創始期の詩壇

蒲原有明




 明治十五年にかの有名な「新體詩抄」が刊行された。
 わたくしはまだ七歳の小兒であつて、宵の明星や光の強い星を木の間がくれにふと見つけ出して、世間の噂さの名殘をそのまゝに「西郷星」だと囃したてゝ、何となく寂しい思ひの底に胸のとどろきをおぼえた時代である。
 かゝる時代に於て、井上、矢田部、外山の諸博士の主唱と編纂とに成つた「新體詩抄」が誕生して、始めて詩の方面に新潮流を導いたといふのは、まことに興味もあり、また意義もあることである。
 新事象は一つの發見された星のやうなものである。人々が大なる變革によつて受けた心の激動を「西郷星」に仰いで見た不安と畏怖との念は漸く薄らいで、こゝに文學の天に新たなる詩歌の星がかゞやきそめた。それを囘想すると、わたくしの胸はわけもなく躍る。
 それから少し後になつて袖珍本「新體詩歌」(明治十九年版)が出た。この廉價本は恐らく僞版で、内容に雜駁の嫌ひはあるが、「新體詩抄」中の創作飜譯は悉く載せてある。わたくしたちの手に渡つたのはこの本である。わたくしはその當時、姉と二人で競つて、何がなしに集中の詩を暗誦してゐた。
 わたくしはその中でも異彩を放つ飜譯の詩を殊に好んだ。
山々かすみいりあひの
鐘はなりつゝ野の牛は
徐に歩み歸り行く……
 やがて羊の鈴が聞え、梟が月に訴ふるといふその詩のはじめの方の句が、今でも切れ切れながら口拍子に乘つて思はず吟じ出されることがある。これはグレイが數年刻苦の作として聞ゆる「墳上感懷の詩」である。このグレイの詩を後には「墓畔吟」と云つた。
 もつと艱しい詩がある。無理におぼえておいたのを歌ふ。
存ふべきか但し又、ながらふべきに非るか
ここが思案のしどころぞ、運命いかに拙きも
これに堪へるがますらをか……
 歌ふ聲が夜風の烈しさにとだえる。幼い頭にも、これが生死の岐れ目であるといふことが朧げながら判る。死は眠なり夢なり。いよいよそらおそろしい。これは言はずとも著るしきハムレツトの苦悶の獨白である。
 調子が急に勇壯になる。テニスンの「輕騎隊進撃の詩」に移つたからである。
 またどうかするに「自由の歌」を歌ふ。激越な字句が快心に聞える。これは小室屈山の作である。當時に於ける政治上要求の一面に新しい聲を與へたものとして迎へられたが、兎にも角にもこれは時代の聲であり、わが邦の埋れたマルセイエエズである。
 佛蘭西革命やルウソオの「民約篇」が絶東に及ぼした影響は存外烈しかつた。長髮の「自由」はその時代の最高感情であつた。もとより最高目的としてはわが國體や國情がそれを容るすべくも無かつたが、たまたま憲政の創立に相應の刺戟を與ふる役目をなし遂げたのである。
 憶ひ起すことがある。わたくしが小學を卒業した時、英語の讀本を賞典としてもらつた。その書はすでに所有してゐたので、そのわけを先生に斷つておいて、すぐ書肆に行つて別の本を取換へることにした。そこでいろいろ搜してゐる中に、「佛蘭西革命」と題する薄册の本が目についた。わたくしは躊躇せずにその本を手に入れた。
 自由なるかな。「自由は死せず」と叫ばれた世の中である。社會上、文藝上に唱へられる種々の主張は皆この自由の精神の變形であると云つてもよい。平民主義と云ひ、寫實主義と云ひ、ひとしくこの因襲を脱しようとする情念に萠さぬものはない。
 文壇に於ては必然の勢として專ら寫實が唱へられる傍にあつて、ロマンチックともいふべき思想がこゝに始めて現はれて來た。これは政治運動によつて捲き起された自由反抗の感情が、その波動をこゝに及ぼしたものと觀てさしつかへないのであらう。然しながらこの時期にロマンチック思想の起つた他の因子は、これを新宗教に求めねばなるまいと思ふ。即ち基督教の影響である。現實と理想の矛盾相剋に目ざめかけた思想がそろそろと新時代の人々の胸の奧に宿つてくるのである。佛のユウゴオと英のバイロンの名がいつともなく呼起されてくるのである。
 こゝに至つて、森田思軒の「哀史」の節譯と、北村透谷の「蓬莱曲」とが興味ある地位を占める。「蓬莱曲」は律語で書かれた新劇詩の先驅で、曲中主人公の煩悶の叫び聲に「マンフレッド」と「ハムレット」の影響がある。わたくしはこの曲を友人から借りて讀んだ。この曲は明治二十四年五月に刊行されてゐる。この友人がまた頗る曲中の主人公の性格に似通つてゐて、しかも贅澤な生活をしてゐた。わたくしはこの曲を讀み了つた後の感激を追想する毎に、この友の悲痛なる神經質の面影をおもひ浮べぬことはない。
 わたくしは不圖氣がついて不思議に感ずることがある。矢張ハムレットに就てである。「新體詩抄」にハムレットが譯載されてゐることはこの記文の初頭に述べておいた。わたくしは沙翁の佳句も多からうに、譯者は何故にこの獨白を特に選んだか、そんなことを考へるのである。これは要するに譯者の趣好に由ると言ふより外にその答は得られぬものであらうが、わたくしはその無言のうちにも近代的思潮の到らぬ隈もなき浸潤を考へてみたいのである。わたくしはこの見地から明治十五年に始めて詩の天に輝いた一新星は二重星であつたと觀てゐる。幽かに白光を放つ星のうしろに重り合つて、闇く青い宿命の星がひそんでゐたやうに思はれるからである。
 明治二十年代の詩界を顧みる人は、その若々しかるべき光景を豫想しつゝ、そこに煩悶と厭世の狹霧の立ち籠めてゐるのを見て、必ず一度はこれを訝ることであらう。自覺か、さもなければ自殺かとまで押詰められた世の中となつて、文壇の士がその爲に慘しい犧牲となつた歴史が殘されてゐる。これは文壇に起つた事件とは少し樣子を異にしてゐるが、板垣伯を刺さんとして遂げなかつた相原某も、下獄を待つて罪過を板垣伯に謝し、海に出でて船の上から身を躍して波の底に沈んだ。時代の思潮に後れたことを悔いたのである。すべてがさういふ風で、思潮の交替の險しい嵐の最中であつた。
 明治二十二年の「國民之友」夏季附録にはSSS社中の「於母影」が出た。SSSの陰符が人目をそばだてしめたが、これはやがて森鴎外博士の率ゐる新聲社であると云ふことが判つた。「於母影」は主として英獨の詩歌の飜譯であるが、その飜譯に適應せしむべき詩體の變化にも細心の注意が行き屆いてゐる。傳統の風格も活かされてゐるし、新味を出す語句の遣ひざまにもきつとした整調が保たれてゐる。これを曩きの「新體詩抄」に較べれば、啻に百歩千歩の差のみではない。わたくしはこれを觀て時勢の進運を痛切に感ずるのである。篇中の譯詩を誦して、ゲエテの「ミニョンの歌」に至る時、誰しもその妙技を讚嘆せぬものはなからう。わたくしはこれを以てわが邦に於ける譯詩の白眉とするに躊躇しない。
 こゝにバイロンの「マンフレッド」がある。その曲の發端の句を少しく擧げよう。わたくしはこれらの句を諳んじてゐて、今でも時々思ひ出して、よくも忘れてしまはなかつたと、我ながら驚くぐらゐである。
ともしびに油をばいまひとたびそへてむ
されど我いぬるまでたもたむとも思はず
我ねむるといへどもまことのねむりならず
深き思のために絶えずくるしめられて
むねは時計の如くひまなくうちさわぎつ
こゝにはまた「あるとき」と題する墓畔の詩がある。ハイネの「あまをとめ」と共にセンチメンタルな戀愛の幻想と匂ひとを浮べる。沙翁もある。こたびも矢張ハムレット曲中の狂女オフェリア姫の歌である。
 明治の新詩壇は産聲をあげるそもそもの始めから妙に一味の厭世と狂氣と墓畔のしめりとを雜へてゐた。これは正しく支那日本の藝術の傳承とその鑑賞の偏向に因るものとして考察される。これはまた一面から觀れば我々が無意識に有つてゐる現實的妄執とも云はるべき習俗の影である。東洋的たる所以がこゝにある。されば傳統から解放された筈の精神が先づこの陰森の氣を呼吸したことは止むを得ぬ宿命であらうが、わたくしは「透谷集」を繙く時に最もこの感を深くする。
 ハムレットの影響はなほ續いた。それは島崎藤村さんの「朱門のうれひ」にまで及ぼしたのである。
 グレイの「墓畔吟」、ゴオルドスミスの「寒村行」、ミルトンの「失樂園」、ダンテの「神曲」、ウオルヅヲルスの「靈魂不滅の歌」等の篇名は「ハムレット」「マンフレッド」の兩劇曲と共に、その當時西歐詩歌を味ひそめた青少年のために、いみじくも美しきシンフォニイを作つてゐたのである。勿論「失樂園」や「神曲」の大物はなかなか容易にはこなせなかつたが、本はその比でも手近にあつたし、誰でもその一端だけは心得てゐたものである。
「新體詩抄」も「於母影」もその發表の形式には似よりのところがある。各その背後に一つの革新團體を控へてゐて、たまたま詩の方面に實行運動の端を開いた姿を見せてゐる。正面から個人として詩壇に乘り出すまでには到つてゐない。然るにその間にあつて、自覺して創作を以て世に問ふた一詩人が現はれた。山田美妙齋がその人である。美妙齋が明治詩史に占める輝やかしい座席がこゝに確定するのである。この座席の占得に就ては最早些の疑議をも容さない。多技多能であつた美妙は、後につまらぬ世事に關して失脚したが革新初期の文藝、殊に詩律と韻脚の上に見識を有ち抱負を有つてゐた。美妙の詩に「醉沈香」がある。わたくしはこの一篇を以て美妙の代表作に擧げる。この詩も明治二十三年の「國民の友」春季附録に載せられたものである。その前年に美妙が書いた歴史小説「胡蝶」とその※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫の裸體風の少女像に就て起つたやかましい問題に對する解嘲の趣旨がこの詩に含められてゐる。長篇で、その上我邦詩壇に於ては全くユニクな諷刺詩である。詩人はこゝで明らかに時代の反抗精神に新しい聲を假してゐる。詩調はさまで激越でもなく、むしろ程よき落ちつきがあつて、日用の語を自由に驅使鹽梅してゐるところに老巧とも稱せらるべき妙技を見せてゐる。わたくしは人がこの作の存することを忘れ去り、或はその價値を過少視するにあきたらぬものである。かういふ作の生育した畑が一度は美妙の手で耕されてゐたのである。それにも拘らず、誰もその事のあつたのを顧慮してゐない。それでは價値批判の正當さは保たれぬわけである。わたくしはこゝまで來て、自個の趣味にのみ阿ねるものではない。實をいへば「醉沈香」はわたくしの平生の好みに十分適してはゐない。しかもわたくしはこの作を推奬して止まぬものである。
 山田美妙の後には北村透谷出で、宮崎湖處子出で、中西梅花でて、皆よく一家をなした。透谷は自殺し、湖處子は宗教に隱れ、梅花は狂したが、それだけにとりどりの特色が發揮され蓄積されて、それが次代隆盛期を起す榮養となつたのである。
 これを外國文學の影響から言へは、バイロンからウオルヅヲルスに移つて、湖畔詩人の名が何時傳はるともなく人口に膾炙する。その眞率とその敬虔とその信念とその理想とがしばしば稱道される。昨日の「墓畔」が今日の「湖畔」となる。漸くにして「靈魂不滅」と「自然」とが一部詩人の標語となつて來たのである。然しウオルヅヲルスがどれだけ廣く一般に讀まれたかは、わたくしには判らない。スコットの傳奇的な「湖上美人」は別であつて、此と彼とは全く異つた雰圍氣に屬するものである。傳奇的なものならば東西兩洋にかけて共通鮎が多い。然るにこゝに謂ふところの「自然」また「靈魂不滅」は我々の從來の教養とはその間に少なからざる懸隔を有するものである。それを端的に説明すれば、それ等の語の示す抽象性に關するものと云つてよい。
 兎まれ角まれ、「自由」によつて掻起された政治的感情が因襲打破の反抗精神となつて一般化し、それが一度詩的變形を受けたところに、めづらしくも惡魔の嘲笑と呪咀の叫びが聞えてきたのである。現實と理想の矛盾に傷いたこゝろが、その癒し難き苦惱を擁いてゐた時、恰もよし、その適藥として渡されたのが、このウオルヅヲルスの「靈魂不滅」である。可笑しなことには、これは單に「語」として渡されたので、病なきものさへも何か知らず永生を享くる靈藥の如き思ひをなして、これを頓服するよりほかはなかつたのである。勿論この詩人の所謂不滅の存在を暗示する前生の想念に關し直接の交渉を有してゐたのではない。我々は古來鬼畜となつて生死するをも嫌はぬ永劫輪※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)の思想を傳承してゐる。假令ウオルヅヲルスの唯心觀を清高なものとして認むる人があつてもその迫力の弱性はこれを否み難からう。かの有名な詩篇「幼時の囘想による不滅の生の暗示」はその標題の示す如くに冷やかである。幻想的な一寫象、感覺的な一句をすら缺如してゐる。すべては唯この詩だけで終つてゐる。こゝに「靈魂不滅」の語のみが抽出されて説かれたわけがある。外部からの宗教的壓力が多少加へられてゐたのである。わたくしも一度はこの語に牽かされた經驗を有つてゐる。然るにこの語には反應がなかつた。わたくしはそれが般若の空よりも冷やかであるのに辟易した。
 然らば頼むべきものは何かと云へば、殘るところは唯「自然」のみである。
山林に自由存す
われこの句を誦して血のわくを覺ゆ。
國木田獨歩はかう歌つた。されどもまた「自由の郷は雲底に沒せんとす」るのである。ウオルヅヲルスに一時傾倒してゐた獨歩が自由の存するところの山林を「自然」と觀じてゐたであらうことはよく判る。その爲に獨歩は北海道の處女林をさまよつても見たのであるが、この「自然」が冷やかな微笑の一つをすらこの詩人に與へたかは疑問である。「自由」でも「自然」でも、この時代に於てはすべて抽象語として先づ受け入れられたのである。どうにかそれは解釋されなければならない。獨歩がこの「自然」を「山林」の語に換へて見たのも止むを得ないことである。それを環境に引き當てゝ試めした後には、その山林が田園にまで引下されて親しまれねばならぬ理由が誰にもよく悟られたのである。
 ハイネの「流竄神」ではないが、「自由」の神は田舍少女の風俗に姿をやつして、野花一枝を添へた草刈鎌をたづさへてゐる。村はづれの寂しい渡頭に立つて老翁の船を呼ぶ。都からさまよひ來つた若い歌人がゆくりなくもその同じ船に乘り合はす。渡守の翁の眼はあやしみの色にかがやく。この少女と歌人とは同舟の縁につながれて、野ずゑを互に清い聲で歌ひかはして行く。
And in thy right hand lead with thee
The mountain nymph, sweet Liberty.
程經て後、山谷の奧に歡樂窟があるといふことが詩人仲間に評判された。人は皆ヴエヌスの神を讚嘆しはじめた。このヴエヌス、實は「自由」の神の本體であるといふことに氣のつくものは、さしあたり無かつた。自由は眞にその自由を享樂することが出來たのである。
 すべては夢のやうである。華やかな抒情詩の朝が甦つて來る時勢にさきがけて、若人の哀愁の身肉にさゝやく戀愛詩が歌はれてゐた。明治三十年二月に民友社から發刊された「抒情詩」一册がこれを證明する。この詩本は矢崎嵯峨の家、國木田獨歩、田山花袋、松岡國男、太田玉茗、宮崎湖處子等諸家の小詩篇を蒐めたもので、掌中に收めてもなほ餘りあるぐらゐの小形のものであるが今日では既に珍本の部に屬してゐる。集中松岡國男氏の諸篇の如きは我邦に於てまたと再び得られぬ純粹の抒情詩であらうことに疑ひはない。藤村さんが「文學界」に發表してゐた諸作を編んで「若菜集」を出したのもこの年である。創始期の新詩界はさきに言つた如く、獨歩の雲底に沒する自由と共に過ぎ去つて、こゝにまた新たなる感情がえならぬ薫香を帶びて立ちのぼるのを見るのである。
 わたくしはこの期間、上に述べた如きさまざまな思潮の波に漂はされる一少年に過ぎなかつた。秋も深い或る夜のことである。バイロンの「マンフレッド」を始めて手にして讀みかけた時は、まことに「ともしびに油をばいまひとたびそへてむ」の思があつた。わたくしはまた墓畔に誘はれ厭世に魅せられて、手の屆かぬ幽龕に惡魔を居らせてゐたをりもある。流行に牽かされたと云へば、それに違ひはないのであるが、當時にあつてわたくしの心状がさうであつたこともまた決して誇張ではない。わたくしはさういふ事情のもとにバイロンの「チャイルド・ハロルド巡歴詩」を懷にして、しばらく家を出て、西海にあくがれたのである。





底本:「明治文學全集 58 土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明集」筑摩書房
   1967(昭和42)年4月15日発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
   1938(昭和13)年12月
※「ハムレツト」と「ハムレット」、「至つて」と「到つて」の混在は、底本通りです。
入力:岡山勝美
校正:岡村和彦
2015年12月13日作成
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