汪士秀

蒲松齢

田中貢太郎訳




 汪士秀おうししゅう盧州ろしゅうの人であった。豪傑で力が強く、石舂いしうすを持ちあげることができた。親子で蹴鞠しゅうきくがうまかったが、父親は四十あまりの時銭塘江せんとうこうを渡っていて、舟が沈んで溺れてしまった。
 それから八、九年してのことであった。汪は事情があって湖南へいって、夜、洞庭湖どうていこに舟がかりした。その時はちょうど満月の夜で月が東の方にのぼって、澄んで静かな湖の面は練ったようになっていた。汪は美しい月の湖上をうっとりと眺めていると、不意に五人の怪しい者が水の中から出て来て、持っていた大きな敷物を水の上に敷いたが、その広さは半畝はんぽばかりもあるものであった。一行はその上に酒肴をたくさん並べて酒盛の用意をした。肴を入れた器と器の触れる響がしたが、それは温かであつぼったい響で、陶器のような焼物の響ではなかった。
 そのうちに三人の者が順じゅんに坐って、後の二人はその給仕についた。坐っている者の一人は黄な衣服を着、一人は白い衣服を着ていたが、頭の上のずきんは皆黒かった。三人の者はぎょうぎょうしい服装をして肩を並べていたが、そのこしらえはひどく時代のついた珍らしいものであった。しかし月の光がぼうっとしているのではっきりと見ることはできなかった。そして給仕をしている者は、どれも黒褐色の衣服を着ていたが、そのうちの一人はこどもで、他の一人はとしよりのようであった。と、黄な衣服を着た者の話す声が聞えて来た。
「今晩は月がひどくいから、面白く飲めるね。」
 すると白い衣服を着た者がいった。
「今晩のさまは、広利王こうりおうが梨花島で宴会する時のようだね。」
 三人は互いに勧めあって酒を飲んだが、どうも言葉が小さいので、多くは聞きとれなかった。船頭はおそれて船底に隠れて大きな息もしなかった。汪は給仕の叟の方に注意を向けて細かく見ると、自分の父親にそっくりであった。しかし、その言葉を聴いてみると父親の声ではなかった。
 夜が更けてから不意に一人がいった。
「月が良いからまりろうじゃないか。」
 そこで見ていると童が水の中へ入っていって一つの円い物を取って来た。それは一抱えほどのものであったが、中に水銀でも入れてあるように裏と表が透きとおって見えた。坐っていた者も皆起った。黄な衣服を着た者が叟を呼んで一緒に蹴りだした。そして円い物は一丈あまりも空に飛んでいったが、その光はぎらぎらと輝いて眼さきをくらました。と、不意にどんと遠くの方で蹴りあげた円い物がそれて舟の中へ堕ちて来た。蹴鞠に自信のある汪は自分の技倆をふるいたくて仕方のない時であったから、力を極めて蹴りかえしたが、それは軽いやわらかな不思議な足ざわりのものであった。円い物は十丈あまりも空にあがったが、中から漏れる光が虹のように下にした。そしてっていくように落ちていったが、空をかすめてゆく彗星すいせいのようで、そのまま水の中へ落ちてしまった。どぶんという水の泡だつ音がそこらから聞えて来た。三人の者は皆怒った。
「何者だ、あの人間は。俺達の清興あそびを敗ったのは。」
 するととしよりは笑っていった。
「いい、いい。あれは私の家でやる流星拐りゅうせいかいの手だよ。」
 白い衣服を着た者が叟の言葉に腹をたてていった。
「俺達が厭がっているのに、きさまが喜ぶということがあるか。」
 そこで、
「ちびと二人で、あのきちがいをつかまえて来い。そうでないとつちくらわしてくれるぞ。」
 といった。汪は逃げることはできないと思ったが、しかしおそれなかった。汪は刀を持って舟の中に立っていた。と、見ると童と叟が武器を持って追って来た。汪は叟をじっと見た。それは自分の父親であった。汪は早口に、
「お父さん、私はここにいるのです。」
 と叫ぶようにいった。叟はひどく驚いた。二人は顔を見合わして悲しみにたえられなかった。童はそこで逃げていった。叟はいった。
「お前は早くかくれなくちゃいけない。そうでないと皆が死ななくちゃならないぞ。」
 まだその言葉の終らないうちに、三人の者はもう舟にあがって来た。皆顔はうるしのように黒くて、そのひとみざくろよりも大きかった。怪しい者は叟をつかんでいこうとした。汪は力を出して奪いかえした。怪しい者は舟をゆりだしたのでともづなが切れてしまった。汪は刀で黄な衣服を着た者のひじった。臂が落ちた。黄な衣服を着た者はそこで逃げていった。白い衣服を着た者が汪に飛びかかって来た。汪は刀でそのあたまを切った。顱は水の中に堕ちて音がした。怪しい声は大声を立てながら水の中へ飛び込んでしまった。
 そこで船頭と相談して舟をやろうとしていると、やがて巨きなくちばしが水の面に出て来た。それは深いひろい井戸のようなものであった。それと共に四方の湖の水がはしるように流れだして、ごうごうという響がおこったが、にわかにそれが噴きあがるように湧きたって大きな浪となり、浪頭は空の星にとどきそうに見えた。湖の中にいたたくさんの舟は、であおられるように漂わされた。湖の上にいる人達はひどく恐れた。
 舟の上には石鼓せきこが二つあった。皆百きんの重さのあるものであった。汪はその一つを持って水の中へ投げた。石鼓は水を打って雷のように鳴った。と、浪がだんだんとなくなって来た。汪はまた残りの一つを投げた。それで風も浪もないでしまった。汪はその時父親をゆうれいではないかと疑った。叟はいった。
「わしはまだ死んではいない。わしと一緒に溺れた者は十九人あったが、皆、あの怪しい物に食われてしまったのだ。わしは球が蹴れたから、たすかっているので、あれは、銭塘の神に罪を犯したから、この洞庭へ逃げているのだ。あれは魚の精だよ、蹴ったものは魚のえなだ。」
 そこで父子は一緒になれたことを喜びあった。舟はその夜の中に出発した。夜が明けてから見ると舟の中に魚のひれが落ちていた。さしわたしが四、五尺ばかりもあった。そこでこれは宵に切ったひじであったということを悟ったのであった。





底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
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