安吾史譚

勝夢酔

坂口安吾




 勝海舟の明治二十年、ちょうど鹿鳴館ろくめいかん時代の建白書の一節に次のようなのがある。
「国内にたくさんの鉄道をしくのは人民の便利だけでなくそれ自体が軍備でもある。多く人を徴兵する代りに、鉄道敷設ふせつに費用をかけなさい」
 卓見ですね。当時六十五のオジイサンの説である。当時だからこうだが、今日に於てなら、国防と云えば原子バクダン以外には手がなかろう。兵隊なんぞは無用の長物だ。もっとも、それよりも、戦争をしないこと、なくすることに目的をおくべきであろう。海舟という人は内外の学問や現実を考究して、それ以外に政治の目的はない、そして万民を安からしめるのが政治だということを骨身に徹して会得えとくし、身命をして実行した人である。近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物だ。
 明治維新に勝った方の官軍というものは、尊皇を呼号しても、尊皇自体は政治ではない。薩長という各自の殻も背負ってるし、とにかく幕府を倒すために歩調を合せる程のことに政治力の限界があった。
 ところが負けた方の総大将の勝海舟は、幕府のなくなる方が日本全体の改良に役立つことに成算あって確信をもって負けた。否、戦争せずに負けることに努力した。
 幕府制度の欠点を知悉ちしつし、それに代るにより良き策に理論的にも実際的にも成算があって事をなした人は、勝った官軍の人々ではなく、負けた海舟ただ一人である。理を究めた確実さは彼だけにしかなかった。官軍の誰よりも段違いに幕府無き後の日本の生長に具体的な成算があった。
 負けた大将だから維新後の政治に登用されなかったが、明治新政府は活気はあったが、確実さというものがない。それは海舟という理を究めた確実な識見をれる能力のない新政府だから、当然な結果ではあった。
 維新後の三十年ぐらいと、今度の敗戦後の七年とは甚だ似ているようだ。敗戦後の日本は外国の占領下だから、明治維新とは違うと考えるのは当らない。
 前記明治二十年の海舟の建白書に、
「日本の政治は薩長両藩に握られ、両藩が政権を争ってるようなものでヘンポである」
 とあるが、つまり薩長も実質的には占領軍だった。薩長政府から独立しなければ、日本という独立国ではなかったのである。維新後は三十余年もダラダラと占領政策がつづいていたようなもので、ただ一人幕府を投げすてた海舟だけが三十年前から一貫して幕府もなければ薩長もなく、日本という一ツの国の政治だけを考えていた。
 つまり負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめたが、明治の旗本は全然復活しなかった。いち早くただの日本人になりきってしまった。海舟という偉大な総大将が復活の手蔓てづるを全然与えなかったのだ。明治新政府の政治力によるものではなかったのである。
 海舟は彼にすがる旗本たちの浅薄な輿論よろんに巻きこまれたりかつぎ上げられたりしなかった。彼には人に担ぎ上げられるような不安定さがミジンもない。彼の理を究めた確実な目に対しては、取巻き連も取りつく島がなかった。
 海舟の政治心得第一条は「高い運上(税金)は国を亡ぼす」ということだった。また「形式をはるな」ということだ。彼の目は実質的なもの、積極的なプラスでなければ取りあわないという点では精密な機械のようなものであった。ただ時代的な幼稚さに相応せざるを得ないから、そこに発した狂いはまま有るだけの話である。
 こういう偉大な傑作は歴史がなければ生れない。彼を生んだものは、時代もあるし、天分でもあるが、もう一ツ彼の場合には親父があった。本篇の主人公、勝夢酔むすいである。捧腹絶倒的な怪オヤジであるが、海舟に具わる天才と筋金はおおむね親父から貰ったものだ。
 少年時代のガキ大将は珍しくないが、このオヤジは一生涯ガキ大将であった。
 剣術使いだから、他流試合にでかけて腕自慢を叩きふせて家来にしたが、ヨタモノの親分とは違う。コブンにたよる根性がない。いつも一人で暴れていた。威勢を見せて大いに顔をうって嬉しがっていたが、それを渡世にしてお金をもうけているわけではなく、そのためにお金がかかって貧乏のしつづけだった。御家人ごけにんのお給金では家族も満足に養えないし、剣術の師匠もお金にならないから、彼のあみだした本業は主として刀剣のブローカーであった。夜店の道具市には必ずでかけて、せッせとメキキして、買ったり売ったりした。折にふれて病人のき物を落してやって謝礼を貰ったり、意趣返いしゅがえしのついでに二百両ほどくすねたりしていろいろのミイリを編みだしたが、遊んだり顔を売るのに金がかかるから、大いに稼ぐけれども、貧乏直しに百日間の水行みずぎょうなどをやらなければならなかった。
 河内山のようなユスリタカリにも工夫や発明は必要であるが、ユスリタカリは得てして月並なものである。
 ところが夢酔が悪所あくしょで顔をうって遊ぶために金モウケに精根かたむけて精進し、折にふれて編みだした工夫に富んだ発明というものは涙ぐましいほど独創的で計画的であったが、収支がつぐなわなかった。
 つまり月並な悪党が月並な方法で彼の何十百倍稼ぎうるのに、彼はイノチを張って精進練磨し、熟慮し、また霊感を得て、鬼神をも驚倒せしめる秘策を編みだしたけれども、その収穫は小悪党の月並な稼ぎにも及ばないのだ。つまり、彼は人生の詩人であった。
「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまりあるまいと思う故に孫やひこの為に話してきかせるが、よく不法もの馬鹿もののいましめにするがいいぜ」
 これは彼が自分の無頼ぶらいの一生を叙述して子孫のイマシメにするために残した「夢酔独言」という奇怪にして捧腹絶倒すべき自叙伝の書き出しの文章である。
 しかし彼は子孫が真人間になるようにといくらか考えたが、自分自身が真人間になることは考えなかった。まだ天罰がこないのはフシギだといぶかりつつ純粋に無頼の一生を終ったのだ。
「孫やヒコのイマシメのために」とあって、子供のイマシメ、と書いてないのは、子供の出来がよかったからである。つまり海舟やその妹が子供ながら出来がよくて、オヤジがイマシメを言うところは何もなかった。仕方がないから、まだ生れない孫やヒコを相手に、世にも異様な怪自叙伝をイマシメとして書き綴ったのである。序文の文句は次のように結ばれている。
「先にも言う通りおれはこれまでなんにも文字のむずかしいことはよめぬから、ここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし」
 引用の部分は読み易いが、本文は彼がふだん用いているベランメー口調のまま勝手な当て字で書いてるから、彼の保証通り難解をきわめ、よくよく考えても一通りでは分らない。しかし彼の一生は一見単純明快で、もっと難解をきわめている。子供に於て完成した詩が、オヤジに於ては未完成で、体をなしていないからである。

       ★

 彼は剣術使いのウチに生れたせいか、生れて歩けるようになると近所の子と秘術をつくしてケンカにはげみ近隣に名をとどろかしたが、正規の剣術の稽古はまだるッこくて身を入れなかった。
 十四の年に彼が思うには、男は何をしても一生食えるから、上方かみがたかけおちして一生そこで暮そう、と志を立てて家出した。かけおちとは単に家出という意味だ。モモヒキをはき七八両盗みだして出たが小田原でゴマノハイに金をすられ、宿屋の亭主にすすめられて手にヒシャクをもち乞食をしながら旅をすることになった。
 お伊勢参りを完了した直後に熱がでて松原に二十三日ほど寝倒れていたが近所の坊主が親切にしてくれ、様子を見に来てはカユなぞ恵んでくれた。ようやく動けるようになったから、坊主に礼を云って、杖にすがって一日に一里ぐらいずつ歩き、疲れると乞食の穴へ入れてもらって六七日休息したが、食べ物は自分で貰いにでる必要があるから村へ物乞いに行くと、番太郎の六尺棒にブン殴られて村の外へつまみだされるというように、乞食生活も病気になると楽ではない。とはいえ、時にはウチで奉公しろとか、ウチの子供になれ、とか言ってくる人もいたが、五六日いると窮屈で、長逗留ながとうりゅうはできなかった。また乞食になってはブラブラ歩くうちに崖から落ちてキンタマを打って気絶したのが元でキンタマが腫れてうみがしたたるようになり閉口して江戸のわが家へ戻ったが、キンタマがくずれて起居もできぬようになり、二年間外出できなかった。
 よくよくキンタマにたたられた親子で、海舟も九ツの年に病犬にキンタマをかまれた。狂犬病は治らんというから、これは狂犬ではなかったのかも知れん。しかし死の手前をさまよい七十日間床についた。外科の医者がふるえて海舟のキンタマを縫えないから、オヤジが刀を子供の枕元へ突ッ立てて大いに力んでキンタマを縫ってやったら海舟も泣かなかった。しかし命は今晩にも請け合わぬと医者が云うから、家の者は泣くばかりで何もできない。オヤジは大いに怒ってその日から毎日毎晩水を浴びて金比羅こんぴらサマへ裸参りをし、始終海舟を抱いてねて誰にも手をつけさせず、毎日毎日あばれたから(但し、あばれたのはオヤジ自身の方である。なぜ暴れたか意味不明)近所の者はあの剣術使いは子供が犬に食われてオヤジ気が違ったと云った。狂犬病の発狂状態をオヤジが引き受けたせいか、海舟は七十日ねて治ったのである。「夢酔独言」にいわく「それから今になんともないから病人は看病がかんじんだよ」
 十六の年から起きて出勤するようになった。彼は養家の勝姓を名乗ったが、実は生れた家で育っており、勝家の方が彼の生家にころがりこんでいたのだ。なぜなら、勝家はババアと小さな孫娘(それが彼の女房たるべき娘だが)だけで両親は死んでいたからである。だから勝家へ養子となってそこの娘と結婚した以外には、勝家から薫育されたものは一切なかったのである。
 彼がケンカの修業を本格的にやりだしたのは、これからである。つまり正規の剣術にも身を入れはじめた。
 兄の子供の新太郎に忠次郎といって彼にはおいに当る相棒がいたが、ある日忠次郎を相手に剣術を使ったら、出会い頭に胴をぶん殴られて目をまわしてしまった。そこで大いに発奮して、忠次郎から評判をきいて団野という先生に弟子入りした。
 また、新太郎と忠次郎のウチの用人の源兵衛が剣術使いで、これが夢酔に向ってケンカは好きかと訊くから大好きだと答えると、
「左様でこざいますか。あさっては蔵前くらまえの八幡の祭りでありますが一ケンカやりましょうから一しょにいらッしゃいまして一勝負なさいまし」(文字を書き変えた以外は原文のまま)
 こういう次第で、この源兵衛という用人が夢酔と新太郎と忠次郎をつれて八幡の祭礼へでかけてケンカの手ほどきをしてくれた。壮烈をきわめたケンカ指南しなんであった。
 相手を物色して祭礼の人ごみを歩いていると向うから利いた風な奴が二三人で鼻唄をうたってくるから、まず忠次郎がそいつの顔へツバをふっかけた。と、野郎が立腹して下駄でぶッてくるのを、夢酔がゲンコをかためて横ッ面をぶん殴り、あとの奴らがかかってくるのを盲めっぽう殴りつけて追いちらした。
 ブラブラしていると二十人ほどの奴がトビ口をもって四人をとりかこんだから、刀を抜いて斬り払っていると指南番が大声で、
「早く門外へ出るがいい。門をしめるとトリコになるぞ」
 と訓令する。そこで四人並んで斬りたてながら八幡様の門外へでた。するとまた新手あらての加勢が三十人ほど駈けつけて敵は五十人ほどになった。並木通りの入口のソバ屋かなんかの格子こうしを後にして一生けんめい叩き合って四五人に手傷を負わせると敵にややヒルミが見えたから、ここだ、と見こんでムヤミに斬りちらしてトビ口十本ぐらい叩き落した。
 すると、また新手の加勢がきた。新手はハシゴを持ってきた。四ツのハシゴを使って抜き身の暴漢をかこんで捕るのは捕手の術の一ツで熟練すると有利なものだそうである。そこで指南の源兵衛は、
「もはやかなわぬから、あなた方三人は吉原へ逃げなさい。あとは私が斬り払って帰りますから」
 と云う。
「お前一人は置けないから一しょに逃げることにしよう」
「いいえ、お前さん方にケガがあるといけないから是非はやくお逃げなさい。はやくはやく」
 と言う。そこで、夢酔は源兵衛に自分の刀を渡した。なぜなら源兵衛の刀は短いからだ。それから四人いきなり大勢の中へ斬りこんだら道があいたから一目散に逃げだして、雷門で三人落合うことができた。いったん吉原へ行ったが、源兵衛が気づかいだから、新太郎らのウチへ戻ってみると、さすがに指南番で、ちゃんと戻っていて、玄関でお酒をのんでいた。そこで四人は又々何食わぬ顔で八幡サマへ行って自身番できいたら、四人の侍と六十名のトビと小揚こあげの者の聯合軍との大ゲンカがあって十八人の手負いがでて、いま外科で縫っているという話であった。
 この時から源兵衛を師匠にしてケンカの稽古に身を入れた。また、ケンカの時源兵衛にかしてやった関の兼平かねひら鍔元つばもとから三寸上で折れていた。刀は侍の大切なものだから、こいつは気をつけなくちゃアいけないと気がついて、それ以来刀のメキキも稽古した。これが後日の役にたって、彼の生計を支える主たる収入になるのである。そのとき夢酔は十六であった。
 正規の剣術に身を入れてからは、同流の道場のみならず、他流の道場へむやみに試合にでかけた。夢酔の同流では車坂の井上伝兵衛が最も上格の先生らしいが、夢酔はその門人の重立ったのをみんな叩きふせて配下同然にしたそうだ。当時他流試合ははやらなくなっていたが、おれが中興だと夢酔は威張っている。神田お玉ヶ池の千葉周作は同時代の人だが、その名は彼の自叙伝中には一度も現れてこない。
 彼の兄が信州や越後水原すいばらなどの代官をやっていたので、兄について巡見に行って納米のうまいの割当をやったから、百姓についても知識を持ったし、その道中でも折あればケンカの腕をみがいて見聞をひろめた。
 二十一の年に江戸を食いつめて、また家出をした。事があったら斬死きりじにするつもりでいたから何も怖いことはなかったし、田舎へ戻って一家をなしている相弟子が大事にしてくれたから、その門人に稽古をつけてやったりして江戸へ帰る気がなかったのだが、兄貴の子で彼の相棒の一人たる新太郎が迎えにきたから、仕方なしに帰ることにした。
 帰ると親父によびつけられて、すでに用意されていた座敷牢へ入れられた。一ヶ月たたぬうちに二本の柱をぬけるようにしていつでも脱けだせる準備ができたが、考えてみるとみんなオレがわるいから起ったことだと発心して、二十一の秋から二十四の冬まで、まる三年あまり座敷牢の生活を我慢した。そのとき手習いをして、軍談本など読み、友だちも毎日きてくれるから牢屋の内と外で世間のことをきいて楽しんだ。
 海舟は夢酔二十二の年に生れたから、彼もオヤジの座敷牢生活の産物であるかも知れん。これがオヤジ一世一代の神妙な三年間で、その間に手習いしたり海舟をこしらえたりしたのであった。
 ところが、座敷牢はこの一度ではすまず、三十七というよい年になって、また座敷牢へ入れられようとした。そのとき長男海舟は十六、貧乏暮しの不平も云わずシシとして勉学に励みオヤジにはあつく孝行をつくし弟妹をいたわってよく面倒をみてやるという大そうな模範少年に育っていた。
 今回の夢酔はハイと云って座敷牢には入らない。
「私も昔とちがって今では人に知られた顔になっていますから、ここへ入ればもう出ません。断食して一日も早く死にます。私が長生きすると息子がこまるばかりだから、死んだ方がマシのようだ。生きていてはとても改心の見込みはありません。また改心いたそうなぞとは毛頭考え及びません」
 という返事で、どうしても断食して死ぬツモリらしいから、座敷牢へ入れられずに家へ帰された。すると夢酔はその足で吉原へ遊びに行った。
 十六の息子と位置を取りかえた方がいいぐらい三十七のオヤジは強情なダダッ子にすぎないようだが、息子の海舟にとっては、たのもしい力のこもったオヤジであったろう。
 人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた。トンチンカンのようで、実は一貫した軌道から全心的に編みだされている個性的な工夫から外れていることがない。社会的には風の中のゴミのようにフラフラしている存在だが、彼の個性にジカに接触した者には、誰よりもハッキリと大地をふみしめてゆるぎのない力のこもった彼の人生がわかるはずだ。
 そういうデタラメ千万な、全然行き当りバッタリだが、その個性と工夫にとんだお金モウケや処世の秘術のいくつかを御紹介いたしましょう。

       ★

 妙見様へ参詣さんけいの帰りに友達のところへよると、殿村南平とのむらなんぺいという男がきていた。その男が、
「おまえ様は天府てんぷの神を御信心と見えますが、左様でござりますか」
 ときくから、そうだ、と答えると、
「左様でござります。御人相の天帝にあらわれております」
 面白いことを云う奴だと思っていると、友達の親類の病人の話になった。すると、
「それは死霊がたたっております」
 と云って、その死霊はこれこれの男でしかじかの死に方をした人だと見ていたようにその死にざまをツブサにのべるから、友達に向って本当かときくと、その通りだと云う。
 そこで夢酔は大きに怖れて、
「オレがお前の弟子になるが法を教えるか」
「よろしゅうござります。ずいぶん法を教えて差上げましょう」
 と南平が承知したから、自分のウチへつれて帰って、伝授をうけ、まず稲荷いなりを拝む法から始めて、加持かじの法、摩利支天まりしてん鑑通かんつうの法など、その他いろいろ二カ月に残らず教えてもらった。
 そのお礼に着たきりすずめの南平に四五十両の入費をかけて祈祷所をもたせ、たくさん弟子を世話してやった。
 ある日、神田の仕立屋でカゲとみの箱をしている奴がきた。ちょうど今日は富の日だというので、それから大勢の人を集めて寄加持よりかじをすることになった。
 南平がミコをよんでヘイソクを持たせておいて、ゴマをたいて祈って神イサメをすると、ミコが口走りはじめて、
「今日は六の大目、富は何番何番がよろし」
 と云う。一同はこれをきいて大いに嬉しがっている。それをジッと見ていた夢酔が、ちょッと待て、と進みでて、
「はじめて寄加持を見て恐れ入った。しかし、これはずいぶん出来ることだろう」
 すると南平がまだ答えないのに、仕立屋が口をだして、
「寄加持には特別の法があるから、勝さまが威張ってもダメでござんす」
「良くつもッてみろ。どこの馬の骨だか分らない南平にできることだから、あれと同じことを旗本のオレが一心不乱にやれば神が乗りうつらぬはずはない。南平の言葉もきかずに、オヌシが出すぎたことを云うな」
「それはあなた様が御無理だ。神様の法というものは旗本だからどうという物ではありますまい」
「よろしい。論は無益だから、オヌシもここへでてこい」
 と夢酔は部屋のマンナカへ出て、
「オヌシはオレの前へでてタタミに額をつけて礼をしてみろ。オレが許すと云わぬうちにオヌシの額がタタミから上ることができたらオレはオヌシの飯タキになろう」
 その見幕が大変だから人々が間へはいって取りなした。仕立屋の件はそれでおさまったが、
「お前がそれほど出来ると思うなら、ただちに寄加持をやってみろ」
 と大勢の者が云う。
「よろしい。やってみせるから、見ていろ」
 夢酔はまず裸になって水を浴びてきた。それからミコをよんで、南平がした通りの仕方で祈ったら、ミコがいろいろのことを口走りはじめた。
「どんなものだ。ザマア見ろ」
 と夢酔は散々高慢を云って帰った。
 大勢の者はこれに驚いて、それ以来、南平にたのむと金がかかるから、夢酔にたのんで加持をしてもらうようになった。
 徳山という友だちの妹が病気で南平に加持をたのんだら生霊いきりょうがついてる。生霊を落すには五両かかると言う。あんまり高く吹ッかけるから夢酔に話をすると、
「よろし。オレがタダで落してやる」
 三晩かかりきって、とうとう生霊を落してやった。そういうことが重って南平は夢酔を恨み二人は仲がわるくなったが、夢酔はカゲ富に寄加持の手を用い、五両、十両、二十両というようにそれから何度ももうけた。南平につぎこんだ伝授料は元をとり返してオツリが来たのである。

       ★

 夢酔が地所を借りていたのは岡野という千五百石の旗本であった。
 千五百石といえば相当の大身だが、代々の放蕩つづきで貧乏で有名なウチだった。当主はまだ若いが、名題なだいの貧乏で嫁をくれる者がなかったのを、夢酔が世話をしてやって知行所へ談じて出ない金をださせて格式以上の婚礼をさせてやったのである。
 ところが結婚後追々と酒をはじめ、酒の相手の町人どもが奥へ入りびたるようになり、親類の者が当主をだまして遊ぶ金をかりる。毎晩が酒宴つづきで、せっかく夢酔が知行所へかけあって工面してやった金も婚礼用に買った品々もみんななくなってしまった。
 そこで当主にたかっていた仙之助という親類の一人が、大川丈助という小金持を連れてきて用人にスイセンした。仙之助は大川丈助から五両の鼻グスリをもらってスイセンしたのである。
 知行所の者どもがこの用人かかれに反対で、夢酔に止めさせてくれと頼んだから夢酔がかけあってやると、たった五両の鼻グスリに目がくらんで、地主にいらざることを云う奴は地所を立ち退けと言う。勝手にしやがれ、と夢酔は仕方なく見て見ぬフリをしていた。
 鼻グスリをきかせて貧乏旗本の用人を志願するぐらいだから、丈助には考えがあったのである。用人に抱えられると、主人から金を貸してくれと云われるままにハイハイと立て替えてやる。相当立て替えさせたからこのへんで丈助をクビにしようと追い出しにかかったところが、もとより丈助の方が役者が数枚上なのである。
「ただ今までのお立替えが利をつもってこれだけになっております」
 勘定書を差出した。それが合計三百三十九両である。
 このベラボーな、しかし明細な計算書をいったん主人に渡しておいて、主人が酒に酔った晩を見すまして盗み返して焼きすてた。
 こうしておいて丈助は老中太田備後守びんごのかみにカゴ訴をしたから事メンドウになった。丈助は用人志願の時から考えていた企らみでこの仕事に命を張っている。穏便に払えばよし、払わなければ、旗本千五百石の岡野家もつぶれるが、丈助の命もない。
 老中も事穏便にと心掛けてやったが、知行所からしぼるだけしぼり、借りるだけ借りつくしたあとで一両の金も出させることができない。
 すると、丈助の女房が代ってカゴ訴をやり、次にまた丈助がカゴ訴をやり、女房もまたカゴ訴をやった。
 ギリギリのところへ来てしまったが、岡野は全く金策がつかず、丈助夫婦の命と一しょに家名断絶の瀬戸際となった。
 ちょうどせがれ海舟の柔術の相弟子で名題の剣士の島田虎之助が夢酔のところへ遊びに来ている時であった。
 丈助が外出しようとしたのを見張りの町役人が止めたことから刀をぬく騒ぎとなり、応援にでた丈助の女房に縄をかけたから、侍の女房に縄をかけたというので、丈助がたけりたって大騒ぎとなった。
 そこで岡野の親類の者がたくさん揃って夢酔のもとへやってきて、どうか一ツ口をきいていただけませんかとたのんだ。すると夢酔が答えて、
「お前様のゴタゴタはかねて知らないではありませんが、丈助をお抱えになるとき、それはいけません。よくないことが起りますと申上げたところ、よけいなことを云う奴は立退けと仰有おっしゃるから、それからは見て見ぬフリ、いまさら口をきいてあげるワケには参りません」
「そのことは幾重にもお詫び致すから、どうぞ御尽力ねがいたい」
「あの丈助はこの仕事に命をはっていますから、私には大敵で、とてもこの掛合いはできません」
 島田虎之助が中にはいって、
「先生は今までいろいろ人を助けておやりだから、この一件もぜひ尽力してあげていただきたい」
 と頼んだから、
「よろしい。それでは引受けてやりましょう。丈助と掛合ってきっと話をつけてあげるが、その代り、万事私の一存にまかせるという一札を入れなさい」
 一札をとっておいて、
「さて丈助と話をつけるには二ツあるが、金を残らず払って事を済ましましょうか、または一文もやらずに、話をつけましょうか。あなた様方のお望み次第に致します」
 こう大きく出られると親類一同薄気味わるくなって、相談のあげく、
「無事勘定をすまして事穏便にすませるに越したことはありません」
「無用な金をやるにも及ばないと思いますが、ではそう致しましょう」
「一文も金をやらずに済む方法がありますか」
「その方法はお話し致すわけに参りません。それをきいて、目をお廻しになるといけませんから」
 岡野の知行所は武蔵と大阪在にあった。まず武蔵の知行所の庄屋をよんで、夢酔名儀の[#「夢酔名儀の」はママ]借用として大阪行きの旅費四十両、岡野の家には食べる米もなくなってるから、その年の暮までの食べ料をだすように段々と理解を申渡して、ようやく承知させた。
 それから丈助をよんで十五両の手金だけ渡し、大阪の知行所に金を調達させてくるから十二月まで待つように誓約書を交した。
 そこで夢酔は岡野の家来等お供を四人つれて大阪在の岡野の知行所へついた。
 代官の家へ逗留して村の者をよびよせて金策を申渡したが、ここは五百石高の知行所であるのに、すでに用立てた金は七百両もあり、この上は一文といえども出来ません、という返事である。ムリを承知で来た夢酔だから、あせらない。
 夢酔はわざとノンビリ代官所に逗留し、村をブラブラ歩いたり、夜は代官の子供に軍談などを語りきかせて喜ばせてやる。
 ところが江戸から連れていった猪山勇八いのやまゆうはちというのが事をあせって内々村方へ借金の強談判こわだんぱんに行ったから、村中が評議したのち竹槍を手に手に宿舎をとりまいて雑言ぞうごんをあびせる。その後も時々寺の鐘を合図に、集合しては押し寄せてくる。供の者はふるえ上って江戸へ帰ると言いだした。
 夢酔はそれを叱りとばして、一同が押寄せるたびに紋服をきて百姓どもの列の中を一廻りしてくる。一しょに連れてきた侍の横田というのに命じて毎日の午前中は四書の講義をさせる。午後は伊丹いたみの小山湯というのに入浴に行く。
 大阪の町奉行の用人を知っていたから、それを訪ねて帰ると、大阪の奉行所から追っかけ使者がきて酒肴しゅこうを届けて行った。その肴を村の者に配給してやったから、奉行所の肴だというので、いただいて食ったという。
 もう大丈夫とにらんで、能勢のせの妙見さまへ参詣するから、村の者数名にお供を命じると云って、鐘をついて竹槍さげて押寄せた大将分らしい奴だけ選んでお供を命じた。
 当日に至って一同が集ったから、夢酔は紋服で現れ、代官に命じて、
「一同の雨具を用意いたせ」
「いえ、この節は日和ひよりがよろしゅうございますから、五六日は雨は降りませぬ」
「オレが妙見さまに祈ると必ず雨が降ることになってるから、是非とも用意しなさい」
 シブシブ雨具をもってきた。池田で休んだときに、
「コレコレ。カゴにかける雨具がないから取ってきなさい」
 またメンドウなことを云って、シブシブ持って来させた。
 能勢の山へのぼり茶屋でカゴから降り、ここより二十五丁の山径を歩いて頂上へ登る。それから裸になって水行をとって妙見さまへ静々と参拝する。御紋服をきているから、他の参拝人は逃げだしてしまった、門の外の茶店でゆっくり休息する。
 なかなか雨雲が現れないな。しかし、どうやら現れた。現れなかったら、彼はどうするつもりだったろう。その時はその時の何かの策はあったろうが、とにかく、こういうところは賭というものだ。賭がはずれれば、おのずから天来の打開策にたよるだけだし、すべてこれらの成行きは、偶然のサイコロがどう出ようと、実は彼の腹の底にできている覚悟が支配するものであろう。
 六甲山から雨雲が現れてきたから、夢酔は合羽持かっぱもちに向って、
「お前は仕合せ者だな。今に雨が降るから、荷が軽くなるぞ」
「いいえ、たとえ雲がでても雨にはなりません」
 百姓一同が異口同音に云う。夢酔はトンチャクなく、
「下のハタゴへ着くまではこの雨を降らせたくないものだな。それ、みなのもの急げ」
 と、渋る奴どもムリに急がせる。二十五丁の降り道を急いで、あと三丁という時に本当に大雨が降ってきてドシャ降りになった。
 夢酔一行は代官所へ戻ってきた。
「雨の御利益で金を出しそうになったかどうか見てこい」
 それとなく人を派して村方の様子を探ると、百姓どもがビックリして帰った当日はどうやら出しそうになったが、その翌日の形勢ではもう半々になり、日がたてばすぐゼロになるのが分った。
 夢酔は翌日お供をつれて大阪見物に行き、ゆっくり女郎屋へ滞在などして帰ってきた。それから、村の者をよんで用立金の返答をきいたが、
「いろいろ骨を折っていますが、とてもできません」
 と云う。
 翌朝、代官をよんで、
「今日はオレのよろこびがあって村方一同に酒を振舞うから、酒肴の用意をしておけ」
 と入費を渡した。それから伊丹へ行き、白子屋という呉服屋で、諸麻もろあさの上下三具と白ムクなど買ってきた。
 百姓どもが集ったから、上下なく打ちとけて酒をのませ、夢酔が真ッ先に吉原で覚えたハヤリ唄をうたってきかせるから、百姓どもは飲めや歌えや大いに酔いがまわった。湯づけを食べさせて宴を終り、一同を次の間に控えさせて、座敷に法の通りの切腹の仕度をととのえさせ、彼は庭へ降りて手桶ておけの水を三杯あびて白ムクに着かえ、その上に平時の服装をつけた。さて一同を着座せしめて、
「長らく滞在にもかかわらず下知げちおもむきききいれざる段は不届きである。金談は断るから、左様心得ろ」
「ハイ。ありがたくお受けいたします」
「しかしながら鐘をうちならし竹槍とって押寄せた段かみを恐れざるフルマイ、大阪奉行に命じてきッと詮議致すから左様心得ろ」
 こう云うと百姓どもは涙を流して詑びを述べるから、これも聞き許してやる。
「しからば最後に申しきかせてつかわすことがある。その方らがこれまでに地頭の用立て金があまたあって迷惑の段はその理なきにしもあらんが、地頭家の家名に及ぶという際にこれを見捨てるとは思いがけざる仕儀である。オレの顔で千両二千両用立てるのはワケはないが、知行所の[#「知行所の」は底本では「地行所の」]用立金で急場を救ってもらいたいという岡野の頼みによって、オレが引受けて用立金を下命に参った。約束して参った用向がかなわぬから、オレはここで切腹いたす。勇八らは帰国致して妻子へこの一条を話し、これをカタミに致すように」
 と上に着ていた平服をぬいで手渡す。下から白ムク姿が現れた。するとお供の者がかねて江戸を出発する時から用意してきた首桶くびおけを静々と持って現れる。夢酔が差料さしりょうをとって、
「これにてカイシャク致せ」
 と渡す。それを受け取った喜三郎がサヤを払うと、百姓どもは、
「ゴメン、ゴメン」
 と云ってフトンのまわりへ集って、
「先だってより仰せの儀は家財を売り払っても調達いたします」
 と言いだした。そこでカイシャクの喜三郎が涙ながらに刀をサヤにおさめると共に、それでは仰せの儀承知の旨一札だすように、とその場で連名の一札をとった。
 こうして五百五十両の用金を差しださせ、江戸へ帰って丈助の三百三十九両を払ってやり、あとは岡野の費用に当てさせ、夢酔は旅費をださせただけで、一文も取らなかった。
 もっとも幕府へ無断で大阪へ行ったのが知れて禁足を命じられたから、禁足中ちょうだいできない月給分月に一両二分四人扶持ずつ岡野に出させた。
 世間の人が百両ぐらいお礼をとれと云ったが、彼はどういうわけだか一文も取らなかった。岡野はお礼に木綿もめん一反持ってきた。
 彼のお金モウケその他の着想は万事かくの如く個性的で工夫に富んでいた。しかし収支つぐのわなかった。ただ彼自身は我がまま一パイに自分の人生をたのしんだ。風の中のゴミのような人生に生命の火を全的にうちこんでいたのである。
 息子の海舟はもッと立派なことに生命の火を打ちこんだだけの相違であった。





底本:「坂口安吾全集17」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「安吾史譚」春歩堂
   1955(昭和30)年7月
初出:「オール読物 第七巻第五号」
   1952(昭和27)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「用立て金」と「用立金」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「安吾史譚(その五)」です。
入力:辻賢晃
校正:川山隆
2014年12月27日作成
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