最上川

斎藤茂吉




 最上川は私の郷里の川だから、世の人のいふ『お国自慢』の一つとして記述することが山ほどあるやうに思ふのであるが、私は少年の頃東京に来てしまつて、物おぼえのついた以後特に文筆をろうしはじめた以後の経験が誠にすくないので、そのわづかの経験をつづり合せれば、ただ懐しい川として心中に残るのみである。
 十三歳の時に上山かみのやま小学校の訓導が私等五人ばかりの生徒を引率して旅に出た。第一日目は上山の裏山越をして最上川畔のドメキ(百目木)といふところに一泊した。ここに来ると川幅はもう余ほど広く、こんな広い川を見るのは生れて初てである。また向うの断崖だんがいに沿うた僅ばかりの平地をば舟をいてのぼるのが見える。人が二、三人前こごみにのめるやうにして綱を引いてのぼつてゐる。かういふ光景もまた生れて初てである。暮方になる。川の規模の大きいのを見てゐると、今度は小さい帆を張つた舟が、反対の方に矢のやうにくだるのが見えた。これは曳舟とは違つてまた特別な印象である。その時『みんな知つてんべ、最上川は日本三急流の一だぞ』と先生がいつた。その日の夕食にはあゆの焼いたのが三つもついたし、翌朝はまたはやの焼いたのが五つもついた。何もも少年等にとつては珍しい。十二銭づつばかりの宿料を払つて其処そこを立つた。
『鮎うまかつたなえ』『旨かつたなえ、おれ頭も皆た』『おまへ腹わたもたか』『うん腹わたもたす、骨もくた』
 第二日は湯殿山の近くの志津に一泊、翌日は案内者を雇つて六十里越をして荘内に入つた。六十里峠はまだ一面の雪であつたが、山国の少年等はそんなことにはすこしも屈しない。『先生は福島中佐見たいだなえ』『ほだ、先生は福島中佐だ』こんなことを云ひ云ひ少年等は峠を越えた。荘内の鶴岡に一泊し、湯浜に一泊し、はじめて海を見た。
 それから最上川の支流を舟でくだつて酒田に行つた。酒田は最上川が海に入るところである。ドメキで見た威勢のよい最上川の水が、ここに来るともうのぺりとしてしまつて、それが日本海と続いてゐる具合は、漫々といはうか、縹茫へうばうといはうか、少年はそんな形容詞は知らなかつたけれども、何か正体の知れぬものを目前に見たのであつた。また、上山では太陽が山から出て山に入るのに、ここではその渺々べうべう漫々たる変な天然のうちに雲が紅く染まつてその中に太陽が入る。少年等は驚いてしまつた。
 芭蕉が奥の細道で『あつき日を海に入れたり最上川』と詠んだのはこの酒田の日和ひより山といふところであつた。少年であつた私等は無論芭蕉の句などは知らず、訓導もそのころは芭蕉の句を云々する者などはゐなかつたと同様に、かういふ句のあることなどは知らなかつた。そしてその夜は少年を皆寝かして置いて、先生は別な部屋で女中と酒を飲んだ。女中といつても、北陸道の越後、ここの荘内、酒田から羽後の海岸一帯にかけて、女の顔容とその膚とが特に美しい。先生は少年を引率し、全部徒歩で山の難路を越えて来たのだから、ここでひそかに酒を飲んだといふことは、まことに無量の味はひがあるが、少年にはそんなことが分からうはずがない。ただ翌朝『先生は昨夜よんべは酒のんだ。けんど、日記さ付けんな』といつて甚だ上機嫌だつたのでおぼえてゐる。(昭和十三・六・二十二)





底本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
   1981(昭和56)年11月27日第1刷発行
初出:「東京日日新聞」
   1938(昭和13)年6月28日
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2006年10月18日作成
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