安吾巷談

田園ハレム

坂口安吾




 大戦争のあとというものは何がとびだすか見当がつかない。日本全土の主要都市が焼野原だから、どういう妖怪変化がとびだしても不似合ということはない。
 覚悟はしていたことだから、パンパンやオカマや集団強盗など月並であったが、アロハにはおどろいた。
 なにぶん、アロハというものは、妖怪として登場したものではない。ともかく焼跡にも建設的な気風が起り、いたずらに戦争の惨禍を身につけてデカダンスに身をもちくずしてはいかんというような大方の輿望よぼうにこたえて、美とは何ぞや、これである。戦後、美意識の初の出動がアロハであったから、この次には何がでるかと思うと、怖れおののいたのである。
 ストリップなどゝいうものは、着物をぬげば誰でもなれるのだから、創造せられたもの、衣裳とよぶことのできない原始風俗であるけれども、アロハは衣裳であるぞ。アロハは風をきり、銀座の風も、新宿の風も、奥州蛇谷村の風も、みんなアロハにきりまくられた。女の影のうすいこと。パーマネントでこれ対抗につとめても、とても敵ではなかったようだ。
 美神の登場で、こんな唐突なのは歴史に類がなかったかも知れない。概して都心の流行というものは、モガモボにせよ、いくらか当代の最高芸術に心得もあり、寄らば逃げるぞという人種のものであったが、戦後の都心はクリカラモンモンの熱血児に占領されて、日本中、アロハとパンパンに完全にいかれてしまった。
 フォーブなどというのはアトリエの小細工だが、アロハは熱血躍動する美の化身そのものであるぞ。芸術家の創造能力などゝいうものは箱庭のようなものだ、と私がシミジミ嘆いたのは当然だ。巷談師安吾の想像力がタカの知れたものであるのは当然らしいが、ダ・ヴィンチにしたところで、けっしてアロハほど唐突なイマジネーションをめぐらしてはいないのである。原子バクダンでもチャンと筋は通っている。アロハの出現に至っては筋はない。アトリエや研究室のハゲ頭どもは、一撃のもとに脳天をやられ、毛脛をやられ、みんな、おそれ入りましたと言った。
 アロハは突如として消えせてしまったが、世を忍び、地下へくぐったにすぎない。美神アロハは生きている。否、生きているどころか、指令を発し、現に美のもろもろはアロハの大きな手におさえられているのである。惑星アロハをめぐる小遊星のタップダンス程度なのが今の世の流行であり芸術だ。それぐらいアロハは大きい。
 フジタが河童アタマでモンマルトルの奇襲作戦に成功をおさめても、モンマルトルが河童アタマになったわけではないのである。わずかに東京の大辻司郎の頭がそうなったにすぎないほど感化力は弱小であった。フジタほどの芸術家が日夜に想をねり、たくみにたくんで編みだした創作も、ただ彼自身のポートレートをかざるだけのものにすぎない。だから、芸術家の如きはダメだ。彼らの傑作もたかが小遊星である。流星ですらない。アロハは恒星であるぞ。
 美神アロハの登場は現世を暴力によって一撃した。それをきたアンチャンの腕ッ節のせいではなくて、着想の革命的な新風によってだ。美神アロハの創世記。そして爾後の芸術は、新恒星をめぐって歩きだす。仕方がない。アロハは地下へくぐったが、決して死なないのである。
 諸君は敵をあなどっているようだ。しかし諸君、地下へくぐったものを甘く見てはいかん。徳球ごときチョロ/\のホーキ星とは質がちごう。とてもダメなんだ。ぼくはもうシャッポをぬいで、敵意をサラリとすてている。それはぼくがかねて美の新しい衣裳について想をねるところがあったから、敵の抜群の実力を見ぬく神速にめぐまれていたのである。一時抗戦したが、すぐ白旗をかかげた。謀略的敗退とちごう。私の心境は明鏡止水である。
 アロハは完全に地下へくぐった。銀座を歩いてみたまえ。あれほど抜群であったG・Tの兵隊服が全然目をひかなくなったではないか。男女いずれも程よく美の常識を身につけ、文化というものの必然の相を身につけて、げにうるわしく破綻がない。特にダブルという洋服をきて、単原色のネクタイをクビにはためかす青年紳士は三年前にアロハをきていた人たちである。美神アロハの暴力革命的な荒々しい躍動は、うかがう由もなくなったのだ。
 私はしかし美神アロハの実力、潜勢力というものを信じていた。必ず、やる。今度やるときは、タダではすまんぞ。
 地下へくぐったとみせて、いたるところに五列を忍ばせてしまった。ダブルのアンチャンなどは、むしろ五列でもなんでもなく、単に無邪気なマネキンにすぎなかったのだ。
 五列は、どこにいるか。実に、驚くべし。美神アロハに激しく敵対したもの、それが全て、実は五列であったのだ。見たまえ。共産党は、とても、こうはいかぬ。自由党が共産党の五列であるというようなことは、断乎として有りえないのである。
 見たまえ。今にアロハは徐々に地下から首をだす。しかし、諸君には分らない。ストリップ? バカな! あんなものは偉大なアロハには無関係だ。彼が復活するまでの空白をうめているにすぎないのである。
 アロハが徐々に顔をだすとき、その覆面を見破ることができるのは、私だけなのである。私の指し示す時をまて、私はこういって、カストリどもに訓示をたれた。
「いいか。諸君。アロハが復活するときは、決してアロハをきて現れはしないぞ。燕尾服やタキシードをきている。諸君のノスタルジイと合作して現れてくるのだ。つまり、諸君はすでに彼の共力者(共犯者とは言わん。アロハは犯罪ではない)であるから。それゆえ諸君は、諸君の中へ没したアロハの姿を見ぬくことができないのである。アーメン」
 地にくぐること満二年。アロハはそろそろ復活のキザシを示しはじめた。私はそれを認めたのである。
 私の予言は正しかった。彼は完全にアロハをぬいでいた。なつかしのノスタルジイと合作し、いとも優美な生活芸術の善美結構つくせる姿を示していたのである。
 予言にしたがって、諸君をそこへ案内するときが来たわけだ。
 小岩というところは何県に属しているか? 千葉県か? 東京都か? ここがむつかしい。十人のうち、五人まちがう。小岩? そうか。あすこにはオハグロドブがあるぞ。バラバラ事件、首なし屍体、そんなのがあると、みんな小岩とちごうか? わかった! あれは警視庁が捜査する。東京都だ! 小岩はお岩に似ているせいか、東京の人間は犯罪によって小岩を記憶しているようである。実は東京都小岩である。美神アロハの復活は、実にこの地を選んで、行われた。
 ここは、又、雨がふると、洪水になる。一つとして良いとこがない。そこが曲者なのだ。これが先ず銀座に現れたというのでは、全然センスがないのである。
 その名は、東京パレス!

          ★

 私たち(この同行者の姓名をかくと処罰される)を乗せた自動車は新小岩駅前の繁華街をうろうろしている。運転手は首をひねって、
「たしか、この辺のはずだが」
「君、知らないのか」
「え? ええ。しかし、ここが賑やかな中心地だから、この辺に……」
「とんでもない!」
 私は叫んだ。
「東京パレスは広茫たる田ンボの中にタッタ一軒あるんだよ」
 私は見たわけではない。私は友だち(これも姓名をかくと処罰される)に東京パレスの情景を微に入り細にわたり叙述をきかされているのだ。ギャク/\ゲロ/\という一面蛙の鳴き声を、自動車の速力でものの三分もきいて走らねばならないほど、見はるかす田ンボの中にポツンとある。と、そこに繰りひらかれる絵巻物こそは。まて、まて。もッと、落付いて、語りましょう。
 私はこの殿堂へふみこんだとき、
「ハハア。これは兵営のあとだな」
 と、ひとり合点をした。ひろびろと暮れゆく田ンボ。これぞ兵舎をかこむ練兵場、飛行場のあとである。私がそう思うのもムリがない。この建物は一聯隊の兵舎、銃器庫、聯隊司令部、講堂などに相応し、それ以下のものではない。離れたところに、ちゃんと営倉の建物も残っているではないか。ところが、これが大マチガイで、案内者曰く、
「ちがいますよ。これは精工舎という時計工場の寮のあとですよ」
「ハア。田ンボのマンナカに工場というのはきいたことがあるけれども、寮とは妙だ。工場がないじゃないですか」
「工場ははるか亀戸にあるそうです。戦時中、ここに何万という(嘘ツケ)工員が白ハチマキをして、住んでおりまして、講堂でノリトをあげて、それより木銃をかついで隊伍堂々工場へ駈足いたしましたそうで」
 寮とは妙だ。見はるかす田ンボのまんなかじゃ、白ハチマキの工員さんは、浩然の気を養うに手もなく、もっぱら精神修養につとめなければならなかったろう。戦争の匂いがプンプンする。
 それが今や東京パレスである。
 さて、東京パレスとは何ものであるか。
 まず、講堂ならびに銃器庫とおぼしきあとが、ダンスホールである。この見物料五十円。ティケツ十枚百五十円(このとき見物料不要)。
 ホールは広大にして汚い。正面に一段高く七名のバンドが陣どり、それに相対して見物人の席がある。見物席は駅のプラットホームと待合室を区切る柵のようなもので仕切られている。
 私がこの柵をまたごうとしたら、子供の整理員が、
「イケマセン。グルッとまわりなさい。ホールの礼儀を守って下さい」
 叱ラレマシタ。
 すでに推理されたと思うが、見物人が踊るには不都合にできている。どうせ踊りやしないんだろう、と先方で一人ギメにしているらしい風情なのである。テーブルもイスもあってビールをのもうと思えば取りよせてのめる仕掛だが、ボーイとおぼしき風態の人物がいるわけではない。子供はいるが、彼は戦争中の服装で、誰かがビールをのむことに興味をもっていないようだ。イスとテーブルも兵舎的実用品で、席へつけば一同が実用的な心構えになることを慫慂しょうようされているようである。警官の臨観席の坐り心持であった。イスとテーブルが、私のお尻からささやいて、きびしく命令している。
「よく睨め。ジッと睨め」
 そこで私は睨まなければならんのである。
 私の眼前には三百人の美姫が楚々として踊っている。私に東京パレスを精密に叙述して一見をすすめた友人(頭に特徴のある人物)は、こう教えた。
「そこには二百人の美姫がイヴニングをきて踊っているです。イヴニング! しかして、全部、美人である! よく揃えたなア。彼女ら二百人の三分の二は、東京のマンナカ、と云えば銀座、銀座のダンスホールの美人とよばれるダンサーに劣るものではないですぞ。ぜんぜん見劣りしないね。むしろ、より美しきものである。そのフェースに於て、スタイルに於て、銀座のダンサーだにすらも、かの二百名の美姫にくらぶれば、ああ、だにすらも」
 彼は刺戟性の事物に近づくことが適しない人物のようだ。前後不覚に亢奮しやすい。
 しかし彼の腹心(彼には腹心がある)が、彼のために、こう弁護した。
「彼がここへ来たのは一カ月前です。そのときは、たしかに美人が多かったらしいです。時の一行は概ね逆上的に心酔しておったです。ぼくも、その時、来ればよかったなア」
 予言者は世に容れられないものである。美神アロハも一応予言者ぶったフリをしてみたかったのだ。そこには使徒巷談師というものが現れて、やがてその福音を説くことが定められていたせいらしい。
 一時世に容れられなかったのだ。というのは田ンボのマンナカの一軒屋という高貴の風俗が異教徒どもに分らなかったからである。彼らは銀座にのんだくれて、円タクをよびとめる。
「小岩! いくら」
「千円」
「八百円にまけろ」
 畜生! 円タク代、八百円か! 翌日、恨みをむすんで帰る。オノレ、円タク。異教徒は恨み深い。
 東京駅前から市川行というバスにのるのである。田ンボのマンナカの一軒屋の前へ、自家用車のごとくピタリと止る。この料金、三十円。美神アロハの配慮にソツはないのだが、異教徒は酔っぱらうとムヤミに気が大きくなって、翌朝円タクを呪うのである。
 こういう次第で、異教徒どもは離れ去り、ハレムに閑古鳥がなき、三百人の美姫のうち、目ぼしいのは去ってしまった。これ即ち、やがて巷談師の現れて福音を説けばなり、という予言を行うためである。
 私がでかけたとき、美姫は百六十何名に減っていた。あんまりお客がこないので、エエめんどくせえや、というわけか、それとも美姫の新入生でイヴニングが間に合わないのか、美姫の半数ぐらいは、昼の服装で踊っていた。
 四五人の半ソデシャツのアンチャンが美姫を相手に踊っているほかは、美姫は美姫同志で踊っている。他のダンスホールの女の子は、女同志で踊るときには、怒ったような顔をして、なんとなくヤブレカブレのように怖しい様子であるが、ここの美姫はノンビリして、充分にニコヤカである。他のダンスホールのように、男の子がすすみでてくるのを待っている女の子は一人もない。そんなシミッタレた料簡は、このホールには徹底的にないらしい。
 つまり、男の子は見物させておくのだ。否。睨ませておくのだ。ジッと。男の子が踊っちゃ悪いというわけじゃない。踊りたけりゃ、柵をグルグルッとまわって、お金をだして切符を買って女の子をつかまえりゃいいんだけれども、何もそんな面倒して、お金を使って、そんなことしなくッてもいいだろう、という料簡でもあるらしい。美姫たちは男の子が踊りを所望するというようなことに殆ど興味がない様子である。
 しかし、彼女らは楚々と、そして、軽々と、たのしそうに踊っている。あらわな肩に汗がジットリと、ライトに白くてりはえていても、あつそうな顔一つしない。舞台の女優と同じように、芸熱心で、又、明るい。
 なんのために我々はジッと睨んでいなければならぬか。又、彼女らは我々を睨ませておくか。
 我々に恋人を探させるためなのである。さては新式の張り店か、なんて失敬なことを云ってはいかん。どこの世に恋されようという料簡をもたない女の子がいるものですか。一人にも万人にも恋されたいとね。舞台の女は舞台で、散歩の令嬢は路上に於ても、恋されたいことを忘れているわけではないのさ。
 三百人の美姫が、見知らぬ恋人のために、楚々と軽々と、にこやかに踊っているのは、充分に当り前のことである。
 サッサッと、すべりも軽くすすむ。サッサッと。ヒラリ――どうも、こまった。私は誰かさんのように、逆上し、又、亢奮する筈がないのである。しかし、動くということは、いいもんだなア。サッサッと。ヒラリ。
 美姫を選定するのに、顔だけを見て選ぶバカはないです。ジッと立ってるスタイルだけでもいかん。ミス・ニッポンを選ぶたって、歩かせる。歩かせるぐらいじゃ、いかん。ウ、あの女の子は、よく歩くなア。九十五点だ。なさけないなア。ミス・ニッポンの選び方というものは。
 踊らせなければいかん。サササッと。ヒラリ。美の真価は、そのとき、男の目にしみわたるのである。
 先月号に散々悪口を弄したけれども、ストリップ・ショオというものは因果物なのである。あそこでも見物人はジッと睨んでいる。東京パレスの男の子もジッと睨んでいるけれども、ここには持てる者の余裕があるね。持てる者はいいもんだなア。
 ストリップの見物人は、持たざる者の悲しさを最も端的にあらわしている。息をこらし、眼は血走り、手を握ってギュッと拳をヒザに押しつけ、必死必殺、殺気がこもっているよ。そして、約三時間、女の子の裸の姿を睨みぬいたあげく、どうするかというと、椅子から立って振向いて、満員の同志をかきわけて、女の子のいる方の反対側の戸をあけて廊下を歩いて、ボンヤリ外へでるのである。なんたることだ。あんなにキチガイめいて女の子の裸体を睨んだあげく、彼は女の子にお尻を向けてポカンと反対側の戸外へでてボンノクボをさすって、アクビをしているのだ。持たざる者、難民の悲しき姿である。これを因果物というのである。
 東京パレスに於ては、アベコベだ。彼らの睨みは全的であるけれども、福徳円満である。持てる者は、どうしても、そうなる。しかも彼の前にヒラヒラ、サササッ、ヒラリ、蝶かの如くに舞い踊るのはイヴニングの美姫である、射的屋の蔭から襲いかかってシャッポを強奪したり、ムンズと組みつく女レスラーのたぐいではない。
 かの友人、ええと、誰かが何とか云ったッけ。ええと、その人が言ったように、よく揃えたもんだなア。まアね。彼の逆上的な観察にも狂いはあるようだが、まア、揃えるという精神はあるだろう。ダンサーたることを第一に、美というものを念頭においている方針の片鱗はわかるのである。たまたま目下予言者の宿命中で、閑古鳥はなき、美姫は立ち去り、事志とちがって、大いに困っているけれども、美神アロハの大魂胆が全然影を没するということは有りえない。かの人物が言うように、銀座のナンバーワンが二百人集っているというのは逆上的であるけれども、ストリップの踊り子ぐらい、ザラにいるなア。こッちの女の子をハダカにすれば、東京と大阪のストリップ劇場を占領して、オツリがくるほど人材がいるんだぞ。田舎まわりの因果物みたいな変な子はいないんだぞ。昨日までは、もッと、いたんだぞオ。だけど、だんだん、へるんだぞオ。
 美神アロハは復活した。そは実に、持てる者は幸いなるかな、という福音をひろめるためであったのである。
 それは又、ストリップや、射的屋の蔭に腕をさする女レスラーや、今か今かと男の子がさそいにくるのを陰にこもって待ちかまえている壁際のダンサーや、すべて異端の貧しく持たざるものを放逐するためでもあったのである。
 ダンス・ホールは八時半だか九時だか九時半だかに終る。茫漠として、私はその時刻が何時であったか記憶がないが。そのときに時計を見て時刻などを知るという落付きが、それほど賞讃されたことではないのであるな。
 そして、美姫の一人を恋人として、彼女の部屋へ行くのである。
 又、二百人の美姫が全部踊ることはできないから、四ツかの組にわけて、一晩に一組だけ踊る。他のホールに現れざる四分の三に恋人がいるかも知れぬと思う人は、彼女らの部屋の方をさがせばいい。
 彼女らのハレームは五ツの棟にわかれている。各々二階建である。
 さて彼女らの各々の部屋であるが、これが、ちょッと、こまるんだねえ。つまり、これは、一度はハリツケにかかるという宿命を行うためであるから、仕方がないように出来ているのだなア。
 戦争中は二十人か三十人の白ハチマキがねていたと思われる大きな一部屋を、まず、横に二つに分ける。前方と後方に二分するわけだ。前方は、ちょッと喫茶店めいてイス、テーブルがあり、ちょッとした炊事場みたいなものもついている。後方を四ツか五ツに区切って、この広さが二畳半かな、ここが、彼女らの部屋だ。区切れ目がよくて、窓に当った部屋はいいけど、四分の一、ひどいのは五分の一ぐらいしか窓にかからんのが在るんだなア。
 巷談師は予言者の宿命を行うためらしく、五分の一しか窓に当らぬ部屋へ静々と招ぜられたのである。しかし美姫は巷談師がビールをのんでいる間というもの、扇風機よりも休みなくウチワであおぎつづけてくれました。全然辛苦をいとわんのだな。窓ぐらい、無くたって、なんだ! 東京の奴らは知らねえな。ウチワというものがあるんだぞオ。
 ダンスホールと五棟のハレムの間には、飲食店が五ツ六ツ並んでいる。スシ屋というのが一ツ。オシロコ屋というのが二軒だか三軒あったよ。オデン小料理、ビヤホールという男子用のものがなかったのさ。のぞいて歩いたら、オシロコ屋というのにビールがあったよ。オシロコを食わなくっても、チャンとビールをのませてくれた。第一安いや。いくらだと思う。もっとも、ここのビールはのむ場所によって値段がちごう。ダンスホール、ハレム、オシロコ屋、三ツとも違う。ホールで二百五十円、ハレムで三百円、オシロコ屋で二百円だったかな。女の子の部屋でのむのが一番高い。
「オデン屋ぐらい、ないのかな」
 と呟いたら、支配人が、
「ええ、手前どもは、できるだけ優美典雅に、又、できるだけ安直に、美とたわむれていただきますために、男子用の散財店をさけまして、実用品店と、女子必需品店、オシロコ屋でありますな、そういった気分であります。お客様がよけいなことで、気前よくあそばす、又、ギョッとあそばす、いずれも、当会社は、かたく慎しんでおります」
 バカに心がけがよいのである。理髪店が一軒ある。ここらあたりは、気がきいてるな。一人のオヤジサンが熱心に誰かの頭をかっていた。夜、頭をかって、美姫に対面に赴くべきや。朝、頭をかって、何食わぬ顔、会社へ出勤すべきや。ここへ遊びにきた男の子は、どうしてもこの難問題を考えなければならない。
 案内人(文春の誰かさん)はニヤリと笑って言いました。
「それは夜かるべきですよ。オールナイト八百円の時間まで、頭かって待ってるです。オシロコは胃にもたれるし、ビールは高いし、頭かるのは実用的で、全然もうかッとるですから」
 アプレゲールは全然エライよ。

          ★

 私は先月、南雲さんの病院へ入院していた。巷談に東京パレスを、という案はその前からあったので、南雲さんにきいてみた。
「東京パレス御存じですか」
「あれは武蔵新田と同じものだそうですよ」
 返答はアッサリしていた。南雲さんは、武蔵新田診療所長でもある。吉原の吉原病院と同じ性質の診療所だ。
 武蔵新田のパンパン街というものは、私の勇名なりひびいているところで、古い子で私を知らぬパンパンはいない。この入院中、病院の先生たちをムリにひッぱりだして、曾遊そうゆうのパンパン街へ酒をのみに行った。パンパンは私を見ると、みんなゲラゲラ笑いだすのである。私がかつて妙テコレンな病気の折に、ここをせッせと巡礼して、他の勇士の為しがたい多情多恨の業績をのこしているからである。向うにしてみれば、奇々怪々、しかし奇特なダンナではあるよ。だから、人気があるな。
 ここは鳩の町などゝは又ちごう。三ツのアパートを改造して、昔は一部屋ごとに一人の女が喫茶店を開業していた。今は喫茶店はやっておらんが、客はアパートの中を歩いて、一部屋ごとの女をながめて巡礼する仕組になっている。
 武蔵新田と東京パレスの似ているところは、そこだけなのである。女はアパートの一室をそっくり占めているから、部屋の点では、武蔵新田の方がいい。しかし、その本質に於ては雲泥の相違があるし、新田は要するに、ただのパンパン街にすぎない。
 東京パレスは、今までのパンパン街と本質的にちごう。昔の吉原にもあったが、京都も伏見中書島ちゅうしょじまなど、ちょッとしたダンスホールをそなえた遊廓はかなりあった。しかし娼家にホールが建物としてくッついているというだけで、誰も踊ってやしないし、誰かが踊っていたにしても、在来の娼家の性格を出ているものではなかった。
 東京パレスは、その恋人を選定する道程に於て、娼家的なものがないのである。意識的に、そこに主点をおいて、娼家的なものを取り去っているのだ。
 そこはダンスホールである。バンドもある。よく、きいてみろ。雑音とちがうぞ。ちゃんと曲にきこえるだろ。女はイヴニングをきている。そして、ともかく、一応の容姿の娘(年増は殆どいない)をとりそろえ、ストリップを観賞するように、踊る美女をながめて、恋人を選ぶ仕組なのである。
 ここへくると、ストリップの今の在り方の下らなさがよくわかる。芸のない、助平根性の対象としてのストリップ。裸の女を眺めて、それからモーローと反対側の方角へ劇場をでてしまうマヌケさ加減、東京パレスはアベコベだ、これから共に寝室へ行く目的がハッキリしているし、そして、それがハッキリしていると、彼女がハダカであるよりも、衣裳をつけ、楚々と踊りつつある方が、どれぐらい内容豊富だか分らない。裸体はそれを直接見るよりも、衣裳や動きによってその美しさを想像せしめるように工夫されたのを見る方が、心ゆたかであるし、たのしいものだ。
 見物中の男の子は、恋人の色々の秘密を想像し、その一々にまさしく恋人としての愛情をいだくことができる。そして、二百の美姫たちは彼女らが踊りつつあるときは美姫であってパンパンではない。ともかく、東京パレスというところは、そこを狙っているのである。去年はもッと良かったんだア。昨日だって、もっと、よかったぞオ。
 それで、金が高ければ当り前の話で面白おかしくもないけれども、さて美姫が恋人となり、ホールが終って、彼女らがパンパンとなると、とたんに彼女らの部屋は窓の小さな犬小屋となり、何から何まで、安直なのである。この精神が甚だよろしい。
 在来のパンパンは相当な金をまきあげられた上、女とねかされるというだけで、露骨で殺風景で、この道に一番大切な、恋人的な情趣をもつ余地がない。センチメンタルなダンナ方は老いも若きも、この荒涼風なまぐさしという雰囲気にはつきあえないに相違ない。
 芸者というのは踊るけれども、あの日本舞踊の動きというものは現代のセンスに肉体の美を感じさせはしなく、彼女らの唄うものが、益々現代の美から距離をつくってしもう。
 パンパンというものが在る以上は、もっと気のきいた、現代のセンスに直接な在り方がなければならぬ筈であった。東京パレスはそれに応えて、革命的な新風をおこしたのである。その上、ありきたりのパンパンよりも安直であるという大精神に於ては、窓の小さな犬小屋の非をつぐなって余りあるところ甚大な、一大業績だといわなければならぬ。美神アロハは実力の一端を示したのである。尚かつ世にいれられず、受難四年、閑古鳥がないたというのが愉快である。しかし、そうだろうな。東京から円タクをねぎって八百円かかる田ンボのマンナカの一軒屋へ、美姫二百人楚々と軽やかに踊らせた魂胆というものは、分るようでもあるし、全然分らないようでもある。よく考えると、分らんわ。
 私たちは見物席のメーンテーブルにドッカと腰かけ、ビールをのみ、美女をにらんでいた。
 私は従卒を三人つれていた。二人は志願兵であるが、一人は委託された教育補充兵で、ある人物にたのまれたのである。
「今日はちょッと難題をたのみますがな。今やわが社におきましては虫気のつかない困った人物がおりまして、ええッと、彼はなんと云ったッけな。ア、そうだ、君。編輯者は色々なものを見ておかなければならんぞよ。見るだけでタクサンだ。実行するに及ばん。実行の隣の線まで、よく見てこい。今夜はこの子をつれていって下さい」
「ムムム」
 大胆不敵の巷談師も、この時こまッたのである。自分にできないことを、人に押しつけやがるよ。しかしウシロは見せられない。
「よろしい。しかし、心細いな。ほかに然るべき心ききたる同行者が必要だが、この社の年寄りは酔っ払うと分別に欠けるところがあり勇みに勇む悪癖もあって、全然荷物になるだけだ。しかし、年寄に分別がないと、若い者に分別がつくもんだな。これが教育というもんだ」
 こう云って、よく自然教育された二人の志願兵、これで従卒三人、そろって美青年だったのが大失敗のもとでヒドイ目にあった。
 いつもの巷談では取材の終るまでお酒はのまなかったが、今度はそうはいかない。銀座で酔っ払って、見物席で、目玉をむきながらビールをのむ。
「いい子、いますか」
 分別ある兵隊の一人がきく。
「いる、いる。三人みつけた」
「どれ?」
 隣の女の子が私にきく。
「ええッと。まず、あすこの黒白ダンダラのイヴニング」
「あんなの好きなの? あの方がいいわよ。緑のイヴニング。腰の線がなやましい」
 隣の女の子がきいた風なことを言う。
「こちらは黒白ダンダラのイヴニングですね。林芙美子先生は緑のイヴニングと」
 分別のある兵隊がメニューを書きこむ料理屋の支配人のようなことを言う。そうか。隣の女の子は、林芙美子という名前なのか。銀座の酒場で、かち合った男と女が一緒にきたのである。
「ええッと、石川淳先生は? いい子いますか」
 分別ある兵隊が私の隣の男にきいたが、この男は、知らん顔して答えなかった。そうか。こッちの男は石川淳という名前か。
 ダンスが終った。
「石川先生を、どうしたらよろしいですか」
 と兵隊が心配して私にきくから、
「よろし。よろし」
 私は彼を安心させてやるために、いとも自信ありげにこう答えてやった。実際、自信があったのだ。
 この人、ええと、石川淳という名前か。この人はあの子が気に入ったなどゝいうことを、コンリンザイ、言いたいけれども、言えないというタチなのである。しかし、巷談師のとぎすまされた心眼には凄味がある。ジッと二百名の美姫をにらんだアゲクに、最も優美豊艶、容姿抜群、白百合のような気高い子を招きよせて、石川淳の肩をたたいて、
「この子が君と寝室に於てビールをのみたいと云っている」
 彼は心眼によってみんな見抜かれたバツの悪さをあらわさずに、とたんにニンマリと笑みをふくんで、
「や。ありがとう」
 と、言った。たった一語、この一語のほかの言葉は有りえないという充足した趣きがこもっていた。
 私は人の世話をやいてやって、大失敗したのである。さて、いよいよわが目ざす美姫、黒白ダンダラのイヴニング。ところが、人の世話をやいてるうちに、ほかの男と約束ができて、手オクレであった。
 そこで三人の従卒が同情した。
「ヤ、心配無用です。ホールへでていたのは四分の一にすぎんです。四分の三は各自の個室におり、この中に美姫あることは必定ですよ」
 そこで美姫をさがすことになったんだがね。アラビヤン・ナイトでも、美姫をさがすのは若い王子様ときまっていたな。ジジイはそういうことはしていなかったなア。思いだすのが、おそかった。
「あなたア!」
 といって、女の子がかけよってくる。女の子たちは三人の男の子の手をにぎる。誰一人、私に向って、同じことをする女の子がいないんだね。どの棟のどの部屋の前を通りかかっても、そうなんだ。すべて物事には例外があるということをきいていたが、例外というものは実に絶対にないもんだね。しかし、ここまでは、まだ、それほど深刻な事態ではなかったのである。
 三人の男の子は、女の子の手をふりきる。そして大股に歩きすすむ。その時に至ってだね。手をふりはらわれて後にとりのこされた女の子たちは、改めて私の後姿に気がついて、これに向って、こう呼びかけるのである。
「パパ! ちょッと! パパ!」
 パンパン街というものは、チョイと、オジサン、というね。これが天下普通で、そう気になる言葉ではないが、パパはひどい言葉だよ。東京パレスの女の子は、必ず、私にパパとよびかけた。かく呼びかけるべく教育されたとしたならば、実に中年虐待。従卒どもはゲラゲラ笑いだしやがるし、しかし、今までウッカリしていたが、パパという言葉は、実際凄い言葉だ。私はヤケを起して、一人の美姫の部屋へにげこんだ。これが、さッきも云う通り、窓が五分の一しかなかったんだね。五分の一というと、まア、六寸さ。しかしウチワであおいでくれたよ。
 一時間後に我々は約束のシロコ屋へ集合した。この戦果。私は女の子に二千円やって、千円でビール二本のんで、合計三千円。林芙美子、女の子に千円チップ。教育補充の美少年、二百円。彼はビール一本のみ、女の子は二百円しかとらなかった由。ハレムのビールは公定一本三百円、私のは五百円だが、奴め、二百円でのんで、手数料もとられなかったのである。
 今や、日本中のダンスホールというダンスホールは、みんな踊りが荒れて、猥雑、体をなさず、見るにたえないそうだ。
 ところが、東京パレスのホールの踊りは、抜群に美しく、いささかも荒れたところがない。楚々として、男女ともに、踊りは典雅そのものなのである。
 実に、当然すぎるね。荒れる必要がないのだ。チークダンスの必要がないのだもの。ちゃんとハレムへみちびかれる必然の運命にあるのだから。
 もしも諸君が、最も美しく洗練され、礼儀正しいダンスを知りたいと思ったら、東京パレスへ行ってみることだ。
 つまり、ここの恋人たちは、甚だ健全で、礼節正しいのである。ストリップが因果物だという意味が、又、他のダンスホールが持たざるものの哀れさに溢れているという意味が、まだ、おわかりにならないかな。
 持てる者は礼儀正しくなるものさ。
 難を云えば、踊る女は誰の目にも目立つのがほぼ同じいから、恋人がダブリ易いということだね。
 尚、前文中、田ンボのマンナカの一軒屋と書いたが、百軒屋ぐらいの一つであった。ゆうべ、もう一ッぺん行ったら、わかったのさ。





底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
   1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第一二号」
   1950(昭和25)年9月1日発行
初出:「文藝春秋 第二八巻第一二号」
   1950(昭和25)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年1月10日作成
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