阿部定という女

(浅田一博士へ)

坂口安吾




 御手紙本日廻送、うれしく拝見致しました。先日色々御教示仰ぎました探偵小説は目下『日本小説』という雑誌へ連載しておりますが、全部まとまりましたら、御送付致すつもりでおります。
 先日、ある雑誌の依頼で例の阿部定さんと対談しましたが、私には、非常に有益なものでした。だいたい、女というものは男次第で生長変化のあるものだろうと思いますが、相手の吉さんという男にはマゾヒズムの傾向があったと思いますが、お定さんは極めて当り前な、つまり、一番女らしい女のように思われます。東京の下町育ち、花柳界や妾などもしていましたから、一般の主婦とは違っていますが、然しまア最も平凡な女という感じを受けました。
 トンチンカンな対談ですが、お定さんが大変マジメで、面白かったのです。
 いつごろから恋をしましたか、と私がきゝましたら、吉さんとあゝなるまで、つまり三十三かの年まで恋をしたことはなかった。あれが自分には一代の恋だった。然し、もし、これからでも、恋ができるなら、したいとは思っている。
 そのときお定さんはこう附けたして言いました。世の中の大概の女の人は一度も恋をしないで死ぬ人も多いのだから、私は幸福なのだろう、と。
 然し、お定さんは男が好きになった。そして、その男にだまされた、そういうことは十六七から何度もあったのですが、それを恋愛とは考えていないのです。そして、自分の愛する人に自分も亦愛された、相思相愛、つまり吉さんとの場合だけが恋であり、三十いくつで一代の恋を始めて知った。世の多くの女の人は恋を知らずに死ぬ人も多い、そう申しておるのであります。
 又、お定さんは、自分はあのことは実際は少しも後悔していない、世の中の女の人はみんな、もし本当に恋をすればあゝなるだろうと思っている、みんな、同じものを持っている筈と申していました。
 事実、あの出来事には犯罪性というものは全く無いように思われます。吉さんの方にはマゾヒズムの傾向があって房事の折に首をしめて貰う。殆ど窒息に近いまで常に首をしめて貰う例だそうで、たまたま本当に死んでしまった、お定さんは始めは気がつかなかった程で、そういうクライマックスで死んでいった吉さんを殺したような気がしないのは自然であり、むしろそのまま死んでしまった吉さんに無限の愛情を覚えざるを得なかったのは当然だろうと思います。まったく二人だけの至高の世界に於ける一つの愛情の完結みたいなもので、吉さんが死して自分と共に一つに帰したような思いもしたろうと思われます。
 そういうアゲクに吉さんの虚しい屍体を置き残して立ち去るとすれば、最愛の形見に一物を斬りとることも自然であり、最も女らしい犯罪、女の弱さそのものゝ姿で、まことに同情すべきものゝ如くに思われます。
 八百屋お七を娘の狂恋とすれば、お定さんは女の恋であり、この二つはむしろ多く可憐なる要素を含むもので、特に現実の女としてのお定さんというものは、たゞ弱く、ひたむきな、そして案外にもつゝましやかな女、極めて平凡そのものゝ女、そういう感じの可憐な人でありました。
 私はお定さんのような事件は正しい意味で世間の人々が理解する必要があると考えていますが、だいたい男女の肉体生活の合理性というものが、もっと公開的に論議せられることが望ましいと思うものです。
 我々の精神文化、精神上の良心、正義というようなものが、肉体生活の合理性まで隠蔽の上で、からくも歪められた在り方をとゝのえている、それでは魂の平衡は在り得ず、健全な精神生活も在り得ない。
 私の文学の真意は多く誤読されていると思いますが、私は然しこの過渡期には、まだまだ絶望はしていません。むしろ希望をいだいております。
 私は精神分析学を高く評価するものですが、我々の精神肉体の合理的な平衡を増大するためにはタブーというものを合理的になしくずしに減らして行く、そういう理性的な発掘と建築作業が行われなければならないと思うものです。
 いずれ又、お目にかゝって、ゆっくり色々お話をうかゞいたいと思います。私は三十一日から、約一カ月ぐらい仕事のために温泉へ行きますが(東京は電燈がつきませんので)いずれ帰京の上、お目にかゝる日をたのしみに致しております。





底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「Gメン 第二巻第一号」Gメン社
   1948(昭和23)年1月1日発行
初出:「Gメン 第二巻第一号」Gメン社
   1948(昭和23)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年11月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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