初恋

矢崎嵯峨の舎




 ああ思い出せばもウ五十年の昔となッた。見なさる通り今こそかしらに雪をいただき、額にこのような波を寄せ、かお光沢つやせ、肉も落ち、力も抜け、声もしわがれた梅干老爺おやじであるが,これでも一度は若い時もあッたので、人生行路の蹈始ふみはじめ若盛りの時分にはいろいろ面白いこともあッたので,その中で初めて慕わしいと思う人の出来たのは、そうさ、ちょうど十四の春であッたが、あれが多分初恋とでもいうのであろうか、まアそのことを話すとしよう。
 ちょうど時は四月の半ば,ある夜母が自分と姉に向ッて言うには,今度清水しみず叔父様おじさまがお雪さんを連れてうちへ泊りにいらッしゃるが,お雪さんは江戸育ちで、ここらあたりの田舎者いなかものとは違い、起居たちいもしとやかで、挨拶あいさつ沈着おちついた様子のよい子だから、そなたたちも無作法なことをして不束者ふつつかもの、田舎者と笑われぬようによく気をつけるがよいと言われた。それからまたそのお雪という娘がどんなに心立てがやさしく、気立てがすなおで、どんなに姿が風流みやび眉目容みめかたちが美しかろうとめちぎッて話された。幼少のうちは何事も物珍らしく思われるが、ことに草深い田舎に住んでいると、見る物も聞く物も少ないゆえちょっとしたことも大層面白く思われるもので,母があのように賞めちぎる娘、たおやかな江戸の人、その人と話をする時には言葉使いに気をつけねばならぬという、その大した江戸の人はまアどんな人なのであろうか? 早くいたいもの、見たいもの、定めし面白い話もあろう、と自分の小さな胸の中にまず物珍らしい心が起ッて、毎日このことをのみ姉と言いかわして、珍客の来る日を待ッていた。そのうちにいよいよ前の日となると数ならぬ下女はしたまでが、「江戸のお客さま、お客さま」と何となく浮き立ッていた,まして祖母や姉なぞは、まして自分は一日を千秋と思ッていた。
 当日は自分は手習いが済むと八ツ半からやり稽古けいこッたが、妙なもので、気も魂も弓には入らずただ心の中で,「もウ来たろうか?」と繰り返していた。稽古が済むと、脱兎だっと何のそのという勢いでいきなり稽古場を飛び出したが、途中で父の組下の烏山からすやま勘左衛門に出遇ッた。
 勘左衛門は至ッてひょうきんな男ゆえ、自分ははなはだ好きであッて、いつも途中などで出遇う時にはいい同行者みちづれだと喜んで、冗談を言いながら一しょに歩くのが常であッた。今日も勘左衛門は自分を見るといつもの伝で,「お坊様今お帰りですか?」とにっこりしたが、自分は「うむ」と言ッたばかり、ふり向きもせず突ッこくるように通り抜けたが,勘左衛門はびっくりして口をいて、自分のうしろを見送ッていたかと思うと、今でもそのかおが見えるようで。
 自分は中の口から奥へはいッてあたりの様子に気をつけて見たが客来の様子はまだなかッた,さてはまだなのかと稽古着のままで姉のへやへ往ッて、どうしたのだろうとうわさをしていた。しばらくするとばたばたばたという足音がして部屋の外から下女の声で、
「お嬢さま、お嬢さま! お客さまが、江戸の」
 自分はいきなり飛び出そうとした,「静かに!」姉に言われてそうだッけと、静かに玄関の方へ往ッてそしてお雪という娘を見た。
 この時娘は、叔父のあとに続いてともの女中をつれてしとやかに玄関を上ッて来た娘は、なるほど、母の賞めた通り誠に美しい娘だ,せいはすらりと高く、色はくッきりと白く、目はぱッちりとすずしく、ほんとうの美人だ。まゆずみを施し、紅粉を用い、盛んによそおいを凝らして後、始めて美人と見られるのはそれはほんとうの美人ではない、飾らず装わず天真のままで、それで美しいのが真の美人だ。この時の娘の身装みなりは旅姿のままで、清楚さッぱりとしたなりで飾りけの気もなかッたが、天然の麗質はあたりを払ッて自然と人を照すばかりであった。それにどんなに容貌かおかたちが美しくても、気象が無下に卑しい時は、どうも風采ふうさいのないものであるが、娘は見るからがその風采の中に温良貞淑の風を存していて、どことなく気高く、いかなる高貴の姫君というとも恥かしからぬ風であッた。
 それに田舎者はどれほど容貌が美しくても、どれほど身装が立派であッても、かの一種言いがたき意気というか、しなやかというか、風流というか? かの一種たおやかな風を欠くものであるが、娘はその風をも備えていた。清水の叔父は自分の父の弟で、祖母には第二番目の子だ、それゆえ娘は自分と同じように祖母の孫で、しかも最愛の孫であッたそうな。その夜一同客座敷へ集まッて四方山よもやまの話を始めたが、いずれも肉身しんみの寄合いであるから誰に遠慮ということもなくその話と言ッては藩中のありさま、江戸の話、親類知己の身の上話、またはてんでんの小児こどもの噂などで、さのみ面白い話でもないが、しかしその中には肉身しんみの情と骨肉ちすじの愛とが現われていて、歎息たんそくすることもあれば、口を開いて大笑いをすることもあッて近ごろ珍らしい楽しみであッた。祖母はお雪やここへというような風に、目つきで娘をそばへ招いて、いろいろなことを尋ねたり語ッたりしていたが,その声の中には最愛いとおし可愛かあいという意味の声が絶えず響いていたように思われた,そして祖母は娘がちいさかッた時のように今もなお抱いたり、でたり、さすッたりしたいという風で、始終娘のかおをにこにことさも楽しそうに見ていたが,娘も今は十八の立派な娘ゆえ、さすがにそうもなりかねたか、ただ肩に手を掛けて,「ほんに立派な娘におなりだの」と言ッたのみであッた。自分は祖母が自分を愛するようにこの娘を愛している様子、と自分が祖母を慕うように娘が祖母を慕ッている様子、とを見て何となく心嬉こころうれしく思ッた。
 その翌日のことで自分は手習いから帰るや否や、「娘はどうしたかな?」と見ると姉の室で召しれて来た女中と姉と三人で何やら本を見ていたが、自分を見てにッこりしたので自分もその笑い貌に誘い出されて何ゆえともなくにっこりした。自分はこれから剣術の稽古があるから、すぐに稽古着を着て、稽古ばかまをはいて、竹刀しないの先へ面小手めんこてはさんで、肩に担いで部屋を出たが,心で思ッた、この勇ましい姿、活溌かっぱつといおうか雄壮といおうか、その活溌な雄壮な風と自分が稽古に精を出すのとを娘に見せてやろうと思ッた,それから武者修行に出る宮本無三四むさしのことを思い出しながら、姉の部屋へはいッたが、この小さな無三四は狡猾こうかつにも姉に向ッて、何食わぬ貌で,「叔父さんは?」とたずねた,姉は何とかこたえていたが自分はそんなことは聞きもせず、見ぬふりで娘の方をちらりと見て、それなり室を出てしまうと後から笑い声が聞えた。自分の噂だなと嬉しく思ッたが、今さら考えると、なんのそうでもなかッたのであろう、晩方から親類、縁者、叔父の朋友ほうゆう、大勢集まッて来たが、中には女客もあッたゆえ母を始め娘も、姉も自分もその席に連なッた。そのうちに燭台しょくだいの花を飾ッて酒宴が始まると、客の求めで娘は筑紫琴つくしごとを調べたがどうして、なかなか糸竹の道にもすぐれたもので、その爪音つまおとの面白さ,自分は無論よくは分らなかッたが、調べが済むと並みいる人たちが口を極めて賞めそやした。娘は賞められて恥かしがり、この席に連なッているのをむしろつらいことと思ッているらしく、話もせず、人から物を言いかけられると、言葉少なに答えをするばかり、始終下を向いていた,がその風はいかにも柔和でしとやかで、微塵みじん非難をするかどもなく、何となく奥ゆかしいので、自分は余念もなくその風に見とれていた。
 自分の父は武辺にも賢こくまた至ッて厳格な人で、夏冬ともに朝はお城の六ツの鐘がボーンと一ツ響くと、その二ツ目を聞かぬ間にもウ起き上ッて朝飯までは、兵書にまなこをさらすという人であッた,それゆえ自分にも晏起あさねはさせず、常に武芸を励むようにと教訓された。
 自分はありがたいことには父のお蔭で弓馬鎗剣そうけんはもちろん、武士の表道具という芸道は何一ツ稽古に往かぬものはなかッたが、その中で自分の最も好いたものはというと弓で,百歩を隔てて、柳葉りゅうようを射たという養由基ようゆうき、また大炊殿おおいでんの夜合戦に兄のかぶとの星を射削ッて、敵軍のきもを冷やさせたという鎮西ちんぜい八郎の技倆ぎりょう、その技倆に達しようと、自分は毎日朝飯までは裏庭へ出て捲藁まきわらを射て励んでいた。
 今日も今日とて裏庭へ出て、目指す的と捲藁をねらッて矢数幾十本かを試したので、少し疲れを覚えて来たゆえ、しばし一息を入れていると冷や冷やとして心地こころもちよい朝風が汗ばんで来た貌や、体や、力の張ッて来た右のかいなへひやりひやりと当るのが実に心持のよいことであッた。誰でも飢えた時かわいた時には食物や水がうまいものであろうが、その時の朝風は実にその食物や水よりもはるかに心持よく、自分は気が清々せいせいとして来た。自分は弓杖ゆんづえを突いて……というのもすさまじいがいわゆる弓杖を突いて、あたりに敵もいないのに、立木を敵と見廻してきっとして威張ッていた。突然二ツの影法師が自分の頭上を越えて目の前に現われた,自分はふり返ッて娘と姉とを見た。
 娘は足を止めて、感心に御精が出ますこと、と賞めそうな風でにっこりしてすずしい目を自分に注いでいた,自分は目礼をして、弓を投げ棄てて姉の傍へ往ッた。
「大層御精が出ますことねエ」はたして娘が賞めた。
「どうしてあなた。しかられてばかりいます、精を出しませんから」
 娘がせっかく賞めたものを、姉がよけいな口をさし入れた、自分は不平に思ッた,しかし姉はさすがに姉で、情のあッたもので、弟の賞められたのが嬉しかッたと見えて、にっこりして,「それでもあなた、出来ないくせに大変に好きで」というのをまくらに置いて自分を賞め始めた,前の言葉とは矛盾したが、そこが女の癖で、頓着とんじゃくはなかッた。自分が幾歳いくつの時四書をあげて、幾歳の時五経をあげて、馬をよく乗ッて、剣術が好きで、鎗がどうで、弓がこうでと、姉が自分のことを賞めたてるのを、娘は笑いながら自分の方を見つめて、その話を聴いていたが、聴き終ッてから、
「ほんとうに感心ですねエ、おちいさいのに」
 この一言は心から出たので,自分は賞められて嬉しく思ッた,的の黒星を射抜いて、えらいと人に賞められたよりは、この人に賞められたのを嬉しいと思ッた。
「庭の方へ往ッて見ましょう。秀さんもおいで」
 姉と娘との間に立ッて、自分は外庭の方へ廻ッて往ッたが、見つけた、向うの垣根かきねの下に露を含んで、さも美しく、旭光あさひに映じて咲いていたの花を見つけた。
「お姉さま、お姉さま、江戸のお姉さま! 御覧なさい。この花はね私が植えたのですぜ,植えたてには枯れかかッたけれど、やッと骨折ッて育てたのです。奇麗でしょう?」
「おやまア奇麗! 花もお好きなの? 武芸もお好き?」と言ッて白い手を軽く自分の肩へ掛けて、ちょっと揺すッてそして頭を撫でたが、不思議にも、その手がさわると自分の胸はさわぎ出した、がそれを見られまいと急いで、
「花は白い方が奇麗ですねエ、赤ッぽいのよりか」
「そうですね、淡白あッさりしていて。赤いのはなぜおきらい?」
「なぜッて? 赤いなア平家の旗色で、白いなア源氏ですもの,源氏の方が強いから、だから……」
 愚にも附かぬことを言いながら、内庭と外庭の間の枝折戸しおりどの辺まで近づいた。と見ると花壇に五六本の白牡丹はくぼたんが今を盛りと咲いていた,その花の下に飼猫の「コロ」が朝日を一杯背中に受けて、つくねんとうずくまッていた「日向ひなたぼこりをしているのか、居睡りをしているのか?「牡丹花下の睡猫すいみょうは心舞蝶ぶちょうにあり」という油断のならぬ猫の空睡そらね,ここへ花の露を慕ッて翩々へんぺんと蝶が飛んで来たが、やがてはがいを花に休めて、露に心を奪われて余念もない様子であッた。油断を見すました大敵、しかし憎げのないひょうきん者め、前足を縮めて身構えをしたが、そら、飛びかかッた,蝶は飛び退いたが、あわてて、狼狽まごついて、地下じびたをひらひらと飛び廻わッていた,が、あわや「コロ」の爪にかかりそうになッた。
「あらまア! あんないたずらを」と娘はせよッて、
「およし可哀そうに」
 娘はしなやかに身をかがめて、「コロ」を押えながら蝶を逃がした。それから「コロ」を抱きあげてそしてやさしい手でくるくると「コロ」のかしらを撫でまわした,「コロ」は叱られたと思ッたか、目を閉じ、身を縮め、首をすぼめて小さくなッたその風の可愛らしさ,娘はその身のかおを「コロ」の貌から二三寸離して、しけしけと見ていたが、そのすずしい目の中にはどんなに優しい情がこもッていたろう。「もう虫なんかを捕るのではないよ」と言ッて、その美しい薔薇色ばらいろほおを猫の額へ押し当て、真珠のような美しい歯を現わしてゆッたりと微笑わらッたが、そのにっこりした風はどんなにあどけなく、どんなに可愛らしい風であッたろう! 自分は猫をうらやましく思ッて余念なく見とれていた。娘は頬の辺にまだ微笑わらいのほのめいている貌をちょいとふり上げて自分の貌を見たが、その笑い貌の中には、「なぜそんなに人の貌を見て」と尋ねるような風があッたので、あるいはなかッたかも知れぬが、自分はあッたように思ッたので、はッと貌を赤らめて、あわてて裏庭へ逃げ出してしまッた,が恥かしいような、嬉しいような、妙な感情かんじが心に起ッて何となく胸が騒がれた。
 その日の七ツ下りに自分は馬の稽古から帰ッて来て、またいつものように娘のいる座敷へ往ッて見ようと思ッたが、はてまア不思議! 恥かしいような怖いような気がして、往きたくもあるが往きたくもなく、どうしたものかと迷い出して、男らしくないと癇癪かんしゃくを起して、そこで往くまいと決心して誓いまで立てたが,さて人情は妙なもので、とんと誰か来て引っ張るようで、自然と自分の体が動き出して、知らぬ間に娘のいる座敷の前まで来た。唐紙からかみは開いていた,自分は座敷の方を向きもしなかッたが、それでいて、もウ娘が自分を見たなと知ッていたので,わざと用ありそうに早足で前を通り過ぎ、そのくせ隣座敷の縁側で立ち止まッて、柱へつかまッて庭を見ていた。すると娘のいる座敷で誰か立ち上るような音がしたが、すぐその音が近づいて来た、自分の胸はときめいた,注意はもウその音一ツに集まッてしまッて心は目の前にその人のかたちを描いていた,その人の像はありありと目の前に見えるのに、その人は自分のうしろへ立ッて、いたずらな、自分の頸毛ちりげを引ッ張ッて,
「秀さん、いい物をあげるからいらッしゃい」
「いい物?」いい物とは嬉しい、と思いながら、嬉しさにほとんど夢中となり、後に続いて座敷へはいると紙へくるんだ物をくれた,開けて見るとあたり前の菓子が嬉しい人からもらッた物、馬鹿なことさ、何となく尊く思われた,こわさないように、丁寧に、そっと撫でるように紙へくるんでたもとへしまうのを、娘はじッと見ていたがにッこりして,
「秀さんいい物をこしらえて上げましょう」
「どうぞ」
 娘は幾枚となく半紙をとり出して、
「そらようございますか、これが何になるとお思いなさる,これがね」ゆッたりした調子で話し始めた。「――これは、そらね、これをこう折ッて、ここをこうすると、そうら、一つのつるが出来ますよ、そら今出来ますよ、そうら出来た」
 娘は鶴を折るとそれから舟、香箱、菊皿きくざら三方さんぼうなどを折ッてくれた。自分は娘が下を向いて折物に気を取られている間、その雪のような白いえり、その艶々つやつやとした緑の黒髪、その細い、愛らしい、奇麗な指、その美しい花のような姿に見とれて、その袖のうつり香にたれて、何もかも忘れてしまい、ただもウうッとりとして、嬉しさの余り手をたたきたいほどであッた。
「お姉さま、折方を教えて下さいな」
 それから自分は折方を習ッて、二三度試して見たが出来なかッたので、娘は「ほんとうにこの子は不器用な人だ」と笑いながら、いやというほど自分の手を打ッた,痛かッた、痛さが手の筋へみ渡ッた,が痛さと一しょに嬉しさも身に染み渡ッた,嬉しいから痛いのか、痛いから嬉しいのか? 恐らく痛いから嬉しいので……まアどうでもいいとして、痛さが消えぬように打たれたところをそっと撫でた。
 ここへ姉がはいッて来て、
「秀さん何をしておいでだ」
 娘はにっこりして姉に向い、
「どうもこの子は不器用でいけません」
「こんなものは出来なくッてもいいや」
「出来なくッてよければ、なぜ教えてくれと言いました? わがままッ子め!」
 娘は口元で笑いながら額越しににらむ真似をした,自分はわがまま子と言われるのよりは、何とかほかの名を附けてもらいたかッた。
 その夜のことで、まだ暮れてから間もないころ自分は何の気もなしに、祖母の室へ遊びに往ッた、すると祖母を始めとして両親もおれば叔父も娘もいて何か話していたが,自分を見ると父が眉にしわを寄せて,「あちらへ往ッておいで。子供の聞くような話ではない」ときっとして言ッた,が自分はこの場の様子を怪しんで、物珍らしい心から出るのを少し躊躇ちゅうちょしていると,娘が貌をふり上げてすずしい目で自分を見た、その目の中には、「早く出て往ッて……」というような風があッた。ちょっと見た娘の一目は儼然げんぜんとして言われた父の厳命より剛勢だ、自分は娘の意に従いすぐに室を出たが、それでも今室へはいッた時ちらりとみんなの風が目に止ッた。父は叔父に向ッて、「さようさ、若年にしてはなかなか感心な人で」などと話していた,また娘は下を向いてひざを撫でていると、祖母と母とが左右からその貌をのぞき込んで、何をか小声でたずねていた。自分は室を出てから、何を皆は話しているのか、なぜまた自分がいてはわるいのか? と思ッたが、なアに、思い込んだのではない、ほんの目の前を横ぎる煙草のけぶりめばたきを一ツしたらすぐ消えてしまッた。
 元来この日は、自分は何となく嬉しくいそいそとしていた、しかし何ゆえ嬉しかッたのかその理は知らなかッた、が何がなしに嬉しかッたので臥床ふしどへはいッてからも何となくるのがいやで、何となく待たるるものがあるような気がするので、そのくせその待たるるものはとただされるとなに、何もないので、何もないと知ッているが、そこが妙なわけで,夢現ゆめうつつの間でたしかあるように思ッているので、どうもるのが厭であッた,それゆえ床の上に坐ッていると、そら、娘の姿がちらちら目の前に現われて来た。にっこりと笑いながら自分の手を打ッた時の貌、その目元、口元で笑いながら額越しに睨んだ貌、そのりきんだ目つき、まア何よりもその美しい姿容すがたかたちが目の前にちらちらし始めた。自分は思い出し笑いをしながら、息も静かにして、その姿が逃げて往かぬようと、荒く身動きもせず、そろそろ夜具の中へもぐり込んで、昼間打たれた手のところをそっと頬の下へ当てがッて、そのまま横になッたが,いつ眠ッたかそれも知らず心地こころもちよく眠入ねいッてしまッた。
 自分はこの時からというものは娘の貌を見ている間、その声を聞いている間、誠に嬉しくまた楽しく、ついうからうからと夢の間に時を過していた。こうはいうものの娘がいないとて、夢いささかふさぐなぞということはなかッた。何を言ッても自分はまだ十四の少年,自分と娘とは年がどれほど違ッていて、娘は自分より幾歳いくつの姉で、自分は娘の前では小児であるということ,また娘はただ一時の逗留客とうりゅうきゃくで日ならずこの土地を去る人ということ,自分は娘を愛しているのか、はたまた娘は自分を愛していないのかということ,すべてこれらのことは露ほども考えず、ただ現在の喜びに気を取られて、それを楽しいことに思ッていた,がその喜びは煙のごとく、霧のごとく、かすみのごとくに思われたので、どうかすると悲しくなッて来て、時々泣き出したこともあッたが,なに、それだとて暫時ざんじの間で、すぐまた飛んだりねたりして、夜も相変らずよくねぶッた。
 叔父はわずかに一週ひとめぐりの休暇を賜わッて来たので、一週りの時日はほんの夢の間のようであッた。もウ明日一日となッて、自分は娘にも別かれなければならぬかと、何となく名残り惜しく思ッたが、幸い叔父が三日の追願おいねがいをしたので、なお二三日はこちらに滞留していることとなッた。しかるにその夜のことで母と祖母との間に誠に嬉しい話が始まッた,それを何かというとこうで,もウ二三日過ぎると叔父も江戸へ帰るにより、何か江戸土産みやげになりそうな、珍らしい面白い遊戯あそびを娘にさせて帰したい,が何がよかろうと二人が相談を始めた。しかし面白い遊びといッたところがこの草深い田舎では,五節句、七夕たなばた、天皇祭でなくば茸狩たけが蕨採わらびとり、まアこんなもので,それを除いては別段これぞという遊びもない,けれども今は四月二十日、節句でもなければ祭でもない、遊戯と言ッては蕨採りのみだ、蕨採りと言ッたところがさのみ面白い遊戯でもない,が摺鉢すりばちのような小天地で育ッている見聞きの狭い田舎の小児こどもには、それが大した遊戯なので,また江戸のような繁華な都に住んでいて野山を珍らしく思う人にはやはり面白い遊戯なので,それゆえいよいよ蕨採りに往くことと極まり、そのことを知らせた時には一同歓喜よろこびの声を上げた。
 さてその夜は明日を楽しみにおのおの臥床ねどこにはいッたが、夏の始めとて夜の短さ、間もなく東が白んで夜が明けた。
 その日の四ツごろようように仕度したくが出来て、城下を去ること半里はんみちばかりの長井戸の森をさして出かけた,同勢は母と、姉と、娘と、自分と、女中二人に下部しもべ一人、都合七人であッたところへ、例の勘左衛門が来合わせて、私もお伴をと加わッたので,合わせて八人となり、にぎやかになッて出かけた。
 家敷やしきの? くるわを出て城下の町を離れると、俗に千間土堤せんげんどてという堤へ出たが,この堤は夏刀根川とねがわの水があふれ出る時、それをくい止めて万頃ばんけい田圃たはたの防ぎとなり、幾千軒の農家の命と頼む堤であるから、随分大きなものである,堤の上ばかりでも広いところはその幅十間からある、上から下へ下りるには一町余も歩かねば平地にはならぬ、まア随分大きな堤だ。堤の両側はひら一面の草原で、その草の青々とした間からすみれ、蒲公英たんぽぽ蓮華草れんげそうなどの花が春風にほらほら首をふッていると、それを面白がッてだか、蝶が翩々へんぺんと飛んでいる。右手はただもウ田畑ばかり,こッちの方には小豆ささげの葉の青い間から白い花が、ちらちら人を招いていると,あちらには麦畑の蒼海そうかいが風に波立ッているところで、鳴子なるこを馬鹿にした群雀むらすずめ案山子かかし周囲まわりを飛び廻ッて、辛苦の粒々をほじっている,遠くには森がちらほら散ッて見えるが、その蔭から農家の屋根が静かに野良をながめている,へびのようなる畑中の小径こみち、里人の往来、小車おぐるまのつづくの、田草を採る村の娘、ひえく男、つりをする老翁、犬を打つわらべ、左に流れる刀根川の水、前にそびえる筑波山つくばやま、北に盆石のごとく見える妙義山、隣に重なッて見える榛名はるな、日光、これらはすべて画中の景色だ。いなかの珍らしい娘の目にはさすがにこの景色が面白いと見えて、たびたびああいい景色と賞めた。
 途中では出遇ッた人もまれであッた。初め出遇ッたのが百姓で、重そうな荷をえッちらおッちら背負ッていたが、わざわざ頬冠ほおかむりを取って会釈して往き過ぎた。次に出遇ッたのが村の娘で、土堤の桑の葉を摘みに来たのか、桑の葉の充満つまッ目籠めかごをてんでん小脇こわきに抱えていたが、われわれを見るとこそこそ土堤の端の方へ寄ッて、立ち止まッて,「あれはどこ様の嬢様だが、どこさアへ往かッせるか」などと噂をしていた。その次に見かけたのが農家の小児で、土堤で余念なく何やら摘んでいたが、その中一人が何か一言言ッたのを相図に、真暗三宝まっくらさんぼう駆けいだした,それから土堤の半腹まで往き、はるかにこちらをふり向いたが、上から勘左衛門が手招ぎをしたら、またわイわイと言ッて一目散に駆け下りてしまッた。
 勘左衛門の来たのはわれわれの興を増す種であッた。この男が歩きながら始終滑稽こっけいを言ッていたので、途中は少しも退屈せず、いつの間にか境駅のこちらの渡し場まで来た。渡守せんどうはわれわれの姿を見るといきなり小屋から飛び出して、二ツ三ツ叩頭じぎをしてそして舟を出した。
 このところは川幅は六七町もあろうか、これから上になると十四五町もあろう、大刀根、小刀根、と分れるところでその幅最も広いところだ。娘は姉に向ッて言うには,「このごろ江戸で名の高い馬琴という作者の書いた八犬伝という本を読みましたが、その本に出る人で……」とかの犬飼犬塚の両犬士が芳流閣上よりまろび落ちて、つい行徳ぎょうとくへ流れついたことを話して、その犬士の流されたところもここらであろうかなどと話しているうち、船は向うの岸へ着いた。それから上陸して境駅の入際いりぎわからすぐ横へ切れると、森の中の小径へかかッた,両側にはすぎひのきならなどのたぐいが行列を作ッて生えているが、上から枝がかぶさッていて下に木下闇こしたやみが出来ている、その小径へかかッた。
「もうじきそこからはいるのです。さア皆さん採りッこをしましょう」と勘左衛門が勇み立ッた、もっともわざと。
「秀さんようございますか」娘は笑いながら――「まけませんよ」
「ええ、ようございますとも。負けるもンか女なんぞに」
 長井戸の森は何里ぐらい続いていたか、自分はよく覚えておらぬが、随分大きな森であッた,さて森の中の小径をおよそ二三町もはいッて往くと、葉守はもりの神だか山の神だかえたいの分らぬ小さな神のほこらの前へ出た、これが森の入口なので。森の中へはいッて見ると、小草おぐさの二三寸延びた蔭または蚊帳草かやつりぐさの間などから、たおやめの書いた仮名文字ののしという恰好かっこうで、わらびが半身を現わしていた,われわれはこれを見ると,そらそこにも! おお大層に! ほらここにも! なんとまア! などとしきりに叫びながら小躍こおどりをして採り始めた,始めのうちは皆一とこで採ッていたが、たちまち四五間七八間と離れ離れになッて採り始めた、そして一本の蕨を二人が一度に見つけた時などは、騒ぎであッた,
「あれ私が見つけたのだワ!」
「あらまア! お嬢様、おずるい。これは私が見つけました」
「お雪さま、清にお負けなさいますな」
 そうかと思うとあちらの方では,「おやどこへ往ッたろう?」「こちら、こちら!」などと手を叩いていた。また蕨に気をとられて夢中でいると、突然足下あしもとから雉子きじが飛び出したのに驚かされたり,その驚かされたのが興となッて、一同笑壺えつぼに入ッたりして時のうつッたのも知らず、いよいよ奥深くはいッて往ッた。不意に人声が聞え出した,どこから聞えるのだか? 方々を見廻すと、はるか向うの木の間からけぶりが細く、とんと蛇のように立ち昇ッていた。
 われわれは行くともなく、進むともなく、煙の立つ方へ近づいた,すると木の間から三人の人影が見えた。二人の男は紺の脚半きゃはん切緒きりお草鞋わらんじという厳重な足ごしらえで、白襟しろえり花色地の法被はッぴを着ていた,向う向きの男は後からでよく分らなかッたが、打割ぶっさき羽織を着ていて、しかもその下から大刀のさやと小刀の小尻こじりとが見えていた様子といい、一壇高き切株へどッかと腰を打ち掛けて、屋台店のかに跋扈ふみはだかッていた為体ていたらくといい、いかさまこの中の頭領かしらと見えた。
 われわれの近づくのに気がついたか、くだんの男はこちらをふり向いた,見覚えの貌だ,よく見れば山奉行やまぶぎょうの森という人で、あとの二人は山方中間やまかたちゅうげんであッた。
 山奉行というのは、年中腰弁当で山林へ出張して、山林一切のことを管督する役で、身柄のよい人の勤むる役ではない,それゆえ自分などに対しても、自然丁寧なので。
 森は自分を見ると、満面にみ傾けてそして立ち上ッて、
「おや、秀さん。蕨採りですかな? 大層大勢で。採れますかな? どらどらお見せなさい」
 そのうちに一同も近づいて来た。森は二歩ふたあし三歩前へ進み、母を始め姉や娘に向ッて、慇懃いんぎんに挨拶をして、それから平蜘蛛ひらくものごとく叩頭じぎをしている勘左衛門に向い,
「今日はお伴かな、御苦労だの」と言ッて、それからまた下女の方へ向いた、が物は言わず、ただ挨拶に笑貌を見せて、すぐまた母の方へ向き,
「いかがでござりまする、ちと小屋へいらしッて御休息をなすッては。はいはいいや誠にむさくるしいところで……が……渋茶でも献じましょう。こりゃ八助、何かを取りそろえて持ッて参れ、身共は小屋へ参るから。さ御案内致しましょう」
 時刻は八ツごろでもあッたか、この辺は一面の杉林で、こずえの枝は繁りに繁ッて日の目をかくすばかり,時々気まぐれな鳩がふくれ声でいているが、その声が木精こだまに響いて、と言うのも凄まじいが、あたりの樹木に響き渡る様子、とんと山奥へでも往ッたようで、なんとなく物寂しい。林中の立木を柱に取ッて、板屋根をさしかけたほッたて小屋,これは山方の人たちが俄雨にわかあめに出遇ッた時、身をかくすのがれ場所で,正面には畳が四五畳、ただしたたというもみのないほどのきたならしいやつ、それから前が土間になッていて、真中に炉が切ッてあろうという書割かきわり
 母と、森と、勘左衛門の三人が三鉄輪みつがなわに座を構えて、浮世雑談ぞうだんの序を開くと、その向うでは類は友の中間ちゅうげん同志が一塊ひとかたまりとなッて話を始めた,そこで自分は少し離れて、女中連の中へはいり込み、こちらの一方へ陣取ッた。
「秀さん」娘は笑いながら、「あなたどのくらい採りました、お見せなさい。おやたったそれきり、少ないことねエ,私の方が多うございますよ,そウら御覧なさい、勝ちましたよ私の方が」
 自分はこの時姉がその身の採ッたのを娘のと一しょにしたところを見た。
「ああ、ずるいずるい、家の姉さんのを混ぜたのだもの」
「あら、あんなこと。ほほほほ混ぜはしませんよ」
「いいえ、混ぜました、混ぜましたよ,見ていましたからね」
「あら。まア、卑怯ひきょうな、男らしくもない、負けたものだからそんなことを」
 そのうちに渋茶がはいると、かねて中間に持たせて来たすしを今日の昼食として、なお四方山よもやまの話をしていた。
 その時勘左衛門の話に、このひょうきん者が検見けんみの伴をして、村々を廻わッて、ある村で休んだ時、脚半のひもを締め直すとて、馬鹿なことさ、縁台の足ぐるみその紐を結びつけて、そして知らずにすましきッて、茶を飲んでいたが,そのうち上役の者が、いざ、お立ちとなッたので、勘左衛門も急いで立ち上ッて足を挙げると、いけない,挙げる拍子に縁台が傾いたので、盆を転覆ひッくりかえして茶碗ちゃわんこわしたが、いまだにそれが一ツ話でと、自身を物語ッたのを、われわれ一同話を止めて、おかしな話と聞いていたが、実にこの男は滑稽家でもあッたが、またそそくさした男でもあッた。
 さてしばらくここに休んでいたが、自分たちの組が大人を催促して、山奉行に別れて、再び蕨採りに出かけた。今度は出かけるや否や、すぐちりぢりになッて採り始めた。自分は娘の傍を離れず、娘が採るたびに自分の採ッたのと比較して見て、負けまいと思ッて励んでいたが、この時はもウ蕨に気を採られて、娘のことは思ッてはいなかッた,ト言ッて忘れてもいなかッたので,娘の傍にいるということは、あんに知ッていたので、いわゆる虫が知ッていたので,――そのひるがえるふりのたもと、その蹴返けかえきぬつま、そのたおやかな姿、その美しい貌、そのやさしい声が、目に入り耳に聞えるので,――その人の傍にいるとどこかかすかに感じていたので,それゆえ一層楽しかッた。不意に自分は向うの薄暗い木の下に非常に生えているところを見つけた。嬉しさの余り、声を上げながら駆け寄ッて、手ばしこく採ろうとすると、娘もけて来て採ろうとするから、採ッてはいけないと娘をささえて、自分一人で採ろうとした,がいけなかッた,自分は今まで採りめたのを、風呂敷へ入れてげていたが、それを今すッかり忘れて、その風呂敷を手離して、娘と手柄を争ッたので、風呂敷の中から採ッたのがこぼれて、あたりに散るという大失敗、あわてて拾い集めるうちに、娘は笑いながら、一ツも残さず採ッてしまッた。自分が見つけたのを横取りするのはひどい、返して下さい、と争ッて見たが、娘は情こわく笑ッていて、返しそうな様子もないから、自分は口惜くちおしくなり、やッきとなり、目を皿のようにして、たくさんあるところを、と、見廻わした、運よくまた見つけた、向うの叢蔭むらかげに、が運わるく娘も見つけた。や負けた、娘が先へ走り寄ッた。唐突だしぬけに娘があれエと叫んだ、自分は思わずびッくりした,見れば、もウ自分の傍にいた、真青になッて、胸を波立たせて、向うのくさむらを一心に見て。自分は娘の見ているところ、その叢を見ると、草がざわざわと波立ッて、大きな青大将がのそのそとッて往ッた,しばらくして娘はほッと溜息をいて、ああ怖かッた、とにッこりしてそしてあたりを見廻わして、またおやと言ッた。先の驚きがまだ貌から消えぬうちに、新しい驚きがその心を騒がしたので、以心伝心娘の驚きがすぐ自分の胸にも移ッた。見ればあたりに誰もいない。母を呼びまた姉を呼んで見たが、答うる者は木精こだまの響き、梢の鳥、ただ寂然しんとして音もしない。
「どこへ皆さんは往きましたろう」心配そうな声で、「ついうッかりしていて」
「そうですねエ……」
「立ッていても仕方がありませんから、まア向うの方を尋ねて見ましょう」
 蕨はもウそッちのけ,自分は娘の先へ立ッて駆けながら、幾たびも人を呼んで見たが、何の答えもなかッた。
「こちらの方ではなかッたかしらん」娘は少し考えていて、「あッちかも知れません、秀さん、あッちへ往ッて見ましょう」
 け出して見た、が見当らぬ,向うかも知れぬ、とまたその方へ走け出して見たが見当らぬ,困ッた。娘はさも心配そうにしきりと何か考えていたが、心細そうな小さな声で,
「秀さん、あなた、道を知ッていますか?」
 自分とてこのへんはめッたに来たことのないところ、道を知ろうはずはない、が方角だけはようようと考えついた。
「いいえ、よくは知らない,けれどこッちの方が境だから、右の方へずんずん往きゃア、あの、きッと境へ出るから、そうすりゃア、もうわけはない。もしか見つからなきゃア、なんの、先へ帰ッてしまいましょう」
 娘はしばらく考えていたが、少しは安心した様子であッた。
「もし先へ帰ッたら、きッと皆さんが心配しましょう。それにせっかく一しょに参ッたものを」……少し考えていたが、「まアこッちの方へ往ッて見ましょう、もう一度,今度はどこまでも往ッて見ましょう。よウ、何をぼんやりして……秀さん」
 また歩き出した。
 少年のころは人里離れた森へなど往くのは、とかくすごいように思うものだが、まして不知案内の森の中で、しかも大勢で騒いでいた後、急に一人か二人になッて、道に迷いでもすると、何となく心細くなるもので。自分も今日のようなことにもし平常の日に出遇ッたならば、定めて心細く思ッたのであろう,がしかし愛というものは奇異なもので、(たといこの時自分は娘を慕ッていたと知ッていなかッたにしろ)隠然と愛が存していたので心細いとは思わなかッた,むしろこの娘とたッた二人、人里を立ち離れた深林の中に手を携えていると思うと、何となく嬉しい心持がして、むしろ連れの者に見つからなければいいというような、不思議な心持がどこにかあッて、そして二人してたすけあッて、木の根を踏みこえて走けて往くのを、実に嬉しいと思ッていた,自分は二町ほどというものは、何の余念もなくただうかうかと、ほとんど夢中で走ッて往ッた。すると突然目の前に大きな湖水が現われた。
 はるかに向うを見渡すと、森や林が幾里ともなく続いているが、霞にこもッて限りもなく遠そうだ、近いところの木は梢を水鏡に写して、さかさに水底から生えているが、その水の青さ、いかにも深そうだ,まきを積み上げた船やいかだが湖上をあちこちと往来しているが、いかさま林から切り出したのを、諸方に運送するものらしい。日はもウ七ツ下り、斜めに水を照らし森を照らして、まことにいい景色である,がもう見る気はない,娘がかおに失望の意を現わして、物をも言わず、悄然しょうぜんとして景色を眺めつめているのを見ては。
「おや、こんな大きな沼があるようでは……こちらでもなかッたと見えますねエ、しかたがない、後へもどりましょう」
 娘は歎息たんそくしたがどうも仕方がない、再びきびすめぐらして、林の中へはいり、およそ二町余も往ッたろうか、向うに小さな道があッて、その突当りに小さな白屋くさのやがあッた。娘はこの家を見ると、少し歩くのを遅くして、考えている様子であッたが、
「秀さん、ちょうどいい。あすこの家へ往ッて頼んで、皆さんを尋ねてもらいましょう。それに皆さんも私たちを尋ねて、ひょッと彼家あすこへでも尋ねて往ッて、もし私たちが来たら止めておくようにと頼んであるかも知れません,まァ彼家あすこへ往ッて見ましょう」
 自分は異議なく同意して、いきなりその家へ飛び込んだ。家では老夫婦が糸を取り、草鞋わらじを作ッていたが、われわれを見てびッくりした様子,自分は老婆に向い,
「おイばあやア、誰か尋ねて来なかッたかい、おいらたちを」
「はアい、誰もござらッさらねエでしたよ」老婆は不審そうに答えた、「誰か尋ねさッしゃるかな、お坊様」
「蕨採りに来たのだが、はぐれてしまッたの、連れの者に。おイ、老爺じいや、探して来てくれないか、ちょッと往ッて」
 自分が唐突だしぬけに前後不揃いの言葉で頼んだのを、娘が継ぎ足して、始終を話して、「お気の毒だが見て来て」と丁寧に頼んだ。
「それエ定めし心配していさッしゃろう、これエ爺様とッさまよう、ちょッくら往ッて見て来て上げさッせいな」
 最前から手を休めて、老父は不審そうに見ていたが、
「むむ見て来て上げべい。一ッ走り往ッて」
ト言ッたが、なかなかおちついたもので,それから悠然ゆうぜんと、ダロク張りの煙管きせるへ煙草を詰め込み、二三ぷくというものは吸ッては吹き出し、吸ッては吹き出し、それからそろそろ立ち上ッて、どッかと上り鼻へ腰を掛けて、ゆッくりと草鞋をはき出した。はいてしまうと、丁寧に尻を端折ッて、さてそこでやッと自分に向ッて、
「坊様、どッちらの方でさアはぐれさしッただアの?」
 自分は方角を指し示した。老婆は老爺じいの出て往くのを見送り、それから花筵はなござを引き出して来て、
「さア嬢様。お掛けなせいまし、そこはえらく汚ねエだから。さお坊様掛けさッさろ」
「婆やア湯をおくれ、気の毒だが」
「湯かのう? 今上げますで、少し待たッせい,一ッくべッたけるから。
 老婆が鑵子かんすの下を吹ッたける間、自分は家の内を見廻した。この家はすすだらけにくすぶり返ッて、見る影もないアバラス堂で、稗史よみほんなどによく出ている山中の一軒家という書割であッた。そのうちに鑵子の湯は沸き返ッたが、老婆は、ヒビだらけな汚ない茶碗へ湯をんで、それを縁の欠けた丸盆へ載せて出した。自分は喉がかわいていたから、うつわのきたないのも何も知らず、ぐッと一息に飲み、なお三四杯たてつけに飲んだ,娘は口の傍へ持ッて往ッて見て少し躊躇ためらッていたが、それでも半ば飲み干した,この時自分は、「さても鑵子の湯はうまいものだ」と思ッた。
 この老婆は誠に人のよさそうな老婆で、いろいろなことを話しかけるので、娘はその相手をしていた。自分はまたかかる山家へ娘と二人で来て、世話になるというのは、よほど不思議なこと、何かの縁であろうと思ッた,それが考えのいとぐちで、いろいろのことを思い出した。すなわち、このような山中で、竹の柱にかやの屋根という、こんな家でもいいによッて、娘と二人していたいと思ッた,するとその連感で、自分は娘と二人でこの家の隣家に住んでいる者で、今ちょッと遊びにでも来た者のような気がした,するとまた娘の姿が自分の目には、あらざらしの針目衣はりめぎぬを着て、茜木綿あかねもめんたすきを掛けて、糸を採ッたりきぬを織ッたり、すすぎ洗濯、きぬた打ち、しず手業てわざに暇のない、画にあるような山家の娘に見え出した、いや何となくそのように思われたので。それゆえ自分は連れにはぐれて、今ここへ来ている者だなどということは、ほとんど忘れたようになッていた。不意に表の方が騒がしくなッた。
 自分は覚えず貌を上げてそして姉を見た。
「おお秀坊が!」
 第一に姉が叫んだ。
 誰しも苦痛心配はきらいであるが楽になッてから後、過ぎ去ッた苦痛を顧みて心に思い出したほど、また楽しみのことはない,それと大小の差はあるが、心持は一ツだ。昼間自分たちのはぐれたのは、一時は一同の苦痛であッたが、その夜家へ帰ッてから、何かにつけてそのことを言い出しては、それが笑いの種となり話の種となッた時には、かえッて一同の楽しみとなッた。自分は娘が嬉しそうな貌をして、この話をしている様子を見て、何となく喜ばしく、そして娘も苦痛を分けた人が自分であると思うと、一層喜ばしく、その日の蕨採りは自分が十四歳になるまでに絶えて覚えないほどな楽しみであッた、と思ッた。しかし悲喜哀歓は実にこの手の裏表も同じこと、歓喜よろこびの後には必ず悲しみが控えているが世の中の習わし。平常は自分はいつも稽古に往ッていて、夜でなくては家にはいない、それゆえ何事も知らずにいたが、今宵こよい始めて聞いた,娘は今度逗留中かねて世話をする人があッて、そのころわが郷里に滞在していた当国古河こがの城主土井大炊頭おおいのかみの藩士なにがしと、年ごろといい、家柄といい、ちょうど似つこらしい夫婦ゆえ、互いに滞留しているこそ幸い、見合いをしてはと申し込まれたので、もとより嫁入り前の娘のことゆえ、叔父もたちまち承諾して見合いをさせたところ、当人同志の意にもかない、ことに婿になる人が大層叔父の気にかなッたとやらで、江戸へ帰ッたらば、さらに仕度をさせて、娘を嫁入らせるということを聞いた。
 これを聞いた自分の驚きはどんなであッたろう、五分もたぬうち、自分はもウわが部屋で貌を両手へ埋めて、意気地いくじもなく泣いていた。
 その夜てから奇妙な夢を見た、と見れば、自分は娘と二人でどこかの山路やまじを、道を失ッて、迷ッている。すると突然傍の熊笹くまざさの中から、立派な武士さむらいが現われて、物をも言わず、娘を引ッさらッて往こうとした。娘は叫ぶ、自分は夢中、刀へ手を掛ける、夢中で男へ切りつける、肩口へ極深のぶかに、彼奴かやつ倒れながら抜打ちに胴を……自分は四五寸切り込まれる、ばッたり倒れる、息は絶える,娘はべッたりそこへ坐ッて、自分のえりをかかえ抱き起して一声自分の名を呼ぶ,はッと気がついて目を覚ます……覚めて見ると南柯なんかの夢……そッと目を開いて室を見廻わして、夢だなと確信はしたが,しかしその愛らしい優しい手が自分の領を抱えて、自身が血によごれるのもいとわず、血みどりの体を抱き起して、つぼみのような口元を耳の傍へ付けて、自分の名を呼んだ時の貌、その貌はありありと目に見える,それに領は、どうしても、たッた今まで抱えられていたような気がする、そッと領へ手をやッて見ると、温かい,静々室の内を見廻わして見たが、どうも娘がいたようで、移り香がしているような気がする、さアそう思うと、気が休まらぬ。床の上へ起き直ッて耳をすまして見ると、家内は寂然しーんとしていて、ねずみの音が聞えるばかり……自分はしばらく身動かしもせず、黙然としていたが,ふと甲夜よいに聞いたことを思い出して、また何となく悲しくなッて来た。
 さて翌日となッた,明日の晩は叔父も娘も船路で江戸へ帰るから、今宵一夜が名残りであると、わずか十里か十五里の江戸へ往くのを天の一方へでも別れるように思ッて、名残りを惜しむ一同が夜とともに今宵を話し明かそうと、客座敷へ寄り集まッた。自分は悲しさやる方なく、席へ連なるのも気が進まぬゆえ、心持がわるいと名を付けて、孤燈の下にわが影を友として、一人室の中ですねていた,が暫時はこうしていたようなもののそのうちに、娘はどうしたか、という考えが心の中でむずついた。もウ棄ててはおかれぬ、そッと隣座敷まで往ッてはいろうか、はいるまいか、と躊躇ためらいながら客座敷の様子を伺うと、娘は面白そうにしきりに何か話していた。自分のことなどは夢にも思ッていないようで。こう思うと気がもしゃくしゃとして来た、すぐにきびすを廻らして室へ戻り、机の上へ突ッ伏してただわけもなく泣いていた。しばらく経つと、唐紙の開くような音がして、誰だか室へはいッて来た、見れば姉で、祖母ばばさまがあちらへ来いと言うからおいで、と言ッていろいろ勧めた,自分の本心は往きたかッたので渡りに舟という姉の言葉、すぐ往けばよかッたが、そこがわがままッ子の癖で,――お泣きでないよ、と優しく言われると、いよいよ泣き出したがるようなもので――勧められるほどいよいよすねて,
「厭だと言ッたら厭だい。馬鹿め」
 姉はあきれて往ッてしまッた,もう往く機会は絶えた、一層わが身を悔んでわれとわが身に怒ッていると、次の間へ人の足音がして隔てのふすまが開いた。姉だと思ッてふり向きもせず、知らぬ貌をしていると、近づいた人は叱るような調子で,
「何をしておいでなさるの」と言ッて自分の手を押さえて、「そんな悪戯わるいたずらをするものではありませんよ」
 自分はこの時癇癪かんしゃくを起して、小刀で机を削ッていたので……また削ろうとした。
「よすものですよ」と言ッて自分の泣き貌を見て、「おや、どうなすッたの。何を泣いていなさるの。え。え」
 自分はこれを聞くと、わけも道理もなく悲しくなッて来て、たださめざめと泣き出した,すると娘は自分の肩へ手を掛けて、机に身を寄せかけて、すずしい目を充分いッぱいに開いて、横から自分の貌をのぞき込んで,
「なぜお泣きなさるの、何か悲しいことがあるの。え。おなかでも痛いの。え。え。気分でもわるいの」
 自分はかぶりをふッた。
「そうではないの。それではどうしなすッたの、泣くものではありませんよ。よ。よ」
 自分はそででいきなり泣き貌をこすッて、
「お姉さま……あなたは……あの明日あしたもウ帰るんですか……どうしても」
 娘はしけしけと自分の貌を見ていたが、物和ものやわらかに、
「秀さん、それであなた泣いていたの」
 首をかしげてたずねたが、自分が黙ッていたのを見て、自分のかしらを撫でようとした、自分はその手をふり払い、何か言ッてやろうと思ッたが、思想がまとまらなかッた。
「お姉さま、あなたは……、あの、あの悲しくも何ともないの……みんなに別れるのが」
 娘は眉をひそめて、不審そうに自分の貌を見ていたが,
「おやなぜ? 悲しくないことはありませんが,もウ父上おとッさんも帰らなければなりませんし……それにいろいろ……」言おうとして止め、少し考えていて,
「秀さん、私ももウ今夜ぎりで帰るのですから、仲よく遊びましょう。ね。さア。もウ泣くものではありません、さア泣きんで」
 ああ何として泣かれよう,自分の耳には娘のいう一言一言が、小草おぐさの上を柔らかに撫でて往く春風のごとく、聞ゆるものを,その優しい姿が前に坐ッて、その美しい目が自分を見て、そして自分を慰めているものを,ああ何として泣かれよう。五分もたぬ内、自分はもウ客座敷で、姉や娘と一しょになッて笑い興じて遊んでいた。
 翌日の晩方自分は父ともろともに、叔父と娘とを舟へ乗り込むまで見送ッたが,別れのきわに娘は自分に細々こまごま告別いとまごいをして再会を約した。自分は父と並んで岸辺に立ッて、二人が船へ乗り込むのを見ていたが、その時の心持はどんなであッたろう,親兄弟にでも別れるように思ッた,そしてその別れる人の心は何人なんぴとのことを思ッているのかと思うと、なお悲しさも深かッた。娘が桟橋さんばしを渡ッて、いよいよ船へ乗り込もうとして、こちらをふり向いて,
「叔父様、御機嫌よろしゅう。さようなら秀さん」
ト言ッた声、名残りに残したその声がまだ四方に消えぬ内、姿は船の中へ隠れてしまッた。
 無情の船頭、船のもやいを解いてさおを岸の石に突き立てる、船は岸を離れる、もウこれが別れ。父も悄然として次第に遠くなる船を見つめている様子……すると船の窓から貌を出した、誰であろうか、こちらを眺めている、娘ではないか。情を知らぬ夕霧め、川面かわつら一面に立て込めてその人の姿をよく見せない,あれが貌かというほどに、ただぼんやりと白いものが、ほんのかすかに見えるばかり。ああそれさえまたたきをする間,娘の姿も、娘の影も、それを乗せて往く大きな船も櫓拍子ろびょうしのするたびに狭霧さぎりの中におおわれてしまう,ああ船は遠ざかるか、櫓の音ももウ消え消え,もウ影も形も……櫓の音も聞えない,目に入るものは利根川とねがわの水がただ洋々と流れるばかり……

     *    *    *

 娘は江戸へ帰ッてから、ほどなく古河こがへ嫁入りしたが、間もなく身重になり、その翌年の秋虫気むしけづいて、玉のような男子を産み落したが、無残や、産後の日だちが悪く、十九歳を一期として、自分に向ッて別れる時に再会を約したその言葉を、意味もないものにしてしまッた。しかしかつて娘が折ッてくれた鶴、香箱、三方のたぐいはいまだに遺身かたみとして秘蔵している。
 ああ皆さん、自分は老年の今日までもその美しい容貌かおかたち、その優美なすずしい目、その光沢つやのある緑のびんずら、なかんずくおとなしやかな、奥ゆかしい、そのたおやかな花の姿を、ありありと心に覚えている……が……悲しいかな、その月と眺められ、花も及ばずと眺められた、その人は今いずこにあるか。そのなつかしい名を刻んだ苔蒸こけむす石は依然として、寂寞せきばくたるところに立ッているが、その下にねぶるかの人の声は、またこの世では聞かれない,しかしかくいう白頭のおきなが同じく石の下に眠るのも、ああもウ間のないことであろう。まことに人間の一生は春の花、秋の楓葉もみじ朝露ちょうろ夕電せきでん、古人すでにいッたが、今になッてますますさとる。初めて人をなつかしいと思ッた、そのつぼみのころはもちろん、ようよう成人して、男になッて、初めて世の中へ出た時分は、さてさて無心なもの気楽なもの、見るもの聞く物皆頼もしい,腕はうなる、肉はふるえる、英気勃々ぼつぼつとしてわれながら禁ずることが出来ない,どこへどうこの気力を試そうか、どうして勇気を漏らそうかと、腕をさすッて、放歌する、高吟する、眼中に恐ろしいものもない、出来なさそうな物もない、何か事あれかし、腕を見せようと、若い時が千万年も続くように思ッて、これもする、あれもしたいと、行末の注文が山のようであッたが,ああその若い時というは、実に、夏の夜の夢も同然。光陰矢のごとく空しく過ぎ、秋風淅々せきせきとして落葉の時節となり、半死の老翁となッた今日、はるかに昔日を思いいだせば、恥ずべきこと、悲しむべきこと、ほとんど数うるにいとまがない。ああ少年の時に期望したことの中で、まア何を一ツしでかしたか,少壮のころにさえ何一ツ成し遂げなかッた者が、今老いの坂に杖突く身となッて、はたして何事が出来ようぞ,もはや無益だめだ。もはや光沢つやも消え、色も衰え、ただ風を待つしおれた花,その風が吹く時は……





底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
   1970(昭和45)年7月5日初版発行
初出:「都の花」
   1889(明治22)年1月
※白抜きの読点をコンマ「,」で代用しました。
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について