拙作「逃げたい心」で長野市
僕は桜枝町へ行つたことがないのだから話にもならないわけで、長野の人に怒られても仕方がないのである。
然しあの小説の中の一々が出鱈目ではないので、たとへば読者が最も眉唾物に思ひさうな貧乏徳利だが、あれは私も実物を見てゐる。長野の正木映三君が考へてゐるものとは違ふやうだが、話によると、もう二昔も前から柳宗悦氏が目をつけて
僕の親しい友人でさへ、僕の小説といへば出鱈目の地名を書くものと思つてゐるらしく、僕に文芸通信の抗議を教へてくれた男は、桜枝町は実在する町名だつたかいと呆れてゐたが、これも少しひどすぎるのである。かういふことを言つても人々は信用しない形跡があるが、僕はくだらないことに嘘を書くまいとして、実はあべこべに愚劣な苦労をすることが多いのだ。この夏は一九三二年五月三日の天候に正確な事実を書かうと思つて二週間くだらぬ奔走をした。事実を突きとめたら莫迦らしくなつて、結局小説には嘘を書いた。事実を知つてゐると嘘を書くにも気が楽だ。それだけの功徳はある。そして文学はこんな末節で労しない方がいいのである。文学の最大の任務を果すために、小道具は挙げて小道具の最大の効果をあげるために融通無碍の流用にまかさるべきが至当であると考へてゐるが、つまり小説の中で実在すればいいのであるが、然し長野といふやうな実在の地名を用ひた場合、僕が間違へた程度の嘘はひどすぎるやうだ。絵描きの大ざつぱな言葉通りに書いたのだが、この点は文句なしに降参する。
「逃げたい心」に就ては、あの小説が実人生とかけはなれてゐるといふやうな悪評をきくが作者は全然逆に考へてゐる。あれは人性の本質に即した一つの解説である。小説の動的なるにくらべれば、不動の実体にかけられたいはば人性の唄であり童話である。昨今私はこの種のものを書く気持になれないのだが、時々やはり書きたくなる。後日一本にまとめる際、同種の物を集めて「童話集」と名付ける考へであるが、かういへばあの作品の意味もやや明らかであらうと思ふ。「黒谷村」も矢張り同じ童話であつた。作家は童話に満足はできない。それは読者も同様であらう。然し人間に生と死のある限り、郷愁と童話が不滅の生命をつづけるであらうことも疑ひない事で、単に時代性を持たない点で批難さるべきものではないのだ。かやうな軽率な批難は、その人がいかにうかつに軽薄な人生を歩いてゐるかを明らかにしてゐるにすぎないと私は固く信じてゐる。私は自分の文学を、まことに苦しみ悩む小数の人々に常に捧げてゐる考へであるが、私はこの信条を大言壮語とは思はない。