埃及雜記

濱田耕作




          一

 埃及の入口ポートセイドの騷々しい港に船を降りて、一望百里鹽澤の外、何者も眼の前に見えない茫漠たる景色に接した私と倉田君とは、何處にナイルの恩惠たる黒土カムトの埃及が横つてゐるかを疑つたのである。これは丁度二十年前、私が太沽の沖合に船が著いて、何處に支那の國があるかを怪しんだと同じ感じであつた。併し暫くすると兩側に青い畑も見え、椰子と駱駝も現はれて來た。其の間に博覽會場の壞れた樣な家と、喪服を著けた樣な黒い不活溌な女が動いてゐるのを見た。是が私の中學生以來あこがれてゐた『フワラオーの圖』の第一印象である。
 此の一種失望の感は、曾て希臘のパトラスへ著いて、一旦古への希臘が私から失はれた時と殆ど同じ種類のものであつたが、希臘では其後多少空想の希臘を回復したのに引きかへて、埃及では遂にポートセイドで受けた此の最初の印象がコビリついて、埃及は所詮私に取つて詩の國であり得なかつたことを悲しむ外はない。私は之につけても日本へ船が著く時、門司にせよ長崎にせよ、如何に美くしい山河が旅客を迎へて、其の憧憬の念を益々深からしむるものがあるかを想像し得るのである。而して船から陸へ上つた時、此の美くしい第一印象を破壞する人間を發見しないかと懼れる。浮世繪の板畫に、美くしい女ばかりを想像して、横濱へ上陸した或る西洋人が、會ふ女一人として畫の樣な姿をしてゐないのに落膽且つ憤慨して、直に歸國してしまつたと言ふ話を聞いたが、私はそれでも兎に角カイロ、テーベス、アスワン[#「アスワン」は底本では「アワワン」]とデルタから上埃及まで旅する丈けの辛抱と好奇心を失はなかつた。

          二

 私は當時埃及に滯在して居られるセイス先生に會ふ爲に、カイロへ直行せずして先づアレキサンドリヤ市へ行くことにした。夕暮ア市より一つ手前の驛に停車した時、何だか私の姓を呼ぶ樣な女聲が聞こえたが、アラビヤ語には「ハマダ」と言ふ風な名前が少なくない上、こんな處で女の知合はないので、私は意に介せずして居た處、汽車が動いてから、私の車室に這入つて來て私を尋ねる英國婦人があるのに驚いた。是はセイス先生の逗つてゐられる親友クラウヂウス・パシヤ夫人で、此の驛で降りた方が其の家に近いから、先生と二人で態々迎へに來られたのであるが、私を探してゐる中に發車したので、自分丈け汽車に飛び乘つたのであるとのこと。私は此の異域でゆくりなく此の厚意に接して感激する外はなかつた。
 ア市の郊外ヂーニヤに於けるパシヤの閑居に、私は此の夕べ、牛津で別れた以來の老先生と手を握り、靜かなる食卓に夫人と三人語り合つて、夜の更くるを知らなかつた喜は何に譬へようか。次の日は先生に案内せられて、博物館を見て後二三の名所を訪ねたが、「ポムペイの圓柱」なる羅馬の遺跡に行つた時、ウロ/\としてゐる一人の若い西洋婦人が居つたが、遂に私共に彼女の「カメラ」で此の柱を背景に寫眞を撮つて呉れと頼むのであつた。安い御用と承諾して、其の代りに私共をも撮つて貰つた。世界七不思議の一であつた名高いフワロスの燈臺は、僅に港口に其の位置を留めてゐるばかり、圖書館の址は何處に尋ぬ可き由もない。たゞ稍々面白いのは、羅馬時代の「カタコムベ」であるが、元來低平なるデルタの端にある此の市は、たとへ埃及中で最も健康地であるにせよ、私共旅人には何等の感興を湧かしめない。たゞ嬉しかつたことは、私が此の地で寫眞の「フイルム」一本を買つた處、店の女が親切にも「カメラ」に入れ換へて呉れたことであつたが、此の夜私はチヾニヤの驛頭、セイス先生の柔い手を握り、期し難い再會を契つて別離の涙を呑む外はなかつた。動き出す汽車の窓から、影の如く先生の後姿が次第に夕闇の裡に消えて行く。私の心も闇く消えて行く。

          三

 カイロの騷がしい埃の町、出迎へて呉れた案内者サラーも宿屋の感じも、私達に所謂「オリエント」の惡い方面ばかりを印せしめた。此の遊覽地本位の市の、旅客に接する土人と埃及居住者とは、「ホテル」の番頭、給仕人、案内者、商店員と言はず、凡てがたゞ出來る丈けの利益を短時間のうちに占めようと考へ、其の極禮儀や節制をさへ失つてゐるらしく、此の金錢關係以外に、我々と彼等との間に何等人間的の交渉は成立してゐない。而して彼等以外の土人と我々との間は全く隔絶して、彼等は黒い顏を以て我々を白眼視してゐるのである。カイロに於いて私はヒユー氏の家庭の午餐に招かれ、又クレスウエル氏の懇切なる案内によつて、氏の專攻題目たる囘教建築を見物することを得たが、此等は皆な英人から受けた厚意である。其の間に於いてたゞアラビヤ博物館のハツサン氏が、我々をオールド・カイロの遺跡に導かれたことゝ、コブト博物館を訪問して、ハンナ氏に會つて、濃い「モツカ」を飮みながら心ゆく談話に耽つたのは、埃及に於いて本國人と接觸し得た稀なる機會であつた。而して之に由つて感じたことは、若しも斯かる機會がなほ多く與へられたならば、私の埃及觀は餘程變つたに違ひないと思つたことである。
 ギゼーの「ピラミツド」へは勿論カイロへ著いた翌朝直に出かけて行つた。而してナイルを始めて渡つたが、思つたよりも大きくなく、遙かに砂漠の黄褐色な臺地の端に立つてゐる「ピラミツド」の姿も、想像よりは小さく見えた。駱駝の乘心地はまことに船の樣な變なものであつたが、是れでなくては砂漠は渡れまい。
「ピラミツド」の内部へ這入つた時ほど無氣味のものはない。其の狹く險しい傾斜を暗中一本の蝋燭を便りに登つて行く間に、土人の案内者が屡々錢を貪つて「マグネシウム」を燃やす。好奇心も消えてたゞ早く外へ出たいと思ふばかりであつた。「ピラミツド」の上へは登ることを止めたが、一人の土人は私共に、金を呉れたら頂上まで十分間で往復して見せると言ふに至つては驚き且つ呆れた。私は其の男に『それは君の身體に惡いだらうから止める』と言つたら、『身體よりも金の方が大切だ』と言つた。萬事が此の主義と見える。

          四

 又、メムフイスの都の遺跡ほど淺ましいものはない。巨人の如き古王の石像が、死骸の樣に椰子の林の間に倒れてゐる外には、「バクシシユ」と呼んで蠅の如く蝟集する物貰ひの子供と、些少の古物を賣り付ける土人がゐる丈けである。たゞサツカラの階段「ピラミツド」の發掘は中々面白く、殊に第三王朝の王樣の墓穴に深く這入つた時は、苦しかつたが之を償ふ興味は充分にあつた。而してフワース氏の發掘小屋の氣持よいのを羨ましく思つた。「セウペウム」と言ふ神聖な牛を葬つたスバラしい墓があつたが、餘りに馬鹿々々しい設備であると感じた。二度目にサツカラへ行つた時は、大風が吹いて砂漠の砂を飛ばし、驢馬の上で面をあげることも出來ず、濛々として一町先きも見えない荒天であつた。これがサハラの眞中であつたら、駱駝と共に骸骨となつてしまふ外はないと思ふ。ある「マスタバ」の墓中で、案内者のサラーが長々しく説明をやり、此の墓の壁畫には、何でも描いてないものはないと言ふので、私は『埃及では神に奉納する爲に手を出してゐる圖があるが、手を出して「バカシシユ」を貰つてゐる圖はないではないか』[#「』」は底本では欠落]と言つてやつたら、苦笑して引き下がつた。
 併しカイロの博物館は、世界に於ける一大「コレクシヨン」である。「シエク・ユル・ベレツド」や、ラホラブとノフエルト公夫妻の像の如きは、古帝國の彫刻の優品として、又美術史上古今に濶歩す可き作品であるが、かの評判のツタンカーメン王陵發見の金ピカの遺物に至つては、たゞ俗目を驚かすのみに過ぎず、美術上などから言つて格段の價値はない。此の博物館の次に私のカイロで感心したものは、囘教建築の美であつた。殊に其の住宅の中庭、木造の格子などの清楚なる工合は、西班牙のアルハムブラでも見られなかつた新しい「レヴエレーシヨン」である。

          五

 上埃及のルクゾールはナイル河畔にある水境であつて、寫眞などで見ると、其の岸に臨んでゐるルクゾールや、カルナツクの神祠などは、いかにも清々しい環境にあるかの如く想像せられるのであるが、其の實晝の間はやはり塵埃と見物客の雜沓に惱まされ、物乞ひの類に煩はされる場處に過ぎない。たゞ私共の逗つた「サボイ・ホテル」は、直にナイルの岸に臨み、其の朝夕の景色は忘るゝことの出來ない情趣を湛へて居る。テーベスの山に落ちる夕日は、足下に走るナイルの白帆の上に映じて、夜色漸く山河を鎖してからは、始めてルクゾールも昔ながらの靜寂に歸るのである。
 テーベスの王陵の谷に驢馬を驅れば、強い日光は禿山と砂地に反射して目がくらむばかり、ツタンカーメンの墓穴に入り、石棺の内にまざ/\と殘つてゐる遺骸を見、更に三四の陵墓の深い横穴に入つて、其の規模の宏大には驚いたが、デル・エル・パーリの神祠の、直下千尺の懸崖の下に立つてゐる姿には、實に天下無比の偉觀と感服した。併しテーベスの一亭で中食を取つた時の蠅には、遂に憤慨せざるを得なかつた。支那、希臘の蠅も到底これには及ばない。拂子を以て間斷なく之を拂つても中々飛び去らず、顏や手にとまつては皮を螫さずんば已まない勢である。私は同伴の倉田君に向つて思はず『これでは今一本手が欲しくなりますネ』と言つて苦笑した次第であるが、印度の如きも多分これと同斷の蠅であつた爲め、四臂六臂の佛像が作り出され、其の一本には必ず拂子を持たせてゐるのであらうと悟つた。
 ルクゾールから更にナイルを溯つてアスワンに行けば、流石に大分靜かになつて、谷は逼り水は清く、山河のたゝずまひも可愛らしくなつて來るが、エレフワンチンの島も左程美しくはなかつた。たゞ印象の深かつたのは、石切場附近の荒凉たる風物と、切り殘した古代の「オベリスク」と、又半ば以上水中に沈んだフイレーの神祠であつた。眞黒な土人に小舟を漕がせて亡國の船唄を聞き、水中から頭だけを出してゐる神祠の屋根に登るのは、珍らしい見物であつたが、「ダム」の長堤を走つては、此の世界有數の大工事に驚嘆する外はなかつた。
 我々は此のナイルの第一瀑流から引きかへして、カイロへ歸へる途中、エドフ、デンデラとアビドスの三神祠を訪ねた。併し此等も先づ以て千遍一律の建築と言つてよく、ケネーの田舍宿では虱に攻撃せられ、汽車の中では塵埃と南京蟲に惱まされ、あらゆる惡蟲を經驗し盡して、二週間ぶりにポートセイドへ歸著し、一日遲れて到著した我が伏見丸に乘り込んだ時には、全くやれやれと蘇生の思ひをしたことである。

          六

 之を要するに、私は埃及へ二度と行き度いとは思はない。印度もセイロンの一角に足を印しただけであるが、更に深く内地へ這入つて佛跡を探らうと言ふ氣分は起らなかつた。恐らく此處も亦た埃及と同樣詩の國ではなからう。
 埃及の私に善い印象を與へなかつた原因の一は、必しも氣候の故ではない。阿弗利加とは言へ二月の埃及は決して暑くはない。否なカイロでは冬服に薄い「シヤツ」では寒いこともあつた位である。又た蚊乃至南京蟲の如き惡蟲の故ばかりでは無い。それは支那に於いても略ぼ同樣であるに係らず、支那はなほ我々を惹付けるのであるから。
 然らば埃及が我々――少くとも私に同情を起さしめなかつた原因は何處にあるかと言ふに、恐らく其の過去の殘骸、死に果てた文化の遺物ばかりが徒に偉大であつて、我々は其の壓迫を感ずることが多過ぎるにあると思ふ。而して又、中世はあつても古代と聯絡はなく、現代の埃及は、古い昔の廢址に築かれた「バラツク」に過ぎない感があり、其の間の「ギヤツプ」が大き過ぎるにあらうと思ふ。希臘の如きも、若干此の範疇に入る可き傾向はあるが、支那はさうではない。其の偉大なる過去の文化と、現代との間になほ連綿たる脈絡の存するものがあり、我々はなほ廢墟のうちに生命の呼吸を感ずることが出來るのである。西洋の旅客が我が日本に來つては、恐らくは此等「オリエント」の古圖とは違つた一種清快な情趣と、過去と中世と而して現代との間に、脈々たる連絡の存してゐることを感得するのであらう。而して或る意味に於いて絶東の一端に、再び歐洲の再現を見出すかも知れない。
 これは私が埃及から日本へ歸る船の上で、つく/″\と思ひ浮べた感想である。
(文藝春秋七ノ八、昭和四、八)





底本:「青陵随筆」座右寶刊行會
   1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「文藝春秋」
   1929(昭和4)年8月
※「バクシシユ」と「バカシシユ」の混在は底本の通りです。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2004年5月18日作成
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