有明集

蒲原有明




この歌のひと卷を亡き父の
み靈の前にささぐ。


豹の血(小曲八篇)





智慧の相者は我を見て


智慧ちゑ相者さうじやは我を見て今日けふかたらく、
眉目まみぞこはさがしく日曇ひなぐもる、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風はやちおそはぬさきにのがれよと。

ああのがれよと、たをやげる君がほとりを、
緑牧みどりまき草野くさのの原のうねりより
なほ柔かき黒髮のわがねの波を、――
こを如何いかに君は聞ききたまふらむ。

眼をしとづれば打續くいさごのはてを
黄昏たそがれ頸垂うなだれてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふけものかととがめたまはめ、

その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色ひといろの物憂き姿、――
よしさらば、にほひ渦輪うづわあやの嵐に。

若葉のかげ


薄曇りたる空の日や、日もやはらぎぬ、
木犀もくせいの若葉の蔭のかけ椅子いす
もたれてあれば物なべておぼめきわたれ、
夢のうちの歌の調しらべびらかに。

ひとりかここに我はしも、ひとりか胸の
浪をふ――常世とこよの島の島が根に
つばさやすめむ海の鳥、遠き潮路の
浪枕なみまくらうつらうつらの我ならむ。

なかばひらけるわが心、半閉ぢたる
眼を誘ひ、げに初夏はつなつ芍藥しやくやくの、
薔薇さうびの、罌粟けしうまし花舞ひてぞ過ぐる、

えんだちてしなゆる色の連彈つれびき
たゆらに浮ぶ幻よ――蒸して匂へる
ずゐの星、こは戀の花、吉祥きちじやうの君。

靈の日の蝕


時ぞともなくくらうなるいのち※(「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68)とぼそ、――
こはいかに、四方あたりのさまもけすさまじ、
こはまた如何いかに我胸の罪の泉を
何ものかうなじさしのべひた吸ひぬ。

しと匂へる花瓣はなびらあだしぼみて、
しきえてちたりおのづから
わが掌底たなぞこに、生温なまぬるきそのをかげば
唇のいやふまじき渇きかな。

聞け、物の音、――飛びがふいなご羽音はおとか、
むらむらと大沼おほぬの底をきのぼる
毒の水泡みなわの水のはじく響か、

あるはまたえやみのさやぎ、野の犬の
たはれの宮に叫ぶにか、噫、仰ぎ見よ、
かすかなる心の星や、たまの日のしよく

月しろ


よどみ流れぬわが胸にうれひ惱みの
浮藻うきもこそひろごりわたれくろずみて、
いつもいぶせき黄昏たそがれの影をやどせる
池水いけみづに映るは暗き古宮ふるみやか。

石のきざはしくづれ落ち、水際みぎはに寂びぬ、
沈みたる快樂けらくを誰かまためむ、
かつてたどりし佳人よきひとの歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。

花の思ひをさながらのいのりの言葉、
ぬかづきしおもわのかげのえがてに
この世ならざるえにしこそ不思議のちから、

追憶おもひでの遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘なごりの光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。

蠱の露


文目あやめもわかぬよるむろに濃き愁ひもて
みにたる酒にしあれば、唇に
そのささやきを日もすがらあぢはひ知りぬ、
わが君よ、絶間もあらぬ誄辭しぬびごと

何の痛みか柔かきこのゑひにしも
まさらむや、嘆き思ふは何なると
占問うらどひますな、夢の夢、君がみその
ありもせば、こは蜉蝣かげろふのかげのかげ。

見おこせたまへさかづきを、げにうるはしき
おんこそつばさうるめる乙鳥つばくらめ
透影すいかげにして浮びひ映りとほりぬ、

いみじさよ、濁れる酒も今はとて
輝きづれ、うらうへに、たまりする
まじの露。――いざ諸共にしてあらなむ。

茉莉花


むせび嘆かふわが胸の曇り物憂き
しやとばりしなめきかかげ、かがやかに、
或日はうつる君がおもこびの野にさく
阿芙蓉あふようなまめけるその匂ひ。

たまをもらす私語ささめきに誘はれつつも、
われはまた君をいだきて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、――君がかひなに、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。

また或宵は君見えず、生絹すずしきぬ
きぬずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、

茉莉花まつりくわよる一室ひとまのかげに
まじれる君が微笑ほほゑみはわが身のきず
もとめ來てみてかをりぬ、あてにしみらに。

寂靜


えて落ちたるこのみかと、ああよ、空に
日はゆらぎ、濃くもあざれし光明くわうみやう
あへぎ黄ばみていりうみの中にしたたり、
波にけ、波はむせびぬたゆたげに。

磯回いそわのすゑの圓石まろいしはかくれてぞ吸ふ、
飽き足らひ耀かがやめる夕潮ゆふじほを、
石のひたへは物うげの瑪瑙めなうのおもひ、
かくてこそ暫時しばしを深く照らしぬれ。

風にもあらず、浪の音、それにもあらで、
天地あめつちは一つ吐息といきのかげに滿ち、
いさごの限りあやもなく暮れてゆくなり。

たづきなさ――わが魂はうづもれぬ、
こゝに朽ちゆくよるの海のにほひをかぎて、
寂靜じやくじやうの黒き眞珠またまの夢を護らむ。

晝のおもひ


晝のおもひの織り出でしあやのひときれ、
歡樂くわんらくぬきに、苦悶のたての絲、
れて亂るるすぢの色、あるは叫びぬ、
あるはまたれてこそめくるめけ。

今、よるの膝、やすらひのともしもとに、
卷き返し、その織りざまをつくづくと
見ればおぼろあやふげに、ねぶれるけもの
める鳥――物のかたちことやうに。

ちて縫はさむかこのきれを、うたげのをりの
身のかざり、ふさはじそれも、つひの日の
棺衣かけぎぬれう、それもはた物狂ほしや。

せいにはあはれ死のころも、死にはよせい
※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)そらだきの匂ひをとめて、うつつなく、
夢はゆらぎぬ、柔かき火影ほかげの波に。

偶感


寄せては返す浪もなく、ただたひらかに
なごみたる海にもしほ滿干みちひあり、
げにその如くさわだたぬ常の心を
朝夕におもひは溢れ、また沈む。

秋のこころ


きばみゆく木草きぐさの薫り淡々あはあは
野の原に、みづにただよひわたる
秋の日は、清げの尼のおこなひや、
懴悔のだんかうしんの心の
香木かうぼくずゐあぶら※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)ゆし、
きらびやかなる打敷うちしきは夢の解衣ときぎ
過ぎし日の被衣かつぎ遺物かたみ、――靜やかに
垂れて音なきぬひの花、またひだごとに、
ときめきし胸の名殘なごりの波のかげ、
搖めきぬとぞ見るひまを聲は直泣ひたなく――
看經かんぎんの、ああ、秋の聲、歡樂と
くい念珠ねんじゆと幻と、いづれをわかず、
ひとつらに長きうらみの節細く、
雲のかげりにあともなくえてはゆけど、
きはみなき輪廻りんねごふのわづらひは
落葉のもとに、草の根に、潜みも入るや、――
そのゆふべ、愁の雨は梵行ぼんぎやう
亂れを痛みさめざめとしじにそそぎぬ。

大河


ゆるやかにただ事もなく流れゆく
大河たいがの水の薄濁り――ふかき思ひを
夢みつつちりどうじてまどはざる
智識のすがたこれなめり、おぞしや、われら
面澁おもしぶおしひつじともがら
堤の上をとみかうみわづらひありく。
しかすがに聲なき聲のちからり、
眞晝かがよふのりく流を見れば、
經藏きやうざう螺鈿らでんはこふたをとり、
悲願ひぐわんの手もて智慧ちゑの日の影にひもどく
卷々まきまきの祕密の文字のこぼれ散る、――
げに晴れ渡る空のもと、河のおもて
紺青こんじやう黄金こがねの光きらめくよ、
かかる折こそけがれたる身も世もかをれ、
時さらず、れがましさや、醜草しこぐさ
毒になやみてめくるめき、あさりみぬる
むさぼりの心を悔いてうちあへぎ、
深くも吸へる河水かはみづの柔かきかな、
おもちち、甘くふくめる悲みは
ゑひのここちにいつとなくみ入りにけり。
みなもとは遠き苦行くぎやうの山を出で、
平等海びやうどうかいにそそぎゆく久遠くをんの姿、
たゆみなく、音なく移るながれには
解けては結ぶ無我むがの渦、思議しぎほかなる
深海ふかうみの眞珠をさぐる船の帆ぞ
今照りわたる、――さとりなき身にもひらくる
心眼しんがんはなのしまらくかがやきて、
さてこそ沈め、靜かなる大河たいがの胸に。

甕の水


かめの水濁りて古し、
このゆふべ、くつがへしぬる、
甕の水、
惜しげなきはやりごころに。

にぶし、水はあへなく、
あざれたるみぞに這ひ寄り、
音鈍し、
つぶやける「夢」のくちばみ。

ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが――
ああ、なべてをどめるおもひ。

耀かがやきぬ雲の夕映ゆふばえ
いやはての甕の雫に、
耀きぬ、――
わがこころかくて驚く。

「戀」なりや、雫の珠は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇きに沈む。

となりき、嘆くも果敢はかな、
空しかる甕をいだきて、
となりき、
あやなくもこころぞ渇く。

朱のまだら


日射しの
緑ぞここちよき。
あやしや
みたち樹蔭路こかげみち

よろこび
あふるる、それか、君、
彼方かなたを、
虚空こくうを夏の雲。

あかしや
枝さすひまびまを
まろがり
耀かがやく雲の色。

君、われ、
二人が樹蔭路、
緑の
匂ひここちよき。

軟風なよかぜ
あふぎて、あかしやの
葉は皆
たゆげにひるがへり、

さゆらぐ
日影のしゆまだら
ふとこそ
みだるれわが思。

君はも
白帆のみを入りや、
わが身に
あだなる戀のかし

軟風なよかぜ
あふぎてみをれぬ、
いづくへ
君ゆく、あな、うたて。

思ひに
みだるる時の間を
夏雲
重げに崩れぬる

緑か、
朱か、君、あかしやの
かげに
あやしき胸の汚染しみ

坂路


あへぎてのぼるなだら坂――わが世の坂の中路なかみちや、
並樹の落葉熱き日に燒けて乾きて、時ならで
痛み衰へ、たゆらかに梢離れて散り敷きぬ。

落葉を見れば、片焦かたこげて※(「金+肅」、第3水準1-93-39)び赤らめるそのおもて
はしに殘れる緑にも蟲づき病めるきずあと
黒斑くろふひずみていたましく鮮明あざやかにこそされたれ。

また折々は風の呼息いき、吹くとしもなく辻卷つじまきて、
燒けただれたる路の砂、なやみからの葉とともに、
燃ゆる死滅の灰を揚ぐ、ああ、わりなげの悲苦ひく遊戲ゆげ

一群ひとむら毎に埃がちいこふに堪へぬ惡草あくさう
かわきをとめぬ鹽海しほうみの水にも似たり。ひとむきに
られてのぼりゆく路はなだらに盡きもせず。

夢のしなへの逸樂いつらくは、今、貴人あてびとの車にぞ
搖られながらにねぶりゆく、その車なる紋章は
うんくるめくわがにも由緒よしありげなる謎の花。

身も魂もくづをれぬ、いでこのままに常闇とこやみ
餌食ゑじきとならばなかなかに心安かるこの日かな、
惱盡きせぬなだら坂、路こそあらめはてもなし。

不安


人は今地に俯してためらひゆけり、
うとましや、頸垂うなだるる影を、軟風なよかぜ
掻撫かいなづるひとふきに、桑の葉おもふ
かひこかと、人は皆かうべもたげぬ。

何處いづこより風は落つ、身もをののかれ、
我しらずおもかへし空を仰げば、
常に飢ゑ、※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)きがたき心の惱み、
物の慾、重たげにひきまとひぬる。

地は荒れて、見よ、ここに「饑饉ききん」の足穗たりほ
うつぶせる「人」を利鎌とがまの富と
世の秋に刈り入るる、ああ、さもあれや、
おそるるはそれならであめのおとづれ。

たまさかに仰ぎ見る空の光の
がくの海、浮ぶ日の影のまばゆさ、
をののける身はかくてしんなき瞳
射ぬかれて、更にまたあくがれまどふ。

何處いづこへか吹きわたりにける風ぞ、
人は皆いぶせくもおもてを伏せて、
めしひたるうをかとぞあへげる中を
安からぬわがおもひ、思をみぬ。

失ひし翼をば何處いづくに得べき、
あくがるる甲斐もなきこの世のさだめ、
わがたまは痛ましき夢になぐさむ、
わが靈は、あな、朽つるししむらに。

絶望


うつつこそしらけたれ、香油にほひあぶら
艶もせ、物なべてほほけて立てば、
夢映すわが心、鏡に似てし
さがさへも、うつけたる空虚うつろに病みぬ。

在るがまま、便たづきなき、在るを忍びて、
あやもなし、曲もなし、唯あらはなり、
臥房ふしどなき人の裸形らぎやうの「痛み」、
さあれ身に惱みなし、涙もれて。

追想おもひでよ、ここにして追想ならじ、
燈火ともしびえにたる過去の火盞ほざら
すすびたり、そのかみの物はかなさを、
悦びを、などかまた照らし出づべき。

のあたり佗しげのこみちくづれ、
悲みのあまそそぎ洗ひさらして、
土のはだすさめるを、まひろき空は、
さりげなき無情つれなさに晴れ渡りぬる。

狼尾草ちからしばここかしこ、光射かへす。
貝の殼、すゑものの小瓶をがめの碎け――
あるは藍、あるはに描ける花の
幾片いくひらは、朽ちもせで、路のほとりに。

たまゆる海の色、うたげのゑまひ、
皆ここにあだの名や、噫、望なし、
匂ひなし、このうつつわれをとらへて、
日はをりの外よりぞむごくも臨む。

燈火


人の世はいつしか
たそがれぬ、花さき
に滿ちし世も、今、
たそがれぬ靜かに。

えがてに、見はてぬ
夢の影、裾ひく
薄靄の眼のうち
あなうつろなるさま。

人の世の燈火ともしび
ほのぐらきの間を、
わびしらに嘆くか、
燈火の美鳥うまどり

母の鳥――あめなる
日のゆくへ慕ひて
泣きいさち嘆かふ
聲のうらがなしさ。

燈火のうま鳥、
うらぶれの細音ほそね
かずかずのおもひ
たまをこそ聞け、今。

やみちぬ、にほひも
はた色もひとつの
音に添ひぬ、燈火
遠ながき笛の……

草びら


向日葵ひぐるまずゐの粉の黄金こがねにまみれ、
 あな、夕まぐれ、
朽ちはつる草びらや、
草びらは唯わびしらに。

この夕、雲あかき空には夏の
 あな、はえもあれ、
薄ぐらき物かげを
草びらは終りの寢所ふしど

誓願せいぐわん向日葵ひぐるまに――菩提ぼだいの東、
 あな、涅槃ねはんの西、
宿縁しゆくえんは草びらに、
草びらは靜かにもだす。

向日葵は蘂の粉の黄金の雨の
 あな、涙もて
朽ちはててくづれゆく
草びらの胸を掩ひぬ。

孤寂


椶櫚しゆろの葉音に暮れてゆく夏の夕暮、
 たゆまるる椶櫚のはたはた、
裂葉さけばよ、あはれ莖長く葉末は折れてふるへ、
あめに捧げしたなごころ、――絶入ぜつじゆもだえ。

さもこそあらめ、淨念じやうねん信士しんしその人、
 孤獨なる祈誓きせいあへぎ、
胸に籠めたるまぼろしを雲に痛みて、地のほめき――
そをだにかうゆるかと頼めるけはひ。

おほいなるかなそらの宵、あめの廣葉は
 まどかにて、呼息いきざし深く、
物皆かげに搖めきて暗うなる間を明星みやうじやうや、
見よ、永劫とことはいづその、光のにほひ。

ここにては、噫、晝のなみよるうしほ
 捲きかへるこころのからさ、
しんの涙か、憧憬あくがれの孤寂の闇の椶櫚しゆろの花
幹を傳ひてほろほろと根にぞこぼるる。

この時


紺瑠璃こんるり
潮滿ちに、なぎさ
ふちさへも
ひびわれむばかりや。

風はぎ、
浪は伏す深海ふかうみ
天津日あまつひ
輝きぬ、まどかに。

いづこをか
もとめゆく、この時、
船の帆よ、
おもむろに、彼方かなたへ。

さちか、船、
帆章ほじるしわかたね、――
生もはた
死の如し、この時。

あまりにも
足らひたり、海原うなばら
靜けさは
嵐にも似たりや。

天津日あまつひ
うるほひて、日のかさ
暈の
にじもこそあやなせ。

紺瑠璃こんるり
しほみて浸しぬ、
素胎すばらには
あらぬ海、なじかは……

素胎には
あらぬ海、不祥ふじやう
るる、――
虹の色かつゆ。

幸か船、
帆じるしはわかたね、
いづこをか
もとめゆく、この時。

音もなし


光のとばりぎぬ
ゆららに風わたる。
まひろく、はた青き
皐月さつきの空のもと。

いのちの一雫ひとしづく
めぐみぬ、わが胸の
きざはし、かぎろひを
きざめるそのほとり。

めぐみぬ、花さきぬ、
耀かがよふ玉のその
かすかに花くんじ、
かすかにくづれゆく。

※(「日/咎」、第3水準1-85-32)ひかげはゆるやかに
うつりて、きざはし
垂れ曳くたけの髮、
※(「日/咎」、第3水準1-85-32)ひかげぞ夢みぬる。

さもあれ戀の、嗚呼ああ
みなしご――わがたま
いのちの花かげに
痛みて聲もなし。

夏の歌


薄ぐもる夏の日なかは
愛欲のおもひにうるみ
底もゆるをみなのざし、
むかひゐてこころぞ惱む。

何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
しふふかきちからは、やをら、
重き世をまろがし移す。

窓のにつづく草土手、
きりぎりす氣まぐれに鳴き、
それも今、はたと聲絶え、
薄ぐもる日は蒸し淀む。

ややありてかやが根を
青蜥蜴あをとかげ走りすがへば、
ほろほろに乾ける土は
ひとしきり崖をすべりぬ。

なまぐさきにほひは、池の
うはぬるむおもよりわたり、
山梔くちなしの花はちたり、――
朽ちてゆく「時」のなきがら。

何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
のあたり融けてこそゆけ
夏の雲、――空は汗ばむ。

秋の歌


柔らかき苔に嘆かふ
石だたみ、今眞ひるどき、
たもとほる清らの秋や、
しめやげる精舍しやうじやのさかひ。

並び立つもみ高樹たかぎは、
智識めく影のふかみに
びくゆる紫ごろも、
合掌がつしやうの姿をまねぶ。

しめやげる精舍のさかひ、――
石だたみ音もかすかに
飜る落葉は、夢に
すすり泣くうれひのしづく。

かぎりなき秋のにほひや、
白蝋びやくらふのほそきほのほ
わがこころ、今し、なびかひ、
ふと花の色にゆらめく。

花の色――芙蓉ふようしなへ、
衰への眉目まみ沈默もだしを。
さびの露しみらにくんず、
かにかくに薄きまぼろし。

しめやげる精舍に秋は
しのび入りえ入るけはひ、
ほの暗きかげにきらめく
金色こんじきのみづしの光。

苦惱


傳へ聞く切支丹キリシタンいにしへなやみもかくや――
影深き胸の黄昏たそがれ密室みつしつの戸はしもせめ、
をののけるおもひの奧に「我」ありて伏して沈めば、
たましひは光うすれて塵と灰「心」をふさぐ。

おそろしき「うたがひ」は、ああみづからの身にこそ宿れ、
あだし人責めも來なくに空しかる影のたはわざ、
こは何ぞ、「畏怖ゐふ」のともがられ寄せて我を圍むか。
おびやかかりよそほひに松明たいまつほのほつづきぬ。

サンタ麻利亞マリヤ、かくもよわかる罪人つみびとしんうしほ
よみがへり、かつめぐり來て、「ししむら」のなぎさにあふれ、
俯伏うつぶせ干潟ひがたをわぶる貝の葉の空虚うつろの我も
敷浪しきなみ法喜ほふき傳へて御惠みめぐみに何日かははむ。

さもあれや、わが「性欲せいよく」の里正むらをさうかがひ寄りて、
禁制きんぜい外法げほふの者としふねくもののしせまり、
ひたひに蹈繪ふみゑの型をめよとぞ、あな淺ましや、
我ならで叫びぬ、『神よ此身をばにもけね』と。

硫黄いわうけぶりに咽び、われとわが座よりまろびて、
火の山の地獄の谷をさながらの苦惱に疲れ、
せて又生くと思ひぬ、――夢なりき、よるの神壇、
蝋の火をともして念ず、假名文かなぶみ御經みきやうの祕密。

待たるるは高き洩るる啓示みさとしの聲の耀かがやき、――
しんのみぞその證人あかしびと、罪深き内心ながら
われは待つ、天主の姫が讃頌さんしようの聲朗かに、
はてて、『なれゆるす』とのたまはむその一言ひとことを。

癡夢


陰濕いんしつの「なげき」の窓をしも、かく
うちふさぎ眞白にひたと塗りめ、
そが上に垂れぬるかも紋織あやおり、――
あけみどりまじらひ匂ふまばゆさ。

これを見る見惚みほけに心まどひて、
誰を、ああしやうずる一室ひとまなるらむ、
われとわがねがひを、望を、さては
客人まらうどを思ひも出でず、この宵。

ただねんず、しづかにはたまどやかに
白蝋びやくらふ黄金こがねの臺にともして、
そのほのほいく重の輪をしめぐらし
燃えすわる夜すがら、われはねじと。

徒然つれづれなぐさに愛の一曲ひとふし
かなでむとためらふ思ひのひまを、
忍び寄る影あり、そや、――畏怖おそれ
わが脈の漏刻ろうこくくだちゆくなり。

長き夜をめしひの「なげき」かすかに
今もなほ花文けもんかもをゆすりて、
呼息いきづかひあへげば盛りししよく
火影ほかげさへ、やくなや、しめりなびきぬ。

れにたる夢なり、こころづくしの
この一室ひとま、あだなる「くい」の蝙蝠かはほり
氣疎けうとげにはためく羽音はおとをりをり
音なふや、ああなどおびゆるたまぞ。

滅の香


やはらかきびに輝く
壁のおも、わが追憶おもひで
たまの宮、はえに飽きたる
はくおきもせてはここに
金粉きんぷんちりに音なき
めつや、しふのにほひや、
幾代々いくよよは影とうすれて
にし日の吐息かすけく、
すずろかにゆる命の
夢のみぞ永劫とはひ、
ささやきぬ、はた嘆かひぬ。
あやしうも光に沈む
わが胸のこの壁のおも
惱ましくびては見ゆれ、
うんじたる影の深みを
幻は浮びぞ迷ふ、――
つややかに、今、緑青ろくしやう
まきかも、また紺瑠璃こんるり
あやも濃き花の甘寢うまいよ、
更にわが思ひのたくみ、
われとわが宿世すぐせをしのぶ
ゑひごこち、れのまどひか、
のあたりにへ仔羊こひつじ
あけいたみと、はたや
愛欲の甘き疲れの
紫の汚染しみとまじらふ
ごふのかげ、輪廻りんね千歳ちとせ
束の間にがひて消ゆれ、
幾たびかあくがれかはる
肉村ししむら懴悔ざんげの夢に
朽ち入るは梵音ぼんおんどよむ
西天さいてん涅槃ねはんの教――
うづもれしわが追憶おもひでや。
わづらへる胸のうつろを
煩惱ぼんなうの色こそ通へ、
物なべて化現けげんのしるし、
もくの華、じやく妙香めうかう
さながらに痕もとどめぬ
空相くうさう摩尼まにのまぼろし。

底の底


底の底、夢のふかみを
あざれたるひぢはらみ、
わがおもひふとこそ浮べ。

※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)うきなわのおもひは夢の
大淀おほよどのおもてにむすび、
ゆららかにゑがく渦の輪。

とどこほさびの緑に
濃き夢はとろろぎわたり、
呼息いきづまるあたりのけはひ。

涯もなく、限も知らぬ
しづけさや、――聲さへ朽ちぬ、
あなや、この物うきおそれ。

※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)うきなわはめぐりめぐりぬ、
大淀のおもてにびて
たゆまるる渦の輪のかげ。

物うげの夢の深みに
魂のせゆくひまを、
※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)うきなわのおもひはれぬ。

朽ちにたる聲張りあげて
わがおもひ叫ぶとすれど、
空し、ただあざれしにほひ。

はてもなきこの靜けさや、
めくるめくおそはれごこち、
涯もなき夢のとろろぎ。

灰色


なべてのうへに灰いろの
靄こそもだせ、日のをはり
その灰いろにあやといふ
彩のあへぎを聞くごとし。

冷たく重き冬の靄、
あな、わびしらや、戀も世も
うたげも人もひと色に、
信も迷も身もたまも。

死の林かとあらはなる
木立こだちの枝のふしぶしは
痛みぬ、風に――くいの音、
執着しふぢやくの靄灰色に。

過ぎ去りし日の過ぎもかね、
忘れがてなるわがおもひ
朧のかげのゆきかひに
をののかれぬる冬の靄。

われ迷ふ


迷ひぬ、ふかき「にるばな」に、
たわやの髮は身を捲きぬ、
たゆげのよる煩惱ぼんなう
れてむつみぬ、「にるばな」に。

壁にゑがけるしふの花――
ねや一室ひとまの濃きにほひ、
しき花びら、花しべに、
火影ほかげも、ねたし、たはれたる。

夢の私語ささやき、たわやげる
瑪瑙めなう甘寢うまい、「にるばな」よ、
艶もあてなる敷皮に
なよびしなゆるあえかさや。

愛欲のつるまつはれる
窓の夜あけを梵音ぼんおん
祕密の鸚鵡あうむいましめぬ、――
ああ「にるばな」よ、あけの星。

鏡は曇る、薫香くんかう
まじる一室ひとま呼息いきごもり、
鏡は晴れぬ、影と影、
覺めし素膚すはだにわれ迷ふ。

穎割葉


日は嘆きわぶ、人知れず、
日は荒れはてし花園に、――
花の幻、陽炎かぎろひや、
あをじろみたるきそのかげ。

日は直泣ひたなきぬ、花園に、――
種子たねのみだれの穎割葉かひわれば
またいとほしむ、何草なにぐさ
かたみともなき穎割葉。

廢れすさみしただなかに
ひたつ歌のうすみどり、
ああ、穎割葉かひわればももの種子
ひとつにまじるの雫。

斑葉いさはの蔓に罌粟けしの花、
ゑひのしびれのさかづき
われからでむ忍冬すひかづら――
種子のみだれを、日は嘆く。

沙は燬けぬ


いさごけぬ、あなうらのやや痛きかな、
なぎさべの慣れしいはかげに身をけて、
磯草のに敷皮の黄金こがねをおもひ、
いざここに限りなき世の夢を見む。

あゐ海原うなばら白銀しろがねや風のかがやき、――
眼路めぢの涯絶えてかげらふものもなく、
ひろき潮に浮び來て帆ぞ照りわたる
をちの船、さながらさちさかづきと。

なべての人も我もまた絶えず愁へて
渚べをうまゑひならぬれ惑ひ、
どよもし返す浪の音、海の胸なる
ことに暗き思ひをおぼらしぬ。

今日や夢みむ、幽玄いうげんすがたをしばし、
うらやすし、愁ひはひそかに這ひ出でて、
海知らぬ國、荒山あらやま彼方かなたの森に、
人住まぬ眞洞まほらもとめて行きぬらむ。

さもあらばあれ如何いかがせむ、心しらへの
やくなさをあざみ顏なる薫習くんじふや、
劫初ごふしよの朝の森のはなほも殘りて
みぬらし、わが素膚すはだなるししむらに。

更にたどれば神のそのああそこにしも
晶玉しやうぎよくは活きていみじく歌ひけめ、
の葉ささやき苔くんじ、われも和毛にこげ
おん惠み、深き日影にこやしけめ。

なべてはくづれ亂されき、人と生れて、
爭ひて、海のほとりに下り來ぬ、
なべてはれしはえの屑、(顧みなせそ)
人は皆ここにかぎられ、あくがれぬ。

大和田おほわだの原、天の原、二重ふたへとばり
いたづらにこのあやもなき世をつつみ、
風の光の白銀しろがねに、潮の藍に、
永劫えいごふ經緯たてぬきにこそ織られたれ。――

幽玄いうげんの夢さもあらめ、待つに甲斐なき
うつし世に救ひの船は通ひ來ず、
(帆は照せども)、身は疲れ、崩れ崩るる
浪頭なみがしらまじの羽とぞ飜る。

うつろたまは涯知らぬ淵に浮びて、
身はあはれ響動どよもす海の渚べに、――
またも此時わが愁、森を出でたる
けものかと跫音あしおと忍びかへり來ぬ。

海蛆


ひきじほゆるやかに、
見よ、ひきゆくけはひ、
堀江に船もなし、
船人ふなびと、船歌も。

濁れるにび水脈みを
くろずむひきじほに、
堀江のわびしらや、
そこれる水脈みをのかげ。

さびしき河岸かしの上
うごめく海蛆ふなむし
あな、身もはかなげに
ぢつつ夢みぬる。

慕はし、海のの、――
風こそ通へ、今、
曇りてなよらかに
こもりぬ、海のは。

濁れる堀江川
くろずむ水脈みをのはて、
入海たひらかに
かがやく遠渚とほなぎさ

かなたよ、海の姫、
鴎か舞ひもせむ、
身はただ海蛆ふなむし
ぢつつひしれぬ。

ひきじほいやそこり
黒泥くろひぢ水脈みをの底、
堀江に船も來ず、
ましてや水手かこの歌。

大鋸


大鋸おがをひくひびきはゆるく
ひとすぢに呟やくがごと、
しかはあれ、またねぶたげに。

いや蒸しに夏のゆふべは、
風の呼息いき暑さの淀を
練りかへすたゆらの浪や。

河岸かしにたつ材小屋きごやのうちら、
大鋸おがをひく鈍きひびきは
疲れぬる惱みの齒がみ。

うら、おもて、材小屋きごやの戸口、――
なまあをき水のと、はた
あからめる埃のにほひ。

幅びろの大鋸おがはうごきぬ、
鈍き音、――あやしけもの
なきがらをいさごるか。

はらはらと血のしたたりの
おがの屑あたりに散れば、
こそ深くもかをれ。

大鋸おがはまたゆるく動きぬ、
夕雲の照りかへしにぞ
小屋ぬちはしばし燃えたる。

大鋸おがひきや、こむら、ひかがみ、
肩のししかひなの筋と、
まへうしろ、のび、ふくだみて、

素膚すはだみな汗にひたれる
このをりよ、のかげに
われは聽く、はみのにほひを。

よるの闇這ひ寄るがまま、
大鋸おがひきは大鋸をたたきて、
たはけたる歌のだみごゑ。

淨妙華


も日もわかず一室いつしつは、げにおそろしき電働機モオトル
聲の唸りの噴泉ふんせんよ、越歴幾エレキの森の木深こぶけさや、
うちに靈獸ひそみゐて青きほのほめば、
ここに「不思議」の色身しきしんは夢幻のきぬなげうちぬ。

かの底知れぬ海淵かいえんも、この現實の祕密には
深きを比べ難からむ、彼はねぶりておびれて、
唯惡相のうをにのみ暗き心ををののかし、
これは調和の核心かくしん萬法ばんぱふの根を誘ふなる。

舊きはすたまちちまた、また新しく榮ゆべき
花の都の片成かたなりに成りも果てざる土のくれ
塵にまみるる草原の、その眞中ただなかおそろしき
大電働機だいモオトルの響こそ日も夜もわかね、絶間なく。

船より揚げし花崗石くわかうせき河岸かしいさごうづたかし、
いづれ大厦たいかいしずゑや、彼方かなたを見れば斷え續く
煉瓦れんぐわ穹窿アアチ。人はこの紛雜ふんざつうちに埋れて
(願はあれど名はあらず)、力とわざに勵みたり。

嗚呼ああ想界さうかいあらたなるいのちくる人もまた
胸に轟く心王しんわうの烈しき聲にむちうたれ、
築き上ぐべき柱にはしき望の實相を
深く刻みて、ほまれなき汗に額をうるほさむ。

さあれ車の鐵のりん、軸に黄金こがねのさし油
注げば空をりて大音震ふ電働機モオトルや、
その勢の渦卷の奧所おくがに聽けよ靜寂を、――
活ける響の瑠璃るりの石、これや「まこと」の金剛座こんがうざ

しくもあるかな、蝋石らふせきの壁に這ひゆく導線だうせん
越歴幾エレキの脈の幾螺旋いくらせんあらたなる代に新なる
生命いのち傳ふる原動の、その力こそ淨妙華じやうめうげ
法音ほふおん開く光明のにほひぞ人にせまり來る。

信樂


靜かにねぶりて、寢魂ねるたまよるの宮にも事あらで、
いとさはらかに青みたるあしためざめ、見かへれば、
傴僂くぐせに似たる「きそ」の日は過ぎゆく「時」の杖にすがり、
何方いづちにけむ、思ひして惱みし我もうら解けぬ。

こぼれし種子たねしきかな、我生わがよすさめる※(「石+角」、第3水準1-89-6)そねにだに
惠みもたらす「信樂しんげう」の朝の一つや、何物も
これには代へじ、「慈悲」の御手みては祕むれど、銀のはかりざを
きん秤目はかりめ、そのはての星にかかれる身のおもり

に靜まれる日の朝け、曾て覺えぬよろこび
痩屈やさかみ冷えしわが胸は、雪消ゆきげに濕り、冬過ぎて、
つち照斑てりふ蒲公英たなの花、芽ぐむのつつましき
春さながらの若萌わかもえにきざす祈誓きせいぞほのかなる。

何とはなしにおのづから耳を澄せば遠方をちかた
浪どよみ風のそよめける音をしむる心地して、
あくがれわたる窓近く小鳥轉じてまぎれむと
おそるるひまに聞きわきぬ、過去遠々をんをんをここに。

かくて浮ぶるわが「宿世すぐせ」、瞳とほれる手弱女たをやめ
うなじをめぐる珠飾たまかざり、譬へばそれが、鳴響き、
瑠璃るりはささやく紅玉こうぎよくに、(さあれ苦の一聯ひとつらね)、
緑にはたや紫に、愛の、欣求ごんぐの、信のつぶ

げにこの朝の不思議さをあすの夕にうち惑ひ、
わが身をさへに疑はば、惡風さらにごふの火を
誘ひて行手ふさぎなば、如何いかがはすべき、たゆまるる
かひなは渇く唇に淨水じやうすゐむすぶ力なくば。

あるは曲れる「」の角にいとおぞましき「慾」の牛、
牧場に足らふ安穩あんのんの命に倦みて、すずろかに
らちのくづれをえゆかば、星も照らさぬよるの道、
後世ごせ善所ぜんしよを誰かまた鞭うち揮ひ指ししめす。

あるは木強きすぐ本性ほんじやうに潜む蠻夷えみしの幾群の
つどふやとばかり、われとわがひらかぬ森の下蔭に
思ひまどふや、襲ひ來る彼の殘逆ざんげき矛槍ほこやり
血ぬらぬ前に淨めなむ心しらへのありや、いな

悲願の尊者、諸菩薩しよぼさつよ、ただ三界さんがい流浪るらうする
たまを憐み御心にかけさせたまへ、ゆくりなく
煩惱ぼんなう盡きし朝に遇ひて、今日を捨身しやしん首途かどいでや、
遍路の旅に覺王かくわう利生りしやうをわれに垂れたまへ。

惡の祕所


汗あゆる日もゆふべなり、
空には深き榮映さかばえ
せゆくさまのはかなさは
すなまみるるあやの波、――
色うち沈む「西」のくてや、
あめなる牛か、雲群れぬ、
角にかけたる金環きんくわん
うんじくづるるのたゆげ。

ここには森の木の樹立こだち
暗き緑に紫の
たそがれのちりりかかり、
塵はにはかにしやうを得て、
こは九萬疋くまびきの闇の羽、
微かにふめき、蔭に蒸し、
葉うらをめぐり、枝々を
流れてぞゆく「よる」の巣に。

夏の夕暮、いぶせさや、
不淨のほめき、濕熱しつねつ
かも瘟疫うんえき瘧病ぎやくへいの、
ああ、こは森か、こぶかげに
た音もなきさまながら、
闇にこもれる幹と枝、
尖葉とがりは、廣葉、しほたれ葉、
噫、こは森か、「惡」の祕所ひそ

火照ほでりあめ最後いやはて
のろひて、斑猫はんめう
世をばまどはす妖法えうほふ
あまにたぐへるそのけはひ、
靜かに浮び消え去りぬ、
彼方かなた、道なきみちの奧、
しやうあるもののたね
くちなはまとふ「肉」のちやう

黄泉路よみぢとばかり、「惡」の祕所ひそ
蔓草からむただなかに、
なべてはあざれ朽ちゆけど、
樹の幹をやにの膸
薫陸くんろくとこそ、この時よ、
滴りりて、けがれたる
身よりさながら淨念じやうねん
み出づるごと薫るなれ。

物皆さあれあやもなく
暮れなむとするよるかど
黒白こくびやくつばさうち
はためきめぐるひとりむし
見る眼もかれ、安からぬ
思ひもともにはためきぬ、
かくて不定ふぢやうの世もここに
闇の境にはためきぬ。

どくだみ


皐月さつきみぞけがれ水
かぐろみ蒸してきそふや、
小舍こや廢屋あばらやのかたかげに
草どくだみは(花白き
單瓣ひとへ四片よひら)、朝ゆふべ、
朽木くちきを出でて日にさや
羽蟻はありからの墓どころ、
暗きにほひにしたしみぬ。

いかなる罪の凶會日くゑにち
結びそめたる種ならむ、
花どくだみや、統譜うぢぶみ
すぢをたださば、こは刹利せつり
須陀羅しゆだらにあらぬさまかたち、――
花の四ひら白蓮華びやくれんげ
葉はまろらかに、さはあれど
色のおもてぞ濁りたる。

けがれてくさ醜草しこぐさの、
その類葉るゐえふのひとつには
が教へけむ、去りあへぬ
怨嫉をんしつの鬼根にまとひ、
ひかはる芽をのろふにか、
これや曼陀羅まだらに織り入れて、
淨土じやうどをしめす實相じつさう
花ともなさむ本來もとの性。

ああ眇目めうもく陰陽師おむみやうじ
古りし「からす」にまかせなむ、
過去にうけにしどくだみの
うらに知らるるごふかた
正眼まさめに見れば、道を得て、
ひとり罪負ふ法類ほふるゐ
花にはずゐぞ輝ける、
闇きを照らす火の匂ひ。

寶鐸はうちやくのこゑ曇りたる
皐月さつきにこもり、刻々の
「死」は物かげに降りそそぎ、
うなわく溝のけがれ水、
朽木を出でて日にさや
羽蟻はからを、どくだみの
單瓣ひとへ四片よひら白蓮華びやくれんげ)、
花に足らへる奧津城おくつきに。

碑銘



其一


よろこびぬ、みぬ、
爭ひぬ、厭きぬ。

生命いのちの根白く
死のこそにほへ。

ねぶりなり、つえぬ、
ちぬまを吸ひぬ。

其二


ここよりはみちもなし、
やすし、はたみちわかれも。

蒼白き啜泣すすりなき、
ひびくゑまひの狹霧さぎり

たまと魂あひ寄るや、
寂寞じやくまくの、あはれ、晶玉しやうぎよく

死はなべてあたひのきはみ、
得難しや、されどつひには。

其三


人々よ、奧津城おくつきの冷たきいしを、
われを、いざ、みて立て。烏許をこともがら
めしひたり、つまづかめ、將來ゆくすゑ遠く
つづきたるきざはしの、われも一段ひときだ

其四


肉は、靈は、
二つのちから、

生は、死はよ、
眞砥まと堅石かたいし

みがきいづれ、
摩尼まに金剛こんがう

あざれし肉
「神」のいけにへ

むなしきれい
まむし」のさとり

肉の肉を
われは今おぼゆ。

覺めよ、「人」は
れいの靈。

かかる日を冬もこそゆけ


ゆをびぬる日南ひなたのかをり、
かかる日を冬もこそゆけ、
柔らげる物かげの雪、
枝ゆらぐ垣のいちじゆく。

かかる日を、ああ、かかる日を
待ちわびぬ、わびしきわが世、
寂寞じやくまくの胸の日南ひなた
ゆをびぬる思ひのかをり。

かすかにも水沼みぬまをち
水禽みづとり羽音はおと調しらべ

ひときほひ、嵐はまたも
青空の淵にすさべば
そのおもの泡だちて
しろがねの色にきらめく。

冬はいまはてのいぶきか、
常盤木ときはぎは深くをめきぬ、
いちじゆくの枝はたゆらに
音無おとなしの夢のさゆらぎ。

かくて後、時の靜けさ、
かかる日を冬もこそゆけ、
春の酵母もと――雪のしたみに
かぐはしの思ひはきぬ。

しかすがに水沼みぬまのあなた、
水禽みづとり羽音はおとのわかれ。

橡の雨


遠方をちかた樹立こだちに、あはれ、
皐月雨さつきあめけぶれる奧に、薄き日は
射すともなしにみなぎりて
緑に浮びうるほへる黄金こがねのいぶき。

わが道は雨の中なり、
汗ばめる額を吹きて軟風なよかぜ
蒸しぬ、――心の惱ましさ、
雨に濡れたるこいしみち、色蒼白く。

熟々つくづく彼方かなたを見れば
金蓮こんれんの光を刻む精舍しやうじやかと、
夢も明るき森つづき、――
さあれ、ここは長坂の下りぞ暗き。

わが道はみぞに沿ひたり、
その溝を水は濁りぬ、をりをりは
泥にまみれし素足すあしして
いやしきもののがひゆくひしれざまや。

ここにこそ幽鬱いぶせきはあれ、
かたへなる蔭に一樹ひとき橡若葉とちわかば
廣葉ひろははひとり曇りなく、
雨も緑に、さとそそぎ、たたとしたたる。

皐月の歌


雲は今たゆらにわたる、
ああ皐月さつき、――雲の麝香じやかうよ、
麥のもあたりにくんず、
麥の香の波折なをりのたゆた。

日はひぬ、緑は蒸しぬ、
ゆをびかに野はうるみたり、
揚雲雀あげひばり――阿剌吉アラキのみたま
軟風なよかぜかろき舞ぎぬ。

見よ、瑞枝みづえ、若葉のゆらぎ、
ゆらめける梢のひまを
青空や孔雀くじやく尾羽をばね、――
かずの珠、瑠璃るりのつらなみ。

皐月野さつきのの胸のときめき――
節ゆるきにほひの歌ぞ
日に蒸して、緑にひて、
たよたよと傳ひゆきぬる。

晩秋


ささやきてにける影や、
さかづきにしたみし酒は
(飮みさしぬ)、あはれ惱まし、
しぶりたるうれひに濁る。

ささやきてにける影や、
おとづれも今はた絶えぬ、
ほど過ぎて風もあらぬに
ひえびえとはだへあはだつ。

うらがれの園にしとれる
石づくゑ、みがけるおも
薄鈍うすにばみ曇るわびしさ、――
歡樂よろこび」は待てどかへらず。

雲は、見よ、空のわづらひ、
吹き棄つる命のかたみ――
かなしみ」のかひかとばかり
晝の月、あとこそ痛め。

かくてまた薄らぎ弱る
日のひそみ、風のおとろへ、
黄にもだ公孫樹いてふの、はたや
灰ばめるやなぎの落葉。

一叢ひとむら薔薇さうびは、かしこ、
しぼみゆく花の褪色あせいろ
くづをるる埋れこころぞ
土のさびれは咽ぶ。

空だのめ、何をかは待つ、――
いつしかに日和ひよりかはりて
雨もよひ、やや蒸しぬれば、
秋は今ふとき呼息いきしぬ。

わりなくも聲になやめる
さかづき玻璃はりの嘆きと
うつろへる薔薇さうびの歌と、
かかる日を名殘なごりのしらべ。

序のしらべ




華やかに夕日は、かしこ、
矛杉ほこすぎを、のつらなみを、
華やかに映しいでたる。
  (見よ、空のをち
  夕暮かけて雲すきぬ。)

なからより上を木の幹、
叢葉むらはこずゑ、ふとあからかに、
なからよりのもと暗く。
  (今、空のうへ
  冬をなやらふ風のおと。)

夢なりや、木々のいただき、
仰ふぐに瞳ぞ歌ふ、
夢なりや、夢のかがやき。
  (雲と風とは
  春を迎ふる夕あらび。)


わが脚は冷たきつち
うゑられぬ、をぐらき惱み、
わが脚は重し、たゆたし。――
  冷たきつち
  のがれもえせぬ「死」のひとや

かぐよへるめぐみのかげに
みやうをぬく「おもひ」の上枝ほつえ
かぐよへるあめのみすがたや。――
  めぐみのかげは
  闇のいとじよのしらべ。

歡喜よろこびのまぢかしや、わが
望のその、光のながれ
歡喜のあしたをまため。――
  まぢかしや、それ
  夜はすさぶとも、あへぐとも。


うつつなる春に遇ひなば
かんの黄や、乙の紫、
うつつなる夢にわが身も、――
  あはれ身はまた
  たま常磐ときはにしたしまむ。

あすとなり、今日のうれひを
きんのすみれ、箜篌くごのもくれん、
翌となりて興じいでなば、――
  さらばこころは
  いかがくゆらむ、追憶おもひでに。

闇おちぬ、今はた空し、
世や、われや、ただひとつらに、
闇おちぬ、闇のくるめき、――
  かくて望の
  緒をこそまどへ、絶えにきと。

やまうど


やまうどは微かにうめく、わなわなと
胸にはむすぶさうの手や、
 をみなよ、その手を……
やまうどは寢がへるけはひ。

やまうどの枕を暗く寂しげに
燈火ともしびくもるよるむろ
 をみなよ、照らしぬ……
やまうどは汗す、額に。

やまうどは何をかもとむ、呼息いきづかひ
いと苦しげに呟やける、
 をみなよ、聞け、問へ……
やまうどの唇せぬ。

やまうどのまなこまろび沈み入り、
さしめぐらしき惱ましさ、
 をみなよ、靜かに……
やまうどによるみぬ。

やまうどは落居おちゐねぶり、蟀谷こめかみ
すぢびよめきて、またゆるぶ、
 をみなよ、あな、あな……
やまうどのおもてほほゑむ。

やまうどをこの束の間に、(その人の
妻たる三年みとせ)、いかに見る、
 をみなよ、畏れな……
やまうどの夢はひびきぬ。

やまうどの枕をかへよ、りぬるも
なほ新たなる布ありや、
 をみなよ、いづくに……
やまうどに燈火ともしびえぬ。

鐘は鳴り出づ


『火はいづこぞ』とわらは、――
『見よ、伽藍がらんぞ』と子の母は、――
父は『いぶかし、このに』と。
  (鐘は鳴り出づ、梵音ぼんおんに、――
         紅蓮ぐれんのひびき。)

『伽藍のやねに火ぞあそぶ、
ああ鳩の火か、ほのほか』と、
つくづく見入るわらは
  (鐘は叫びぬ、梵音に、――
         無明むみやうのあらし。)

『火は火を呼びぬ、今、垂木たるき
今また棟木むなぎ、――末世まつせの火、
見よ』と父いふ、『皆火なり。』
  (鐘はとどろく、梵音に、――
         苦熱くねつのいたみ。)

『火はいかにして莊嚴しやうごん
伽藍がらんを燒く』と子の母は、――
父は『いぶかしわざ』と。
  (鐘は嘆きぬ、梵音に、――
         癡毒ちどくのといき。)

ほのほは流れ、火は湧きぬ、
ああ鳩の巣』とわらは、――
父は『燒くるか、人の巣』と。
  (鐘はふるへぬ、梵音に――
         壞劫ゑごふのなやみ。)

『焔の獅子座ししざ火にらす
如來によらい金口こんくわれ聞く』と、
走りすがひて叫ぶ人。
  (鐘はわななく、梵音に、――
         虚妄こまうのもだえ。)

『火は内よりぞ、佛燈は、
末法まつぽふの世か、佛殿を
燒く』と、ののしそしる人。
  (鐘はすさみぬ、梵音に、――
         ※(「田+比」、第3水準1-86-44)びらんのいぶき。)

鐘樓しゆろうに火こそ移りたれ、
今か、今か』と、狂ふ人、――
『鐘の燃ゆ』と女の童。
  (鐘は絶え入る。梵音に、――
         無間むげんのおそれ。)

『母よ、明日よりいづこにて
あそばむ』と、また女の童、――
母は『猛火みやうくわも沈みぬ』と。
  (鐘は殘りぬ、梵音に、――
         欲流よくるのしめり。)

『父よ、わが鳩燒け失せぬ、
火こそねため』と女の童、――
父は『遁れぬ、後追へ』と。
  (鐘はにほひぬ、梵音に、――
         出離しゆつりのもだし。)

水のおも


いとさき窓
晝もも絶えずひらきて、
かぎられしみづ
たゆたひをのみ
うんじたるこころにしめす。

淀める沼か、
大河か、はたや入江か、
みづ一片ひとひらを、
何は知らねど、
絶間なくながめ入りぬる。

蒼白く照る
波のあや、文はたわみて
流れ去り、またたた
數のすがたは
一々に祕密のこころ

しかはあなれど
何事もわれはし得ず、
晝は見て、夜想ふ、
その限りなさ、
いつまでか斯くてあるべき。

わがたましひ
解きはなて、見るは崇高けだか
あまならず、つちならず、
ただたゆたへる
みづおも、昨日も今日も。

世をば照らさむ
不思議はも耀き出でねと
待ちければ、こはいかに、
わが魂か、
白鵠びやくこふは水に映りぬ。

哀しき鳥よ、
いけにへよ、知らずや、波は、
今、けしほのほなり、
白きつばさ
たちまちに燒けせなんず。

聞け、高らかに
ふるへ、『父、子、みたま
み榮のあれよ』とぞ
めし聖詠せいえい
臨終いまはなる鳥の惱みに。

わが身はかかる
ありさまに眼をしとづれば、
まだ響く、『みさかえ』と、――
窓のを、そと、
見やる時、こはあめあらめ。

ゆふべの空か
水のおも、こはあめならめ、
浮べたる榮光に
星は耀く、
しかすがにうら寂しさよ。

われとあざみて
何ものかわれにそむきぬ、
暗きむろさき窓、
みて夢みし
信の夢、――それもあだなり。

おもひで

(妻をさきだてし人のもとに)

「おもひで」よ、きよき油をが手なる
火盞ほざらに注ぎ捧げもち、淨き焔の
あがる時、ああ、亡き人の面影を
の君のため、母を呼ぶめぐのため、
ありし世のにほひをひきて照らし出で、
かへらぬたまをいとどしくいためる窓の
小暗をぐらさに慰め人と添へかしな、
慈眼じげんぬしはこれをこそたたへもすらめ。
「おもひで」よ、なほくまもなく、が胸の
こころの奧所おくがひらくべき黄金こがねの鍵を、
悲みにとこしへ朽ちぬしるしありと、
音もさやかにかがやかに捧げまつりね。

眞晝


眞晝時とぞなりにける、あるかなきかの
軟風なよかぜもいぶき絶えぬる日盛ひざかりや、
野のかたを見やればひとつ鐘のかげ、
うねりつづける生垣の圍ひのひま
軒低きひなしろくかつ照りつ、
壁を背にめしひ漢子をのこりかかり、
そのおもてをば振りかへし日にぞあてたる。

とどま足掻あがく旅の馬、土蹴る音は
緩やかに堅し、輝く光こそ
歌ふらめ、歌あひのしじま長きかな、
眞晝は脚を休めつつ、ひとつところに、
かにかくにすがひ去ぬべきさまもなく、
濃き空の色はかなたにうちよどみ、
暑さはたゆき夢せて重げに蒸しぬ。
ロセチ白耳義旅中の吟

聖燈


深き眞晝を弗拉曼ブラマンひなの路のべ、
いつきたるちさほくらかたへ過ぎ
うかがへばつらねたる畫の中に、
聖母は御子の寢すがたをいだきたまへり
羊を飼へる少女をとめらは羊さしき、
晴れし日の謝恩しやおんやここにひざまづく、
はたや日の夕もここにひざまづく、
悲しき宿世すぐせ泣きなむも、はたまたここに。

夜も更けしをり、同じ路、同じほくら
かたへ過ぎ、見ればみあかしほのめきて
如法によほふの闇の寂しさを耀かがやき映す、
かくも命のぬくみ冷え、疑ひ胸に
くゆる時、「信」のひかりをひたぶるに
頼め、その影、あるはえ、あるは照らさで。
ロセチ白耳義旅中の吟

『ルバイヤット』より



其一


泥沙坡ナイシャプルとよ、巴比崙バビロンよ、花の都に住みぬとも、
よしやまたさかづきうましとて、にがしとて、
絶間あらせず、命の酒うちしたみ、
命の葉もぞ散りゆかむ、一葉ひとは一葉に。

朝毎に百千ももちの薔薇は咲きもせめ、
げにや、さもあれ、昨日きのふの薔薇の影いづこ、
初夏月はつなつづきは薔薇をこそ咲かせもすらめ、ヤムシイド、
カイコバアドのみことらのみ命をすら惜しまじを。

くものは逝かしめよ、カイコバアドの大尊おほみこと
カイコスルひこ、何はあれ、
丈夫ますらをツアルもルスツムも誇らば誇れ、
ハチム王うたげひらけよ――そも何ぞ。

はたにつづける牧草まきぐさの野を、いざ共に
その野こえ行手ゆくて沙原すなはら、そこにしも、
王は、穢多ゑたはの差別けぢめなし、――
金の座に安居あんごしたまへマアムウド。

歌の一卷ひとまきのもとに、
美酒うまきもたひかての山、さてはみまし
いつも歌ひてあらばとよその沙原すなはらに、
そや、沙原もまたの天國。

其二


さかし教に智慧ちゑ種子たねきそめしより
われとわが手もておふしぬ、さていかに、
收穫とりいれどきの足穗たりほはと問はばかくのみ――
『水のごとわれは來ぬ、風の如われぞく。』
オマアカイアム


ばへよ、あはれ、
わがこころなき手もて、今、
いましが夏のたはぶれを
うるさきものに打拂ふ。

あらぬか、われや
汝に似たるさ蠅の身、
あらぬか、汝、さらばまた
われにも似たる人のさま。

われも舞ひ、飮み、
かつは歌へども、つひの日や、
差別けぢめをおかぬ闇の手の
うち拂ふらむ、わが翼。

思ひわかつぞ
げにも命なる、力なる、
思ひなきこそ文目あやめなき
死にはあるなれ、かくもあらば、

さらばわが身は
世にもさちあるさ蠅かな、
生くといひ、た死ぬといふ、
そのいづれともあらばあれ。
――ブレエク

人魚の海


怪魚けぎよをば見き』と、奧の浦、
奧の舟人ふなびと、――『怪魚をか』と、
武邊ぶへんの君はほほゑみぬ。

『怪魚をばかつて霧がくれ
見き』と、寂しうものうげに
かぢおい水手かこ

武邊の君はほほゑみぬ、
水手またいふ、『そのおもて
美女の眉目まみ濃く薫りぬ』と。

水手はまたいふ、『人魚とは
げにそれならめ、まさめにて
見しはひとたび、また遇はず。』

船はゆらぎて、奧の浦、
霧はまよひて、光なき
入日惱める秋の海。

『げにかかりき』と、おい水手かこ
『その日もかくは蒼白く
海は物さび呼息いきづきぬ。

ふなばたふるへわななきて、
波のうねうね霜じみの
色ににばみき、そのをりに――』

武邊ぶへんの君はほほゑみぬ、
水手かこおきなかぢとりて、
また呟ける、『そのをりに――』

武邊の君は眼を放ち
海を見やれば、老が手に
馴れたる舵のきしむ音。

船はこの時脚重く、
波間に沈み朽ち入りて
ゆくかのさまにたじろぎぬ。

水手の翁もほほゑみぬ、
まがの時なり、奧の浦、
ああ人も人、船も船。

昔の夢ぞほほゑめる。――
『そのをりなりき、たちまちに
波は燃えぬ』と、老の水手。

つぎてまたいふ、『海にほひ、
波は華さき、まどかにも
夕日のうてな[#ルビの「うてな」は底本では「うなて」]かがやきぬ。

『波は相寄りまた歌ふ、
ほのほの絹につつみたる
珠のささやく歌の聲。

『そのをりなりき、のあたり
人魚にんぎようかびぬ、波は燃え、
波は華さき、波うたふ。

黄金こがねうろこあゐぞめの
しほにひたりて、そのおもて
人魚は美女の眉目まみ薫る。』

昔の夢ぞかへりたる、――
まがの時なり、奧の浦、
ああ時も時、海も海。

瞳子ひとみ瑠璃るり』と、老の水手、
胸乳むなぢ眞白に、濡髮を
かきあぐる手のしなやかさ。――

『武邊の殿よ、かかりき』と、
言へばうなづき、『見しはそも――』
殿はほほゑみ、『何處いづこぞ』と。

『殿よ、ここぞ』と、老の水手
眼をみひらけば、霧の墓、
ただ灰色の海のおも

昔の夢はあざわらふ、――
『何處』と問へば『ここ』と指す
手こそわななけ老の水手。

船は今しも帆を垂れぬ、
とらはれぬ、霧の海、
ただ灰色のとばりのみ。

『げにかかりき』と、おい水手かこ
『船も狹霧さぎり海原うなばらも、
胸のとどろき、今日もまた――』

またいふ、『あなや、渦まきて、
霧は狹霧を呑み去りぬ、
殿よ、沒日いりひは波をく。』

武邊の君は身じろがず、
帆は、――老の水手『見じ』とただ――
帆はくれなゐに染りたり。

『あな見じ』とこそ老の水手、――
人魚うかびぬ、たちまちに
武邊の君がのあたり。

二つに波はわかれ散り、
人魚うかびぬ、身にこむる
薫も深し波がくれ。

人魚の聲は雲雀ひばりぶえ、――
波はたはぶれ歌ひ寄る
黒髮ながきうをの肩。

人魚のゑみはえしれざる
海の青淵あをぶち、その淵の
まじ眞珠またま透影すいかげか。

人魚は深くほほゑみぬ、――
戀の深淵ふかぶち人をひき、
人をほろぼすほほゑまひ。

武邊の君は怪魚けぎよを、きと
にらまへたちぬ、ゑみの勝、――
入日は紅く帆を染めぬ。

武邊の君は船のに、
血は氷りたり、――海の
波ことごとく燃ゆる波。

武邊の君は半弓はんきゆう
矢をばつがひつ、放つ矢に
手ごたへありき、怪魚の聲。

ああ海の面、波は皆
をののき氷り、船の舳に
武邊の君が血は燃えぬ。

痛手に細る聲の冴え、
人魚は沈む束の間も
猶ほほゑみぬ、――戀の魚。

むくいは強し、眼に見えぬ
影の返し矢、われならで、
武邊の君は『あ』と叫ぶ。

人魚ぞ沈むその面に
武邊の君は亡妻なきつま
ほほゑみをこそのあたり。

亡妻のゑみ怪魚けぎよの眼と
怪魚の唇、――くいもはた
今はおよばじ波の下。

昔の夢はひらめきて
闇に消え去り、日も沈み、
波は荒れたち狂ひたつ。

暴風あらしのしまき、夜の海、――
水手かこの翁はさびしげに
『船にはつる港あり。』

泊つる港に船は泊つ、
さあれすさまじ夢のあと、
人のこころの巣やいづこ。

武邊の君はその日より
こころ漂ひ二日經て、
またたどり來ぬ奧の浦。

領主のたち太刀試合たちじあひ
また夜のうたげ、名のほまれ、
武邊の君は棄て去りぬ。

二日を過ぎしその夕、
武邊の君はそそりたつ
いはほのうへにただひとり。

巖のもとに荒波は
渦まきどよみ、ながめ入る
おもひくるめく瑠璃るりの夢。

帆かげも見えず、この夕、
霧はあつまり、光なき
入日たゆたふ奧の浦。

武邊の君に幻の
すがたうかびぬ、亡妻の
おもわのゑまひ、――怪魚けぎよの聲。

『幻のまことなる』――
武邊の君はかく聞きぬ、
痛手にほそる聲の冴え。

ああ、くるめきぬ、眼もあはれ、
心もあはれ、青淵に
まきかへりたる渦の波。

武邊の君は身を棄てて
淵に躍らす束の間を、
『父よ』と風に呼ぶ聲す。

武邊の君の身はあはれ
ゑまひの渦に、幻の
波のくるめき、夢の泡。

『父よ』と呼びぬ、奧の浦、
水手かこの翁はその聲を、
ねぶらで聞きぬ夜もすがら。

水手の翁は曉に
奧の浦べを『父』と呼ぶ
姫のすがたにをののきぬ。

『姫よ、怪魚けぎよかと魂消たまぎえぬ、
は、は』と寂しう老の水手、
『姫よ、さいつ日わが船に――』

『父は人魚のあやかしに――』、
姫は嘆きぬ、『父はその
面わのゑみにかれき』と。

『姫よ、武邊の君が矢に
人魚は沈み、夜の海、
あらしの船』と老の水手。

姫は嘆きぬ、『名のほまれ、
領主のたちの太刀試合、
父はいなみてあくがれき。』

『姫よ、甲斐なき人の世』と
老は呟く、姫はまた
『父は怪魚けぎよむ海の底。』

ああ幾十度いくそたび、『父』と呼ぶ
姫がこわねに力なく、
海はどよもす荒磯あらいそべ。

姫は『母よ』と、聲ほそう、
『母よ』と呼べば、時も時、
日はさしいづる奧の浦。

黄金こがねうろこ波がくれ、
高波白くたち騷ぎ、
姫を渚に慕ひ寄る。

三たび人魚をのあたり、
水手の翁は『三度ぞ』と、
姫をまもりてたじろげば、

渚かがやく引波ひきなみ
跡に人魚は身を伏せて、
悲み惱む聲の冴え。

姫は人魚をそと見やる、
人魚は父の亡骸なきがら
さうかひなにかきいだき、

眞白き胸の血のしづく、
武邊の君が射むけたる
矢鏃やじりのあとの血の痛手。

人魚はやをらかなしげに
おもてをあげぬ、悲しめど
猶ほほゑめる戀の魚。

人魚は遂に絶え入りぬ、
姫はすずろに亡父なきちち
むくろに縋り泣き沈む。

なぎさどよもす高波は
ふたたび寄せ、老の水手、
『あなや』と叫ぶひまもなく、

武邊の君が亡骸なきがらも、
姫も、人魚も、幻の
波にくるめく海の底。

水手の翁はその日より
海には出でず、『まさめにて
三度みたび人魚を見き』とのみ。
(明治四十一年一月刊)





底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」講談社
   1968(昭和43)年5月19日初版発行
   1969(昭和44)年10月1日第2刷
底本の親本:「有明集」易風社
   1908(明治41)年1月1日
入力:広橋はやみ
校正:荒木恵一
2014年7月16日作成
2015年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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