「花」の確立

坂口安吾




 文学も勿論さうだが、生活も、元来が平時のものである。戦争は特殊な過渡期で、いはゆる非常時だから、戦場に文学はないし、また生活もないと思ふ。
 戦勝後の国力の増大、また個人生活の増大、文化も文学も、本来そこに結びついてゐるものだ。
 戦前の日本は、なんといつても生活程度が低かつた。日本人は最も素質ある国民で、観念生活は豊富であるにも拘らず、生活程度がそれにともなはないために、生活感情が混乱せざるを得なかつた。生活に浪曼的情熱の正当な温床がなかつたから、従而、感情のともなはぬ知性も発育するに由なく、徒らに混乱して、芸術の姿を失ふばかりであつた。
 元来、苦力クリーに芸術はない。苦力には苦力の芸術がなければならぬといふことは、嘘である。芸術はそのあるべき場所にしか有り得ない。
 新日本の生活内容の増大が生活感情を確立させ、生活に浪曼的情熱のみなぎる時を、僕は最も切望する。そのやうな時代には、文学は、まづ芸術でなければならぬものである。そして、芸術は浪曼精神の所産以外の何物でもない。
 芸術は生の分裂をさらしては成立たない。当今知性文学とよばれるものの芸術上の失敗もここにあり、モラル探究の情熱が却つて文学を殺す結果を生んだ。即ち作家の人生発育の分裂が、芸術自体と混同され、芸術そのものに分裂や、生の裸像をさらしたことの間違ひであつた。知性やモラル探究が間違つてゐたのではない。また、作家自体の分裂は、芸術の最も重大な温床である。
 新らしい文学に必要なのは、芸術としての完成である。生活の「花」としての確立である。芸術は政治ではなく、米や塩ではないのである。生活の余計ものには相違ないが、元来、四季の花、余計ならぬものはない。花を見ぬ人に縁はないが、花や遊びに生存の意味の一部を托す精神の確立によつて、人の世界は、むしろ健康になるものなのだ。





底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
   1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二二一九八号第一夕刊」
   1938(昭和13)年11月15日発行
初出:「読売新聞 第二二一九八号第一夕刊」
   1938(昭和13)年11月15日発行
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
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