋をことごとく改築したところで、他の方面の屋根裏部屋は、やはり惨めな状態にあるということになりますからな。それまで改築しようっていうのは、無理ですよ。」
 カリスフォド氏は、炉の火をみつめて坐ったまま、爪を噛んでいました。
「どうだね。あの例の子が――私の忘れたことのないあの子が――ひょっとして――いやほんとに、隣家となりのその気の毒な娘みたいな境涯きょうがいにおちこむようなことも、ないとはいえないだろう。」
「もし、パリィのパスカル夫人の学校にいた子が、あなたの捜している娘だとすると――」カアマイクル氏は、宥めるようにいいました。
「あの子は、何不自由なく暮しているはずですね。そのロシヤ人は、非常な金持で、死んだ自分の娘と仲よしだったというので、あの子をもらい受けたという話ですからね。」
「そして、パスカルという女は、あの子がどこへ伴れて行かれたかは、ちっとも御存じないのだからな。」
 カアマイクル氏は、肩をすぼめました。
「何しろ、あの女は抜目のない、俗物のフランス女ですからね。父親を失って、仕送りの絶えたあの子を、うまい具合に手離すことが出来たので、大よろこびだったらしいですよ。すると、養父母達は、あとかたも見せず行方をくらましてしまったわけさ。」
「だが、君は、その子が、もし私の捜している子であったら、というんだろう。『もしも』とね。『確かに』じゃアないんだ。それに、名前も少し違うっていうじゃアないか。」
「パスカル夫人は、カルウと発音したようです。――が、ちょっと発音を間違えただけじゃアないのですかね。境遇は不思議なほどよく似ています。印度にいる英国士官が、母のない娘の教育を頼んだというのですからね。しかも、その士官は破産して死んでしまったというのですからね。」カアマイクル氏は、ふと何かを思いついたらしく、ちょっとの間口を噤んでいました。「が、娘は確かにパリイの学校に入れられたというのですか。確かにパリイだったのですか?」
 カリスフォド氏はいらいらと、せつなそうに口を開きました。
「いや君、私には何一つ確かなことはないんだ。私はその子も、その子の母というのも見たことはないのだからね。ラルフ・クルウとは、少年時代には親友だったが、学校を出てから、印度で会うまで、ずっと離れ離れだったのだからね。私は、大仕掛な鉱山の計画に没頭していた。あの男も夢中になっていた。だから、二人は会えばほとんどその話ばかりしていた。知っているのはただ、その子がどこかの学校に入っているという事だけなのだ。だが、どうしてその事を知ったか、それも、今は思い起すことが出来ない。」
 カリスフォド氏は昂奮して来ました。彼は、病後の頭で、失敗当時のことを考え出すと、きまって昂奮して来るのでした。
 カアマイクル氏は、心配そうに病後の人を見守っていました。大事なことを訊かなければならないのでしたが、今の場合十分注意して、静かに訊ねなければならないのでした。
「でも、学校は、パリイだとお考えになる理由はあるのですか。」
「ある。というのは、あの子の母はフランス人だった! それに、母親は、娘をパリイで教育したがっていた、と聞いたことがある。」
「すると、パリイにいそうですな。」
 印度の紳士は、身体をのめり出させ、長い骨ばかりの手で、テエブルを叩きました。
「カアマイクル君、私はどうしてもその娘を見付け出さにゃアならん。生きてるなら、見付かるはずだ。その娘がひとりぼっちで一文無になってでもいたら、私が悪いからだということになる。こんな煩いが心にあるのに、何でのんきな顔をしていられる? 我々の夢が実現されて、ふいに幸運が舞いこんで来たというのに、あの娘は往来で物乞いをしているかもしれないのだ。」
「いや、そう昂奮なさらないで。あの子が見付かりさえすれば、一財産渡してやれるのだと思って、お気を静めて下さい。」
「あれは、いつも娘のことを『小さい奥様』と呼んでいた。だが、あの鉱山奴やまめのおかげで、我々は何もかも忘れてしまったのだ。あれは娘の学校の話をしたかもしれない。が、私は忘れてしまった。すっかり忘れてしまった。どうしても思い出せない。」
「しかし、まだその娘を見付けることは出来ます。パスカル夫人の所謂いわゆる『御親切なロシヤ人』の捜索を続けるんですな。あの女は、何だかモスコウにいるような気がするといっていましたよ。それを手がかりとして、とにかく、私はモスコウへ行ってみることにしましょう。」
「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルウ大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付だ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。君、あれがどんなことを訊くと思う?」
「よくわかりませんね。」
「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥様はどこにいるのだい?』とね。」彼はカアマイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あの娘を見付けてくれ。頼む。」
          *        *        *
              *        *        *
 壁の向うでは、セエラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。
「メルチセデクや、今日という今日は、宮様プリンセスつもりも辛かったわよ。いつもどころの辛さじゃアなかったわよ。だんだん寒くなって、往来がじめじめして来ると、私の務は辛くなるばかりだわ。ラヴィニアったら、私が裾を泥んこにしているって、嗤うのよ。私、思わずかっとして、あぶなく何かやり返してやるところだったけど――でも、やっと我慢したの。かりにも宮様プリンセスが、ラヴィニアみたいな下等な人の相手になるわけにはいきませんものね。でも、舌でも噛まなきゃア我慢出来なかったわ、私自分の舌を噛んだの。今日はおひるすぎから、とても、寒くなったのね。今夜も寒いわ。」
 ふと、セエラは黒髪を両手の中にうずめました。彼女は一人だと、よく頭を抱えるのでした。
「ああお父様、もうずいぶん昔だわね、私がお父様の『小さな奥様』だったのは。」
 同じ日のうちに、壁の向うとこちらとに、こんなことが起ったのでした。

十三 人の子


 惨めな冬でした。セエラは幾日となく雪を踏んで使に出ました。雪解ゆきどけの日は、更に使い歩きが辛いのでした。かと思うと、ひどい霧の日が続きました。そんな時、街路は幾年か前セエラが初めて父と辻馬車を走らせた時のようでした。そんな日には、あの大屋敷の窓は、殊にも居心地よさそうに見えました。印度紳士のいる書斎は、いかにも温かそうでした。それにひきかえ、屋根裏部屋の暗さといったらありませんでした。もう眺めようとしても、夕焼や日の出は見られませんでした。星もあるとは思えませんでした。雲は低く、泥のような灰色でした。霧はなくても四時にはもう日が暮れた感じで、蝋燭なしには、梯子を登ることも出来ませんでした。台所の女中達も、気がくさくさするとみえ、ますます辛くあたりました。ベッキイはまるで奴隷の子のように逐い使われました。
「お嬢様、あんたでもいなかった日には――あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもりだのがなかった日には、私死んじまいそうだわ。この頃はここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守頭みたいになってくるし、私、いつかお嬢様の仰しゃった大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢様、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」
「何かもっと温かいお話がいいわ。」セエラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、寝台の上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」
「そのお話の方が温かいことは温かいわ。でも、お嬢様が話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」
「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私こう思うのよ。心の職務つとめは、身体が可哀そうな状態にある時、何かほかへ気を向けさせるようにすることだと。」
「そんなこと、あんたに出来て?」
「出来ることもあるし、出来ないこともあるわ。この頃幾度もそんな経験をしたので、前よりはずっと出来やすくなったわ。何かたまらないことがあると、私いつでも一生懸命、自分は宮様プリンセスだと考えてみるの。『私は、妖精フェアリイ宮様プリンセスだ、妖精フェアリイの私を傷けたり、不快にしたり出来るものがあるはずはない。』私自分にそういってみるの。そうするとなぜだか、いやな事は皆忘れてしまってよ。」
 そのうち、こんなことが起りました。四五日雨の続いた後で、町は肌を刺すように寒く、ぬかるみの上に物憂い霧がたてこめていました。そんな日に限って、セエラは何度となく使に出されるのでした。濡れそぼれて帰ってくると、ミンチン先生は何かの罰だといって、御飯も食べさせてくれませんでした。餓え、凍え、顔までつめられたような色になったセエラは、道行く人の同情を惹くくらいでした。が、彼女は同情の眼で見られているのも知らず、力の限り『つもり』になろうと努力していました。
「私は乾いた服を着ているつもりになろう。満足な靴を穿き、長い厚い外套を着、毛の靴下を穿き、漏らぬ雨傘を持っているつもりになろう。それから、それから――焼きたてのパンを売ってる店のそばまで来ると、二十銭銀貨が落ちていたとする。そしたら、私は店へ入って、ふうふういうような甘パンを買って、息もつかずにぺろぺろと食べてしまうわ。」
 そう独言をいいながら、足許に気をつけ、ぬかるみの中を歩道へ渡ろうとしますと、そこの溝の中に、何か光っているものがあるのを、セエラは目にとめました。泥にまみれてはいましたが、それは確かに銀貨でした。二十銭ではないが、十銭の銀貨でした。
「まア、ほんとだったわ。」セエラは、思わず呼吸をはずませました。
 とまた、嘘のようではありませんか。セエラが眼を上げると、真向いにパン屋の店があるのでした。店では一人、愉快な血色のよい母親らしい様子の女が、竈から今取り出したばかりの甘パンを――大きくふくれた、乾葡萄ほしぶどうの入った甘パンの大皿を、窓をさし入れているところでした。
 セエラは、この不思議な出来事にどきどきしているところへ、窓に甘パンの出てくるのを見、パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうなにおいを嗅いだので、ちょっとくらくら倒れそうな気持になりました。
 セエラは、この銀貨を使ったってかまわないのは知っていました。もう長いこと、泥濘ぬかるみの中に落ちていたようですし、この人混の中で、落した人の判ろうはずもありません。
「でも私、パン屋のおかみさんに、何かお落しになりはしなかって? と訊いてみよう。」
 セエラは元気なくそう独言すると、歩道を横切り、濡れた足で入口の階段を登ろうとしました。その拍子に、セエラは何かをふと目に止め、思わず足を止めました。
 セエラの足を止めたのは、セエラよりも惨めな子供の姿でした。子供の姿は、まるで一塊ひとかたまり襤褸ぼろでした。赤い泥まみれな素足が、その襤褸の中から覗き出していました。恐ろしくこんがらがった髪の下から、大きな、ひもじそうな眼を見張っていました。セエラは一目で、この子が餓えているのを知りました。と、たちまちセエラは可哀そうでたまらなくなりました。
「この娘も、やっぱり人の子なのだわ。そして、この子は私よりもひもじいようだわ。」
 その子は、顔を上げてちょっとセエラを見つめると、身体をずらせて、セエラの通る隙をつくりました。その子は誰にでも道をゆずりつけていたのです。巡査にでも見付かったが最後「退け!」といわれることも、のみこんでいました。
 セエラは銀貨を握りしめ、ちょっとためらってから、その子供にいいかけました。
「あなた、ひもじい?」
「ひもじいのなんのって、たまらないの。」
「お午昼ひるを食べなかったの?」
「お午飯ひるどころか、朝飯も、晩飯もあったものじゃアないわ。」
「いつから、食べないの?」
「知るものか、今日は朝から何一つ食べやしない。どこへ行ってもくれないの。あたい、下さい下さいって歩き廻ったんだけど。」
 その子の姿を見ているだけで、セエラは気絶しそうにお腹が空いて来ました。セエラは切なくてたまらなくなりました。が、頭の中にはふと、またいつもの空想が働き出して来ました。
「もし、私が宮様プリンセスなら――位を失って困っている時でも――自分より貧しい、ひもじい人民にあったら、きっと施しをするわ。私は、そんな話をたくさん知っているわ。甘パンは二十銭で六つ――と、六つばかり一人で食べたって足りないくらいだわ。それに、私の持ってるのは十銭銀貨だけど、でも、ないよりかましだわ。」
 セエラは乞食娘に、
「ちょっと待ってらっしゃいね。」といい残して、パン屋の店へ入って行きました。店の中は温かで、おいしそうな匂がしていました。おかみさんは、ちょうどまた出来たての甘パンを窓に入れかけているところでした。
「ちょっとお伺いしますけれど、あなたはあの、十銭銀貨をお落しになりませんでしたか?」
 いいながらセエラは、たった一つの銀貨をおかみさんの方にさし出しました。おかみさんは銀貨を眺め、それからセエラの顔を眺めました。ずいぶん汚れた着物を着ているけれど、買った時にはなかなかよいものだったにちがいない、と思いました。
「どう致しまして、私落しはしませんよ、お拾いなすったの?」
「ええ、溝の中に落ちてたの。」
「じゃア、遣ったってかまわないでしょう。一週間ぐらい溝の中に転がってたのかもしれませんからね。誰が落したか、判るものですか。」
「私もそう思ったのですけれども、一応お訊ねした方がよくはないかと思って。」
「珍しい方ね。」
 おかみさんは人のいい顔に、困ったような、同時に、何か心を惹かれたような表情を浮べました。そして、セエラがちらと甘パンの方を見たのを知ると、
「何かさしあげましょうか。」といいました。
「あの甘パンを四つ下さいな。」
 おかみさんは、窓から甘パンを出して袋に入れました、六つ入れたのを見て、セエラは
「あの、四つでいいんですよ。私、十銭しか持ってないんですから。」といいました。
「二つはおまけですよ。あとでまた上るといいわ、あなたお腹がすいてるんでしょう。」
「ええ、とてもひもじいの、御親切にして下すって、ありがとうございます。」
 セエラは、外には自分よりも、ひもじい子がいるのだということを、口に出しかけましたが、あいにくそこへお客が二三人一度に入って来ましたので、とうとうそれはいわずにしまいました。
 乞食娘は、入口の階段の隅にちぢこまっていました。びしょびしょな襤褸ぼろにくるまった彼女は、気味悪いばかりでした。彼女は、じっと目の前を見つめ、苦痛のあまりぽかんとした顔をしていました。ふいに涙が湧き上って来たので、彼女はびっくりして、ひびだらけの黒い手の甲で眼を擦りました。何か独言をいっているようでした。
 セエラは、袋をあけて、甘パンを一つ取り出しました。セエラの手は熱いパンのおかげで、もう少し温かくなっていました。
「ほら、これは温かでおいしいのよ。食べてごらんなさい。少しはひもじくなくなるから。」
 乞食娘は、思いがけないよろこびにかえって怯えたらしく、セエラの顔を穴のあくほど見ていましたが、じきひったくるようにパンを取ると、夢中で口の中につめこみました。
「ああおいしい、ああおいしい。ああ、おいしい。」
 しゃがれた娘の声は、聞くに忍びないようでした。セエラは甘パンをあと三つ娘にやりました。
「この子は、私よりもひもじいのだわ。この子は餓死うえじにしそうなのだわ。」四つ目のパンを渡す時、セエラの手はわなないていました。「でも、私は餓死うえじにするほどじゃアないわ。」そういって、セエラは五つ目のパンを下に置きました。
 餓えきったロンドンの野恋娘のこいむすめが、夢中でパンをひったくり、貪り食っているのを見棄てて、セエラは「さようなら。」といいましたが、娘は食べるのに夢中でしたから、礼儀をわきまえていたにしたとこで、セエラに一言いちごんお礼をいう暇もなかったに違いありません。まして彼女は、礼儀などというものは、少しも知らぬ野獣に過ぎなかったのでした。
 セエラは車道を横切って、向うがわの歩道に辿りついた時、もう一度娘の方をふりかえって見ました。娘はまだ食べるのに夢中でしたが、かじりかけてふとセエラの方を見て、ちょっと頭を下げました。娘はそうしてセエラが見えなくなるまで、かじりかけのパンをかみきりもせず、じっとセエラを見守っていました。
 ちょうどその時、パン屋のおかみさんが窓から外を覗きました。
「おや、こんな事ってないわ。あの娘はくれともいわないのに、この乞食にパンをやってしまったんだね。しかも、自分は食べたくないどころか、あんなにひもじそうな顔をしていたのに。」
 おかみさんは窓の奥でちょっと考えていましたが、何でも、様子を訊いてみたくなったので、乞食娘のいる方へ出て行きました。
「そのパンは、誰にもらったの?」
 娘はセエラの行った方に頭を向けて、こっくりしました。
「あの子は、何といったの?」
「ひもじいかって。」
「で、何と答えたの?」
「その通りだといったの。」
「すると、あの子はパンを買って、お前にくれたのだね。」
 娘はまたこっくりをしました。
「で、いくつくれたの?」
「五つ。」
 おかみさんは考えこんで、小声にいいました。
「自分のためには一つしか残しておかなかったのだよ。食べようと思えば、一人で六つ残らず食べてしまえるくらい、お腹がすいてたのにね。」
 おかみさんは、向うの方に消えて行くセエラの小さな後姿を見送りながら、いつになく心の乱れるのを覚えました。
「もっとゆっくりしていてくれればよかったのにねえ。あの子に十二も上げておけばよかった。」それから、乞食娘の方にいいました。
「お前、まだひもじいの?」
「ひもじくない時なんてありゃアしない。でも、いつもみたいに、ひどくひもじかアないわ。」
「こっちへ、お出で。」
 おかみさんはそういって、店の戸を開きました。そして、奥の暖炉を指していいました。
「さア温まるといいわ。いいかい、これから一かけのパンも得られない時には、ここへ来て、下さいというのだよ。あの娘のために、私はいつでも、お前にパンを上げるから。」
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 セエラは残った一つの甘パンで、どうやら自分を慰めることが出来ました。とにかく、それは熱かったし、ないよりはましでした。セエラは歩きながら、小さくちぎって、すこしずつゆっくりと食べました。
「このパンが、魔法のパンで、一口食べると、お午飯ひるを食べたぐらいお腹がふくれるといいな。そうすると、これだけ皆食べたら、食べ過ぎてお腹がはちきれそうになるはずだわ。」
 日はもう暮れかけていましたが、大屋敷の窓にはまだ鎧戸よろいどが下してありませんでしたので、内部なかの様子をちらと覗くことが出来ました。いつもは、父親が椅子に坐って、子供達に取りまかれているのでしたが、今日は旅にでも出るらしく、母親や子供達とお別れの接吻をしていました。
 玄関の戸が開いたので、セエラはいつかお金をもらった時の事を思い出し、見つからぬ先に逃げ去ろうとしました。が、こんな話は聞き洩しませんでした。
「モスコウは、雪で包まれてるでしょうね。どこも、かしこも、氷ばかりなのでしょうね?」というのはジャネットの声でした。
「お父様、露西亜馬車ドロスキイにお乗りになる?」もう一人の娘はいいました。「皇帝ツアルにもお会いになる?」
「そんなことは手紙で知らせるよ。農民ムジイクやなんかの絵端書えはがきも送ってやろう。さ、もううちにお入り。いやにじめじめしているね。お父さんは、モスコウなんかへ行くのはやめて、皆とうちにいたいんだけどな。」
 彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。
「お父様、その娘にあったら、よろしくいって下さいね。」
 ギイ・クラアレンスは、靴脱のところで跳ねまわりながらいいました。
 戸を閉めて、室内へやに戻る道々、ジャネットは、ノラにいいました。
「あの『乞食じゃアない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私達の方を見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持の人からもらったもののようですって――きっと、もういたんで着られなくなったから、あの子にやったのね。」
 セエラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。
「ギイ・クラアレンスのいったその娘というのは、誰なのかしら?」

十四 メルチセデクの見聞記


 ちょうどこの日の午後、セエラが使に出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを見聞みききしたのはメルチセデクだけでした。彼はセエラの出た後へ、何か嗅ぎ出しに出かけて来ていたのでしたが、やっと一つパン屑を見付け出したとたん、屋根の上で何かがたがたというのを耳にしました。物音はだんだん天窓に近づいたと思うと、不思議や天窓は押し開かれ、黒い顔が一つ、そこから部屋の中を覗きました。続いてまた別な顔が、その背後うしろに現れました。黒い顔はラム・ダスで、もう一人は印度の紳士の秘書役だったのですが、メルチセデクにはそんなことは判るはずもありませんので、黒い顔の男がかたとも音を立てずに、軽々と窓口から下りて来るのを見ると、尻尾をまいて、自分の穴へ逃げ帰ってしまいました。彼は穴の口に平たく坐り、眼をお皿のようにして、様子を見ていました。
 若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに天窓からすべりこんで来ました。彼はメルチセデクの尻尾をひっこめるところを、ちらと見て、小声でラム・ダスに訊きました。
「ありゃア鼠かい?」
「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」
「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」
 ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセエラと話したことはないのですが、セエラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。
「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来るちいちゃな子もございます。それから、その子よりは大きい子で、あの子の話をきもせず聞いている子も一人ございます。女主人などは、あの子をまるで非人ペエリア扱いにしていますが、でも、あの子は王族の血でもひいてるような挙止ものごしをしています。」
「君は、だいぶ詳しく知っているようだね。」
「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供達が忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ判りますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」
「でも君、大丈夫かい? 誰か来やアしないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕達が来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」
 ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。
「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」
「じゃア、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」
 秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き廻って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまず寝台をおさえて、思わず声をあげました。
「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」
 彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見廻り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。
「だが、妙なことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」
「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互に一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの天窓の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。御主人にそれをお話しますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と仰しゃるのでした。」
「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚しでもすると――」
「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやりおおせてごらんに入れます。あの子はあとで眼を覚して、魔法使でも来ていたのだろうと思うでございましょう。」
 二人は、またそっと天窓から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パン切でも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け廻りはじめました。

十五 魔法


 セエラがお使から帰ってくると、隣家となりでは、ラム・ダスが鎧戸を閉めているところでした。セエラは鎧戸の間から、ちらと部屋の中を覗きました。覗く拍子に、もうずいぶん長いこと綺麗な部屋の中に入ったことはないなと思いました。
 窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。
「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」
 紳士が考えていたのは、次のような事でした。
「もし――せっかくカアマイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」
 セエラはうちに入ると、いきなりミンチン先生に、遅いといって叱られました。料理番も叱られたあとだったので、殊更ひどくセエラにあたりました。
「あの、何かいただけませんか?」
 セエラは元気のない声で訊ねました。
「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」
「私、お午飯ひるもいただきませんでしたの。」
「戸棚の中にパンがあるよ。」
 セエラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セエラは疲れていました。セエラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアアミンガアドが来ているのでしょう。セエラはまるまるとしたアアミンガアドが赤いショオルにくるまっているのを見るだけでも、わびしい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。
 アアミンガアドはセエラを見ると、寝台の上からいいました。
「セエラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら逐っても、私のそばへやって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、私怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」
「いいえ。」と、セエラは答えました。
「セエラさん、あなた大変疲れてるようね。顔色が大変悪いわ。」
「とても疲れちゃったわ。」セエラはびっこの足台にぐたりと坐りました。「おや、メルチセデクがいるのね。可哀そうに、きっと御飯をもらいに出て来たのだわ。でも、今夜は一かけも残っていないのよ。帰ったらおかみさんに、私のポケットには何にもなかったといっておくれ。あんまり皆に辛くあたられたので、お前のことは忘れてしまって、悪かったわね。」
 メルチセデクは、どうやら合点がいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。
「アアミイ、今夜会えようとは思わなかってよ。」と、セエラはいいました。
「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」
 アアミンガアドは、天窓の下のテエブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、
「お父様がまた本を送って下すったの。」といいました。セエラはたちまちテエブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もう一日の辛さなどは、すっかり忘れていました。
「何て綺麗な本でしょう。カアライルの『フランス革命史』ね。私、これをよみたくてたまらなかったのよ。」
「私ちっともよみたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みにうちに帰るまでに、すっかり憶えさせようってつもりなのよ。私どうしたらいいでしょう。」
「こうしたら、どう? 私がよんで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」
「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」
「出来ると思うわ。小さい人達は、私のお話をよく憶えてるじゃアないの。」
「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」
「私、あなたから何にもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」
「じゃアあげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃアないの。ところが、お父様は御自分が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」
「私に本を下すったりして、あとでお父様に何て仰しゃるつもり?」
「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、よんだのだと思うでしょう。」
「そんな嘘をいうものじゃアないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、御本を読んだのは、セエラだと仰しゃればいいじゃアないの?」
「でも、パパは私に読ませたいのよ。」
「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃア、よんだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」
「どのみち、憶えさえすりゃアいいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」
「でも、あなたが悪いからじゃアないわ。あなたの――」
 頭の悪いのは、とあぶなくいいかけて、セエラは口をつぐみました。
「私が、どうしたの?」
「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃアないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かアないのよ。親切なことの方が、どんなに値打があるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだから皆に嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって――憶えてるでしょう? いつかお話してあげたロベスピエルのこと。」
「そうね、少しは憶えてるけど。」
「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまるから。」
 セエラは寝台の上で肩を夜具に包み、膝を抱えて、血腥ちなまぐさいフランス革命の話を始めました。アアミンガアドは眼を見張り、固唾をのんで耳を傾けました。怖いようでしたが、同時にまたぞっとするような面白さもありました。ロベスピエルのこと、ラムバアル姫のことなど、忘れようと思っても、忘れられなくなりました。
 二人は、父のセント・ジョン氏に、セエラに話してもらって憶える計画を、正直に打ちあけることにきめました。で、本は当分セエラの所に置くことにしました。
 セエラは話している間も、倒れそうに空腹でした。アアミンガアドが帰ってしまったら、ひもじさのあまり、眠られなくなりはしまいかと思いました。いつもは、そんなことに一向気のつかないアアミンガアドも、ふとセエラを見てこういったくらいでした。
「私、あなたぐらいに痩せたいと思うわ。でも、今日はあなたいつもよりも痩せて見えるわね。眼もいつもより大きいようだし、肱のところには、とがった骨が出ているわ。」
 セエラは、自然にまくれ上った袖口を、引き下しました。
「私、小さい時から痩せてたのよ。そして、大きな緑色の眼だったのよ。」
「私、あなたのその不思議な眼が好きなの。どこか遠いところを見ているようで、とてもいいわ。その緑色がとてもいわ。でも、たいていは黒いように見えるのね。」
「猫の眼なのよ。でも、猫のように暗いとこまで見えるわけじゃアないのよ。見えるかと思ってやってみたけど、駄目だったわ。暗くても見えるといいわね。」
 ふと、天窓の上にかすかな音がしました。二人とも見ずにしまいましたが、黒い顔が天窓に現れて消えたのでした。
「今の音は、メルチセデクじゃアないわね。何かが石盤瓦スレエトの上を、そうっと擦って行くような音だったわ。」
 耳の早いセエラは、そういいました。
「何でしょう? まさか、泥棒じゃアないでしょうね。」
「まさか。盗んで行くものなんか、何もないじゃア――」
といいかけた時、また何か物音がしました。今度は二階で、ミンチン先生が怒鳴っている声でした。セエラは寝台から飛び降りて、火を消しました。
「先生は、ベッキイを叱ってるのよ。」
「ここにやって来やアしない?」
「大丈夫。寝たと思ってるでしょう。でも、じっとしていてね。」
 ミンチン先生は、屋根裏まで上って来ることなど、めったにありませんでした。が、今夜は立腹のあまり、中途までぐらいは上って来ないとも限りませんでした。それに、ベッキイを小突きまわしながら、あとから上ってくるような気配さえしました。
「嘘つき! 料理番の話だと、なくなったのは今日ばかりじゃアないそうじゃアないか。」
「でも、私じゃアございません。私、お腹はすいてたけど、そんな、そんな――」
「監獄に入れてやってもいいくらいだ。盗んだり、つまんだり。肉饅頭ミイト・パイを半分も食べちゃったんだね。」
「私じゃアないんですってば! 食べるくらいなら、皆食べちまうわ。――でも私、指一つさわりゃアしなかったんだわ。」
 そのパイは、ミンチン先生が夜おそく食べようと思って、とっておいたものでした。先生は息を切らして階段を上りながら、ぴしぴしベッキイを打っているようでした。
「嘘なんかつくな。たった今、部屋に入ってしまえ。」
 戸がしまって、ベッキイが寝台に身を投げる音がしました。彼女は泣きじゃくりながらいいました。
「食べる気なら、二つぐらい食べちまうわ。一口だって食べやしなかったのに。料理番が、あの巡査に食べさしたんだわ。」
 セエラは真暗な室内に立ったまま、歯をくいしばり、手をさしのべて、てのひらを開いたり握りしめたりしていました。もうじっとしてはいられないという風でしたが、でも、ミンチン先生が降りて行ってしまうまでは、身動きもせずにおりました。
「ずいぶんひどいわ。料理番はベッキイに自分の罪をなすりつけてるのよ。ベッキイはつまみ食いなんかするものですか。あの子は、時々ひもじくてたまらなくなると、塵溜ごみためからパンの皮を拾って食べてるくらいだけど。」
 セエラは両手をひしと顔に押しあてて、欷歔すすりなきはじめました。セエラが泣くとは――アアミンガアドは、何か今まで気のつかなかったことに気のついた気がしました。ことによると――ことによると――彼女の親切な鈍い心の中に、恐ろしい事実がようよう姿を見せはじめました。彼女は手さぐりでテエブルの所へ行き、蝋燭に火をつけました。灯がともると、身をこごめて気づかわしげにセエラを見ました。
「セエラさん、あの――あなた、一言も話して下さらなかったけど、あの、失礼だったら御免なさい――でも、あなた、ひもじいんじゃなかったの?」
「ええ、ひもじいのよ。あなたにでも食いつきたいほどひもじいのよ。それに、ベッキイの泣声を聞くと、よけいひもじくなってくるの。あの子は私よりもひもじいのよ。」
「あら、私、ちっとも気がつかなかったなんて!」
「私も、あなたにさとられたくなかったのよ。あなたに知られると、私乞食になったような気がするからいやだったの。もう見たところは乞食も同じですけどね。」
「そんなことないわ。着物はちょっと変だけど、乞食になんて見えるものですか。お顔が第一、乞食とは違うわ。」
「いつか私、小さい男の子から施しを受けたことだってあるのよ。」セエラは自分をさげすむように笑って、衿の中から細いリボンを引き出しました。「ほら、これよ。私の顔が物欲しそうだったからあの坊ちゃんもクリスマスのお小遣を、下さる気になったのよ。」
 その銀貨を見ると、二人は眼に涙をためながら、笑い出しました。
「その坊ちゃんて、だれなの?」
「可愛い坊ちゃんだってよ。大屋敷の子供の一人で、足がまるまるしてるのよ。きっとあの子は自分は贈物やお菓子の籠をたくさん持っているのに、私は何一つ持っていそうもないと思ったのね。」
 アアミンガアドは、[#「は、」は底本では「、は」]ふと何かを思いついて、ちょっと飛び下りました。
「セエラさん、私莫迦ね、今まであのことに気がつかないなんて。」
「あのことって。」
「いいことなの。さっき伯母様から、お菓子の一杯つまった箱が届いたのよ。私お腹が一杯だったし、本のことで悩んでいたので、手もつけずにおいたの。中には肉饅頭ミイト・パイだの、ジャム菓子だの、甘パンだの、オレンジだの、赤葡萄酒あかぶどうしゅだの、無花果いちじくだの、チョコレエトだのが入ってるのよ。私ちょっと取りに行ってくるわ。ここで食べましょうよ。」
 セエラは食物たべものの話を聞くと、思わずくらくらしました。彼女はアアミンガアドの腕にしがみついて、
「でも、行って来られる?」といいました。
「来られるわよ。」アアミンガアドは戸の外に頭を出して、耳をすましました。「燈火あかりはすっかり消えてるわ。皆もう眠っちゃったのね。だから、そっと誰にもわからないように、そっと這って行って来るわ。」
 二人は手をとりあってよろこびました。セエラはふと、また眼をきらめかせていいました。
「アアミイ! ね、またつもりになりましょうよ。宴会だってつもりにね。それからあの、隣の監房にいる囚人も御招待しない?」
「それがいいわ。さ、壁を叩きましょうよ。看守になんて聞えやしないでしょう。」
 セエラは壁ぎわに行って、四度壁を叩きました。
「これはね、『壁の下の脱道ぬけみちよりきたれ、お知らせしたいことがある』という意味なの。」
 向うから五つ打つ響がありました。
「ほら、来たわ。」
 戸があいて、眼を紅くしたベッキイが現れました。彼女はアアミンガアドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛で顔を拭きはじめました。で、アアミンガアドはいいました。
「ちっともかまわないのよ、ベッキイ。」
「アアミンガアドさんのお招きなのよ。今いいものの入った箱を持って来て下さるんですって。」
「いいものって、何か食べるもの?」
「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」
「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」
 アアミンガアドはあまり急いだので、出しなに赤いショオルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。
「お嬢様、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」
 その時セエラは、眼にいつもの輝きをたたえながら、辛かった一日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起ったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。
「さ、泣かないで、テエブルを整えることにしましょう。」
 セエラはうれしそうにベッキイの手を握りました。
「テエブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」
 セエラは部屋の中を見廻して笑いました。テエブル掛も何もあるはずはありません。ふと、セエラは赤いショオルが落ちているのを見つけて、それを古いテエブルの上に掛けました。赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエブルに赤いショオルが掛ると、部屋の中は急にひきたって来ました。
「これで、床に赤い敷物が敷いてあったら、すてきだわね。敷物のあるつもりになろう。」セエラが床に眼を落すと、そこにはもうちゃんと敷物が敷いてあるのでした。
「まア、何て厚くて、柔かなのでしょう。」
 セエラはベッキイの方に笑顔を向けながら、さも何か敷物でも踏むように、そっと足を下しました。
「ほんとに柔かね。」と、ベッキイも真顔でいいました。
「今度は何をしましょう。じっと考えて待っていると、何か思いつくものだわ。魔法の神様がそれを教えてくれるのだわ。」
 セエラのよくする空想の一つは、うちのそとでいろいろの思いつきが呼び出されるのを待っているというのでした。セエラがじっと立って何を待ち設けているのを、ベッキイはよく見ました。セエラはいつものようにしばらくじっと立っていましたが、やがてまたいつものように、明るい笑顔になりました。
「そら来た。私、何をすればいいか判ったわ。私が宮様プリンセス時代に持っていた、あの古鞄ふるかばんをあけてみましょう。」
 鞄の隅には小さな箱があり、その中に小さな手巾ハンケチが一ダース入っていました。セエラはそれを持っていそいそとテエブルの方に走って行き、レエスの縁がそり返るように工夫して、赤いテエブル掛の上に並べました。並べる間も、彼女は何か魔法に動かされているようでした。
「そこにお皿があるの。黄金こがねのお皿よ。それから、このナプキンには手のこんだ刺繍ししゅうがしてある。スペインの尼さんが尼寺の中でした刺繍なのよ。ほら、目に見えて来るでしょう。」
 セエラはまた鞄の中から、古い夏帽子を見附け出し、かざりの花を引きはがして、テエブルの上に飾りました。
「いい匂がするでしょう。」
 セエラは夢の中の人のように、幸福そうな微笑ほほえみをたたえながら、石鹸皿を雪花石膏アラバスタア水盤すいばんに見たてて、薔薇の花を盛りました。それから毛糸を包んだ紅白の薄紙で、お皿を折り、残った紙と花とは、蝋燭台を飾るのに用いました。セエラは一歩退いて、飾られたテエブルを眺めました。そこにあるのは、赤い肩掛をかけた古テエブルと、鞄から出した塵屑ごみくずとだけでしたが、セエラは魔法の力で、奇蹟が行われたのを見るのでした。ベッキイまで、そこらを見廻していうのでした。
「あの、これが――これが、あのバスティユ?――何かに変ってしまったの?」
「そうですとも。饗宴場きょうえんじょうに変ったのよ。」
 その時戸が開いて、アアミンガアドがよろよろと入ってきました。彼女は肌寒い暗闇の中から、すっかり飾られた部屋に入って来ると、思わず声をあげました。
「セエラさん、あなたみたいに何でも上手な方は見たことないわ。」
「すてきでしょう? 皆、古鞄の中にあったのよ。魔法の神に伺ってみたら、トランクを開けてみろと仰しゃったの。」
「でも、お嬢さん、セエラ嬢さんにいちいち何だか話しておもらいなさい。ね、あれはみんな――セエラ嬢さん、この方にも話しておあげなさいよ。」
 で、セエラはアアミンガアドに、黄金こがねのお皿のこと、まる天井のこと、燃えさかる丸太のこと、きらめく蝋燭のことなどを話して聞かせました。魔法の力の助けで、アアミンガアドもそれらのものをおぼろに見る気がしました。手籠の中から、寒天菓子や、果物や、ボンボンや、葡萄酒が取り出されるにつれ、宴会はすばらしいものになって来ました。
「まるで、夜会ね。」と、アアミンガアドは叫びました。
女王クウィイン様の食卓みたいだわ。」と、ベッキイは吐息をつきました。
 すると、アアミンガアドは眼を光らせて、
「こうしましょう、ね、セエラ。あなたは宮様プリンセスで、これは宮中きゅうちゅう御宴ぎょえんなの。」
「でも、今日の主催者はあなたじゃアないの。だから、あなたが宮様プリンセスで、私達は女官なの。」
「あら、私なんか肥っちょだから駄目よ。それに宮様プリンセスはどうするものだか、知らないんですもの。だから、やっぱりあなたの方がいいわ。」
「あなたがそう仰しゃるなら、それでもいいわ。」それから、またセエラは何か思いついたらしく、さびた煖炉の所に飛んで行きました。
「紙屑や塵がたまってるから、これに灯をつけると、ちょっと明くなるわ。すると、ほんとうに火のあるような気がするでしょう。」
 セエラは火をつけると、優雅しとやかに手をあげて、皆をまた食卓へ導きました。
「さア、お進みなされ御婦人方。饗宴のむしろにおつき召されよ。わがやんごとなき父君、国王様には、只今、ながの旅路におわせど、そなた達を饗宴にしょうぜよと、わらわ御諚ごじょう下されしぞ。何じゃ、楽士共か。六絃琴ヴァイオル、また低音喇叭バッスウンを奏でてたもれ。」そういってから、セエラは二人にいってきかせました。
宮様プリンセス方の宴会には、きっと音楽があったものなのよ。だから、あの隅に奏楽場そうがくじょうがあるつもりにしましょう。さ、始めましょう。」
 皆がお菓子をやっと手にとるかとらないうち、三人は思わず飛び上って、真蒼な顔を戸口の方へ向け、息をこらして耳を澄ましました。誰かが梯子を上って来るのです。もう何もかもおしまいだと、皆は思いました。
「きっと奥様よ。」ベッキーは思わずお菓子のかけらを取り落しました。
「そうよ。先生に見付かったのだわ。」
 セエラも真蒼になって、眼を見張りました。
 ミンチン先生は扉を叩きあけて入って来ました。怒りのあまり、先生の顔も真蒼でした。
「何かこそこそやってるようだとは思ってたけど、こんな大胆不敵なことをしようとは夢にも思わなかった。ラヴィニアのいったのはほんとうだ。」
 告口つげぐちをしたのはラヴィニアだと、三人は知りました。ミンチン先生は、足を鳴らして進みよると、またベッキイの耳を打ちました。
畜生ちくしょうめ、夜があけたら、さっさと出て行け。」
 セエラは身動きもせず立っていました。眼はいよいよ大きくなり、顔色はますます蒼ざめていきました。アアミンガアドはわっと泣き出しました。
「どうか、ベッキイを逐い出さないで下さい。伯母さんがこの手籠を下すったので、みんなで、ただあの――宴会ごっこをしていたのです。」
「案の定、プリンセス・セエラが上座に坐ってるね。皆セエラの仕業なんだ。ちゃんと解ってるよ。ベッキイ、お前はさっさと自分の部屋に帰れ。セエラ、お前の罰は明日だ。明日は朝から晩まで、何にも食べさしてやらないから。」
「今日だって、おひるも晩もいただきませんでしたよ。」
「そんならなおいいさ。何か心にこたえることをしてやらなければ。アアミンガアド、ぼんやり立ってるんじゃアないよ。食物を皆手籠にしまうんだよ。」
 ミンチン先生は、自分でテエブルの上のものを手籠の中へ払い落しましたが、またしてもセエラが大きな眼をして見詰めているのに気がつくと、先生はセエラに食ってかかりました。
「何を考えてるんだよ。なんだって、そんな眼をして私を見るんだよ。」
「私、お父様がこれを御覧になったら、何と仰しゃるだろう、と思っていましたの。」
 それを聞くと先生は、いつかの時のように腹が立ってたまらなくなりました。で、思わずセエラに飛びかかって、彼女のからだをゆすぶりました。
「まア、失敬な! ずうずうしいにも程がある。」
 先生は手籠や本をアアミンガアドの腕に押しこみ、彼女を小突いて先に立てながら、セエラの部屋を出て行きました。
 夢はすっかりさめてしまいました。炉の中の紙屑は消えて黒い燃殻もえがらになり、テエブルの上に飾ったものは、鞄の中にあった時のように古ぼけて、床に散らばっていました。セエラはエミリイが壁に寄りかかっているのを見付けると、震える手で抱き上げました。
「もう御馳走どころじゃアないのよ。宮様プリンセスもなにもいやしないのよ。バスティユの囚人がここにいるばかりだわ。」
 セエラはべたりと坐って、両手で顔を被おうとしました。その間にさっきの黒い顔が、また天窓の上に現れました。が、セエラはそれには気がつきませんでした。セエラはやがて立ち上って寝床の方に行きました。もう何のつもりになる張合はりあいもありませんでした。
「あの炉に火が入っているといいな。火の前には、気持のいい椅子テエブルがあって、暖かな晩御飯が乗っているといいな。それから、あの――」と薄っぺらな夜具をかけながら、「これが、柔かな寝台で、羊毛の毛布や、ふうわりした枕がついているのだったら、そして、それから――」
 セエラは思っているうち疲れはてて、いつかぐっすり眠ってしまいました。
          *        *        *
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 どれほど眠ったか、セエラには判りませんでした。彼女は疲れきっていましたので、メルチセデクが騒いでも、天窓から誰かが入って来ても、何にも知らずにぐっすり眠っておりました。
 天窓がぱたりと閉る音を聞いたと思いましたが、セエラは眠くてたまらないので――それに、何か妙にぽかぽか温かくて気持がいいので、すぐには眼を開けませんでした。余りの気持よさに、セエラは何だかまだ夢心地だったのでした。
「いい夢だわ。私、覚めなければいいと思うわ。」
 まったく夢にちがいありません。温かな夜具もかかっているようですし、毛布の肌触りも感ぜられます。手を出すと、繻子しゅす羽根蒲団はねぶとんらしいものが触るのです。セエラはこの夢から覚めまいと思って、一生懸命眼をつぶっていましたが、ぱちぱちと火のぜる音を聞くと、眼をあけずにはいられませんでした。眼を開けて見て、セエラはまだ夢を見ているのだと思いました。――
 炉にはあかあかとほのおが燃え立っています。炉棚の上には小さな真鍮の茶釜が、ふつふつと煮え立っています。床には厚い緋色の絨毯が、炉の前には、座褥クッションをのせた畳みこみの椅子が置いてあります。椅子のそばには白いテエブル掛をかけた小さな食卓が据えてあって、茶碗や、土瓶や、小皿や、きれをかけた料理のお皿などが並べられてあります。寝台の上には温かそうな寝衣ねまきや、繻子の羽根蒲団がかけてあります。寝台の下には、珍らしい綿入れの絹の服や、綿の入ったスリッパや、小さな本などが置いてあります。それに、テエブルの上には、薔薇色傘のついた明るいラムプが点っているのです。セエラは、夢の国から妖精の国に来たのではないかと思いました。
「消えてなくなりもしないようだわ。こんな夢って、見たこともないわ。」
 セエラは、しばらく寝台の上に肱をついて、部屋の中を見ていましたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下しました。
「夢を見ながら、とこから出て行くのだわ。このままであればいい。私はこれがほんとなのだと、夢見ているのだわ。夢じゃアないと、夢のうちで思っているのだわ。魔法にかかった夢のようだわ。私も何だか魔法にかかっているようだわ。きっと私はただ見えると思ってるばかりなのよ。いつまでもそう思っていたいわ。でも、どうでもいいわ。どうでもいいわ。」
 セエラは、燃え立つ火の前に跪いて、火に手をかざして見ました。火に手を近づけすぎたので、熱さのあまり飛びさがりました。
「夢で見ただけの火なら、熱いはずはないわ。」
 セエラは飛び上って、テエブルや、お皿や、敷物に手を触れて見ました。それから、寝台の毛布に触ってみました。柔かな綿入の服を取り上げて、ふいに抱きしめ、頬ずりしました。
「温かくて、柔かだわ。本物に違いないわ。」
 セエラはその服をひっかけて、スリッパを穿きました。それから、よろよろと本の所へ行き、一番上の一冊を開いてみました。
『屋根裏部屋の少女へ、友人より』
 扉にそう書いてあるのを見ると、セエラはその上に顔を伏せて、泣き出しました。
「誰だか知らないけど、私に気を付けて下さる方があるのだわ。私にも、お友達があるのだわ。」
 セエラは蝋燭を持ってベッキイの所に行きました。ベッキイは眼を覚して、緋色の綿入服を着たセエラを見ると、吃驚びっくりして起き上りました。昔のままのプリンセス・セエラが立っていると、ベッキイは思いました。
「ベッキイ、来て御覧なさい。」
 ベッキイは、驚きのあまり口を利くことも出来ず、黙ってセエラに従いました。ベッキイはセエラの部屋に入ると、眼が廻りそうでした。
「みんなほんとなのよ。私、触って見たのよ。きっと私達の眠っているに、魔法使が来たのね。」

十六 お客様


 それから、その晩二人はどうしたか、出来るなら想像して御覧なさい。
 二人は火のそばに蹲って、料理皿にかけたきれをとって見ました。お皿の中には、二人で食べても食べきれないほどのおいしいスウプや、サンドウィッチや、丸麭麺マッフィンなどが入れてありました。ベッキイのお茶碗はないので、洗面台のうがい茶碗を使うことにしました。そのお茶のおいしさといったらありませんでした。これが、お茶でない何かほかのもののつもりになどはなれないくらいでした。二人はうえも寒さも忘れ、すっかり楽しい気持になりました。
「一体、誰がこんなにして下すったんでしょう? 誰かいるのにはちがいないわ。私を想ってて下さる方があるのだわ。ねエ、ベッキイ、その誰かは、きっと私のお友達なのよ。」
「あの――」と、ベッキイは一度口ごもってからいいました。「あの、お嬢さん、これみんな、けてってしまうんじゃアない? 早く片付けてしまった方がよくはない?」ベッキイは急いでサンドウィッチをほおばりました。
「大丈夫よ。私もさっき夢じゃアないかと思って、その火に触ってみたのよ。」
 おなかが一杯になると、セエラは、一人ではかけきれないほどある毛布を、ベッキイに分けてやりました。ベッキイは帰りしなに振り返って、貪るように室内を見廻しました。
「お嬢さま、これが皆朝になって消えちまっても、とにかく今夜だけはちゃんとあったんだから、私決して忘れないわ。」ベッキイは忘れまいとして、もう一度煖炉や、ラムプや、寝台や、とこを眺めまわしました。それから、ちょっと自分のお腹の上に手をおいて、
「こん中には、スウプに、サンドウィッチに、丸麭麺マッフィンが入って行ったんだわ。」と、それだけは確かそうにいいました。
 朝になると、生徒も、召使も、いつの間にか昨夜ゆうべの騒ぎを知っていました。皆は、セエラがどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。
 セエラは皆の眼を避けて、真直まっすぐに流し場へ行きました。ベッキイはせっせと茶釜を磨きながら、口の中で何かを口ずさんでいました。
「お嬢さん、眼がさめたらあってよ、毛布が。昨夜の通りよ。」
「私のもよ。私着物を着ながら、食べ残した冷いものを食べて来たわ。」
「そう、いいわね。」
 そこへ料理番が入って来たので、ベッキイはまた茶釜の上に、顔を俯向うつむけてしまいました。
 教室ではミンチン先生が、やはりセエラはどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。さすがのセエラも、今日はしょげて出て来るだろうと思っていました。が、不思議やセエラは血色のいい顔に微笑を湛え、踊るような足どりで入って来ました。ミンチン女史の驚きといったらありませんでした。
「お前には、自分が恥しい目にあってるのが、判らないのかい?」
「すみません。私、それはよく知っております。」
「そんなら、その気で、そんな、何かいい事でもあったような顔をするものではない。生意気だよ。それから、今日は一日何にも食べられないのだということを、忘れないがいいよ。」
「はい、忘れません。」
 いいながらセエラは、魔法のおかげがなかったら、今頃はさぞひもじかったろうに、と思いました。
「セエラは、大してひもじそうじゃアないわね。」と、ラヴィニアは囁きました。「まるで、朝飯に何かおいしいものでも食べて来たような顔をしているわ。」
「あの子は、普通の人達とは違ってるのよ。」とジェッシイは、フランス語を教えているセエラの方を見ながらいいました。「私、時々セエラが怖くなるわ。」
「莫迦ね。」
 セエラはいろいろ考えた末、昨夜起ったことは、誰にもいうまいと決心しました。ミンチン先生が屋根裏に上って来ればおしまいですが、ここしばらくは大丈夫だろうと思いました。アアミンガアドやロッティは、見張りがきびしいから、当分忍んで来るわけにもいかないでしょう。それに魔法の神様も、きっとこの奇蹟を隠して下さるでしょう。
「どんなことが起ろうと、私には目に見えないお友達があるのだからいいわ。」
 その日は、前日よりもお天気が悪い上、セエラは昨夜のことがあるので、よけい辛くあたられました。が、セエラはもう何にも怖いとは思いませんでした。夕方までには多少おなかも空いて来ましたが、セエラは今にまた御馳走が食べられるのだと思っていました。
 夜更けて、一人自分の部屋の前に立った時、セエラの胸はさすがにどきどきしました。
「ことによると、もうすっかり片付けられてしまったかもしれないわ。昨夜だけちょっと私に貸してくれたものなのかもしれないわ。でも、借りたのは事実だったのだわ。夢でもなんでもなかったのだわ。」
 セエラは部屋に入ると、すぐ戸を閉め、それに背をもたせて、隅々を見廻しました。魔法の神は、留守の間にまたここを見舞ったと見えます。昨夜なかったものまでが持ちこまれてありました。低い食卓の上には、またしても御飯の支度がしてありました。しかも、今日はコップも、お皿も皆二人前そろえてあるのです。炉の上の棚には、目のさめるような刺繍をしたきれが敷いてあり、二三の置物が飾ってありました。醜いものは、すべて垂帷とばりで隠してありました。美しい扇や壁掛が、鋭い鋲で壁にとめてありました。木の箱には敷物が掛けてあり、その上には、いくつかの座褥クッションが乗っていて、寝椅子の形に出来ていました。
「まるで、何かお伽噺にあることみたいだわ。何でも、欲しいといえば出て来るような気がするわ。ダイヤモンドでも、黄金こがねの袋でも、お伽噺よりも不思議なくらいだわ。これが、昨日までの屋根裏部屋なのかしら? 私も、あの凍えた、汚いセエラだとは思えないくらいだわ。私はいつもお伽噺がほんとになるのを見とどけたいと思っていたのよ。ところが、今私はお伽噺の中に住んでるんだわ。私自身も妖女フェアリーになったような気がするわ。そして、何でも変えることが出来るような気がするわ。」
 セエラは壁を打って、隣の囚人を呼び出しました。ベッキイは、今夜は自分の紅茶茶碗でお茶をいただきました。
 セエラはしんに就く時、また新しい厚い敷蒲団と、大きな羽根枕のあるのを見つけました。昨夜のは、いつの間にかベッキイの寝床に移されていたのでした。
「ぜんたいどこから来るんでしょう? お嬢さん、ほんとに誰がするんでしょう?」
「訊くのはよしましょうよ。私、知らないでいた方がいいと思うわ。でも、その誰かに、『ありがとう!』とだけはいいたいわね。」
 その時以来、世の中はだんだん愉快になって来ました。お伽噺はうち続きました。たいてい毎日、何かしら新しいことが起りました。夜、セエラが戸を開けるごとに、室内には何か新しい装飾が施され、何か少しずつ居心地よくなっているのでした。そうこうするうち、屋根裏部屋は、いろいろの珍らしい贅沢なものの一杯ある美しい部屋になってしまいました。朝出て行く時には、前の晩の食べ残しが置いてあるのに、夜帰って来てみると、食べ残しは綺麗に片付けられ、また別な美味が置き並べられてあるのでした。
 セエラはこうした幸福と慰めとのため、だんだん健康になり、希望に充ちて来ました。相変らず皆からはひどく扱われましたが、どんな時にも、屋根裏に帰りさえすればと思うと、辛いとも思いませんでした。
「セエラ・クルウは、大変丈夫そうになったじゃアないか。」と、ミンチン先生は不服そうに妹にいいました。
「ほんとに、だんだん肥って来たようですね。まるで餓えた烏みたいになりかけていたのに。」
「餓えただって? 食べたいだけ食べさしてあるのに、餓えるはずはないじゃないか。」
 アメリア嬢は、へまな口をすべらしたと思って、おどおどと、
「そ、そりゃアそうですけど。」と、合槌あいづちをうちました。
「あの子の年で、あんな風なのは、不愉快だよ。」
「あんな風なって?」
「いわば反抗心とでもいうんだろうね。たいていの子供は、あんな境遇の変化に逢ったら、意地も元気もなくなっちまうはずなのに、あの子はまるで、まだ宮様プリンセスかなんぞのように、しゃんとしているんったもの。」
「姉様、憶えていらしって? あの、いつかセエラが教室でこういった時のことを。先生はどうなさるでしょう、もし私が――」
「そんなこと憶えちゃアいないよ。つまらないことはいうものじゃない。」
 争われないもので、ベッキイも近頃はむくむく肥り出し、何か落ちつきが出て来ました。肥るまいと思っても肥り出し、怯えようとしても怯えられなくなったのだから仕方ありません。彼女もやはり、誰も知らないあのお伽噺のおかげをこうむっていたからでした。今は彼女も、敷蒲団は二枚あるし、枕も二つ持っています。毎晩温かな御飯を食べ、火の燃えている炉のそばに坐ることが出来るのでした。バスティユの牢獄はいつか消え去り、囚人は影も見えなくなりました。その代りに二人の幸せな子供が、よろこびにひたっているばかりでした。時とすると、セエラは書物を取り上げ、声を出して読んだりしました。時とするとまた、じっと炉の火を見詰め、あのお友達は誰だろう、どうかして自分の胸に感じていることを、その人に伝える術はないものだろうか、などと思いに耽りました。
 すると、また素敵な事件が起きて来ました。ある日一人の男が玄関に来て、いくつかの小包を置いて行きました。その宛名は、『右手屋根裏部屋の少女へ』とだけ大きく書いてあるのでした。
 小包を取りにやられたのは、ほかならぬセエラでした。彼女が一番大きい包みを二つ、客間のテエブルの上に置いて、宛名を眺めていますと、そこへミンチン先生が入って来ました。
「宛名のお嬢さんのところへさっさと持っておいで。そんな所に立ってじろじろ見てるんじゃアないよ。」
「でも、これは私のです。」と、セエラは静かにいいました。
「お前のだって? 何をいってるんだよ。」
「どこから来たのだか存じませんけど、宛名は私なんでございます。私の眠るのは右手の屋根裏です。ベッキイは左ですから。」
 ミンチン女史は、セエラのそばへやって来て、昂奮した顔つきで小包を眺めました。
「何が入ってるんだい?」
「存じません。」
「開けてごらん。」
 セエラはいわれた通りにしました。中から出て来たのは、着心地のよさそうな美しい衣裳でした。靴、靴下、手套てぶくろ、美しい上衣、それから見事な帽子、雨傘――すべて、上等な高価な品ばかりでした。その上、上衣のポケットには、こんなことを書いた紙片かみぎれが、ピンで留めてありました。
平常ふだんにお着なさい。換える必要があったら、いつでも換えて上げます。」
 それを見ると、ミンチン女史は卑しい心の中に、何か不思議なことがあるなとさとりました。あるいは自分は思いちがいをしていたのかもしれない。この孤児みなしご背後うしろには、誰か変りものの、しかし勢力のある友人があったのかもしれない。あるいは誰か今まで知られていなかった親戚があって、ふとセエラの居所をつきとめた上、こんな妙な方法で彼女の世話をしはじめたのかもしれない。親戚にはよく変人があるものです。殊に年とった、金持で独身ひとりみの伯父などというものは、子供をそばに置くことをいやがって、遠くの方から、その子の様子を見守っていたりするものです。またそんな伯父はきまって癇癪持かんしゃくもちで、怒りっぽいものです。だから、もしそんな人がいて、セエラのひどい様子を見たら、いい気持のするはずはありません。ミンチン女史は、妙に不安な気持になりました。で、彼女はセエラを横目でちらと見て、セエラの父が亡くなって以来使ったことのない、やさしい声でいいました。
「きっとどなたか御親切な方があるのですよ。こんなものをいただいたのだから、それに痛めば新しいのと換えて下さるというのだから、それに着かえて、きちんとしているようになさい。着かえたら教室に来て、自分の勉強をなさい。今日はもうどこへも使に行かないでいいから。」
 着がえをすまして、セエラが教室に入って行くと、生徒達は驚きのあまり声も出ませんでした。
「まア驚いた。」とジェッシイはラヴィニアの肱をつっつきながら、頓狂な声でいいました。「すっかりプリンセス・セエラになり戻っちゃったじゃアないの。」
 ラヴィニアは真紅まっかになりました。
 ジェッシイのいった通り、今入ってきたセエラは、プリンセス・セエラでした。少くとも、セエラはプリンセス時代以来、今日のように身綺麗にしていたことはありませんでした。彼女は二三時間前までのセエラとは似ても似つかぬ服装なりをしていました。
「きっと誰かが、あの子に財産を残したのね。」と、ジェッシイは囁きました。「私、いつでもあの子には何かしら起ると思ってたわ。」
「きっと、ダイヤモンド鉱山でも、また出て来たんでしょうよ。」とラヴィニアは、とげとげしくいいました。「そんな眼で見ると、あの子がいい気になるからおよしなさいよ。莫迦ね。」
 ふいに、ミンチン先生が太い声でいいました。
「セエラさん、ここへ来てお坐んなさい。」
 で、セエラは昔坐っていた名誉の席につき、俯向いて本を読み始めました。
 セエラはその夜、部屋に帰って、ベッキイと夕飯をすますと、永いこと炉の火を見詰めて黙っていました。
「お嬢さん、何かお話を作ってらっしゃるの?」
「いいえ、私、どうすればいいのだろうと考えているの。私あの方のことを考えずにはいられないのよ。でも、あの方は何にも知られたくないのかもしれないでしょう。そんなら、あの方がどんな方だか探り出したりしちゃア、失礼になるでしょう。でも私、どんなにあの方をありがたく思ってるか――どんなに幸福しあわせにしていただけたか、ということを、あの方に申し上げたくてならないの。親切な人ってものは、お礼はいわれたくなくても、幸福しあわせになったかどうかは、知りたいものよ。私、私、ほんとに――」
 いいかけてセエラは、ふとテエブルの上の文房具箱に眼をとめました。紙や、封筒や、インクや、ペンの入ったその箱は、一昨日おとといここに運びこまれていたものでした。
「まア私、どうして、今まであれに気がつかなかったんでしょう。私お手紙を書いて、あのテエブルの上にのせておくわ。そうすれば、きっと片付けに来る方が、手紙も一緒に持ってって下さるわ。」
 そこで、セエラは次のような手紙を書きました。
 あなたは、御自分を秘密に遊ばしたい御所存でいらっしゃいますのに、こんな手紙をさし上げる失礼をお赦し下さい。私は決して失礼なことをしたり、何かさぐり出そうとしたりなどするつもりはないのでございます。ただ、これほどまでに御親切にして下さったこと、何もかもお伽噺のようにして下さったことに対して、一言お礼を申し上げたいのでございます。あなたの御恩は決して忘れません。私も、ベッキイも、それはそれは幸福しあわせです。私共は、ほんとうにいつも寂しく、寒く、空腹がちでしたのに、今は――あなたはまア、私共のために大変なことをして下さいましたのね。お礼だけは言ってもよろしいでございましょう。いわねば済まぬような気が致します。ありがとう! ほんとうにありがとうございます。
屋根裏部屋の少女

 セエラは翌朝この手紙をテエブルの上にのせておきました。夕方帰ってみると、手紙は他のものと一緒に持ち去られたようでした。セエラは、手紙が首尾よく魔法使に届いたのだと思うと、一層幸福になりました。その晩、セエラがベッキイに新しい本を読んで聞かせていますと、天窓のところにふと何か音がしました。
「何かいるのよ、お嬢さん。」
「そうね、何だか、猫が入りたがっているような音ね。ひょっとすると、またあのお猿が脱け出して来たのかもしれないわ。」
 セエラは椅子の上に立って、気を配りながら天窓をあけ、外を覗きました。雪の日で、白く積った窓の外に、震えながら蹲っているものがありました。
「やっぱり猿よ。きっと東印度水夫ラスカアの屋根裏から這出はいだして、このあかりにひかれてここへ来たのよ。」
 ベッキイは走り寄っていいました。
「お嬢さん、入れてやるつもり?」
「ええ、お猿を外に出しといちゃア、寒すぎて可哀そうよ。猿は寒さに弱いのよ。私、だまして入れてやろう。」
 セエラは、いつも雀やメルチセデクに話しかける時のように、片手をさしのべながら、あやすように話しかけました。そうしているとセエラは、セエラ自身まるで何か小さな人なつっこい獣で、内気で野蛮な獣の気持をよくのみこんでいるようでした。
「お猿さん、入らっしゃいな。私、苛めやしないことよ。」
 そんなことは猿も知っていました。で、セエラがそっと手を取り、天窓の上にさし上げた時も、されるままになっていました。セエラが抱きしめると、猿もセエラの胸にしがみつき、髪の毛を親しげに握って、セエラの顔を覗きこみました。
「いいお猿だこと。私、小さな生物いきものが大好きよ。」
 猿は火にありついてうれしそうでした。セエラが坐って、膝の上にのせてやりますと、猿は物珍らしげに、彼女とベッキイとを見比べました。
「この子は不器量ね、お嬢さん。」
「ほんとに、不器量な赤ん坊のような顔をしているわ。お猿さん、御免なさい。でも、お前、赤ちゃんでなくてよかったわ。お前のお母さんは、まさかお前を自慢するわけにもいかないでしょう。御親戚のどなたに似てらっしゃるなどとうっかりお世辞をいうわけにもいかないしね。でも私、ほんとにお前が好きよ。」
 セエラは椅子にもたれて、思い返しました。
「この子だって、きっと器量が悪いので悲観しているのよ。その事がしょっちゅう心にあるんだわ。でも、猿に心なんてあるかしら? 可愛いお猿さん、あなたには心がおありでございますか?」
 が、猿はただ小さい手をあげて、頭を掻いただけでした。
「お嬢さん、この猿、どうするの?」
「今夜は、私の所におとまよ。明日になったら、印度の小父さんの所へ伴れて行くつもり。私はお前を返すのが惜しいのだけどね、でも、お前は帰らなきゃアいけないのよ。お前は家中うちじゅうで一番可愛がられるようにならなきゃアいけませんよ。」
 セエラは眠る時、自分の足許に猿の巣をつくってやりました。すると、猿はその巣が気に行ったらしく、赤ん坊のようにその中にうずまって眠りこみました。

十七 「この子だ」


 翌日あくるひの午後には、大屋敷の子が三人印度紳士の書斎に坐って、病人の気をひきたてようとしていました。子供達は、特に病人から来てくれといわれたので、来て病人を慰めているのでした。印度紳士は、ここしばらくの間、生きた心地もないほどでしたが、今日こそは、ある事を熱心に待ち受けておりました。そのある事というのは、カアマイクル氏がモスコウから帰って来ることでした。氏の帰朝は、予定より何週間も遅れたのでした。初めモスコウに着いた時には、もとめる家族がどこにいるものか、少しも判りませんでした。やっと尋ね当てて行ってみますと、あいにく旅行中で不在でした。旅先に追いかけて行こうとしても無駄だったので、氏はその人達の帰るまでモスコウで待つことにしたのでした。
 カリスフォド氏は安楽椅子に寄りかかり、ジャネットはその下に坐っていました。ノラは足台を見付けて坐り、ドウナルド(ギイ・クラアレンスのこと)は皮の敷物の飾りについている虎の頭にまたがっていました。少年はかなり乱暴に頭をゆすっていました。
「ドウナルド、そんなにさわぐんじゃアありませんよ。」と、ジャネットはいいました。「御病人に元気をつけてあげようっていう時には、そんな金切声を出すものじゃアありませんよ。カリスフォド小父さん、喧しすぎやしなくて。」
 病人は、彼女の肩を軽く叩いて、
「いや、そんなことはない。噪いでくれた方が、考えごとを忘れていいのだよ。」
「僕は、これから静かにするよ。」と、ドウナルドはいいました。「みんなで、二十日鼠のようにおとなしくしようじゃアないか。」
「二十日鼠が、そんな大きな音をさせるものですか。」
 ドウナルドは手巾ハンカチあぶみを造り、虎の頭の上で跳ね躍りました。
「鼠がありったけ出て来たら、このぐらいの音はさせるよ。千匹ぐらいいりゃア、するよ。」
「五万匹集ったって、そんな音しやしないわ。一匹の鼠ぐらい、おとなしくしなきゃア駄目よ。」
 カリスフォド氏は笑って、また彼女の肩を叩きました。
「お父様は、もうじきお着きになるのね。あの行方不明の娘さんの話をしてもよろしくって?」
「私は今、その話よりほか、とても出来そうにない。」
 印度紳士は、疲れた顔の額に皺をよせました。
「私達は、その子がそれは好きなのよ。みんなでその子のことを、『妖女フェアリイではないプリンセス』って呼んでるの。」
「なぜ、そう呼ぶの?」
「こういうわけなの。あの子は、ほんとうは妖女フェアリイじゃアないけど、見付かった時には、まるでお伽噺の中のプリンセスみたいに、お金持になるのでしょう。初めは『妖女フェアリイの国のプリンセス』といってたんですけど、そいじゃアしっくりいかないから、『妖女フェアリイじゃアないプリンセス』にしたの。」
 すると[#「すると」は底本では「す と」]、ノラはいいました。
「あの、あの子のお父様がダイヤモンド鉱山のために、お金をすっかりお友達にあげてしまったって話は、ほんとなの? そして、そのお友達は、そのお金をすっかり失くしたと思ったので、自分は泥棒のようなものだと思って、逃げ出したのですって?」
 ジャネットは急いで、
「でも、その方は、泥棒でも何でもなかったのよ。」といいました。
 印度紳士は、つとジャネットの手を取りました。
「まったく、そうじゃアなかったのだよ。」
「私、その方がお気の毒でならないの。」と、ジャネットはいいました。「その方は、お金を失くすつもりなんかなかったのよ。そんなことになって、どんなに胸を痛めたでしょう。きっと、お苦しみになったでしょうね。」
 すると、印度紳士はジャネットの手を、ひしと握りしめて、いいました。
「あなたは、何でもわかる若い御婦人だね。」
「姉さん、カリスフォド小父さんに、あの話をした?」と、ドウナルドが大きな声を立てました。「あの『乞食じゃアない小さな女の子』の話をさ。あの子がいい着物を着てるって、話した? きっとあの子も、今まで行方不明だったのを、誰かに見付け出されたのだよ。」
「あら、馬車が来た。」と、ジャネットが叫びました。「うちの前で止ったわ。お父様のお帰りだわ。」
 皆は窓の所へ飛んで行きました。
「ああ、お父さんだよ。」と、ドウナルドが告げました。「でも、小っちゃな女の子はいないよ。」
 三人はじっとしていられなくなったので、先を争って玄関へ飛び出しました。お父様がお帰りになると、いつも子供達はそうして迎え入れるのでした。三人が飛び上ったり、手をったり、抱き上げられて接吻されたりしている気配が、部屋の中にいても、はっきり感じられました。
 カリスフォド氏は立ち上りかけて、またどかりと椅子の中に身を落しました。
「駄目だ、俺は何というやくざな人間だろう。」
 カアマイクル氏の声が、戸口に近づいて来ました。
「今は、駄目だよ。カリスフォドさんとお話をすましてからにしてくれ。その間、ラム・ダスと遊んでたらいいだろう。」
 戸が開いて、カアマイクル氏が入って来ました。氏は前よりも血色がよく、活々いきいきした顔をしていましたが、眼には失望の色を湛えていました。病人の待ちかねた眼付を見ると、氏はよけい気づかわしげになりました。
「どうだった?」と、カリスフォド氏が訊ねました。「ロシヤ人がひきとったというその子は、どうだった?」
「その子は、我々の探している娘じゃアなかったのです。クルウ大尉の娘よりは、ずっと年下でしてね。名前はエミリイ・クルウなのです。私はその子と会って話して来ました。ロシヤ人の家族は、委細を聞かしてくれましたよ。」
 印度の紳士の失望といったらありませんでした。紳士は今まで握っていたカアマイクル氏の手を離して、だらりと自分の手を落しました。
「それじゃア、また捜索をやりかえさなければならないんだな。じゃア、やりなおすまでのことだ。まア、そこに掛けたまえ。」
 カアマイクル氏は腰を下しました。彼は自分が健康で幸福しあわせなせいか、この不幸な病人が、気の毒で、だんだん好きになって来るのでした。このうちの中に一人でも子供がいたら、少しは寂しさもまぎれるだろうに。こうして一人の男が、一人の子供を不幸にしているという思いのため、絶え間なく悶えているとは――大屋敷の主人は、病人に元気をつけるようにいいました。
「大丈夫、まだ見つけられますよ。」
「すぐまた捜索を始めにゃアならん。ぐずぐずしちゃアいられない。」カリスフォド氏はいらいらして来ました。「君、何か新しい心当りはないだろうか?――何かちょっとした心当りでも。」
 カアマイクル氏も落ちつかない風に立ち上り、考えながら部屋の中を歩き廻りました。
「何かありそうでもありますな。どれだけの根拠があるかは、私にも判りませんが、というのはドオヴァからここまでの汽車の中で、いろいろ考えているうち、ふと思いついたんですが。」
「どんなことです? あの娘が生きてるとすると、どこかにいるわけだ。」
「その通り、どこかにいるはずなのですよ。パリイの学校スクールという学校スクールは、もう捜索の余地がありません。だから、今度はパリイを切り上げて、ロンドンに移るんですな。つまり、ロンドンに捜索の手を移すというのが、私の思いつきです。」
「ロンドンにも無数の学校がある。」カリスフォド氏はそういってから、ふと何かを思い出して、かすかに身を起しました。「そら、隣にだって一つあるじゃアないか。」
「じゃア、隣から始めることにしたらいかがです。近い所から始めるとすると、隣より近いところはないわけですからな。」
「その通りだ。それに隣には一人私の眼をつけている娘がある。だが、その子は生徒じゃアないんだ。ちょっと色の黒い孤児みなしごで、とても、クルウ大尉の子供とは思われないけれど。」
 ちょうどその時、あの魔法が――あの手際のいい魔法が、また働き出したのでしょう。ちょうど印度の紳士がそういった時、ふとラム・ダスが入って来て、主人に額手礼サラアムをしました。黒い眼には隠しきれない昂奮の色を湛えていました。
「旦那様、あの子が自分でやってまいりました、あの旦那様が、可哀そうだと仰しゃった娘が。屋根づたいにあの娘の部屋に来たといって、猿を伴れてまいりました。ちょっと待っているように申しておきましたが、会ってお話になったら、少しはおまぎれになりはしませんでしょうか。」
「あの子とは?」と、大屋敷の父が訊ねました。
「それあの子さ、今噂をしていた娘のことさ。学校の小使をしているんだ。」印度の紳士はそういうと、今度はラム・ダスの方に手を振っていいました。「よろしい、その子に会ってみたいから、伴れて来なさい。」そしてまた、カアマイクル氏の方にいいました。「実は君の留守中、寂しくてたまらないところへ、ラム・ダスが来て、不幸なあの子の話をしてくれたのさ。で、ラム・ダスと共力きょうりょくして、あの子を助ける工夫をしたのだよ。子供だましのようなことだけれど、そんなことでもないと、私はつまらなかったのだ。だが、ラム・ダスのあの軽い足がなかったら、あんなはなしのような計画は実現出来なかったろうよ。」
 そこへ、セエラが入って来ました。猿は、出来ればいつまでもセエラのそばを離れたくなさそうな顔をしていました。
「また、あなたのお猿が逃げて来ましたのよ。」とセエラは頬を紅らめ、さわやかな声でいいました。「昨晩ゆうべ、私の部屋の窓の所に来ましたので、寒いといけないと思って、入れてあげましたの。宵の口だと、すぐお返しに上るのでしたけど、あまり遅いのでやめました。あなたは御病気ですから、せっかくお休みになってるところを、お起しでもすることになると悪いと、思いまして。」
 印度紳士のうつろな眼は、セエラの方に惹かれて行きました。
「それはどうも。よく気が付いて下すったねえ。」
 セエラは、戸口の近くに立っているラム・ダスの方を向きました。
「お猿は、あのラスカアの方にお渡ししましょうか。」
「あの男がラスカアだということを、どうして御存じかね?」
 紳士はほほえみかけました。
 セエラは、いやがる猿をラム・ダスに渡しながら、
「そりゃア知っておりますわ。私、印度で生れたのですもの。」
 印度紳士は顔色を変えて、立ち上りました。セエラはちょっと吃驚びっくりしました。
「あなたは、印度で生れたと? それは、ほんとですか? ちょっとこっちへ来て御覧。」
 手をさし出されたので、セエラは紳士の方に行き、紳士の手の上に、自分の手を置きました。彼女はじっと立って、緑鼠色あおねずみいろの眼で不思議そうに紳士の眼を見ました。この人は、どうかしたにちがいない。――
「あなたは、隣に住んでおられるのだね。」
「はい、ミンチン女塾におりますの。」
「でも、生徒ではないのだね?」
 セエラは、口許に妙な微笑ほほえみを漂わせました。彼女は、ちょっとためらってからいいました。
「私、自分が何なのだか、よく判りませんの。」
「それは、またどうして?」
「はじめは生徒で、特別の寄宿生でしたけれど、今はもう――」
「生徒だった? そして、今は何なのかね?」
 セエラは、また妙に悲しげな微笑を口許にただよわせました。
「今は私、屋根裏部屋で、小使娘の隣に寝ております。そして、料理番の使に出されたり――料理番のいうことは何でも聞かなくちゃアならないのです。それから、小さい人達の勉強も受けもっています。」
 カリスフォド氏は、力を失ったように椅子の中に身を落しました。
「カアマイクル君、君この子に訊いてくれたまえ。私は、もう駄目だ。」
 大屋敷の父親は、小さな娘と話すのが上手でした。彼は美しい声で、はげますようにセエラに話しかけました。
「ね、嬢や、その『はじめ』っていうのは、いったいどういう意味なの?」
「お父様が、あそこへ私を伴れていらしった時のことですわ。」
「そして、そのお父様はどこにおられるの?」
「亡くなりましたの。」セエラは静かに静かにいいました。「お父様は、何もかも失くしてしまったので、私のいただくものは、もう何にもなかったのです。それに、私の世話をしてくれるものは一人もないし、ミンチン先生にお金を払って下さる方もないので――」
「カアマイクル君!」印度紳士は声高に呼びかけました。「カアマイクル君!」
 カアマイクル氏は、小声で紳士に、
「この子を怯えさせちゃアいけませんよ。」と耳打ちしました。それから、声を改めてセエラにいいました。
「じゃア、そんなわけで屋根裏にやられ、小使にされてしまったのだね。そういうわけだったのだね。」
「誰も、面倒をみて下さる方がなかったものですから。お金はちっともありませんでしたし、私は、もう誰のものでもなかったのです。」
「お父さんは、どうしてお金を失くしたのだね?」
 印度紳士は、息をのみながら口をはさみました。
「御自分で失くしたわけじゃアないんですの。仲のいいお友達があって――お父様は、その方がそれはお好きでしたのよ。お金を取ったのは、その方なの。お父様は、その方を信じすぎたものですから。」
 印度紳士の息づかいは一層せわしくなりました。
「でも、その友人には、何も悪気があったわけじゃアないのかもしれんよ。何かの手違いからそんなことになったのかもしれんよ。」
 セエラはそれに答えた時、自分の声がどうしてこんなにげきしているのか、不思議なくらいでした。激して響くと知っていたら、病気の紳士のためにも、どうかして押し静めようとしたにちがいありません。
「どのみち、お父様にとって、苦しみは同じことでしたわ。お父様は、その苦しみのためにお亡くなりになったのですもの。」
「お父さんの名は何ていうのだい? え?」と、印度紳士は訊ねました。
「ラルフ・クルウって名ですの。クルウ大尉ともいわれていました。亡くなったのは印度ですの。」
 病人のやつれた顔が痙攣けいれんしました。ラム・ダスは急いで主人のそばへ飛び寄りました。
「カアマイクル君、これがあの子だ。この子にちがいない。」
 セエラは、紳士が死ぬのではないかと思ったほどでした。ラム・ダスは主人の口に薬を注ぎました。セエラは、そのそばにふるえながら立っていました。彼女はたまげたようにカアマイクル氏を見上げました。
「私が、何の子だと仰しゃるの?」
「この方は、あなたのお父様のお友達なのですよ。びっくりしちゃアいけません。我々は二年の間、あなたを探し廻っていたのですよ。」
 セエラは手を額にあてました。唇はわなわなふるえていました。セエラはまるで夢の中にいるように思わず囁きました。
「それなのに、私はその二年の間、壁のすぐ向う側の、ミンチン女塾にいたのだわ。」

十八 「つもりはなかった」


 くわしい話をセエラにしてくれたのは、美しい、感じのいいカアマイクルの奥様でした。カアマイクル夫人はばれるとすぐ、街を横切って印度紳士の家に来、セエラをその暖かい腕にいだきとって、これまでのいきさつを細かに話してくれたのでした。カリスフォド氏は、この思いがけない出来事に昂奮して、病気のからだに障るほどでした。
「私は誓って、あの子を手放したくない。」
 身体に障るといけないから、セエラを別室につれて行こうという話が出た時、カリスフォド氏は力なげに、カアマイクル氏にそういいました。
「この方のお世話は、私がしてあげてよ。」と、ジャネットはいいました。「もうじき、お母様も入らっしゃるでしょう。」
 ジャネットは、セエラを書斎から伴れ出すと、こういいました。
「あなたが見付かって、私達はうれしくてたまらないのよ。どんなにうれしがってるか、あなたにはとてもおわかりにならないくらいよ。」
 ドナルドは両手をポケットに入れて立っていました。彼は省みて自分を責めているようでした。
「僕がお金を上げた時、ちょっとあなたの名前を訊きさえしたらよかったのにね。あなたはきっとセエラ・クルウだと答えたでしょう。そうすれば、あなたを探す世話もなかったのに。」
 そこへ、カアマイクル夫人が入って来たのでした。夫人はひどく感動しているようでした。彼女は、ふいにセエラを抱きしめて接吻しました。
「嬢やは、すっかりたまげているのね。でも、驚くのに不思議はありませんわね。」
 セエラは、何といわれても、次の一事よりほか考えられませんでした。彼女は閉った書斎の扉の方をちらと見ていいました。
「あの方ね、あの方が、お父様のその、悪いお友達だったの? ほんとうにそうなの?」
 カアマイクル夫人は泣きながら、またセエラに接吻しました。この子は永いこと接吻などされたことはなかったのだから、何度も何度も接吻してやらなければならない、と夫人は思いました。
「あの方は、決して悪い方じゃアなかったのですよ。あの方は、あなたのお父様のお金を、失くしてしまったわけではないのですよ。ただお失くしになったと思っただけなのですよ。それに、あの方はお父様を愛していらしったからこそ、悲しみのあまり御病気になって、一時は気さえ確かではなかったほどなのですよ。あの方も、熱病で死にそうだったのよ。けれど、あなたのお父様はあの方の御病気がまだ悪いさなかに、亡くなっておしまいになったのですよ。」
「そうして、あの方は、どこに私がいるかは御存じなかったのね。私はこんな近くにいたのに。」
 セエラの頭にはなぜか、こんな近くにいたのにということが、こびりついていました。
「あの方は、あなたがパリイの学校にいらっしゃるとばかり思っていらしったのですよ。」カアマイクル夫人は、いって聞かせました。「それに、いつもいつも間違った手掛りに迷わされていらしったんですの。でも、あの方は到る所、あなたを探し廻ってらしったんですよ。あなたが、いたましい様子で通りかかるのを見ていながらも、それが気の毒な友人のお子だとはお気づきにならなかったのね。でも、あの方は、あなたもやはり小さい女の子だもので、気の毒でたまらなくって、どうかしてあなたを幸福しあわせにしてあげようとお思いになったのね。で、あの方はラム・ダスにいいつけて、あなたのお部屋の天窓から、いろいろのものを持ちこんだわけなのですよ。」
 セエラは、うれしさのあまり飛び立つばかりでした。彼女の顔色はみるみる変って来ました。
「じゃア、あれは皆ラム・ダスさんが持って来て下すったんですの? あの方がラム・ダスさんにおいいつけになったんですって? 私の夢をうつつにして下すったのは、それじゃア、あの方だったのだわね。」
「そうですとも。あの方は、親切ないい方なのですよ。あの方は、行方のしれないセエラ・クルウのことを想えばこそ、あなたのこともお気の毒になったのですよ。」
 書斎の扉が開いて、カアマイクル氏が姿を見せ、セエラに来いというような様子をしました。
「カリスフォドさんは、すっかり気持がよくおなりです。だから、あなたに来ていただきたいと仰しゃってです。」
 セエラは、カアマイクル氏の言葉が終るのを待たず、書斎に入って行きました。入って行った時のセエラの顔は、さっきとはまるで変っていました。
 セエラは、紳士の椅子のかたわらに立ち、両手を腕に組み合せて、うれしそうにいいました。
「あなたがあの、美しいものをたくさん下すったのですってね。」
「そうだよ、可愛い嬢や、私が送ってあげたのだよ。」
 紳士は永い間の病気や心配のため、心も体も弱りはてていました。が、彼は、セエラを抱きしめてもやりたいというようなやさしい眼で、セエラを見ました。セエラは父からこれに似たまなざしをよく受けたものでした。で、セエラはそのまなざしを見ると、すぐ紳士の傍に跪きました。昔父とセエラが無二の親友であり、愛人同士だった頃、父の傍に跪いたように。
「じゃア、私のお友達はあなたでしたのね。あなたが私のお友達だったのですわねエ。」
 そういうとセエラは、紳士の痩せ細った手の上に顔を押しあてて、幾度も幾度も接吻しました。
 それを見ると、カアマイクル氏は細君に囁きました。
「あの人も、もう三週間とたたぬうちに、きっと元の身体になるだろうよ。ほら、あの様子を御覧。」
 カアマイクル氏のいった通り、紳士の様子はすっかり変ってしまいました。『小さな奥様』が見付かったからには、また何か新しい計画を考えなければなりません。まず第一に、ミンチン先生の問題がありました。一応先生にも面会の上、生徒の一身上に起きた変化を、報告しなければならないでしょう。そして、セエラはもう学校には戻らないことになりました。印度紳士はその点だけは、何といっても聞きませんでした。セエラは紳士の家にとどまらなければならぬ、ミンチン先生のところへは、カアマイクル氏が行って、話して来るというのでした。
「帰らなくてもいいんですって? まアうれしい。」とセエラはいいました。「先生は、きっとお怒りになってよ。あの方は、私がお嫌いなのよ。でも、それは私が悪いからかもしれませんわ。なぜって、私の方でも先生が嫌いなのですもの。」
 だが、そこへちょうどミンチン先生自身が、セエラを探しにやって来ましたので、カアマイクル氏はわざわざ出掛けて行かないでもすみました。
          *        *        *
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 その晩、学校では皆いつものように、教室の煖炉の前に集っていました。そこへ、アアミンガアドが一通の手紙を持って、丸い顔に、妙な表情を浮べながら入って来ました。
「どうしたの?」と、二三人一時に叫びました。
「私、たった今、セエラさんから、この御手紙いただいたの。」
「セエラからですって?」「セエラはどこにいるの?」
「おとなりよ。印度の小父さんの所にいるのよ。」
「え? あの子は逐い出されたの?」「ミンチン先生は、そのことを知っているの?」「どうして、手紙なんかくれたの?」「よう、話してったら。」
 余りの騒ぎにロッティなどは泣き出しました。アアミンガアドはのろのろ説明し始めました。
「ダイヤモンドの鉱山はやっぱりあったのよ。やっぱりあったんですって。」
 開いた口と、見張った眼とが、彼女の方に向けられました。
「あの話は真実ほんとうだったのよ。何か起って、ちょっとの間カリスフォドさんももう駄目だと――」
「カリスフォドさんて?」とジェッシイは叫びました。
「印度の紳士よ。それからクルウ大尉も、やっぱりそう思って――死んでしまったのよ。それから、カリスフォドさんも熱病で死にかけたんですって。そして、あの人にはセエラがどこにいるか判らなかったんですって。それから、お山には何百万も何百万ものダイヤモンドがあると判ったの。その半分はセエラさんのものなの。それなのにセエラさんは、メルチセデクだけをお友達にして、屋根裏に住んでいたのね。今日カリスフォドさんがセエラを見付けて伴れてってしまったの。もう決して帰って来ないのよ。せんよりも、もっと立派なプリンセスになるのよ。十五万倍も立派になるのよ。――明日のおひるから、私セエラさんに会いに行くのよ。」
 あとは、ミンチン女史も静めかねるような騒ぎでした。少女達は規則なぞ忘れて、夜半よなかまで教室にとどまり、アアミンガアドをかこんで、セエラの手紙を読み返しておりました。手紙の話は、セエラのつくり話などとは比べものにならないほど、奇想天外でした。それに、その話はセエラその人と、隣家のあの印度紳士との間に起った話なので、ひどく魅惑チャアムがあるのでした。
 この話を耳にしたベッキイは、いつもより早めに屋根裏に上って行きました。彼女は皆から離れて、もう一度、あの小さな魔法の部屋が見たかったのでした。「あの部屋はどうなるのだろう。」ミンチン先生の手に渡るようなことはなさそうに思えました。「何もかも取り払われて、屋根裏はもとの通り空虚からっぽな殺風景なものになってしまうのだろう。」ベッキイは、セエラのためにはこんなことになってうれしいとは思いましたが、後のことを思うと、上って行くうちに自然喉がつまり、眼が曇って来ました。「もう今頃は火の気もないだろう。薔薇色のラムプもないだろう。夕餉ゆうげもないだろう。火のほてりを受けながらお話をしてくれたり、本をよんでくれたりするプリンセスもいないのだろう。あのプリンセスも!」
 ベッキイはしゃくり上げて来る欷歔すすりなきを、ごくりとのみこみながら戸を押しあけました。と、思わず彼女は声を立てました。
 ラムプは室内に照りはえ、火は燃えさかり、夕餉の支度もちゃんと出来ています。そしてラム・ダスが笑いながら、彼女の方を見て立っているのです。
「お嬢様がお気づきになりましてね。ご主人様に、すっかりあなたのことをお話しになりましたのですよ。お嬢様は、御自分の幸運しあわせを、あなたにお知らせしたがっていらっしゃるのですよ。このお盆の上のお手紙を御覧下さい。お嬢様がお書きになったのです。お嬢様は、あなたが悲しくお休みにならないようにとお思いになったのでしょう。御主人は、明日あなたにも来ていただきたいと仰しゃっておいででした。明日から、あなたはお嬢様のお附きになるはずです。今夜は、これからここにあるものを、また屋根越しに持って帰らなければなりません。」
 輝かしい顔で、こういい終りますと、ラム・ダスは額手礼サラアムをして、身軽に、音も立てずに、天窓から抜け出して行きました。ベッキイはそれを見ると、「あの人はあんなにして、やすやすといろいろのものを運びこんだのだな。」と思いました。

十九 アンヌ


『大屋敷』の子供部屋は、今までにないような大騒ぎでした。子供達は『乞食じゃアない小さな女の子』と近づきになったため、こうまでうれしいことが湧き出て来ようとは、夢にも思いませんでした。セエラは、ひどい苦労をして来ていることのために、よけい皆から大事にされるのでした。誰も彼もが、セエラの身の上話を、繰り返し繰り返し聞きたがりました。誰しも炉辺で温かにしている時には、屋根裏のひどい寒さの話なども、気持よく聞くことが出来るものです。また、メルチセデクのことや、雀共のことや、天窓から頭を出すと見える四辺よもの景色のことなど聞くと、屋根裏部屋は面白い所のように思われるのがあたりまえです。そんな面白いことがあれば、寒くても、殺風景でも、そんなことは気になるまいと思われるのが当然です。
 子供達が一番よろこんだのは、あの饗宴と空想とがほんとになって現れて来たところでした。セエラはカリスフォド氏に見つけられた翌日、初めてこの話をしたのでした。その日、大屋敷の人達はお茶に招ばれ、セエラと一緒に炉の前に坐ったり、蹲ったりしていました。そこで、セエラは例の調子で、その話をしたのでした。印度の紳士も、セエラを見守りながら、耳を傾けていました。話し終るとセエラは印度の紳士を見上げ、紳士の膝に手をかけていいました。
「私のお話はこれだけですの。今度は小父さんの方のお話を聞かして下さいな、アンクル・トム。」紳士の望みで、セエラは紳士を『アンクル・トム』と呼んでいました。「小父さんのお話は、まだ伺いませんのね。きっと立派なのにちがいないわね。」
 そこで、カリスフォド氏はこう語り出しました。病気で物憂く、いらいらしている時でした。一人寂しく坐っていると、ラム・ダスはよく外を通って行く人の品定めをして、病人の気をかえようとしました。中でも一番よく前を通って行くのは、一人の女の子でした。カリスフォド氏はちょうど見付からぬ小さい娘のことを絶えず考えていたところでした。それにラム・ダスから、猿を逃がして、その子の部屋に捕えに行った時の話を聞くと、何かその子に心を惹かれるように感じました。ラム・ダスはその娘の顔色の悪いこと、またその子の様子が召使になどされる下層社会の子らしくないということなども話して聞かせました。ラム・ダスは話すたびに、こんなこともございましたよと、その子の生活の惨めな事実を見付けて来るのでした。ラム・ダスはまた、屋根を伝って行けば、造作なく天窓からその子の部屋に入れるということも話しました。で、そこからすべての計画が始まったわけでした。
「旦那様!」と、ある日ラム・ダスは申しました。「あの子が使に出た留守に、屋根から入って、あの子の部屋に火をおこしておいてやることも出来ると存じます。あの子は濡れ凍えて帰って来て、火を見ると、きっと留守の間に魔法使がおこしておいてくれたのだと思うでございましょう。」
 この思いつきは、非常に奇抜でしたので、カリスフォド氏も、暗い顔に輝かしい微笑を湛えたほどでした。それを見ると、ラム・ダスは夢中になって、火をおこす他に、これこれのこともやろうと思えば造作なく出来ます、と主人に話しました。ラム・ダスの思いつきや計画は、子供じみていて愉快でした。それを実行する準備に忙しかったので、いつもは退屈な永い日が、愉快に飛びすぎて行くようでした。折角の饗宴を、始めない先にミンチン先生に見付けられたあの晩は、ラムダスは持って行くものをすっかり自分の部屋に用意して、天窓から様子を見ていたのでした。彼の背後うしろには、彼と同じにこの冒険に夢中になっている人が、彼を手伝うためにひかえておりました。彼は石盤瓦スレエトの上に腹這いになって、天窓から、折角の饗宴がめちゃめちゃにされるところも、ちゃんと見ていました。で彼は、セエラが疲れはててぐっすり寝こんでしまったのを知ると、火を細くした燈籠カンテラを持って、そっとセエラの部屋に忍びこみ、助手が天窓の外からさし出す品を、中で受け取ったのでした。セエラが寝ながらちょっと身動きした時などは、ラム・ダスは燈籠カンテラの火を隠して、床の上に平たく身を伏せたりしました。――子供達は、後から後から質問してこれだけのこと――いやまだいろいろのことを、カリスフォド小父さんから、聞き出したのでした。
「私、ほんとにうれしいわ。」と、セエラはいいました。「私のお友達が小父さんだったのだと思うと、うれしくてたまらないわ。」
 セエラと小父さんとは、たちまち非常な仲よしになりました。二人はいろいろのことで、不思議にしっくりと気が合うのでした。印度紳士は、今までにこんなの気の合う人とめぐりあったことはありませんでした。一月とたたぬうち、彼は、カアマイクル氏が予言したように、まったく別人のようになりました。紳士はいつも愉快そうで、気がひきたっているようでした。あんなに重荷にしていた財産も、今は持っていてよかったと思っていました。まだまだセエラのためにしてやることは、いくらでもあるのです。二人は戯談じょうだんに、紳士を魔法使だということにしていました。で、彼はすっかり魔法使になりすまして、何かセエラを吃驚びっくりさせるようなことばかり考えていました。セエラはふと部屋の中に、美しい花が咲いているのを見つけたこともありました。と思うと、また枕の下から思いもつかなかったような小さな贈物が出て来ました。ある晩のこと、セエラが小父さんと坐っていると、ふと戸の外に、強い前脚で戸を掻くような音がしました。何かと思って、セエラが戸を開けてみますと、大きな犬――見事なロシアの猪狩犬ボアハウンドが立っていました。しかも、金銀で造った首輪には、次のような字が、浮き上っていました。
『我名はボリス。プリンセス・セエラのしもべ。』
 印度紳士の一番好んだのは、襤褸を着た宮様プリンセスの思い出でした。大屋敷の人達や、アアミンガアドやロッティの来る日も、にぎやかで愉快でしたが、セエラと印度紳士と二人きりで、本を読んだり話し合ったりする時間は、何か二人きりのものだというようで、特別うれしいのでした。二人で過す時間の間には、いろいろ面白いことが起りました。
 ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セエラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。
「セエラ、何のつもりになっているの?」
 セエラは頬をぽっと輝かせました。
「こういうつもりだったの。――こういうことを思い出していたのよ。ある日大変ひもじかった時、私の見た子のことを。」
「でも、たいていの日はひもじかったんじゃアないのかい?」印度の紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」
「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」
 セエラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セエラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。
 セエラは語り終ると、こういいました。
「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもりになっていたのよ。」
「どういうことをしてあげたいのだね? 女王殿下プリンセス。何でも、お好きなことを遊ばしませ。」
 セエラは、ややためらいながらいいました。
「私、あの――私には大変なお金があると仰しゃったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こういおうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が――殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その書付かきつけは、私の方に廻してくれって。――そんなことをしてもいいでしょうか?」
「いいとも。早速、明日の朝行って来たらいいだろう。」
「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味っているでしょう。ひもじい時には、何かつもりになったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」
「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方がいい。」
「そうね。」と、セエラはほほえみました。「私、人の子達に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」
 次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士のうちの前に馬車が着いて、毛皮にくるまれた紳士と少女が、玄関を降りて来るのでした。その見なれた少女の姿を目にすると、ミンチン女史は過ぎ去った日のことを思い起しました。すると、そこへもう一人、見なれた少女の姿が現れました。その姿を見ると女史はひどくいらだって来ました。いうまでもなくそれはベッキイでした。ベッキイはすっかり小間使こまづかいになりすまして、いそいそ若い御主人に従い、膝掛や手提を持って、馬車のところまで見送りに出て来たのでした。いつの間にかベッキイは血色もよく、むっちりと肥っていました。
 馬車はまもなく、パン屋の店先につけられました。馬車から二人が出て来た時には、不思議にもまた、ちょうどいつかの時のように、おかみさんが出来たてのパンを窓にさし入れていました。
 セエラが店に入って行きますと、おかみさんは振り返ってセエラの方を見ました。セエラを見ると、甘パンはうっちゃらかして、帳場の中に坐りました。おかみさんはしばらくの間、穴のあくほどセエラの[#「セエラの」は底本では「エセラの」]顔を見つめていましたが、人のいい顔はじき、はればれとして来ました。
「確かに、お嬢様にはお目にかかったことがございますわ。でも――」
「ええ、お目にかかりましたわ。あの時あなたは、私に甘パンを六つも下さいましたわね。それから――」
「それから、あなたは六つのうち五つまで、あの乞食娘にやっておしまいになりましたのね。私はそのことが忘れられませんでしたの。初めは、何だかわけがわかりませんでしたけど。」
 おかみさんは、今度は印度紳士の方に向き直って、こう話しかけました。
「失礼でございますが、旦那様。こんなお小さいのに、他人がひもじいかどうかなんて気のつくお子は、お珍しゅうございますわ。私、そのことを、幾度も幾度も考えてみたのでございますよ。これは、とんだことを申してしまいました。お嬢様、でも、あなた様はまア、お顔色がよくおなりですこと――それに、あの、以前よりはずっとお丈夫そうに、そして、お立派に――」
「おかげさまで丈夫よ。それに――以前よりはずっと幸福しあわせになったのよ。――で、私、あなたにお願いがあって来たの。」
「私に、お願いですって?」と、おかみさんはうれしそうに笑いました。「まアお嬢様、それはそれは、どんな御用でございますの?」
 そこで、セエラは帳場によりかかって、お天気の悪い日、ひもじそうな宿無やどなしの子を見たら、パンを恵んでやってくれと、頼みました。
 おかみさんは話の間、セエラをじっと見つめて、びっくりしたような顔をしていました。が、聞き終るとまた、
「まア、それはそれは。」といいました。「私に施しをさせて下さるなんて、うれしゅうございますわ。御覧の通り、私はほんのもうその日暮しで、自分の力ではとても大したことは出来ないんでございますの。気の毒な人はそこら中におりますのにね。でも、失礼か存じませんが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますの。あの日以来、雨の日には、あなた様のことを思い起して、少しずつパンを恵んでやることにしているのでございますよ。――あの日は、ほんとに寒くて、ひもじそうでいらっしゃいましたわね。それなのに、あなた様は、まるでプリンセスかなにかのように、惜しげもなく甘パンを施しておしまいになりましたのね。」
 プリンセスと聞くと、印度の紳士は思わず微笑しました。セエラも、あの子のぼろぼろな膝にパンを置きながら、心の中でつぶやいたことを思い起して、ちょっと微笑しました。
「あの娘は、ひもじそうだったわ。」と、セエラはいいました。「私よりもひもじそうだったわね。」
「もう死にそうにお腹がすいていたのでございますよ。あの子は、あれからよく私に、あの時のことを話してくれましたが――ぐしょぐしょになって坐っていると、可哀そうに、自分のお腹の中で、狼がはらわたを食い裂いているような気がしましたって。」
「あら、それじゃアあなた、あれから、あの子に会ったの? 今どこにいるか、御存じ?」
「存じておりますとも。」おかみさんは、いつよりもよけい人のよさそうな顔をして笑いました。「そらあそこに、ね、お嬢様、あの奥の部屋に、もう一月もいるんでございますよ。それに、あの子は、なかなかきちんとした、いい性質の子になりそうでございますよ。思いの他役に立ちましてね、店でも、台所でも、乞食をしていたとは思えないほど、手助けをしてくれますの。」
 おかみさんは、奥の戸口に歩みよって、声をかけました。すると、すぐ一人の娘が、おかみさんのうしろから、帳場に出て来ました、小綺麗な服をきちんと来て、もうひもじさなどは忘れたような顔をしていましたが、あの乞食娘にはちがいありませんでした。少女は羞しそうにしていましたが、可愛い顔立をしていました。今はもう人間らしい生活をしているためか、あの野蛮な眼付はすっかりなくなっていました。少女はふと見るとすぐ、セエラがいつかパンをくれた人だと知ったらしく、じっと立ったまま、いつまでも見あきぬようにセエラの顔を見つめておりました。
「ね、こうなのでございますよ。」と、おかみさんは説明しました。「ひもじい時にはいつでもおいで、と私が申したものでございますから、この子はよく店に来るようになりました。来ると、私は何か用をしてもらうようにしたのでございますよ。ところが、この子は何でもいやがらずにしてくれますので、私は何だか、だんだんこの子が好きになってまいりましたの。で、とうとううちに来てもらいましてね。この子は私の手伝いをしてくれるようになりました。お行儀もよいし、恩義も知っていますし、普通の娘とちっとも変りはありません。名前はアンヌと申します。アンヌとばかりで、苗字も何もないのでございますよ。」
 セエラとアンヌとは、ちょっとの間、ただ黙って、じっとお互の顔を見合っていました。やがて、セエラはマッフの中から手を出して、帳場の向うのアンヌの方にさし出しました。アンヌはその手を握りました。二人はまたお互に眼を見合せました。
「私、うれしくてよ。」と、セエラはいいました。「私、今しがた、いいことを考えていたの。きっとおかみさんは、あなたにパンを施させて下さるでしょう。あなたもきっと、その役をよろこんでして下さると思うわ。あなただって、ひもじい味はよく知ってらっしゃるのですものね。」
「はい、お嬢さん。」と、少女は答えました。
 アンヌは、それぎり何もいわず、つっ立っていたばかりでしたが、セエラには、アンヌの気持がよく解るような気がしました。アンヌは、いつまでもそこに立って、セエラが印度紳士と一緒に店を出、馬車に乗って去って行くのを、じっと見送っていました。





底本:「小學生全集第五十二卷 小公女」興文社、文藝春秋社
   1927(昭和2)年12月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
 その際、次の書き換えを行いました。
「或→ある・あるい 居→い・お 却って→かえって 彼処→かしこ 難→がた 曽て→かつて 此処・此室・此家・茲→ここ 此方→こっち 毎→ごと 悉く→ことごとく 此の→この 直き→じき 切りに→しきりに 従って→したがって 暫く→しばらく 知れない・ません→しれない・ません 直ぐ→すぐ 凡→すべて 其処→そこ 傍→そば 沢山→たくさん 忽ち→たちまち 給→たま 度→たび 為→ため 何誰→だれ 丁度→ちょうど 就いて→ついて 唯→と 何処→どこ 何誰・何方→どなた 何の→どの 共に→ともに 何故→なぜ 筈→はず 頁→ページ 殆んど→ほとんど 先ず→まず 全く→まったく 迄→まで 間もなく→まもなく 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 許→もと 貰→もら 易→やす 他所→よそ 宜し→よろし」
※底本は総ルビでしたが、一部を省きました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ひ」「あかり」と読んで単独で用いる際は「灯」、熟語をつくる際は「燈」とする底本の使い分けをなぞりました。
※「ジュフアジ」と「ジュフラアジ」と「ジフアジ」、「ベッキィ」と「ベッキー」と「ベッキイ」、「パリィ」と「パリイ」、「蹈」と「踏」の混在は、底本通りです。
入力:大久保ゆう
校正:門田裕志、浅原庸子
2005年5月19日作成
2013年9月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「旬+力」    38-4


●図書カード