ぐうたら戦記

坂口安吾




 支那事変の起つたとき、私は京都にゐた。翌年の初夏に東京へ戻つてきて、つづいて茨城県利根川べりの取手とりでといふ町に住み、寒気に悲鳴をあげて小田原へ移り、留守中に家が洪水に流されて、再び東京へ住むやうになり、冬がきて、泥水にぬれたドテラを小田原のガランドウといふ友人のもとに残してきたのを取りに行つた。翌朝小田原で目をさましたら太平洋戦争が始つてゐたので、田舎の町では昼は電気のこない家が多いのでラヂオもきこえず、なんだか戦争が始まつたやうだよ、などとガランドウのオカミサンが言ふのを、仏印とタイ国の国境あたりの小競合こぜりあいだらうぐらゐにきゝ流してゐた。正午ちかく床屋へ行かうと思つて外へでて、大戦争が始まつてゐるのに茫然としたのであつた。
 国の運命は仕方がない。理窟はいらない時がある。それはある種の愛情の問題と同様で、私は国土を愛してゐたから、国土と共に死ぬ時がきたと思つた。私は愚な人間です。ある種の愛情に対しては心中を不可とせぬ人間で、理論的には首尾一貫せず、矛盾の上に今までも生きてきた。これからも生きつゞける。
 それは然し私の心の中の話で、私は類例の少いグウタラな人間だから、酒の飲めるうちはノンダクレ、酒が飲めなくなると、ひねもす碁会所に日参して警報のたびに怒られたり、追ひだされたり、碁も打てなくなると本を読んでゐた。防空演習にでたことがないから防護団の連中はフンガイして私の家を目標に水をブッカケたりバクダンを破裂させたり、隣組の組長になれと云ふから余は隣組反対論者であると言つたら無事通過した。近所ではキチガヒだと思つてゐるので、年中ヒトリゴトを呟いて街を歩いてゐるからで、私と土方のT氏、これは酔つ払ふと怪力を発揮するので、この両名は別人種さはるべからずといふことになつて無事戦争を終つた。
 私が床屋から帰つてくると、ガランドウも箱根の仕事先から帰つてきて(彼はペンキ屋だ)これから両名はマグロを買ひに二宮へ行かうといふのだ。私はドテラもとりに来たが魚も買ひにきたのだ。してみると、そのころからすでに東京では魚が買へなくなつてゐたらしい。そして小田原にも魚がなくて、ガランドウが二宮の友人の魚屋へ電話をかけて、地の魚はないがマグロが少々あるからといふので、それを買ひに行つたのだ。東海道をバスで走つた。私は今でもあの日の海を忘れない。澄み渡る冬の青空であつたが、海は荒れてゐた。松並木に巡査が一人立つてゐた。その姿の外に戦争を感じさせる何物もありはしなかつた。二宮の魚屋で私達は店先に腰を下して焼酎を飲み、私はひどく酔つ払つて東京行の汽車に乗つたが、私の汽車が東京へつかないうちに敵の空襲をうけるものだと考へてゐた。私は全く気が早い。私はつまり各国の戦力、機械力といふものを当時可能な頂点に於て考へてゐたので、この戦争がこれほど泥くさいものだとは考へてゐなかつた。皇軍マレーを自転車で進撃ときた時には全く心細くなつてしまつたので、尤も私は始めから日本の勝利など夢にも考へてをらず、日本は負ける、否、亡びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めてゐたのである。だから私は全く楽天的であつた。
 私のやうに諦めよく、楽天的な人間といふものは、凡そタノモシサといふものが微塵もないので、たよりないこと夥しく、つまり私は祖国と共にアッサリと亡びることを覚悟したが、死ぬまでは酒でも飲んで碁を打つてゐる考へなので、祖国の急に馳せつけるなどゝいふ心掛けは全くなかつた。その代り、共に亡びることも憎んでをらず、第一、てんで戦争を呪つてゐなかつた。呪ふどころか、生れて以来始めての壮大な見世物のつもりで、まつたく見とれて、面白がつてゐたのであつた。私が最も怖れてゐたのは兵隊にとられることであつたが、それは戦場へでるとか死ぬといふことではなくて、物の道理を知らない小僧みたいな将校に命令されたり、ブン殴られるといふことだけを大いに呪つてゐたのである。点呼令状といふものがとゞいた日の夜、私の住む地区は焼け野原になつた。天帝のあはれみ給ふところと喜んでごまかして、有耶無耶うやむやのうちに戦争が終つて、私は幸ひブン殴られずに済んだのである。私はブン殴られたら刺し違へて死ぬことなどを空想して、戦争中、こればかりは何とも憂鬱で仕方がなかつた。私は規則には服し得ない人間で、そのために、子供の時から学校が嫌ひで、幼稚園の時からサボッて、道に迷つて大騒ぎをやらかしたりして、中学校まで全通学時間の約半分はひそかに休んでゐるのである。これは掛値のない実話です。私が学校を休んで海岸でねころんでゐると家庭教師(医大の学生)が探しに来て雲を霞と逃げのびると彼も亦旺盛なる闘志をもつて実に執拗に追つかけて共にヘバッたこともあり、親父がキトクで学校へ電話が来た時も休んでゐて、大いに困つたこともある。罪を犯してもさうせずにゐられぬといふことは切ないことだ。私は学校を休んで砂浜の松林の上にねてたゞ空と海を見てゐるだけなのだが、さういふ素朴な切なさは子供の時も大人の今も変るものではない。
 私は田舎の中学を放校され、東京の豊山中学といふ全国のヨタ者共の集る中学へ入学した。この中学では三年生ぐらゐになると半分ぐらゐ二十を越してゐて私などは全く子供であり、新聞配達だの、人力車夫だの、縁日で文房具を売る男だの、深夜にチャルメラを吹いて支那ソバを売る男だの、ヒゲを生やした生徒がたくさんゐた。けれども、こゝでも、私ほど学校をさぼる生徒はゐなかつた。私が転校して三日目ぐらゐに、用器画の時間に落書してゐると、何をしてゐるかときくから、落書をしてゐますと答へると、さういふ生徒は外へ出よ、私の時間は再び出席するに及ばないと言ふ。仕方がないからカバンをぶらさげて家へ帰り、それからの一年間は完全にその時間には出なかつた。答案も白紙をだした。私は落第を覚悟してをり、満州へ行つて馬賊にでもならうと考へて、ひそかに旅費の調達などをしてゐたのである。ところが私は及第した。のみならず、二学期は丁だつたのに、三学期の綜合点が甲になつてをり、私は三学期の白紙の答案に百五十点ぐらゐ貰つたことになつてゐた。この先生は五十ぐらゐの痩せて見るからに病弱らしい顔色の悪い先生で、いつも私の空席をチラと見て、又休んだか、と呟いてゐたさうである。私はどうにも切なくて、思ひがけなく及第したが、先生の顔を見る勇気がないので新学期から学校を休んでゐると、友達が来て、用器画の先生は学校をやめたといふことを伝へてくれた。それ以来、私はいくらか学校をサボらぬやうになつたが、それは改心したせゐではなく、その時以来学校中の人気者になつて、ヒゲの生えたオヂサン連だのヨタモノ連に馬鹿親切に厚遇されるやうになつたから、いくらか学校が面白くなつたせゐである。そこで私は陸上競技の御大などに祭りあげられて羽振りをきかしたものだが、何しろこの中学は人力車夫と新聞配達がたくさんゐるから馬鹿にマラソンが強いので、特に団体競技、駅伝競争となると人材がそろつてゐる。けれども車夫といふものは走り方に隠されぬ特徴があつて手の置き場が妙に変つてをり、又、脚のハネ方にもピンと跳ねて押へるやうなどこか変つたところがあつて、見てゐるとハラ/\する。負けた学校からも投書があつたりして、せつかく貰つた優勝旗をとりあげられたことがあつた。私の安住できる学校はこんなものである。
 かういふ私にとつては生れつき兵隊ほど嫌ひなものはなかつたが、然し、私は凡そ戦争を呪つてゐなかつた。元々芸術の仕事といふものは、それ自体が戦争に似てゐる。個人の精神内部に於ける戦争の如きもので、エマヌエル・カント先生も純粋理性批判に於てさういふ表現を用ひてゐるが、ともかく芸術の世界は自らの内部に於て常に戦ひ、そして、戦ふ以上に、むしろ殉ずる世界である。私のやうに身の程もかへりみず、トンボか、せいぜい雀ぐらゐの才能しかないくせに、鷲か鷹でなければ翔べない山脈へあがらうといふ。その無理はよその人が見て考へるよりも本人自身が身を切る思ひで知つてをり、朝に絶望し、夕べにのたうち、鷲や鷹につかみ去られて食べられて糞になつたり嘔吐になつたり、そこで又いのちを貰つてコツコツやりだして、麓と二合目ぐらゐのところを翔んでは食べられて糞になり、翔んでは食べられて糞になり、糞の中から生れ代つて同じ所をせつせと登つて突き落されてゐる。
 支那で戦争が始つた四年の後に本物の大戦争が始まるまで、私の方は戦争どころではなかつたので、ヨチ/\翔んでは食べられて糞になり、冒頭に述べた通り、支那で戦争の始まつたとき私は京都にゐたのだが、その年の正月の終りごろ、ふと東京で決意して、千枚ほどの原稿紙だけぶらさげて京都へ来たのだが、隠岐和一から伏見稲荷の前に部屋を探してもらつて長篇小説を書きだした。その隠岐が東京へ帰ると知り人はもとより一人もをらず、私はその孤独をいかばかり心強いものに思ひつめてゐたであらうか。私を知る人は京都に一人もゐないのだ。なんといふ温いなつかしい友情であらうか! まもなく私は弁当仕出屋の二階へ引越した。そこでは一日の食費が二十五銭で、酒が一本十二銭で、私は少しも歩かずに食つて酔つ払つて、ねむつて、一ヶ月二十円ぐらゐで生きてゐられるのである。私が満々たる自信をもつて仕事に精根つくしてゐたのは約二ヶ月で、六百枚ほど出来上り、あと百枚か百五十枚で終るところで私の自信は根こそぎ失はれてゐた。自信が失はれるといふことは単に自信が失はれるといふことではないので、絶望するといふことと同じ意味に外ならぬのだ。烏が孔雀の羽をつけるといふが、我々雀は鷹を夢み、烏は孔雀の羽をむしられるだけで話はすむが、鷹を夢みる雀は鷹に食はれて糞になる。そして糞からもとの雀に戻るまで、朝に嘆き、昼に絶望し、夕べに怒り狂ひ、考へることを何よりも怖れ、考へる代りに酒を飲み、酒を飲むと、怒り狂はずにゐられなくなり、自分はおろか人にまで八ツ当り、馬鹿者の中の馬鹿者であつた。原稿用紙に埃がつもり、見まいとしても部屋の中の机の上だもの見ずにゐられるものか、見るたびに一度に心が冷えきつて曠野を飄々風が吹く。私は坂口安吾といふ名前であることを忘れようとした。本当に忘れようとしたのだ。どうしても名前の思ひだせない人間で、どこで生れ、どこから来てどこへ行く人間だか、本人にもしつかと分らない人間で、一ヶ月二十円の生活に魂を売つた人間で、昼頃起きて物を食ひ、夕べに十二銭の酒に酔つ払つてゴロリとねむる酒樽のでき損ひのやうな人間なのだ、と、どうしてそれを信じることが出来ないのだらう。事実それだけの人間ではないか。しかも、どうしてそれを信じることが出来ないのだ。
 諸君は京都の街を知つてゐますか。東山北山西山と云ひ、南を残して三方はぐるり山にかこまれてゐます。街は春の季節でも北の山と西の山には雪があるほど高い山で、京都の街から京都の街へ行く為に深い幽谷のやうな峠を越すところもあります。私の窓からは京都の山々がみんな見えます。山を見ると私は泣きだしさうになつて怒ります。ムッシュウ・スガンの山羊といふ話を知つてゐますか。然し、その話とも違ひます。山はいつも綺麗ですよ。人のゐない野原ではなく人間だらけの屋根の上の山の姿はみるやうに鮮やかなのです。山を見ると、私はいつもたゞ山だけになつてしまつた。私自身が山になつた。私といふ人間はこんなケチな、センチメンタルな人間で、忽ち山の姿を映すやうな人間で、鷲と鷹しか翔べないやうな大山脈を映すことのできないケチな人間である切なさに、ふるへだしてしまふのでした。すでに芸術の鳥はとび去り、部屋にひとかけの糞のかたまりが落ちてゐました。
 一年たつた。私は竹村書房へ速達をだした。あと二ヶ月で小説は完成する。金を送れ。それは大嘘であつた。マッカな嘘である。けれども本当なのだ。私は一年間一字も書いてをらず、今もなほ一字も書きだす力はなかつた。私は然し本屋をだますためではなしに、私自身をだますため、私自身に嘘ッパチの贋物の決意をつくらせるために、余儀ない命令を下すために、うそッパチな手紙を書かずにゐられないのだ。私は私自身を決死隊のあの無理強ひの贋物の決意のなかに突きださなければ仕方のない気持になつてゐたゞけだつた。
 本屋から金が来た。私はそれを握つて酒を飲みに行つた。私は気がつかなかつたが、着物をあべこべに着てゐたのである。私は人にジロ/\見られたことも意識してゐなかつた。酒をのむ家へ行き、そこの女中に注意されて、私はマッカになつた。その気持は京都を去る最後の日まで、否、今も尚、私の記憶から、消すことができない。私はその翌日から無理強ひに仕事を始めた。それは贋物の仕事であつた。私は着物をあべこべに着てゐた。私の魂が着物をあべこべに。私は――仕事をしながら、あべこべの着物を仕事自体に意識しつゞけてゐたのである。
 私は七百五十枚の小説をかゝへて東京へ戻つてきた。昭和十三年の初夏、私は然し、着物がないので、ドテラを着て東京へつき、汽車の中では刑事に調べられてウンザリしたものだ。東京で一年間、私は威張りかへつた顔をしてゐたが、自信はなかつた。そして一年たち、今年こそ本当にギリ/\の作品を書かなければ私はもう生きてゐない方がいゝのだと考へて、利根川べりの取手といふ町へ行つた。私の見知らぬ町であり、何のゆかりもない町だ。竹村書房が探してくれたのだ。彼は魚釣りが好きであり、こゝは鮒釣りの著名な足場のひとつださうで、彼の行きつけの旅館があり、そこの世話で、取手病院といふところの、そこはもう主人が死んで病院ではなくなつてゐる離れの家へ住んだのである。
 京都ではともかく満々たる自信をもつて乗りこむことができたので、そのときは書くべき題材に心当りと自信があつたからであるが、取手では、何かギリ/\の仕事をしなければ死んだ方がいゝのだ、といふ突き放された決意の外には心に充ち溢れる何物もなかつたのである。
 何よりも感情が喪失してゐた。それは芸ごとにたづさはる人でなければ多分見当のつかないことで、そして芸ごとも、本当に自信を失つて自分を見失つた馬鹿者でないと、この砂漠の無限の砂の上を一足づゝザクリ/\と崩れる足をふみぬいて歩くやうな味気なさは分らない。私はひけらかして言つてゐるのではない。こんな味気なさをかみしめねばならぬのは、馬鹿者の雀の宿命で、鷲や鷹なら、知らずにゐられることなのだ。私はもう、私の一生は終つたやうにしか、思ふことができなかつた。
 この町では食事のために二軒の家しかなく、一軒はトンカツ屋で、一軒はソバ屋であつた。私は毎日トンカツを食ひ、もしくは親子ドンブリを食つた。そして夜はトンパチといふ酒をのむ。トンパチは当八の意で、一升の酒がコップ八杯の割で、コップ一杯が一合以上並々とあるといふ意味だといふ。一杯十五銭から十七銭ぐらゐ、万事につけて京都よりは高価であつたが、生活費は毎月本屋からとゞけられ、余分の飲み代のために、都新聞の匿名批評だの雑文をかき、私はまつたく空々漠々たる虚しい毎日を送つてゐた。
 この町の生活も太平楽だつた。ある夏の日盛りのこと、伊勢甚(旅館)の息子が誘ひにきて、旅館の小舟をだして、この小舟を利根川の鉄橋の下へつないで寝ころぶのだが、これは涼しい特別地帯で、鉄橋の下の蔭を川風が吹き渡り、夏の苦しさを全く忘れ果てゝしまふ。もつとも旅館の息子は川の水をヂャブリとくんで平気でお茶をわかすが、利根川もこのへんは下流であり、あるとき舟のすぐ横へ暗紫色のふくれあがつた土左衛門が流れてきたことがあつた。この土左衛門は兵隊で、四日前に溺れて死んで、その聯隊の兵隊が毎日沿岸を探し廻つてゐたのである。
 あるとき小舟の中でねころんでゐると百メートルほど下流に何百人の人だかりに気がついたので、ザブンと飛びこんで泳ぎついてみると、今しも人が死んだところだ。親父が釣をしてゐた。小学校四年の子供が泳いで溺れて、親父が慌てゝ飛びこんで二人とも沈んでしまつたのだ。この釣り場の川底はスリ鉢型の窪みがいくつかあつて、この窪みの深さは十尺以上で、それが幾つもあり濁つてゐるから探すのが大変な苦労である。小舟やボートが十隻ほどでて、てんでに竿で川底をさぐり、このへんで唯一人といふ泳ぎ達者の商売人の漁師がきて泳ぎ廻つてゐるけれども死体のありかゞ分らない。
 私は泳ぎの名人である。子供の時から学校を怠けてゐるから、遊ぶことは大概名手で、私が子供の頃は海が一番の遊び場だから、海は私のふるさとで、今でも私は海を眺めてゐると、それだけで心が充たされてゐるのだ。私が中学一年の時、そのころ高師の生徒で佐渡出身の斎藤兼吉といふ人がオリムピックに出場して、片抜手で自由型を泳いで、カワナモクのクロールに惨敗して、クロールを習ひ覚えて帰つてきた。この人を例年のコーチにしてゐた新潟中学ではその年すでに日本で最初のクロールを覚えたわけで、私はつまりカワナモク型の最も古風素朴なクロールを身につけたわけである。然し私はそれよりも潜水の名手なので、少年時代は五〇米プールを悠々ともぐつたものである。尤もあるとき腕にまかせて海の底へもぐりこみ、突然グァンと水圧で耳をやられ、幸ひ鼓膜は破れなかつたが、危く気を失ふところで死にかけたことがあつた。
 かういふ私であるから取手唯一の河童漁師などがヘッピリ腰でもぐつてゐるのはをかしくて仕方がない。私はオッチョコチョイだから、ざんぶと飛びこみ、川の底をもぐり廻つて、忽ち死体をつかみあげた。かういふと話は簡単だが、事実話は簡単なのだが、私の心にだけはさうでないことが起つたのである。みなさんは先づ川の底といふものが海の底のやうに透明でなく、土の煙りが濛々と立ち上り半米ぐらいしか視界がきかない暗さであることを知る必要がある。その半米の視界も土の煙りが濛々とうづまいて極めてかすかな明るさでしかないのである。突然私の目の前へニュウと腕が突きでゝきた。それは川底の流れにユラ/\ゆれ、私の鼻の先へ私をまねいてゐるやうにユラ/\と延びてきたのである。川底の暗さのために、腕だけしか見えなかつたのは、まだしも私の幸せであつたらう。それは子供の片腕だつた。私はそれを掴んで浮き上つたのだが、水の中の子供の身体などは殆ど重量の手応へがないもので、ゴボウを抜くといふその手応へを私は知らないが、あんまり軽くヒョイと上つてきたのでびつくりした程だつた。私が首をだす。つづいて死体の腕をグイとひきあげると、アヽ、といふ何百人の溜息が一度に水面を渡つてきた。だが私は、再び水底へもぐる勇気はなかつた。私の最初にひきあげたのが親父の方であればまだ良かつたかも知れぬ。なぜなら子供の死体の方はそれほどの凄味も想像されぬからで、親父の死体が今もなほ渦まく濛気の厚い流れの底にあり、今度はユラ/\した手でなしに、その顔がニューと私の目の前へ突きでてくる時のことを想像すると、とても再びもぐる勇気がなかつた。
 伊勢甚の息子はひどくカンのいゝ青年で、私が子供の屍体をひきあげると、すぐ、戻りませうよ、と言つた。そして二人が小舟へ戻ると、困つたことに、私が舟へ立てかけておいた大事のステッキがなくなつてゐる。飛びこんだハズミに落ちて流れたのだ。この籐のステッキは無一物の私がたつた一つの財産に大事にしてゐたもので、それはステッキを愛用した人でないと分らないが、身体の一部の愛着がわくもので、私の嘆きは甚大だつた。幸ひ小舟にはモーターがついてをり、まだガソリンがあつたので二三マイル下流まで追つかけてみたが見当らなかつた。もう水面はたそがれて暗くなつてゐる。たそがれの水面を低く這ふやうに走るといふことはいゝ気持のものではないが、例の屍体の沈んだところを通ると、もう岸に人影はなく、たつた三隻の小舟だけがもうあたりもしかとは見えない暗い水面に竿を突つこんで屍体を探してゐる。水からの蒸気がそれをかすかに包んでをり、オーイ、もう一度もぐつてくれないかオーイ、オーイ、と呼んでゐる。冗談ではない。真昼の太陽の下でも、もぐるのが怖しくなつてしまつたのだ。
 その日から私は小さな町の英雄になり、伊勢甚の子供が私のステッキのことを誇大に言ひふらして私がわが子供の如くに愛してゐたこと(それは本当だが)を吹聴するから、町の有志が心配して利根川の下流へステッキ捜索の立札をたてゝくれた始末であつた。
 わが魂をさがしあぐね、ひねもす机の紙を睨んで、空々漠々、虚しく捉へがたい心の影を追ひちらしてゐる私にとつて、人の屍体をひきあげて人気者になり、残つた屍体をひきあげかねて逃げだしてきた馬鹿らしさ、なさけなさ。私はあの小さな田舎町を思ひだすことが実際苦痛だ。私はあの町を立去つて以来、再び訪れたこともなく、思ひだすことも悲しい。虚しさとは、そして、その虚しさの愚かさのシムボル自体があの英雄で、この町に何とか稔といふ私よりも年長の文学青年がゐて、私の例の屍体引揚げ作業を見てゐて葉書をよこして遊びにくるといふから、私は胸のつぶれる苦しさ憎さで、あなたはイソップ物語を知つてゐますか、子供が石を投げて遊んでゐますが池の中の蛙には命の問題です、と返事を書いた。ある日トンパチ屋で会ふと向うから話しかけて文学の話を始めたから、バカヤロー、私は怒鳴つて帰つてきた。私はほんとに我がまゝだ。彼はちつとも悪くはない。たゞ私は、私自身が考へる苦しさのために、考へる代りに酒をのんでゐるのに、見も知らぬ遠い方から近づいてきて文学の話などやりだすから怒るので、文学は話ではないよ。それは私自身で、私がそれを表現するか、さもなければゼロだ。私が偉い人で、自信のある人間なら、怒らずにゐられる。すでに一年、一行の文字も書くことができず、川の底の屍体をひきあげて町の鼻たれ子供にほめられてもてはやされて、わが身の馬鹿さを怒らずにゐられるものか。酒をのむたびに不機嫌になり、怒るやうになつたのは京都からであつた。それは尚数年つゞき、太平洋戦争になつてから、だんだん怒らなくなり、否、怒ることすらもできなくなり、その代り、エロになつた。酔払ふと日本一の助平になるのであつた。
 取手の冬は寒かつた。枕もとのフラスコの水が凍り、朝方はインクが凍つた。朝方はインクが凍るなどといふと如何にもよもすがら仕事をしてゐるやうであるが、たま/\何か酒手のための雑文を書いて徹夜ぐらゐはしたこともあつたであらう。仕事らしい仕事はたゞの一行もしてをらず、してをらずではなくて、するだけの力、実力といふものがないのであつた。三文々士は怠け者ではない。何を書いても本当の文字が書けないから、筆を投げだし、虚空をにらんでヒックリかへつてひねもす眠り、怠け者になつてしまふだけだ。利根川べりのこの町はまつたく寒い町だつた。すると私の悲鳴がきこえたのか、三好達治から小田原へ住まないか、家があるといふハガキがきたから、さつそく小田原へ飛んで行つた。小田原は知らない町ではない。牧野信一が死んだ町であり、彼が生きてゐた頃女に惚れて家をとびだし行き場に窮して居候をしてゐたこともある町で、昆虫採集の大好きな牧野信一とミカン畑の山々を歩き廻つたこともあつた。よく/\居候に縁のある町で、今度は三好達治の居候であつた。もつとも別な家に住み、食事の時だけ三好の家へでかけて行く。
 戦争のために物の欠乏が現れはじめ、それが私にも気付いたのは取手の町にゐる時であつた。木綿類がなくなつた、東京になくなつたといつて、若園清太郎が買ひにきた。私のところへ世帯じみた話をもたらすのは常にこの男だけで、女房をつれ、子供をつれ、子供のオシメを持つて遊びにきて世帯の風を残して行くので、私が小田原へ越して後も、私のところに鍋も釜も茶碗も箸もないといふので食事道具一式ぶらさげ、女房も子供もオシメもつれてやつて来て、変てこな料理をこしらへて食べさせてくれて、そのたびに、小田原にもパンがなくなつたとか、バタがなくなつたとか、さういふことを彼によつて発見する。彼さへ来なければ、私は何も発見する必要はない。私には欠乏がなかつた。必要がなかつたからだ。
 さういふ私にも否応なしに欠乏が分つてきた。なぜなら、酒がなくなつたのだ。次にマッチがなくなり、煙草がなくなつた。
 けれども小田原ではさして困らなかつた。ガランドウといふ奇怪な人物がゐるからで、そこへ行くと、酒もタバコも必ずなんとかしてくれる。この人物は牧野信一の幼な友達で、ペンキ屋で、熱海から横浜に至る東海道を股にかけて看板をかいて歩いてをり、ペンキ道具一式と酒とビールをぶらさげて仕事に行つて先づビールを冷やしてから仕事にかゝる男なので、箱根へ仕事に行けばわざ/\谷底へ降りて谷川へビールを冷やしてから仕事にかゝり、お昼になると谷底の岩の上でビールを飲んで飯を食つてゐるから、注意して東海道を歩くとよくこの男の姿を見かける。風流な男なのである。
 然し私は風流ではない。私は谷底へ降りてビールを飲むことなどは金輪際やらず、彼は谷底へ降りるばかりでなく、箱根の山のテッペンでビールを飲もうよと云つて私をしつこく誘ふけれども私はいつかなウンとは言はないので、私は今ゐる場所を一歩も動かず酒を飲む主義で、風流を解する精神は微塵といへどもない。ともかくかういふ人物だから、こと酒に関してはまことにたのもしい男であり、三時間辛棒する覚悟さへあれば、小田原全市に酒がなくとも隣りの村から酒を持つてきてくれた。必ず持つてきた。然し、一升たのんでも、五合しかなかつたといふやうなことが、さすがのこの男でも次第にさうなつてきたのであつた。
 そのうち、私が上京して留守のうちに早川が洪水で家は泥水にうづまり、そのまゝ私は東京に住まざるを得なくなつてしまつたのである。
 太平洋戦争が始まつたのはこの年の冬だ。寒くなつたのでガランドウの所へあづけてきたドテラをとりに小田原へ行き、翌朝目をさまして戦争が始まつてゐた顛末はすでに述べた通りであるが、私の魂は曠野であり、風は吹き荒れ、日は常に落ちて闇は深く、このやうな私にとつて、戦争が何物であらうか。戦争は私自体の姿であり、その外の何物でもなかつたのだ。
 私は然し私自身死を覚悟した十二月八日を思ひだす。私は常に気が早い。その日私は日本の滅亡を信じ、私自身の滅亡を確信した。小田原の街々は変りはなかつた。人通りはすくなく、たゞ電柱に新聞社のビラがはられて、日本宣戦す、ハタ/\と風にゆれ、晴天であつた。私が床屋から帰つてくると、ガランドウも仕事先の箱根から帰つてきて、偶然店先でぶつかり、愈々二宮へマグロをとりにでかけたわけだが、ガランドウばかりは戦争のセの字も言はなかつたやうだ。どこ吹く風、まつたくさういふ男で、五尺八寸五分ぐらゐ、大男の私が見上げるやうな大男で、感動を表すといふ習慣が全然ない、怒ることもなく、笑ふことだけはある。二宮駅の手前でバスを降りて、先づ禅寺へはいつて行つていやにサボテンだらけのお寺で、ガランドウは庫裡くりの戸をあけて、酒はないかね、大きな声でたづねてゐる。目当の家に酒がなくとも決して落胆したりショゲたりはしない男で、いつも平気の平然で、一軒目がダメなら二軒目、二軒目がダメなら三軒目、さういふ真理をちやんと心得てゐるのであらう。それから鉄道の工事場へ行き、こゝではお寺の墓地が線路になるので、何十人の人間が先祖代々の墓地を掘りかへしてをり、線香の煙がゆれてゐる。ガランドウはこゝの掘り起した土をさぐつて土器を探し、破片をあつめると壺になる。彼は素人考古学者でガランドウ・コレクションといふものを秘蔵してゐる。それから魚屋へ行つたので、もう夕方になつてゐた。魚屋には自家用の焼酎があり、ガランドウはそれを無心して、我々はしたゝか酩酊に及んだのである。
 要するに、どう思ひ返してみても、十二月八日といふ日に戦争に就て戦争のセの字も会話してをらぬので、相手が悪い、私はつまりガランドウの二階で目をさます、もうガランドウは出掛けてゐる、オカミサンが来て、なんだか戦争が始つたなんて云つてゐるよ、と言つたが、私は気にもとめずひるまで本を読んでゐて、正午五分前外へでゝ戦争のビラにぶつかり、床屋をでてガランドウに会つて二宮へ来てマグロを食ひ焼酎をのみ酔つ払つて別れて帰つてきたゞけであつた。小田原でも二宮でも、我々の行く先々で、特別戦争がどうかうといふ挨拶をのべたところは一軒もなかつた。日本人は雨が降つても火事でも地震でもなんでも時候見舞の挨拶の口上にするのであるが、戦争だけは相手のケタが違ふので時候見舞の口上にははまらなかつたのかな。思ふに日本人といふ日本人が薄ボンヤリと死ぬ覚悟、亡びる覚悟を感じたのでないだらうか。元々田舎の町は人通りがすくないのかも知れぬが、妙に人通りのない、お天気のよい道だけを忘れない。人の姿がむれてゐたのは墓地の工事場と、魚屋の店内で、ちやうど夕方で、オカミさん達が入れ代り立ち代り買ひに来て、異様な人物が二人店先でマグロを食つて焼酎をのんでゐるから、驚いて顔をそむけてゐる。
 だが、心には何物かゞあつたであらう。長い戦争の年内を通観して、やつぱりこの日は最も忘れ得ぬ日であり、なつかしい日だ。八月十五日に終戦の詔勅をきゝながら思ひだしたのは言ふまでもなくこの日のことで、時刻も其の正午、生きて戦争を終らうとは考へてゐなかつた。とはいへ、無い酒をむりやり探して飲んだくれ、誰よりもダラシなく戦争の年内を暮した私であつた。そして戦争はまだだらしなく私の胸の中にだけ吹き荒れてゐるのである。





底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「文化展望 第二巻第七号」三帆書房
   1947(昭和22)年1月1日発行
初出:「文化展望 第二巻第七号」三帆書房
   1947(昭和22)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年12月30日作成
2012年8月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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