次郎物語

第四部

下村湖人




一 血書


「次郎さん、いらっしゃる?」
 階段のすぐ下から、道江の声がした。
 次郎はちょっとその方をふりむいたが、すぐまた机に頬杖をついて、じっと何か考えこんでいる。いつもなら学校からかえるとすぐ、鶏舎か畑に出て、夕飯時まではせっせと手伝いをする習慣であり、それがまた彼のこのごろの一つの楽しみにもなっているのであるが、今日はどうしたわけか、誰にも帰ったというあいさつもしないで、二階にあがったきり、机によりかかっているのである。
 次郎はもう中学の五年である。
 階段からは、やがて足音がきこえて来た。次郎は机の一点に眼をすえたまま動かない。しかし、べつに足音をじゃまにしているようにも見えない。六月末の風が、あけはなした窓をしずかに吹きとおしている。
「あら、いらっしゃるくせに、返事もなさらないのね。」
 道江はややはしゃぎかげんにそう言って、机のまえに坐った。白いセーラーの校服がすこし汗ばんでいる。右乳からすこしさがったところに、校章のバッジをつけた紅いリボンがさがっており、そのすぐ下に年級を示す4の字が小さく金色に光っていたが、次郎はそれに眼をうつしたきり、やはり默っている。
「どうかなすったの?」
「返事をしないのに、かってにあがって来るやつがあるか。」
 次郎はおこったように言った。が、すぐ、道江の眼を見ながら、
「何か用?」
「ええ、こないだ貸していただいた詩集に、意味のわからないのがたくさんあったの。」
 道江はそう言って、手提から一冊の小型な美しい本をとり出した。
 次郎は、しかし、もうその時にはそとを見ていた。そして、しばらく遠くに眼をすえていたが、
「僕、きょうはそれどころではないんだよ。」
 と、急に熱のこもった調子になり、
「大変なんだから、僕たちの学校が。」
「大変って? ……何かあったの?」
 と、道江も本を握ったまま、眼を光らした。
「朝倉先生が学校をやめられるんだよ。」
「朝倉先生? あのいつもおっしゃる白鳥会の先生でしょう。」
「そうだよ。」
「どうしておやめになるの?」
「それが僕たちにはわけがわからないんだ。」
 次郎は、きょう学校で、生徒たちの間に噂されていたことのあらましを話した。それによると、つい一週間ほどまえ、朝倉先生は校長といっしょに県庁に呼び出され、知事から直接の取調べをうけたが、すぐその場で辞職を勧告された。理由は、先生がどこかの講演会にのぞみ、講演のあとで少数の人たちの座談会をやったが、その席上で、最近の大事件として世間をさわがした五・一五事件――犬養首相の暗殺事件が話題にのぼり、それについて先生が率直に自分の所信をのべたのが一部の軍人を刺戟し、憲兵隊までが問題にし出したことにあるらしいというのである。なお校長がいっしょに県庁に呼び出されたことについても、いろいろと噂がとんでいたが、現在の花山校長は、人望のあった大垣校長がこの学年の変り目に新設のある高等学校長に栄転したあとをうけて赴任して来た人で、容貌も、性質も、大垣校長とは比較にならないほど弱いところがあり、おまけに女のように疑い深くて、朝倉先生に対する生徒間の人望をいつも気にしていたので、何かその間に小細工があったにちがいないというのが、ほとんど全部の生徒の抱いている感想である。次郎自身も、むろんそれを確信しているらしく、道江に話す口ぶりの中に、よくそれがあらわれていた。
「でも、朝倉先生は、まだ学校に出ていらっしゃるでしょう。」
「昨日までは出ていられたが、今日は見えなかったようだ。」
「昨日まで出ていらしったのなら、ほんとうかどうか、まだわからないわね。」
「しかし、県庁の学務課に出ている人の子供がそう言っているんだから、みんなほんとうだと思っているんだ。」
「先生にじきじきお尋ねしてみたら、どうかしら。」
「そんなことしたって、先生はほんとのことを言やせんよ。つまらん先生なら、すぐ言うんだが。」
 道江は、女学校の先生たちの中に、たずねもされないのに学校における自分の立場などを話し、それとなく生徒の同情を買おうとするような先生が何人もいるのを思い出して、ちょっと苦笑した。そしてしばらく何か考えていたが、
「女学校では、先生のことだと、まるで根も葉もない噂が立つことがあるのよ。」
「そうかね、しかし朝倉先生のことはどうもほんとらしい。こないだ白鳥会の時にも、五・一五事件のことを話し出して、ひどくこのごろの若い軍人たちの考え方をけなしていられたんだから。」
「そんなにひどくけなしていらしって?」
「いつもの先生とはまるで人がちがっているような烈しさだったんだ。将来日本を亡ぼすものは恐らく彼らだろう、といった調子でね。」
 道江は眼を見張った。そして急に何かにおびえたように肩をすぼめながら、
「そんなこと言ってもいいのか知ら。」
 次郎は、いいとも悪いとも答えなかった。しかし彼の不満そうな眼が、あきらかに道江のそんな質問をけなしていた。彼はひとりごとのように、すぐ言った。
「朝倉先生だけだよ、今の時勢にそんなことが堂々と言えるのは。」
 道江は心配そうに次郎の顔を見つめていたが、
「もし、おやめになるのがほんとうだったら、どうなさる。」
「むろん、留任運動さ。朝倉先生がやめられたら、学校はもうまるで駄目なんだからね。きっとみんなも賛成するよ。いや、賛成させて見せるよ。僕、きょう、学校でそんな噂をきいたときから、そのつもりでいるんだ。」
「でも、そんなことなすったら、次郎さんたちも大変なことになるんじゃない?」
「どうして?」
「だって、先生のおやめになる理由がそんなだと……」
 次郎はきっと口を結んだきり、答えなかった。道江は、それでなお心配そうな顔をして、
「留任運動って、どんなことをなさる?」
「僕、さっきから、それを考えているんだよ。」
「まさか、ストライキなんかなさるんじゃないでしょうね。」
「誰がそんなばかなまねをするもんか。そんなことしたら、かえって朝倉先生に恥をかかせるようなもんだ。」
「でも、やり出したら、どんなことになるかわからないわ。」
 次郎は腕組をしてだまりこんだ。彼はさっきから苦慮していたのも実はそのことだったのである。彼は、留任運励そのものが、すでに朝倉先生の気持にそわないということを、よく知っていた。しかし、朝倉先生を失ったあとの学校のうつろさを考えると、じっとしては居れない。何が何でも留任は実現させなければならない。それが実現しないくらいなら、自分も学校をよしてしまった方がいい、というふうにさえ考えているのである。だから、運動をよす気には絶対になれない。たとい朝倉先生に叱られても、それだけは仕方がない、しかし、やり出せばストライキになる心配はたしかにある。第一、今度の校長があの通りだし、古くからの先生たちに対する生徒間の不満もずいぶんつもっているのだから、生徒の中には、騒ぐのにいい機会が見つかったと思って、喜ぶものがあるかも知れない。そんなことで、もし実際にストライキになってしまったとしたらどうだろう。ストライキ、とりわけ学校ストライキは、何といっても学校に対する脅迫きょうはくであり、一種の暴力である。事件の大小はべつとして、それはちょうど朝倉先生が極力非難した軍人たちの過ちを、そのままくりかえすことになるのではないか。暴力を非難したために迫害されている朝倉先生を暴力で護ろうとする。それは何という矛盾だ。何という不合理だ。そしてまた何という無意味さだ。それが朝倉先生を公衆の中ではずかしめることにならないと誰が言い得るのか。――次郎はそんなふうに考えて、いろいろ思いなやんでいたのである。
「白鳥会の人たちだけでおやりなっても、だめか知ら。」
 道江は、次郎が默りこんでいるのを同情するように見ながら、言った。
「そりゃあ、僕も考えてみたさ。しかし、こんなことは、やはり小人数ではだめだよ。少なくも五年級ぐらい団結しなきゃあ。それに白鳥会だけだと、何だか白鳥会のためにやっているようで変だよ。第一、それでは、ほかの連中が承知しないだろう、かえってそっぽをむいて笑うかも知れんね。」
「でも、それで次郎さんのお気持だけは通るんじゃないの。」
「なあんだ。」
 と、次郎は、あきれたようにしばらく道江の顔を見ていたが、
「女って、そんなものかね。」
 と、なげるように言って、ごろりと畳の上にねころんでしまった。
 次郎は、道江に対して、時おりこんなふうに失望を感ずることがある。彼は、叔父の大巻徹太郎の結婚式のおり、花嫁方の席にならんでいた道江をはじめて見た時から、何となく心をひかれ、その後大巻を中にして親戚づきあいが深まるにつれ、次第に彼女との親しみをまし、今では、淡いながらも、それが心地よい一種の匂いとなって彼の血管を流れているのであるが、彼女と何かまじめな問題について話しあったりしていると、彼は時おりそうした失望を感じ、淡い匂いが血管からすっと消えて行くような気になるのである。もっとも、そうした失望も、さほど深刻には彼の心にひびかないらしく、淡い匂いが、まもなくまた彼の血管にただよいはじめる。それは、恐らく、聰明そうめいではあるが普通の女の常識の限界を一歩ものりこえない、ただすなおで、親切で、物わかりのいい道江の性質が次郎にもよくわかっていて、自然、彼女に求むるところが最初からそう大きくなかったからでもあろう。また道江が気だてもよく、年頃もちょうど兄の恭一にふさわしいというので、祖母をはじめ、俊亮や、お芳や、大巻の人たちの間に、よりよりその話があるのをきいており、彼自身でも、何かのひょうしに、将来の兄嫁に今のようなぞんざいな口のききかたをしてもいいのか知らん、などと考えたりするほど、それを決定的なことのように思っているせいもあるだろう。とにかく、彼が道江に対してしばしば失望を感ずるのも事実だし、また、そのために少しでも彼女をうとんずる気になれないというのも事実である。そして、彼自身でそれを少しも変だと思わないところに、彼のひそかな恋情がひそんでおり、彼の将来の運命に何かの影をなげる因子いんしが芽を出しかけているともいえるであろう。
「次郎さん、おこったの。」
 道江はねころんでいる次郎の横顔を見て、たずねた。
「おこってやしないさ。しかし、道江さんは考えかたが浅薄すぎるよ。人間はもっと真剣でなくっちゃあ。」
 次郎は、そう言ってもう半ばからだを起していた。
「すまなかったわ。でも、あたし、何だか心配なの。次郎さんにはどこか烈しいところがあるんですもの。」
 次郎は苦笑した。子供のころのことや、中学に入学したてに、五年生を相手に戦ったことが、心によみがえって来たのである。同時に、彼は、大垣前校長が口ぐせのように言っていた「大慈悲」という言葉を思いおこし、それを今度の朝倉先生の問題の場合にあてはめたら、自分たちはどういう態度に出るべきであろうか、と考えてみた。しかし、いくら考えてみても、その二つが彼の心の中でしっくり結びついて来なかった。ただ、朝倉先生の留任は「大慈悲」の精神にかなうが、万一にもそのための運動がストライキにまで発展したら、どんな立場から見ても、それにかなわないということだけが、はっきりしたのである。
 道江は、次郎が考えこんでいるのを、自分の言葉のききめだとでも思ったのか、
「やっぱり、どうしても留任運動はおはじめになるの?」
「そりゃあ、はじめるさ。方法はもっと考えるが、このままほってはおけんよ。」
 道江の予期に反して、次郎の答えは断乎だんことしていた。しかし、彼はすぐ何かにはっとしたように、かたく唇をむすび、じっと道江の顔を見つめた。その眼は、これまで道江が一度も見たことのない、つめたい、しかし烈しい光をたたえた眼だった。
「道江さん――」
 と、次郎は、しばらくして口をひらき、
「僕は、こんな話を道江さんにするんではなかったんだ。僕はまだやっぱりだめなんかな。」
「どうして?」
 道江の顔も、いくぶん青ざめている。
「かりに道江さんが、きょうの話を誰かにしゃべったとしたらどうなる?」
 道江はけげんそうな顔をして、返事をしない。
「かりに僕の父さんにしゃべったとしたら、……いや、僕の父さんならわかってくれるかも知れない。しかしこれが普通の父兄だと、きっと僕のじゃまをするんだ。」
「そうか知ら。」
「そうか知らって、道江さんだって、さっき、朝倉先生の辞職の理由を問題にしていたんじゃないか。そんな理由で辞職する先生の留任運動をじっと見ていてくれる父兄は、今のような時勢にはめったにないよ。それに、どうかするとそれがストライキになる心配もあるんだからね。」
 道江はやっとうなずいた。うなずいたのが、次郎の気持に同感したせいなのか、それとも一般父兄のそれに同感したせいなのかは、道江自身にもはっきりしなかった。
「だから――」
 と、次郎は、もう一度道江の眼を射るように見つめて、
「僕は道江さんに、きょうの話は絶対に誰にもしゃべらないということを約束してもらいたいんだ。」
 道江は眼をふせて、かすかにうなずいた。次郎は、しかし、まだ不安だった。少しの冒険性もない彼女の常識的な聰明さが、きょうほど彼にもどかしく感じられたことはなかったのである。
「いいかね。」
 と、彼はつよく念をおした。そしてまるで脅迫するように、
「もし約束を守らなかったら、承知しないよ。」
 道江が、次郎の口から、これほどきびしい、温か味のない言葉をきいたことは、これまでにかつてないことだった。彼女は少し涙ぐんだような眼をしていたが、それでも、だまって、もう一度うなずいた。
 それっきりふたりが口をきかないでいると、急にそうぞうしい足音がして、俊三が階段を上ってきた。彼も、もう四年生である。今日は、午後武道の時間だったらしく、垢じみた柔道着をいいかげんにまるめて手にぶらさげていたが、道江にはあいさつもしないで、それを自分の机の近くにほうりなげると、すぐ次郎に言った。
「きいた? 朝倉先生のこと?」
「うむ、――きいたよ。」
 次郎は、あまり気のりのしないらしい返事をした。
「きいていて、すぐ帰って来ちまったの?」
 まるで詰問でもするような調子である。次郎にくらべてやや面長な、いくぶん青味をおびた顔に、才気がほとばしっており、末っ子らしいやんちゃな気分が、その態度や言葉つきにしみでている。
 次郎は答えない。
「みんなで君をさがしていたよ。」
 俊三は、いつの間にか次郎を君と呼ぶようになっていたのである。
「僕を?」
「そうさ。でも、見つからないので五年の連中が四五人でうちにやって来ると言っていたんだ。」
「そうか。」
「もうじき来るだろう。来たら道江さんはいない方がいいね。」
 それは決して俊三の皮肉ではなかった。次郎は、しかし、少し顔をあからめて道江を見た。さっきからのこともあり、二重の意味でうろたえたのである。
 道江はすぐ立ちあがったが、しかし、もうその時には、階段の下には生徒たちのさわがしい声がきこえていた。階段は土間からすぐ上るようになっており、次郎や俊三の親しい友達は、時には案内も乞わないで上って来ることがあるのである。
 次郎は、道江より先にいそいで階段の上まで行き、彼らをむかえた。そのため道江はどこにも落ちつくところがなくなり、次郎のうしろにかくれるようにして、彼らがあがって来るのをまっていた。
「どうしたい。きょうはばかにいそいで帰ってしまったじゃないか。」
 そう言って最初にあがって来たのは、新賀だった。新智は次郎といっしょに彼らの年級では最初に白鳥会に入会した、とくべつ親しい友人で、よくたずねても来ていたので、道江ともいつの間にか顔見知りになっていた。
 道江はいくらかほっとしたように、彼に目礼した。
 新賀をむかえると、次郎はすぐ彼の先に立って自分の机のそばに坐った。そのため道江は、つづいて上って来る生徒たちを、階段のうえに立ってひとりでむかえるようなかっこうになってしまったのである。彼女は視線を畳におとして立っていた。新賀のほかに四人ほどいたが、彼らがつぎつぎに上って来て、自分のそばを通るのが何となく息ぐるしかった。しかし、何よりも彼女をおどろかしたのは、その最後のひとりが階段をのぼりきらないうちに、
「やあ、道江さんじゃありませんか。」
 と、いかにも親しげに声をかけたことであった。
 道江はぎくっとしたように顔をあげてその方を見たが、その瞬間、それまでいくらかほてっていた彼女の顔から、さっと血の気があせた。そして、いつもなら平凡なほど温和なその眼が、異様な光をおびて、まともに相手の顔を見つめ、きっと結んだ唇は、石のようなつめたさでふるえていた。驚きと、羞恥と、怒りと、侮蔑ぶべつとをいっしょにしたような表情である。
 相手は、階段をのぼりきると、そのまま道江の真正面に立って、変な微笑をもらした。殿様顔といってもいいほど目鼻立ちはととのっているが、口元にしまりがなく、何とはなしに下品に見える。涼しい風に吹かれているかのように、眼をほそめてまたたかせているのが、いかにもわざとらしく、それが口もとの下品さに輪をかけている。
 道江は、彼から視線をそらして、すぐ階段をおりようとした。すると、彼はそれをさえぎるように言った。
「道江さんがこんなところに来ているなんて、夢にも思っていませんでしたよ。ここにはしょっちゅう来ますか。」
 道江は、しかし、ふり向きもしないで階段をおりて行ってしまった。
「おい、馬田! さっさと坐れ。」
 新賀がどなるように言った。馬田と呼ばれた生徒は、まだ階段の上につっ立って、道江のあとを眼で追っていたが、
「うむ。」
 と、なま返事をして、べつにはずかしそうな顔もせず、ゆっくりと歩いて来て、一座の中に加わった。そして、次郎の顔を見てにやにや笑いながら、
「親類かい、君んとこの?」
「親類だよ。」
 次郎の答えはぶっきらぼうだった。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか。」
 新賀が、またどなるように馬田をねめつけて言った。
「そうだ、ぐずぐすしていると、手おくれになるかも知れんぞ。朝倉先生はもう辞表を出されたそうだから。」
 そう言ったのは、一年のころから、色の黒い美少年だという評判のあった梅本だった。すべてにひきしまった、しかしどこかに温かい感じのする顔が、馬田のだらしない顔といい対照をなしている。彼も白鳥会の一員になっているのである。
 あとの二人は何か考えこんだように默りこんで坐っていた。ひとりは平尾、もうひとりは大山といった。平尾は出っ歯で、近眼で、みんなの中で一ばん不景気な顔をしているが、おそろしく記憶力のいい勉強家で、三年の頃からめきめきと成績をあげ、四年以来一度も首席を人にゆずったことがないというので有名になっている。大山は、その反対に三年の頃まではたいてい首席だったが、それから次第に少しずつさがって、今ではやっと優等の尻にぶらさがっている程度の成績である。おっとりしたのんき者で、まんまるな顔がいつも笑っているように見えるせいか、「満月」という綽名あだなをつけられており、同級生からばかりでなく、下級生からも非常に親しまれている。馬田とこの二人とは白鳥会には関係がない。
 校友会関係でいうと、六人ともそれぞれに何かの委員をやっており、平尾が総務、次郎が文芸、梅本が弁論、新賀が柔道、大山が弓道、馬田が卓球となっている。むろん、このほかにも、剣道、野球、庭球、登山、陸上競技、水泳、図書などの部があり、委員の数も各部二名乃至三名ずつで、校友会の問題ばかりでなく、学校に何か問題があると、それら五十名近くの委員が全部集まって相談することになっているが、今日は新賀と梅本とが中心になり、とりあえず、学校にまだ残っていた委員だけを集めてやって来たわけなのである。学校からかなり遠い次郎の家をわざわざたずねて来たのは、秘密の相談所としてそこが適しているという理由もあったが、主なる理由は、いやしくも朝倉先生の問題に関するかぎり、最初から次郎を除外するわけにはいかない、という新賀のはらがあったからである。
「俊ちゃんは下におりとってくれよ。」
 次郎は、俊三がまだ机のそばにねころんで、じろじろ自分たちの方を見ているのに気がついて言った。
「かまわんさ、俊三君なら。かえってきいていてもらった方がいいかも知れんよ。どうせ四年も加わってもらうんだから。」
 そう言ったのは馬田だった。ほかの四人はだまっている。次郎は、
「いけないよ。まだほかの委員にも相談しないうちに、四年生がいちゃあ、あとでうるさくなるから。」
 しかし、次郎の言葉がまだ終らないうちに俊三はもう階段をおりかけていた。彼は自分の顔がかくれる瞬間、新賀の方を見て、ぺろりと舌を出し、顔をしかめて見せた。新賀は、柔道仲間で、俊三ともかなり親しかったのである。
「どうだい、本田、朝倉先生がやめられるというのに、君は、まさか、默ってはおれまい。」
 俊三の足音がきこえなくなると、すぐ新賀が言った。
「むろんさ。留任運動は決定的だと思うんだ。しかし、方法がむずかしいよ。僕、ひとりでそれを考えていたんだが、……」
「ひとりでかい?」
 と、馬田が、変に微笑しながら、口をはさんだ。次郎はむっとした顔をして、ちょっと彼の顔を見つめたが、思いかえしたようにすぐ新賀の方をむいて、
「とにかく、正々堂々と恥かしくない方法でやりたいものだね。」
「そうだ、最初校長に願ってみて、いいかげんな返事しか得られなかったら、直接県庁にぶっつかるんだね。」
「校長はどうせ相手にならんよ。まるで配属将校の部下みたようなものじゃないか。」
 そう言ったのは、梅本だった、すると馬田が、
「花山校長の鼻をあかすいい機会だよ。いよいよストライキになったとき、あのちょっぴりした青い鼻がどんなかっこうになるか、それを眺めるのも、はなはだ興味があるね。」
 と、さかんに「はな」を連発して、ひとりで得意になった。
「ふざけるのはよせ!」
 新賀が今度はなぐりつけそうなけんまくでどなった。
「僕たちはストライキをやろうとしてるんではないだろう。」
 と、次郎がすぐそのあとで、表面何気ないような、しかしどこかにおさえつけるような調子をこめて言った。
「ストライキをやらないで、いったい何をやるんだ。」
 馬田は、さっきからのふざけた様子とはうって変り、まるで喧嘩腰になって次郎の方に向き直った。
「留任運動をやるさ。僕たちは僕たちの真情を訴えれば、それでいいんだ。」
 次郎はおちついて答えた。
「それが成功すると思っているのか。」
「成功させるよ。」
「知事がきめたことが、僕たちの運動ぐらいでひっくりかえるもんか。」
「全生徒が誠意をもって願えば、知事だって考えるよ。」
「ふふん。」
 馬田は鼻であざ笑った。そして、次郎なんか相手にならないといったようなふうに、ほかの生徒たちの方を見て、
「本田のようなお上品な考えかたには、僕は賛成出来ないよ。そりゃあ、一応形式的に校長や県庁に願い出るのはいいさ。しかし、どうせ成功はしないよ。成功しなかったら、それで默ってひっこむかね。」
 誰も返事をしない。留任運動をやろうという以上、誰もがそこまでは考えたことであり、馬田のような問題には、みんなが一度はぶっつかっていたことなのである。
 馬田は勝ちほこったように、
「結局はストライキだよ。ストライキまで行けば、知事も或は考えなおすかも知れん。かりにそれがだめだとしても、校長や、いやな教員を追い出すぐらいなことは、きっと出来るよ。だからはじめからストライキの覚悟をきめて、その計画をやる方が実際的だと僕は思うね。代表を出して、おとなしくお願いすることなんか、頭をつかわなくたって、すぐ出来ることじゃないか。」
 馬田は下品ではあるが、頭はそう悪い方ではない。自分の理窟に曲りなりにも一通りの筋道を立てるぐらいなことは、十分出来る生徒なのである。
 次郎は、自分が一番心配していたストライキの煽動者せんどうしゃを、相談のしょっぱなから、しかも馬田のような生徒に見出して、いらいらし出した。最初のうち、彼は、自分の考えもまだ十分まとまっていないし、今日はなるべくほかの生徒たちの意見をきこうと思っていたのだが、もうだまってはおれなくなって来た。それには、平尾と大山とが一言も言わないで坐っているのも、いくらか原因していたのである。
 彼は、先ず平尾と大山の顔を見くらべながら、朝倉先生の人格に対する彼の信仰にも似た尊敬の念を披瀝ひれきし、先生なきあとの学校を論じて、留任運動の絶対に必要なる所以ゆえんを力説した。それから、強いて自分をおちつかせるように、声の調子をおとし、馬田の方を向いて言った。
「しかし、留任運動は純粋な留任運動でなければならないと僕は思うんだ。それがほかの不純な目的のためにとって代られることは、最初から運動をやらないよりなおわるいことだよ。馬田君は最初からストライキを予定して、しかもそれを校長排斥にもって行こうとしているが、不純にもほどがあると思うね。僕は、そんな考え方には絶対不賛成だ。むしろ僕たちは、ストライキのおそれがあったら、極力それをくいとめることに努力しなければならないんだ。それが留任運動をおこすものの義務だよ。それに――」
 と、次郎の調子は次鶉に熱をおびて来たが、急に胸がつまったように声をふるわせて、
「万一、ストライキにでもなってみたまえ。僕たちは、表面朝倉先生を慕っているように見えて、実は先生を侮辱していることになるんだよ。ストライキのような卑怯な手段で先生に留任してもらうなんて、そんな……そんなひどい侮辱を先生に与えていいと思うのか。それも、先生の辞職の理由が僕たちにわかっていなければ、まだいい。わかっていてストライキをやるなんて、あんまりひどすぎるじゃないか。」
「じゃあ、君はいったいどうしようというんだ。理くつばかり言っていないで、具体的に方法を言いたまえ。」
 馬田がきめつけるように言った。次郎は、しばらく返事をしないで、馬田の顔をじっと見つめていたが、思いきったように、
「血だよ。血をもって願うんだよ。」
「血だって?」
「うむ、血だ。五・一五事件の軍人たちは、相手の血で自分たちの目的をとげようとした。しかし、僕たちは、僕たち自身の血でそれを貫くんだ。」
 馬田ばかりでなく、みんなが眼を見はった。次郎は、しかし、わりあい冷静に、
「僕はいろいろ考えてみたんだが、日本では昔から、何か真剣な願いごとがあると、よく血書とか血判とかいうことをやって来たね。君らはどう思うか知らんが、僕は今の場合、僕たちの真心をあらわすには、あれよりほかにないと思うんだ。」
 みんな顔を見あわせてだまっている。馬田だけがひやかすように言った。
奇抜きばつだね。しかし、すこぶる野蛮だよ。」
「むろん形式は文明的ではない。僕にもそれはわかっている。しかしストライキほど野蛮ではないんだ。」
 次郎も少し皮肉な調子だった。
「すると程度問題ということになるね。さっき君は、ストライキは朝倉先生を侮辱すると言って心配していたが、血書や血判は侮辱しないのかい。」
 次郎はちょっと考えた。が、すぐ決然とした態度で、
「形は野蛮でも、それは朝倉先生に対する僕たちの真情をあらわす方法として、ちっともその限度をこえていないんだ。秩序をみだして相手を脅迫するストライキとは、根本的に性質がちがっているよ。だから、朝倉先生を侮辱することにはならないさ。僕はそう信ずる。」
「しかし――」
 と、この時、平尾が近眼鏡の奥の眼をしばたたくようにしながら、めずらしく口をきった。
「本田は、いったい、どんな方法で血書や血判をあつめるつもりなんだい。まさかそんなことを全校生徒に強制するわけにもいくまいし。」
「そりゃ無論さ。こんなことはみんなの自由意意でなくちゃあ、意味をなさんよ。だから、僕は、強いて全校生徒からそれを集めようとは思っていない。出来れば五年生ぐらいは全部加わってほしいと思うが、それが無理なら、校友会の委員だけでもいい。それが無理だというのなら、有志だけでも仕方ないさ。」
「しかし、こんなことは、めいめいの自由意志にまかしておくと、ほとんど加わる人がないし、ちょっと勧誘すると、強制になってしまうものだよ。君はそんなことについても考えてみたかね。」
「考えてみたさ。僕が一ばん考えたのは、その点だったんだ。」
「では、どうするんだい。」
「僕は、まず僕ひとりでやる。」
「君ひとりで? しかし、それを誰も知らなかったとしたら、どうなる。」
「少くとも、君たちだけは、現にもうそれを知っているんだ!」
 次郎は、それが相手に対する強制を意味し、従って彼自身矛盾を犯しているということに気がつかないのではなかった。しかし、彼は、どうにかして留任運動を阻止しようとしている平尾の気持をさっきから見ぬいており、そのつめたい理ぜめの言葉に、馬田に対するとはべつの意味で怒りを感じていたのである。
「ようし。僕も血書に賛成だ。」
 新賀がその頑丈なからだをゆすぶって言った。
「僕も賛成。」
 梅木がつづいて叫んだ。
「血書は僕ひとりでたくさんだ。君たちはそれに賛成ならそのあとに血判だけ押してくれ。」
 次郎がやや興奮した眼を二人の方に向けて言った。すると、今までとぼけたように、そのまんまるな顔の中に眼玉をきょろつかせていた大山が、にこにこ笑いながら、
「僕も血判をおそう。本田、どうしておすのか教えてくれよ。僕は、こんなことははじめてでわからないんだからな。」
 次郎と新賀と梅本とが思わす吹き出した。
 馬田はその時そっぽを向いており、平尾は出っ歯の口を狸のように結んで眼をつぶっていたが、二人とも笑いもせず口もきかなかった。

二 父と子


 相談はとうとうはっきりした結末がつかないままで終ってしまった。平尾は、自分は総務の一人として、他の総務ともよく相談したうえ、あす校友会の委員全部に集まってもらってこの問題を提案したい、それまでは何ごともおたがいの間だけで決定するわけにはいかない、と主張し出したのである。次郎も、新賀も、梅本もそれには正面から反対も出来ず、平尾の肚を見すかしながらも承知するよりほかなかった。馬田はにやにや笑って次郎の顔を横目で見ながら、「それがほんとうだよ。」と言い、大山はその満月のような顔をよごれた手拭でゆるゆるとふきながら、「それもよかろうな」と言った。
 それでみんなは間もなく帰って行ったが、そのあと、次郎はすぐ畑に出た。なかば行きがかりからではあったが、血書のことを言い出してしまったのが、かえって彼の心をおちつかせ、自分だけはもう何もかもきまってしまったような気持に彼はなっていたのだった。
 畑には、めずらしく俊三が出ていた。次郎を見ると、
「もうみんな帰った? どうきまったんだい?」
「どうもきまらないよ。あす委員が全部集まってからきめるんだ。」
「なあんだ、あいつら、わざわざここまでやって来て、そんなことか。」
 二人が話していると、鶏舎の方から、もうとうに帰っていたはずの道江が走って来た。そして息をはずませながら、俊三とおなじことを次郎にたずねた。
「道江さんには関係ないことだよ。」
 次郎はそっけなく答えて、草をむしりはじめた。さっき階段をのぼって来て、だしぬけに道江に話しかけた馬田の顔が、この時、ふしぎなほどはっきり彼の眼にうかんで来たのだった。
「ひどいわ。」
 次郎は道江のしょげたような視線を感じた。しかし、答えない。すると俊三が、
「あす、校友会の委員が集ってきめるんだってさ。」
「そう?」
 と、道江はいくらか安心したように、
「あたし、次郎さんがひとりで主謀者みたいになるんじゃないかと思って、心配していたわ。」
 俊三は「ぷっ」と軽蔑するように笑い、横をむいて苦笑した。
 道江は、二人がまじめに自分を相手にしてくれそうにないので、さすがに腹を立てたらしく、彼女にしてはめずらしく蓮っ葉に、
「さいなら!」
 と言うと、そのまま、おもやの方にも行かず、表に出て行ってしまった。次郎は、あとを追いかけて、彼女と馬田との関係を問いただしてみたいような衝動を感じながら、草をむしっていたが、彼女のすがたが見えなくなると、
「もう誰かにしゃべったんじゃないかね。」
「何をさ?」
 俊三はとぼけたような顔をしている。
「留任運動の話さ。」
「留任運動をやるってこと、道江さんにも、もう話したんかい。」
「うむ……」
 次郎はまごついた。俊三は、かまわず、
「話したんなら、しゃべったってしようがないよ。さっき鶏舎で母さんに何かこそこそ言っていたが、その話かも知れないね。」
 次郎はやけに草を引きぬき、旱天つづきでぼさぼさした畑の土を、あたりの青い菜っ葉にまきちらした。それは、道江や、馬田や、自分自身に対する腹立たしさからばかりではなかった。道江をまるで眼中においてない俊三の態度が、変に彼の気持をいらだたせたのである。
 しかし、夕方になって風呂にひたった時には、彼はもう何もかも忘れて、一途に血書のことばかり考えていた。
 湯ぶねのふちに頭をもたせて、見るともなく眼のまえの棚を見ていた彼は、ふと、その上に、父の俊亮がいつも使う西洋かみそりがのっているのに眼をとめた。彼は、めずらしいものでも見つけたように、いそいで湯ぶねを出てそれを手にとった。そしてその刃をひらいて、しばらくじっと見入っていたが、やがて指先で用心ぶかくそれをなでると、またそっともとのところに置き、何か安心したようにからだをこすりはじめた。
 夕飯をすましてからの彼は、門先をぶらぶら歩きまわったり、二階の自分の机のそばに坐りこんだりして、はた目には何かおちつかないふうに見えたが、頭の中では、血書の文句をねるのに夢中だった。簡潔で、気品があり、しかも強い感情のこもった表現がほしい。しかし、それが詩になってしまってはいけない。世間普通の人にも、すらすらと受けいれられるような文句でなければならないのだ。そう思うと、詩を作るになれた彼の頭は行きつもどりつするのだった。そのために、彼は、お芳が台所のあとかたづけを、めずらしく女中のお金ちゃんだけに任して、いそいで大巻をたずねたのも、そのあと間もなく徹太郎がやって来て、俊亮と座敷の縁で何か話しこんでいたのも、まるで知らないでいたほどだったのである。
 彼が、どうやら自分で満足するような文句をまとめあげたのは、もう真暗になった門先をぶらついていた時だった。彼は、それをノートに書きしるすために、いそいで家にはいり、階段をのぼりかけたが、その時はじめて徹太郎の来ているのに気がつき、思わず立ちどまって耳をすました。
「時勢が時勢でないと、こんなことはむしろ美しいことですがね。」
 徹太郎の声である。話はもう大よそすんだらしい口ぶりである。
「次郎がどこまで考えてそんなことをやろうとしているのか、とにかく、あとで私からよくききただしてみることにしましょう。」
「ええ、そうなすった方がいいと思います。ほっておいて世間をさわがすようなことになっても、つまりませんからね。……じゃ失礼します。」
 次郎はいそいで階段を上りながら、徹太郎叔父も、学校の先生だけあって、やはりこんな場合には事なかれ主義らしい、という気がして、ちょっとさびしかった。道江がお芳か姉の敏子(徹太郎の妻)かにしゃべったのはもうたしかであり、そのあまりなたよりなさには、むかむかと腹も立った。
 俊三はもうその時には蚊帳のなかでいびきをかいていた。
 次郎には、なぜか、俊三がにくらしくもあわれにも思えた。そして、机によりかかってじっといびきに耳をかたむけるうちに、子供のころの自分の生活に、よかれあしかれ、あんなにも探いかゝわりをもっていた肉親のひとりが、今はまったく別の世界に住んでいる。人間というものは、年月がたつにつれ、こうして次第にわかれわかれになって行くものだろうか、などと考えて、変な気持になって行った。
 しかしノートをひらいて血書の文句を書き出した時には、彼はもう一途な力強い感情におされて、徹太郎のことも、道江のことも、俊三のことも忘れていた。そして、書き終った文句を何度も何度もよみかえしたあと、足音をしのばせるようにして階下におりていったが、やがてもどって来た彼の手には、父の西洋かみそりと一枚の小皿とがにぎられていた。彼はその二つの品を机の上に置いて、しばらくそれに見入った。家が没落して売立がはじまった時、そのなかにまじっていた刀剣のことが、ふと彼の記憶によみがえって来た。すると、眼のまえの西洋かみそりが何かそぐわない、うすっぺらなもののように感じられてならなかった。しかし、そんな感じはほんの一瞬だった。彼はすぐかみそりの刃をひらいた。そして、いつ、誰に、どこできいたのか、また、それが果して定法なのかどうかはっきりしなかったが、血判や血書には、左手のくすり指の指先をすじ目に切るものだということが頭にあったので、その通りに指先をかみそりの刃にあて、おなじ左手のおや指で強く、それをおさえながら、思いきりすばやく、一寸ほど横にすべらせた。
 つめたいとも、あついともいえぬような鋭い痛みが、一瞬指先に感じられた。しかし、そのあとは何ともなかった。血も出ていない、次郎はしくじったと思った。しかし、そう思っておや指のささえをゆるめたとたん、赤黒い血が三日月形ににじみ出し、それが見る見るふくらんで、熟した葡萄のようなしずくをつくった。
 次郎はいそいでそれを小皿にうけた。つぎつぎにしたたる血が、たちまちに、小皿の中央に描いてあった藍絵の胡蝶の胴をひたし、はねをひたし、触角しょくかくをひたしていった。次郎は、表面張力によってやや盛りあがり気味に、真白な磁器のはだをひたして行く自分の血を、何か美しいもののように見入った。そしてそれからおよそ三十分の後には、彼は一枚の半紙に毛筆で苦心の文句を書きあげていたが、その三十分間ほど彼にとって異様に感じられた時間はこれまでになかった。それはちょうど氷のはりつめた湖の底に炎がうずまいているような、静寂と興奮との時間であった。
 もっとも、字があまり上手でないうえに、使いなれない毛筆を血糊にひたしての仕事だったので、濃淡が思うようにいかず、あるところはべっとりと赤黒くにじんでいるかと思うと、あるところはほとんど血とは思えないほどの黄色っぽい淡い色になっていて、全体としてはいかにも乱雑に見えた。しかし、一ヵ所も消したり書き加えたりしたところがなく、また、一字一字を見ると、下手ながらも極めて正確で、誰にも読みあやまられる心配はなかった。文句にはこうあった。

 知事閣下並に校長先生
 私たち八百の生徒は、昨今名状しがたい不安に襲われています。それは、私たちの敬愛の的である朝倉道三郎先生が突如として我校を去られようとしていることを耳にしたからであります。
 私たちにとって、朝倉先生を我校から失うことは、私たちの学徒としての生命の芽をみきられるにも等しい重大事であります。私たちは、これまで、朝倉先生を仰ぐことによって私たちの良心のよりどころを見出し、朝倉先生に励まされることによって愛と正義の実践に勇敢であり、そして朝倉先生と共にあることによって真に心の平和を味わうことが出来ました。朝倉先生こそは、実に我校八百の生徒にとって、かけがえのない心の燈火であり、生命の泉であったのであります。
 私たちは、朝倉先生が我校を去られる真の理由が何であるかは全く知りません。しかし、それが先生自ら私たちを教えるに足らずと考えられた結果でないことは、これまでの先生の私たちを導かれた御態度に照らしても明らかであります。また、私たちは、先生が、いかなる事情の下においても、教育家として社会から指弾しだんされるような言動に出られようとは、断じて信じることが出来ません。従って、私たちは、先生が我校を去らなければならない絶対の理由を発見するに苦しむものであります。
 知事閣下、並に校長先生、願わくは八百学徒の伸びゆく生命のために、また、我校の平和のために、そして、国家社会に真に正しい道義を確立するために、朝倉先生が永く我校に止まられるよう、あらゆる援助を賜わらんことを。
 右血書を以て謹んでお願いいたします。
昭和七年六月二十七日

 次郎は、年月日を書いたあと、すぐその下に自分の姓名を書こうとしたが、それは思いとまった。もし多数の生徒たちが墨書で署名するようだったら、自分も人並に墨書する方がいいと思ったからである。
 指先の出血はまだ十分とまっていず、くるんだ紙が真赤にぬれていた。彼はもう一枚新しい紙をそのうえに巻きつけながら、窓ぎわによって、ふかぶかと夜の空気を吸った。空には無数の星が宝石のように微風にゆられていた。彼はそれを眺めているうちに、自分が血書をしたためたことが、何か遠い世界につながる神秘的な意義があるような気がし出し、昼間馬田にそれを野蛮だと非難された時、どうして反駁はんばくが出来なかったのだろう、と不思議に思った。
 興奮からさめるにつれて、心地よいつかれが彼の全身を襲って来た。彼は窓によりかかったまま、ついうとうととなっていた。すると、
「次郎、蚊がつきはしないか。」
 と、いつの間に上って来たのか、俊亮がすぐまえにつっ立ってじっと彼の顔を見おろしていた。
 次郎は、はっとして机の上に眼をやったが、もう自分のやったことをかくすわけにはいかなかった。俊亮は立ったまま、ちょっと微笑した。が、すぐ血書の方に視線を転じながら、
「生臭いね。」
 と、顔をしかめた。そしてしばらく机の上を見まわしたあと、
「用がすんだら、かみそりや皿はさっさと始末したらどうだい。」
 次郎は父の気持をはかりかねたが、言われるままに、かみそりと皿とをもって下におりた。そして、ながしで音を立てないように皿を洗い、それをもとのところに置くと、変にりきんだ気持になって二階に帰って来た。
 俊亮はもうその時には坐りこんで血書に眼をさらしていた。次郎もそばに行儀よく坐って、何とか言われるのを待っていた。しかし、俊亮はいつまでたってもふりむきもしない。とうとう次郎の方からたずねた。
「こんなこと、いけないんでしょうか。」
 俊亮はやっと血書から眼をはなして、
「いいかわるいか自分では考えてみなかったのか。」
「考えてみたんです。考えてみて、いいと思ったからやったんです。」
「自分でいいと思ったら、いいだろう。」
 次郎はひょうしぬけがした。
 しかし、彼は、つぎの瞬間には、自分を見つめている父の眼に、何か安心の出来ないものを感じて、かえって固くなっていた。
「しかし――」
 と、俊亮はまた血書の方に眼をやって、
「朝倉先生にはきっと叱られるね。」
「ええ、でも、それは仕方がありません。」
 俊亮はだまってうなずいた。そしてしばらく何か考えていたが、
「ところで、これがうまく成功すると思っているかね。」
「成功させます。」
 次郎はきおい立って答えた。俊亮は微笑しながら、
「しかし相手は役人だよ。日本の役人は中学生なんか相手にしてくれないんだぜ。」
 次郎は、学校の卒業式に訓辞をよみにやって来る役人以外の役人をほとんど知らなかったが、その役人たちは、考えてみると、自分たちとはあまりにもかけはなれた存在のようだった。彼は今さらのようにそれを思って、何か心細い気がした。
「それに――」
 と、俊亮は少し声をおとして、
「大巻の叔父さんの話では、朝倉先生の辞職の原因は五・一五事件の軍人を非難したからだっていうじゃないか。」
「ええ、しかし朝倉先生の言われたことは正しいんでしょう。」
「そりゃ正しいとも。たしかに正しいよ。」
「正しくってもいけないんですか。」
「正しいことで役人が動く世の中なら問題はないさ。しかし、床の上を歩かないでいつも天井にぶらさがっているような今どきの役人では、そうはいかないよ。」
 次郎には、床だの天井だのという言葉の意味がよくのみこめなくて、きょとんとしていた。
「つまり日本の役人は、権力という天井にぶらさがって、床の上をあるく国民の迷惑なんかおかまいなしに、足をぶらぶらさしているようなもんだよ。」
 次郎は思わず吹き出した。
「ところで、その権力というのが、昔はだいたい上役にあったものだが、次第に政党にうつり、今では軍人にうつろうとしている。ほかのことならとにかく、自分たちのぶらさがる天井のことだから、役人たちはよくそれを知っているんだ。今ごろは多分、古い天井のさんに一方の手をかけたまま、もう一方の手で新しい天井の棧に飛びついていることだろう。苦しい芸当さ。はたから見ていると、みじめでもあり、気の毒でもある。しかし、それを苦しいともみじめだとも思わないで、かえって得意になっでいるのが今の役人だよ。そんな役人を相手に、一中学生が血書なんか書いてみたって、何の役にも立つものではない。ことに、それが新しい権力にたてつくようなことを言った先生の弁護とあってはね。」
 次郎は、かつて小役人をしたことのある父の役人観を面白半分にきいていたが、おしまいに自分の血書があまりにも過小に評価されたような気がして不満だった。いやしくも一人の人間が血を流してつづった願いだ。それがまるで無視されるという道理はない。実は相手が役人ではだめだというが、たといつまらん役人でも、いやつまらん役人であれはあるほど、血書をつきつけられてそれを默殺するだけの勇気はあるまい。彼にはそんなふうにも思えるのだった。それは、満州事変このかた、軍部に対する血書の歎願といったようなものが青年の間に流行し、それが新聞に発表されるごとに、たいてい役人がきまって感激的な感想をもらしていたのを、よく知っていたからであったのかも知れない。
 俊亮は、彼の気持にはとんちゃくなしに、
「しかし、せっかく書いたものをほごにするにも及ぶまい。まあ出すだけは出してみるさ。すこしなまぐさいだけで、べつにわるいことではないからな。まあ、しかし、これという返事は得られないものだと思った方がいいね。」
「まるで返事もしないって、そんなことがありますか。」
「そりゃあ、あるとも。多分学校といっしょになって秘密にほうむろうとするだろうね。」
「秘密になんか出来っこありません。生徒の中に署名するものが何人もあるんですから。」
「役人の秘密というのは、誰でも知っていることを知らん顔することなんだよ。ははは。」
 俊亮は声をたてて笑った。次郎は、にこりともしないで、父の顔を見つめた。
「そこでと、――」
 と、俊亮はすぐ真顔になって、
「いよいよ相手にされなかった場合、どうする? 引っこみがつかなくなって、困りはしないかね。」
「そうなれば、困ります。」
「困るだろう。ことにおまえが一人でやる仕事でないとすると。」
 次郎は、ぴしりと胸をたたかれたような気がした。
「多数の力を借りて事を起そうとする場合には、だから、よほど慎重でないといけないんだ。さっきおまえは十分考えたうえで決心したようなことを言っていたが、そうでもなかったようだね。」
「僕は、血書をそんな弱いものだとは思っていなかったんです。」
「ふむ――」
 と、俊亮はちょっと考えたが、
「血書を出せば朝倉先生の留任はきっと出来る、と思っていたんだね。」
「ええ。たいてい出来ると思っていました。」
「今では、どうだい。」
「今でも、その希望はすてません。僕は成功すると思っているんです。」
「ふむ。」
 俊亮はまた考えた。それから、何か思いきったように、
「もし私が、おまえの血書に不純なものがあると言ったら怒るだろうね。」
 次郎にとっては、全く意外な質問だった。彼はあきれたように父の顔を見ながら、
「どうしてお父さんはそんなことを仰しゃるんです。」
「人間というものは、功名心のためなら自殺さえしかねないものだからね。」
 次郎には、ますますわけがわからなかった。俊亮は微笑しながら、
「むろん私は、おまえの血書を不純だと断定しているわけではない。しかし、血書なんか書く人の中には、血書の目的に興奮しているよりか、血書そのものに興奮している人が、よくあるものだよ。つまり血書を書くことに変な誇りを感じるんだね。そういう人にかぎって、自分の血書を何か神聖なもののように考え、血書さえ書けば世間は何でもきいてくれると思いたがるものだ。おまえに全然そんな気持がないと言いきれるかね。」
 次郎は考えこんだ。しかし、どんなに考えてみても、自分が功名心に支配されて血書を書いたような気はしなかった。
「それだけは僕を信じて下すってもいいと思います。」
 彼はきっぱりとそう答えた。
 俊亮は、次郎の答えに満足なのか不満なのか、不得要領な顔をして、
「じゃあ、まあ、それはそれでいいとして、おまえの希望どおりにならなかった時はどうする?」
「あきらめるよりほかありません。」
「あきらめられるかね。」
「だってほかに仕方がないんです。」
「しかし、これはおまえ一人の問題ではないね。おまえはあきらめても、みんながあきらめなかったらどうする。」
「みんなにも、あきらめるように言います。」
「みんなはそれで承知するかね。」
「それはわかりません。」
「おまえもそれには自信がないだろう。」
 次郎はだまりこむより仕方がなかった。俊亮はしみじみとした調子になって、
「時の勢いというものは、恐ろしいものだよ。五・一五事件もそうだったが、今度のおまえたちの問題も、どうせ行くところまで行くだろう。結局ストライキになるかも知れないね。」
「それは絶対にさけるつもりです。」
「さけるつもりでもさけられないよ。」
「まじめな五年生が五六人も結束すれば、さけられると思います。」
「その五六人というのは、留任運動の主唱者ではないかね。」
「ええ。ですからその五六人が結束すれば、きっと……」
「時の勢いというものは、一度出来てしまえば、それを作った人にもどうにも出来ないものだよ。現に五・一五がそうだろう。政党の腐敗を憤り、軍人が腐敗した政党と結んで政治に関係するのを快く思わなかった人たちは決して乱暴なことをたくらんでいたわけではなかったんだ。ところが、その人たちの考えが一旦時の勢いを作ってしまうと、次第に不純な分子や、無思慮な分子がその勢いに乗っかって来る。これではならんと思っても、そうなると、もうどうにも出来ない。そして、いよいよ五・一五事件ということになったんだ。時の勢いというものは、だいたいそんなものだよ。」
「すると、僕たち、どうすればいいんです。はじめっから留任運動なんかやらない方がいいんですか。」
「それをやらなくちゃあ、お前たちの正義感がおさまるまい。」
「むろんです。」
「じゃあ、やるより仕方がないね。」
「しかし、お父さんが仰しゃるとおりですと、結局はストライキになるんでしょう。」
「それも仕方がないさ。」
 次郎には、父が自分を茶化しているとしか思えなかった。彼は両腕を膝につっぱってしばらく默りこんでいたが、急にそっぽを向き、右腕で両眼をおさえると、たまりかねたようにしゃくりあげた。
「泣くことはない。」
 と、俊亮はべつにあわてたようなふうもなく、
「何もかも自然の成行きだよ。学校がだめで朝倉先生だけがお前たちの希望だというのに、その朝倉先生を失うとなれは、留任運動をおこしたくなるのは当然だし、留任運動をおこす以上、少しでもそれを強力にするために、血書を書いたり、全校生徒に呼びかけたりするのも当然だ。また、朝倉先生が五・一五事件を非難したために学校を追われるのも、それを阻止しようとするお前たちの運動が失敗するのも、時勢がすでにそうなってしまっている以上、何とも仕方のないことだ。そしてその結果がおまえたちのストライキになるとすれば、それもやはり自然の成行きだというよりない。時の勢いで世の中が狂っている以上、その狂いが直るまでは、正しいことから正しい結果ばかりは生まれて来ないんだ。まあ、いわば一種の運命だね。」
 次郎はもう泣いてはいなかった。彼は、まだ十分かわききれない眼を光らして、父の顔をにらむように見つめていた。
「むろん私は、それが自然の成行きだからただ見おくっていればいい、と言うのではない。今の場合、おまえたちが気をつけなければならないことは沢山ある。とりわけ大事なことは、自分で自分のお調子にのらないことだ。おまえは、おまえの血書に少しも不純な気持はない、と信じているようだが、なるほど不純だというのは言いすぎかも知れない。しかし、私には、おまえが自分で気づかないうちに、血書に何か英雄的な誇りを感じているように思えてならないんだ。血書なんていうものは、元来誇るべきものではない。人間の冷静な理知に訴えるだけの力のない人が、窮余きゅうよさくとして用いる手段だからね。それに誇りを感ずるなんて考えてみると滑稽だよ。いや、滑稽ですめば結構だが、その誇りがだんだん昂じて来ると、おしまいには、問答無用で総理大臣にピストルをつきつけるようなことにもなりかねないんだ。自分で自分のお調子にのるのは恐ろしいことだよ。」
 次郎は、血書のことを思いついてそれを書き終るまでの自分の心の動きを、あらためてこまかに反省してみた。すると父の言っていることに何か否定の出来ないものがあるような気がし出した。しかもこの反省は、次第に彼を彼の子供の時代にまで誘いこんで行ったのである。そこには、がむしゃらな反抗や、子供らしくない策略などといっしょに、ほめられたさの英雄的行為や芝居じみた親孝行などが、長い行列をつくっていた。父は自分のことを何もかも知っている。自分ではもうとうに克服こくふくし得たつもりの弱点でも、それがまだ少しでも尾をひいている限り、父の眼にははっきりとうつるのだ。そう思って彼はひとりでにうなだれてしまった。
 しばらく沈默がつづいた。机の上の枕時計はもう十二時をまわっている。俊亮はそれに眼をやったが、べつに驚いたふうもなく、またゆっくりと口をきき出した。
「おまえは、もう、人のおだてにのるほど無思慮ではない。それはたしかだ。その点では私はおまえを絶対に信じてもいいと思っている。だが、その程度では、まだ人間がほんとうに一本立になったとはいえないんだ。ほんとうに一本立になった人間は、人のおだてに乗らないだけでなく、自分のおだてにものらない人間だよ。私はおまえにそういう人間になってもらいたいと思っている。英雄主義流行の時代には、おまえたちのような若いものには、それはなかなかむずかしいことだが、しかし、そういう時代であればこそ、私は一層おまえにそれを望むんだ。わかるかね。私のこの気持が?」
「わかります。」
 俊亮は、次郎がいつの間にか、きちんと膝を折って坐っているのに気がついた。
「そう窮屈にならんでもいい。」
 彼はそう言って次郎にあぐらをかかせ、天井のない、すすけた屋根裏を見まわしていたが、
「私がこんなことを言うのも、私の経験からだよ。実を言うと、私もわかい頃はかなりの英雄主義者でね、自分で自分のお調子にのって、今から考えると、まるで意味のない、ひとりよがりの義侠心を発揮したものだよ。その結果、先祖伝来の家屋敷も手放してしまうし、せっかくはじめた酒屋も番頭に食われてしまうといった工合で、お祖母さんをはじめ、おまえたちにも、ひどく難儀をさせたものさ。こう言うと、私が今になって貧乏したのをくやんでいるようにきこえるかも知れないが、そうじゃない。問題は、貧乏したことでなくて、貧乏するに至った原因だ。つまり、私自身のその頃の人間が問題なんだよ。夜中に眼をさましてその頃のことを思い出したりすると、全くいやになるね。」
 次郎は、父にもそんな悩みがあるのかと不思議な気がした。同時に、その悩みを正直にうちあけて、自分をさとしてくれる気持に、これまでとはちがった父を見出して、胸がいっぱいになるようだった。俊亮はつづけて言った。
「世間には、若いうちは功名心に燃えるぐらいでなくちゃあ駄目だと言う人もある。しかし、私はそう思わない。ことに今のような時代には、そういう考え方は禁物だ。静かに、理知的にものを考えて、極端に言うと、つめたい機械のように道理に従って行く、そういう人間がひとりでも多くなることが、この狂いかけた時代を救う道だよ。むろん私は人間の感情を何もかも否定はしない。おまえたちが朝倉先生をしたう気持なんか実に尊い感情だよ。道理とりっぱに道づれの出来る感情だからね。しかしその尊い感情も、それに功名心がくっつくと、すぐしみが出来る。しみぐらいですめばいいが、次第にそれが生地きじみたいになってしまうから、危いんだよ。」
「お父さん、僕――」
 と、次郎はやにわに、まだ机の上にひろげたままになっていた血書をわしづかみにして、
「こんなもの出すの、もうよします。」
 彼はすぐそれをやぶきそうにした。
「まて!」
 俊亮はおさえつけるように言って、
「おまえは、今日来た友達に、血書を書くことを約束したんではないかね。」
「約束しました。」
「その約束が取消せるのか。」
 次郎は考えた。自分から言い出しておいてそれを取消すのは、自分の立場はとにかくとして、留任運動そのものに水をさすようなものであった。
「取消せまい。」
 と、俊亮は念を押すように言ったが、
「いや、取消す必要もないだろう。おまえ自身でやぶいてすててもいいという気になれば、その血書の生臭味はもうそれで洗い流されたようなものだ。それに、いざストライキにでもなろうという場合、血書を取消したために、ものが言えないような立場になっても困るだろう。ことにおまえがストライキに反対だとすれば、なおさらのことだ。」
 次郎は、きまりわるそうに血書を机の上において、しわをのばしはじめた。
「血書なんて、たいていしわくちゃになっているものだよ。そう大事にせんでもいいさ。」
 俊亮は笑いながら、そう言って立ちあがったが、
「まあ何ごとも修行だと思って、思いきり自分の信ずるところをやってみるさ。自分のおだてに乗りさえしなければ、それでいいんだ。いや、自分で自分のおだてにのらない修行をするんだ、とそう思って万事にあたって行くんだよ。実際、今の時代にはそれが一番大切な修行だからね。そう思うと、朝倉先生は、お前たちのためにいい機会を作って下すったものだよ。先生としては御迷惑だろうが、この機会を生かすんだな。事件はあるいは非常にもつれるかも知れない。しかし、事件がもつれて行く間に、今言ったような修行がおまえたちに出来るとすれば、あとで先生もきっと喜んで下さるだろう。」
 俊亮が階下におりると、次郎は血書をていねいにたたんで制服のかくしにしまいこんだ。そして電燈を消してすぐ蚊帳に入ったが、永いこと寝つかれなかった。それは俊三のいびきのせいばかりではなかった。血書を書く時とはまるでちがった性質の一種の興奮が、彼の心臓をいつまでもはずましていたのである。

三 決議


 あくる日、次郎が学校に行くと、新賀がまちかねていたように彼を校庭の一隅の白楊ポプラのかげにさそい出して、言った。
「平尾のやつ、ずるいよ、きのう、あれひとりで朝倉先生をおたずねして、何もかも話してしまったらしいんだ。」
「ふうん、――」
 と、次郎もさすがにあきれたような顔をして、
「何のためにそんなことをしたんだろう。」
「そりゃあ、わかりきっているよ。留任運動がやりたくないからさ。」
「それで朝倉先生に反対してもらおうというのか。」
「そうだよ。」
「しかし、朝倉先生が反対なことは、わざわざ先生にあってたずねてみなくたって、わかっていることじゃないか。」
「それがあいつのずるいところだよ。わかっていることでも、たしかめておかないと、強くものが言えんからね。」
「いやなやつだね。それで朝倉先生をおたずねしたってこと、平尾が自分で君に話したんかい。」
「ううん、田上にきいたんだ。」
 田上というのはもうひとりの総務である。
「田上はいったい、どうなんだ。やっぱり不賛成なのか。」
「いや、あいつは大丈夫だ。平尾のやり方に憤慨して僕にその話をしたぐらいだからね。」
「そうか。しかし総務の二人がそんなふうに対立しているとすると、今日の会議はどうなるんだい。やるにはやるだろうね。」
「そりゃあ、やるとも。もう田上が各部につたえてまわっているはずだ。」
「しかし、総務として、どんなふうに提案するつもりなんだろう。」
「むろん、総務案なんてものはないだろう。田上の話では、白紙でのぞむよりほかないと言っていたよ。」
 次郎はちょっと考えていたが、
「しかし、会議を開きさえすれば何とかなるね。」
「そりゃなるとも。平尾なんか問題でないさ。梅本も、平尾ぐらいおれに任しとけって、そう言っていたよ。……ところで、どうしたい、血書は? もう書いたんか。」
「うむ、書いた。」
 次郎は笑いながら、紙を巻きつけた左手のくすり指を新賀のまえにつき出した。新賀は、
「ほう、その指をきるんだね。」
 と、感心したように見ていたが、
「書いたの、もって来なかったんか。」
「持って来たよ。」
「見せろ。」
 次郎は内かくしから血書を出して新賀にわたした。新賀はそれを受取ると食い入るようにそれに見入っていたが最後に大きなため息をつきながら、それを次郎に返そうとした。次郎は、しかし、かぶりをふって、
「それは君にあずけておく。僕が書いたこと、みんなに言わないでくれ。」
 新賀はちょっと考えてから、
「うむ。」
 と、大きくうなずいて、血書を自分のかくしにしまいこんだ。間もなく始業の鐘が鳴って二人は教室に入ったが、次郎は新賀に血書をあずけて何かほっとした気持だった。
 ひる休みごろには、全校の気分が何となくざわめき立っていた。上級生の中には、五人、十人と、あちらこちらに集まって、すでに私的に意見を交換しているらしかった。次郎は、そんな様子を心強くも不安にも感じながら、自分ではなるだけそうした集まりに近づかない工夫をしていた。
 授業がすむと、校友会の委員たちは、ある者は考えぶかそうに、ある者ははしゃぎながら、二階の一番おくの教室に集まった。そこは五年の教室のうちで教員室から最も遠い室だった。
 みんなが集まると平尾がすぐ教壇に立って、きょうの集まりの趣旨しゅしをのべた。彼は最初のうち、朝倉先生に対する讃美の言葉や、その退職を遺憾いかんとする意味の言葉を、かなり熱のこもった調子でのべたてた。しかし、終りに近づくにつれて次第にその調子が低くなり、最後につぎのようなことを言って、壇を下った。
「とにかく、一部の委員諸君の希望もあったので、この会議をひらくことにしたが、その結果が、万一にも朝倉先生の御気持にそわないようなことになっては、先生に対してまことに申訳がないと思うから、十分慎重しんちょうに考えて意見をのべてもらいたい。」
 みんなは、しばらく、ひょうしぬけがしたように顔を見合わせた。が、すぐあちらこちらに私語しごがはじまり、それが、たちまちのうちに、ごったがえすようなそうぞうしい話声となって、室じゅうに入りみだれた。
「このざまは何だ!」
 誰かが平尾の方をむいて大声でどなった。
「座長はいったい誰がやるんだ。平尾か、田上か。」
 そう言ったのは新賀だった。平尾はあわてたように田上の横顔を見た。田上は、しかし、その眉の濃い、面長な顔をまっすぐ立てたまま、冷然としている。
「きょうは座長は田上がやれ!」
 一番うしろの方で誰かが叫んだ。
「いや、僕はやらん。会議の進行は平尾に任してあるんだ。きょうは自由な立場でものを言う約束なんだよ。」
「じゃあ、平尾、さっさと座長席につけ!」
 新賀がどなった。平尾はひきつった頬に強いて微笑をうかべながら教壇に上った。そして教卓を前にして椅子に腰をおろすと、
「じゃあ、誰からでもいいから、意見を言ってくれたまえ。」
「意見を言うまえに質問があるんだ。君は、さっき、朝倉先生のお気持がどうだとか言っていたが、そのお気持というのが、君にはわかっているのか。もしわかっているなら、はっきりそれを言ってもらいたいね。」
 そう言ったのは梅本だった。奥に何かありそうなその質問の調子が、みんなの注意を彼にひきつけた。
「朝倉先生は、生徒がさわぐのを非常に心配していられるんだ。」
「さわぐというと?」
「例えば留任運動といったようなことをやることだよ。」
「どんな方法でやってもいけない、と言われるんだね。」
「そうだ。自分の進退しんたいは自分できめると言われるんだ。」
 平尾は、ここだとばかり力をこめて答えた。梅本は、しかし、それをきき流すように、
「ところで、それは君が直接朝倉先生にきいたことかね。」
「むろんだ。」
「いつきいたんだ。」
「実はきのう、先生をおたずねしてみたんだよ。」
「君ひとりで?」
「うむ。」
「何のためにおたずねしたんだ。」
「きょうの会議をやるのに参考になるだろうと思ったからさ。」
「すると、きょうの会議のことを先生に話したんだね。」
「話したさ。それを話さなくちゃ、先生のお考えがわからないんだから。」
「先生のお考えなら、話さなくてもわかりきっているとは思わなかったのか。」
 平尾は行きづまって、その狸のような口をいやに固く結んだ。
「平尾君!」
 と、梅本は、いつも弁論会の時にやるように、こぶしで自分の前の机を一つたたいて、
「君は、きょうはこの会議の座長たる資格はない! 田上君と代りたまえ。」
 みんなの視線が一せいに梅本に集まった。平尾もさすがにきっとなって、
「座長たる資格がない? それはどういう理由だ。」
「われわれは、先生を侮辱した人間を座長にして、先生のことを相談することは出来ないんだ。」
「僕が先生を侮辱したって?」
「侮辱したんだろう。自分でそれがわからんのか。」
「わからんよ。僕はそんなことを言われるのは全く意外だね。」
「平尾君!」
 と、もう一度梅本は叫んで、つっ立ちあがった。そのひょうしに今までかけていた腰掛が大きな音を立てて、うしろにひっくりかえった。色の黒い美少年の眼は、らんらんと輝いている。
「君が朝倉先生をおたずねしたのは、先生のお気持をたしかめるためだったんじゃないか。」
「そうだよ。」
「そうすると、君は、先生が或は留任運動を喜ばれるかも知れん、と考えていたわけだろう。それが先生の人格に対する侮辱でないといえるか。」
 平尾は、近眼鏡の奥で眼を神経的にぱちぱちさせるだけで、返事をしない。
「どうだ、諸君、諸君はこれを侮辱ではないと思うか。」
 と、梅本はぐるりとみんなを見まわした。
「むろん侮辱だ!」
「先生を知らないにもほどがある!」
「留任運動を喜ぶような先生のために、僕らは留任運動をやろうとしているのではないんだ。」
 そんな叫び声が方々からきこえた。すると誰かがまぜっかえすように、
「平尾は、朝倉先生をそんな先生だと思っているから、留任運動がやりたくないんだそうだ。」
 どっと笑声が起った。それまで平尾は相変らず眼をぱちぱちさしていたが、急に立ちあがって、言った。
「僕は出来るだけ慎重しんちょうを期するために、言いかえると、朝倉先生に現在以上のご迷惑がかからないようにと思って、先生をおたずねしたんだ。それが先生に対する侮辱だと言われては、全く残念だ。しかし、諸君の全部がそう思っているとすると、僕がいくら弁解しても駄目だろう。僕は自分では省みて一点のやましいところもないと思うが、梅本君の要求によって、いや諸君の全部の要求によって、いさぎよく座長の席を退こう。しかし、僕が座長の席を退くことは、同時にこの会議の席を退くことを意味するんだ。なぜなら、先生を侮辱したような人間を交えてこの会議を進めることは、諸君にとって迷惑だろうと思うからだ。ただ僕は、この席を退くまえに一言諸君に言っておきたい。それは、諸君にもっと時代というものを知ってもらいたいということだ。時代は今どういう方向に動いているか、それを知らないで、ただ自分の理想だけを追うていると、われわれは、ちょうど金塊を抱いて海の底に沈むような愚を演じなければならないのだ。朝倉先生のようにすぐれた人格者でさえ……」
「ぱか! 何を言うか!」
 爆発するようなどなり声が、彼のすぐまえの席から起った。
「貴様は僕らにお説教をする気か。」
「青年はすべからく時代を超越すべし。」
「真理は、永遠だぞ!」
「卑怯者!」
「狸!」
「ひっこむなら、さっさとひっこめ!」
 そうした叫びがつぎつぎに起り、中にはもう腕まくりをしているものさえあった。
 平尾は土色になってしばらく立往生していたが、あきらめたように壇をおりると、その足でさっさと室を出ていってしまった。
 一瞬、さすがにしいんとなって、みんなは彼のうしろ姿を見おくった。すると誰かが、だしぬけに、とん狂な声で叫んだ。
「狸退散!」
 それで、また、どっと笑い声が起った。その笑い声を圧するように、新賀がどなった。
「田上! 平尾がいなくなれば君が座長だ。さっさと席につけ。」
 田上は今度は元気よく座長席についた。そして、
「さっきからの様子では、留任運動をやることだけは、もう満場一致と見ていいようだが、どうだ。」
「むろんだ!」
「賛成!」
 と叫ぶ声が方々からきこえた。
「では、これからその方法を相談する。誰か案があったら、遠慮なく出してくれ。」
「それも、もうきまっているよ。」
 いかにも冷やかすような調子でそう言ったのは馬田だった。彼は窓わくに馬乗りにまたがって、足をぶらぶらさせながら、そのしまりのない唇から舌を出したり、ひっこめたりしている。
「どうきまっているんだ。」
 と、田上が不愉快そうに彼の方を見た。
「ストライキさ。」
 馬田は田上の方を見むきもしないで答えたが、そのあと、すぐまた舌をぺろりと出した。
「いきなりストライキをやろうというのか。」
「いきなりでなくてもいいよ。しかし、どうせやるなら早い方がいいね。」
 吹き出すような笑いごえが二三ヵ所でおこった。しかし、多数は、馬田のあまりにもふざけきった調子に憤慨したらしく、むっつりしている。
 ストライキ問題は、しかし、そのあと、自然みんなの論議の中心になってしまった。意見はだいたい三つにわかれた。ストライキ即時断行論がその一つで、これは馬田を中心とする不良らしい五六名が、理論も何もなく、まるでおどかすような調子で主張した。第二はストライキ絶対反対論で、主として論陣ろんじんを張ったのは梅本だった。第三は、いわは中間派で、情理をつくして留任を懇請こんせいし、それがしりぞけられた場合にはストライキもやむを得ない、という意見であった。この意見の主張者は、とくにきまった顔ぶれではなかった。また議論としてさほどききごたえのある発言もなかった。しかしそれは多数の口で主張され、多数によって支持されていたようであった。
 そうした意見が交換されている間、次郎も新賀もふしぎに沈默を守っていた。ことに次郎は、自分の存在をなるだけ目立たせないように、注意してでもいるかのように、馬田とはちょうど反対の廊下よりの机によりかかって、しじゅう首をたれていた。梅本と馬田一派とがはげしくやりあっている最中でさえ、彼はちょっとその方をのぞいて見ただけで、すこしも興奮したようなふうはなかった。ただ彼がいくらか緊張したように見えたのは、論議もだいたいつきて、座長の田上が、「では、この問題の決をとりたいが、多数決できめてもいいのか。」と相談をかけた時であった。彼はその瞬間、急に首をもたげて田上を見、つづいて新賀を見た。そしてまさに立ち上りそうな姿勢になった。しかし、彼が立ちあがるまえに、新賀が発言したので、彼はそのまま腰をおちつけて、また首をたれた。
 新賀は言った。
「決をとるのはまだ早い。僕はそのまえに諸君に見せたいものがあるんだ。」
 みんなの視線を一身にあつめながら、彼はどたどたと大きな靴音を立てて教壇に上った。そして座長席のわきに立つと、胸のかくしから一枚の紙を引き出し、自分の顔のまんまえにそれをひろげた。それは次郎の書いた血書だった。
「見えるか。」
 彼は血書を自分の胸のあたりまでさげ、その上からみんなを見まわした。みんなはのびあがるようにしてそれを見た。田上も座長席から首をつき出し、下からそれをのぞいた。ただ次郎だけが、いくらかほてった顔をして眼を机の上におとしていた。
「これは血で書いたものだ。遠方からは字がよく見えないだろうから、僕が読んでみよう。」
 新賀は、そう言いながら、血書をうらがえしにして自分の方に向け、一句一句力をこめてそれを読んだ。そして読み終ると、またそれをうち返しにしてみんなの方に向け、もう一度室じゅうを見まわした。
 みんなはしいんとなって一心に血書の方に眼を注いでいる。
「君が書いたれか。」
 うしろの方の窓ぎわに立っていた一人が、かなりたってからたずねた。
「僕じゃない。」
「誰だ、書いたのは。」
 今度は、次郎のすぐまえにいたひとりがたずねた。次郎は、はっとしたように顔をあげたが、すぐもとの姿勢にかえった。
「この中にいる一人が書いたんだ。しかし名前は言う必要がない。それは、これを書いた人は、これがみんなの総意だと信じきって書いたからだ。僕たちはただその人の熱意を生かせばいいんだ。」
 みんなは、探るようにおたがいに顔を見合わせたが、すぐまた血書の方に視線を集中して默りこんでいる。
「どうだ。いやしくも人間が血をもってつづった文字だ。これを生かすことに不賛成はあるまい。」
 むろん誰も異議を唱えるものはなかった。それどころか、これまでストライキ論を中心にざわついていた空気がすっかり沈静して、その底から一かたまりになった大きな力が、むくむくと盛りあがって来る、といった気配だった。
 その気配の中を、新賀は右から左に視線を走らせた。そして最後に、ただひとりわざとのようにうすら笑いをしている馬田の顔をにらみつけるように見た。馬田はすぐ眼をそらして窓のそとを見たが、そのうすら笑いは消えてはいなかった。新賀はその様子をしばらく見つめたあと、またみんなの方を見て言った。
「しかし、この血書を生かすには、一つの条件がある。その条件というのは、絶対にストライキはやらないということだ。それは、この血書を書いた人がそれを心から願っているからだ。彼は僕にこういうことを言った。――朝倉先生は暴力の否定者である。然るにストライキは一種の暴力だ。暴力の否定者である先生を暴力をもって擁護するのは、先生に恥をかかせる以外の、何ものでもない。――また、彼はこういうことを言った。――五・一五事件の軍人たちは相手の血で自分たちの目的を貫こうとした。しかしわれわれはわれわれの血でそれを貫かなければならない。――諸君は、この血書がこういう信念のもとに書かれたということを忘れてはならないのだ。つまり諸君はこの血書をほんとうに、生かすために絶対にストライキをやらないという約束をしなければならないのだ。諸君はそれを承知してくれるのか。」
「むろん承知だ。」
 色の黒い美少年の梅本がまず叫んだ。つづいて「賛成」という声が五六ヵ所から起った。
「では、賛成のものはこれに署名してくれ。僕は決して強制はしない。ほんとうにこの血書の意味を理解してくれる諸君だけの署名を求めるんだ。他のどんな手段にもたよらないで、ただ自分の血で願いとおそうという諸君だけの署名を求めるんだ。失敬だが僕がまず署名する。」
 新賀はそう言って田上のまえの教卓に血書をひろげ、年月日の書いてある真下に万年筆で署名した。それから、かくしに手をつっこんで、しきりに何かさがしていたが、やがて取り出したのは小さなペンナイフだった。彼はそれをひらくと無造作に左手のくすり指をその尖端せんたんでつっついた。そしてちょっと顔をしかめてその指先を見つめていたが、すぐそれを自分の名前の下におしつけた。
 彼の無造作な挙動にひきかえ、室内はまるで画のように静まりかえっていた。ただ、もしその場に非常に注意ぶかい観察者がいたとすれば、その人は、次郎が自分の眼にそっと両手をあてて涙をふいていたことと、馬田が変におちつかない眼をして、ぬすむようにみんなの顔を見まわしていたこととに、気がついたであろう。
 新賀は血書と共に、自分の万年筆とペンナイフとを教卓の上に置いたまま、教壇をおりた。そして、
「誰か半紙をもっているものがあったら二三枚くれ。ザラ半紙でもいいんだ。」
「ザラでよけりゃあ、ここに沢山ある。」
 と、田上が総務用と書いた紙挟みの中から一帖のザラ半紙をとり出した。新賀はその中から、いいかげんに何枚かひきぬいて、それをひらひらさせながら、
「余白がなくなったら、これに署名してくれ。あとでいっしょにとじるんだから。」
 そのあと、室じゅうが急にざわめき出したが、そのざわめきの底には、異様な不安が流れていた。あるものはこわばった微笑をもらし、あるものはわざとらしく背伸びをした。中には自分の感情をいつわるだけの余裕がなく、いくぶん青ざめた顔をしているものもあった。座長席にいた田上は、誰よりも厳粛な顔をして自分の目のまえの血書を見つめていたが、急に気がついたように万年筆をとりあげ、
「じゃあ、新賀のつぎには、僕に書かしてもらおう。」
 と、新賀のやったとおりのことを、かなり手ぎわよくやってのけた。
 田上の血判が終ると、五六名がほとんど同時に立ち上って教卓の方につめかけた。その中には梅本や大山もまじっていた。大山は、自分の順番になるのを待っている間に、ひょいと次郎の方をふりむき、
「本田、もう君に教わらなくても、やり方がわかったよ。」
 と、その満月のような顔をにこにこさせた。次郎はそれに対してすこし顔をあからめたきりだった。
 署名血判は、こうしてつぎつぎに進んでいった。そして二十名近くもそれを終ったころには、室内の空気はもうまるで一変していた。それはすでに血判を終って不安から解放されたものたちが、自由な気持でふざけあったり、ペンナイフを握ったままぐずぐずしている、思いきりのわるい新血判者たちを、はやし立てたりしたからであった。
 そうした空気の中で、次郎も署名した。血判には左の中指を切ったが、幸いに誰もあやしむものがなかった。紙をまきつけていたくすり指はふかく折りまげてかくしていたのである。
 馬田もしぶしぶながら最後近くなってとうとう署名した。彼は血判を恐がるような男ではなかった。しかし、血書が明らかに次郎の書いたものであることを知っていたし、それに第一、ストライキがそれで封じられてしまう結果になることが残念でならなかったので、最初のうち、署名反対者が一人でもあらわれたら、それに自分も便乗びんじょうしようという肚でいたのだった。ところが、署名者の数がふえるにつれて室内の空気がゆるみ出し、まるでスポーツの応援でもやるような気分でひとりびとりの署名血判がはやし立てられるようになると、もう彼は反対者の出現を期待するわけには行かなくなって来た。事実、彼の一味であったものたちまでが、何の思慮もなく、ただ「男らしく」ありたい一心から、進んで血判をしてしまったのである。そして、そうなると、彼自身も「男らしく」振舞うよりほかに、もう手はなかったのである。
 次郎をはじめ、新賀も、梅本も、そうした空気の中で署名血判が進行して行くことに、かなりの不満を感じていた。彼らにとっては、すべてはもっと厳粛でなけれはならなかったのである。しかし、こうしてともかくも校友会の委員がもれなく署名し、血判まで押すことになったということは、何といっても大きな成功であり、めいめいに心のどこかで何か割りきれないものを感じながらも、それとなくおたがいに顔を見合って喜びあわないわけにはいかなかった。
 全部の署名が終るまでには、たっぷり一時間半はかかった。紙数は血書の本文を書いた物のほかにザラ紙二枚を必要とした。新賀は一枚一枚それに目をとおした。名前の書き方にひどく大小があり、血判にも気味のわるいほどべっとりしたのや、あるかないかのちょっぴりしたのがあった。新賀は目をとおしながらときどき微笑した。そして、最後に默ってそれを重ねると、田上に渡した。田上は何かうなずきながらそれをうけとったが、あらたまったようにみんなの方をむいて言った。
「平尾君をのぞいて、校友会の委員全部がこの願書に署名したわけだが、これ以上に署名者をひろげる必要があるかどうか、ひろげるとすれば、五年だけにとどめるのか、或は四年以下にもひろげるのか、その点についてこれからみんなで相談したい。」
 すると、馬田がまちかまえていたように、真先に発言した。
「そりゃ、むろん、全校にひろげなくてはうそだよ。朝倉先生の留任は八百学徒の総意だという意味が、その願書にも書いてあるんだから。」
 しかしこれには誰も賛成するものがなかった。ある者は「それは実行不可能だ」と言い、ある者は「そんなことをしていたら、願書を出すのはいつになるかわからない」と言い、またある者は「それこそぶちこわしになるもとだ」と言った。しかしいろいろの反対論のなかで、何ということなしにみんなの心にひびいたのは大山の言葉だった。彼はいつになくしんみりした調子で言った。
「一年や二年の小さい生徒にまで血判をさせるのは、かわいそうだよ。」
 馬田の意見が葬られたあと、四年以上全部説、五年全部説、各学級代表説などが、つぎつぎに出た。そしてそのいずれについても、かなり烈しい議論が戦わされ、とりわけ五年全部説には相当多数の支持者があったが、結局、校友会委員は全校生徒を代表するし、それに血書提出の時期は一刻も早い方がいいという意見が勝ちを占めて、署名者はこれ以上ひろげないということに落ちついてしまった。そして最後に、血書はいつ誰が提出するかということが問題になったが、これについては、田上がみんなの意見をきくまえに、つぎのような希望的意見をのべた。
「総務である平尾が、ひとりだけ委員の中からぬけているのは、全校代表という点から考えて面白くない。自分はきょうのうちに極力彼を勧誘して署名をさせたいと思う。もし彼が応ずれば、むろん総務の一人として提出者の一人に加わってもらわなければならない。提出者は、総務二人のほかに、もう二人ぐらい加わってもらって、四人ぐらいが適当だと思う。しかし、万一平尾が応じなければ、三人で結構である。提出の時期は、早ければ早いほどいいし、これからすぐにも校長の私宅をたずねたい気がするが、平尾の問題があるから、きょうだけは我慢したい。とにかく、平尾が応ずる応じないにかかわらず、あすは必ず始業前に血書を校長に手渡しするつもりだ。」
 これに対しては、誰も異議を唱えるものはなかった。また、総務以外の二人の人選についても田上に一任するということになった。すると田上は即座に新賀と梅本の二人を指名した。新賀はきょうの会議に血書を持出した本人であり、梅本は平尾攻撃の急先鋒だったが、これからはもっと協調する必要がある、というのがその理由であった。みんなはほがらかな笑いごえと拍手をもってこの人選に賛意を表した。新賀も梅本も、むろん喜んで血書提出の役割をひきうけることを誓ったが、二人とも、心のどこかに何か割りきれないものを感じていた。それは、血書の作製者である次郎本人が、自分の希望からだとはいえ、あまりにも表面からかくれすぎてしまったように思えたからであった。
 田上と新賀と梅本とをのこして、みんなはすぐ解散した。血判をやったということが、今は彼らに何か大きな誇りででもあるように感じられ、階段を下りる彼らの足どりはいつも以上にはずんでいた。それにしても、血書を書いたのはいったい誰だろう、ということが、帰途についた彼らのほとんどすべての話題になったが、次郎本人と馬田と大山のほかには、むろん誰にも見当がつかなかった。次郎は出来るだけそれを秘密にして置きたかったし、馬田は次郎を英雄にするのがいやだったし、大山は新賀がわざわざ秘密にしたものを物識り顔にしゃべりちらすほど、うすっぺらな男でもなかったので、彼らと道づれをしたものも、それについてたしかな根拠のある話は何もきくことが出来なかった。そして次郎に道づれがなくなり、めいめいが自分の家に帰りつくころには、彼らの多くは、主の知れない血書のことよりか、自分自身が血判をした瞬間のことを、より鮮明に思いおこしていたのである。
 次郎は、家に帰りついた時には、いつになくつかれていた。昨日来のつづけざまの緊張が急にゆるんだせいか、変に淋しい気持にさえなっていた。彼は何も考えないで、すぐひるねをしたいと思った。しかし一方では、父の顔が見たかった。きょうの学校での出来事について、父と話がしてみたかった。で、いったん二階にあがって畳の上にねころんではみたが、すぐまた起きあがって畑に出た。
 俊売はトマト畑にしゃがんで、しきりにわき芽をつんでいた。どこかに出かけて帰って来たばかりなのか、或はこれから出かけるところなのかいつも外出の時に着る白の詰襟服にカンカン帽をかぶり、ステッキまでもっている。次郎が「ただいま」と言うと、ちょっとふりむいて、「きょうはおそかったね。」と言ったきり、わき芽をさがすのに夢中である。
「きょうは校友会の委員会だったんです。朝倉先生のことで。」
 次郎は、そう言って、俊亮のすぐわきにしゃがんだ。
「そうか。私もきょうは朝倉先生をおたずねして今帰って来たところだ。」
 次郎はおどろいたというよりも、むしろぽかんとして父の顔を見た。
 俊亮はただ微笑していた。次郎はそのうちにやっと自分をとりもどしたが、何をどうたずねていいかはまだわからなかった。父が、ゆうべのきょう、さっそく朝倉先生を訪ねたということが、彼にとってはあまりにも意外のことだったのである。
「先生にはお前もながいこと特別のお世話になっていたし、ちょっとごあいさつをしておきたいと思ってね。」
 俊亮は、トマトのしげみをのぞきこみながら、しばらくして言った。次郎は、それで、またあきれたように父の顔を見た。まさかもうお別れのごあいさつではあるまい。それにしても、「ごあいさつ」という言葉が気にかかる。父が朝倉先生の辞職をほぼ決定的だと考えているらしいことは、ゆうべの口ぶりからもおおよそ想像されるが、しかし、自分たちが留任運動をはじめようとしていることを知りぬいていながら、何でそんなにごあいさつをいそぐのか、それが彼にはふしぎでならなかったのである。
 あるいは留任運動について先生のお気持をさぐりたいためにたずねたのではあるまいか。それが平尾と全く同じ目的ではないにしても、何だかいやな気がする。――彼はもうだまってはいられなくなった。
「ゆうべのこと、先生に話したんですか。」
「話したよ。」
 俊亮は平気で答えた。次郎は父がにくらしい気になりながら、せきこんでたずねた。
「先生はどう言っていられたんです。」
「べつに何とも言われなかった。ただ、かわいそうに、と言って気の毒そうな顔をしていられただけだよ。」
 次郎は打ちのめされた感じだった。もう何も言う元気がなかった。だまってうなだれていると、俊亮はトマトのわき芽をつむのをやめて立ちあがりながら、
「おまえも一度先生をおたずねするといいね。先生の方でも待っておいでのようだよ。」
「ええ――」
 次郎はあいまいな返事をした。そして父がカンカン帽をかぶりなおしながら鶏舎の方に行くのを見おくっていたが、急に自分も立ち上っておも屋の方に行き、二階にかけあがるとぐったりと畳の上に寝ころんで、大きなため息をついた。

四 いろいろの眼


 血書は約束どおり、あくる日、始業前に花山校長に提出された。平尾も、田上の勧告で、署名血判には案外すなおに同意した。しかし、みんなを代表して校長室に顔を出すことについては、彼は最初のうちなかなかうんとは言わなかった。田上が、君は総務としてただ顔を出してさえくれればいい、校長との応酬は一切自分がひきうけるから、と、なるだけ彼の責任をかろくするようなことを言ったので、やっとのこと彼も承知したのであった。
 校長室における会見の様子は、あとで四人が――と言っても平尾はあまりしゃべらなかったが――みんなに話したところによると、かなり悲哀感をそそるものだったらしい。元来花山校長の鼻は、馬田が次郎のうちで言ったように、実際いかにもちょっぴりしている。恰好だけは、美人の鼻といってもいいほどととのっているのだが、顔の面積に比較して、それがあまりにも小さすぎるのである。血色のわるい、それでいていやにつるつる光っているだだっ広い顔のまんなかに、つつましすぎるほどつつましく、そしてそれ故に安定しすぎるほど安定してくっついているその鼻を、校長就任のその日以来、生徒たちは「ピラミッド遠望」と呼んで鑑賞しているのであるが、それは決して的はずれの形容だとはいえない。生徒間に、それほど安定した印象をあたえているその鼻が、血書を差出した瞬間、ぴくりと動き、しかも多少額の方にずれたように感じられたというのだから、およそ、その場の光景が察しられるであろう。
 四人がこもごも語ったところを綜合すると、こうである。――
 校長は、最初鼻だけをぴくりと動かしたきり、眼玉も口も動かさなかった。眼玉はテーブルの上の血書にそそがれていたが、それを読んでいるようには思えなかった。そのうちに、結んだままの口が、うがいでもする時のように、むくむく動き出した。そして、それがやっと開いたかと思うと、しゃがれた女のような声で「これは、知事閣下にも、お見せしなけりゃならんのか。」と、わかりきったことをたずねた。田上が「むろんそうです。」と答えると、またぴくりと鼻を動かし、「こんなものを知事閣下にお見せ出来ると思うのか。君らにはまるで常識がない。どうかそんなむりは言わないでくれ。」と、泣いているのか、怒っているのかわからないような声で言った。四人共、その時は、こんなのが自分たちの学校の校長だろうか、という気がして、実際なさけなかったそうである。田上が「僕たちは朝倉先生の留任さえ実現すればいいのですから、校長先生がそれを保証して下さるなら、血書の処置はお任せしましょう。」と言うと、校長は何と思ったか、急に椅子から立ち上って、四人の顔をひとりびとり念入りに見まわした。そして何度も首をふっていたが、おしまいに、永いため息をついて、「君らの非常識には全くあきれてしまう。朝倉先生の退職は県の方針できまったことだ。県の方針で一旦きまった以上、校長としてはどうにもならないではないか、それが君らにはわからんのか。」と言った。そして、もう一度永いため息をついて、どたりと椅子に腰をおろしたが、いかにも思いなやんでいるように眼をつぶって、ひとりごとのように言った。「そりゃ、朝倉先生が惜しい先生だということは私にもよくわかっている。いや、誰よりも私が一番よくわかっているつもりだ。だから、君らが先生の留任を願い出る気持には心から同情する。しかし、何しろこれは県の方針できまったことなんだから、おたがいにあきらめるより仕方がないではないか。」
 それから田上と校長との間に、二三押問答があったが、校長は同じことをくりかえしてはため息をつくだけで、一向らちがあかない。四人のうちでも比較的気短かで、ぶっきらぼうの新賀は、たまりかねたように言った。「では、その願書はお返し下さい。僕たちで直接知事さんに差出しますから。」すると、校長は、いきなり血書をわしづかみにして、大あわてでそれを、かくしにつっこんだ。そしてもう一度椅子から立ち上り、右手を顔のまえに立て、まるでばね仕掛のようにそれを左右にふった。何か言おうとしているらしかったが、四人の耳にはただ「うん、うん」ときこえるだけだった。梅本の言うところでは、校長の鼻がもっと烈しく上の方に移動したように見えたのは、その時だったそうである。新賀はすっかりおこり出してしまった。彼はそれまでみんなのうしろの方に立っていたが、いきなり田上をつきのけるようにして校長の机のまえに寄って行き、乱暴に手をさし出しながら言った。「その願書はわれわれの血でそめたものです。それをむだには出来ません。返して下さい。」校長は、しかし、ただやたらに手をふっているだけだった。
 その時、教員室との間の戸ががらりとあいて、教頭の西山先生がはいって来た。西山先生は、三角形のまぶたの奥に小さな眼をいつも鋭く光らせている先生だったが、この時はいやににこにこしていた。手に小さな紙片をもっていたが、それを默って校長に渡すと、すぐまた教員室の方にひきかえした。校長はその紙片を見て何度もうなずいた。そして、それをもみくちゃにして机の下の塵籠ちりかごになげこむと、今までとはうって変った落ちつきぶりを見せ、ゆったりと椅子に腰をおろしながら言った。「そうむきになることはない。私はさっきも言ったとおり君らの気持には十分同情しているんだ。君らが血を流して書いたものをまるでむだにするなんて、第一、人間としてそんなことが出来るものではない。幸い今日は県庁に出掛る用事も出来たし、知事閣下に直接お目にかかれるかどうかはわからないが、学務課までにはこの願書を必ず出しておくよ。それで、今度は私の方から君らに願っておきたいが、どうかみんなが落ちついて教室に出るようにしてくれたまえ。変にさわいだりして知事閣下の面目をきずつけるようなことになっては、何もかもぶちこわしになるんだから。いいかね。
 新賀はひょうし抜けがして三人をふりかえった。三人もおたがいに顔を見合わせているだけである。すると校長はもう一度、「いいかね、君らを信頼してたのんでおくよ。」と、念を押し、「じゃあ、私はすぐ県庁に出かけなけりゃならんから。」と、あたふたと帽子掛の方に行って帽子をかぶった。そこで四人も默ったまま、校長のあとについて室を出て来た、というのである。
 四人の報告は、みんなをふき出させたり、憤慨させたり、不安がらせたりした。しかし、ともかくも血書が県庁に差出されるようになったということで、一応納得なっとくするよりほかなかった。校長が教頭から紙片を受取ったあと、急に様子が変ったということについては、四人をはじめみんなも不審に思い、うまくペテンにかけられたのではないか、などというものがいたが、事情は間もなく判明した。それは、教員室で先生たちがひそかに話しあっていることが、給仕の口をとおして、いちいち生徒の耳にはいって来たからであった。
 それによると、血書のことは、もう昨日のうちに警察や憲兵隊の耳にも入り、県の学務課にも通報されていたらしい。今朝はさっそくそのことで学務課の方から電話がかかって来た。校長はちょうどその時四人の代表と会っている最中だったので、教頭が代ってそのことを報告すると、では一応おだやかにその血書を受取るがいい。そして校長自身それをもってすぐ県庁に出頭するように、ということだった。教頭が紙片に書いて校長に渡したのは、そのことだったにちがいない、というのである。
 校友会の委員たちは、その日じゅう、めいめいに校長の動静に注意した。休み時間になると、あるものは用もないのに校長室のまえの廊下を何度も往復し、あるものは校庭の遠いところから校長室をそれとなくのぞいて見た。しかし、校長室はいつもからっぽだった。校長は県庁に出て行ったきり、帰ったのかどうかもはっきりしなかった。
 校長室がひっそりしているのにひきかえて、教員室は何となく落ちつきがなかった。三人、五人とかたまって立ち話をしている様子が、あけ放した窓から、いつも生徒たちの眼にうつった。また四年や五年の教室に出て来る先生たちの態度にも、ふだんとかなりちがったところがあった。いつも駄じゃれをとばすのを得意にしている先生がいやにまじめだったり、これまで教科書以外の話なんか一度もしたことのない先生が、とってつけたように、修身めいた話をし出したり、また中には、変ににやにやしながら、「こないだ大垣前校長からお手紙をいただいてね。」と、その手紙の中に書いてあったという一二の文句を引き出して、前校長をほめ、自分と前校長の間には何か特別の関係でもあったかのようにほのめかしたりする先生もあった。すべてこういうことが何を説明しているかは、生徒たちにむろんわかりすぎるほどわかっていた。だから休み時間になると、彼らはそれを材料にして先生たちの品定めをするのに忙しかった。こんな場合、いつも奇抜な思いつきをやるので人気のある五年の森川という生徒は、四年と五年の各教室をまわってその品定めをきいてあるいていたが、昼休みの時間には、もう校友会事務室の黒板に「教員適性審査採点表」というのを書きあげていた。校友会事務室は、生徒控所の横の小さな室で、間はガラス戸で仕切ってあったので、控所からはまる見えだった。校友会の委員たち五六名が中でわいわいさわいでいる声をききつけて、ふだんは遠慮しがちな一二年の生徒たちまでが押しよせて来たが、その採点表の左の端には、馬賊、チャップリン、かまきり、あざらし、おでん、花王石けん、長茄子、瓦煎餅、といったような先生たちのあだ名が縦にならんでおり、それに括弧かっこして受持学科名が書いてあった。そして、その右に点数欄と備考欄とがあったが、点数欄には五点というのが一つあるきりで、あとはみな四点以下だった。零点はさすがに一つもなかった。備考欄には、「品性下劣、御殿女中の如し」とか、「駈落かけおち三回心中未遂一回」とか、「野心満々、惜しむらくは低能」とか、「彼いつの日にか悔い改めん」とか、「愚鈍なるが如くにして、最も警戒を要す」とか、そういったさまざまの文句が、いっぱい書きつめてあった。五点の評点をもらったのは「あざらし」先生だったが、その備考欄には「性粗野にして稚気あり、陰険とは認めがたし、合否の判定は後日会議の結果にまつ」とあった。
 この採点表の波紋は決して小さくなかった。押しよせた生徒たちにまじって、あとでは先生たちまでが代る代るのぞきに来た。生徒たちは、採点表にのっている先生が来ると、一々その点数を大声で叫んだ。中には、備考欄まで読みあげる者もあった。先生の中には、自分で自分の綽名をよく知っている先生もあり、そうでない先生もあったが、そんなことで、どの先生もいやでも自分の綽名をはっきり知らされるという結果になった。もっとも、中学の先生で、自分にかぎって綽名はないなどと安心しているほどいい気な先生はないはずなのだから、それは大したことではなかったかも知れない。しかし、綽名といっしょに、自分の点数ときびしい評語とを知らなければならなかったということは、何といっても最近の大きな試煉であったに相違ない。ある先生は顔をひきつらせてガラス戸のまえに棒立になり、ある先生は一たん顔をまっかにしたあと、強いて微笑をもらした。しかしどの先生も最後には、自分にはまるで関係のないことだ、といったような顔をしてその場を立ち去った。ただ「あざらし」先生だけは、その綽名が自他共にゆるすほど有名になっていて、ごまかしがきかなかったためか、それとも、備考欄にあった通り、事実粗野の稚気ある性格の持主であったためか、その大きな口を思いきり横にひろげて、よごれた上歯をむき出し、天井を向いた鼻の下に灰色のあらいひげを針のように立て、内をのぞきながら、「わっはっは」と笑った。そして、「わしだけは合格の見込があるちゅうのか。どうかよろしくたのむよ。」と言うと、くるりとうしろを向いて、もう一度「わっはっは」と笑い、歯をむき出したまま、むらがっている生徒たちを押しわけて帰って行った。
 こんなふうで、校内はその日じゅう決して静かであったとはいえなかった。下級の教室までが何とはなしに落ちつきを失っていた。ふだんなら何でもないことにまで先生たちの神経がとがり、先生たちの神経がとがればとがるほど、生徒たちはその神経にさわってみるのを楽しむといったふうであった。大垣前校長は、いつも先生たちに向かって、「生徒というものは、自分たちのために先生が命をすてるまでは、その先生を偉い先生だとは思わないものだ。それを覚悟の上でなくては、真の教育は出来ない。」と言っていたが、その意味をほんとうに理解した先生は、朝倉先生をのぞいては、おそらく一人もいなかったろうし、今では、どの先生にも、そんな言葉は単に言葉としてでも思い出されていそうになかった。こうして先生たちは自分を下手に護ろうとして、一歩一歩と自分を生徒たちの侮辱と嘲笑の中に追いこんでいたのである。
 次郎は、学校のこんな様子を、終日いかにも淋しそうに見守っていた。彼は、花山校長の鼻の移動の話をきいてもほとんど笑わなかったし、森川の「教員適性審査採点表」を見た時には、むしろにがい顔をして、ひとりで校庭にぬけ出したほどだった。ふだんから、彼はそう出しゃばる方ではなかったが、それでも、校友会の委員会などでは、新賀や梅本と共にかなり意見を発表する方だった。それが昨日以来、まったく沈默を守りつづけている。きょうはことに新賀や梅本に対してもあまり口をきかない。今朝あたりまでは、誰もそれを気にとめなかったのだが、みんなが笑うときに笑いもせず、また先生たちの品定めや、事件のこれからの成行きについて、みんなが非常な関心をもって話しあっているのに、自分ひとりで校庭をぶらつきまわったりしている彼の様子が、いつまでも周囲の注意をひかないでいるはずがなかった。しかも彼が、同級生の大部分がまだ朝倉先生の顔も知らない一二年の頃から、室崎事件や宝鏡先生事件を通じて先生から大きな感化をうけ、その後、白鳥会の一員にも加わって、先生の心酔者の中でもその第一人者になっていることは、誰でも知っていることである。こんな時こそ彼はみんなの先頭に立って活動すべきではないか。そうした考えが、一般の生徒たちの頭に浮んで来るのはごく自然であった。
「本田のやつ、どうしたんだろう。いやに考えこんでばかりいるじゃないか。」
「悲観しきって、どうにもならないんだろう。」
「朝倉先生にお別れするからかい。」
「そうだよ。あいつはまるで恋人のように朝倉先生を慕っていたからね。」
「しかし、それなら、なおさらこんな時には活躍しそうなものじゃないか。」
「活躍する元気がないほど打撃をうけているとすると、大いに同情に値するね。」
「そんなばかなことがあるもんか。何かほかにわけがあるんだよ、きっと。」
 二三人が渡り廊下に背をもたせてそんなことを話しているところへ、馬田がやって来て、仲間に加わった。
「何だい、わけがあるって。」
「本田のことだよ。あいつ、朝倉先生の問題だというのに、昨日から一言も口をきかないのがふしぎだって話しているんだよ。」
「ふうん、本田か。……あいつはだめな奴さ。」
「どうして?」
「まず、平尾と同類項だろうね。」
「本田が?……まさか。」
「しかし、昨日からのあいつの態度が証明しているよ。なるだけいい子になろうとしているにちがいないんだ。」
「僕には、本田がそんな卑劣な男だとは思えないがね。」
「ふふん。」
 馬田はあざけるように笑った。
 馬田は、実は昨日委員会が終ったあと、いつになく気がむしゃくしゃして家に帰って行ったのだった。次郎がみんなのどぎもをぬくような血書を書いたということが第一しゃくだったうえに、自分もついそれに署名しなければならないはめになり、いかにも次郎の尻馬に乗せられたような恰好になってしまったのが、何としても腹におさまりかねていたのである。で、夕食をすましたら、すぐいつもの仲間にどこかに集ってもらい、血書に何とかけちをつける一方、全校をあすにもストライキに導く計画を相談する肚でいた。ところが、食卓について不機嫌に箸をとっているうちに、ふとなぜ新賀はきょうみんなに次郎が血書を書いたことを秘密にしたのだろう、という疑問が起った。この疑問は、ふしぎに彼の気持を明るくした。というのは、彼は彼なりにそれに判断を下し、何だか次郎の弱点がつかめたように思ったからである。次郎は、自分から言い出したてまえ、どうなり血書を書くには書いたが、書いたあとで、事件の主謀者と見られるのがこわくなり、新賀に自分が書いたことを秘密にするという条件でそれを渡したにちがいない。そう彼は判断したのだった。そして、この判断はいよいよ彼を上機嫌にした。血書が大きな問題になればなるほど、次郎はしょげるにちがいない。血書にけちをつけるのも面白いが、それを出来るだけ大げさな問題にして、次郎がいよいよしょげるのを見るのはなお一層面白いことだ。ストライキはどうせ早かれおそかれ放っておいても始まることだし、何も自分が先に立ってあせることはない。彼は、そんなふうに考えて、ひとりでほくそ笑んだ。そして、きょうは、彼にしてはめずらしく早く登校して、それとなく次郎の様子に注意していたが、次郎の様子は、彼の判断を十分に裏書しているように思えたので、彼は内心ますます得意になっていたのである。
 しかし、彼は、血書が次郎によって書かれたということを誰にも発表する気にまだなれなかった。それは、彼の自尊心や競争意識が何ということなしにそれを許さない、というだけではなかった。彼にとって大事なことは、ストライキの場合のことだったが、万一にも、それを発表したために、次郎が捨鉢すてばちになり、進んでストライキの主導権をにぎるような結果になってしまっては、つまらない。次郎は徹底的にやっつけなければならないが、それには、彼をあくまでもストライキ反対の立場に立たせておくことが必要である。最後まで彼を反対の立場に立たせておき、いよいよストライキ決行という場合に彼が逃げをうったら、その時こそ血書のことを暴露すべきだ。血書まで書いて人を煽動しておきながら、自分だけ逃げるとは何という卑劣さだ! みんなはそう言って彼を責めるだろう。それに、どんなに彼が逃げを打とうと、学校当局や県庁が、血書を書いた本人を主謀者と認めないはずはないのだから、いよいよ面白い。――馬田の考えは頗る念入りだった。彼がそれほどまでに次郎に反感を持つようになった最も大きい原因が、道江にあったことはいうまでもない。
 馬田のあざけるような笑いを肯定するように、すぐ誰かが言った。
「そういえば、昨日本田は、変に人の顔ばかりのぞきながら血判をしていたが、ひょっとすると血判をごまかしたんじゃないかね。」
「血判はごまかそうたってごまかせないよ。みんなで見ているんだから。しかし、本田がそれをいやがっていたことはたしかだね。」
「それには何か特別な原因があったんじゃないかね。いつもの本田にしちゃあ、すこし可笑おかしかったよ。」
「馬田にはそれがわかっているんじゃないのか。」
 馬田は、また「ふふん」と笑った。そして、
「君らはすこし本田を買いかぶっていやしないかね。」
「そうかなあ。しかし、僕たちが入学した時のことを考えてみたまえ。五年生の鉄拳制裁にびくともしないで反抗したのは、本田だけだったぜ。」
 みんなの頭には五年まえの雨天体操場における恐ろしい光景がまざまざとよみがえって来た。その時の次郎の英雄的な態度は、忘れようとしても忘れられない記憶である。また、これはみんなが実際に見たわけではなかったが、「三つボタン」という綽名のあった始末におえない五年生の室崎を相手に、次郎が死物狂いの喧嘩をやって少しもひけをとらなかったという話は、あまりにも有名であり、雨天体操場の記憶とともに、自然、それもみんなの頭によみがえって来ないわけはなかった。
 馬田は、機を見るにはわりあい敏感なたちだった。それに、どうせ遠くないうちに何もかもわかるのだと思うと、今しいて次郎をけなす必要もないと思った。
「本田も、しかし、このごろは大ぶ思慮深くなっているからね。」
 彼は、そんな謎のような言葉を残して、さっさとその場をはなれてしまった。
 彼は、しかし、それからも、校内を方々歩きまわって、上級の生徒たちが幾人かかたまって話しているのを見つけては、その仲間に入り、それとなくストライキを煽動するようなことを言ったり、次郎をけなしたりすることを忘れなかった。
 その日、校長は県庁に行ったきり、ついに学校に顔を見せなかった。西山教頭が何度も電話口に呼び出され、ひるすぎには、五年全部の学籍簿がくせきぼを抱えて県庁に出かけた。ということが、給仕の口から生徒たちに伝えられた。生徒たちには、それが何を意味するかは、さっぱりわからなかった。それだけに、不安な空気はひけ時が近づくにつれ、次第にくなって行った。
 それでも、その日は、森川の教員適性審査以上に大した出来事もなく、ひけ時から二十分もたつと、校内には生徒の姿は一人も見られなくなった。ただ先生たちだけが校長の帰りをまつために居残っていたが、もう話の種もつきたらしく、どの先生も、いかにも所在しょざいなさそうな、それでいて何となく落着きのない眼をして、教員室を出たりはいったりしていた。
 次郎は、新賀や梅本といっしょに校門を出た。新智と梅本とは、案外早く血書が県庁に届けられるようになったが、これはいいことだろうか悪いことだろうかとか、それが警察や憲兵隊の意志によったものだとすれば、恐らく結果は悲観的だろうとか、いや、警察や憲兵隊までが気にやむぐらいだから、かえって有望かも知れないとか、そういったことをしきりに話しあったが、次郎はただ道づれをしているというだけで、ほとんど合槌あいづちさえうたなかった。そして、二人に、「気分でもわるいんじゃないか。」と心配されながら別れたが、それから二丁ほどの街角まで来ると、彼は急に立ちどまって考えこんだ。街角を左にまがって少し行ったところに朝倉先生の家があるのである。
「朝倉先生が待っておいでだ。」――昨日父にそう言われたことが、彼には一日気にかかっていた。しかし、なお一層気にかかっていたのは、血書を書いた自分のことを先生が「かわいそうに」と言われたということだった。最初この言葉を父の口をとおしてきいた時には、それがあまりにも予期しない言葉だったために、ただ面くらっただけだった。しかし、彼にとって、朝倉先生の言葉は、とりわけそれが彼自身のことに関して発せられた場合、どんな片言隻句せきくでも、軽い意味をもつものではなかった。彼はそのあと二階にねころんで、ひとりでいろいろと考えてみた。言葉がありふれた簡単なものだっただけに、かえって意味がつかみにくかった。もしそれが世間普通の人の口をもれた言葉だったら、血を流した自分に対する同情の言葉とも解されようし、また県当局という大きな相手を向こうにまわしたことに対するあわれみの言葉とも解されよう。しかし朝倉先生がそんな甘いお座なりを言われようはずがない。先生の愛情はもっと深いのだ。先生の言葉の奥にはいつもきびしさがある。われわれの心をむち打って一歩前進せしめないではおかないきびしさがある。先生はあるいは自分を始末に負えない飛びあがり者だと思われたかもしれない。「かわいそうに、己を知らないのにもほどがある!」それが先生のお気持だったのではあるまいか。
 そこまで考えて来た時に、ふと、隙間風のようにつめたく彼の頭をよぎったものがあった。それは、自分たちの運動が幸いに成功して、どうなり県当局の意志を動かし得たとして、先生は果して留任をがえんじられるだろうか、という疑問であった。この疑問は彼をほとんど絶望に近い気持にさそいこんで行った。先生のお気質として、そんなことが出来るはずがない。自分は、ただ一途に先生の留任を目あてに、血書を書いたりして一所懸命になっているが、先生にしてみると、落ちつくところは最初からはっきりきまっていたのだ。自分はただストライキに口火を与えるために、そして先生の最後に泥を塗るためにあの血書を書いたのではなかったのか。
 そう考えると、「かわいそうに」という先生の言葉の意味は、これまで考えたのとはまるでちがったものになって来た。先生は、その言葉に何もとくべつな意味をもたせようとされたのではない。ただ先生のはっきりしたご決意と自分に対する愛情とが結びついて、何の作為さくいもなくそんな言葉となってあらわれたまでだ。それにしても、先生のそのご決意について、自分がこれまで一度も考えてみようとさえしなかったということは、何という愚かさだったろう。先生が自分をどう考えていられようと、その意味で、自分はたしかに己を知らない飛びあがり者だったにちがいないのだ! 次郎の自己反省は、昨日以来、こんなふうに次第に深まって行くばかりだった。「かわいそうに」という言葉を、先生のごく自然な愛情の言葉だと思えば思うほど、それが深まって行くのだった。しかし、そうした自己反省の苦しみは、彼にとってはそうめずらしいことではなかった。彼は中学入学以来、とりわけ白鳥会入会後は、絶えず自己反省の苦しみを味わって来た、といっても言いすぎではなかったのである。だから、もしそれに朝倉先生の問題が直接結びついていなかったとすれば、彼は、きょう学校で、同級生たちにあやしまれるほど暗い顔はしていなかったかも知れない。彼を絶望に近いほどの気持にさそいこんで行ったのは、何といっても、朝倉先生の辞任が決定的であるということに気がついたことであった。彼はそれを思うと、もう何も考える力がなかった。幼いころ、乳母のお浜にわかれたあとのあのうつろな気持、母に死別れたあとのあのしなえるような気持、それがそのまま現実となって身にせまって来るような感じがして、きょうは朝から誰とも口をきく気になれなかったのである。
 街角に立って考えこんでいた次郎は、思いきったように道を左にとった。
 朝倉先生の家の玄関はひっそりしていた。案内を乞うと、裏口から奥さんがたすきがけのまま出て来て、
「まあ、本田さん、しばらくでしたわね。さあどうぞ。先生は書斎ですわ。」
 次郎は、強いていつもの通りの気安さをよそおって、靴のひもをといた。
「昨日はお父さんがいらっして下すって、きれいなお卵をたくさんいただきましたわ……鶏の方も、本田さん毎日お手伝い?」
「ええ、ときどき。」
 次郎は廊下をとおって書斎に行った。朝倉先生は机の上に巻紙をひろげてしきりに手紙を書いていた。もう五六通書きあげたらしく、封をしたのが机のすみに重ねてあった。次郎が敷居のすぐ近くに坐ってお辞儀をすると、
「やあ、いらっしゃい。……ついでにこれだけ書いてしまうから、ちょっと失敬するよ。」
 次郎は縁側ににじり出て、あぐらをかき、ぼんやり庭を眺めた。午後三時の日が、庭隅の夏蜜柑の葉を銀色にてらしているのが、いやにまぶしかった。
 五六分もたつと、朝倉先生は手紙を書き終えて、自分も縁側に出て来た。
「昨日はお父さんにいいものをいただいてありがとう。……君は当分来ないのかと思っていたが、よく来てくれたね。」
「先生、僕、申しわけないことをしてしまいました。」
 次郎は急いで膝を正し、縁板に両手をついた。
「血書のことが気になるのか。」
 と、朝倉先生は、ちょっと思案しあんしていたが、
「しかし、私はうれしいんだよ。私のために血書まで書いてくれる教え子がいるのかと思うと。」
 次郎は、これまでにも、しばしば、自分の全く予期しない言葉を朝倉先生の口からきいて驚くことがあった。しかし、今の言葉ほど彼を驚かした言葉はなかった。これまでは、次郎が自分の考えに裏書してもらえると思っている時に、かえってそれを否定されたり、何か得意になっている時に、きびしい反省を要求されたりする場合が多かった。今のはまるでその逆だったということが、彼にとっては、この上もない驚きだったのである。
 彼のこの驚きは、同時に、目がしらのあつくなるような感激でもあった。彼はうつむいたまま、縁板についた手を、まるで女の子みたようにもじもじさした。朝倉先生はそれを見まもりながら、「君のお父さんは、君のやったことを生ぐさいと言っていられたが、なるほど生ぐさいといえば生ぐさい。たしかに思慮の足りないやり方だし、それに文明的ではないからね。しかし人間の真実な気持というものは、そのあらわれ方がどうであろうと、やはりうれしいものだよ。私はそれを味わうだけは素直すなおに味わいたいんだ。むろん私には私の行く道があるし、君の真実な気持を味わったからって、その道まで変えるわけにはいかないがね。」
 次郎は感激と失望の旋風せんぷうの中に、やっと身をささえているだけだった。あふれて来る涙が膝の上につっぱった腕をすべって、まだらに縁板をぬらした。
「それはそうと――」
 と、朝倉先生はわざと次郎から眼をそらしながら、
「学校の様子はどうかね。血書はやはり出したのか。」
「ええ……出しました。」
「君自身で?」
「いいえ、総務二人に新賀と梅本とが代表になったんです。」
「むろん校長先生に出したんだろうね。」
「ええ。しかし、もう県庁でも見ているんでしょう。校長先生が県庁にそれをもって行かれたそうですから。」
「そうか。」
 と、朝倉先生はしばらく考えこんだ。それから、伸びあがるようにして、生垣ごしに門の方を見、何度も首をふっていたが、
「そうか。じゃあ君はきょうここに来るんじゃなかったね。今度のことがすっかり片づくまでは、これからも君は来ない方がいいよ。君ばかりじゃない、新賀や梅本やそのほかの連中も同じだ。君のお父さんにも、当分お出で下さらんように言っておいてくれたまえ。」
「どうしてです。」
 次郎は、まだ涙のすっかりかわききれない眼を見はってたずねた。
「今の時代は、やたらに犬ばかりがふえて行く時代だからね。実は、この家のまえあたりにも、きょうの昼頃から背広を着た犬がうろつき出したらしいよ。」

 朝倉先生の声は低かったが、めずらしく憤りにみちた声だった。次郎は、さっき自分が街角に立って考えている時、変にじろじろ自分の顔を見て、二度ほどそばを通りぬけた四十近くの男のことを思い起した。

五 道江をめぐって


 次郎は、まもなく、せきたてられるようにして、朝倉先生の門を出た。門を出るとすぐ、彼はまえうしろを見まわした。それから、曲り角のところまで来て左右を見、もう一度朝倉先生の門の方をふりかえったが、来しなに自分の顔をのぞいた男は、もうどこにも見えなかった。
 日はまだかなり高かった。かわいた砂地の照りかえしが眼にぎらついて、頭のしんが痛いようだった。彼は、何も考える気力がなく、ただいらいらした気持で町はずれまで来た。
 町はずれからは松並木の土手が広々とした青田のなかをうねってつづいている。左は、ほぼ五六間ほどの川で、向こう岸もやはり松並木の土手である。旧藩時代のさる名高い土木家が、北山の水を町にひくために開鑿かいさくした水路だそうだが、いつも探さ一二尺ほどの清冽せいれつな水が、かなりな速度で、白砂の上を走っている。その水は町に流れ入る直前に直角にまがって一丁ほど東に流れ、もう一度直角に南にまがって、町はずれの橋の下をくぐっているのであるが、その角のあたりには、背丈せたけぐらいの渕が出来ており、夏になると、このへんの子供たちは、よくそこで水をあびる。土手をとおって通学している中学生の中にも、学校のかえり途には、子供たちにまじって水をあびて行くものが少くはない。次郎もおりおりその仲間に加わる一人だが、きょうは、とくべつ暑かったにもかかわらず、そこを見むきもしないで通りぬけてしまった。それから五六分も行くと、一心橋という橋がかかっており、道をへだてて、駄菓子やところてんなどを売る小さな茶店がある。次郎は、その半丁ほど手まえに来たとき、今までうつむきがちになっていた顔をあげて、ふと向こうを見た。すると、橋のたもとの大きな松の木かげに、帽子をわしづかみにして向こうむきに立っている一人の中学生が眼にとまった。馬田である。制服のボタンをすっかりはずして胸をはだけているらしく、襟が首の両がわにはね出し、腰にあてた左手のうしろに裾がたくれあがっている。
 次郎は思わず立ちどまった。馬田と言葉をかわすのが、きょうはとくべついやな気がするのだった。しかし、彼はかくれる気にはなれなかった。かくれたりするのは、相手が馬田であるだけに、よけい卑屈なように思えたのである。
 彼は立ちどまったまま、しばらくじっと馬田のうしろ姿を見つめていた。すると馬田は、わしづかみにしていた帽子をふりあげて、つづけざまに二三度、つよく自分の股をなぐりつけた。それは、彼が何かやりそこないをしたり、しゃくにさわったりする時に、よくやるくせなのである。
 次郎は、ふしぎにも思い、いくらか滑稽にも感じながら、歩き出そうとした。が、そのとき馬田のほかにもう一人、彼の眼にうつった人影があった。それは、土手のずっと向こうの方を小走りに走って行く女学生の姿であった。その制服姿は、もううしろから見たのではちょっと誰だか判断がつきかねるほど遠ざかっていたが、次郎にはそれが道江だということが一目でわかった。
 次郎のふみ出した足はひとりでにもとにもどった。彼は棒立ちになったまま、道江から馬田へ、馬田から道江へと、何度も視線を往復させた。そして最後に唾をごくりと飲み、自分を落ちつけるためにかなりの努力を払ったあと、わざとのように足音を立てて歩き出した。
 馬田には、しかし、次郎の足音がきこえなかったらしい。彼は相変らず道江のうしろ姿を、見おくっていた。そして、もう一度帽子で股をなぐりつけたが、そのあと「ちえっ」と舌うちしながら、道を横ぎって茶店の中にはいって行った。次郎との距離は、もうその時には、わずか二三間しかなかったが、やはり首をねじって道江の姿を追っていたせいか、次郎の近づいたのにはまるで気がつかなかったらしい。
 次郎は、顔を真正面にむけたまま、茶店のまえをとおった。針金で全身をしばられているような変に固い気持だった。店の中の様子はまるで見えなかったし、馬田がどのへんにいるかは、むろんわからなかった。ただ、店先に近い水桶の底に、半透明に光って沈んでいる何本かのところてんが、かすかに彼の眼をかすめただけであった。
 彼は、自分の方から馬田に言葉をかける気にはまるでなれなかったが、しかし、馬田の方から言葉をかけられることは、十分覚悟もしていたし、心のどこかでは、むしろ期待もしていた。ところが、茶店のまえをとおり過ぎて四五間行っても、誰も声をかけるものがなかった。彼は安心とも失望ともつかぬ変な気持になり、われしらずうしろをふりむいた。
 すると、馬田が茶店のかど口に立って、こちらを見ていた。そのしまりのない口は冷笑でゆがんでいる。次郎は、しかたなしに立ちどまった。
 二人は、かなり永いこと、無言のまま顔を見あっていた。どちらからも歩みよろうとも、言葉をかけようともしない。次郎は、しかし、そのうちに、いつまでもそうしているのがばかばかしくなって来た。彼は思いきって馬田に背を向けようとした。すると、馬田がとうとう口をきった。
「本田、ずるいぞ。」
「何がずるいんだ。」
 と、次郎は、また馬田の方にまともに向きなおった。
「僕がここにいること、君は知っていたんだろう。」
「知っていたさ。」
 次郎はごまかさなかった。ごまかすどころか、そう答えることによって、皮肉な喜びをさえ味わっていたのである。
「知っていて、なぜだまって通りぬけるんだ。」
「用がないからさ。」
「なに、用がないから?」
 馬田は、左肩をまえにつき出し、両肱をいからせながら、次郎の方によって来た。帽子はやはり右手にわしづかみにしたままである。
 次郎はだまって馬田の近づいて来るのを見ていた。馬田は、次郎から二三歩のところで立ちどまったが、その左肩はまだつき出したままだった。
「用がないからって知らん顔するのは失敬じゃないか。」
 次郎は返事をする代りに、穴のあくほど馬田の顔を見つめた。馬田は、その眼に出っくわすと、ちょっとたじろいたふうだったが、口だけは元気よく、
「失敬だとは思わんのか。」
 次郎は、それでも返事をしない。視線はやはり馬田の眼に一直線に注がれたままである。
 馬田も、それっきり口をきかなかった。二人は、かなり永いこと、にらみあったまま突っ立っていた。次郎が視線も手足も微動びどうもさせなかったのに反して、馬田の視線はたえず波うっており、その手足はいつももじもじと動いていた。
 馬田の視線がとうとう横にそれた。同時に、「ふふん」とあざけるような息が彼の鼻をもれた。
 次郎は、それでも一心に彼の顔を見つめていたが、急に、何と思ったか、くるりと向きをかえ、彼を置き去りにして、すたすたと歩き出した。
 松の木の間をもるひっそりした日ざしの中に、砂地をふむ靴音がざくざくと異様に高くひびいた。そのほかには何の物音もきこえない。
 しまりのない口を半ばひらいたまま、ぽかんとして次郎のうしろ姿を見おくっていた馬田は、次郎が十間以上も遠ざかったころ、つぶやくように「畜生!」と叫んだ。そして帽子をふりあげて、力まかせに自分の股をもう一度なぐりつけた。
 次郎の耳にもその音はきこえた。しかし、彼はふりむかなかった。そして、もうとうに見えなくなっている道江のあとを追うように、路をいそいだ。
 道江の家は、馬田と同じく橋を渡った向こうの村にある。彼女が学校の帰りに、大巻や本田に用があって、橋を渡らないでまっすぐこちらの土手を行くことはしばしばだが、きょうの様子は決してただごとではない。彼女は、或いは毎日のように馬田に学校の帰りをおびやかされているのではあるまいか。次郎は、ついこないだ自分の家の階段の上で、道江と馬田が出っくわした時のことを思いうかべながら、そんなふうに考えた。
 家に帰りつくと、すぐ彼は、道江が来てはいないかと思って、鶏舎の方まで行ってそれとなく彼女をさがした。しかし、来たような様子はなかった。で、彼はすぐその足で大巻をたずねた。
 大巻の家は彼の家から一丁とはへだたっていない。まきの立木をそのままくねらせた風変りな門をくぐると、生垣がつづいている。次郎は、その生垣のすき間から茶の間の方をのぞいて見た。すると、道江と姉の敏子とが、こちら向きに顔をならべているのが見えた。二人とも、縁板に足をなげ出し、障子をすっかり取りはらった敷居の上に尻をおちつけている。おりおりうなずきあったり、眉根をよせたりして、しきりに何か話しあっているが、声はききとれない。次郎にとって案外だったのは、道江の顔にちっとも興奮した様子が見えず、眉根をよせても、すぐそのあとから笑いに似た表情がもれていることだった。
 次郎は思いきって枝折戸しおりどのところまで行き、その上から眼だけをのぞかせて、声をかけた。
「叔母さん、はいってもいいんですか?」
 敏子は、叔母さんと呼ばれるにはまだあまりにもわかかったが、次郎は徹太郎を叔父さんと呼ぶ関係上、そう呼びならわしているのである。
「あら、次郎さん。……かまわないわ、そこからはいっていらっしゃい。」
 枝折戸は手で押すとわけなく開いた。次郎は、行儀よく二列にならんでいる朝顔鉢の間を通って、縁側に腰をかけると、ぬすむように道江の顔をのぞいた。
「次郎さん、今お帰り?」
 と、道江は、しかし平気な顔をしている。
「たった今。僕、道具をうちに置くと、すぐ来たんだよ。」
「そう? あたしもついさっき来たばかりなの。」
「僕、知っていたんだ。道江さんがこちらの土手を通るのを見ていたんだから。」
「あら、そう?」
 と、道江はちょっと眼を見張って、
「どこから見ていたの?」
「すぐうしろからさ。二丁ぐらいはなれていたかな。」
「あらっ!」
 と、道江は顔を真赤にしながら、
「じゃあ、千ちゃんのいたずら見ていたのね。」
 千太郎というのが馬田の名前なのである。
「いたずら? 僕、馬田がどんないたずらをしていたか知らないよ。僕は、馬田が橋のところに立って道江さんが走って行くのを眺めていたので、変だと思っただけさ。」
 次郎は何でもないような調子でそう言いながら、メスをあてられるまえの、ひやひやした気持で道江の答えをまった。しかし、道江が答えるまえに、敏子が口をはさんだ。
「千ちゃんのいたずらは、きょうだけではないらしいの。」
 そう言って彼女が説明したところによると、馬田のいたずらは、もうきょうで三度目で、いつも一心橋の向こうの土手のかげにねころんだりして、道江の帰りを待伏せている。最初の時は、だしぬけに彼女を呼びとめて手紙を渡した。道江がすぐそれを投げすてると、彼はあわててそれをひろいながら、何かおどかすようなことを言った。二度目は、しつこく道江のそばにくっついて歩きながら、いろんないやらしいことを言い、村の入口近くになっていきなり彼女の手を握ろうとしたが、彼女は大声を立てて逃げた。そしてきょうは三度目だが、道江の方で警戒していて、馬田のいるのがわかったので、すぐ橋を引きかえしてこちらに逃げて来た、というのである。
 道江は敏子が話している間、さほど深刻な表情もしていなかった。次郎はそれが物足りなくもあり、腹立たしくもあった。彼の家の二階で馬田と出っくわした時の様子から判断して、彼女が馬田をひどくきらっていることだけはたしかである。しかし、ただ馬田という人間をきらっているというだけではたよりない。こうしたことについては、女性の立場から、とりわけ純潔な処女の立場から、たえがたいほどの侮辱と憤りとを感じなければならないはずである。彼にはそう思えてならないのだった。
「それで、道江さん、どうするつもりなんだい。これから。」
 次郎は、詰問きつもんするようにたずねた。
「一心橋を渡らないで帰ることにするわ。少しまわり道をすればいいんだから。」
「逃げてさえいりゃあ、いいという気なんだな。」
「だって、それよりほかにないでしょう。」
 次郎はだまって朝顔の鉢に眼をやった。しぼんだ花が、だらりと、つるにくっついているのが、いやに彼の気持をいらだたせた。すると、
「次郎さんが女でしたら、どうなさる?――」
 と、敏子が微笑しながら、
「あたし、やっぱりそっと逃げている方が一番いいと思いますけれど。」
 敏子の言葉つきには、道江と同じ意味のことを言うにしても、どことはなしに知性的なひらめきがあった。次郎には、それがはっきり感じられた。それだけに、彼の道江に対する腹立たしさは一層つのるのであった。彼はいかにも不服そうに、しばらく敏子の顔を見つめていたが、
「僕は、女にも、もっと戦う気持があっていいと思うんです。」
「戦う気持なら、そりゃあ女にだってあるわ。」
「じゃあ、戦えばいいんでしょう。逃げてばかりいないで。」
「だって――」
 と、今度は道江が眉根をよせて、
「あたし、そんなこと出来ないわ。」
「どうして?」
「どうしてって、負けることわかっているじゃありませんか。男と女ですもの。」
「ばかだな、道江さんは。」
 と、次郎はなげるように言ったが、
「僕、道江さんを、腕力で馬田に対抗させようなんて、そんなこと考えているんじゃないよ。」
「では、どうしたらいいの?」
 次郎はそっぽを向いて答えなかった。彼女は、馬田に対して、純潔な処女としての烈しい憤りどころか、自分に侮辱を加えた当の相手としてさえ、さほどの憎しみを感じていないのではないか。もし感じているとすれば、そんなよそごとのような答えが出来るはずがない。そう考えると、道江が馬田を「千ちゃん」という親しげな名で呼んでいることまでが腹立たしくなって来た。
「そりゃあ、事をあら立てれば、いくらでも手はあると思うの。だけど、同じ村に住んでいては、そうもいかないし、……」
 と、敏子は、ちょっと間をおいて、
「第一、道江だってそんなことをしては、かえって恥ずかしい思いをしなければならないでしょう。」
「道江さんには、ちっとも恥ずかしいことなんかないじゃありませんか。」
「そうはいかないわ。」
「どうしてです。」
 次郎は、むきになった。敏子は笑って、
「どうしてだか、あたしにもわからないわ。だけど、世間は、いたずらをした男よりか、いたずらをされた女の方に、よけいにけちをつけたがるものなのよ。そんなことでお嫁にも行けないでいる人があるってこと、次郎さんはご存じない?」
 次郎は、そんな実例があるかどうかはよく知らなかった。しかし、敏子の言っている意味はよくわかった。そして、そうであればあるほど、いよいよ馬田を許しておくのが不都合だという気がした。
「すると、馬田はこのままほっておくつもりですか。」
「こないだ、重田の父から、千ちゃんのお父さんに、気をつけていただくように、話してもらってはありますの。」
「しかし、そんなこと、何の役にも立たないじゃありませんか。きょうも平気で待伏せしていたっていうんだったら。」
「ええ。でも、そんなことよりほかに、どうにもしようがないわ。」
「しかし、馬田をどうもしないで、ただ逃げまわっていたんではだめですよ。」
 次郎は、そう言って、視線を道江の方に転じながら、
「もし、馬田もまわり道したら、道江さんはどうする?」
「こまるわ、あたし。」
 道江はただしょげきった顔をするだけだった。次郎は舌打ちしたくなるのをこらえながら、
「僕は、道江さんが、どうせ馬田にねらわれているんだから、堂々とあたりまえの道を通る方がいいと思うね。」
「そうかしら。」
「まわり道なんかして、いたずらされたら、よけい世間にけちをつけられるよ。」
 道江は答えないで敏子の顔を見た。敏子は、
「それもそうね。」
 と、何度もうなずいた。そして、
「同じクラスの人が、あの村から一人でも学校に通っていれば、毎日道づれが出来るんだけれどねえ。……まさか、次郎さんに待ちあわしていただくわけにもいくまいし。……」
 次郎はすこし顔をあからめた。が、すぐ思いついたように、
「僕、道づれは出来ないけど、見張りならやります。」
「見張りって、どうするの?」
「僕、馬田と同じクラスですから、毎日いっしょに帰ろうと思えば帰れるんです。」
「千ちゃんの方を見張るの? でも、橋から先はだめじゃない?」
「僕も橋を渡って様子を見ていればいいんでしょう。あれから村の入口までは見通しだから、大丈夫ですよ。」
「毎日そんなことが出来て? 千ちゃん、きっと変に思うでしょう。」
「そりゃあ、思うでしょう。」
「けんかになりはしない?」
「なるかも知れません。しかし、なったっていいんです。」
「いやね、道江のために、男同士がけんかをはじめたりしちゃあ。」
「あたし、こわいわ。」
 と道江も眉根をよせ、肩をすぼめた。
 次郎は、二人の言葉から、まるでちがった刺戟をうけた。敏子の言葉からはひやりとするものを感じ、道江の言葉には憐憫に似たものを感じたのである。一人の女を中にして、馬田のような男と争っている自分を想像すると、たまらないほどいやになるが、また一方では、道江という女が、自分というものをどこかに置き忘れているような性格の持主であるだけに、放っておくに忍びないような気もするのだった。彼は二つの感情を急には始末しかねて、だまりこんでしまった。
「あたし、やっぱりまわり道した方がいいと思うわ。」
 道江は敏子を見て言った。
「そうね、――」
 と、敏子はちょっと考えて、
「でも、それは次郎さんがおっしゃるように、かえっていけないことになるかも知れないわ。いっそ、ここのうちから学校に通うことにしては、どう?」
 道江も次郎も眼を見張った。
「ここからだと、次郎さんに見張っていただくにしても、かどが立たないでいいわ。次郎さんが毎日、橋を渡ったりしたんでは、何ていったって変ですものね。」
「でも、いいかしら、こちらは?」
「こちらは大丈夫よ。わけをお話ししたらきっと許して下さるわ。みんなで道ちゃんを大巻の子にしたいって、いつもおっしゃっているぐらいだから。きょうお留守でないと、すぐお願いしてみるんだけど、お父さんもお母さんもご親類のご法事でお出かけなの。」
義兄にいさんは?」
「もう間もなく帰るころだわ。」
 そう言っているところへ、ちょうど徹太郎が帰って来た。茶の間にはいって来て次郎たちの顔を見ると、「よう」と声をかけ、すぐ服をぬいで真裸になり、井戸端に行ってじゃあじゃあ水をかぶっていたが、まもなくぬれタオルを両肩にかけてもどって来た。そして、敏子に向って、
「このごろは、次郎君とも道江さんとも、いっしょに飯をくう機会がなかったようだね。きょうは老人たちも留守だし、若いものだけでどうだい。」
「そう? じゃあ、何にも出来ませんけれど、あたしすぐお支度しますわ。……道ちゃん、さっきからのこと、自分で義兄さんにお話してみたらどう?」
 敏子はそう言って立って行った。
「話って何だい。」
 徹太郎は大して気にもとめないような調子でたずねた。道江は顔を赤らめてぐずぐずしている。
「まさか一生の大事ではあるまいね。」
 徹太郎は、そう言って笑った。次郎はその瞬間ちょっと固い表情になったが、すぐ自分も笑いながら、道江に代って始終を話した。話しているうちに、彼は自分の言葉の調子が次第に烈しくなって行くのをどうすることも出来なかった。
 徹太郎はきき終って、
「ふうむ――」
 と、うなるように言ったが、
「そりゃあ、道江さんがここから学校に通うのはいい。そうする方が一番いいと思うんだ。しかし、学校の行きかえりに、次郎君が道江さんの用心棒になるのはどうかと思うね。」
 次郎は、ぐらぐらと目まいがするような感じだった。徹太郎は、いつになく沈んだ調子で、
「第一、君は今そんなことに気をつかっている時ではないだろう。君の学校の問題は決して容易ではないようだぜ。まだ噂だけで、はっきりしたことはきかないが、もう警察や憲兵隊が動き出しているというんじゃないか。」
 次郎は、朝倉先生の家をあれほど重くるしい気持になって出て来ながら、馬田と道江のうしろ姿を見た瞬間から、学校の問題がまるで自分の念頭から去ってしまっていたことに気がついて、愕然がくぜんとなった。
 ついこないだ、朝倉先生のことで道江と話しあった時、道江の自分に対する心づかいを、あれほど無造作に、――考えようでは侮辱とも思えるほどの無造作な態度で退けた自分が、きょうは、たとえわずかな時間にせよ、道江の問題に夢中になって、朝倉先生のことをまるで忘れてしまっている。何という矛盾だろう。いや、何という軽薄さだろう。
 彼は、自信を失った人のように、力なく首をたれた。徹太郎叔父に対しても、道江に対しても、恥ずかしさで胸がいっぱいである。
「何しろ、朝倉先生の退職の理由が理由だし、君たちの行動を当局では極力警戒しているらしいんだ。万一ストライキにでもなったら大変だぜ。」
「ストライキには、僕、絶対に反対するつもりです。」
 次郎はやっとそれだけ答えた。ストライキ反対の理由が、当局のためでなくて朝倉先生のためだ、ということをつけ加えたかったが、まだそれを言うだけに気持がおちついていなかったのである。
「それならいいけれど、――」
 と、徹太郎はちょっと考えてから、
「しかし、昨日お父さんにきいたんだが、君は血書を書いたっていうじゃないか。」
「ええ。……書きました。」
「それがきっと大きな問題になると思うね。」
「僕はストライキをやらないためにあれを書いたんです。みんなもその条件であれを出すことにきめたんです。」
「しかし、ストライキになってしまったら、君の考えとはまるで反対の目的で書かれたことになりそうだね。」
「勝手にそう思うなら、仕方がありません。」
「主謀者と見られてもいいというのかね。」
「よくはないんです。しかし、仕方がないでしょう。」
 次郎の調子は少しとがっていた。道江の問題から遠ざかるにつれて、彼は次第に元気をとりもどして来たのだった。徹太郎は、しかし、心配そうに、
「君、やけになっているんではないかね。」
「やけになんかなりません。しかし、自分で正しいことをして退学されても、ちっとも恥ずかしいことはないと思っているんです。」
「ふむ。」と、徹太郎は感心したようにうなずいたが、「しかし、少し考えが足りなかったとは思わないかね。」
「思っています。あんなもの、何の役にも立たないってこと、あとになって気がついたんです。」
「うむ。しかし、無理もないね。役所というところを君らは全く知らないんだから。」
「僕はそんな意味で考えが足りなかったとは思っていないんです。役所は正しいことを通すのがあたりまえでしょう。」
「うむ、それで?」
「それで僕たちが正しい願いだと思った事を役所に出すの、あたりまえです。考えが足りないことなんか、ちっともありません。役所がだめだから正しい願いでも、慮して出さないで置こうかなんて考える人があったら、その人こそ考えが足りないと僕は思うんです。」
 次郎は、もうすっかり、いつもの彼をとりもどしていた。
「なるほど。これは痛いところを一本やられた。僕もいつの間にか現実主義者になってしまっていたわけか。ははは。ところで、君の考えが足りなかったというのは、すると、どういう点かね。」
「僕、きょう――」と、次郎は、また急に眼を伏せて、「学校のかえりに朝倉先生をおたずねしてみたんです。そして、僕たちの願いをかりに県庁が許してくれても、それで先生が辞職を思いとまられることはない、ということがはっきりしたんです。先生としては、それがあたりまえです。僕、そのことにちっとも気がついていなかったんです。」
「うむ。……なるほど。」
「僕、一所懸命で血書を書いたんですが――」
 と、次郎はすこし声をふるわせながら、
「それは朝倉先生に恥をかかせるだけだったんです。それに、もしそれがあべこべにストライキの口火みたいになったりすると……」
 次郎の声は、ひとりでにつまってしまった。
「うむ、君の気持はよくわかった。じゃあ、君はこれからストライキ食いとめに全力をそそぐんだね。道江さんは、ここから学校に通うことにすれば大丈夫だよ。土手を通らなくったって、ほかに道もあるし、馬田もそんなまわり道まではやって来まい。ねえ、道江さん。」
「ええ、まさか。」
 と、道江は笑ったが、すぐ真顔になり、
「次郎さん、ほんとにストライキのこと頑張って下さいね。あたし、血書のことちっとも知らなかったけれど、今きいてびっくりしたわ。それでストライキの主謀者にされちゃあ、つまらないんですもの。」
 次郎は何か物足りない気がしながら、それでも、いつもの道江とはかなりちがった道江をその言葉に見出して、だまってうなずいた。すると、また道江が言った。
「あたしのことは、もうほんとに大丈夫よ。これまで、あたし、あんまりのんきだったと思うの。次郎さんのお話をきいて、それに気がついたわ。女も、自分のことぐらい自分で始末するようにならないと、だめね。」
 次郎はうれしいというよりは、何か驚きに似たものを感じた。彼は、これまで、道江の口から、そうした自己反省的な言葉を一度もきいたことがなかったのである。
 それから話は次郎の学校の問題を中心に、いろいろのことに飛んで行った。朝倉先生の門のあたりに、もう私服の刑事がうろついているらしい、という次郎の話から、だんだんと花が咲いて、徹太郎は、ナチス独逸やソ連の例などをひき、「軍国主義と独裁政治と秘密探偵とは切っても切れないものだが、日本も今にそんな国になるかも知れない。」とか、「多数の日本人は、今では政党の腐敗にこりて、官僚政治や軍人政治を歓迎しているようだが、今にきっと後悔する時が来るだろう。」とか、また、「教育の軍隊化は教育の自殺だと思うが、教育者自身の中にかえってそれを喜んでいる者がある。それは、規律という口実の下に、生徒を安易に統御することが出来るからだ。」とか、そういった意味のことを、熱心に説いてきかせた。しかし、そうした話は、道江にはむろんのこと、次郎にも、まださほど痛切には響かなかったらしい。
 知事や校長をはじめ、諸先生や生徒たちのこともちょいちょい話題に上った。馬田の噂が出たのはむろんである。次郎は、自分から馬田のことを言い出すのを控えていたが、徹太郎が「馬田ってどんな人物だい。」とたずねたのをきっかけに、思いきり彼をこきおろした。そして最後にとくべつ力をこめて言った。
「最も軽率なストライキの主張者は馬田です。朝倉先生を慕う気持なんか微塵みじんもないくせに、はじめっからわいわい騒ぎまわっているんですが、それはストライキをやるのが面白いからなんです。こないだの委員会の時も、あいつが真先になってストライキを主張していました。僕の第一の敵は、だから、あいつです。あいつさえたたきつければ、ストライキは食いとめられるんです。」
 すると、徹太郎は言った。
「そうだと、君はなおさら道江さんの用心棒みたいになるのを避けた方がいいね。万一にも、君の馬田に対する気持の中に、ストライキ問題と道江さんの問題とがからみあっているとすると、それは君自身の人間としての値うちに関することだし、うっかり出来ないことだよ。とにかく馬田と同じレベルに立っての勝負はよしたがいいね。」
 次郎は高いところからまっさかさまに突きおとされたような感じだった。
 間もなく四人は、敏子が用意してくれた食卓についたが、話はあまりはずまなかった。
 食事を終ると、徹太郎は散歩かたがた道江の帰りをおくって行くことにした。そとはまだ明るかった。次郎もいっしょについて出たが、彼の胸の中には、きょう一日の出来事が、おもちゃ箱をひっくりかえしたように、ごったがえしになっていた。彼は歩きながら、その一つ一つをひろいあげてみた。血書提出、県当局の警戒、校内の動揺、朝倉先生訪問、私服刑事、馬田とのにらみ合い、大巻訪問、とそのいずれをとってみても、彼には鉛のように重たい感じのすることばかりであった。ただその中で、いくらか彼の気持を明るくするものがあったとすれば、それは、朝倉先生に意外にも血書を書いたのを許してもらったことと、道江が大巻の家で安全に保護されるようになったことであろう。もっとも、この最後のことは、なぜか彼に淡い失望に似たものを同時に感じさせていたのである。

六 沈默をやぶって


 それから二日たった。その間に四人の生徒代表は、何度もそろって校長室をたずね、県の回答を求めた。校長は、しかし、県当局ではまだ考慮中だと答えるだけで、一向要領を得なかった。
 田上が、
「では、われわれも校長のお伴をして、われわれの気持を直接知事さんにお話ししたいと思いますが、どうでしょう。」
 と言うと、校長は、例のとおり鼻を額の方に移動させ、――もっとも、これは梅本がよくよく観察したところによると、鼻のつけ根に急に横皺がより、鼻翼びよくがつり上り気味にふくらむだけのことだったが――手をやたらに横にふって答えた。
「そんな非常識なことが出来るものではない。校長と生徒がいっしょになって知事閣下におねがいするなんて、そんなばかなことをどうして思いつくんだ。第一、生徒がそんなことを考えているということが、知事閣下のお耳にはいったら、もうそれだけで何もかもぶちこわしになってしまうじゃないか。」
「じゃあ、僕たちだけで県庁に行きます。」
 と、新賀がいつものぶっきらぼうな調子で言うと、どうしたわけか、今度はいやに落ついた、いくぶんあざ笑うような顔付をして答えた。
「知事閣下が君たちにお会い下さると思うのか。……まあ、ためしにお訪ねしてみるがいい。」
 しかし、何よりも彼らの反感をそそったのは、彼らと校長との会見がはじまると、用もないのに、いつも西山教頭がのそのそ校長室にはいって来て、壁ぎわの長椅子に腰をおろすことだった。
 西山教頭は古い型の英語の先生で evil という字をエヴィルと読んで、若い英語の先生たちに蔭では「エヴィルさん」と呼ばれているほど発音の誤りが多い。それにも拘らず、訳解の方では文法がらめでびしびし生徒をいためつけるし、万事に規則ずくめで冷酷なところがあり、生徒たちには非常にきらわれている。その先生が三角形の瞼の奥にいたちのような小さい眼玉を光らせ、会見の様子を見張っているのだから、不愉快この上なしである。
 しかし西山教頭は、単にはたで見張っているというだけでなく、しばしば自分でも口をきいた。大ていは校長が返事にまごついている時だったが、たまには、校長の言葉を途中でさえぎったり、訂正したりすることもあった。それは、校長のうしろ楯となって、その立場を擁護ようごするためのようにも思えたが、また、あべこべに、生徒たちのまえで校長にけちをつけているようにも思えた。このことについては、校長との会見の模様をいつもあまり話したがらない平尾でさえ、報告会の時にかなり烈しい口調で非難したほどであった。
 校長は、知事のことというと、まるで神様あつかいだったが、その点では、西山教頭はさほどでもなかった。彼はしばしば閣下という敬語さえ使わなかった。そしてこんなことも言った。
「君らは知事にさえお会いすれば、目的が達せられるように思っているが、朝倉先生の問題はそうは行かんよ。知事にだってどうにも出来ないことだからね。」
 西山教頭に対する反感は反感として、この言葉だけは四人の代表の耳にぴんとひびいた。そして報告会のときも、とくべつ重要なこととしてみんなに伝えられた。
 報告会は、校長との会見の都度つど、ごく簡単に休憩時間中に行われた。しかし、最後の会見――それは四人の代表がみんなにわいわい言われて、午後の授業を自分たちだけ休んでの会見だったが――のあとは、そうは行かなかった。集まった室は例によって、二階のつきあたりの五年の教室だった。そこには校友会の委員だけでなく、五年のほとんど全部と四年の一部とが押しかけて来ており、廊下まで一ぱいに人垣をつくっていた。そして一通り報告がすむまでは割合静かだったが、そのあとは蜂の巣をつついたように騒がしかった。発言もむろんもう委員だけには限られていなかった。
「もう血書を出してから、今日でまる三日だぞ。県庁はいったい、いつまで考えているんだ。」
「校長なんか相手にするのが、そもそも間違っている。なぜ最初から県庁にぶっつからなかったんだ。」
「代表はもっとしっかりせい。」
「代表だけじゃない。校友会の委員全部が甘いんだ。自分たちだけが血判をすれば、それで全校を代表するなんて考えるのは、そもそも生意気だよ。」
「ぐずぐずしていて、朝倉先生の退職が発表されたら、誰がいったい責任を負うんだ。」
「県庁に向かってすぐ行進を起せ。」
「行進は全校生徒でやるんだ。そのまえに授業を休んで、まず生徒大会をやれ。」
「そうなるともうストライキだが、みんなにその決心があるのか。」
「あるとも。目的が達しられなければ、どうせストライキと決まっているんじゃないか。」
「そうだ。道はもうはっきりしているんだ。」
 そうした叫びがつぎからつぎに起って、事態はますます険悪になって行くばかりであった。座長の田上は、何度か手をあげたり、卓をたたいたり時には立ち上ったりして、みんなを制止しようとしたが、まるで効果がなかった。それは廊下に陣取っている一団が、わざとのように騒ぎ立てるせいでもあった。その一団の中には、ふだん馬田と親しくしている生徒たちの顔が幾人かならんでおり、馬田は教室内ではあったが、すぐその近くの窓ぎわに席を占めていたのである。
 とうとうたまりかねたように新賀が立ち上った。しかし、立ち上っただけでは十分でないと見たのか、いきなり生徒机の上に飛びあがり、隣りあった二脚をふみ台にして、大きく足をふんばった。廊下も室内も急にしずかになり、みんなの視線は一せいに彼に注がれた。彼はちょうど室の中央にいたので、みんなは銅像をとりまいてそれを仰いでいるような恰好であった。彼のふみ台になった机によりかかっていた生徒たちは、眼をまるくして真下から彼を見あげた。
 彼は一巡みんなを見まわしたあと、――といっても、真うしろの方には視線がとどかなかったが、――低いゆっくりした、しかし威圧するような声で言った。
「君らは、血書を出す時、ストライキは絶対にやらんという約束をしたのを、もう忘れたのか。」
「誰がそんな約束をしたんだ。僕らは知らんぞ。」
 誰かが廊下の方から言った。
「君は誰だ。」
 と、新賀は声のした方にじっと眼をすえ、
「この会は校友会の委員会だ。だから僕は委員諸君にたずねている。委員以外のものはだまっていてくれたまえ。」
 廊下の方にぶつぶつ言う声がきこえ、室内もいくらかざわめき立った。新賀は、しかし、平然として、
「どうだ、委員諸君、君らは約束を忘れたのか。」
 誰も答えるものがない。沈默の中にみんなの眼だけがやたらに動いた。
 とりわけ動いたのは馬田の眼だった。彼は新賀が立ち上った瞬間から、冷笑するような、それでいて変に落ちつかない眼をして、あちらこちらを見まわしていたが、沈默がつづくにつれ、それが次第にはげしくなり、しまいには、顔をねじ向けて廊下の仲間の一団を見た。そして何かうなずくような恰好をしたあと、わざとのように天井を見、いかにもはぐらかすような調子で言った。
「そんな約束なんか、どうだっていいじゃないか。」
「ふざけるな!」
 と、新賀は一喝して馬田をねめつけた。馬田もみんなの手まえ、さすがにきっとなって、
「ふざけるなとは何だ。僕はまじめだぞ。」
「一旦結んだ約束を、どうでもいいなんて、まじめで言えるか。」
「言える。目的にそわない約束は無視した方がいいんだ。」
「そうだ!」
 と、廊下の方で二三人が一せいに叫んだ。新賀はその方にちょっと眼をやったが、すぐ、また馬田を見、割合おだやかな調子で、
「君はストライキをやれば、かならず目的が達せられると思うのか。」
「そりゃ、やってみなくちゃわからん。しかし、少くとも机の上で書いた血ぞめの文章なんかよりゃ有効だよ。」
 一瞬、新賀の顔が紅潮した。しかし、彼はそのためにひどく興奮したようには見えなかった。彼は相変らず馬田の顔をまともに見つめながら、
「じゃあ、なぜ君は血判までしてストライキをやらないという約束をしたんだ。」
「僕はそんな約束のための血判をしたんじゃない。血ぞめの文章に一応敬意を表しただけなんだ。」
「馬田!」
 と、その時、新賀のすぐうしろの方から、べつの声がきこえた。声の主は次郎だった。彼はそう叫んで立ち上ったが、自分のまんまえに新賀の尻がおっかぶさってみんなの顔が見えなかったらしく、机と机との間を泳ぐようにしてまえに出た。そして少しそり身になって両手を腰にあて、えぐるような視線を馬田の方になげた。
 みんなは片唾かたずをのんで彼を見まもった。彼に好意をもつものも、反感をいだくものも、彼が数日来の沈默をやぶったということに好奇の眼をかがやかしたのである。
「君は――」
 と、次郎は気味のわるいほど底にこもった声で言った。
「君は、新賀が血判をするまえにあれほど念をおして言ったことを、きいていなかったのか。」
「きいていたよ。」
 馬田はそっぽをむいて投げるように答えた。硬ばった冷笑が、しかし、彼の落着かない気持を裏切っている。
「きいていて、それをはじめから無視していたのか。」
「まあそうだね。どうせ血染の文章なんか役に立たないってこと、僕にははじめっからわかっていたんだから。」
「すると、君の血判はうその血判だったんだね。」
「血判はうそじゃないよ。血染の文章に敬意を表したのはほんとうだからね。」
「君はただそれだけのために血判をしたのか。」
「そうだよ。」
「君がいま言ってることは本気だろうね。」
「むろん本気だよ。」
「それで君はみんなを侮辱しているとは思わんのか。」
「思わんね。僕はあべこべにみんなを尊敬しているつもりなんだ。」
「尊敬している? 約束をふみにじって何が尊敬だ。」
「僕は、みんなの目的を達するようにするのが、ほんとうの尊敬だと思っているよ。」
 廊下の方から、
「そうだそうだ!」
「うまいぞ!」
「馬田、しっかり!」
 などと声援がおくられた。
 が、みんなの視線がその方にひきつけられたとたん、教室の床板にすさまじい音がして、周囲のガラス戸がびりびりとふるえた。それは新賀が今までつっ立っていた机の上からだしぬけに飛びおりた音だった。彼は飛びおりたその足で、まっすぐに馬田の方につき進んだ。そして、そのまんまえに仁王立になって、言った。
「君はいま、みんなを尊敬していると言ったね。」
「うむ、言ったよ。」
 と、馬田もほとんど無意識に立ち上った。そのひょろ長いからだが、いくぶんくねってゆれている。
「じゃあ僕はどうだ。僕も君の尊敬している一人か。」
「むろんだよ。」
「ばかにするな!」
 新賀はこぶしをふりあげ馬田をなぐろうとした。しかし、もうその時には、次郎が二人の間に割りこんでいた。彼は新賀をうしろにおしもどしながら、
「なぐるのはよせ。どんなに腹が立っても、僕らが暴力を用いたら、何もかもおしまいだ。」
「うむ。」
 と、新賀は案外おとなしくうなずいて、自分のもとの席にもどったが、いかにもぐったりしたように、そのまま眼をつぶり、両手で額をささえた。それはいつもにない彼の姿勢だった。
 次郎は、そのあと、また馬田の方に向きなおって何か言い出しそうなふうだったが、しばらく考えたあと、思いかえしたように廊下に背を向け、馬田に対したのとはまるでちがった、しみじみとした調子で言った。
「僕は諸君にあやまらなければならないことがある。僕は、やっと、今それに気がついたんだ。」
 いくらかざわつきかけていた空気が、それで、またしずかになった。
「僕たちは、いま、ストライキをやるかやらんかという問題で争っている。しかし、考えてみると、これほど無意味な争いはない。この無意味な争いの原因は――」
 言いかけると、廊下の方から誰かがまた叫んだ。
「無意味とは何だ。」
 次郎はすこし顔をねじ向けて、
「朝倉先生の留任とストライキとは全く無関係だという意味だ。」
「もっとはっきり言え。ストライキをやっても駄目だというのか。」
「むろんそうだ。」
「やってみないで、どうしてそれがわかるんだ。」
「朝倉先生の人格がわかれば、それもわかる。先生は、――」
 と、次郎は顔を正面にもどし、
「実は、われわれの願書が県庁でききとどけられても、留任する意志は全然持っていられない。僕は、おととい先生をおたずねして、直接先生の口からそれをきいて来たんだ。」
 教室の中でも、廊下でもさわがしく私語がはじまった。
「すると、平尾君が最初主張したとおり、何もやらない方が賢明だったというのか。」
 そう言ったのは梅本だった。みんなの眼が一せいに平尾をさがした。平尾は座長席のすぐ近くの机に頬杖をついて、眼をつぶっていた。
 次郎もその方に眼をやって、ちょっと答えに躊躇したが、すぐ梅本を見て答えた。
「結果からいうとその通りだ。しかし、僕たちは願書を出したことを後悔する必要はない。願書は、僕たちの希望を表明するただ一つの手段だったんだ。結果を予想して、僕たちに残されたただ一つの手段までも捨ててしまうのは、賢明どころか、道義上のなまけ者だと僕は信ずる。」
 平尾の方にまた視線が集まった。平尾は、しかし、相変らず眼をつぶったままである。
「えらいぞ、本田。」
 と、少し間をおいて、誰かが頓狂な声で野次をとばした。つづいて、
「しかし残された手段は願書だけではないぞ!」
「そうだ! ストライキという最も有効な手段を逃げる奴こそ、道義上のなまけ者だ。」
 次郎は首をねじて、しばらくその方をにらんでいたが、しまいに、からだごと向きなおって、
「ちがう! ストライキは一種の脅迫だ。脅迫は断じて正しい手段ではない。それこそ道義上のなまけ者の用うる手段だ。それに――」
 と、彼は一瞬馬田の方を見たあと、
「ストライキの煽動者にとっては、それは正しい目的のための手段でさえないんだ。彼らはたださわぎたがっている。ストライキ遊びをやりたいというのが、要するに彼らの本心なんだ。僕は、諸君が朝倉先生留任運動の美名に欺かれて、彼らの劣情の犠牲ぎせいにならないように、敢えてこの機会に警告する。」
「よけいなおせっかいだ。」
 馬田の相棒の一人が叫んだ。しかし、そのほかには誰も何とも言うものがなかった。それは、次郎のいった言葉に同意したというよりも、むしろ彼の気魄に気圧されているかのようであった。入学当時の彼の英雄的行為が、ここでもみんなの心理に作用していたことはいうまでもない。
 しばらく沈默がつづいた。次郎は廊下にならんでいる馬田の仲間の顔を、ひとりびとり念入りに見たあと、また教室の中心の方にむきをかえ、いくらか沈んだ調子で言った。
「しかし、今から考えると、僕たちの願書も決して完全であったとはいえない。実は、白状すると、あの願書は僕が書いたんだ。僕が書いたことを秘密にしてもらったのは、あの時新賀が説明したとおり、あの願書が僕一人の意志でなくてみんなの総意だと信じていたからだ。しかし、それは僕の思いちがいだった。何よりいけなかったのは、僕があの願書を血で書いたことだ。僕は、あれを書く時には、それが最善の道だと信じきっていた。血をもって願う、それ以上の願いようはない。諸君もこれならきっと共鳴してくれるだろう、そう僕は信じていたのだ。そして諸君が何のぞうさもなく血判をしてくれた時には、僕は実にうれしかった。僕の考えは誤っていなかった、ストライキなどという脅迫的な手段に訴えて、朝倉先生の人格をきずつけるようなことは、誰も好んではいないのだ。そう僕は思って実にうれしかったのだ。しかし、さっきからの様子を見ているうちに、僕はとんでもない思い違いをしていたことに気がついて、恥ずかしくてならない。もし僕が、あの願書を墨で書いていたとしたら、諸君は果してあの時あんなにたやすく僕の考えに同意してくれただろうか。恐らくそうではなかったろう。諸君はもっと自由にめいめいの意見を述べたにちがいないのだ。そうだとすると、僕があの願書を血で書いたということは、諸君の自由な意見を封じ、諸君の血判までを強要したということになるのだ。その証拠がきょうこの会議にはっきりあらわれている。その意味で、僕の血書はやはりストライキと同様、一種の脅迫だったのだ。脅迫によって結ばれた約束が破れるのは当然だ。そしてその結果が、たった今馬田と新賀との間に行われたような、脅迫と脅迫との競合いになるのも当然だ。僕は、諸君に、僕の無自覚によって、すべてのそうした原因を作ったことを心からあやまる。」
 静まりきった、しかし底深く動揺する海のような空気が全体を支配した。みんなの表情はまちまちだった。しかしそれは、おどろきと、あやしみと、好奇と、そしてえたいの知れない感激との、いろいろの割合における混合以外の何ものでもなかった。
 その時まで、額を両手でささえ眼をつぶったままじっと動かないでいた新賀も、いつのまにか首をさしのべ、眉根をよせて、うかがうように次郎を見つめていた。梅本は両腕を組み、のけぞり気味に首をまっすぐに立てて次郎を見ていたが、その眼は怒った人の眼のように鋭く光っていた。大山の顔からは、さすがにその満月のような和やかさは失われていなかった。しかし、それでも、口を半ば開き、眼をぱちぱちさしていた様子は、決してふだんの彼ではなかった。
 ただひとり、全然無表情だったといえるのは平尾だった。眼をつぶり、頬杖をついたままの彼の姿勢は、まるで次郎の言葉をきいていなかったかのようにさえ思えた。もしそれが彼の作為の結果だったとすれば、彼は、作為の技術においても、級中の首席を占めるだけの力量をそなえていたといえるであろう。
 平尾とは反対に、最も目立った、しかも他の生徒たちとはまるでちがった種類の表情をしていたのは馬田だった。彼はそのしまりのない口をいよいよしまりなくしていた。これまで彼の顔にうかんでいた彼独特の冷笑は、あとかたもなく消え、眼だけが、いかにも忙しそうに、次郎と廊下の仲間たちの間を往復していた。それは、仲間たちの顔から一途に何かをよみとろうとする努力のように思われた。
 次郎は、みんなの沈默の中に、なかば眼をふせ、しばらく身じろぎもしないで立っていたが、また急に馬田の方に向きなおって、
「馬田! 君は、しかし、まさかあの血書に脅迫を感じたのではあるまいね。」
 今の場合、馬田にとって、これほど皮肉な質問はなかった。そうだと答えても、そうでないと答えても自分の立場がなくなるような気がするのだった。彼は答えなかった。答える代りに、両腕を組み、うそぶくように天井を見た。
「僕は、君が答えたくない気持もよくわかる。」
 と、次郎は少し声をおとして、
「だから、強いて答えを求めようとは思わない。しかし、君は恐らく、脅迫されて血判をしたなどとは絶対に言いたくないだろう。僕自身としても、君の血判が君の自由な意志でおされたものだと信じたいんだ。そう信ずることが君の名誉でもあるし、僕もそれだけ責任がかるくなるわけだからね。だが、それならそれで、その時の君の血判の意味をあくまで尊重してもらいたいんだ。今になって、血書に一応の敬意を表するための血判だったなどと、いい加減なことを言うのは、断じて君の名誉ではあるまい。もし君が脅迫されて約束したというのなら仕方がない。またもし、その約束が正しくない約束だったとするなら、それも仕方がない。しかし、もしそうでなかったら、男子が一旦血をもって結んだ約束だ、あくまでそれを守りぬくのが君の名誉ではないかね。僕は同級生の一人として君に忠告する。いや、お願いする、どうか約束を守ってくれたまえ。君自身の名誉のために、そして僕たちの尊敬する朝倉先生の名誉のために、いや、朝倉先生がいつも僕たちに言われた人間としての正しさを守るために、僕は心から君にそれをお願いしたいのだ。」
 次郎は、そう言いながら一心に馬田の顔の動きを見つめていた。しかし彼の気持は、彼の言葉が終る少しまえ頃から、廊下にいた生徒たちのざわめきによっていくぶんかきみだされがちであった。しかもそのざわめきは、これまでとはちがって、彼の言葉に対する反応からではなく、生徒たちの顔の動きから判断すると、廊下の、教室からは全く見えないところにその原因があるらしかった。それが一層彼の気持をかきみだしていたのである。
 馬田も同様であった。彼ははじめのうち、次郎の言葉に対して非常に複雑な反応を示していたが、廊下のざわめきに気がつくと、とかくその方に気をとられがちになった。そして次郎の最後に言った言葉も、次郎が期待したほどには強く彼の心にひびかなかったらしいのである。
 ざわめきの原因は、次郎の言葉が終ると、すぐわかった。
「道をあけろ。」
 そんな声が、隣の教室のまえあたりから、まずきこえた。すると、入口をふさいでいた生徒たちは、いかにも不服そうな顔をしながら、つぎつぎにうしろの方を押して、いくらかの空間をつくった。
 やがてあらわれたのは配属将校の曾根少佐だった。そのあとから西山教頭がはいって来た。ふたりともフェルトのスリッパをはいている。拍車のついた長靴でいつもがらがら音を立てて廊下をあるく曾根少佐としては、それは全く異例なことであった。
 生徒間には、曾根少佐は「ひげ」と「がま」のあだ名でとおっていた。鼻下にすばらしく長いひげをたくわえ、その尖端をカイゼル流にもみあげたのが、うしろからでもはっきり見えるくらいなので、ほかにもひげの多い先生が何人かいたにもかかわらず、少佐赴任以来「ひげ」といえばもう少佐にきまったようなものであった。しかし、このあだ名はあまりにも平凡であり、それに第一少佐本人がそう呼ばれるのをむしろ得意にしているようなふうもあったので、有名なわりに生徒たちの興味をひかず、このごろでは「がま」の方がよほど人気があるようである。「がま」の由来は、校庭でがまを見つけた一生徒が、しみじみそれを観察しながら、「がまの顔って配属将校そっくりだな。」と言ったことにはじまるらしい。上下からおしっけたような顔に、大きな眼玉がぎろりととび出し、耳まで割れたような口が、ものを言うたびにぱくぱくと開くところなど、なるほど、生徒が蟇を見て少佐を連想したのに無理はなさそうである。
 少佐は、はいって来るとすぐ、視線を次郎にそそいだ。次郎はその時まで、まだ立ったままでいたのである。それから、つかつかと教壇に上り、座長席の田上を見おろしてたずねた。
「今何か話をしていたのは誰だったかね。」
「僕です。」
 田上が答えるまえに次郎が答えた。
「ああ、君か。君は本田だったね。」
「そうです。」
「君は今、約束を守れとかしきりに言っていたようだが、その約束というのは何かね。」
 次郎は答えなかった。答えてわるい約束ではないと思ったが、答えれば、自然、ストライキ主張者のことを言わなければならないと思ったからである。
「先生に言っては悪いような約束かね。」
 曾根少佐は相手から眼をそらして上眼をつかい、ぱちぱちまばたきをしながらたずねた。これは少佐が生徒を糺問きゅうもんする時におりおり見せる表情で、少佐自身では、それで自分の顔付が非常に和らいで見えると思っているらしいのである。
「悪い約束なんかしません。」
「じゃあ、かくさないで言ったらいいだろう。」
 次郎はやはり答えなかった。
 曾根少佐は、しばらく次郎の顔を見つめたあと、西山教頭と顔を見合わせ、何かうなずきあった。すると西山教頭は、その三角形のまぶたの奥に、いかにも沈痛らしく眼を光らせ、一わたりみんなを見まわした。それから右手をラッパのようにして口にあて、いくらか眼をおとして「えへん」と大きな咳をした。そして何か秘密なことでも打明けるように、声をひそめて話し出した。
「実は、曾根先生が配属将校としてのお立場から、今度の君らの行動について、いろいろとご心配下すっていたので、きょうはさっきから、私と二人きりで、とくとご相談をしてみたわけだが、だんだん先生のお話を承っていると、君らのこれからの行動次第では、容易ならん結果になりはしないかと心配される。それで、これは少佐のお立場上ごむりかとは思ったが、私たち二人が、一先ず学校という立場をはなれ、全くの個人として、君らと肚をわって話合ってみたい、そういうことに私からお願いして、実は校長先生にもご相談しないでこの席にやって来たわけだ。どうか、そのつもりで私たちの話もきいてもらいたいし、また、君らの方でも、言いたいことがあったら、何でもかくさず言ってもらいたいと思う。」
 そういう前置きをして、西山教頭の話したことは、要するに次のようなことであった。
 ――時代は満州事変を契機として急転回しつつある。革新のためには多少の犠牲はやむを得ない。そうした犠牲を否定する人があるが、それは古い考え方に捉われているからである。どんな人格者であろうと、古い考えに捉われて新しい時代を理解しなければ、葬られるのが当然である。
 ――青年は革新の原動力であり、新しい時代の創造者である。時代の動きに鈍感であっては青年の意義はない。青年は純情だといわれるが、その純情も本末を誤ると、むしろ有害である。師弟の情誼じょうぎのために純情を傾けるのは美しいには美しい。しかし、それは新しい時代の創造ということにくらべると、私情でしかない。青年の純情は先ず第一に時代の創造のために傾けらるべきである。万一にも本末を転倒するものがあれば、それらの青年も時代の犠牲者となろうとを覚悟しなければならないだろう。
 西山教頭は、一席の講演でもやるような調子で、以上のような意味の事を述べたが、一度も「朝倉先生」という言葉をつかわないで朝倉先生の問題にふれようとするところに、その苦心があったらしく思われた。そして最後にこんなことを言って腰をおろした。
「今言ったような根本的なことは、実は校長先生から、もうとうに君ら全部に対してお話があっているのが当然だと思うが、残念ながら、これまでにそんな機会がなかったらしいので、念のため私から話した次第だ。とにかく、時代ということを忘れないで、十分思慮ある行動に出てもらいたい。とりわけ軍人志望の諸君はよほど自重して、一言一行をつつしまないと、折角の志望が駄目になるかも知れない。このことについては、あとで曾根少佐からもお話し下さるだろうと思うが、特に留意を促しておきたい。」
 西山教頭が腰をおろすと、曾根少佐がすぐそのあとをうけて言った。
「根本的なことは、今、西山先生の言われたことでつきていると思うから、自分としては、もう何も言うことはない。ただ、君らの参考のために打明け話をすると、実は自分はこの三四日非常に立場に困っているんだ。というのは、自分は本校に配属されている以上、むろん本校職員の一人だが、身分はあくまでも軍人である。従って、軍の命令なり要求なりを拒むわけにはいかない。そこに苦しいところがあるんだ。たとえば、憲兵隊から君らの動静について報告を求められたとする。本校職員たる曾根としては、出来るだけ君らの不利になることは報告したくないが、軍人としての責任上、報告せざるを得ない。現にきょうも、憲兵隊では、もう君らがこうして集まっていることを知って、さっきからたびたび電話でいろんなことを自分にたずねて来ている。実際困ったことだ。もっとも、困るといっても、これまでは大したこともなかった。血書の陳情ちんじょうをしたという以外に、まだこれといって不穏な言動があったということもきいていないし、自分としては、あくまでも、今度の問題は師弟の情誼の問題で思想問題ではない、という立場で報告することが出来たんだ。しかし、今後の情況如何ではそうはいかないだろうと思う。なにぶん、憲兵隊では、はじめっからこれを思想問題だと見て、重大視しているようだし、君らの行動に多少でもそういう徴候ちょうこうがあれば、自分として、それをかくして置くわけにはいかんのだからね。ことに、西山先生もさっき言われたことだが、軍人志望の者は自重しなくちゃいかん。実をいうと、軍人志望者は、こういう会合に顔を出しているということだけでも問題になるんだ。なお、軍人志望のものでなくても、いずれはみんな軍隊の飯を食わなければならんし、その場合、幹部候補生になるには、やはり中学時代の履歴がものをいうのだから、自重するにこした事はない。」
 話が終るまで、生徒たちは案外静粛だった。しかし、誰も心から感心してきいていたようではなかった。軽蔑と反感をいだきながら、騒いだりしては損だから默っている、といったふうであった。
 新賀をはじめ、そのほかの軍人志望者たちは、緊張するというよりか、むしろてれくさそうな顔をしていた。
「教員適性審査表」を作った森川も、軍人意望の一人だったが、彼は小さな手帳に、西山教頭が曾根少佐のひげの塵をはらっている漫画を描き、その横に、「思想善導楽屋の巻」と題していた。
 みんなの中で、最も真剣な顔をしていたのは、恐らく次郎だったろう。彼は、曾根少佐の話が終ったあと、西山教頭が、「ではこれから君らの考えもききたい」と言ったのを機会にすぐ立ち上って言った。
「先生、質問があります。」
「うむ、何だ。」
「革新のためなら暴力を用いてもいいんですか。」
「いいということはない。しかし、国家のためにやむを得ない場合もあるだろう。」
「自分でやむを得ないと思ったらそれでいいんですか。」
 西山教頭は答えにまごついた。すると曾根少佐がどなるように言った。
「ほんとうに国家のためと信ずるなら、いいにきまっている。」
 次郎は皮肉なほど落ちついて、
「学校のためだったら、どうでしょう。やはりいいんですか。」
「それもほんとうに学校のためになるなら、いいとも、少しぐらいやるがいい。」
 曾根少佐は、これまでに何度か生徒にビンタをくらわしたことがあるのである。
「じゃあ、ストライキはどうでしょう。」
 生徒たちは、はっとしたように、一せいに視線を次郎に集中した。曾根少佐は眼玉をぎょろりと光らして、
「ストライキ? それがどうしたというんだ。」
「僕はストライキは一種の脅迫だと思います。つまり形のちがった暴力です。学校革新のためなら、暴力を用いてもいいとすると、ストライキもいいんじゃありませんか。」
「ぱかなことを言うんじゃない。ストライキは多数をたのむ卑怯者のやることだ。そんなことで革新なんか絶対に出来るものではない。」
「しかし、たった一人の年老いた総理大臣に、何人もの軍人がピストルを向けるほど卑怯ではないと思います。」
「だまれ! 貴様は赤だな。それでおおかたストライキがやりたいんだろう。」
「赤じゃありません。ストライキには絶対反対です。」
「じゃあ、なぜ今のようなことを言うんだ。」
「僕は暴力を否定したいんです。朝倉先生のお考えを正しいと信じたいんです。……西山先生。――」
 と、次郎は急に西山教頭の方に向きなおり、
「先生も曾根先生と同じお考えですか。」
「むろん、そうだ。」
 そうは答えながら、西山教頭は落ちつかない顔をしている。
「じゃあ、朝倉先生がいつも僕たちに言われていることは間違いだとお考えですか。」
「私は朝倉先生が君らにどんなことを言われていたか知らない。かりに知っていても、君らのまえでほかの先生のことを批評しようとは思わないよ。」
 生徒たちの多数が言い合わしたように一度に吹き出した。次郎は、しかし、笑うどころか、まるで氷のような眼をして西山教頭をにらみながら、
「朝倉先生はいつも暴力を否定されたんです。そして、まえの大垣校長先生と同じように、校訓の大慈悲の精神を僕たちに説かれたんです。」
 西山教頭はにがい顔をしている。すると曾根少佐がいかにも大ぎょうに、
「そうだ、その慈悲だ。大慈悲のためには、仏様でも、剣をふるわれるんだ。君はお不動さんの像を見たことがあるだろう。」
 次郎は、しばらく曾根少佐の顔を見つめていたが、吐き出すように言った。
「先生のお考えはもうわかっています。僕は西山先生におたずねしているんです。」
「もうよせ。」
 と、この時新賀がだしぬけに立ち上って、次郎のまえに立ちふさがるようにしながら、その両肩に手をかけた。そして、座長席の田上をふりかえり、
「田上、きょうはもう閉会にした方がいいんじゃないか。……どうだ、諸君、それがいいだろう。」
「賛成」とさけぶ声が四五ヵ所からきこえた。田上はすぐ閉会を宣した。みんなは、教壇の上で顔を見合わせている西山教頭と曾根少佐を残して、ぞろぞろと立ち上った。
 次郎はもうその時には机の上に顔をふせて泣いていたが、新賀と梅本とが、両側から抱くようにして彼を室外につれ出した。
 階段から下の廊下にかけて、生徒たちは、いつの間にかどっどっと歩調をそろえて歩きながら、どら声をはりあげて校歌をうたい出していた。

七 父兄会


 生徒たちが、学校で、多少劇的ではあるが、この上もなく無作法な会合をやっていたのとほとんど同じ時刻に、すぐ隣りの県庁の二階の一室では、大人たちがおたがいに相手の肚をさぐりあいながら、表面は至極礼儀正しい物の言い方で、生徒たちのことについて「懇談」を重ねていたのだった。
 この席につらなったのは、学校関係の県庁の役人数名、花山校長、それに二十数名の父兄たちであったが、そのほかに、警察と憲兵隊のかただといって特別に紹介された私服の人が二人、県庁の役人たちのうしろに、始終さぐるような眼をして陣取っていた。
 主催者は、実際はとにかくとして、名目上は花山校長だった。そのあいさつによると、本来なら五年全部の父兄に学校に集まってもらわねばならないところだが、それではかえって生徒を刺戟する恐れもあり、結果が面白くないと思ったので、県当局のご好意に甘えてこの一室を拝借し、一先ずごく少数の父兄だけに集まってもらって、内密に懇談することにしたというのである。
 校長のあいさつが終ると、すぐ、一父兄から、今日集まった父兄はどういう標準によって選び出されたのか、という、ちょっときわどい質問が出たが、これに対しては、校長は案外まごつきもせず、むしろそうした質問を期待して答弁を用意してでもいたかのように、いくぶん調子づいて答えた。
「それは県ご当局とも十分お打合わせいたしました結果、学業の成績も相当で、校内で何かの役割をもっている生徒の父兄の中から、各方面の有力な方々を、というような標準でお願いいたしましたような次第です。むろん皆さんのほかにもそういうお方がまだいられると思いますが、あまり多人数になりましてもどうかと存じましたし、なお急いでお集まり願う必要もありましたので、だいたい数を二十名程度にして、なるべく近くにお住まいの方々だけにご案内を差上げましたようなわけで……」
 俊亮もその席につらなった一人だったが、彼はどう考えても自分が社会的に有力な地位にある人間だとは思えなかった。馬田の父も来ていた。彼は県会議員だったので、その点では有力な代表者であったかも知れない。しかし、学業成績のよい生徒の父兄であるとは、恐らく彼自身でも考えていなかったろう。列席した父兄の名簿が謄写版とうしゃばんずりにして渡されていたが、その中には、平尾、田上、新賀、梅本、大山、そのほか、よかれあしかれ教師側の注目をひいている、おもだった生徒の父兄の名がならんでいた。そしてどの父兄の顔にも困惑の色がうかんでおり、中には、「ただ今の校長先生のお言葉の通りですと、ほかの方のことは存じませんが、私だけは、どの点から考えましても、この席につらなる資格がなさそうに思えますが、或はどなたかのまちがいではありますまいか。」と、真実不思議そうな顔をしてたずねたものもあった。みんなの中で、校長の言ったすべての条件を完全に具備している人があったとすれば、それは恐らく平尾の父だけだったろう。彼は弁護士で、次期の最も有力な市長候補だと噂されている人だったのである。
 校長の説明のあとで、まだ三十歳には間のありそうな、色の白い、いかにも才子らしい顔をした学務課長が立ちあがって言った。
「実は、先生の留任運動というようなことは、本来なら学校だけで処理していただくべき性質のものですが、何しろ、生徒からの願書が校長さんだけにあてたのでなく、知事宛にもなっていますし、なお朝倉教諭退職の理由については、県として直接皆さんの御諒解りょうかいを得ておく方がいい、という事情もありますので、私共もこの席に顔を出さしていただくことになったわけであります。何だか変な会合だとお感じの方もおありのことと存じますが、その点あらかじめおふくみを願っておきます。」
 そういう前置をして、課長は、最初のうちはいかにも周囲をははかるように声をひそめ、あとではむしろ煽動演説でもやっているように興奮した調子で、県が朝倉教諭に辞表提出を要求するにいたった事情を説明したが、その事情というのは、要するに教諭の「失言」であり、「教育者として慎重を欠いた時局批判」であり、「自由主義的反軍思想」であり、そして「生徒を反国家思想に導くおそれのある教育態度」であった。そして最後に次のようなことを言って腰をおろした。「かようなわけで、朝倉教諭には全然同情の余地がなく、退職はすでに決定的のことになって居りまして、どんな運動も絶対に無効であります。そうした事情を、みなさんが父兄としての立場から、各家庭でとくと生徒にお話し下さることが、この際何よりも大切ではないかと存じます。それでも生徒の方で運動をやめないといたしますと、それは朝倉教諭の思想にかぶれた思想運動と認めるほかありません。そうなりましては、事は極めて重大でありまして、時節がら、むろん学校だけでは処置が出来なくなりますし、或いは思わぬ犠牲者を生徒の中から多数出すような結果にならないとも限らないのであります。さきほどの校長のお言葉によりますと、皆さんは校内で何かの役割をもっている生徒の父兄であられるとのことでしたが、そういう生徒は、自然それだけ他の生徒に対する影響力も大きいわけでありますから、特に皆さんのお骨折をお願いしたいと存するのであります。もし皆さんのお骨折によりまして、一般の父兄の方々には少しも心配をおかけしないで事件が解決する、というふうにでもなりますと、まことに結構であります。県といたしましては、実は、内々そういうことを皆さんにご期待申上げて、お集まりを願ったようなわけでありますから、どうかそのおつもりで、ご懇談をお願いいたしたいと存じます。」
 父兄の中からは、しばらく誰も発言するものがなかった。「他の生徒に対する影響力」という課長の言葉は、いい意味にも悪い意味にもとれ、自分の子供の成績がさほどでもないのを知っている父兄にとっては、それがいよいよ不安の種になるのだった。
「平尾さん、いかがでしょう。あなたのご令息は成績はいつも一番であられるそうですし、校友会の総務もやっていられると承っていますが、あなたのような方から最初に何かご意見を出していただけば、他の方のご参考にもなると存じますが……」
 課長が、しばらくして、意味ありげに平尾の父をうながした。すると、平尾の父は、
「いやあ――」
 と、両手で白髪まじりの頭をうしろになで、ちょっと馬田の父の顔を見た。それから、かけていた金ぶち眼鏡をはずし、指先でしきりに眼のくぼをこすりながら、いかにも言いしぶるように、とぎれとぎれに言った。
「私のせがれは、今度の問題では生徒代表の一人に加わって、校長先生にいろいろご無理なことをお願いにあがっているようで、まことに申しわけない次弟です。しかし、本人が私に話しましたところによりますと、これは決して本人自ら進んでやっていることではないようでありまして、……率直に申上げますと、実は本人は最初から今度の事には絶対反対だったのですが、校友会の総務におされている関係上、むりやりに表面に立たされているというようなわけで、……こう申しますと、何だかいいわけがましくなりますが、私は何もそれで責任をのがれようというのではありません。本人の意志であろうとなかろうと、一旦本人が代表たることを引受けました以上、それだけの責任は取らせなければなるまいかと、それは私も覚悟いたしているのです。」
 彼はそこまで言って眼をこするのをやめ、眼鏡をとりあげてそれをかけると、一わたりみんなの顔を見まわした。そして今度は急に声に力を入れて、
「ただ、私がせがれのことを申上げますのは、今度の問題がよほど巧妙に仕組まれていて、恐らくたいていの生徒は自分でも気づかないうちに、とんでもないところに引きずって行かれるのではないかと、それを心配いたすからです。元来、私のせがれは、……親の口からこんなことを申してはお耳ざわりかと存じますが、どちらかというと万事につけ思慮深い方で、今度の問題でも、先ほど申しますとおり、最初から慎重に考えて反対をとなえたのですが、どうもその反対を押しとおすわけにはいかない事情がある。と申しますのは、留任運動の急先鋒、……それは朝倉先生と何か思想的に深い関係をもっている四五名の生徒だということですが……その急先鋒の生徒たちが表向きに主張していることが至極もっともらしい主張で、誰も正面から反対の出来ないようなことらしいのです。つまり、自分たちは自分たちの真情を披瀝ひれきするだけで、なにも不穏な行動に出ようとしているのではない。むしろストライキなどのような、不穏な行動に出るのを防ぐために、血書を書き血判を求めたのだ。もしそれにも反対する生徒があったら、その生徒こそかえって全生徒を不穏な行動にかり立てる者ではないか、というのだそうです。なるほど血書や血判などということは、おだやかではないにしても、生徒の分をこえた行動だとは必ずしもいえない、青年としては、そのぐらいのことをしないでは、本気で留任運動をやったような気がしないだろう、とも考えられますし、それもいけないとなると、自然、もっと悪い方法で感情のはけ口を求める、というようなことにもなるかと存じます。そんなようなわけで、私のせがれも、正面から反対も出来ず、つい代表の一人に加わったというようなわけですが、……ところで、それでは、ストライキのような不穏な行動がそれで実際にくいとめられそうかというと、どうもそうではないらしい。それどころか、血書や血判までして願っているのに、それをれてくれない、おめおめと引っこんでおれるか、といったような気分が次第に濃厚になって来るらしいのです。私の考えるところでは、ここが非常にかんじんな点で、どうも最初からそうした青年心理をねらって、血書とか血判とかいうことが仕組まれているのではないか、という気がいたすのです。せがれが毎日学校で生徒の動きを見て来ての話によりますと、急先鋒の生徒たちは表立った会合の席ではあくまでストライキに反対をとなえながら、蔭ではひとりびとりの[#「ひとりびとりの」は底本では「ひとびとりの」]生徒をつかまえて悲憤慷慨こうがいしたり、ひそひそとストライキの時期や方法などを話したりしているそうですが、そういうことをききますと、いよいよ私の想像があたっているように思えてならないのです。とにかく、今度の問題は私の見るところでは、決して単純な性質のものではありません。大多数の生徒は、純真な留任運動だと信じてやっているのかも知れませんが、中心になって動いている数名の生徒たちは、決してそうではないと存じます。何でも、その生徒たちは頭もいいし、読書力もあり、いろんな方面の思想にもふれているそうですが、そのうえに、背後から糸をひいている人物もあるらしく想像されますので、われわれ父兄といたしましても、うっかりして居れないかと存じます。」
 平尾の父は言い終って眼鏡をはずし、謄写刷とうしゃずりの父兄名簿を眼のまえすれすれに近づけて、左右に視線を動かした。すると、馬田の父が、
「ちょっとお伺いいたしますが――」
 と、いんぎんな、しかしどこかにとげのある調子でたずねた。
「お話の通りですと、中心になって動いている生徒はごく少数のようですが、もしおさしつかえなかったら、その名前をはっきり言っていただきたいのですが。」
「名前までは、実は、私、たしかめて居りませんので……」
 と、平尾の父はいかにも当惑したように頭をかいた。
「ご令息のお口から、それをおききにはなりませんでしたか。」
「私も、実は、その名前がはっきりすればいいと思いまして、一度たずねてみたこともありますが、せがれの方では、それだけは親にも言いたくないと申すものですから、しいてはたずねないことにしています。あの年輩では、こういうことには妙に義理固いものでして、これは、みなさんにもご経験のあることだと存じますが……ははは。」
 馬田の父は笑わなかった。ほかの父兄たちも、にこりともしないで默りこんでいる。何だか平尾の父の笑声がにげ場を失って、戸まどいしているという感じだった。
「みなさん、いかがでしょう――」
 と、課長がとりなすように、
「ただ今の平尾さんのお話でよほど真相がはっきりして来たようですが、みなさんからも、ご存じの事実なり、ご判断なりをご腹蔵なくお聞かせ願えれば、なお一層はっきりすると存じますが。」
 みんなはおたがいに顔を見合わせただけで、やはり默っている。俊亮は、最初から、腕組をして眼をつぶり、少しのけぞり加減に椅子の背にもたれていたが、この時、ちょっと眼をひらいて課長を見た。しかし、すぐまた眼をつぶってしまった。
「馬田さん、何か……」
 課長はこびるような笑顔をして、馬田の父を見た。
「いや、私はきょうは何もしらないで参ったようなわけで。……さきほどからいろいろと承って、内々おどろいている次第です。」
「朝倉教諭のことが問題になっていたことは、むろんご存じだったろうと思いますが。……」
「ええ、それは非公式にいろんな方面からきいてはいました。しかし生徒がそのために血書を書いたり、血判をしたりしたことなんか、全く初耳です。せがれは、そんなことについては、私には何も言わないものですから……」
 そう言って、彼はちょっと首をかしげたが、
「しかし、とにかく、これは何とかして早くおさまりをつけなければなりますまい。私も及ばずながら出来るだけのことはいたします。きょう帰りましたら、早速せがれに十分言いきかせまして、少くとも私のせがれだけは、責任をもってこの運動から手をひかせましょう。」
「どうか、ぜひ、そんな工合におねがいいたします。みなさんがめいめいにそんな工合にしていただくと、あるいはひとりでに解決するのではないかとも存じますので……」
 馬田の父はまた首をかしげた。そして、じろりと花山校長の顔を見たあと、みんなを見まわし、皮肉な調子で言った。
「どうでしょう、みなさん。さきほどからの課長のお言葉では、どうやら、きょう集まった私ども父兄の肩に全責任がかかっていそうに見えますが、そのつもりでご相談いたすことにいたしましては。」
「いや、そういうわけでは……」
 課長はあわてて言葉をはさんだが、馬田の父は、それに頓着とんちゃくせず、
「しかし、それにしましても、学校の方で、この事件について、これまでどんなふうに生徒を指導していただいたか、それをくわしく伺っておきませんと、工合がわるいと存じますが……」
 父兄の中には大きくうなずいたものも一二名あったが、大多数は何か気まずそうに視線をおとしていた。俊亮は相変らず默然と眼をとじたままである。
「ごもっともで、ごもっともで――」
 と、花山校長はなかば腰をうかすようにして、
「実は、そのことにつきましては、生徒を集めまして、私からとくと訓戒する手筈にいたしておりますが、まだ、ちょうどよい機会がありませんので……」
「機会がないと仰しゃいますと?」
「実は、県ご当局との打合わせや何かで……」
「すると、生徒の方はまだ放ってあるというわけですね。」
「いや、四人の代表とは毎日会っておりますので、その四人を通じて、私の考えはほかの生徒たちにも伝わっておるはずでございます。」
「校長としてはそれで十分だと仰しゃるのですね。」
「いや、そういうわけではありません。しかし、今のところ、多数の生徒を集めたりしますと、それが却って悪い結果にならないとも限りませんので。……これは実は県ご当局からのご注意もありましたことで。」
「しかし、生徒の方では勝手に集まっているだろうと思いますが、どうでしょう。」
「はい、それは、……校友会の委員だけでは、いつも自由に集まれるようになっておりますので。」
「その集まりにも、校長さんはまだ一度もお顔をお見せになっておりませんのでしょうか。」
「それも実は、県当局のご意見で、一先ずほかの教師が出て、懇談的に生徒の考えをきいてみよう、ということになっておりますようなわけで……」
 父兄たちは、にが笑いをおしかくすのに骨が折れるらしかった。俊亮も、さすがに眼を見ひらいて、あきれたように校長の顔を見た。平尾の父は眼鏡をはずして眼をこすっており、馬田の父は憤然として課長の顔を見た。すると課長が言った。
「そのことについては、事件の性質上、この場合、配属将校にご苦労をお願いするのが一番適切ではないかと考えまして、実は西山教頭とお二人で、十分説得していただくようにお頼みしてあるのです。多分、きょうあたり、お二人でその席に顔を出されたのではないかと存じますが。」
 この時、よれよれの浴衣に古ぼけた袴といういでたちではあるが、何となく気品のある眼鼻立ちをした白髯はくぜんの老人が、だしぬけに立ち上って言った。
「私は田上と申す者で、五年級にお世話になっている田上一郎の祖父でございます。先程からだんだんお話を承りまして、きょうのお集まりのご趣旨は、もう十分わかりましたことですし、この上は学校と父兄とよく協力いたしまして、それぞれの立場で、出来るだけのことをいたすよりほかないと存じます。それにつきまして、私は平尾さんにちょっとお伺いしておきたいのですが、さきほどあなたのお言葉で、急先鋒になっている数名の生徒があって、それが何か思想的な背景をもって動いているというように承ったのでございますが、その数名の生徒の中に、私の孫が加わっているというようなことはありますまいか。もしご存じでしたら、ご遠慮なくそう言っていただきたいのですが。」
「それは、さっき馬田さんにも申しました通り……」
「なるほど、ご令息が名前を秘密になさるということも、一応うなずけないことはありません。しかし、私の孫もご令息と同様、校友会の総務とかに選ばれていますし、自然、何かのことがお耳にはいっているのではないかと存じますが……」
「いや、いっこう。」
「はっきり言うのが気の毒だとか、或は、万一ちがっていたらあとが面倒だ、とかいうようなことで、仰しゃっていただかないのではありますまいね。」
「いいえ、決してそんなわけでは……」
「こういう場合には、多少疑わしいことでありましても、おたがいに見たまま聞いたままを、ざっくばらんに話しあってみる方が、却ってよろしいかと存じますが。」
「ごもっともです、実は、それで、私も私の知っている限りのことを申し上げたようなわけで……」
 田上老人はまだ納得しかねるといった顔付をして、立ったままでいる。
 すると俊亮が、今までとじていた眼を見ひらいて、微笑しながら言った。
「田上さん、そのことなら、あなたのお孫さんは恐らくご心配ありますまい。何でしたら、私、よくたしかめた上で、お知らせ申上げてもいいのですが。」
「あなたが? 失礼ですが、あなたはどなたで……」
 と、田上老人は自分のまえの名簿をひきよせた。
「本田ですが……」
「ああ、本田さん。……すると、何ですか、あなたはこの件について何かくわしいことをご存じのお方で?」
「くわしいというほどのことは存じていませんが、平尾さんのおっしゃった急先鋒のうち、一人だけよく存じていますので。」
「ほう。」
 と、田上老人は、眼をかがやかした。しかし、今度はその名前を発表せよとは言わない。みんなはさっきから一心に俊亮の顔を見つめている。
 俊亮はにこにこしながら、
「その一人というのは私のせがれで、実は血書を書いた本人です。」
「ほう。」
 田上老人はまたほうと言った。そして自分がまだ立ったままでいたのに気がついたらしく、いそいで腰をおろしたが、視線は俊亮に注いだままであった。みんなの視線も動かなかった。石のような沈默の中で、俊亮だけがあたりまえの息をしている。
「血書を書くなんて、どうもなま臭くて、私もそれを知りました時は、あまりいい気持はいたしませんでしたが、しかし、せがれにとりましては、それが精一ぱいの良心的な仕事だったらしく思われましたので、むりにやぶいて捨てろとも言いかねたのです。その血書がもとで、各方面に大変なご心配をおかけするようなことになりまして、私といたしましては、ちょっと意外にも感じ恐縮もいたしているわけです。」
 俊亮は、しかし、心から恐縮しているような様子には見えなかった。
 父兄たちの視線がつぎつぎに俊亮をはなれて課長と校長に注がれた。二人は、その時、頬をすれすれによせて、何かささやきあっていたが、しばらくして、課長が言った。
「本田さん、よく思いきっておっしゃっていただきました。父兄の方から進んでそういうことを打ちあけていただくということは、決して生徒の不利にはならないと存じます。その点につきましては、県といたしましても、学校といたしましても、十分考慮いたしまして、すべてを処置して行く考えでございますから、どうか御安心を願います。」
 俊亮は苦笑しながら、
「私はべつに思いきってお話しいたしたわけでもなく、また、お話しいたしましたことが、せがれの不利になるとか有利になるとか、そんなことを考えていたわけでもありませんが……」
「いや、お気持はよくわかっています。」
 と、課長はひとりでしきりにうなずいた。そして両手を鼻の先でもみながら、しばらく眼をおとしていたが、ふと考えついたように、
「で、いかがでしょう。本田さん。私は、この事件をおだやかに解決するには、ともかくもあの血書を撤回してもらわなければならないと思いますが、ご令息によくお話し下すって、そういう方向に導いていただくわけにはまいりますまいか。」
「それは私にはうけあいかねます。」
 俊亮の言葉は、みんなをはっとさせたほど、はっきりしていた。
「むろん、課長さんのお言葉は間違いなくせがれに伝えるつもりではいますが。」
「お伝え下さるだけでなく、あなたから説得していただくというわけには参りませんか。」
「ご希望であれば説得もいたしましょう。しかし、それには限度があります。せがれの良心を眠らせるような説得は私には出来かねますので。」
「すると、あなた自身、血書を撤回することが、ご令息の良心に背くとでもお考えでしょうか。」
「いや、必ずしもそうだとは考えていません。しかし、こう申しては何ですが、今度の問題につきましては、せがれは、最初からあくまでも良心的に動いているように思えますし、その点では、親の私でさえ頭がさがるような気がいたしますので、私は、最後まで、せがれ自身の良心に訴えて行動させたいと思っているのです。むろん、まだ中学生のことで、いろいろ小さな点で思慮の足りないところもありましょう。事実、本人もあとで後悔したりしたこともあるようです。しかし根本の筋道さえ誤っていなければ、小さな過ちは却って反省の機会になっていいことだと思いますので、あまり立ち入ったことは言わない方針です。」
 課長は校長と顔を見合わせた。うしろにいた警察と憲兵隊の二人は、何かささやきあいながら、名簿と俊亮の顔とを何度も見くらべている。父兄たちの表情はまちまちで、ある者は心配そうに俊亮の顔をのぞき、ある君は急に腕組みをして居すまいを正し、またある者は自分の顔をかくすようにして警察と憲兵隊の二人を見た。
 しばらく重い沈默がつづいたあと、課長は少し興奮した調子で言った。
「ご家庭での教育のご方針については、私共から立ち入ってとやかく申上げる筋ではありませんが、今度の問題について、ご令息が根本の筋道を誤っていられないとお考えになるのは、どういうものでしょうか。先ほど私からくわしく申上げましたような事情がおわかり下されば、そうは考えられないと存じますが……」
「私は、せがれが朝倉先生をお慕い申上げるのは当然だと思いますし、またその気持に少しも濁ったところはないと信じておりますので……」
「しかし、それは朝倉教諭がりっぱな教育者であるということを前提にされてのことでしょう。」
「むろんそうです。私は、朝倉先生ほどの教育者は、今の日本には全く珍らしいとさえ考えているのです。」
「すると、私が教諭の人物について申上げたことは、嘘だとお考えでしょうか。」
 俊亮はまた苦笑しながら、
「あなたが故意に嘘をおっしゃったとは考えていません。判断のちがいだと思っているのです。」
「教諭が失言したというのは、たしかな事実ですが、それについてはどうお考えですか。」
「失言というお言葉が、実は、私にはにおちないのですが……」
「すると教諭の言ったことは正しいとお考えですね。」
「極めて正しい警世の言葉だと思っています。」
「警世のお言葉ですって?」
「そうです。国民が自分の判断力をねむらせて、権力に追随する危険を戒めた、警世の言葉だと思っているのです。」
「その奥に反軍思想があるとはお考えになりませんか。」
「そうは考えません。反暴力思想があるとは考えていますが。」
 憲兵隊員が県の属官に耳うちした。すると属官がまた課長に耳うちした。課長は上気した顔をしてそれをきいていたが、二三度かるくうなずいたあと、何か決心がつかないらしく、じっと眼をおとして考えこんだ。すると平尾の父が、
「本田さん、いかがでしょう――」
 と、気づまりな空気をほぐすように、いかにもわざとらしい、くだけた調子で言葉をはさんだ。
「問題の根本の見方については、いろいろ意見もありましょうが、さきほどあなたご自身でもお認めのとおり、血書とか血判とかいうことは、とにかくおだやかでありませんし、それに第一、知事さんを相手にしているという点が、中学生らしくない、非常にませたやり方で、背後に何か思想的な関係がありはしないか、というような疑問も、自然、そういうところから生じて来るのではないかと思います。で、いかがでしょう。あの陳情書だけは、ともかくも一応徹回させるように、おたがいに尽力してみましては。」
「承知いたしました。」
 と、俊亮は案外あっさりと答えたが、
「ただ、さきほど課長さんにも申上げましたように、それにはある限度がありますので、その点はあらかじめご承知おき願います。」
「その限度とおっしゃる意味は?」
「実は、せがれ自身、今では、血書を書いたのを多少恥じているようにも見うけますので、本人だけなら、むしろ喜んで撤回する気になるかも知れません。しかし、あの血書は、もうせがれ一人のものではなくなっていますし、自分が書いたから自分の勝手になる、というものではありません。ことに、沢山の生徒が血判までやっているとしますと、今さら撤回するなどとせがれが言い出しましたら、どういう結果になりますか、そこいらのことは、せがれ自身に慎重に考えさせたいと思います。」
「なるほど、ご令息としては、そりゃ、すいぶん言い出しにくいことでしょう。しかし、そこを押しきってもらうことが、今の場合必要なことですし、またそれがご令息の責任ではないか、と思いますが……」
 俊亮は、けげんそうに相手の顔を見た。が、すぐ、
「せがれは多分、結果をますます悪い方に導くような事はしたがらないだろうと思います。そこはせがれの良心を信じて下すってもいいと思いますが。」
 今度は平尾の父がけげんそうな眼をした。そして何か言おうとしたが、ちょうどその時、道一つへだてた中学校の正門のあたりから、にわかに、さわがしいどなり声や、やけに声をはりあげた校歌の合唱がきこえて来た。
 みんなの注意はその方にひかれた。中には席を立って窓から下を見おろすものもあった。花山校長もその一人だったが、その顔付は変にこわばって血の気がなかった。
 生徒たちは、しかし、計画的に集団行動に出ているようなふうには思えなかった。彼らは校門を出ると次第にばらばらになりながら、いかにも興奮した調子でお互いに何か言いあっていた。
 少しおくれて、次郎が左右から二人の生徒にたすけられるようにして出て来るのが、俊亮の眼にとまった。俊亮は席についたまま顔だけを窓の方にねじむけていたが、校門がちょうどその窓から見とおしになっていたので、それが偶然よく見えたのである。彼も、さすがにはっとしたように、椅子から立ち上って窓ぎわに行った。そして、腕組をして三人の様子を見まもりながら、何度も首をかしげた。

八 水泳


「もうこうなれば、朝倉先生の辞職は一日も早く発表される方がいいと思うよ。」
 次郎は、まだ興奮からさめきらない眼で、じっと空を見つめながら言った。
 一心橋から二丁ほど北に行ったところに、とくべつ大きい黒松が根をはっており、その根の一部をそぎおとして、流れの方に斜めに道がついているが、そこは馬の水飼場みずかいばになっている。次郎たちは、その水飼場のおり口の熊笹の上に仰向けにねころんで、何か思い出しては、ぽつりぽつりと口をききあっていた。やはり次郎がまん中で、新賀が右から、梅本が左から、たえず次郎の顔をのぞくようにしている。
「そうだ。そうなると、やつらのストライキの口実もなくなるんだ。」
 梅本が言うと、
「しかし、しゃくだなあ。」
 と、新賀は両手の拳を力一ぱい空につきあげた。
 三人はそれっきり默りこんだ。
 松のこずえにかすかに風が鳴っているのが、雲の音のように遠くきこえる。次郎は相変らず空の一点に眼をこらしていたが、
「ほんとうは、僕、ストライキがやってみたくなったんだよ。」
 新賀と梅本とは、何かにはじかれたように、半ば身をおこして次郎を見た。
 次郎は、すると、まぶしそうに眼をつぶった。が、またすぐ空を見ながら、ひとりごとのように、
「しかし、朝倉先生の辞令が出ないうちには、それがやれない。やると、先生の顔に泥をぬることになるからね。」
 新賀も梅本も、ただ顔を見合わせただけだった。
「先生に早くこの土地を去ってもらうといいんだがなあ。」
「本田!」
 と、新賀は次郎の胸に手をあててゆすぶりながら、
「君は、いったい何を考えているんだい。」
「ストライキをやる時期と方法だよ。」
「何のためのストライキだ。」
「学校浄化のためさ。朝倉先生の問題はもうすんだ。それとは関係なしにやるんだ。問題がまるでちがって来たんだから。」
「おい!」
 と新賀は怒ったように、
「君はとうとう馬田に負けたな。」
「馬田に負けた? どうして?」
 次郎はやにわにからだを起し、新賀と向きあった。
「君は、馬田が、留任運動をきっかけにストライキをやって、校長やほかの先生を排斥しようと言った時、それを不純だといって攻撃したんじゃないか。」
「むろんさ。それがどうしたんだ。」
「攻撃しておいて、今度は君がその不純なことをやろうというのか。」
「ちがう。留任運動とは関係がないんだ。僕、さっきそう言ったんじゃないか。」
「そんなこと通用せんよ。現に関係があるんだから。」
「ない。僕の気持には、それは全然ないんだ。」
「君の気持にはなくっても、留任運動に失敗したあとですぐストライキをやれば、誰だって関係があると思うよ。」
「そんなことわかってるよ。だから僕はストライキの時期と方法をどうしたらいいか、それを考えているんだ。僕は朝倉先生を見送って学校が一応落ちついてからにしたいと思ってる。もう間もなく夏休みだから、どうせ来学期さ。ゆっくり考えてやるんだ。やる以上は根強くやりたいからね。」
 そう言って次郎は微笑した。つめたい微笑だった。その微笑の底には、彼の幼ないころの血が、永いあいだの彼の努力を裏切って無気味によみがえっていた。正木の庭の筑山のかげで、若い地鶏が老レグホンに戦いをいどむのをじっと見つめていた時の、あの熱いとも冷めたいとも知れない血が。
「しかし、本田――」
 といつの間にか、からだをにじらせ二人の間に顔をつき出していた梅本が言った。
「それでは君の暴力否定の主張はどうなるんだ。」
「それもこれから考えてみるさ。」
「これから考えてみる?」
「うむ、ゆっくり考えてみるよ。」
「今さら、何を考えるんだ。」
「僕には、ストライキが暴力でない場合もありそうな気がするんだ。少くとも、やむを得ない、いや、必要な暴力というものが、この世の中にはありそうに思える。」
「そりゃあ、あるだろう。警官が泥棒をふんしばるんだって、そうだからね。しかし、学校を浄化するためにストライキに訴えるのは無茶だよ。」
「それ以外に方法がなくても、無茶かね。」
「ほかに方法がない事があるものか。第一、今の校長はストライキを必要とするほどの相手ではないぜ。」
 次郎は苦笑しながら、
「僕は花山校長なんかを相手にしているんではない。あんなの、ほって置いたって、そのうちひとりでに消えてなくなるんだ。僕は、むしろ校長はかわいそうだとさえ思っている。」
「じゃあ、相手は誰だい。」
「誰でもない、学校さ。」
「学校?」
「強いていえば、教頭と配属将校に代表されている現在の学校だ。」
 新賀が眼を光らした。そして穴のあくほど次郎の顔を見つめていたが、
「君は、きょうのことがそれほど無念だったのか。」
「うむ、無念だったよ。」
「それを女々めめしいとは思わんのか。」
「女々しい? なぜだ。」
「教頭も配属将校も、君の将来を棒にふって争うほどの人間ではない。そんなのに捉われるのは女々しいよ。」
「君は、僕があの二人を相手にストライキをやろうとしているとでも思っているのか。」
「本心はそうだろう。」
「馬鹿いえ。相手はあくまで学校だ。いや、学校というよりか、あの二人を通じて学校全体を脅迫している大きな権力だ。その権力から僕たちは学校を救わなければならないんだ。」
 新賀を見つめている次郎の眼は、何かにつかれたように動かなかった。
「なあんだ、そんなことを考えていたのか。」
 と、新賀は茶化すように笑って、
「よせ。そんな夢みたようなことを言ったって仕方がない。みんなに気狂いあつかいにされるだけだ。」
「君自身でも僕を気狂いあつかいにするのか。」
「するよ。」
 新賀はまた笑った。すると、次郎はそっぽを向きながら、
「ふん。君は軍人志望だからね。」
「おい!」新賀は顔を真赤にして、
「そんなことを言うのは侮辱だぜ。」
「侮辱に値するものは遠慮なく侮辱するし、攻撃に値するものは堂々と攻撃するさ。僕はもうそうきめたんだ。」
 次郎は、しかし、何か苦しそうだった。彼は新賀から眼をそらして梅本を見たが、梅本の眼がじっと自分を見つめているのにでっくわすと、急にまた熊笹の上に仰向けにひっくりかえり、大空に向ってふうと大きな息を吐いた。
「君、そんなことを言って朝倉先生にすまないとは思わないのか。それでは白鳥会の精神はどうなるんだ。」
 梅本が泣くように言った。次郎は眼をつぶって答えない。が、しばらして、
「すまない気もするよ。しかし、戦いはやはり必要だ。戦わなければ朝倉先生のいだいていられる信念や思想も護れないからね。そして戦う以上はストライキぐらいやってもいいように思うんだ。朝倉先生は、右翼の暴力に対してストライキを左翼の暴力だと言って非難されていたが、しかし、ガンヂーの非協力や、絶食は、先生も認めていられたようだ。僕はそれと同じ意味でストライキをやりたいと思っているんだ。」
 言うことが大げさすぎる、と、新賀はそう思ったが、今度は笑わなかった。何か笑えないものを次郎の気持に感じたのである。
 梅本は心配そうに首を何度もかしげていた。それに気づくと、次郎はまた起きあがって、
「僕の言うこと変なんかね。」
「変じゃないけれど、少し考えすぎているよ。」
「考えすぎている? しかし、学校が不正に屈服するか否かの問題だぜ。いや正義が世の中に行われるか否かの問題だぜ。僕たちは、正義のために、権力に対して反省を要求しなければならないんだ。だから――」
「よし、わかった。」と、新賀がどなるように、次郎の言葉をさえぎった。
「君の言っている理窟はよくわかった。しかし、いざストライキという場合、みんなが君のいうような理窟で動くと思うかね。いや君自身、教頭や配属将校に対する感情をぬきにして、純粋にそうした道理で動けると思うかね。」
 次郎は、はっとしたように眼を見はった。
 そう言われると、頬骨の高い、三角形の眼をした西山教頭の顔と、がまにひげを生やしたような曾根少佐の顔とが、いつも憎々しく自分の眼にちらついている。二人の顔を思い出さないでは、自分はさっきから一言も口をきいていなかったのではないか。――
 彼はひとりでに眼を伏せた。彼の膝の周囲には熊笹の葉が入りみだれ、へしまげられている。その葉が、彼が息をするごとにかすかな音を立てて動いていた。そしてその二つ三つが、間をおいてつぎつぎにぴんとはね起きた。彼は見るともなくそれを見ていたが、ふいに顔を上げて、
「僕、何だかわけがわからなくなった。もっとゆっくり考えてみるよ。」
「うむ、僕ももっと考えてみる。」
 新賀が言うと、梅本も、
「そうだ。いそいできめることはない。おたがいによく考えてみるんだね。」
 新賀は、次郎の気をひくように、
「どうだい、水をあびようか。」
 三人はすぐ立ちあがった。次郎は裸になりながら、
「みそぎでもやるようだね。」
 と、皮肉に笑った。すると梅本が、
「みそぎはまあいいが、みたまふりというのは実際滑稽だそうだ。」
みたまふりって何だい。」
「みそぎのあとか先かに、静坐をして眼をつぶり、何か唱えながら、両手を組みあわして、ふるんだってさ。そのうちに、僕たちの学校でもそれがはじまるだろう。師範学校ではもうはじめたっていうから。」
 三人は笑いながら流れに飛びこんだ。水は浅かった。深いところで腰の辺までしかなかった。それでも清冽せいれつな水と白砂の感触は、学校での今日の不快な印象を洗い流すのに十分役に立った。
 次郎は何度も水にもぐり、息のつづくかぎり流れに身を任せた。彼は、そんなことをくりかえしながら、ひとりでめずらしく人生哲学めいたことを考えていた。しばらくぶりで、彼は、彼が兄の恭一や大沢といっしょに筑後川の上流をさまよって以来、彼の心を支配しがちであった「無計画の計画」とか、「摂理」とかいう言葉を思い出していたのである。
 彼はまた、春月亭の内儀おかみに侮辱されて、人間の道義というものに絶望しかけていたとき、朝倉先生にきいたミケラシゼロの話を思いおこしていた。苔むした大理石の中に「とりこにされていた」女神の像を、のみをふるって「救い出し」た芸術家の心は、清冽な水や白砂と共に彼の気持を次第に落ちつけて行くらしかった。
「おうい、本田ア。」
 彼が水から首をもたげると、新賀が大声で彼を呼んでいるのがきこえた。次郎は、その時、水飼場から百メートル以上も下流にいたのである。
 見ると水飼場の岩には、俊亮がふんどし一つになって立っており、こちらを向いてにこにこ笑っている。
 次郎はちょっとあっけにとられた。そして急いで流れをさかのぼりかけたが、もうその時には、俊亮もざぶりと水に飛びこんでいた。
「父さん、どうしたんです。」
 近づくと、次郎がたずねた。
「県庁に行ってかえりがけだよ。お前たちが泳いでいるのを見つけたもんだから、つい父さんも泳いでみたくなってね。」
 俊亮はそのふっくらした真白なからだを、胸まで水にひたして答えた。
「県庁で何があったんです?」
「お前たちのことで呼び出されたのさ。」
「僕たちのことで? 県庁に?」
 次郎だけでなく、新賀も梅本も眼を見はった。
「きょうはお前のおかげで、私も重要な父兄の一人になったよ。呼び出されたのは二十名ばかりだったがね。」
 俊亮は笑いながら、県庁での「懇談こんだん」の様子をかくさず話してきかした。ただ、血書撤回のことで課長との間にとりかわした問答については、あまりくわしいことは言わなかった。
「県庁の方では、私からお前によく話して、血書を撤回させるようにしてもらいたい、と言っていたんだが、それはもうお前ひとりの自由にはなるまいし、第一、撤回するのがいいことか、わるいことか、私には見当がつかなかったので、いい加減に答えて置いたよ。」
 そう言ったきりだった。
 話をきいていて、新賀と梅本とがすぐ心配になり出したのは次郎のこれからの立場だった。二人は俊亮のような父を持っている次郎の幸福を内心うらやみながらも、次郎が血書を書いた本人だということを、そんな席上で平気で発表してしまった俊亮に対して、何か不平らしいものを感じないではいられなかったのである。次郎は二人とはまるでちがったことを考えていた。彼は何よりも県庁のやり方を卑劣だと思った。それがむやみに腹立たしく、さっきからどうなりおさまりかけていた権力に対する反抗心が、それでまたむくむくと頭をもたげ出していたのだった。
 俊亮は、しじゅう次郎の様子に注意しながら話していたが、話し終ると、これで何もかもすんだ、というような顔をして言った。
「今日は風がないので県庁の二階も暑かったよ。しかし、やっとせいせいした。やはり水はいいね。」
 次郎も、新賀も、梅本も水にひたったまま、むっつりしていた。水面にならんだ四つの顔がただ眼だけを動かしている。
 しばらくして、新賀が何かふと思いついたように梅本に言った。
「血書は、こうなると、やはりおとなしく撤回した方がいいんじゃないかね。どうせもう役には立たたないし、……」
「そうだ。僕も今そんなことを考えていたところだ。本田からは言い出しにくいだろうから、僕たち二人でみんなに相談してみよう。」
 すると次郎が、
「僕は不賛成だ。」
 と、おこったように言って、俊亮の顔を見た。
 俊亮は、しかし、三人の言葉を聞いていなかったかのように、急に水から上半身をあらわし、
「おっ、少し冷えすぎたようだ。次郎はもっとあびて行くかね。父さんは先に帰るよ。」
 そう言ってさっさと水を出た。
 次郎は、新賀と梅本の顔を見て、ちょっとためらったふうだったが、すぐ、
「僕、さきに失敬するよ。」
 新賀も、梅本も、何か意味ありげに、大きくうなずいた。
 間もなく俊亮と次郎とはならんで土手をあるいていた。水を出たばかりで汗は出なかったが、顔にあたる空気はいやに熱かった。
 歩きながら、今度は次郎が、きょう学校での会合の様子を話し出した。彼の調子はかなり興奮していた。俊亮は、しかし、「うん、うん」とかろくあいづちを打つだけだった。西山教頭と曾根少佐とが委員会の席に乗りこんで来たことを話した時には、
「ほう、そうか。やっぱり配属将校がね。」
 と、ちょっと興味をひかれたようなふうだったが、そのあとは、またうん、うんと答えるだけで、次郎にはまるで張合がなかった。
 それでも、話してしまったら何か言ってくれるだろうと、次郎は期待していた。しかし俊亮は、
「先生二人を置き去りにするなんて、お前たちも心臓が強いね。」
 と、笑ったきりだった。
 次郎はとうとうたまりかねたように言った。
「配属将校が生徒をおどかしたり、県庁が父兄をおどかしたりするの、ほって置いてもいいんですか。」
「放っておいていけなければ、どうするんだい。」
 次郎は、さすがに、自分が主唱してストライキをやるんだ、とは言いかねた。
 ざくざくと砂をふむ靴音だけがしばらくつづき、二人はもうそろそろ汗をかきはじめていた。すると、俊亮がだしぬけに言った。
「お前は、きょうは一本立ちが出来なかったようだね。」
 次郎は何のことだかわからないで、父の横顔を仰いだ。
「きょうは、お前たちが学校の門を出て来るのを県庁の二階から見ていたんだよ。」
 次郎は、新賀と梅本とに左右から支えられ、泣きづらをして校門を出た時の自分の姿を想像して、顔があがらなかった。
 すると、しばらくしてまた俊亮が、
「一本立ちの出来ない人間が血書を書くなんて、少し出すぎたことだったね。」
 俊亮の言葉の調子には、少しも冗談めいたところがなかった。次郎は何か恐怖に似たものをさえ感じたのだった。
「しかし、何ごとにせよ、精一ぱいにやってみるのはいいことだ。そうしているうちに、だんだんとほんとうに一本立ちの出来る人間になれるだろう。きょうはまあよかったよ。」
 俊亮は、そう言って急に柔らいだ調子になり、
「それはそうと、お前は小さい頃、父さんとはじめて水泳をやった時のことを覚えているのかい。」
「覚えています。」
 五つの時、里子から帰って、まだちっとも家に落ちつかないでいた自分を、父が大川に水泳につれて行ってくれた時の喜びは、次郎にとって忘れようとしても忘れられない記憶だった。それは彼に、曲りなりにも、家庭に希望を抱かせた最初の機会だったのである。
(しかし、父は、なんで、だしぬけにそんなことを自分にたずねるのだろう。)
 彼は、ふしぎそうに、もう一度父の顔を仰いだ。
「あれからもう十二三年にもなるだろうが、おまえといっしょに水を浴びたのは、あれ以来きょうがはじめてじゃないかね。」
 なるほど考えてみるとはじめてである。次郎は、しかし、そんなことを言う父がいよいよふしぎでならなかった。
「実は、きょう、県庁の二階からおまえのしおれきった姿を見て、妙におまえのことが気になり、心配しながら帰って来ていたんだ。すると、水飼場の近くで、水に頭をつっこんで泳いでいる人がある。顔をあげたのを見るとおまえだ。私は、その時、どうしたのか、まるで忘れていた十二三年まえのことをふいと思い出してね。それで、つい私も飛びこんでみたくなったんだ。」
 次郎は、しみじみとした父の愛情が全身にしみとおるのを感じた。
「二人がいっしょに水泳をやるということが、きょうは妙に運命みたように私には感じられて来たよ。十二三年まえ、おまえがお浜のところからむりやりにつれもどされた時、それからきょう、――たった二度だが、それがふしぎにお前がしょんぼりしている時、ばかりだったのでね。」
 いつもの俊亮だと、そんなことを言うときには、少くとも微笑ぐらいはもらすのであったが、きょうはあくまでも生真面目きまじめな顔をしている。それが次郎を一層しんみりさせ、これまで経験したことのない愛情の重みを彼に感じさせた。
 彼はだまって父について歩くよりほかなかった。
 土手をおりて鶏舎がすぐまえに見え出したころ、俊亮がまた思い出したように言った。
「それはそうと、もうむだ玉をうつのはよした方がいいね。むだ玉は血書だけで沢山だ。時代はどうせ行くところまで行くだろうし、おまえたちが今じたばたしたところで、どうにもなるものではないからね。」
 次郎は、理窟を言えば何か言えるような気がした。しかし、ただだまってうなずいた。父の愛情が今は理窟をぬきにして、彼にすべてを納得なっとくさせたのである。
 彼のその日の日記には、しかし、つぎの文句が記されていた。
「――父はいつも愛情をとおして道理を説き、道理の埒内らちないで愛情を表現することを忘れない。しかし、わが子の安全をねがうのが現としての情であるかぎり、時として父の説く道理にも、いくらかのゆがみがないとは限らない。もし父の言うように、時代に反抗する一切の努力がむだ玉だとするならば、朝倉先生もまたむだ玉をうたれたことになるのではないか。」

九 二つの敵


 次郎は、この一週間ばかり、考えぶかくすごして来た。
 血書撤回のことは、すぐその翌日、新賀と梅本とによって校友会の委員会に持ち出されたが、わけなく否決された。ストライキ派が、それを撤回されてはストライキの口実がなくなると思っているところへ、反対派の一人が、「血書をひっこめたら、われわれの朝倉先生に対する気持までひっこめたことになるんだ。」とどなったので、ほとんど問題にならなかったのである。
 それでも、新賀と梅本とは、決をとるまで、しきりに次郎のこれからの危険な立場を述べたてて賛成を求めた。これには、ストライキ反対派の中に同感の意を表したものも多少あった。しかし、次郎本人が、
「血書は私情で書いたものではない。それを私情でひっこめることは絶対に不賛成だ。」
 と、強く言いきったので、新賀も梅本も、結局あきらめるより仕方がなかったのである。
 血書撤回の問題がかたづくと、すぐまたストライキ問題がむしかえされた。馬田一派に言わせると、
「少数の父兄が県庁に呼び出されたということは、すでに少数の生徒が犠牲者に予定されているということを意味する。だから、一日も早く、全校生徒で責任を負うような態勢をととのえなければならない。」
 というのであった。これに対し、次郎はきっとなって言った。
「われわれは、たった今、血書撤回を否決したばかりではないか。血書を撤回しないかぎり、ストライキをやらないというわれわれの約束は、決して消滅してはいないはずだ。」
 言ってしまって、彼自身、何か詭弁きべんを弄したような気がして、あぶなく苦笑するところだった。しかし相手はそれでわけなく沈默してしまい、その代りに生徒大会の問題をもち出した。その理由とするところは、「とにかく今度の問題は、もう校友会の委員だけできめるには、あまりにも大きすぎる。こうした問題について、一度も生徒大会を開かないのは不都合だ。」
 という、ごくぼんやりしたことだった。しかし、その底意が、生徒大会の興奮した空気をストライキに導こうとするにあったことは、明らかであった。それに対しても、次郎は、
「そんなことは有害無益だ。」
 と、言って正面から反対した。
「なぜ有害無益だ。」
「定見のない、無責任な群集は、ただ興奮するだけだ。」
「何? 定見のない無責任な群集? 君は全校生徒を侮辱する気か。」
「侮辱する気はない。事実そうにちがいないから、そう言ったまでだ。」
「まだ集まってもみないで、どうしてそんな断定が下せるんだ。」
「それは諸君自身のこれまでの態度が証明している。選ばれた委員だけが集まってさえ理性を失いがちなのに、生徒大会が冷静でありうると思うのか。」
 これには満場騒然となった。すると次郎は、にたりと冷たい微笑をもらし、みんなを見まわしたあと、
「そうれ、すぐそのとおりになるんではないか。」
 それから急に顔をひきしめ、少し沈んだ声で言った。
「現在僕たちに残された道は、朝倉先生の教え子らしい態度と方法で、先生をお見おくりすることだけなんだ。そりゃあ、僕だって、諸君と同じように、興奮したくもなる。……しかし興奮してさわぎを大きくするだけ、僕たちは僕たちの敗北を大きくすることになるんだ。今はただ先生をきずつけない方法を考えることが、僕たちにとって一番大事なことではないかね。」
 次郎の声は、その時いくぶんふるえており、眼に涙がにじんでいそうに思われた。
 みんなは、つい、しいんとなってしまった。そして生徒大会のことも、それで立消えになってしまったのである。
 生徒大会のことがどうなり片づくと、次郎は機を失せず、
「朝倉先生の問題に関するかぎり、校友会の委員会はもう今日で打切りにしたい。で、今日のうちに先生送別の方法について考えておこうではないか。」
 と提案した。
 これには、新賀や梅本でさえさすがに変な顔をした。むろん馬田一派はここだとばかり猛烈に反撃して来た。
「血書を撤回しない以上、留任運動は今でもつづいているということがわからんのか。」
「委員会なくして何が留任運動だ。」
「血書万能の夢も大ていにしろ。」
「おもてで留任運動、うらで送別会の計画、僕たちにはわけがわからんよ。」
「こんどは送別の辞でも書きたいのだろう。」
「なあに、送別の辞は血書より早く出来ているんだよ。」
 そんな罵声ばせいやら、冷かしやらが、方々から起った。しかし、そこいらまではまだいい方であった。あとでは、次郎を真正面から、偽善者だ、卑怯者だ、裏切者だ、とののしり、彼に退場を要求するものさえ出て来た。
 次郎は、しかし、そうした罵声の中で、微塵も興奮した様子を見せなかった。こうした場合にいかに振舞うべきかを、彼は彼の幼いころの生活から見事に学びとっていたのである。彼は罵声が発せられるごとに、しずかにその方に眼を転じて、無言のままじっとその声の主を見つめた。その眼は冷然と光っており、相手が視線をそらすまでは微動だもしなかった。五人、十人、十五人、と彼がこうしてつぎつぎに相手を見つめて行くうちに、室内は次第に静かになって来た。そして、しまいには、息づまるような沈默の中に石像のようにつっ立っている彼をかこんで、無数の眼が、あるものはおびえたように、あるものは強いて冷笑するように、またあるものはあやしむように、光っているだけであった。
 次郎はその様子を見すますと、おもむろに言った。
「君らが何のためにそんなひどいことを言うのか、僕にはよくわかっている。むろん、君らの中には、僕が処罰をおそれて卑怯になったと、本気にそう思って怒っているものもいるだろう。そういう人に対しては、今は何も言わない。僕が何を考えているかは、これからの僕自身の行動で説明するより外にはないからだ。また君らの中には、べつに深い考えもなく、お調子にのって面白半分に野次やじをとばしているものもいるだろう。僕はそういう人に対しては何も言いたくない。僕はそういう人を軽蔑するだけだ。ただ僕は、僕をストライキの邪魔者だと思って僕に対抗している一部の諸君に対しては一言いっておきたいことがあるんだ。」
 彼はそう言って、馬田をはじめ、その一派の有力な生徒たちの顔をつぎつぎに見まわした。
 誰も彼をまともに見かえすものがない。
「僕は昨日まで諸君のまえで暴力を否定して来たが、――」
 と、彼の沈痛な声が気味わるくみんなの鼓膜こまくをうった。
「もしも諸君が、今日も僕がそんなふうに考えており、そしてどんな場合にも僕が暴力を用いないと思ったら、それは見当ちがいだ。僕は、不条理を正すために、ほかに方法がないとすれば、暴力もまたやむを得ないと考えるようになったんだ。諸君は朝倉先生のためにストライキをやりたいと言っている。しかしそれは朝倉先生のためでなく却って朝倉先生に背くことになる。それは明らかに不条理だ。だから諸君が、あくまで諸君の主張を押し通そうとするなら、僕は諸君に対して暴力をもってのぞむよりほかない。僕は諸君と血闘をすることも辞しないつもりだ。僕は、実をいうと、子供のころから暴力によって僕の意志を貫いて来た。そして朝倉先生の教えをうけて以来、それを心から恥じていたんだ。しかし最近、――そうだ、つい昨日からのことだが、僕はそれがすべての場合恥ずべきことではないという気がして来たんだ。僕の今の気持では、僕は暴力に訴えて諸君と戦うことに何の矛盾も感じてはいない。僕はいつまでも口先で諸君と争っていることが面倒くさくなって来たんだ。どうだ、もうこのへんで、最後の手段に訴えて朝倉先生の問題にけりをつけようではないか。……念のために言って置くが、僕はひとりだ。これは僕ひとりで決心したことだからね。しかし、僕ひとりだからといって遠慮してもらっては困る。僕の相手は何人あってもかまわないんだ。」
 次郎の見幕けんまくに圧倒されて、馬田一派はおたがいに顔を見あうことさえ出来なかった。
「どうだ、馬田!」
 と、次郎は真正面から馬田をにらみつけ、
「先ず君の決心をきこう。」
 馬田は顔をひきつらせた。そしてやっとのこと、
「ふふん。」と、あざけるように天井を見た。
「卑怯者!」
 次郎は一かつして、つかつかと馬田に近づいた。動揺が波のように室内を流れた。
「よせ!」
 そう叫んで次郎をうしろから羽がいじめにしたものがあった。それは新賀だった。同時に梅本、田上、大山などの四五名が、次郎のまえに立ちふさがっていた。大山の満月のような顔には、その時、どこかとぼけたようなところがあった。それは眼玉をぱちくりさせていたからであったらしい。
「とにかく本田の言うように一応解決しようではないか。本田が暴力に訴えることのよしあしは別として、言っていることは正しいし、おたがいに約束もしたことなんだから。」
 新賀が次郎を羽がいじめにしたままで言った。誰も何とも言わない。
「どうだ、みんな不賛成か。」
 新賀がもう一度うながした。
「賛成!」
 梅本と田上がほとんど同時に呼んだ。
「よかろう。」
 ちょっとおくれて大山が間のぬけたように言った。つづいて方々から賛成の声がきこえた。
 ストライキ問題は、こうして次郎のほとんど脅迫ともいえるような態度で、強引に片づけられてしまった。そしてそのあとは野次一つとばず、熱のさめたあとの変につかれた気分で、朝倉先生送別の方法が議せられたが、それは、校友会からおくる規定の餞別せんべつのほかに、特に生徒一人あたり一円ずつを醵出きょしゅつして何か記念品をおくること、送別式後、校友会委員を中心に有志の生徒を加え、他の先生をまじえないで送別会を開くこと、会場は校外の適当な場所で、出来れば川上の実乗院を選ぶこと、等であった。
 川上の実乗院というのは、町から一里半ほど北方の、谷川にそった景色のいい真言宗の寺であるが、そこは、もう七八年もまえ、前々校長の時代に彼らの先輩が大ストライキをやった時、食糧その他の必要品を用意して十日以上も立てこもったという、中学生にとっては特別因縁のある寺なのである。
 実乗院のことを言いだしたのは馬田であった。次郎は、馬田の未練さに腹も立ち、情なくも思ったが、どうせ朝倉先生は、生徒だけでやる送別会に顔を出されるはずがない、ことに会場が曰くつきの実乗院であってみればなおさらのことだ、と思ったので、強いて反対もせず、すべてを成行きに任していたのであった。
 とにかく、こうして朝倉先生の問題に関するかぎり、校友会の委員会は、その日を最後にして沈默することになり、四人の代表が校長室に出はいりすることも全くなくなった。花山校長は、無論それで大助かりだったし、県当局としても、自分たちのもくろんだ父兄会のききめがあったものとして非常に喜んだ。もっとも、血書撤回が実現しなかったのが、まだいくらか不安の種になって残っており、本田父子に対する疑惑は少しも解消しなかった。しかし、大勢がこうなった以上、大したことはあるまいということで、血書は握りつぶしの肚をきめ、ただ朝倉教諭退職発令の直後を学校の内外で十分警戒しようということになったのである。
 もっとも、西山教頭と配属将校とは、校長、県当局ほど楽観的ではなかった。二人に言わせると、すべては生徒たちの「戦術」であった。生徒たちは何か重大な方針を決定しているが、事前にそれを妨害されるのをおそれて、わざと平穏を装っている。その証拠には、留任運動の急先鋒であった生徒たちの沈默にもかかわらず、何でもない生徒たちは却って以前よりざわついており、何となく不安らしい表情をしている、というのである。
 なるほど、そう疑って見れば見られないこともなかった。というのは、校友会の委員会が開かれなくなってからは、休み時間になると、校庭といわず、廊下といわず、あちらこちらに十人二十人と集まって何か話しあっており、先生の姿が近づくと急に散らばったり、だまりこんでしまって変に白い眼で先生の通りすぎるのを見送ったり、また中には、頓狂な声を出してみんなを笑わせたりすることが多かったし、授業時間中でも、どたばたと廊下をあるく生徒の足音が頻繁ひんぱんにきこえ、どの教室でも、生徒たちは茶化したような眼付をして先生の顔をのぞき、平気で私語する、といったようなふうになって来たからである。
 一般の生徒の中には、委員会の腑甲斐ふがいなさを真剣になって怒っているものもあった。血書の効果を一種の好奇心をもって期待していたのが、駄目だと知って緊張感を失い、急にだらけた気分になったものもあった。また中には、問題がどう片づこうと、そんなことには大した興味を持たず、ともかくもこの騒ぎで、学校や先生を馬鹿にしてもいい時節が到来したような気になり、むやみとふざけたまねをするものもあった。
 こうしたいろいろの種類の生徒たちの間に、共通の話題になったのは次郎のことであった。
「本田は軟化した。自分で血書を書いておきながら、県庁で父兄会があってからは、一所懸命でみんなをなだめにかかったそうだ。」
 そういう噂が誰いうともなく下級生の間にまで伝わって来た。それだけならまだよかった。
「本田には恋人がある。彼が血書を書いたのも、その恋人に自分の勇気のあるところを見せたかったからだそうだ。」
「その恋人というのが気の弱い女で、この頃では本田が退学されそうだというので、悲観しているらしい。本田が軟化したのもそのためだそうだ。」
「いや、そんなはずはない。その女は本田の親類だが、いつも本田の顔を見るのもきらいだと言っているそうだから、本田が退学されたって悲観するはずがない。」
「しかし、とにかく、本田の態度がその女に動かされていることだけはたしからしい。」
「あるいはそうかも知れん。いやに考えこんだり、気狂いのように人にくってかかったり、意見がぐらぐら変ったりするところは、全く変だ。」
「けしからん奴だ。制裁してやれ。」
「そのうち、きっと何かはじまるだろう。」
 噂は、こうして尾鰭おひれをつけ、それが生徒たちのざわめきに輪をかけることになって来たのだった。
 こうした噂は、むろん次郎の耳にもはいらないわけはなかった。彼はそれが馬田一派の宣伝だと思うと、無性に腹が立った。しかし今は何もかも朝倉先生のために我慢する気で、誰にも弁解一つせず、新賀や梅本がそんな噂を打消すために骨を折っているときいた時にも、彼の方から、放っといてくれるように頼んだぐらいであった。
 事件が片づいてから、彼は毎日時間どおりに登校し、時間どおりに家にかえった。校内ではいつも沈默がちであり、孤独であった。帰り途には、きまって朝倉先生をたずねてみたいという衝動にられたが、それが先生の立場をわるくすることになりはしないかと気づかって、いつも自制した。そして、家に帰るとすぐ、畑や鶏舎の手伝いをやり、夜は、しばらくほってあった学課の勉強や、その他の読書に専念した。
「泰山鳴動して鼠一疋も出なかったね。」――ある日、彼は俊三にそんなふうにひやかされた。
「仕方がないよ。」
「ずいぶん評判がわるいね。」
「僕がかい。」
「そうさ、いろんなこと言っているぜ。」
「ふん……」
「知ってる?」
「知ってるさ。」
「何でも?」
「知ってるよ、何でも。」
「だって恋人があるってことまで言っているんだぜ。多分道江さんのことだろうと思うんだが。」
「ふん……」
 次郎は顔を赤くしながらも、軽蔑するように言った。
「それも知っていたんかい。」
「知っていたよ。」
「知っていて、よくがまんしてるね。」
「言わしとくさ。面倒くさいよ。」
「だって、そんなこと、だまっていていいんかなあ。」
「わるくたって、仕方がないさ。どうせ馬田なんかが言いふらしたんだろう。僕は当分あいつらを相手にせんよ。」
「相手にしてはわるいんかい。」
「僕には考えがあるんだ。」
 次郎は面倒くさそうだった。
「どんな考えだい。」
「うるさいね。今にわかるよ。」
 俊三はぬすむように次郎の顔を見て、にやりと笑った。そしてすぐ蚊帳かやにもぐりこんだが、枕に頭をつけながら、彼は小声で口ずさんだ。
「英雄の心緒みだれて麻の如しイ。」
 次郎は腹の底から俊三に対する憎しみの情がわいて来るのを感じた。それは彼が子供のころ俊三に対して抱いていた敵意とはまるで質のちがった、新しい憎しみの情だった。
 彼はその感情をおさえるために、ひらいた本の同じページを見つめたまま、蚊にさされながら、永いこと机によりかかっていなければならなかった。そしてやっと気持をおちつけ、このごろには珍しいほどの長い日記を書いたが、その中にはつぎのような一節があった。

     *

「……僕は今、無数の敵にかこまれているような感じがする。そのために僕の内部には、子供のころの闘争心や、策謀や、偽善や、残忍性や、その他ありとあらゆる悪徳が、ふたたび芽を出しはじめたらしい。しかも、僕は、そうした悪徳に身を任せることに一種の快感をさえ覚えはじめている。恐ろしいことだ。僕はこの誘惑に打克うちかたなければならない。もし僕がこの誘惑に打克つことが出来ないなら、僕は、父の子として、朝倉先生の教え子として、これまで持ちつづけて来た誇りと喜びとを捨ててしまわなければならないだろう。それは僕の全生命を捨てることを意味するのだ。
 だが、僕は果してこの誘惑に打克つことが出来るのか。今の気持では不安で仕方がない。現に今夜も、あぶなく俊三におどりかかって、のど首をしめつけてやりたくなったのではないか。学校でだって、変な眼で僕を見たり、なぞのような言葉で遠くから僕をひやかしたりする生徒を、そのまま見のがして置くのは実際たえがたいことだ。僕は朝倉先生の教えをうけて以来、敵という観念を否定しつづけて来た。そして愛と調和と、そしてそれに出発した創造のみが人間の生活にとって有用だと信じて来た。だがそれは僕の頭の中だけのことでしかなかったのだ。僕は現に、僕の周囲にまざまざと沢山の敵を感じている。僕が子供のころに感じていたのと同じように、ごくわずかな人間をのぞいては、すべての人間が敵のように感じられるのだ。そして、敵と感じたものに対しては徹底的に戦わないではいられないのが、僕の運命づけられた性格だ。それが呪わしい性格であることは僕自身でよく知っている。しかし、僕が僕の幼いころの運命を僕自身で抹殺まっさつすることが出来ないかぎり、或はそれを無力にするだけの新しい運命が僕にひらけて来ないかぎり、それをどうすることも出来ないのが現実の僕の性格だ。それは僕にとって、本能だとさえいえるのだ。
 その本能が、今、僕の内部にむくむくと頭をもたげつつある。僕は僕にとってその本能こそ最大の敵だと思うのだが、そう思うのは僕の頭でしかない。僕の胸は、血は、それにすぐにも味方したがるのだ。ではどうすればいいのか、どうすればその本能に打克ちうるのか。
 だが、僕はまた一方で考える。人間は果して人間を絶対に敵としてはならないものかどうかと。神でさえ悪魔という敵をもっているではないか。「汝の敵を愛せよ」と教えた聖者でさえ、すでにその中に敵という言葉を用いているではないか。「その行いをにくんでその人を悪まず」といっても、人なくして行いがない限り、行いをにくむことは、やがてその人を敵とすることになるのではないか。愛と調和と、そしてそれに出発した創造のみが人生にとって有用であるということが真理であるとしても、いや、それが真理であれはあるほど、その真理にさからうものを敵として戦うことが必要になって来るのではないか。現に、その真理を僕たちに説かれた朝倉先生自身、すでにそうした戦いを戦われているのだ。僕はそう思わざるを得ない。
 では、僕が現在、周囲に無数の敵を感じつつあるということは、いったいどうなのだ。それはいいことなのか、わるいことなのか。僕はそれをいいことだとは絶対にいいきれない。なぜなら、僕の内部には、それと同時に僕の幼いころのあらゆる悪魔が再び芽を出しはじめ、そのために僕の生命はうずまき、濁り、一切の誇りと喜びとを見失ってしまいそうだからだ。かといって、僕はそれをあながちわるいことだともいいきれない。なぜなら、不正と戦わないでは、愛と調和と創造との世界は生まれて来ないし、そしてそうした世界なしには、生命の誇りも喜びもあり得ないからだ。僕はこのことについてもっと深く考えてみなければならない。
 だが、とりあえず僕はどうすればいいのだ。僕の周囲には、日に日に敵がその数を増しつつある。肉親の弟でさえも今はもう僕の敵になっている。しかも不正はすべて彼らの方にあるのだ。それは断じて僕の方にはない。僕は彼らと戦う権利があると信ずる。そして、そうであればあるほど僕は恐ろしい。僕が野獣になる危険がそれだけ多いからだ。それは大きな矛盾だが、その矛盾が現に僕の心の中にあるのだから、仕方がない。
 この場合、僕としてとりうる道はただ一つしかないようだ。それは、僕の怒りを最も重要なところに集中することだ。敵の中の最も大きな敵を選んでそれと戦うことだ。ちょうど昔の武士が雑兵ぞうひょうを相手とせず、まっしぐらに敵の大将に近づいて、一騎打の勝負をいどんだように。ではどこに怒りの焦点を定めるのか。誰を最も大きな敵として選ぶのか。それは、むろん、俊三であってはならない。また、むろん、僕を白眼視し冷笑している多くの生徒たちであってもならない。彼らが僕に対してどんなひどい侮辱を加えようとも、それは所詮不正の泡でしかないからだ。不正の根元はべつにある。僕が僕の最大の敵として僕の怒りを集中するのは、その根元に向かってでなければならないのだ。
 ではその根元は? それは、いうまでもなく、僕たちから朝倉先生を奪った権力だ。僕は僕の最大の敵をこの権力に見出す。僕は或は一生を通じてこの敵と戦わなければならないかも知れない。なぜなら、この権力は僕たちの学園において不正を仂いただけでなく、日本の民族に対して不正を仂き、そして将来も永く仂こうとしているからだ。
 だが、僕にはもう一つ選ばなければならない怒りの焦点しょうてんがある。それは前者ほど大きな、そして永久な敵ではないかも知れない。しかし、僕の現在の生活にとっては、決して単なる不正の泡として見すごすことの出来ない敵である。それは馬田だ。僕は彼を僕の敵として選ぶことについて、ある躊躇ちゅうちょを感じないではない。しかし、今はその感情をぬきにして、彼を敵にするよりほかはない。それは、現在僕の身辺にまきちらされている不正の泡は、ほとんどすべて彼から出ているからだ。
 僕は僕の敵をこの二つの外に選んでもならないし、そのうちの一つを敵からはぶいてもならない。僕は、この二つを敵に選ぶことによってのみ、僕の現在の危機をきりぬけることが出来ると信ずる。僕のこの考えは間違っているかも知れない。しかし現在のところ僕はそれ以上のことを考えることが出来ないのだ。僕はたしかに僕のベストをつくしている!」

     *

 こんな日記を書いたあとの次郎は、ほとんどふだんの次郎と変りがなかった。彼はしずかに寝た。俊三のいびきもさして苦にはならなかった。そして翌日からの彼の学校での態度には、どこかに昂然たるところがあるように思われた。
 そのうちに、彼は、ある朝、兄の恭一と大沢から連名の絵はがきをうけとった。それには、
「いよいよ夏休みだ。すぐ帰省したいと思ったが、四年まえの筑後川上流探検のことを思い出し、今度は地図をもって、もう一度あの辺を歩きまわってみようということになった。隠棲の剣客のような感じのした白野老人と、快活で親切だった日田町の田添夫人とは、ぜひお訪ねして、あの時のお礼を申述べたいと思っている。君もいっしょだと一層面白いのだが、仕方がない。いずれ帰省したら、くわしく報告する。」
 とあった。次郎の胸には、懐旧の情がしみじみと湧いた。わら小屋にねていたのを村の青年たちに叩き起されて、白野老人の家につれて行かれたときのことや、田添夫人に見送られて筑後川を下った時のことが、おとぎの世界のように思いおこされた。それは彼の現在の世界とはあまりにもかけはなれた世界であった。
「無計画の計画。」
 彼は思わずつぶやいた。あの時の思い出ときってもきれない因縁いんねんのあるその言葉が、彼の頭の中に、何かほのぼのとした光を流しこんだのである。同時に、彼は、無性に恭一と大沢との帰省が待ちどおしくなって来た。
(朝倉先生の問題については、二人には、ついうっかりしてまだ何にも知らしていない。帰って来たらさぞおどろくだろう。僕たちのとった態度についてもきっと何か不平を言うに違いない。)
 一方ではそんなことを考えながらも、彼には、二人の帰省が、すべてを解決するかぎのように思われて来たのだった。

一〇 掲示台


 朝倉先生の退職の辞令が掲示板に書かれて正式に発表されたのは、それから三日目の正午すこしまえだった。生徒の中には、すでにその朝の新聞を見て知っていたものもあり、それが全校につたわっていたので、午休みになってその掲示を見ても、べつにおどろきはしなかった。ただ掲示板のまえに集まって、わざとのようにわいわいさわぐだけだった。
 次郎は掲示を見に行く気にもなれず、校庭の白楊ポプラのかげにただひとり寝ころんで、じっと空をながめた。空には雲ひとひらもなく、白い光がみなぎっていた。風もなかった。彼は孤独のさびしさがしみじみと湧いてくるのを感じた。彼の眼はひとりでにとじた。眼をとじると、しかし、掲示台のまえの生徒たちの軽薄なさわぎがいやに耳につき出したので、彼はまた思いきり大きく眼を見ひらいて空を見つめた。
(きょうは是が非でも朝倉先生をおたずねしてみよう。)
 空を見つめながら、彼はそう思った。
(もう荷造りをはじめていられるかも知れない。)
 そんなことも考えた。すると、がらんとした先生の家の様子が眼にうかんで来て、何か、たえられないような気になった。同時に、思い出されたのは、宝鏡先生の転任の時に、新賀と二人で荷造りの手伝いに行った日のことだった。
(あの時も、いやにさびしい気がした。しかし今のさびしさとは、それはまるで質のちがったさびしさだった。すまないことだが、自分はあの時、宝鏡先生を乞食でもあわれむような気持で、あわれんでいたのだ。今は、あべこべに、自分こそあわれまるべき位置にある!……それにしても、同じ先生でありながら、いや、同じ人間でありながら、朝倉先生と宝鏡先生とでは、どうしてこうもちがうものか。)
 彼は、今さらのように、人間がめいめいの生活態度によって、いかに自分の人間としての価値を上下しているかを考え、粛然しゅくぜんとならざるを得なかった。
 しかし、彼のこの気持は、そう永くはつづかなかった。というのは、彼の心の片隅に、いつとはなしに一点の黒い影が動き出し、たちまちのうちに彼の気持全体をかきみだしてしまったからである。それは、ちょうど、清水の底にひそんでいた小魚が、急ににごりを立てて泳ぎ出し、縦横にはねまわったようなものであった。
 運命! それは、彼が意識すると否とにかかわらず、いつも彼の心の底に巣食っている問題であるが、それが今濁り水のように、彼の心におおいかぶさって来たのである。
(宝鏡先生には宝鏡先生の運命があり、朝倉先生には朝倉先生の運命があるのだ。かりに宝鏡先生が朝倉先生ほどのまじめな生活態度をとったとしても、朝倉先生と同じ人間価値を発揮し得たとは思えない。いや、朝倉先生のような真面目な態度をとり得なかったところに、すでに宝鏡先生の運命があったのではないか。祖先から伝わる血、天分、それを運命でないと誰がいいうるのか。ひとり祖先からつたわる血や天分だけではない。物ごごろつくまでの生活環境だって同じだ。なえの時に曲げられた木の幹を、誰が完全に真直にすることが出来るのだ。)
 ここまで考えて来た彼は、もう彼自身の幼年時代の、憎悪と、策略と、偽善と、闘争とうそうとに駆り立てられていた頃の生活を思い出した。そして、それを彼の最近の心境とてらし合わせて、思わす身ぶるいした。
(もし、自分がこないだ日記に書いたことが、自分の幼年時代に根をおろした運命のいたずらに過ぎないとすると――)
 彼はなぜかやにわに起きあがって、あたりを見まわした。近くには誰もいなかった。掲示台のまえには、相変らず生徒たちがむらがってさわいでいる。彼はその方にちょっと眼をやったが、すぐ視線を転じて、見るともなく、玄関の左側になっている生徒監室の窓を見た。永いこと朝倉先生が生徒監主任として机をすえていた、そのすぐうしろの窓なのである。
 彼は一瞬はっとした。もうさっきから自分を見ていたらしい四つの眼に出っくわしたからである。ひとりは曾根少佐、もうひとりは西山教頭だった。
 彼はあぶなく眼をそらすところだった。が、彼の本能的な反抗心がそれをゆるさなかった。こうした場合、眼をそらすことは、彼にとって、敗北と屈従以外の何ものをも意味しなかったのである。
 無表情ともいえるほどの冷たい眼が、またたき一つせず、窓わくの中にならんでいる四つの眼に、永いこと注がれていた。四つの眼もまた、彼を凝視ぎょうししたままほとんど動かなかった。ただ、おりおり小声で何か話しあうらしい唇の動きや、うなずきあいによって、その表情にいくらかの変化を見せているだけであった。
 二分間近くの時間がそのまま過ぎたが、そのあと、西山教頭の姿が急に窓から消えた。すると、曾根少佐は、そのがまのような口を、だしぬけに横にひろげ、白い大きな歯並をカイゼルひげの下に光らせた。にやりと笑ったのである。
 次郎の眼は、やはり無表情のまま、つめたくそれを見つめていた。すると、少佐は、今度は窓から上半身をのり出し、右手を高くあげて彼を手招きしながら、叫んだ。
「本田ア、ちょっとここまで来い。」
 次郎は、しかし、立ちあがらなかった。立ちあがる代りに眼をそらした。
「おうい、本田ア――」
 もう一度少佐が叫んだ。
「僕ですか。」
 と、次郎は、はじめて気がついたような顔をして、少佐を見た。
「そうだ。ここでいいんだ。ちょっと来い。」
 少佐はあごの先で窓下の地べたを指した。次郎はやっと腰をあげたが、いかにも無精ぶしょうらしくのそのそと歩き出した。
「呼ばれたら、いつも駈走だ。」
 次郎が窓下に来ると、少佐は叱るように言ったが、すぐ笑顔になり、
「どうしてあんなところに一人でねころんでいたんだ。」
「ねむたかったからです。」
「ひるねか、ふうむ。」
 と、少佐は上眼をつかい、まぶたをぱちぱちさせた。それから急に真顔になり、
「どうだ、感想は?」
「感想って何です。」
「掲示を見たんだろう、朝倉先生の。」
「見ません。」
「見ない?」
「ええ見ません。」
 少佐はちょっと考えていたが、
「どうして見ないんだ。朝倉先生の退職の辞令が出たんだぜ。」
「わかっているんです。」
 次郎の声は、いくぶんふるえていた。
「そうか、ふうむ――」
 と、少佐はまた上眼をつかい、しばらくまぶたをぱちぱちさせていたが、急に窓わくに頬杖をつき、声をひそめて言った。
「君の気持はよくわかるよ。わしは十分同情もしているんだ。しかし、事情が事情だし、こうなった以上は、さっぱりあきらめる方が賢明だよ。どうだい、授業が終ったら帰りにわしのうちに遊びに来ないか。煎餅でもかじりながら、ゆっくり話してみたいことがあるんだが。」
 次郎は、返事をする代りに、穴のあくほど少佐の顔を見つめた。少佐はそれをどうとったのか、頬杖をついたまま、両手でしきりにカイゼルひげをひねりながら、眼をほそめて笑った。
 次郎は、しかし、いつまでたっても返事をしない。
「実はね――」
 と、少佐は、いかにもうしろをはばかるように、一層声をひそめ、
「このごろわしあてにちょいちょい投書が来るんだが、それが大てい君に関係したことばかりなんだ。その中には君が女に関係があるようなことを書いたのもある。まさか君にそんなことはあるまいと思うが、とにかく面白くないことだ。一応君の弁明もきいておきたいと思っている。むろん、わしあての投書は、それを学校の問題にしようとしまいと、わしの勝手だから、まだどの先生にも話してないんだ。どうだい、そんなこともあるし、よかったらやって来ないか。」
 次郎は、曾根少佐が自分に対する好意からそんなことを言っている、とはむろん思わなかった。
(ついさっきまで、西山教頭と二人で自分の方を見ながら何を話しあっていたのだ。)
 彼は、そう反問してやりたいぐらいだった。
「ご用はそれだけですか。」
 彼はまともに少佐を見あげてたずねた。皮肉以上のつめたさである。
「う、ううむ、――」
 と、少佐は、それまでひねりつづけていたひげから、急に指をはなした。その指は、ばねのとまった機械人形の指ででもあるかのように、ひげの先端にぴたりととまって動かなかった。
 次郎は平然として返事をまっている。
「そうだよ。用事はそれだけだよ。しかし是非にとは言わん。来たくなけりゃあ、来なくてもいいんだ。」
 少佐自身では、怒った調子の中に、言外の意味をふくませたつもりで言った。次郎には、しかし、却ってそれが滑稽にきこえた。彼は内心ひそかに勝利感を味わいながら、
「きょうは、僕おたずね出来ません。」
「どうして?」
「朝倉先生をおたずねするんです。」
 少佐の眼がぎろりと光り、カイゼルひげがぴりぴりとふるえた。次郎は、少佐の顔は笑っている時よりも怒っている時の方がよほど好感がもてる、と思った。
「そうか、じゃ好きなようにせい。」
 少佐は言いすてて窓をはなれた。床板をふむ靴音があらあらしくひびいて、少佐の姿が消えると、次郎は、すぐ、もとの白楊ポプラの根元に向かって歩き出した。
 彼は、しかし、そこに行きつくまえに、掲示台のまえがいやに静かになっているのに気がついて、思わずその方を見た。生徒たちの沢山の眼が、もうさっきから、じっと自分を見つめていたらしい。彼は思わず眼をそらした。が、すぐ立ちどまって、きっとその方を見かえした。沢山の眼のなかには、急いで彼の視線をさけたものもあった。が、多くの眼はやはり動かなかった。その中には馬田の眼もあった。その眼にはかすかな笑いさえ浮かんでいるように、次郎には思えたのである。
 次郎はしばらくつっ立っていたが、間もなく思いきったように、掲示台に何かってまっすぐに歩き出した。
 彼を見つめていた生徒たちは、すると何かにおどろいたように、一層眼を見はった。しかし、それはほんの一瞬だった。次の瞬間からは、彼らの視線は次第にそれ出し、次郎が彼らの群から十歩ほどのところまで来た時には、もう誰も彼を見ているものはなかった。中には、そ知らぬ顔をして掲示台のまえを立ち去るものもあった。馬田もそのひとりだったが、彼は仲間のひとりと肩をくみ、わざとらしい笑声を立てながら、次郎の来た方とは反対の方に立ち去ったのであった。
 次郎は、何か異様な、つめたい怒り、とでもいったような感じにとらわれたが、ちらと馬田のうしろ姿を見ただけで、すぐ掲示板の方に眼をやった。辞令の文句は宝鏡先生の時と全く同じだった。
「願ニ依リ本職ヲ免ズ」
 何という簡単な、型にはまった文句だろう。どんなに自分たちの尊敬している先生でも、辞表を出せば、ただこの文句一つでわけなく片づけられて行くのだ。そう思って彼はむしょうに腹が立った。
 しかし、次郎の気持を一層刺戟したのは、先生の転任や退職の場合には、その辞令の発表と同時に、いつも送別式の日時が発表される例になっているのに、それについては何の掲示も出ていないことだった。
「おい、君――」
 と、彼はあわてたように、彼の一番近くに立っていた生徒の肩をいきなりゆすぶってたずねた。
「朝倉先生の送別式はいつあるんだい。」
「知らないよ、僕、そんなこと。」
 肩をゆすぶられた生徒は、おこったように答えた。
「これまでは、辞令の発表といっしょに掲示が出たんじゃなかったかね。」
「そうだったかね。」
「どうして今度は出ないのだろう。」
「まだきまってないからだろう。」
 相手は、まるでそれを問題にしていなかったらしかった。
「そうかなあ。」
 次郎は仕方なしにそう答えたものの、心の中では、相手を低能だとののしりたくなるくらいだった。
(学校は朝倉先生の送別式をおそれている。それで、何とかして、それをやらない工夫をしているんだ。)
 彼には、そう疑えてならなかったのである。
 間もなく午後の課業がはじまった。次郎たちのクラスは武道の時間だった。彼は剣道場に入って面をかぶりながら、入学後はじめて朝倉先生を知ったのが、ちょうど剣道の時間の直前だったことを思い出し、何か物悲しい気持にさそいこまれた。あの時、自分が、剣道は何のために稽古をするのか、という質問を出したのに対して、先生は、言下に、「見事に死ぬためだ」と答えられ、その意味をこん々と教えて下すったが、それがほんとうに理解出来たのは、いつごろのことだったろう。彼はそんなことを考えながら、稽古の相手を選ぶために向こうの側の列を見た。すると正面に大山がおり、そのすぐ隣りに馬田がいた。
(よし、相手は馬田だ――)
 彼は一瞬そう思った。が、同時に彼は胸にひやりとするものを感じた。
(卑怯者! それでおまえは朝倉先生の言われた剣道修行の意味がわかっているといえるのか。馬田と戦うにしても、道はべつにあるはずだ。)
 間もなく稽古はじめの合図で立ちあがったが、彼が選んだ相手は、正面の大山だった。大山はそののんびりした性格どおり、太刀筋に極めて鷹揚おうようなところがあった。しかし決して下手ではなかった。すきだらけのように見えて案外すきがなく、大きくふりおろす太刀先にはきびしい力がこもっていた。次郎の太刀はその俊敏さにおいて級中第一の評があり、大山のそれとはいい対照をなしていた。勝負では次郎の方にいつも勝味があったが、しかし次郎本人は、却って大山の太刀筋をうらやましくも思い尊敬もしていた。
 次郎は大山を相手に選んで、救われたような気持だった。「見事に死ぬ」稽古の相手を、もし生徒の中から選ぶとすれは、それは大山だろう、という気にさえなったのだった。大山の満月のような顔は、面をかぶるとその特徴を失い、眼玉だけが鋭く光るのだったが、その鋭い光の中にもどこかに温かさがただよっているのを、次郎はいつも感じていた。それが今日はとくべつはっきりと感じられたのである。
 二人は、その時間ぶっとおしで、相手をかえずに戦った。稽古やめの合図があった時には、さすがに二人ともへとへとにつかれていた。
 二人は、汗みずくになった剣道着をぬぎ、柔道場に通ずる廊下の横に設けてあるシャワーでからだを洗うと、すがすがしい気持になって、いっしょに校門を出た。大山の満月のような顔が、すこし赤味をおびて光っていた。次郎の眼には、それがいかにもゆたかで新鮮だった。
「きょうはいい稽古になったよ。」
 歩きながら次郎が言った。
「しかし、つかれたね。ぶっとおしだもの。」
 大山が笑いながら答えた。
「君に面をとられると、ぼうっとなるほど痛いが、しかしあのぐらい痛いと却って気持がいいね。」
「そうか。」と、大山は間がぬけたように答えたが、
「君の小手も痛いね。それによくはいるよ。きょうは三対一ぐらいだったかも知れん。」
「そんなことはないだろう。」
 次郎は否定しながらも、自信はあった。少くとも二対一ぐらいの差はたしかにあったと思った。しかし、その自信は、彼にとって決して愉快な自信ではなかった。小手取りの名人、――そう考えると、それがそのまま自分の弱点のような気がしたのである。
 彼の気持は、また少しずつかげりはじめた。かげりはじめると、きょうの不愉快な出来ごとがつぎつぎに思い出された。曾根少佐のこと、馬田のこと、そして何よりも朝倉先生の送別式について何の掲示も出ていなかったこと。
 彼は、曾根少佐や馬田のことを、大山に話す気には少しもなれなかった。しかし、朝倉先生の送別式のことだけは、思い出すと、どうしても默っていられなかった。
「きょうの掲示、君は変だとは思わなかった?」
「掲示? 朝倉先生のあれかい。」
「うむ、いつもは送別式のこともいっしょに出るんだろう。」
「そうだね――」
 と、大山は首をかしげたが、
「うむ、いつもは出るようだ。」
「今度はどうして出ないんだろう。」
「さあ、どうしてだかね。たぶん、まだ日がきまっていないんじゃないかな。」
 さっき掲示台のまえで生徒の一人が答えたのと同じ答えだった。次郎は、しかし、今度は大山を低能だとは思わなかった。大山を低能だと思うまえに、自分だけが無用に学校を疑っているんではないか、と思った。誰も何とも思っていないのに、自分だけがどうしてこうも疑うのか。そう思ったとたん、ふたたび彼の頭に浮かんで来たのは、運命という言葉であった。
 彼ははっとして思わす立ちどまった。大山も立ちどまって彼をふりかえったが、その顔は相変らず満月のように明るかった。次郎はその顔を穴のあくほど見入って、ふかいため息をついた。
「どうしたい?」
 大山の眼玉がぱちくりと動いた。
「うむ――」
 次郎はそれだけ言ってまた歩き出した。大山も默って歩き出した。二人はそれっきり、しばらく口をききあわなかった。
 朝倉先生の家に行く曲り角まで来ると、次郎は立ちどまって、
「僕、失敬する。こっちに用があるんだ。」
 すると大山も立ちどまって、
「朝倉先生のうちに行くんか。」
「そうだよ。」
 次郎はためらいながら答えた。
「そんなら、僕も行こう。」
 大山は先に立って歩き出しそうにした。次郎は、大山といっしょに朝倉先生をたずねるのが決していやではなかった。しかし、今日はなぜかひとりでたずねてみたかったのである。で、彼はつっ立ったまま、返事をしぶっていた。
 すると大山は、また眼をぱちくりさせながら、
「きょうは、僕いっしょに行ってはわるいんか。そんなら、あすにするよ。僕はただあいさつするだけなんだから。――じゃあ、さよなら。」
 水の流れるような自然さだった。次郎は大山のうしろ姿を見おくりながら、すまないというよりか、むしろ、うらやましいという気でいっぱいだった。そんて、なぜ今まで大山を白鳥会にさそいこまなかったろう、もし彼のような生徒がその一員に加わっていたとすれば、自分は、新賀や、梅本や、そのほかの生徒たちからは到底学ぶことの出来ないものを、これまでに学んでいたであろうのに、と思った。

一一 最後の訪問


 朝倉先生の家では、奥さんが留守らしく、案内を乞うと奥の方から先生の声がきこえたので、次郎はさっさと上って行った。予想していたとおり荷造りはもうすっかりすんでいた。そしてその大部分はすでに発送されたあとらしく、いくこりかの荷が小ぢんまりと一ところに積んであり、がらんとなった部屋々々は掃除までがきれいに行きとどいていた。庭先にも藁切れ一つちらかっていない。ただ古ぼけた畳に、物を置いてあったあとだけがいやにきわ立って新しく見えた。
 朝倉先生は、いつもの部屋で次郎を迎えたが、そこには、これまで二階の白鳥会の読書室にあった大きなテーブルがすえてあり、そのまわりに座ぶとんが二三枚しいてあるきりだった。次郎がはいって来るまで、先生はひとりで読書していたらしく、王陽明の伝習録がテーブルの上にふせてあった。
「やっと発表になったよ。」
 次郎を見ると、先生はすぐそう言って笑った。次郎は、お辞儀をしたきり、顔をふせてだまっていた。玄関をあがってここまで来る間に見た家の中の光景が、彼の気持をはげしくゆすぶっていたのである。
「掲示はもう出たのかい。」
「はい。」
「とにかく変なさわぎにならなくてよかったね。」
「はい。」
「君に大変骨を折って貰ったそうで、ありがとう。」
 次郎はやっとまともに先生の顔を見た。先生もまともに次郎を見ていた。深く澄んだ眼の底から、愛情が白百合のように匂って来るのを感じながら、次郎はたずねた。
「僕たちのやっていたこと、先生にもわかっていたんですか。」
「わかっていたよ、あらましのことは。」
「どうしておわかりだったんです。だれか生徒がおたずねしたんですか。」
「生徒は来ない。しかし、君のお父さんが何度も来て下すったんでね。」
「父が?……そうですか。」
 次郎はちょっと意外だった。しかし、考えてみると、ありそうなことではあった。
「来ていただいては君のためによくないと思って、何度もそう申したんだが、お父さんは、『大丈夫だ。次郎も本筋だけは大してまちがっていないようだから』とおっしゃって、まるでとりあわれなかったんだ。」
 次郎の眼はまたひとりでに伏さった。重苦しいほどの幸福感で、急に胸がいっぱいになったのだった。
「荷物がこんなに早く片づいたのも、君のお父さんに何かとお世話を焼いていただいたおかげなんだよ。永いことこの家に住んでいたんで、がらくたあだいぶたまっていたが、それも君のお父さんが一切引きうけて、古道具屋に売って下すったんだ。あんなことにもお心得があるんだね。」
 次郎は幼ないころに経験した自分の家の売立の日のことを思い起し、ちょっとほろにがい気持になったが、一方では、そんな場合の父の超然ちょうぜんとした顔付を想像して、何かユーモラスなものを感じた。
「父はそんなことには以前からなれているんです。」
「そうかね、元来商売のお上手な方でもなさそうだが。」
「商売は下手です。ですから、きっと安く売ってしまったんでしょう。」
 二人は声を立てて笑った。
「安くも高くも、とにかくがらくたの始末をつけていただいて助かったよ。それで、あとは、このテーブルと二階の君たちの文庫の始末なんだがね。」
「文庫はまだあのままですか。」
「あれは君たちのものなんだから。」
「でも僕たちの本はごくわずかしかないんです。たいていは先生のご本でしょう。」
「私にはもういらない本ばかりだ。あのまま残して置いて、これまでどおり君たちに読んでもらいたいと思っている。しかし、この家に残して置くわけには行かんし、どこか適当なところに運んでもらわなくちゃならないんだ。どうだい、いっそ君の家に運んでは。」
「僕のうちにですか。」
 次郎は眼を見はった。
「実は君のお父さんにも、ちょっとそのことをお話してみたんだが、べつに反対もされなかったようだ。しかし、君の考えをきいてみてからにしたいと言っていられた。……部屋はあるそうじゃないか。」
「二階を弟と二人で勉強部屋にしているんですが、それよりほかにはないんです。」
「その部屋は広いんだろう。」
「ええ、一間きりの総二階ですから、ばかに広いんです。しかし、天井も何もない物置みたいなところです。」
「天井なんか、どうだっていいよ、広くさえありゃあ。……このテーブルぐらいすえてもゆっくりなんだろう。」
「ええ、このぐらいのテーブルなら三つ位大丈夫です。しかし、みんなには不便でしょう。少し遠いんですから。」
栴檀橋せんだんばしの近くなら、遠くったって知れたもんだ。学校からせいぜい三十分ぐらいじゃないかね。それにあの辺は空気もいいし、場所としてはここよりか却っていいだろう。」
 次郎にとっては、これは、しかし、かろがろしく返事の出来ることではなかった。白鳥会の文庫も、それが朝倉先生と直接に結びついていたればこそ意味があったのだ。それを自分の家に運んでみたところで、指導の中心を失った今となっては、大して用をなさないであろう。単に小さな図書館の役目をするだけのことなら、わざわざ遠い郊外まで行かなくても、もっと完全なのがこの町にもあるのだから。むろん白鳥会の命脈めいみゃくはたやしたくない。それには一定の集会所がほしいし、集会所を持つとすれば、この文庫も生きてくる。しかし、自分の家が果してその集会所に一番適したところであるかどうか。かりに適したところであるとしても、それをみんなにはからないで、文庫だけを先に運んでしまうのはどういうものだろうか。彼はそんなふうに考えて、急には返事が出来なかったのである。
 朝倉先生も、何かちょっと思案していたが、
「君、白鳥会は何とかしてつづけていってくれるだろうね。」
「それはむろんです。」
「しかし、君も、もう間もなく卒業だね。」
「ええ。」
 次郎は心細そうに答えた。
「君や、新賀、梅本がいる間は大丈夫だと思うが、四年以下の会員は、まだ何といっても、ほんとうの気持をつかんでいないので、来年あたりからのことを考えると、何だか心もとなくなるね。」
 朝倉先生にしてはめずらしく沈んだ調子だった。次郎は返事をしないで、かすかなため息をついた。
「それで私は、誰か私に代って世話をやいてくれる人がほしいと思っているんだ。」
「そうしていただくと、僕たちも心強いんです。しかし、そんな先生がありましょうか。」
「学校の先生にはない。しかし、先生でなくてもいいわけだ。いや、先生でない方が却っていいんだよ。一つの学校にせきを置いている先生が中心になると、どうしても会員がその学校の生徒だけに限られることになるからね。」
 次郎は、けげんそうな眼をして、朝倉先生を見た。
「実は、私は、これまでほかの学校の生徒たちにも加わってもらいたかったんだ。単に学生ばかりではない。仂いている一般の青年たちにも加わってもらったら、君たちのためにもどんなにいいだろう、と、いつもそう考えていた。身分とか、階級とか、職業とか、所属の団体とか、そういったものを一切超越して、いろんな種類の人たちが、人間として真剣にぶっつかりあう。そんなところまで行かなくちゃあ、白鳥会も本ものではないからね。しかし、そこまでは私も手がのびなかったんだ。手がのびなかったというのは、各方面にまじめな青年を求める機会がなかったというのではない。まじな青年は幾人も見つかったし、誘いこんでもみたさ。しかし誘いこまれる方では、やはり中学の先生と生徒の集まりだ、という先入観があるものだから、つい尻ごみしてしまうのだ。で、私はこの機会に、どこの学校にも直接関係のない人にお世話を願ったらと思っている。」
「しかし、先生のあとをついでやろうというほどの自信のある人がありましょうか。」
「自分でそんな自信があると名乗って出る人はまさかあるまい。しかし、もし私がこの人ならはと信じて頼んだとしたら、君らはその人を中心に気持よく白鳥会をつづけて行けるかね。」
「そりゃ行けますとも。そうなればみんなもきっと喜ぶでしょう。」
「もしその人が君のお父さんだとしたら?」
「え?」
「私は、君のお父さんに君たちの文庫をおあずけすると同時に、ぜひそのこともお願いしたいと思っているんだよ。」
「そんなこと、駄目です。父は承知しません。僕も不賛成です。」
 次郎は何も考える余裕がないほど狼狽ろうばいしていた。で、ほとんど反射的にそんな言葉が彼の口からつぎつぎに爆発したのである。
 朝倉先生は、微笑しながら、
「君はお父さんをそんなに信用しないのかね。」
「だって、父は人を教えた経験なんかまるでないんです。本もそう沢山は読んでいないんです。」
「問題は教育者としての経験じゃない。本を読んで得た知識なんかじゃ無論ない。大事なのは人間だよ。」
「だって、……」
「君はお父さんを人間として信用しているはずだと思うが……」
「そりゃあ、……そりゃあ信用しています。」
 次郎はどぎまぎして答えた。
「じゃあ、君が不賛成をとなえる理由はないよ。」
「僕、しかし、あんまり突飛とっぴだと思います。」
「ちっとも突飛じゃあない。これほどあたりまえのことはないよ。」
「でも、みんなに笑われます。」
「君は君自身のお父さんだということにこだわっているからいけない。第三者として考えてみれば何でもないよ。新賀や梅本はきっと喜ぶだろうと思うね。……二人とも君のお父さんを知っているんだろう。」
「ええ、知ってはいます。」
 次郎は、気乗りのしない返事をしながら、これまでに二人が何度も父にあい、そのたびごとにいい印象をうけたらしく、次郎に対してしばしば彼らの羨望の気持をもらしたことを思いおこしていた。
「とにかく私にまかしておくさ。間もなくお父さんも見えるだろう。」
「今日、父が来るんですか。」
「来ていただくようにお約束がしてあるんだ。」
 ちょうど廊下に足音がきこえたが、それは奥さんが帰って来たのだった。次郎を見ると、
「あら、いらっしゃい。おひとり? お父さんはどうなすって? ごいっしょではありませんでしたの?」
「僕、学校のかえりなんです。」
「あら、そう。」
 と、奥さんは朝倉先生の方を向いて、
「ごあいさつまわり、すっかり済まして参りましたの。やっぱりおひるぬきになりましたわ。」
「そうか。それはよかった。しかし、おかげで私もおひるぬきさ。」
「あら、お支度はあちらにして置きましたのに。」
「わかっていたよ。しかし、あまり腹もへらなかったのでね。」
「じゃあ、果物でも。……今、帰りに買って来たのがありますから。」
 と、奥さんは次郎の方にちょっと眼をやりながら、
「あのう、本田さんのお宅だけは、あすにのばしましたの。今日お父さんにいらしっていただくのに、行きちがいになってもつまりませんので……」
「いいとも。私もどうせおうかがいしなけりゃならないし、都合では誰かに留守居を頼んで、いっしょに行くことにしよう。私は、あす一日あれば、一般のあいさつまわりは済ませるつもりだ。そのあとで、夕方の散歩がてら、ゆっくりおうかがいするのもかえっていいね。」
 次郎は、きいていてうれしかった。また、先生夫妻の手さばきのいいのに感心もした。が、同時に、彼の頭に浮かんで来たのは学校の送別式のことだった。彼は先生夫妻をびっくりさせるほどの性急さでたずねた。
「すると、先生、学校の送別式はいつなんです。」
 先生夫妻は顔を見合わせた。次郎は二人の眼つきから、直感的にある秘密を見て取ったような気がした。彼はいよいよせきこんだ調子になり、
「まだ学校からは何ともいって来ないんですか。」
「何ともいって来ないことはないさ。」
 朝倉先生は考えぶかく答えて、眼をふせたが、すぐ笑顔になり、
「実は、私の方で、まだはっきりした返事を学校にしてないんだよ。」
「どうしてです。」
「いつがいいか、それがまだ私にもはっきりしないのでね。」
「でも、ほかの方へのごあいさつまわりは、もうきまっているんでしょう。」
「そうだ。それは早くすまして置く方がいいんだから。」
「学校の方はおそい方がいいんですか。」
「おそい方がいいというわけでもないが、なるだけうるさいことがないようにしたいと思ってね。」
 次郎の頭には、馬田が提案した実乗院での送別会のことが浮かんで来た。
「もう誰か先生の送別会のことをいって来たんですか。」
「ああ。二三日まえ、馬田とほかに二三人、だしぬけにやって来て、そんな話をしていたよ。変なことを思いついたもんだね。」
「それはお断りになったんでしょう。」
「むろん断ったさ。しかしあの連中も罪が深いね。まだ辞令も出ないうちに、送別会の交渉に来るなんて。しかも場所が実乗院と来ている。」
 朝倉先生は奥さんと顔見合わせて愉快そうに笑った。次郎は苦笑しながら、
「あんなこと、いけないと思ったんですが、どうせ先生がお断りになるだろうと思って、僕もいいかげんに賛成しておいたんです。」
「まあ、まあ。」
 奥さんは手巾ハンカチを口にあてて、しんから可笑しそうに笑った。
「しかし、それをお断りになったんなら、もうほかにうるさいことはないんでしょう。」
「そうでもなさそうだ。うるさいのは生徒ばかりではないからね。とにかく送別式は私の出発の日にやってもらいたいと思っている。式がすんだら、すぐその足で駅に行けるような時間にね。」
「え?」
 と、次郎はおどろいたように朝倉先生の顔を見つめ、それから、奥さんの方に視線を転じた。しかし、二人ともすました顔をしている。
「いったい、いつごろご出発です。」
「あさって。」
 と、朝倉先生は奥さんを顧みて、
「大丈夫、あさっては立てるだろう。」
「ええ、お二階の文庫さえ片づけば。」
 次郎は眼をまるくして二人を見くらべていたが、急にくってかかるように言った。
「すると、僕たち白鳥会員はいつお別れの会をすればいいんです。」
「べつにあらたまってそんな必要もないだろう。」
「先生!」
 と、次郎は泣声になり、
「それは無茶です。僕たちは、まだ、先生がこれからどんなお仕事をされるか、まるで知ってないんです。どこに行かれるかも知ってないんです。」
「何をするかは、私自身にもまだはっきりわかっていない。行く先は一先ひとまず東京だ。みんなには君からそう言っておいてくれたまえ。送別式の時には言うつもりではいるがね。」
「先生!」
 次郎は叫んでテーブルの上につっ伏した。両肩が大きく波うっている。
「何も激することはない。小さなことにとらわれてはいかんよ。」
「小さなことじゃありません。」
「別れの会なんか、どうでもいいことだよ。もっと永久のことを考えてもらいたいね。」
「永久のことを考えるから、言っているんです。」
 次郎はまだつっ伏したままである。
「そりゃ私も、みんなにもう一度集まってもらって、ゆっくり話して置きたいことがないではない。しかし集まらない方がいいんだ。」
「どうしてです。」
 次郎は、涙にぬれた眼をしばたたきはがら、にらむように先生を見た。
「集まったために不幸を見る人が、君らの中から一人でも出てはならないんだ。」
 朝倉先生の調子には、何か悲痛なものがあった。次郎はテーブルの一点に眼をすえて默りこんだ。その眼はしだいに乾いて来た。乾くにつれて、つめたい異様な光がその底から漂った。しばらくして、彼は、
「わかりました。」
 と、庭ごしにじっと遠くの空を見たが、その口は固く食いしばっており、頬の筋肉はぴくぴくと動いていた。
「ばかばかしくても、ひかえるところはひかえていた方がいいんだよ。何しろ、当局の神経のとがりようはまるでヒステリーだからね。」
 朝倉先生はなだめるように言ったが、
「しかし、こんな調子では、日本もいよいよけちくさくなるね。よほど君らにしっかりしてもらわなくちゃあ。」
 次郎の食いしばった口は、いよいよ固くなるばかりだった。
「果物でも持って参りましょうね。」
 さっきから心配そうに次郎の横顔をじっとのぞいていた奥さんは、気持をほぐすように立ち上って、廊下に出た。が、すぐ、
「あら、どなたかいらっしゃったようですわ。」
 と、小走りに玄関の方に走って行った。
 玄関からは間もなくにぎやかな話声がきこえて来た。奥さんがおどろいたように、しかし、しんからうれしそうに迎えているらしい声にまじって、二三人の男の声がきこえた。その一人はすぐ俊亮だとわかったが、ほかはちょっと判断がつかなかった。
 朝倉先生と次郎は聞き耳を立てながら、眼を見あった。
「ひとりは大沢の声のようじゃないかね。」
 先生が言った。すると、次郎は飛上るように立って、廊下に出た。
「ちょうど次郎さんもお見えになっていますわ。」
 そう言っていそいそと歩いて来る奥さんのうしろに俊亮、そのうしろに大沢と恭一とが、おそろしく日焼けのした顔を、よごれたシャツからつき出して、つづいていた。
「おめずらしいお客さまですわ。」
 奥さんは、朝倉先生にそう言って三人を部屋に案内すると、いそいで台所の方に行った。
 俊亮は、座につきながら、
「私がちょうど出かけようとするところへ、恭一が大沢君をつれてだしぬけに帰って来たものですから、汗もろくろく流させないで、いっしょにお伺いしたわけなんです。」
 そのあとしばらくは、みんなの間に、無量の感慨をこめた手みじかな言葉がとりかわされた。しかし、話は次第にこみ入った。大沢と恭一とは、今度の問題について誰からも何の通知もうけなかったことについて不平を述べた。これには次郎がひとりであやまった。朝倉先生は、しかし、
「知らせなかったのは賢明だったよ。知らせたところで、どうせ何の役にも立たないし、或はかえって有害だったかも知れないからね。」
 と言って笑った。
 次郎が血書を書いたり、終始一貫ストライキ防止に骨を折ったりしたことについては、大沢も恭一も強く心をうたれたらしかった。しかし、大沢は言った。
「ストライキをくいとめたのはいいが、このままでは、学校はくさってしまうね。大事なのはこれからだと思うが、どうするつもりなんだ。」
 すると、次郎が答えるまえに、朝倉先生が、なぜか叱るように言った。
「そういうことは、君のような第三者が立ち入らなくてもいいことだ。これまで渦中かちゅうにとびこんで散々苦労をして来た次郎君は、君らの想像以上に、ものを深く考えるようになっているからね。」
 これには大沢もすっかり面くらった。しかし、大沢以上に面くらったのは次郎だった。彼は顔をほてらせながら、朝倉先生の顔と俊亮の顔とをぬすむように見くらべた。
 そのうちに奥さんが菓子と果物を運んで来た。菓子は袋ごと、果物はかごごとだった。
「もうお茶のご用意も出来ませんの。でも、すぐ氷が来ますから、しばらくがまんして下さいね。」
 そう言って奥さんは菓子の袋をやぶったが、中は丸ぼうろだった。果物籠からは、水蜜桃がみずみずしい色をのぞかせていた。
 かなりの速度で、丸ぼうろと水蜜桃とがへって行った。氷がはこばれたころには、もうどちらも大かたなくなっていた。テーブルの上には、しずくが点々と落ち、その中央にひろげられた古新聞紙には水蜜桃の皮と種とが、ぐじゃぐじゃにつまれ、部屋じゅうがしめっぽく感じられた。
 その間にも話はつきなかった。大沢と恭一と次郎とは、しきりに憲兵隊や県当局に対する憤懣ふんまんをもらし、朝倉先生は、もっと大きな立場から時代を憂えた。俊亮と奥さんとはいつも聞き役だった。そして、おりおり思い出しては荷物のことなどを相談していた。
 最後に話は白鳥会の文庫の始末と、会員の朝倉先生送別会のことに落ちて行った。文庫の始末については中心になる人の問題にはふれないで、ともかくも朝倉先生の提案どおり、一応次郎の家に運ぶことになった。恭一と次郎とは、あらかじめ会員に相談した上できめたいと主張したが、大沢は朝倉先生の考えを名案だと言って賛成し、俊亮も、とりあえずのところ、そうするよりほかあるまい、と言って、しいて反対もしなかったので、わけなくきまったのだった。送別会のことでは、俊亮までが次郎たちといっしょになって、熱心に朝倉先生を説いた。しかし先生は頑として承知しなかった。
 文庫の運搬うんぱんは大沢と恭一とが引きうけて、あすのうちにとりはこぶことになった。
 間もなくそろっておいとましたが、門を出ると、次郎はすぐ俊亮に言った。
「あすの夕方、先生は奥さんといっしょに、うちに来て下さるそうです。会員にもその時集まってもらってはいけませんか。」
 俊亮は立ちどまってしばらく考えたが、
「そうか。じゃあちょっと待ってくれ。」
 そう言って、彼はもう一度玄関に引きかえした。そして大方十分以上もたって出て来たが、
「よし、うまく行った。あすは先生に夕飯を差上げる約束をして来たんだ。会員にも夕飯を食べないで集まるように言ってまわってくれ。」
 大沢は眼をまるくして、
「しかし、会員全部だと三十人ぐらいはいますよ。」
「三十人? そうか。しかしどうにかなるさ。鶏を四五羽もつぶせば間にあうだろう。」
 次郎はこのごろにない愉快な興奮を覚えた。会員にはあす学校でつたえてもおそくはないと思ったが、新賀と梅本の二人だけには一刻も早く知らせて喜んでもらいたかった。
「じゃあ、僕、これからみんなにそう言って来ます。」
 彼はもう走り出しそうだった。
「会員が集まることは先生には内証ないしょうだから、そのつもりでね。」
「ええ、わかっています。」
 俊亮は、次郎のうしろ姿を見おくりながら声を立てて笑った。大沢も恭一もうれしそうに笑った。

一二 最後の晩餐


 朝倉先生夫妻は、翌日、約束どおり夕食まえに俊亮の家にやって来た。二人とも、あいさつ廻りの固くるしい服をぬいで、先生は浴衣にはかま、奥さんはに一重帯という手軽ないでたちだった。
 白鳥会員は、二三の先輩をも加えて、もう二時間もまえに、ひとり残らず集まっていたが、きょう集まることになった事情はよく彼らにもわかっていたので、先生が見えるまでは姿を見せない方がよかろうという真面目な考慮やら、だしぬけに現われて先生をおどろかしてやろうという茶目気やらで、みんなそろって、栴檀橋から少し上流の、見とおしのきかないところで、水をあびていた。恭一は、二階で、きょう午前中に運びこんだ白鳥会の文庫の整理に夢中になっており、大沢と次郎と俊三とは、背戸せどの井戸端でひるすぎから取りかかった鶏の解剖――それは大沢の表現だったが――のあと始末やら、畑の水まきやらで忙しかった。また、お祖母さんとお芳とお金ちゃんとは、台所でてんてこ舞いをしていなければならなかった。で、先生夫妻がはいって来たときには、表の方は案外ひっそりしていた。
 出むかえたのは、ひとり茶の間にいて、待遠しそうに外ばかり眺めていた俊亮だった。
 夫妻はすぐ座敷にとおされた。
「はじめてあがりましたが、大変いい所ですね。」
「全くの百姓家です。見晴らしがきくのがとりえでしょうかね。今夜は月ですから、ゆっくりしていただきましょう」
「はじめての終りに心臓強く構えますかね。」
 あらたまったあいさつは、どちらからも言わず、そんな言葉がとりかわされた。夫人はただにこにこして、二人の言葉をきいているだけだった。
 間もなくお芳がお茶をんで出た。
「はじめまして。……どうぞごゆっくり。」
 彼女は、ただそれだけ言って引きさがろうとした。俊亮もべつに紹介しようともしない。
「奥さんでいらっしゃいますか。」
 と、朝倉夫人が座ぶとんをすべって初対面のあいさつをしたが、くどくない、要領のいいあいさつだった。
 夫人のあいさつがすんだあとで、先生もあいさつした。
「ご主人には始終ご厄介になっています。きょうは大変お手数をかけまして。」
 そう言ったきりだった。
 お芳は二人のあいさつに対して、「はい」とか「いいえ」とか「どうぞ」とか言うだけで、自分からはほとんど口をきかなかった。しかし、べつにまごついているようなふうでもなかった。かなり日にやけた頬に、例の大きなえくぼが柔かいかげを作っているのが、先生夫妻の眼には、いかにも素朴そぼくにうつった。
 あいさつがすむと、もう古くからの知りあいででもあるかのような気安さが、二組の夫婦の間に流れていた。
「すぐおビールにいたしましょうか、よく冷えていますけれど。」
 お芳が言った。
「うむ。奥さんにはサイダーをね。……しかし、先生、ちょっと汗をおふきになりませんか。風呂はわかしておりませんが、井戸端で行水でも。」
 俊亮が言うと、
「そう。では、ちょっと失礼します。しかし、井戸端より川の方がいいんです。」
 朝倉先生は、袴をぬぐと、ひとりで表の方に出て行った。
 俊亮はそのうしろ姿を見おくりながら、何か可笑おかしそうな、しかしいくぶん当惑したような表情をしていたが、その表情が消えると、すぐしんみりした調子で朝倉夫人に言った。
「何だかお別れするような気持がいたしませんね。」
「ほんとに。」
 朝倉夫人は淋しく微笑した。お芳のえくぼが一瞬消えたように見えたが、彼女はそのまま台所の方に立って行った。
 十分もたたないうちに朝倉先生は帰って来た。その時にはもう、卓にはいく品かのご馳走がならんでいた。ぬれたビール瓶やサイダー瓶の周囲に、トマトや、胡瓜きゅうりやオムレツの色があざやかだった。
「永いこといて、一度も川にはいったことがありませんでしたが、すいぶんつめたい水ですね。」
 先生はそう言って袴をはき出した。
「どうぞ袴はそのまま。」
 と、俊亮が手で制すると、
「いや、行儀があまりよくない方ですから、袴をつけている方が却って楽なんです。」
 座についてお芳にビールをついでもらいながら、先生はまた川のことを話題にした。
「この辺には水泳の禁止区域でもあるんですか。」
「いいえ、べつに。……何かあったんですか。」
「今、橋から一丁ばかりかみ手の方で、大ぜい泳いでいましたが、私の姿を見ると、しめしあわしたように、大いそぎで逃げ出してしまったんです。」
「変ですね。何かほかにわけがあったんでしょう。」
 俊亮はむすがゆそうな顔をして答えた。
「あるいは中学生ではなかったか、とも思いますが、それにしてもあんなにあわてて逃げるのは変ですね。……恭一君や次郎君はうちにいますか。」

「ええ、いますとも。大沢君もいます。先生がおいでになるまえに、文庫や何か、すっかり片づけておくからと言って、はりきっていたようです。今にごあいさつに出るでしょう。」
 それからお芳に向かって、
「先生がお見えのことほ、わかっているだろうね。」
「さあ、どうですか。」
 と、お芳はのんきそうに答えたが、すぐ立ち上って、
「念のため知らしてまいりましょう。」
 間もなく恭一があわてたようにあいさつに出た。大沢と次郎がつづいてやって来た。俊三も次郎のうしろに坐ってお辞儀をした。
 文庫のことがまず話題になった。朝倉先生はすぐ二階の様子を見たいと言ったが、俊亮が、
「どうせ今夜は二階で月見をやる計画ですから、その時にしていただきましょう。」
 と、言ってとめたので、そのままになった。
 そのあと、お芳に代って、次郎たちが代る代るお酌をした。話もかなりはずんだ。それは、しかし昨日とちがって、朝倉先生の問題にはあまりふれず、大沢と恭一との高等学校生活が話題の中心になった。俊亮も、ビールのせいか、口がいつもよりなめらかだった。彼はわかいころの政治運動の失敗談などをもち出して、みんなを笑わせた。
 朝倉先生は、酒量はさほど弱い方ではなかったが、それでも俊亮の相手ではなく、四五杯かたむけたあとは、コップにはいつもビールが半分ほど残っていた。
「あまりお強い方ではありませんね。」
 俊亮はそう言って、無理にはすすめなかった。そして時には朝倉夫人にお酌をしてもらったりして、ひとりでぐいぐいコップを干した。
「奥さん、ご迷惑でしょうがもうしばらくご辛抱下さい。きょうは月見がてら、ご飯はみんなでごいっしょにいただきたいと言っていますから。」
 彼は注いでもらいながら、そんなことを言った。
 ビールが四五本もからになったが、日はまだあかるかった。俊亮は思い出したように次郎を見て、
「どうだい、もうそろそろ二階に移動してもいい頃じゃないかね。先生もあまりおのみにならんし、おまえたちもひもじいだろう。」
「ええ、ちょっと見て来ます。」
 次郎は変に眼で笑って座を立った。
 それから間もなくだった。茶の間から座敷にかけての瓦廂かわらひさしを、人の歩くらしい音が、ひっきりなしにきこえ、二階が何となくざわめき立って来た。静粛を保とうとする努力を、はずんだ肉体がたえず裏切っているといった音である。
 俊亮と大沢とはずるそうに眼を見あった。恭一は少し顔をあからめてうなだれた。俊三もうなだれたが、しかし彼はこらえきれぬ可笑しさを押しつぶそうとしているかのようであった。
 朝倉先生夫妻は耳をそばだて、眼を光らせて、天井を見た。
「何です、あの音は?」
 朝倉先生は腰をうかすようにしてたずねた。
「きょうは、先生ご夫妻に、月見かたがた芝居をご覧に入れる趣向しゅこうなんです。」
「芝居ですって?」
「筋書きは次郎と私との合作ですがね。」
 ひさしにはもう音がしない。二階のざわめきもしだいに落ちついて来た。
 朝倉先生は、さぐるような眼をして、しばらく俊亮を見ていたが、
「生徒ではありませんか……白鳥会の連中でしょう。」
 それはいかにも詰問きつもんするような調子だった。
「ご賢察のとおりです。とうとう悪事露見ですかね。ははは。」
 朝倉先生は、しかし、笑わなかった。そしてちょっと眼をふせて考えていたが、
「いいんですか、そんなことなすって?」
「よくも悪くも、人間の真実は押しつぶせませんよ。」
 と、俊亮も真顔になった。いくらか熱気をおびた眼が、じっと先生を見かえしている。
「しかし、当局の神経の尖り方は想像以上ですよ。」
「よくわかっています。しかし、そう何もかも遠慮するには及びますまい。先生が白鳥会員と顔も合わせないでこの土地をお去りになるんでは、もうそれだけで、人間としての完全な敗北ですからね。」
 朝倉先生は眼をつぶり、しばらく沈默がつづいた。すると朝倉夫人がいかにも心配そうに、
「でも、万一にも、そのために、生徒さんたちの中にご迷惑をなさる方がありましては。……主人はそれを心配いたしているのでございますが。」
「あるいは、一人ぐらいは迷惑するものがあるかも知れません。しかし、あるとすれば、それはおそらく次郎でしょう。」
 朝倉先生は眼を見ひらいて、俊亮の顔を食い入るように見つめた。俊亮はその眼をさけるようにしながら、
「次郎は、しかし、そうなっても、決してうろたえはしないだろうと思います。」
 またしばらく沈默がつづいた。大沢と恭一と俊三とが、朝倉先生と俊亮の顔をしきりに見くらべている。先生はいよいよ不安な眼をして、
「次郎君自身で、何かそのことについて言ったことでもあるんですか。」
「ありません。しかし、次郎は、元来そんな子供なんです。」
「あとにひかない性質だということは、私にもよくわかっていますが……」
「いや、あとにひかないという点だけを申しているのではありません。次郎は、人間の真実というもののねうちを、誰よりもよく知るように育って来た子供なんです。むろん、何が人間の真実かということについては、以前はすいぶん判断を誤ったこともありました。しかし、先生に教えていただくようになってからは、それもどうなり誤らなくなったように私は思います。これは全く先生のおかげだと思っています。」
「それにしても――」
 と、朝倉先生は、俊亮の最後に言った言葉には無頓着なように、
「貴方はよほど大胆ですね。」
「きょうのやり方が無茶だとおっしゃるんですか。」
「いや、そのことについてはもう何も申しません。こうなった以上、私もおとなしてかぶとを脱ぎます。二階の生徒たちにも心よく会いましょう。しかし、次郎君をそんなふうにお育てになるには、親の貴方がよほど大胆だったと私は思いますね。」
「そうでしょうか。」
「あとさきを考える人には、とても出来ないことです。」
 朝倉先生の眼には、もう微笑が浮かんでいた。
「しかし、あとさきを考えない点では、先生の方が私よりずっとうわ手ですよ。私には、まだ親もあり子もありますので、免職になるような乱暴なことは、めったにいたしませんからね。」
 二人は大きく笑った。
「ほんとうですわ。」
 と、朝倉夫人も、笑い声を立てた。
 大沢は、それまであぐらをくんだ股に両手をつっぱって、上体を乗り出すようにしていたが、だしぬけにどなるような声で言った。
「きょうはきっと、すばらしい白鳥会が出来ます。」
 恭一はうなだれてふかい息をしており、俊三はじっと部屋のすみを見つめていた。ただお芳の顔だけが相変らず笑くぼを見せたまま、無表情だった。
 次郎が二階からおりて来た。今度は大っぴらに階段からおりて来たのだった。彼はその場の光景をしかねたように立ったまま俊亮の顔を見た。
「もういいのか。」
 俊亮の方からたずねた。
「ええ、いいんです。」
 次郎は朝倉先生の方を見ながら答えた。
「先生も、もうびっくりはなさらないよ。」
 朝倉先生の微笑をふくんだ眼が、まだつっ立っている次郎を見あげた。
 次郎はきょとんとしている。
「じゃあ、ご飯は二階でみんなといっしょに差上げます。」
 俊亮が先に立って朝倉先生夫妻を二階に案内した。大沢たちもすぐそのあとにつづいた。
 階段をのぼると、一せいに拍手の音がきこえた。それは先生夫妻と俊亮とが席につき終るまで鳴りやまなかった。
 生徒は楕円形だえんけいの円陣をつくっていた。一番奥の方に三枚だけ座ぶとんがしいてあったが、それが朝倉先生夫妻と俊亮の席だった。朝倉先生をまん中に、夫人と俊亮とがその左右に坐った。大沢たちは俊亮のつぎに坐ったが、俊三だけは、少ししも手の同級生のところに割りこんだ。
 みんなのまえには、菓子袋が一つずつ置いてあり、ところどころに湯呑をのせた盆が置いてあった。拍手が終ったあと、しばらくは、いやにしんとしていた。
「あいさつや話はあとだ。先ずめしにしよう。どうだい、すぐ運ばないか。」
 俊亮は大沢たちを見て言った。それはみんなにもはっきりきこえるほどの声だった。大沢はすぐ立ち上ろうとした。すると次郎が言った。
「先輩は坐っていて下さい。僕たちで運びます。」
 それからみんなの方に向かって、
「四年と五年の諸君は手伝ってくれたまえ、飯や汁をはこぶんだから。」
 大きい生徒たちがぞろぞろと立ち上った。
「菓子袋はまだやぶいちゃいけないよ。あとで茶話会の時にたべるんだから。」
 次郎はそう言うと、先にたって下におりた。あとに残った小さい生徒たちは、うつむいてくっくっといつまでも笑っていた。
 朝倉先生はその間に部屋の様子を見まわした。文庫はちょうど自分のうしろに据えてあり、きちんと整頓されていた。その右上の位置に「白鳥入芦花」の額がかかっていたが、天井のない部屋の、低いけたにひもでつるし、下縁を壁の中途に小さな横木をわたしてささえてあったので、低すぎて、あまりばえがしなかった。しかし、朝倉先生は、うれしそうに、しばらくそれを見ていた。良寛の歌を書いた掛軸は文庫の左がわにつるしてあった。
 そのうちに、大きな汁鍋が二つと握飯に沢庵や味噌漬を盛りあわした、鉢や、重箱や、切溜きりだめなどが十ちかくも運びこまれた。汁鍋は釜敷を置いて二ヵ所に裾えられ、鉢や、重箱や、切溜は、適当の距離をおいて、古ぼけた畳のうえにじかに置かれた。
 二三人が箸と椀を配ってあるいた。
 先生夫妻と俊亮のまえだけには、会席膳が置かれたが、それには箸と何もはいっていない椀や皿がのせてあるきりだった。
 給仕はお芳とお金ちゃんの役目だった。二人はめいめいに給仕盆を自分の膝のうえに立て、階段から上りたてのところにきちんと坐って、さっきからの様子を見ていたが、みんなの席が定まると、すぐ立ってお椀に汁をもりはじめた。
「みなさん、どうぞ。お米のほかはみんなうちで出来たものばかりです。分量だけは十分用意してありますから、たらふくめしあがって下さい。」
 一とおり汁が行きわたると、俊亮が言った。
「いただきます。」
 朝倉先生が、これまで白鳥会でおりおり会食をやった時の例にしたがって、まず箸をとった。
 しばらくは誰も無言だった。そとの光はもう薄墨をぬったようになっており、一つきりの電燈がかげを作って、みんなの横顔をてらしはじめた。そのうすぐらい光の中を、汁をすする音が入りみだれて、若い人たちの食慾の旺盛さを物語った。
 鶏汁、――それも、汁というよりは煮しめといった方が適当なほど、ふんだんに肉をたたきこんだ鶏汁、それをたらふく吸う機会は、彼らのうちの最も富裕なものにも、そうたびたびめぐまれるものではない。暑い盛りに熱い汁をふるまった俊亮の智恵の足りなさを、彼らのうちに万一にも笑ったものがあったとすれば、それはおそらく、その生徒が、慢性の胃腸病にでも取りつかれていて、とうに若さを失った証拠でしかなかったであろう。
 暮色がふかまり、電燈の光がそれに比例して次第に明るく感じられ出したころには、彼らの腹も相当ふくらんで来た。腹がふくらんで来ると、もうたべることばかりには専念していなかった。あちらこちらに雑談の花が咲き、警句がとび、笑声が湧いた。一時間まえに、次郎の思いつきで、裏手の廂に梯子をかけ、三十人もの生徒たちが、足音をしのばせてこの二階にはいりこんだ時の光景や、そのまえに、朝倉先生の裸姿を橋の下に見つけて、大あわてで水にもぐりこんだり、逃げ出したりした時の光景やが、彼らの断片語によって次第に浮彫うきぼりにされて来た。こうした場合の、頭のいい青年の断片語というものは、ちょうどすぐれた彫刻家ののみみたような役目をするものなのである。
 朝倉先生夫妻も、俊亮も、腹をかかえて笑った。そして三人の笑いごえがきこえるたびごとに、彼らの興味は、しだいに食うことよりも話すことの方にうつって行くらしかった。
 本来ならば、憤激にはじまり憤激に終るべき性質のこの集まりが、こうした愉快な空気の中でその序幕を切ったということは、誰の頭にも計画されていなかった一つの偶然であったかも知れない。しかし、その偶然も、幾羽かの鶏の犠牲なくしては生まれなかったとすれば、その鶏を犠牲にした本田一家の、とりわけ俊亮の智恵は、たといそれが無意識の智恵であり、それも一つの偶然に過ぎなかったとしても、決して軽視されてはならないことだったのである。
 食事が終ると、また次郎の音頭で、鍋やその他の食器が階下に運ばれ、菓子袋がきちんともとの位置にもどり、土瓶が四五ヵ所に配置された。
 やがて大沢が立ち上った。
「きょうはいつもとちがった特別の集まりなので、少し形式ばっているが、司会みたいなことを僕にやらしてもらいます。」
 そうまえ置きして、彼は、まず、きょうの会合をひらくにいたったいきさつを述べ、俊亮の骨折と好意に対して深い感謝の意を表した。それから朝倉先生送別の辞にうつったが、彼の言葉は、じっくりと落ちついていた。激越な調子になりそうだと、しばらく声をのんで、自分を制するといったふうだった。その中で、彼はストライキ問題にもふれたが、その時だけは、声を大にして、次郎や新賀や梅本のとった態度を賞讃した。最後に彼は、さっき座敷できいた朝倉先生と俊亮との対話をひいて、つぎのように結んだ。
「いろいろの事情をのりこえて、人間の真実が終始一貫生かされて来たことは喜びにたえません。白鳥会員は、人間の真実を生かしたという点で、見事な勝利者であります。もし基督教徒が基督を十字架上に仰ぐことによって真に人生の勝利者になったとすれば、われわれもまた朝倉先生を権力という十字架の上に仰ぐことによって、人生の勝利者になったといわなければなりません。そして、この勝利の源が、朝倉先生の崇高なご人格にあることはいうまでもありませんが、また、使徒の中の使徒としての本田、新賀、梅木の三君の殉教じゅんきょう的努力が、さながら宝玉の如く光っていることを忘れてはなりません。そして、われわれが特に感銘を深くするのは、さっき申しました本田君のお父さんのお言葉であります。もし本田君のお父さんの、ああした切実なお言葉がなかったとすれば、われわれは、あるいは、この最後の晩餐なしに朝倉先生とお別れしなければならなかったかも知れないのであります。その点で、僕たちは本田君のお父さんに対して、ご馳走に感謝する以上に感謝しなければならないと思います。」
 拍手の嵐をあびて大沢は坐った。さすがにいくらか興奮したらしく、顔をあからめてしばらくうつむいていた。それから、ふと気がついたように、あわてて朝倉先生の方に上体をのり出し、
「どうぞ、はじめに先生から、何か……」
 朝倉先生はすぐうなずいた。しかし、なかなか立ちあがらなかった。立ちあがる代らに、腕組みをして眼をつぶった。部屋じゅうの眼がしいんとして先生を見つめている。一分たち、二分たち、おおかた三分もたったころ、先生はやっと眼を開いたが、やはり立とうとはしない。先生のまつ毛はいくらかぬれていた。それはみんなの気のせいではなかった。先生は見ひらいた眼を二三度しばたたいたあと、坐ったままで、ぽつりぽつり話し出した。その中には次のような言葉があった。
「私は、つい一時間まえまでは、諸君と今夜こうして集まることが出来ようとは少しも思っていなかった。それは、私自身、集まるまいと決心していたからだ。」
「集まるまいと決心していた間は、諸君に言って置きたいことが山ほどあるような気がしていたが、現にこうして集まってみると、ふしぎに何も言うことがないような気がする。これは、おそらく、この集まりが、すみからすみまで人間の真実にみたされているからだと思う。真実にみたされた世界では、言葉というものはあまりその必要がないものなのだ。」
「私が諸君と集まるのをさけたのも、私の人間としての真実であった。それは諸君の真実とはまるで正反対の方向をとっていた。しかし両者の間に矛盾はない。それはいずれも人間の真実だからだ。両者は光と闇のようなものではない。いずれも光で、ただその位置を異にするだけだ。光の交錯こうさくは決して闇の原因にはならない。それどころか、それはあらゆる場所から闇を退散させる力なのだ。人間は、だから、それぞれの位置において真実であればいい。いや、それより外に道はないのだ。諸君と私とは、方向のちがった真実を胸に抱いて、現にこうして照らしあっているし、将来も永く照しあうだろう。」
 先生は、そんなことを言ったあと、また眼をつぶった。話が終ったようには思えない。みんなの眼も、耳も、先生の顔に集中している。
 月がのぼりかけたらしく、ほのぼのとした明るさが、庭木をてらしはじめた。
 しばらくして先生はつづけた。
「諸君と一堂に集まる機会は、恐らくこれが最後だろう。しかし、諸君のうちの誰かとは、きっと再びどこかで会えるだろうと期待している。その時、諸君がどんなふうに成長しているかを見るのは、私にとって何よりの楽しみだ。だが、同時に、私には一つの大きな心配がある。それは時代の変化ということだ。諸君と再び会うのが、五年さきになるか、十年さきになるかわからないが、そのころには、時代は今とはずいぶんちがっているだろう。あるいは恐ろしいほどの変化を見せているかも知れない。しかもその変化は、私の考えるところでは、決していい方への変化ではないのだ。――」
 それまで眼を畳の一点におとしてじっときき入っていた次郎は、何かにはじかれたように、急に眼をあげて先生を見た。
 彼は、五・一五事件が起きて二三日もたたないある晩、ひとりで先生をたずねたことがあったが、その時、先生が、いつもにない沈痛な顔をして、張作霖ちょうさくりんの爆死事件以来、柳条溝りゅうじょうこう事件、上海事変、満州建国とつぎつぎに大陸に発生した事件の真相を説明し、もし日本がこのままの勢いでおし進むならば、道義日本の面目はまるつぶれになるであろう。そして国際的には全く孤立の状態におちいり、国内的には一種の暗黒時代が来るにちがいない。その結果、国運は隆盛になるどころか、或は百年の後退を余儀なくされるかも知れない、とまで極言したことを思いおこしていた。
(先生は今夜思いきって、みんなにそのことを言おうとしていられるのだ。)
 そう思うと、彼は何か秘密な会合にでものぞんでいるような気になり、一瞬、息をつめ、先生のつぎの言葉に耳をそばたてながら、みんなのそれに対する反応を読もうとして、眼を八方にくばった。
 先生は、しかし、次郎の予想に反して、そうした現実の問題には何ひとつふれず、ごくあっさり話を片づけてしまった。
「時代がいい方に向いていないということについては、いろいろ説明しなければならないこともあるが、今夜は私はそれについて何も言いたくない。言ってもどうにもならないことだし、言わなくても、いすれは諸君が身をもって体験することだと思う。」
 次郎は「おや」という気がして、もう一度先生を見た。先生も、ちょうどその時、次郎の方に視線をそそいでいた。
「しかし、――」
 と、先生は次郎から眼をはなし、
「念のため、ただ一ことだけ言っておきたいことがある。それは、国民の良心が完全にねむらされる時代が来るということだ。このことは、或いは国民の多数が気がつかないでしまうかも知れない。諸君もよほどしっかりしていないと、恐らくそれに気づかないでしまうだろう。それは、悪い時代のいろいろの現象に逐いたてられて、国民の頭が、自分でも気づかないうちに狂ってしまうからだ。しかし、日本にとってこれほど危険なことはない。何が悪い時代だといって、国民の良心が眠らされる時代が来るほど悪い時代はない。そういう時代には、善と悪とがあべこべになり、光栄と恥辱とがその位置をかえ、一時的な喜びのために永遠の喜びが台なしにされ、野心家が権力の地位について真の愛国者を牢獄につなぐ、というようなことになりがちなものだ。諸君は今そういう時代を迎えようとしている。いや実はもうそういう時代に一歩も二歩も足をふみこんでいるのだ。私が今度諸君と会う時には、諸君はそういう時代に相当もみぬかれた頃だと思うが、その時諸君の良心が果して健全であるか、或いは大多数の国民と同様、眠らされてしまっているか、それを見るのが、私にとっては一つの興味でもあり、また恐怖でもあるのだ。むろん、諸君の良心が健全であろうとなかろうと、時代は行くところまで行くだろう。それは必至の勢いだ。少数の力をもってはもうどうにもならないほど時代は傾いてしまっている。その傾きを直そうとしてあせればあせるほど、却ってその下敷になるばかりだとさえいえる。だから、諸君の良心も今は時代を直すには大して役には立たない。しかし、時代が極度に傾いてしまって、――或いは転覆してしまってといった方が適当かも知れないが――それ以上傾きようがなくなる時代が、五年か十年かの後にはきっとやって来るにちがいない。その時こそ、どんなに眠らそうとしても眠らなかった自由な良心が、目に見えて役に立つのだ。恐らくそういう最悪の時には、大多数の国民は、ただ途方とほうにくれて右往左往するばかりだろう。永いこと目かくしをされていた良心では、その目かくしをとり去られても、急にはものの見わけがつかないからだ。そうした国民の間にまじって彼らを励まし、同時に、はっきりと彼らに将来の方向を示してやることは、どんな脅迫にも屈しないで良心の眼かくしをはねのけ、はっきりと時代の罪過ざいかを見つめて来たものだけに出来ることなのだ。私は、何年かの後に、そういう諸君と再会し、そういう諸君と手をたずさえて歩いてみたいと心から期待している。私は、今は、時代に反抗するようなあらわな活動を何も諸君にのぞんでいない。今は、いや、時代が極度に傾いてしまって、それ以上傾きようがなくなるまでは、むしろしずまりかえって、ただ諸君の良心の自由を守ることに専念してもらいたいと思っているのだ。」
 先生の眼と次郎の眼が、また期せずして出っくわした。次郎の眼は、そのまま釘づけにされたように、先生の顔をはなれなかった。先生は、かるくその視線をはずして二三度またたきした。そしてちょっと何か考えていたが、
「しかし、良心の自由を守るということは、決してなまやさしいことではないのだ。ことに君らのような純真な青年が、どこもかしこも麻酔薬ますいやくをふりまかれているようなこれからの時代に、それを守ることは、容易ではない。いったい、良心がその自由を失うというのには二つの場合がある。その一つは、権力におもねったり、大衆にこびたり利害にまどわされたりして、心の底では悪いと知りつつ良心にそむく行動をする場合であり、もう一つは、知性をくもらされ、判断力をにぶらされて、自分ではべつに悪いことをしているつもりでなく、むしろ良心的なつもりで、とんでもない間違った行動をする場合だ。諸君は第一の場合のような意味で良心の自由を失うことはよもやあるまいと思う。それは信じてもいいと私は思っている。しかし安心出来ないのは第二の場合だ。国家のためだ、などと誰かが声を大きくしてどなると、諸君のような純真な青年は無反省にすぐそれに共鳴したがる。それが良心をねむらす麻酔薬の一滴であっても、それにはなかなか気がつかない。今の時代がじりじりと悪くなって行くのは、実にそうした煽動家のどなり声に原因がある場合が非常に多いのだが、却ってそれを憂国の叫びだと思いこんでしまう。また、大きな下り坂にも時にはちょっとした上り坂があるように、苦しい時代にも、時には有望らしく見える事件が起きる。すると、それでもう時代は上り坂になり、その事件が日本の無限の発展を約束してでもいるかのような錯覚さっかくに陥ってしまう。例えば、――」
 と、先生はちょっと口籠って考えた。が、まもなく思いきったように、
「たとえば、ついこないだの満州建国だ。あれはなるほど、一応は日本の大発展を約束しているかのように見える。五族協和とか王道楽土とかいう言葉も、非常に美しい。それだけを切りはなしてみると、これほど道義的で華やかに見えることはない。そこでその華やかさに酔ってしまって、あとさきを考えてみる良心的な努力がお留守になる。建国のために置かれた礎石は果してゆるぎのない道義的なものであったか、どうか。それは汚れた手で置かれたものではなかったか。もしそうだとすれば、それはずるずると血の泥沼にすべりこみ、結局は日本までをその泥沼の中に引きずりこむのではないか。いやなことをいうようだが、真に冷静で良心的な国民なら、そういうことまで考えてみなければならないと思うのだが、それがなかなかむずかしい。つまり、表面の現象に欺かれて知性が眠り、判断力がにぶり、良心がその自由を失ってしまうからだ。純真な青年ほど、そうした過失に陥りやすいのだから、よほどしっかりしてもらわなくてはならない。私がお別れするにあたって諸君に言い残すことは、ただこの一点だ。つまり美しい言葉や表面の現象に欺かれて良心を眠らせることがないように、たえず知性をみがき、判断力をたしかにして、ものごとの真相を見究みきわめてもらいたい、というのが私の諸君に対する最後のお願いだ。」
 先生は、そこで、しばらく、遠くの小さい生徒たちの方に眼をやっていたが、
「私が今言ったようなことは、下級生の諸君には十分にはわからなかったかも知れない。しかし諸君が白鳥会員であるかぎり、今すぐにはわからなくても、上級生との交わりを通しておいおいわかって来るだろう。上級生の諸君もどうかそのつもりで、これからの白鳥会を運営してもらいたい。お調子にのらないで、あくまでも冷静に、物ごとの真相を見究め、そこから行動の基準をさがし出す。そういう訓練は、これまでもお互いにやって来たことだが、それをつづけてさえもらえば、下級生の諸君にも、私がさっき言ったようなことが自然にのみこめて来る時があるだろうと思う。」
 先生は、そう言って、またちょっと言葉をとぎらした。そして、ちらと俊亮の横顔をのぞいたあと、口もとにいくらか微笑をうかべながら、
「えらい固くるしい話をしたが、これが私の置土産だ。しかし、もう一つ、置土産がある。それは、五六日もまえから、こころ用意だけはしていたが、今夜君らとこうして会えるとは思っていなかったし、いつ、どこで、どうして諸君のまえに差出したものか、迷っていたところだ。ところが、はからずもこういう機会が恵まれたので、早速差出すことにしたい。それは、私に代って、この白鳥会を指導していただく先生だ。」
 弱い電燈の光と、淡い月の光との交錯する中で、みんなの眼が一せいに光った。恭一と次郎とは、あわてて視線を先生からみんなの方に走らせたあと、顔を伏せた。朝倉夫人は微笑しており、俊亮は泰然としている。
「置土産と言っては甚だ失礼だし、先生というのはあるいは少しあたらないかと思うが、その置土産にしたい先生というのは、実は、こちらにいらっしゃる本田君のお父さんだ。お名は、もう存じあげている人もあるだろうと思うが、俊亮さんとおっしゃる。」
 みんなの眼はいよいよ光って俊亮の方に注がれ、恭一と次郎とはまるで罪人のように顔をふせた。俊亮は相変らず泰然としている。
「私が本田君のお父さんとおちかづきになったのは、ごく最近のことで、私の今度のことが問題になってから、私の家をおたずね下すったのがはじめてだ。だから時間的にはごく短いおちかづきに過ぎない。しかし私は、これまで私が交わった誰よりも信頼申上げることが出来るような気がする。失礼な申しようだが、私は、もう一人の私、それもこれまでの私よりかずっと実社会に人間の真実を生かしている私を、本田君のお父さんに、見出したような気がしている。文庫の方は、取りあえずというので、諸君が見るとおり、すでにこちらにお預けしてあるんだが、私は、同時に白鳥会員としての諸君の身柄をも、こちらにお預けして、本田君のお父さんに、諸君の良心の自由を守っていただきたいと思っているのだ。本田君のお父さんには、まだはっきりしたご承諾はいただいていないが、しかし、諸君がここでお願いさえすれば、きっとご承諾下さるだろうと思う。」
 先生の言葉はまだつづきそうだった。しかしそのまえに、
「是非お願いします。」
 と、叫んだものがあった。それは梅本だった。すると、新賀と大沢とがほとんど同時に拍手した。拍手はそのまま上級生から下級生の方につたわって、しばらく鳴りやまなかった。恭一と次郎とは相変らず顔をふせたまま、ちぢこまるようにしており、俊三だけが、あきれたような、しかし、どこかふざけたような眼付をして、まともに俊亮の方を見ていた。
 俊亮も、さすがに、もう泰然とはしていなかった。彼は、自分の方を見て微笑している朝倉先生の顔にちょっと眼をやったが、すぐその眼でみんなの顔を一わたり見まわした。その眼は怒っているようでもあり、笑っているようでもあり、無表情なようでもある妙な眼付だった。それから浴衣の左の袖をまくって、そのまるっこい二の腕を右の手のひらで二三度なでたあと、ぶっきらぼうに言った。
「よろしい。ひきうけましょう。しかし、ひきうけるについては一つの条件があります。それは、私は先生ではないのだから、諸君に先生と呼ばれては困るのです。私の希望では、小父さんと呼んでもらいたいのだが、それが承知ならひきうけましょう。」
 一せいに拍手が起った。どの顔も笑顔である。朝倉先生夫妻もしんから嬉しそうに俊亮の顔をのぞいた。笑わなかったのは恭一と次郎だけであったが、二人とも、もう顔はふせていなかった。
 拍手がやむと、大沢があらためて俊亮に何か話すように求めた。
 俊亮は一たんかぶりをふったが、すぐ、何か思いあたったように、大きくうなずいた。そして、大沢がまだ十分尻をおちつけないうちに、言い出した。
「私の商売は養鶏です。これからは君らの小父さんにもなるわけだが、それは私の商売ではない。だから、君らのお世話をやくよりか、自然鶏の世話をやく方が多かろうと思う。むろん、朝倉先生のように朝から晩まで君らのことばかり考えているというわけにはいかない。かりに考えても、ろくなことは考えないだろうと思う。だから考えないことにする。鶏のことは一所懸命に考えるが、君らのことはあまり考えないことにする。こう言うと、人間よりも鶏を大事にするようだが、そうでない。自分の商売でもないことを、あまり立ち入って考えたら、かえって君らの人間を駄目にするだろうと思うから、考えないつもりである。つまり、君らの人間を大事に思うから考えない。そう思っていただきたい。もっとも、君らの方から何か相談ごとがあったら、それは君らの小父さんとしていくらでも相談にのる。鶏のことはほって置いても相談にのるつもりでいる。相談にのるというのは、むろん教えることではない。相談はあくまでも相談だ。第一、私は先生でないから教えることは出来ん。しかし、みんなといっしょになって話しあうことなら出来る。だから、いつでもひっぱり出してもらいたい。まあ、私に出来ることはそんなことですが、どうでしょう、朝倉先生、それでは先生のあとつぎにはなれませんかな。」
 俊亮はくそまじめな顔をして朝倉先生の横顔をのぞいた。朝倉先生は、さっきからにこにこして俊亮の話をきいていたが、
「結構ですとも。私もこれまで、それ以上のことは何もやって来なかったんです。みんなで考える。みんなが勇敢にもなり謙遜けんそんにもなって正しい考えを生み出す。そういうところに、白鳥会の精神がありますからね。」
「よくわかりました。では、ついでにもう一つ――」
 と、俊亮は、またみんなの方を向いて、
「これは商売がら言って置くが、私は鶏が可愛い。つぶしてたべたいとはめったに思ったことがない。また、片っぱしからつぶしていては商売にならない。だから、今夜のようなことは、そうたびたびあることではない。あるいは二度とないことかも知れない。万々一にも、諸君の中に、鶏をご馳走したために私をいい小父さんだと思っている人があるとすると、その人はきっと失望するにちがいない。それはあらかじめ断っておく。なぜ私がこんな変なことをわざわざ言うかというと、それは白鳥芦花に入る会が、鶏肉胃袋に入る会になってしまっては、先生に対して申しわけないと思うからだ。もっとも、鶏を飼うのは結局は人間のためなんだから、ほんとうに人間の役に立つと思えば、いくら可愛ゆくとも、またまるで商売にはならなくとも、いつでもそれを犠牲にする肚は私にもある。今夜もそのつもりで幾羽か犠牲にしたわけだ。今頃は多分諸君の腹の中で、諸君の朝倉先生に対する真実と溶けあって、鶏もいい気持になっていることだろう。」
 俊亮はそう言ってこう笑した。俊亮の笑声につれて、みんなも笑った。しかし、その笑声には、変に固いところがあり、何かにつきあたったように、ぴたりととまった。大きい生徒たちの中には、頭をかいているものもあった。
「いいことを言って下さいました。」
 と、朝倉先生はかるくうなずくようにしたが、そのまま眼をおとして、しみじみとした調子で言った。
「おたがいに真実を生かしあう、それほど真実なことはない。そうした真実の持主が何人か居りさえすれは、日本もきっと救われる時があるんだ。おたがいに、きょうの本田さんの真実を忘れないようにしたいものだね。」
 しばらく沈默がつづいた。月の光が、窓の近くの生徒たちの坊主頭をうしろからぼんやりてらしている。
「では、これから会員の自由な感想発表にしたいと思いますが、そのまえに、きょう新入会員が一人出来ましたから紹介します。」
 大沢がそう言って、俊三の方を見た。俊三はちょっと顔をあかくして頭に手をやったが、すぐ立ちあがった。すると大沢が言った。
「本田俊三君、四年生です。上級の人はもうみんな知っているだろうと思うが、次郎君の弟です。これまでは白鳥会を多少軽蔑していたようですが、きょう次郎君や僕といっしょに鶏を解剖しているうちに、入会する気になったんです。小父さんがさっき言われた、鶏肉胃袋に入る会のつもりで入会したのかも知れませんが、将来見込はあるつもりです。」
 どっと笑声がおこった。俊三はただやたらに頭をかいていたか、ひどくてれているようなふうでもなかった。そして笑声がいくらかしずまるのをまって、すこし肩をいからせながら言った。
「僕は、きょう、大沢さんと鶏の解剖をしながらいろんなことで議論しましたが、たいてい負けました。そして大沢さんのような人が白鳥会に感心しているなら、僕も感心してもいいという気になりました。それで入会することにしたのです。鶏をたべたかったからではありません。どうぞよろしく。」
 また、笑声がどっと起った。その笑声の中で俊三は一たん坐りかけたが、また立ちあがって俊亮の方を見た。そしてずるそうに微笑しながら、
「小父さんも、どうぞよろしく。」
 みんなはころげるようにして腹をかかえた。朝倉先生夫婦も俊亮の顔を横からのぞきながら、声を立てて笑っている。俊亮もつい吹き出したが、
「おまえや次郎には、やはり父さんと呼んでもらいたいな。それが人間の真実というものだよ。」
 笑声は、それでまた一しきり高くなった。しかし、それはそう永くはつづかなかった。真実という言葉は、それがどんな場合につかわれようと、もうみんなの心には、何か犯しがたい力をもって響くようになっていたのである。
「では、いよいよ会員の自由発言にします。誰からでも遠慮なくやってくれたまえ。せんべをかじりながら始めよう。」
 大沢が、そう言って、自分のまえの菓子袋をやぶった。すると方々でも菓子袋のやぶれる音がきこえ、土瓶と茶碗とが移動し出した。
 そのざわめきの中で、最初に発音したのは梅本だった。彼はかなり委しく今度の事件の経過を説明し、その間に次郎と新賀とが演じた役割を物語って、みんなを傾聴さした。
 梅本につづいて新賀が発言したが、彼は主として朝倉先生を失ったあとの学校の将来を論じて会員の自覚と奮起とをうながし、最後に、先年の代りに俊亮を迎えることが出来たことについて、心からの喜びを述べた。
 そのあと、つぎつぎにいろんな生徒が発言したが、たいていは朝倉先生や白鳥会からうけた彼ら自身の過去の感銘や、将来に対する覚悟についてであった。過去の感銘の中には、具体的で印象の深いものもあったが、将来の覚悟ということになると、いずれもぼんやりした抽象的な言葉が多かった。下級の生徒たちは、あまり発言しなかった。発言してもたいていは、
「これから、小父さんや上級生の教えに従ってしっかりやります。」
 という程度以上に出なかった。ただひとり、二年の生徒でこんなことを言ったものがあった。
「僕は、きょう、良心の自由という言葉と人間の真実という言葉とを覚えました。僕は、これから、どんな時にも、この二つの言葉と、僕たちのために死んでくれた鶏のことを思い出したいと思います。」
 朝倉先生や俊亮をはじめ、上級の生徒たちは、いいあわしたように、その生徒の顔を見つめた。
「あの生徒はM少将の息子です。ご存じでしょう、M少将のことは。」
 朝倉先生が、そっと俊亮の耳にささやいた。俊亮はうなずいて、一層注意ぶかくその生徒の顔を見つめた。
 M少将というのは、満州事変が起る頃まで、陸軍省内に重要な地位を占めていたが、事変について省内で何か烈しく論争したため、急に予備役に編入されたという噂のある人だったのである。
 M少将の息子の発言が終ると、それまで沈默をつづけていた次郎が、急に口をきった。
「僕はいま、M君の言葉をきいたとたん、なぜか、僕がこの会に入会して間もないころの、ある夕方のことが、はっきり眼にうかんできたので、それを話すことにします。」
 そう前置きして、彼は、文庫の両側にかかっている「白鳥入芦花」の額と、良寛の歌――「いかにしてまことのみちにかなわなむちとせのなかのひとひなりとも」――の掛軸とに眼をやりながら、いつもにないしんみりした調子で話し出した。それは、彼がまだ一年生のころ、朝倉夫人と二人きりで、その額と軸とを前にして、いろいろと問答をした日のことだった。
 彼の話は、かなり写実的だった。その時の周囲の光景、たとえは窓の日ざしがどんな工合だったとか、卓の上にはどんな花瓶がのっており、それにどんな花がけてあったとかいったようなことから、夫人がその時着ていた着物の色のことまで、記憶をたどって話した。そして、その時ふたりの間にとりかわされた対話も、出来るだけ直接話法を用いようと努力した。ことに夫人が、最後に、「芦の花って真白でしょう、その真白な花が一面に咲いている中に、真白な鳥がまいこんだというのですわ。」と言って微笑し、「もうこれでおしまい、ほほほ。」と謎のような笑い声をのこして階下におりて行ったところなどは、まったくその時の夫人の言葉そのままだった。
「僕が、その時のことを、どうしてこんなにはっきり思い出すことが出来るのか、僕自身にもふしぎなくらいですが――」
 と、次郎は朝倉夫人の方に眼をやりながらつけ加えた。
「それには理由があると思います。今から考えると、僕がほんとうに迷い、ほんとうに物ごとを深く考えるようになったのは、その時からのことです。それに、僕は、これも今から考えてのことですが、その時はじめて、ほんとうに知性のゆたかな聡明そうめいな婦人の愛情というものを味わうことが出来たと思います。僕はこのことがあって以来、奥さんのどんなお言葉からも、また、僕を見られるどんなお眼の光からも、何かの教えと愛情とをみとることが出来るようになりました。その意味で、僕は奥さんをぬきにしては白鳥会を考えることが出来ません。白鳥会から奥さんを失うことは、僕にとっては、先生を失うことと同じように大きな打撃であります。諸君の中にも、いや、恐らく諸君のすべては、僕と同様の感じを抱いていることと信じます。朝倉先生に対する感謝の言葉は、さっきからの諸君の発表でもうつくされていると思うので、僕は、僕らにとって聖母マリアであり、観音菩薩かんのんぼさつであり、こして真に白鳥そのままの役目をつとめていただいた奥さんに感謝する意味で、僕のこの思い出を発表した次第であります。」
 これまでにない力のこもった拍手がおこった。先生夫妻はうなだれており、夫人の眼には涙さえ光っていた。
 かなり間をおいて、夫人はうなだれたまま、低い、しかし、はっきりした声で言った。
「ただ今の次郎さんのお言葉をうけたまわりまして、私、まったく恥ずかしくなってしまいました。あの時のことは、私もぼんやりおぼえていますが、あれは、おてんばの私がつい出しゃばったことを申したに過ぎないのございます。……ただ私は、みなさんとおちかづきになるのが何よりの楽しみでございました。ごぞんじの通り、私には子供がございませんものですから、みなさんのようなお若い方を見ると、ただもうお親しくしていただきたくて、仕方がございません。それで、つい時々おてんばなまねをしてみたくなるのでございます。みなさんに何かお教えするの何のって、私、考えてみたこともございません。どうか、これまでのことを、そう深く大げさにおとりにならないようにお願いいたします。私といたしましては、みなさんに、これまで叔母か姉みたように親しんでいただいたことが、ただもう嬉しくてならなかったのでございまして、私からこそ、みなさんにお礼を申上げなければならないのでございます。……あすは、もうご当地におわかれするのでございますが……」
 夫人は鼻をつまらせた。そしてしばらく言葉がつづかなかったが、急に顔をあげて涙のたまった眼をしばたたき、強いて微笑をうかべながら、
「何だかめ入ってしまいますので、これでよさしていただきます。その代りに、これは私の最後のおてんばでございますが、次郎さんが、いつか私に、どなたにも秘密だとおっしゃって、こっそり見せていただいたお歌をすっぱぬくことにいたします。それは、こういうお歌でございます。」
 そう言って、夫人はつぎの歌を二度ほどくりかえした。
われをわが忘るる間なし道行けば硝子戸ごとにわが姿見ゆ
 それから、また言葉をついで、
「次郎さんは、このお歌は、白鳥会の精神とはまるであべこべな心の秘密をうたったもので、人に見せるのは恥かしい、とおっしゃいました。なるほど一ときも自分を忘れることが出来ないということは恥かしいことでございます。けれど、考えてみますと、たいていの人は、そんな人間でございます。そして、そんな人間でありながら、そのことに気がつかないで、いい気になっているものでございます。それこそなお一そう恥かしいことではございますまいか。私は次郎さんのこのお歌を拝見いたしました時に、はっとそのことに気がついたのでございます。自分を忘れることの出来ない自分のみにくさに、悩みを感じないでは、白鳥会の精神も何もあったものではないと、そう思いまして、私がそれまで、あんまりいい気な人間であったことに、はっきり気がついたのでございます。そのあと、私は何かにつけ、次郎さんのこのお歌を、良寛さんのお歌といっしょに、心の中でくりかえすことにいたしております……。次郎さんの秘密のお歌をすっぱぬいて、おてんばをするつもりなのが、つい自分のざんげ話のようなことになりまして、まため入りそうな気持になってまいりました。これで失礼さしていただきます。」
 みんなの視線は、夫人と次郎とに半々にそそがれていた。そしてやや間をおいて思い出したように拍手が起った。次郎はあごを胸にめりこませるようにして顔を伏せていた。
 そのあと、大沢の音頭で座をくずし、みんな窓の近くによって、月を見ながら雑談することにした。
 月はもうかなり高かった。満月をすぎてわずかに欠けはじめた光のかたまりが、横長くひいた雲のへりを真白に光らせてその上に浮いていた。稲田ははろばろとけぶり、土手の松並木はくろぐろとしずまりかえっている。
 それからの話題はまったくさまざまだった。むろん、みんなが一かたまりになって話すというのではなかった。あるいは三人、あるいは五人と、それぞれにちがった話題をとらえて議論もし、冗談も言いあった。そして、彼らの複雑な感情が、あるところでは興奮に、あるところでは高笑いに、またあるところでは沈默に、彼らをさそいこむのだった。しかし、朝倉先生夫妻や俊亮が何か言い出すと、どのかたまりも、自分たちの話をやめて、その方に耳を傾けるといったふうであった。
 そうした雑談の中で、かなり永い間みんなの注意をひきつけたのは、恭一の高校生活の話だった。彼はそれまで一度も発言しなかったという理由で、上級の生徒たちにわざわざその話を求められたのだった。大沢もそれにはおりおり口をはさんだ。しかし、主として話したのは恭一だった。学寮における自治生活の話がその大部分で、自主的に、いろいろの面から共同生活を建設して行く楽しみを語った。そして最後に彼はこんなことを言った。
「そりゃあ中には学生の特権だなんていって、どうかと思うようなことを主張するものもいるし、その結果、一般社会の物笑いになるようなこともあるにはあるさ。しかし、とにかく、みんなの意見を綜合して、自主的に自分たちの生活を組立てて行っている点は、何といっても高校生活の一大特長だよ。第一それでこそ人間がほんとうの意味でねられて行くんだからね。命令服従の関係だけで、形をととのえるために人間を機械化しているこのごろのいわゆる錬成とは比較にならんよ。もっとも最近では、高校にもそろそろ錬成の風が吹きこんできたようだ。もし高校がその風に吹きまくられるようになったら、何もかもおしまいだね。これは高校生だけの問題じゃない。高校がそうなることは将来の日本の指導層がそうなることであり、従って日本全体の問題だと僕は思うんだ。そこで、僕、いつも考えていることなんだが、僕たち高校生としては、高校生活そのものに、そんな風が吹きこむすきを作らないようにしなければならない。それには、先ず第一に、僕たち自身が、学生の特権なんていう一般社会に通用しない観念から、完全に脱却することが必要だし、第二には、識見の高い、情操のゆたかな、人間として十分尊敬に値する先生に、顧問格になってもらって、いつも、僕たちの人間修業なり自治生活なりの基礎になるような、いろんなヒントを与えてもらうことが必要だ。僕はそんな考えで、学寮でたびたび意見をのべてみたこともあるが、残念なことには、現在の僕たちの学校の様子では、そのどちらも見込みがなさそうだ。学生の側では、学生の特権をすてるのも、先生の指導をうけるのも、自治に矛盾すると勘ちがいしているし、先生の側では、どの先生も君子危きに近よらずで、早晩お上から錬成の風が吹いて来るのを心待ちにしている、といったような状態だからね。もし全国の高校がこの調子だと、或いは諸君が高校にはいる頃には、もうほんとうの意味の高校生活なんてどこにもなくなっているかも知れない。僕は、それを思うと、諸君がたとい中学時代だけでもこうして白鳥会にはいって、謂ゆる錬成でない、ほんとうの人間修行をやっていることは非常な幸福だと思うよ。」
 みんなの解散したのは十一時に近かった。解散するまえに、朝倉先生の東京における新しい住所がみんなの手帳に書きこまれた。
 恭一、次郎、大沢の三人も、先生夫妻を見おくって、土手を大かた二丁ほど歩いたが、わかれぎわに先生は、三人の手を代る代る握って、言った。
「そのうち、きっと、君らといっしょに何か大事な仕事をやる機会が来そうだ。私にはそんな気がしてならない。」
 三人は、めいめいに先生のこの言葉の意味を味わいながら、默々として帰った。
 月はみがきあげたように光っていたが、三人ともそれを仰ごうともしなかった。

一三 送りの日


 朝倉先生の送別式は、翌日の午後、型どおりに行われた。それは全く型どおりであった。何かにおびえたような、きょときょとした花山校長の態度と、生徒たちの顔をたえずさぐるように見まわしていた西山教頭や曾根少佐の眼が、いくらか生徒たちの嘲笑と反感とを招いたというほかは、何のへんてつもない、きわめて平凡な送別式であった。朝倉先生は、ほんの三分ばかり、これまでのどの先生の告別の辞よりも形式的だと思われるようなあいさつをしたに過ぎなかったし、生徒を代表して平尾が述べた送別の辞も、どの先生にも適するような、お定まりの言葉の羅列られつにすぎなかった。また、全校生徒が特別に一円ずつ醵金きょきんして贈呈するはずであった記念品も、まだ用意が出来ていなかった。そして、送別式がすんで、生徒たちがまだ講堂から出きらないうちに、朝倉先生は、もう、玄関に待たしてあった人力車にとびのって、駅の方へ急いでいたのであった。
 送別式に何かの波瀾はらんを予想し、興味本位でそれを期待していた生徒たちも決して少くはなかった。彼らは、見送りのために校庭に集合しながら、くちぐちに言った。
「つまんなかったなあ。……朝倉先生、もっと何か言うかと思っていたよ。」
「僕は、先生の最後の雄弁をきくつもりで張りきっていたんだが、がっかりしたね。」
「何んだか、ばかにされたような気がするね。」
「うむ。しかし、校長はほっとしたんだろう。」
「校長を安心させて、僕たちを失望させるって法はないよ。」
「朝倉先生も今日はどうかしていたね。」
「妥協したんじゃないかな。」
「そうかも知れん。でなけりゃあ、もう少しぐらい何か言うはずだよ。」
「しかし、辞職してしまってから妥協したって、何にもならんじゃないか。」
「これからさきのことを考えたんだよ、きっと。」
「ふうん、そうかもしれんね。」
「このごろは、一度憲兵ににらまれた人は、よほどおとなしくしないと、日本国中どこに行ってもにらまれるそうだからね。」
「そんなこと、誰にきいたんだい。」
「曾根少佐が言っていたよ。」
「なあんだ、やっぱりがまの言ったことか。」
「あいつ誰にでもそんなこと言うんだね。僕もきいたよ。」
「朝倉先生も、ひょっとすると蟇におどかされたのかも知れないね。」
「まさか。」
「しかし、朝倉先生の豹変ひょうへんぶりは、とにかくおかしいよ。あれじゃあ、先生がいつも言っていた信念なんて、あやしいものだね。」
 次郎は、そんな対話を耳にして、なさけなくも思い、腹も立った。しかし彼は先生のために弁解してみる気には、少しもなれなかった。どうせ衆愚しゅうぐというものはそんな程度のものだ。そう思って、心の中で冷笑していた。
 駅の見送りには、生徒たちは一人も歩廊に入らず、駅から東寄りの線路の柵外に整列して見送る慣例になっていた。八百の生徒がせまい地域に整列するので、距離も間隔もない一かたまりの集団になるよりほかはなかった。五年が最前線だった。次郎はその右翼から五六番目のところに位置していた。
 彼は、柵にからだをよせかけながら、何度も腕時計を見た。東京行連絡の急行は、三時五分発になっていた。あと十五分、十分、七分、と、時計の秒をかぞえながら、周囲のさわがしさの中に、ひとりで淋しさを味わっていた。
 生徒たちの中には、いつの間に用意したのか、小旗などをもっているものもあった。彼らは、もうさっきからそれをふりまわして、兵隊でも送る時のようにはしゃいでいた。それが彼を一層さびしくさせた。彼は、自分が小旗を用意しなかったことをくやむ気になど少しもなれなかった。しんみりと、落ちついて、ふかく物を考えながら先生を見送りたい。彼はそんな気持で一ぱいだった。
 きっかり三時。あと五分。先生ももう歩廊に出られたにちがいない。そう思って彼は上りの歩廊に眼を走らせた。しかし、そこは彼の位置からはかなり遠かった。ただ手荷物をさげた沢山の人がこみあっているのが見えるだけだった。
 まもなく列車がすべりこんだ。上りの歩廊は、その列車のかげにかくれて、もうまるで見えない。機関車が威圧いあつするようにこちらをにらんで、大きな息をはいている。
 彼は、その機関車に眼をすえているうちに、ふと、もうこのまま先生と視線をあわす機会がないのではないか、という気がした。むろん先生は、車窓から顔を出して生徒たちにあいさつされるにちがいない。だから、自分の方から先生のお顔が見えることはたしかである。しかし、それだけでは物足りない。先生にも自分の方を見てもらいたいのだ。それは何も、自分がここで先生を見おくっているのを認めてもらいたいためではない。そんなことはどうでもいいことだが、ただ、先生の眼と自分の眼とが出っくわす瞬間が、もう一度ほしい。先生の眼だけではない、奥さんの眼とも……。
 彼のこの願いは、ほとんど衝動的しょうどうてきだった。それでいて何か無視出来ない厳粛な願いのように感じられた。もしその一瞬が得られないで汽車が遠のいてしまうとしたら、……彼はそう思っただけでも、もう何もかもがめちゃくちゃになる気さえした。
 彼は急に、それまで寄りかかっていた柵をはなれ、右側にならんでいた五六人の生徒をおしのけるようにして、最右翼に出た。そこは小さな倉庫みたような建物で限られており、それ以上生徒のならぶ余地はなかったが、倉庫と柵との間には、やっと人ひとり歩けるほどの空地があった。彼はその空地を一間ほどはいりこむと、柵の一番上の横木に飛びのり、片足を建物の板壁にかけてつっ立った。それから、右手に帽子、左手によごれた手拭をつかみ、何か信号でもやりそうな姿勢になった。それは生徒の中のよほどの飛びあがりものででもなければやらない仕草だった。生徒たちは、それを見てやんやとはやし立てた。彼は、しかし、生徒たちのさわぎにはまるで気がついていないかのように、ただ一心に列車の方を見つめていた。
 列車はまもなく発車した。
 機関車が生徒たちのまえを通るころは、速力はまだごくのろかった。しかし、客車が二台三台と通るにつれて、それは次第にまして行った。次郎がつぎつぎに近づいて来る客車の窓を注意ぶかく見つめていると、五台目の中ほどの窓から、あわてたように上半身を乗り出した人があった。それはまぎれもなく朝倉先生だった。そしてその同じ窓から、夫人も窮屈そうに、顔だけをのぞかせていた。
 次郎は夢中になって帽子と手拭をふった。列車はもうかなりの速度を出していたので、先生夫妻の顔が生徒たちの並んでいるまえを通るのはすぐだった。二人は何度も何度も顔をあげさげして、生徒たちに会釈えしゃくした。しかし、一人はなれている次郎には、まだ気がついていないらしい。
「先生!」
 次郎は二人の顔が自分の直前に来る少しまえに、たまりかねたように叫んだ。それも、しかし、車輪の音と群集の叫び声との中では、何のききめもなかった。二人の眼は、依然いぜんとして生徒の群にそそがれたまま、二間、三間と通り過ぎて行った。
「せーん、せーい。」
 次郎は、もう一度根かぎりの声で叫び、帽子と手拭をにぎった両手を、上体ごと、大きく左右にふった。
 すると、夫人がやっと彼に気がついたらしく、視線がぴたりとあった。次郎には、夫人の眼が悲しげに微笑しているように思えた。
 先生の眼は、しかし、まだ生徒たちの群にそそがれたままである。彼はもうだめだと思った。その瞬間、夫人の白い手がだしぬけに窓からのびて、彼の方を指さした。先生に注意をうながしたものらしい。
 やっと先生の眼が彼の方に注がれた。彼の胸は悦びにおどった。双方の視線は針金のように結びついた。しかし、次郎にとって、それは何という不思議な瞬間だったろう。彼は、先生の眼から、これまでかつて見たことのない、けわしい、つめたい光がほとばしっているのを見たのである。
 彼の視線は、石をぶっつけられた電線のようにふるえた。しかし、眼をそらしてしまうには、それは彼にとってあまりにも貴重な瞬間だった。先生の最後の眼、それがたとい彼の予期したものとは全くちがった眼であったとしても、いや、ちがった眼であればあるほど、それを最後まで凝視することが、いまは彼の宿命ともいうべきものだったのである。
 先生の眼は次第に遠ざかった。険しい眼なのか、温かい眼なのか、そしてその視線がどこに注がれているのかさえ、もうまるで判別がつかないほど遠ざかった。けれども、次郎の眼は一心にそれを追った。
 最後に次郎は、男の顔とも女の顔とも見わけのつかない二つの顔が、線路のゆるやかなカーヴのうえで次第にかすめ取られ、ついに全く消えうせたのを見た。
 彼は、それでも、まだ、茫然ぼうぜんとして列車のあとを見おくっていた。帽子と手拭とをにぎっていた彼の両手は、もう、だらりと柵の上にたれていた。
 彼が柵をおりたのは、列挙が町はずれの小さな鉄橋を渡りおえて全くその影を没してから、大方二分近くもたったあとのことであった。
 生徒たちの群は、もうその時にはほとんど散っていた。そして、がらんとなった空地に、配属将校の曾根少佐が、四五人の生徒を相手に何か立ち話をしていた。次郎は見たくないものを見たような気がした。それは、生徒の一人が馬田だということに気がついたからであった。
 曾根少佐は馬田たちと話しながら、眼だけはたえず次郎の方に注いでいるらしかった。次郎は、まだその時まで左手ににぎったままでいた手拭を、あらためて腰にさげ、帽子をかぶって、服装をととのえたあと、曾根少佐の方に近づいて挙手の礼をした。少佐はすぐに答礼したが、いつもの歯をむき出したあいそ笑いはしなかった。そして次郎がそばを通りぬけようとすると、
「あっ、本田、ちょっと待合室で待っていてくれないか。用があるんだ。今すぐ行くからね。」
 と、いかにも急に用事を思い出したかのような調子で言った。
 次郎は、不快というよりか、何か不潔な感じがした。しかし、強いてこばむことも出来ず、すぐ待合室に行って空いた席に腰をおろした。
 腰をおろした彼は、曾根少佐の用事はいったい何だろうと考えた。馬田との立ち話もいくらか気になった。しかし、そんなことよりも彼にとって大事だったのは、朝倉先生の最後の眼だった。その眼がすべてを押しのけて、彼の眼底にちらつき出した。
 険しい眼だった。朝倉先生の眼とは思えないほどつめたい、険しい眼だった。それは訣別けつべつの悲哀を物語る眼だったのか。断じてそんなものではない。先生の眼が、そんなことで、あんなにつめたく、あんなに険しくなろうとは、とうてい想像も出来ないことなのだ。
 ではあの眼は何を意味する眼だったのか。――彼は急に、あの時の自分の仕草を省みて、ひやりとした。
 飛びあがりもの! ただ自分を眼立たせたいためばかりに、ひとり列をはなれて軽業師のような真似をしていた飛びあがりもの! そんなことは、馬田のような生徒でもめったにやらないことではないか。白鳥会員として自分はいったいこれまで何をして来たのだ。ご本尊の朝倉先生のお見送りをするというのに、このざまはいったいどうしたことなのだ。
 彼はそう考えて、自分が今何のために待合室のベンチに腰をおろしているのかさえ忘れていた。
 すると、うしろから軽く彼の肩をたたいたものがあった。はっとしてふりかえると、曾根少佐が、その大きな口に真白な前歯を見せて立っていた。
「きょうはどうしても君にたずねて置かなくちゃならんことがある。しかし、こんなところでは工合がわるい。もう一度学校に引きかえしてもらうか、それとも、わしの家に来てもらうか、どちらでもいいんだが……」
「学校の方がいいんです。」
 次郎は少佐がまだ言葉をきらないうちに答えた。
「そうか、しかし、学校だと、今からじゃかえって目立つぞ。」
「目立ってはわるいんですか。」
「わしはかまわんが、君が……」
「僕もかまわんです。」
 次郎は何かやけくそなような気持になって答えた。
「そうか、じゃあ、学校に行こう。」
 二人は待合室を出た。一丁ほど、どちらからも口をきかないで歩いていたが、少佐はすぐ近くの街角を指さしながら、
「わしの家は、あれからはいって五分ほどのところだがね。どうだい、わざわざ学校まで行かんでも、わしの家に来ては。学校ではもうお茶ものめんし、それに今頃は小使が職員室を掃除しているころだろう。」
 次郎は、少佐が何で自分をそれほど自宅につれて行きたがるのか、わからなかった。それには何かいやしい魂胆こんたんがあるのではないかと思った。で、是が非でも学校に引きかえしたいという気でいた。しかし、また一方では、皮肉とも好奇心ともつかぬ一種の感情がうごいていた。それに、自分がもし近い将来に、学校革新のために戦う機会が来るとすれば、少佐が何を考え、何を生徒に要求しようとしているのか、その本心を出来るだけくわしく知っておく必要がある。それには自宅に行ってゆっくり話す方がいいのかも知れない。そんな気むした。彼は、そうした考え方に何か不純なものを感じながらも、つい答えてしまった。
「お宅がそんなに近いなら、行ってもいいんです。」
「来てくれるか。」
 少佐は歯をむき出してにやりと笑った。そして、
「それがいいんだ。それがいいんだ。なあにたいていのことは固くならないで話しあってみれば、わけなく解決することなんだよ。それが学校でだと、お互いにそうはいかんのでね。」
 と、先に立って街角をまがった。
 少佐の住居は、古風なこの町の建物にしては珍らしく洋間のついた家だった。次郎はすぐその洋間に通された。彼は個人の家の洋間などまだ一度も中にはいって見た経験がなかったので、ちょっとまごついた。入口に棒立になって室内を見まわしていると、少佐は上衣をぬいで長椅子にほうり投げながら言った。
「窓ぎわがすずしくていい。そのとう椅子にかけたまえ。」
 それから、奥の方に向かって、
「おうい、学校の生徒さんだ。何かつめたいものを持ってこい。」
 と、大声で叫んだ。
 次郎は言われるままに少佐と向きあって籐椅子にかけたが、その部屋にまだなれないせいもあって、よけいに落ちつかない気持だった。
 彼は一わたり室内を見まわした。セットや装飾品のよしあしは彼には皆目かいもく見当がつかなかったが、それでも何かまぶしいような感じをうけた。そして、これまで訪ねた中学校の先生たちの貧乏ったらしい家の様子にくらべて、何というちがいだろう、学校の先生と軍人とでは、こんけにも生活にひらきがあるのだろうか、と思った。
「君、上衣をぬげよ。あついだろう。」
 少佐が言った。
「僕、シャツを着てないんです。」
「かまわん。はだかになるさ。どうせきょうはすっぱだかで話してもらいたいんだからね。ははは。」
 次郎は眼を光らせて少佐を見たきり、固くなっていた。
 そこへ、はでな浴衣を着た、三十五六の肥った女の人が、盆にサイダー瓶とコップとをのせてはいって来た。
「いらっしゃい。……はじめての方ですわね。」
 盆をテーブルの上にのせながら、そう言って、彼女は次郎と少佐とを見くらべた。
「うむ、はじめてだ。本田っていうんだ。五年の錚々そうそうたる人物だよ。」
「あら、そう。よくいらっしゃいましたわね。」
 次郎は二人になぶられているような気がしたが、素直に立ち上ってお辞儀をした。お辞儀をしながら見た少佐夫人の顔には白粉がこってり塗られており、まるっこい鼻の頭にはあぶらが浮いていた。
「何かたべるものを持って来いよ。」
「ええ、すぐ。」
 夫人が二人にサイダーをついだあと引っこむと、少佐はいかにも得意そうに言った。
「家内は兵隊を非常に可愛がる方だが、兵隊よりは学生の方がもっと好きらしいんだ。わしが配属将校になったんで大喜びさ。」
 次郎は不愉快になるばかりだった。やはり学校の方に行けばよかったと思った。で、ついでもらったサイダーにも口をつけず、むっつりしていた。
 そのあと、夫人が何度も出はいりして、羊かんやら西瓜やらを運んで来たが、そのたびごとに、少佐は、これまでに訪ねて来た生徒たちの噂をもち出して、夫人との間に冗談まじりの会話をとりかわすのだった。それは、いかにも自分たちが生徒に親しまれているのを次郎に示したがっているかのようであった。その中にはこんな対話もあった。
「しかし、こないだの鋤焼すきやき会には弱ったね、暑くて。」
「ほんとに、八畳の間に三つも七輪を置いたんですもの。生徒さんて、夏も冬もありませんわね。この暑いのに、わざわざ鋤焼をおねだりなさるなんて。」
「わしらも、士官学校時代には、真夏でもよくやったもんさ。」
「でも、みなさんは面白い方ばかりですわね。」
「それぞれに何かかくし芸までやるのには、わしもおどろいたよ。」
「あの詩吟のうまい方、何という方でしたっけ。あの時はじめていらっした方ですけれど。……」
「馬田だろう。」
「そう、そう、馬田さん。……あの方のお父さんは県会議員ですってね。」
「そうだ。今どきの議員にしちゃあ、めずらしい議員だよ。非常な国家主義者でね。」
 次郎は、馬田の最近の動静を、それでおぼろげながらうかがうことが出来たような気がした。しかし、そのために、彼の不愉快さは一層つのるばかりだった。彼はあくまでも口をきかず、出された食べものにも手をつけようとしなかった。
 それで少佐も夫人も次第に気まずそうな顔になり、おしゃべりもとだえがちになった。そして、とうとう夫人は次郎を尻目にかけるようにして、部屋を出て行ってしまった。
 夫人が出て行ったあと、少佐はしばらく何か考えていたが、急に厳格な態度になって言った。
「きょう君にわざわざ来てもらったのは、少し立ち入ってたずねたいことがあったからだ。」
 次郎は少佐をまともに見た。彼はきちんと姿勢を正していた。
「ゆうべ君はどこにいた。」
「うちにいました。」
「うちで何をしていたんだ。」
「友だちと会をしていたんです。」
「会というと何の会だ。」
「白鳥会です。」
「白鳥会というのは、これまで朝倉先生のうちでやっていたあの会のことか。」
「そうです。」
「それをどうして君のうちでやったんだ。」
「ほかにやる場所がなかったからです。」
「ほかにない? ふむ、……で会のある日は、いつもきまっているのか。」
「これまではきまっていました。毎月第一と第三の土曜でした。」
「昨日は、しかし、土曜ではなかったね。」
「ええ、昨日は特別です。」
「特別というと?」
「朝倉先生の送別会でした。」
「すると朝倉先生もむろん列席されたわけだね。」
「そうです。奥さんにも来ていただきました。」
 少佐は何かひょうしぬけがしたような顔をしていた。そして例の上眼をつかって、まぶたをぱちぱちさせていたが、
「すると、べつに秘密に集まったというわけではなかったんだね。」
 次郎はちょっと眼を見張ったが、すぐ、
「ええ、朝倉先生には秘密だったんです。」
 答えてしまって、次郎は自分の頬に皮肉な微笑がうかぶのを覚えた。
「朝倉先生に秘密っていうと。」
「先生は送別会なんかやっちゃいけないって言われたんです。」
「ふうむ、先生が? それはなぜかね。」
「なぜだか知りません。」
 次郎は少佐をにらむように見つめた。
「しかし、先生に秘密で集まったのに、先生が列席されたというのは変だね。」
「僕の父が先生を夕飯にお招きしたんです。」
「なるほど、すると、ゆうべのことは君のお父さんの計画だね。」
「僕が父にそうして貰いたいってねだったんです。」
「そうか。それで何もかもわかった。それで君のお父さんもその席に出られたというわけだね。」
 次郎はあきれたように少佐の顔を見ていたが、
「先生は、ゆうべのこと、もう何もかもご存じですか。」
「うむ。大体は知っている。私の方には、もういろんな報告があつまっているんだ。」
 と、少佐はいかにも勿体もったいらしく言ったが、
「しかし、君もよく白状してくれた。君の白状で事情が一層はっきりしたんだ。」
 次郎の耳には、白状という言葉が異様にひびいた。そして次の瞬間には、たまらない侮辱を感じてテーブルの下で両手をぎゅっと握りしめた。
 すると少佐は、急にはじめのくだけた態度になり、
「わしも、君にかくす気がないということがわかって、すっかり安心した。かくす気があるかないかが、実は君の幸福のわかれ目だったんでね。」
 次郎はやはりテーブルの下で手を握りしめたまま、つめたい眼で少佐を見かえしていた。
「それで、ついでにもう少したずねたいことがあるんだ。しかし、そのまえに、君に誤解されてもつまらんから、ちょっと断っておきたいことがある。それは配属将校としてのわしの立場だ。わしは、ただ君らに、右向け左向けを教えるために学校に来ているんではない。わしの任務は君らの思想善導なんだ。君らが国家というものに十分眼を覚まして、健全な思想の持主になってさえくれれば、形にあらわれた教練の成績なんか、実は大した問題ではないんだ。で、わしは、いつも、わしが配属されているかぎり、この学校から、思想問題でとやかく言われるような生徒を一名も出したくないと思っている。だからこそ、わしは、家内にもよく言いふくめて、君らと親しくして行くようにつとめているんだ。わしの気持をよく理解して、ひとつ、何もかも打ちあけたところを話してくれたまえ。君がそういう打ちあけた態度にさえなってくれれば、たとい君の過去にどんなことがあったにせよ、わしは全力をつくして君を保護するつもりだ。いいかね。……それともう一つ断って置きたいのは、わしは決して朝倉先生を人格的に疑ってはいないということだ。朝倉先生は、人格という点からいうと、実際りっぱな先生だった。学校中におそらく先生に及ぶほどりっぱな先生はあるまい。君らが先生を崇拝していたのも無理はないと思うんだ。ただ問題は先生の思想だね。先生は、何といっても、米英的なデモクラシーの思想から一歩もぬけ出てない自由主義者だったんだ。伊太利や独逸におこっている新しい国民運動にもまるで理解がなかったし、日本でせっかく芽を出しかけている政治革新運動に対しても、共産主義と紙一重だなんて言って非難していられたんだ。第一、先生には、日本の東亞における使命とか理想とかいうものが、はっきりつかめていなかったようだ。だから、なぜ若い軍人が非常手段にまで訴えて政治革新に乗り出すのかがわからなかったんだと思う。あれだけのりっぱな人格者でありながら惜しいもんだ。あれで思想的な頭のきりかえさえ出来たら、全く得がたい教育者だと思うがね。」
 次郎は少佐の言うことにも一理あるような気がしないでもなかった。とりわけ日本の使命とか理想とかいう言葉には、何かしら心がひかれ、その内容について、もっと説明してほしいという気もした。しかし、彼にとって何より大事なのは、人間の誠実だった。誠実な人間の思想だけが信するに足る思想だ。下劣な策略だけに終始している少佐のいうことに、何の権威けんいがあろう。そう思って彼は相変らず少佐の顔を見つめたまま、默りこくっていた。
 少佐は、次郎がまだ少しも自分に気を許していない様子を見てとると、さすがにむかむかした。生意気な! という気持が胸をつきあげるようだった。サイダーや、羊かんや、西瓜が、運ばれたままちっとも手をつけられず、テーブルの上にならんでいるのを見ると、いよいよ腹が立った。しかし、腹を立ててしまっては、せっかく私宅にひっぱって来た甲斐がない。学校でならとにかく、私宅にまでひっぱって来て失敗したとあっては、配属将校の面目にもかかわる。それに、こういう頑固な生徒を改心させてこそ、思想善導の責任も十分果せるというものだ。そう思って彼はじっと腹の虫をおさえた。そして、強いて微笑しながらたずねた。
「どうだい、わしの気持はわかるかね。」
「わかります。それで、どんなことですか、先生が僕にききたいと仰しゃるのは。」
 次郎はもう面倒くさそうだった。
「いや、大したことでもないさ。どうせ大たいわかっていることでもあるし、――」
 と、少佐はわざとのようにそっぽを向いて言ったが、
「つまり、大事なのは君らの思想なんだ。それで、朝倉先生が最後にどんなことを君らに言われたか、それがききたいんだ。それをきいたうえで、なお君に話すことがあるかも知れんがね。」
 次郎はちょっと考えた。が、思いきったように、
「これからは、良心の自由が守れないような悪い時代が来るから、しっかりするようにって言われたと思います。」
「良心の自由が守れない?」
「ええ、つまり時代に圧迫されたり、だまされたりして、誰もが自分の良心どおりに動けなくなるっていう意味だったと思います。」
「ふむ。それで君はどう思う。」
「ほんとうだと思います。朝倉先生は、うそは言われないんです。」
「先生が言われたから、そのまま信じるというんだね。」
「そうです。僕はりっぱな先生の言われることなら信じます。」
「しかし――」
 と、少佐は何か意見を言おうとしたが、思いかえしたように、
「まあいい。まあ、それはそれでいいとして、ほかに何か言われたことはないかね。」
「要点はそれだけだったんです。」
「満州事変については何も言われなかったんだね。」
 次郎はまたちょっと考えた。しかし、やはり思いきったように、
「言われました。ああいう事件は、どうかすると、国民に麻酔薬をのまして、反省力をなくさせる危険がある、といったような意味だったと思います。」
「そんなことを言われたのか。」
「僕、はっきり言葉は覚えていないんです。」
「しかし、大たいそんな意味だったんだね。」
「そうだと思います。」
「それについて君はどう思う? やはりその通りだと思うかね。」
「思います。」
「それも朝倉先生が言われたから信じるというんだな。」
「そうです。」
「ふうむ。……それで、ゆうべ集まったのは幾人ぐらいだった?」
「三十人ぐらいです。」
「名まえもむろんわかっているだろうね。」
「わかっています。」
「あとでわしまでその名前を届けてくれないかね。」
「そんな必要がありますか。」
「ある。」
「じゃあ、届けます。」
 二人の問答はもう何だか喧嘩腰だった。
「ついでに、もう一つたずねるが、――」
 と、少佐は次郎の顔をにらみすえながら、
「白鳥会は今後もつづけてやるつもりなのか。」
「やるつもりです。」
「朝倉先生がいられなくても?」
「ええ、やります。朝倉先生もつづけてやるのを希望していられるんです。」
「すると、これからはどこで集まるんだ。」
「僕のうちで集まります。」
「君のうちで? しかし、先生は?」
「先生はなくてもいいんです。」
「生徒だけで集まろうというんだね。」
「そうです。」
「そんなこと、君のお父さんに相談したのか。」
「しました。」
「許されたんだね。」
「ええ、許しました。」
「ふうむ、――」
 と、少佐はしばらく眼を伏せていたが、
「いったい、どうして君のうちで集まることになったんだ。」
「みんなで決めたんです。」
「しかし誰かそれを言い出したものがあるだろう。」
「言い出したのは朝倉先生です。」
「朝倉先生が? それはゆうべのことか。それとも……」
「ゆうべです。」
「すると、その時、君のお父さんも、その場にいられたんだね。」
「居りました。」
「すぐ賛成されたのか。」
「ええ、すぐ賛成しました。」
「まえもって先生と相談されていたようなことはなかったかね。」
「知りません。」
「これからの集まりには、お父さんはどうされる?」
「どうするか知りません。」
「朝倉先生に代って、みんなを指導されるような話はなかったね。」
「父にはそんなことは出来ないんです。」
 少佐はにやりと笑った。次郎は、その笑い顔を見ると、たまらなく腹が立って来た。彼はいきなり立ちあがって、
「僕、もう帰ってもいいんですか。」
 少佐の笑顔はすぐ消えた。彼はじっと次郎を下から見あげていたが、また急に作り笑いをして、
「いや、ありがとう。たずねることはもうほかにはない。しかし、君に忠告して置きたいことが一つ二つあるんだ。まあ、かけたまえ。」
 次郎はしぶしぶまた腰をおろした。少佐はひげをひねりはがら、眼をぱちぱちさせたあと、少しからだを乗り出して言った。
「君は案外単純な人間だね。」
 次郎自身にとって、およそ単純という批評ほど不似合な批評はなかった。彼は、それを滑稽にも感じ、皮肉にも感じて、われ知らずうすら笑いした。
「単純なのはいい。単純な人間は正直だからね。君のさっきからの答えぶりなんか、全く正直だった。その点で、わしはきょう君と話してよかったと思っている。しかし、単純も単純ぶりで、君はどうかすると怒りっぽくなる。それが君の一つのきずだ。気をつけるがいい。」
 少佐はそこでちょっと言葉をきって、次郎の顔をうかがった。次郎は、怒りっぽいという批評は必ずしも不当な批評でないという気がして、ちょっと眼をふせた。
「しかし、怒りっぽいぐらいは、まあ大したことではない。それよりか、――これは今の場合、特に君にとって大切なことだと思うが、――迷信家にならないように気をつけることだ。とかく、単純な人間は迷信に陥りやすいものだからね。」
 次郎にはまるでわけがわからなかった。少佐自身としては、そんな表現を用いたことが何か哲学者めいた、一世一代の思いつきのように思え、また、それがきっと次郎の急所をつくにちがいないと信じ、内心大得意でいたが、次郎にしてみると、迷信などという言葉は、あまりにも自分とは縁遠い言葉だったのである。
 二人はただ眼を見あっているだけだった。
「わからんかね。」
 少佐がしばらくして言った。
「わかりません。僕が迷信家になりそうだって仰しゃるんですか。」
「そうだよ、もうすでに迷信家になっているんだよ。」
「どうしてです。」
「朝倉先生の言われたことだと、君は無条件に信じているんだろう。」
 今度は多少の手ごたえがあったらしかった。次郎はじっと考えた。しかし、間もなく彼はきっぱりと答えた。
「信ずる価値のあるものを信ずるのは、迷信ではありません。」
 少佐は二の矢がつげなかった。しかしぐずぐずしているわけにはいかない。
「価値のあるなしは、どうして決めるんだ。」
「自分で決めます。」
「すると朝倉先生が言われたから何もかも信ずる、というわけではないんだね。」
「むろんです。自分で正しいと思うから信ずるんです。しかし、朝倉先生の言われたことで、これまで一度だって、まちがっていたと思った事はありません。」
「それが迷信だよ。現にまちがっていたればこそ、この学校を去られることにもなったんではないかね。」
「ちがいます。先生は権力けんりょくの迫害にあわれたんです。」
「何? 権力の迫害?」
「そうです。迫害です。そしてその権力こそ迷信のかたまりです。」
「本田! 言葉をつつしめ!」
「僕はあたりまえのことを言っているんです。先生こそつつしんで下さい。」
「默れ! 失敬な。」
「僕は道理に服従します。おどかされても默りません。」
 二人はいつの間にか立ちあがっていた。
「君は、いったい、秩序ということをわきまえているのか。」
「わきまえています。」
「わきまえていて、よくもそんな無礼なことが言えたな。」
「道理に従うのが秩序です。無法な権力に屈しては秩序は守れません。」
「何だと? すると君は、わしが無法な権力をふるっているとでも思っているのか。」
「思っています。朝倉先生は正しかったんです。権力の迫害にあわれたんです。それは間違いのないことです。それを間違いだといっておさえつけるのは無法です。無法な権力です。」
 次郎は真青な顔をして、頬をふるわせていた。少佐の顔も青かった。彼は歯を食いしばって次郎をにらんでいたが、ふうっと一つ大きな息を吐き出すと、言った。
「それほど強情を張るんでは、もう仕方がない。せっかく君のために計ってやるつもりだったが、わしもこれで手をひく。もう用はないから帰れ。」
 次郎はきちんとお辞儀をして部屋を出た。少佐は部屋につったったまま、そのうしろ姿を見おくった。玄関で、次郎が靴をはき終ってうしろをふりかえると、洋間と反対側の日本間の入口から、女の顔がのぞいていた。それはあざけるような眼をした少佐夫人の真白な顔だった。
 そとに出ると、彼の気持は案外おちついていた。言うべきことをはばからず言った、というほこらしい気持にさえ彼はなっていた。急にのどの渇きを覚え、むしょうに水がのみたかった。彼は駅前に公共用の水道の蛇口があるのを思い出し、大急ぎでそこまで行きつくと、存分にのどをうるおした。そして、ほっとした気持になって帰途についたが、間もなくまた思い出されたのは、朝倉先生の険しい眼だった。それは不思議なほどあざやかに彼の眼に浮かんで来た。
 とびあがり者!
 そう考えた時に、彼は、駅の待合室で同じことを考えた時以上に、ぎくりとした。それは、ついさっき曾根少佐に対してとった自分の態度が、やはり飛びあがりものの態度ではなかったか、と思ったからである。
 彼は車中の朝倉先生を想像した。夫人と向きあって、相変らず険しい眼をしてじっと何か考えていられる。先生の眼には、もう永久に、あの澄んだ涼しい光はもどって来ない。そんなふうにさえ彼には思えるのだった。
 彼は歩く元気さえなくなり、土手にたどりつくと松かげの熊笹の上にごろりと身を横たえた。そしてじっと青空に眼をこらしたが、その青空からも、朝倉先生の険しい眼が彼を見つめていたのだった。

一四 残された問題


 次郎は、それから小一時間もたって家に帰って来たが、二階では、大沢、恭一、俊三、それに道江の四人が、額をあつめるようにして、何か話しあっていた。
 次郎があがって行くと、四人は急に話をやめ、一せいに彼の顔を見た。彼は直感的に、四人がそれまで自分のことを話していたにちがいない、という気がした。そして、つっ立ったまま、ほんの一二秒彼らの顔を見くらべたが、道江の眼に出っくわすと、てれくさそうに視線をそらし、默って俊三と大沢の間にわりこんだ。大沢の左に恭一が居り、恭一と俊三との間に道江がいたのである。
 誰もしばらくは口をきくものがなかった。四人は次郎の顔をのぞくようにして、彼が何か言い出すのを待っているかのようだった。次郎はいよいよ変な気がした。
「どうだった?」
 大沢がとうとう口をきった。
「え?」
 と、次郎はけげんそうな顔をしている。
「配属将校に呼ばれたんだろう。」
「ええ、呼ばれました。……知っていたんですか。」
「僕たち、朝倉先生を見送ってから、日進堂で立ち読みをしていたんだよ。」
 日進堂というのは、駅前通りから曾根少佐の家の方にまがる角の本屋なのである。
「ふうん。」
 次郎は、学校に引きかえさないで自分から曾根少佐の自宅を選んだことが、今さらのように腹立たしかった。
「どんな話だった?」
「ゆうべのことです。」
「やっぱりそうだったんか。」
 四人は顔見合わせて、まただまりこんだ。次郎はすこし興奮しながら、
「僕、何もかもすっかり言っちゃったんです。いいでしょう。」
「言ったっていいさ。何も悪いことしたわけじゃないんだから。しかし、朝倉先生には気の毒だったよ。」
「先生がどうかされたんですか。」
「先生も、ゆうべのことで、憲兵の取調べをお受けになったんだよ。」
「いつ?」
「きょう、駅でさ。」
「駅で?」
 次郎は顔が青ざめるほどおどろいた。
 大沢が恭一に補足してもらいながら説明したところによると、こうだった。
 二人は俊亮といっしょに少し早目に駅に行って、見送りの名刺受付の用意をしていた。するとオートバイで乗りつけて来た三十歳あまりの背広の男が、少しせきこんだ調子で、「朝倉さんはまだですか」とたずねた。まだだと答えると、「見えたらすぐお会いしたいのです。」と言って、すぐ駅長室の方に行ったが、間もなくまたやって来て、待合室をぶらぶらしながら、時計ばかり見ていた。俊亮が、「お見送りでしたらお名刺をいただかして下さい。」と言うと、「いや、いいです、お会いすればわかるんですから。」と言う。とその時には、発車までにまだ五十分近くも間があった。
 それから十分あまりたって、朝倉夫人がやって来た。そして三人と話していたが、その男は夫人をじろじろ見るばかりで、何とも言わない。そのころまでは、見送り人もまだ見えなかったので、三人は夫人を相手にゆうべの話をし出して、笑ったり、しんみりなったりしていた。すると、その男がいつの間にか近づいて来て、四人のすぐうしろに立っている。顔をあらぬ方に向けて、耳の神経だけを四人の話声に集中しているといった恰好である。四人は、誰からともなく、口をとじてしまった。
 ちらほら見送りの人が見え出したころ、朝倉先生が人力車で乗りつけた。そして見送りの人たちと挨拶を交わしていると、いきなり、その男が、横から割りこむようにして、先生に一枚の名刺をつき出し、何か小声でささやいた。先生はちょっと困ったような顔をして俊亮の方を見たが、そのまま、その男といっしょに駅長室の方に行った。
 そのあと、見送りの人たちがあとからあとからとつめかけた。朝倉夫人は、その一人一人に、「先生は」ときかれて、返事にまごついているようであった。また一方では、先着の見送りの人からつぎつぎにある秘密なささやきがつたわって、変に緊張した空気があたりを支配した。その空気は、俊亮や、恭一や、大沢たちには、発車時刻が近づいて一般乗客の混雑が大きくなるにつれ、かえってはっきり感じられたのだった。
 改札がはじまった頃、朝倉先生はやっと駅長室から帰って来た。気のせいか、顔が少し青ざめており、いつもの澄んだ眼の底に、気味わるいほどの冷めたい光がただよっているように見えた。しかし、先生は落ちついた調子で、見送りの人たちにあいさつした。
「皆さん、今日はわざわざありがとうございました。つい、よんどころのないことで駅長室に行っていたものですから、ごあいさつがおくれまして。……」
 見送りの人たちの中には、先生に近づいて来て、固い握手を交わしたものも二三人はあった。しかし、その多くは、ちょうどその時、けたたましい音を立てて、駅前の広場を走り出したオートバイに気をとられていた。
 間もなくみんなは歩廊に出たが、朝倉先生は俊亮とならんで歩きながら、沈んだ調子で言った。
「さっきのは憲兵でしたがね、やはり、ゆうべのことが問題になっているようでした。しかし、かくすのは却っていけないと思いましたので、ありのままを言って置いたんです。あるいはご迷惑になるようなことになるかも知れません。白鳥会も、おそらくこれまでのように気持よくはやれなくなるでしょう。しかし、白鳥会はまあ仕方がないとして、何より心配なのは次郎君のことですが、……」
 俊亮はただうなずいてきいているだけだった。
 それから、先生はいよいよ列車にのりこむ直前になって、また俊亮に言った。
「まさかとは思いますが、万一にも次郎君が不幸を見るようなことがありましたら、すぐお知らせ下さい。とにかく中学は出ておく方がいいし、東京でなら何とか方法がありましょうから。」
 それにも俊亮はただうなずいたきりだった。
 大沢は、以上のことをぶちまけて次郎に話したあと、いかにも感慨かんがい深そうに言った。
「きょうは、さすがの先生も、よほど不愉快だったと見えて、最後まで気味のわるい眼付をしていられたよ。僕は、あんな眼付が先生にも出来るのかと思って、不思議な気がしたくらいだ。」
 次郎は、最後に見た朝倉先生の険しい眼を、もう一度はっきりと思いうかべた。そして、それが自分を非難する眼であるよりも、むしろ自分のことを心から心配してくれている眼だったということを知って、おどろきもし、うれしくも思う一方、強い愛情のしめ木にかけられる苦しさを覚えた。
 次郎の複雑な表情を注意ぶかく見つめていた恭一が言った。
「曾根少佐のうちではどうだったい?」
 次郎は、しばらく顔をふせて、考えこんでいるふうだったが、少し言いにくそうに、
「僕、とうとうけんかしちゃったんだ。」
「けんか?」
「まあ!」
 恭一と道江とが同時に叫んだ。次郎には、しかし、二人のおどろきが、なぜかうつろなものにきこえた。彼は、なぜということもなく、俊三の方に視線を転じたが、俊三は、むしろ好奇的な眼をして彼のつぎの言葉を待っているかのようだった。
「配属将校を相手にけんかなんかしたんじゃ、いよいようるさいね。」
 恭一が言うと、道江がすぐそのあとから、泣くような声で、
「次郎さん、だめね。あたし、きょう、朝倉先生がおたちになったってききましたから、次郎さんはどうしていらっしゃるのかと思って、おたずねしてみたのよ。すると恭一さんから、さっきの大沢さんのお話のようなことをきかしていただいたんでしょう。あたし、それだけでも、もう心配で心配でたまらなかったんですのに。……配属将校って、普通の先生よりよっぽどきびしいっていうんじゃありません?」
 次郎は、道江のそんな言草に真実性がないとは思わなかった。しかし、恭一と組みになって自分に話しかけて来るような彼女の態度が、彼の気持をかきみだした。また、彼女が駅での出来事を恭一にきいたと言ったのも、変に彼の耳を刺戟した。
 彼は道江の顔をちょっとのぞいたきり、すぐ恭一に向かって抗議するように言った。
「配属将校だから、僕、よけい默って居れなかったんだよ。」
「しかし、今の場合、少し無茶だったね。」
「そうよ、次郎さんはいつも気みじかすぎるわよ。」
 また道江が口をはさんだ。次郎は何かかっとするものを胸の中に感じながら、むっつりしていた。すると、大沢が微笑しながら言った。
「けんかって、まさか、なぐりあいをやったわけではないだろう。」
「むろん、そんなばかなことはしませんよ。」
「じゃあ馬鹿野郎とか何とか君の方で言ったんか。」
「そんな……そんな無茶なこと、僕だって言やしません。」
「じゃあ、どんなけんかだい。」
「議論をしただけです。」
「議論するのはけんかじゃないよ。しかし、どんな議論をしたんだい。」
「曾根少佐は卑劣ですよ。僕をたべ物で釣ろうとしたんです。だから、僕、よけいしゃくにさわって、思いきって言いたいことを言ってやったんです。」
 そう言って彼は、かなり興奮した調子で、ゆうべの会合のことをきかれたことから、最後に朝倉先生のことで思いきった激論をやったことを、出来るだけくわしく話した。しかし、話してしまうと、急に力がぬけたように、仰向けにごろりとねころんだ。そして、屋根うらの一点にじっと眼をすえながら、ひとりごとのように言った。
「僕、もう、学校なんかどうだっていいや。」
 恭一は深いため息をつき、道江はそっと涙をふいた。俊三は、次郎が興奮して話しているうちは、いかにも痛快だといった顔をしてきいていたが、最後には、やはり心配そうにみんなの顔を見まわした。大沢は、最初から最後まで、膝のうえに頬杖をつき、眼をつぶって、「うん、うん」と合槌をうっていた。しかし、次郎がねころんで、すてばちなようなことを言うと、何と思ったか、急にのっそり立ちあがり、默って階下におりて行ってしまった。
 大沢の足音がきこえなくなるまで、沈默がつづいた。誰も、大沢が何で階下におりて行ったのかをあやしんでいる様子はなかった。
「学校よして、どうするの?」
 俊三がしばらくしてたずねた。
「これから考えるさ。」
 次郎はねころんだまま気のない返事をした。だが、急に何か思いついたように、むっくり起きあがり、恭一に向かってたずねた。
「父さんは、きょう、朝倉先生を見おくったあとで、僕のこと何とも言っていなかった?」
「何にも言わないよ。」
「朝倉先生は、僕に万一のことがあったら、すぐしらせるようにって、駅で父さんに仰しゃったっていうじゃないか。」
「そうだよ。だから、僕、帰ってから大沢君と二人で、父さんがそれをどう考えているかたずねてみたんだ。しかし、父さんは、次郎のことは次郎にまかしておくさ、と言ったきり、まるでとりあってくれないんだよ。」
 次郎は、父の自分に対するそうした信頼の言葉をきくのが、今はむしろ苦痛だった。
 彼は考えた。自分はゆうべの会合のことで処罰しょばつされる理由は少しもない。もしそれを理由にして学校が自分に退学を強いるとすると、それは権力の不正な行使以外の何ものでもないだろう。しかし、きょう自分が曾根少佐に対して言った言葉の中には、世間の常識から考えて、たしかに不遜ふそんなものがあったようだ。それは、考えようでは、もうそれだけで退学処分の十分な理由になるのかも知れない。――もしそうだとすると、自分は、父の自分に対する信頼を裏切ったことになりはしないか。――
 しかし、また、一方では、彼はこんな気もした。父は自分が曾根少佐のような卑劣な人間に屈従することを決して喜びはしない。かりに自分が、少佐にこびることによって、ゆうべのことを帳消ちょうけしにされ、幸いに学校を卒業することが出来たとしても、父はそんな卒業を軽蔑こそすれ、決して心から祝ってはくれないだろう。
 そんなことを考えているうちに、ふと彼の頭にうかんで来たのは馬田のことだった。馬田の不良は生徒間には周知の事実だ。それは先生たちの眼にも映っていないわけはない。その不良が、このごろは曾根少佐の家に出入して、スパイの役目をつとめようとしている。しかもそれは、でたらめな、ただ自分を安全にし、自分のきらいな生徒をきずつけるためだけのスパイなのだ!
 馬田への連想は、彼の視裸を自然に道江の顔にひきつけた。そこには、たった今、彼のために泣いてくれた、うるんだ眼があった。二三日まえまでの彼だったら彼はその眼を可憐かれんにも思い、その眼に心から感謝したくもなったであろう。また、その眼をとおして、何か知らほこらしい気持を味わい得たのかも知れない。だが、今はその眼が、恭一の眼とならんでおり、そして恭一の心と調子を合わせているということだけで、彼の気持をもつらせ、戸まどいさせる原因になっていたのである。
 自分は朝倉先生を失った。――この意識は、むろん、もう彼にははっきりしている。
 自分は学窓生活を奪われようとしている。――この意識も、もう彼にとって決してぼんやりしたものではない。
 しかし、彼にとってのもう一つの不幸、――自分は自分の恋人を失おうとしている、という意識は、まだ彼の心の中で、そうはっきりしたものにはなっていなかったのである。それどころか、彼はまだ一度もはっきりと道江を自分の恋人として考えたことさえなかった。彼がこれまで馬田と烈しく戦って来たのも、彼自身の意識の表面にあらわれたところでは、あくまでも朝倉先生の一使徒として生きるためであり、道江を馬田の侮辱から護るために心をくだいたのも、彼の正義感に出発したもので、決して自分の恋の競争者に対する挑戦を意味するものではなかったのである。
 だが、今は事情がすっかりちがって来た。恭一はどんな意味ででも馬田ではない。彼は朝倉先生のもっともすぐれた使徒の一人であり、同時に自分の肉親の兄でさえある。しかも、自分の知るかぎりでは、彼はすでに道江の将来の夫に予定されている。それは、或は、まだ恭一自身の意志にはなっていないのかも知れない。しかし、「時」はいつ二人をはなれがたいものに結びつけてしまうかもわからないのだ。いや、すでに結びつけつつある。少くとも、道江の方では、彼女の手を伸ばせるだけ伸ばそうとしているのだ。現に彼女は、さっきから、恭一と心の調子をあわせることに一所懸命になっているのではないか。恭一とはふだん遠くはなれていて、ろくに言葉を交わしたこともない彼女が、きょう駅での出来事を恭一にきいたというのが第一おかしい。
 そんな考えが混沌こんとんとした一種の感情となって彼の心をかきみだした。そして、そのために、彼はいやでも道江に彼の「恋人」を見出し、恭一に彼の恋の競争相手を見出さないでは居れなくなって来たのである。
 恋の競争相手が遊蕩児ゆうとうじであり悪漢であることは、恋する人にとって決して不幸なことではない。それは、その人が自分の恋をはっきり意識してため息をつく必要もなく、しかも正義の名において、どのようにも勇敢に恋人のために戦うことが出来るからだ。何といっても、最も不幸な恋は、恋の競争相手が自分の敬愛する人であり、しかも恋の勝利者としての諸条件を自分よりもより多くめぐまれた人の場合であろう。そうした場合、恋する人は、否応いやおうなしに自分の苦しい恋をはっきりと意識させられるであろうし、同時に、恋人のためにいさぎよく戦いの矛をおさめなければならないであろう。しかも、そうすることによって、その恋はいよいよせつないものになって行くのだ。
 次郎は、道江の顔に自分の視線をひきつけられた瞬間から、次第にそうしたせつない恋の世界に自分の心がさそいこまれて行くのを感じた。運命は、彼のたましいのよりどころであった朝倉先生を彼から奪いとったその日に、そして、永い間彼が情熱を傾けて来た学窓生活から彼をい出そうとおびやかしはじめたその日に、彼にはっきりと恋を意識させ、しかもその恋の空しいことを意識させたのである。
 次郎の視線は力なく道江の顔をはなれた。彼はその視線を一たんは恭一の方に向けかえようとしたが、それは、彼自身でも意識しない心の底のある波動にさまたげられて、畳の上に落ちてしまった。
「次郎さん、やけになったりしちゃあつまりませんわ。お父さんに早くご相談なすったらどう?……ねえ、恭一さん。」
 道江が、まだぬれている眼を恭一の方に向けながら言った。
 恭一は、しかし、道江には答えないで、しばらく考えたあと、次郎に言った。
「どうだい、父さんにお願いして、今日のうちに曾根少佐のうちに行ってもらっては。」
「曾根少佐のうちに? 父さんが? 何しに行くんだい。」
「あやまりにさ。」
「ばかいってらあ。」
 次郎はどなりつけるように言って、鋭い眼を恭一にむけた。が、すぐその眼をおとして、
「あやまる必要があれば、僕が自分であやまるんだ。」
 彼は、父がまだ酒屋をしていたころ、自分の無思慮な行為のために、父といっしょに春月亭の内儀にあやまりに行った時のことを思いおこしていた。しかし、曾根少佐に対してとった自分の態度が、あの時のような無思慮なものであったとは、どうしても思えなかったのである。
「じゃあ、自分であやまりに行ったら、どうだい。」
「あやまる必要があるんかい。」
「あるよ。」
「何をあやまるんだい。僕の言ったことは間違っていましたって、あやまるんかい。」
 次郎の調子はいかにも皮肉だった。口もとにはかすかな冷笑さえ浮かんでいた。
「問答の内容じゃないよ。いけなかったのは君の態度だよ。」
「僕は乱暴な態度に出たおぼえはないんだ。帰りには、きちんと敬礼もして出て来たんだ。」
 次郎は、そんなことを言う自分が内心恥ずかしかった。しかし、なぜかあとへは引かれない気持だった。
「敬礼ばかりしたって、口で失礼なことを言やあ、駄目さ。権力で圧迫するなんて、真正面から生徒に言われたら、どんな先生だって怒るよ。」
「しかし、それが本当だから仕方がないじゃないか。ほんとうのことを言われて、それを失礼だと思うなら、思う方が間違っているだろう。」
 次郎は、言えば言うほど自分が片意地になって行くような気がして、不愉快だった。で、恭一がまた何か言おうとしているのをはねとばすように、ふいと立ち上った。そして、
「とにかくあやまる必要はないよ。僕が僕のやったことに自分で責任を負えばいいだろう。」
 そう言って階段の方に行きかけた。
「次郎さん! ほんとうにどうなすったのよ。」
 道江の泣くような声が彼を追った。つづいて俊三が、茶化すような調子で、
「問答無用は卑怯だなあ。もっとやれよ、僕が審判してやるから。」
 次郎は、しかし、ふりむきもしないで階段をおりかけた。
 が、それはちょうど、俊亮が階下から階段に足をかけた時だった。俊亮のうしろには、大沢が立っていた。
「どこに行くんだい。」
 俊亮が下からたずねた。
「畑に行くんです。」
 次郎は、おりかけた足を階上に逆もどりさせながら答えた。
「そうか。」
 と、俊亮は立ちどまって、次郎の顔をまじまじと見上げていたが、
「ちょっとお前に話があるんだ。やはり二階の方がいいだろう。」
 そう言って、そのまるっこい体をのそのそと階上に運んだ。それから、
「やあ、道江さんも来ていたんだね。」
 と、にこにこ笑いながら、みんなと円陣をつくった。
 が、それっきり、持っていた団扇うちわでゆるゆるとくびのあたりをあおぐだけで、いつまでも口をきこうとしない。
「僕、次郎君のさっきの話、いま階下で小父さんにも話したんだ。」
 大沢がとうとう先に口をきった。それでも俊亮はしばらく口をきかなかったが、急に団扇の手をやすめて次郎に言った。
「で、次郎、お前どう考えているんだい。」
「どうせ。学校にはもう行けないと思っているんです。」
 次郎は眼をふせて答えた。
「そりゃあ、もうわかっている。父さんは、お前が配属将校に呼ばれたときいた時に、きっとそんなことになるだろうと覚悟をきめていたんだ。朝倉先生が別れぎわに言われた言葉だけでは、まだいくぶん未練みれんを残していたがね。」
 みんなは顔を見合わせた。俊亮の言葉は、彼らにとって、全く意外だったのである。次郎自身は、なぐりとばされたようでもあり、ひょうしぬけがしたようでもあり、急に気が軽くなったような気持でもあった。
「だが――」
 と、俊亮はちょっと考えて、
「どんな態度で学校を退くか、その退きかたが問題だよ。それについて考えてみたかね。」
 次郎は面くらった。まさか父はストライキをやれというのではあるまい。だとすると、学校の言いなりになって、おとなしく引きさがるよりほかに仕方がないではないか。――
 次郎が考えこんでいると、俊亮は、だしぬけに、まるで次郎の問題とは無関係なようなことを言い出した。
「おまえがまだ七つ八つの子供のころに、近在のならず者がよくうちにやって来て、酒をのんだりしていたことがあるが、それを覚えているかね。」
 次郎は、「指無しのごん」とか「饅頭虎まんじうとら」とか綽名されていたならず者共が、酒をのんでけんかを始めたのを、父が仲にはいって取りしずめた時の光景を、今だにはっきり覚えている。で、そのことを言うと、俊亮は、苦笑しながら、
「そうそう、そんなこともあったね。ところで、ああいう無茶な連中でも、やはり人間は人間だったんだ。こちらの出方ひとつでは、良心というか何というか、とにかく人間らしい正直さを見せたもんだよ。世の中に、腹の底からの悪人というものは先ずないと思っていいね。」
 次郎は、最初、父が自分をならず者あつかいにしようとしているのではないかと思って、ちょっと意外な気がした。しかし、そうではないらしかった。彼は安心しながらも、ますますわけがわからなかった。
「腹の底からの悪人もないが、しかし、また一から十まで完全な善人もない。たいていの人間はやはりならず者だよ。朝倉先生のような人はべつとして、学校の先生でも、先ず百人が百人、ある程度のならず者だと言ったって差支えないと思うね。軍人なんか、このごろは相当のならず者になってしまっているよ。考えようでは指なしの権や、饅頭虎なんかより、よほど始末のわるいならず者だろう。すばらしく大がかりな無茶をやるからね。」
 俊亮の言葉の調子には、少しも誇張したわざとらしさがなかった。あたりまえのことをあたりまえに言っている、といった調子だった。しかし、そうであればあるほど、きく人の方には、それがかえって奇抜に感じられるのだった。みんなの顔はいつの間にか微笑していた。俊三などは、今にも拍手でもしそうな様子だった。俊亮はみんなのそんな様子をちょっと見まわしたあと、次郎に眼をすえ、
「そこで、いよいよ次郎の問題だが、どうだい、これだけ言えばもうわかるだろう。」
 次郎には、しかし、まだ返事が出来なかった。彼は、急に沈痛な顔をして考えこんだ。大沢も、恭一も、道江も、しきりに首をかしげた。俊三は、大して興味はなさそうだったが、それでもやはりちょっと首をかしげた。
 俊亮は、にこにこしながら、
「しかし、そういそぐことはない。あすあたりは多分学校の肚もきまるだろうから、こちらの肚もそれまでにきめて置けばいいんだ。じゃあ、それまで宿題にしておくかな。」
 そう言って立ち上った。そして階段をおりようとしたが、また立ちどまつて次郎をふりかえり、
「朝倉先生には、私からすぐ手紙をかいてお願いして置くよ。この方はなるだけ早い方がいいからね。」
 間もなく夕食だった。大沢は当分厄介になるつもりで来ていたし、道江もしばらくぶりだというので、いっしょに夕食によばれた。お祖母さん、お芳、それにお金ちゃんを加えて九人が、男と女とにわかれて二つの食卓をかこんだ。次郎の問題には少しもふれず、俊亮と大沢を中心に、腹をかかえるようないろんな問答がとりかわされ、このごろにないにぎやかな夕食だった。
 夕食がすむと、次郎たちはすぐ散歩に出た。道江もいっしょだった。せんだん橋を渡り、川の土手にそって一丁ばかり上ると、その左手に、旧藩主の茶亭のあとがあり、そこの庭園は誰でも自由にはいれることになっていた。五人はその庭園にはいり、池の近くの芝生に腰をおろした。
 話題は自然次郎の問題に集中された。しかし、もう誰も次郎の処分の有無を気にかけているものはなかった。道江でさえ、「小父さまがあんなお気持でいて下さるから大丈夫ね」と言い、また、「東京に行って朝倉先生のお世話になれたら、次郎さんは却っておしあわせだわ」とも言った。問題の中心は、次郎が俊亮に与えられた課題だったが、これは雲をつかむようで、みんなが始末にこまった。恭一は、
「立つ鳥はあとをにごさず、といったようなことかね。」
 と、言い、大沢は、
「いや、学校側に一本釘をさしておけ、というんだろう。」
 と言ったが、結局、そんな程度のぼんやりした解決以上には進展しそうになかった。
 次郎本人は、その問題ではほとんど口をきかなかった。彼はむっつりして、いつも池の水ばかりを見つめていた。そして、みんなの話が行きつもどりつしている間に、ふいと立ちあがって、ひとりで池の向側の築山をのぼり、その裏側の竹林の中にはいって行った。
 彼は問題をひとりで考えてみたかったし、そうでなくても、恭一と道江をまえに置いては、彼の考えは、とかくみだれがちになりそうだったのである。
 竹林の中に腰をおろした彼は、うずくまるように首をたれて考えこんだ。もう日は暮れかかっており、やぶ蚊がしきりに襲って来た。彼は、しかし、それを平手でうつだけで、立ち上ろうとはしなかった。指なしの権、饅頭虎、曾根少佐、西山教頭、馬田、そうした人たちの顔がつぎつぎに彼の考えの中を往復した。そのうち、ふと、ひとりの毒々しい女の顔が浮かんで来た。それは春月亭の内儀の顔だった。と、その瞬間、ふしぎにも、彼の心にさっと明るい光が流れこんだ。それは、春月亭の問題のあとで、朝倉先生をたずね、ミケランゼロの話を聞かされたことを思い出したからだった。
「この石の中には女神がとりこにされている。私はこれを救い出さなければならない。」
 そう言って、こけむした、きたない石の中から美しい女神の像を刻み出したミケランゼロの心を、父は自分に求めているのだ。父と朝倉先生とは、どうしてこうも人生に対するものの考え方の根柢こんていが一致しているのだろう。そして自分は、何といういい父をもち、何というすぐれた先生を恵まれたことだろう。
 彼は勢いよく立ちあがった。そして、竹林の密生した葉の間からもれる星の光を仰いだ。
「おうい、次郎君――。」
 大沢の愉快などら声が、そのとき池の向こうからきこえた。
「おうい。」
 と、次郎の答えも元気でほがらかだった。
「もうかえるぞうっ――」
「ようし、すぐ行く――」
 五人は間もなく家に帰ったが、次郎は、恭一と道江が暗くなった道を、おりおり並んで歩くのでさえ、今はさほど苦にならなかった。
 俊亮は、ちょうど朝倉先生あての手紙を書き終えて、お祖母さんが一人で涼んでいる座敷のえんに出たばかりのところだった。手紙は宛名を墨書して座敷の机の上にのせてあったが、それは俊亮の手紙にしてはめずらしく分厚なものだった。
 みんなはすぐ俊亮をとりかこんだ。しかし、誰も、さっきからの課題のことを言い出すものがなかった。それは、次郎の問題をお祖母さんにきかれてはまだ悪いだろう、と察したからであった。すると、次郎がだしぬけに、
「僕、朝倉先生にこんな話をきいたことがあるんです。」
 と前置して、ミケランゼロの話をし出した。そして、話し終ると、それについてべつに説明や感想をのべるのでもなく、ただ真剣な顔をして、じっと父の顔を見つめていたが、しばらくして思い出したように言った。
「これが父さんの宿題に対する僕の解答です。」
 大沢はじめ、恭一も、俊三も、道江も、ぽかんとして次郎の顔を見た。俊亮は、縁の柱によりかかり、かなり永いこと眼をつぶっていたが、やがて眼をひらくと言った。
「満点以上だ。心の持方としてはそれ以上の答案はあるまいね。父さんも、大たい似たようなことを考えてはいたが、どこかにまだかすみたようなものがこびりついていたようだ。私の立場からの対立観で、相手を向こうにまわすという気が少しでも残っていると、どうも満点はとれないものだね。」
 それからまたしばらく眼をとじたあと、
「しかし、大事なのは実際の場合だよ。実際の場合に心が乱れては、女神どころか、がらくた道具も出来はしないからね。その点では、或いは父さんの方が次郎よりうわ手だかも知れんぞ。はっはっはっ。……まあ、しかし、これはその場になってみんとわからん。どうせ父さんも学校には顔を出すことになるだろうが、その時がほんとうの試験だ。」
 次郎は、もうその時には、眼をふせて、じっと縁板の一点を見つめていた。
「俊亮も、何か学校で試験があるのかい。」
 お祖母さんが、けげんそうな顔をして、ひょっくりたずねた。
 みんなが一度にふき出した。次郎は、しかし、ちょっと苦笑しただけで、またすぐ眼をふせた。

一五 明暗交錯


 翌日、学校では、もう朝から、朝倉先生が駅で憲兵に取調べられたことや、次郎が駅からの帰りに曾根少佐に呼びつけられたことなどが、生徒間の噂の種になっていた。そしてその原因が、白鳥会員だけでもよおされた朝倉先生の「秘密な」送別会にあったということは、一部の生徒の次郎に対する淡い反感の種になっているらしかった。
「白鳥会で朝倉先生を独占しようなんて考えるのが、第一まちがっているよ。」
「本田は、はじめっからそんな考えでやっていたにちがいないんだ。血書を書いたことだって、新賀のほかには誰も知ったものはいなかったんだろう。」
「要するに今のさわぎは白鳥会のために起ったようなものさ。」
「白鳥会のためならまだいいが、本田個人のためだったんじゃないかな。」
「そんなことを考えると、何だかばかばかしくなって来るね。」
「しかし、もうすんだことだ。それに、あと始末は本田がひとりでつけるだろう。」
「はっはっはっ。」
 そんな会話も取り交わされていた。
 午ごろになって、職員室の掲示用の黒板に、つぎの文句が記されていた。
「本日放課後、第一会議室において緊急職員会議開催につき、事務職員以外はれなく参集せられたし。」
 それを最初に見つけた一生徒は、鬼の首でもとったように、すぐそのことを生徒仲間につたえた。すると生徒たちはまた新しい話題で興奮しはじめた。朝倉先生を見送って、ともかくも事件が一段落ついたあとの最初の職員会議であり、それに、第一会議室が、いつも秘密を必要とする会議に使われるのを生徒たちはよく知っていたので、それが何を意味するかは、彼らにもすぐ想像がついたのである。
「いよいよ処罰会議だぜ。今度は相当きびしいかも知れんよ。」
「何しろ、曾根少佐が頑張っているからね。」
「しかし、曾根少佐は問題をあまり大きくしたくない考えだっていうじゃないか。」
「まさか。あいつにそんなやさしい考えなんかあるもんか。」
「やさしい考えからじゃないよ。それがあいつの手なんだよ。」
「手だっていうと?」
「自分が配属将校でいる間は、思想問題は大丈夫だっていうところを見せたいんだってさ。」
「ふうん。そんなことを考えているんか。じゃ処罰は案外軽いかな。」
「僕は軽いと思う。退学なんかあまりないんじゃないかな。第一、あんまりひどいことをやると、僕たちもだまっておれんからね。そうなると、また学校が困るだろう。」
「曾根少佐も、それを心配しているんだよ、きっと。」
「自分の名誉のためにか。」
「ふっふっふっ。」
「しかし、一同訓戒程度ですんだら、蟇の効用もたいしたもんだね。」
「そんなわけには行かんよ。白鳥会の秘密送別会のことは、憲兵隊が問題にしているというし、曾根少佐だって、もうどうにも出来んだろう。」
「少くとも、本田だけは危いね。血書のこともあるし。」
「あいつ、少しにのりすぎていたんだ。仕方がないよ。」
「そのくせ、ストライキだけにはいやに反対していたんだが、あれはやっぱり朝倉先生に対する忠勤ちゅうきんのつもりだったかね。」
「さあ、どうだか。それも一種の手だったかも知れんぜ。」
「そうだと本田もあてはずれだね。曾根少佐は今でも本田をストライキの煽動者せんどうしゃだと見ているっていうじゃないか。」
「そうらしい。本田は陰険で表と裏がいつもちがっている、と言っているそうだ。」
「今になって、本田も、思いきってストライキをやらなかったのを後悔しているだろう。」
 こんな噂は、しかし、必ずしも、次郎に反感をもった生徒たちの間だけの噂だとばかりはいえなかった。
 彼らの大多数はもうほとんど事件に対する熱からさめてしまって、今さら処罰されるのがばかばかしいという気になっていた。で、処罰の範囲はんいが最小限度に食いとめられ、自分たちはそのけん外に立ちたいという、無意識的な希望的観測から、自然、次郎というのっぴきならないらしい「犯罪者」と、その犯罪者を最もにくんでいるらしい曾根少佐とに、噂の焦点を集中していたのである。
 そうした種類のさまざまな噂が、あちらこちらで飛んでいる間に、どこからともなく、誰もそれまで予感もしなかった、全く新しい一つの噂がまいこんで来た。それは、次郎は女の問題で退学処分になるらしい、という噂であった。しかも、この噂は、非常な速度で全校にひろがった。そして、次郎に対する反感からの噂やら、希望的観測からの噂やらの中をころげまわっているうちに、しまいには、ちょうど雪達磨ゆきだるまがふとるように、十分重量のある噂になってしまったのである。
 その噂というのは、こうであった。
 学校は、朝倉先生の問題を表面に出して生徒を処罰することはやらないらしい。それを表面に出すと、処罰者は一人や二人ではすまないし、また、それには、生徒の一人一人についてもっとくわしく取調べなければならない。そんなことをしているうちに、さわぎを再発させるようなことがあっては面倒である。それに、第一、留任運動のために歎願書を出したというだけでは、何としても処罰の理由にはならない。それを思想問題に結びつけることは、朝倉先生が去ったあとでは、もう大してその必要もないし、また、それは曾根少佐が好まないところだ。しかし、そうかといって、血書を書いたり、秘密に送別会をやったりして、朝倉先生のためにあれほど仂いた次郎を、そのままにして置くわけにはいかない。曾根少佐も、次郎だけは何とかして学校から放逐したい、と考えている。そこで曾取少佐と西山教頭とが相談して、非常にずるいことを考え出した。それは女の問題を理由にして次郎を処罰することだ。校長も、ほかの教師も、二人の言いなりになるのだから、今日の会議で、多分そうきまるだろう。――
 と、いうのである。
 この噂が、それほど筋のとおったものになるのには、むろんそれ相当の理由があった。それは馬田一派の活躍であった。彼ら、とりわけ馬田自身は、次郎を事件の犠牲者にして英雄に仕立てあげるよりも、女の問題で彼に汚名をきせることに、より多くの興味をもっていたし、また、このごろ曾根少佐の家に出入することによって、信ずべき情報の提供者として有利な地位を占めていたのである。
 次郎は、この日も、あたりまえに学校に出ていた。しかし、そうした噂は、いつも彼の耳から遠いところで語られていた。また、彼自身それに近づいて行こうともしなかった。彼は、休み時間になると、ひとりで校庭をぶらつきながら、いかにも感慨深そうに、あちらこちらを見まわしているだけだった。
 誰よりもこの噂で気をくさらしたのは、新賀と梅本だった。二人は最初のうちそれを一笑にしていたが、生徒たちのどのかたまりででも同じようなことが語られているのを聞くと、とうとうたまりかねて、次郎を人けのない倉庫のうらに誘いこみ、なかば詰問するように、女の問題について彼自身の説明を求めた。
 次郎はさびしく微笑して、しばらく二人の顔を見つめると、かなり烈しい調子で言った。
「僕はどうせ退学さ。それはもうきまうている。昨日の曾根少佐との問題があるからね。僕自身でも、もうこの学校には未練がないんだから、甘んじて処分はうけるよ。しかし、不都合の行為あり退学を命ず、というような掲示が出た時に、それを女の問題だと思われたんじゃ、僕も残念だよ。だから、これだけは、はっきり君らに事情を話して置きたい。実は、これまで誰にも話すまいと思っていたんだが、そんな宣伝をする奴は馬田にちがいないと思うから、馬田のためにも言って置く必要があるんだ。――」
 そう言って彼は、彼がこれまで道江のために馬田に対してとった態度をかくさず説明した。彼は、しかし、説明しているうちに、心の奥に何か知ら暗い影がさすような気がして、自分ながら自分の言葉の調子がみだれるのをどうすることも出来なかった。彼はその影をはらいのけるように、最後に調子を強めて言った。
「僕には何もやましいことはない。僕は僕の信やることをやったまでだ。それがいけないというんなら、もう仕方がないさ。しかし、君らだけには信じてもらいたいね。」
 梅本も新賀も、むしろ驚いたように次郎の顔を見つめていた。すると、次郎は、また淋しく微笑して、
「とにかく僕ひとりが犠牲ぎせいになれば、何もかもそれで片づくんだ。そう思うと、女の問題だろうと何だろうとかまわんという気もするね。ただ僕が心配しているのは、送別会のことで君ら二人に迷惑がかかりはしないかということだ。あれは僕があくまでも全責任を負うよ。実際責任は僕にあるんだからね。そのつもりで、学校が何と言おうと、君らは頑張ってくれたまえ。」
 二人はそれに対しては何とも答えなかった。梅本は、すぐ、くってかかるように言った。
「君ひとりが犠牲になったからって、何も片づきはせんよ。僕は、もし学校に残ることが出来れば、さっそく馬田の征伐をはじめたいと思っているんだ。」
 すると新賀が、
「そうだ。そしてそのつぎは西山と曾根だ。僕はそのためになら、僕の海軍志望を棒にふってもいい。」
 次郎は一瞬、おどりあがりたいほどの興奮を覚えた。しかし、つぎの瞬間には、彼はその興奮をおさえようとして、心の底でもがいていた。彼はしばらくして言った。
「そんなこと、ばかばかしいよ。こんなちっぽけな中学校のことなんか、もう、どうだっていいんだ。僕たちには、もっと大きな仕事が待っているんだから。」
 彼は、しかし、言ってしまって何かうつろな気がした。それがまだ彼の心の奥底からの声になっていなかったことは、彼自身が一番よく知っていたのである。
 その日は、それ以上に学校に大したことも起らなかった。生徒たちは、職員会議に心をひかれながらも、授業が終るとさっさと退散した。それは、彼らの大多数に、自分たちは安全地帯にいるという自信があったせいでもあったが、また一つには、学期試験が近づいているのに、朝倉先生の問題で、誰もがその準備をおろそかにしていたせいでもあった。事件最中には、ストライキをあてにして、さわぐことだけに夢中になっていた連中ほど、今では試験が気にかかっていたのである。
 それでも、その翌朝になると、生徒たちは、やはり、いくぶん興奮した眼をして、いつもより早く学校に集まって来た。そして、誰もが職員会議の結果について知りたがった。いろんな新しい想像や臆測おくそくが間もなく校内にみだれ飛んだことはいうまでもない。その中には、処罰は昨日の予想を裏切って非常に重く、つ範囲も校友会の委員全部に及ぶらしい。退学は少くも五六名、停学は十名以上で、その他は謹慎きんしんだ、といったような、恐ろしく刺戟的なものもあった。
 しかし、そうした想像や臆測も、一時間目の授業が終ったころには、もう完全に、一つの情報によって打破られ、統一されていた。それには、昨日ほど面倒な手数をかける必要もなかったのである。というのは、その情報というのが、これまで職員会議の秘密をさぐるのに一度も失敗したことのない生徒の口から発表されたものだったからである。
 いったい日本では、中等学校以上の学校で、職員会議の内容が生徒につつぬけにならない場合は極めてまれなのであるが、それは、生徒に会議の秘密でも洩らさなければ安心して教室に出られないほど、頭と心の貧しい先生たちや、学校の中で御殿女中式の勢力争いでもやっていなけれは人生は面白くない、と心得ているような先生たちが、かなり多数だからである。次郎たちの学校も、決してその例外ではなかった。だから、ひとりの物ずきな、そして先生の弱点をよく心得ている生徒がいて、職員会議のすんだ日の夕食後にでも、散歩がてら先生の門をたたくと、彼は、煎餅でもおごってもらいながら、大した苦労もなしに、先生自身の口から、会議の内容を細大もらさすきき出すことが出来たわけなのである。
 むろんそうした生徒は、先生に、「これは君までの話だ、他の生徒には絶対にもらさないように。」と懇々こんこんめされるのが常である。しかし、その生徒がそうした口留めを守るほど道徳的でないこともむろんである。それは、先生が職員会議の秘密について道徳的でないのと同様なのである。彼は、誰先生に直接きいて来たんだという確証を与えることによってのみ、生徒たちに喝采かっさいされ、彼自身の功績を誇りうるということをよく知っているのである。
 さて、そうした種類の一生徒によって、全校にばらまかれた権威ある情報というのは、こうであった。
 次郎は諭旨ゆし退学にきまった。そのほかには処罰者はない。次郎の諭旨退学も、形の上では保証人からの願出による退学になるわけだから、正式には処罰者は一名もないことになるのである。
 次郎の諭旨退学の理由は、教師に対する反抗心が強く、すでに二年生のころから宝鏡先生に対して不遜の言動があり、最近では、配属将校に対してさえ甚しく無礼な態度をとり、しかも反国家的な言辞げんじろうしてはばからないので、他の生徒に対する悪影響が甚しいし、学校としては到底教育の責任を負うことが出来ないというのである。
 女の問題は、生徒間にはすでに知れ渡っており、その証拠を握っている生徒もあるが、周囲に及ぼす迷惑を考慮し、この際それは問題にしないことになった。
 なお、次郎に対する同情的意見を述べた先生が二人ほどあった。その一人は、次郎の学級主任の先生、もう一人は、この会議の内容をもらした某先生自身であった。しかし、次郎の保証人を納得なっとくさせるためには全職員一致の意見でなければ工合がわるい、という校長からの希望もあり、大勢がすでにきまっていたので、二人共強いては主張しなかった。
 だいたい情報の内容は以上のようなものであったが、この情報は、三時間目の授業中、次郎が、即刻召喚そっこくしょうかんの紙片を受取って、教室を出て行ったことによって、もはや一点の余地を残さないものになってしまった。――即刻召喚の紙片というのは、「即刻」という大きな朱印の下に、呼び出す先生の名と呼び出される生徒の名とを記した小さな紙片でしかなかったが、それが授業の最中に給仕によって教室に持ちこまれるということは、呼び出される生徒にとって、いつも極めて重大な意義をもっていたのである。
 次郎は、教室を出るまえに、机の中の自分の持物をのこらず雑嚢にしまいこんだ。それがまたみんなの注目をひいた。彼はその雑嚢を肩にかけると、ほとんど無表情に近い顔をして生徒たちを見まわし、それから先生におじぎをして教室を出て行ったが、その様子には、先生も生徒たちも何か異様な圧迫を感じたらしく、彼の足音がきこえなくなるまで教室は水の底のように静まりかえっていた。
 次郎を呼び出したのは、学級主任の黒田先生だった。次郎は、この先生とはふだん特別の深い交渉はなかったが、現在の先生の中では一番いい先生だと思っていた。で、即刻召喚の紙片を手にした瞬間、この先生が自分の学級主任であってくれてよかった、という気がしたのだった。
 次郎の顔を見ると、黒田先生はすぐ自分の席を立って、彼を監督室の隣の室につれて行った。宝鏡先生の事件以来、この室にはいるのは四年ぶりである。テーブルには相変らず虫のくった青毛氈あおもうせんがかけてあり、「思無邪」と書いた正面の額も、昔どおりであった。
 二人が腰をおろしてからも、黒田先生はなかなか口をきかなかった。そして、じっとテーブルの一点を見つめていたが、二三分もたったころ、やっと思いきったように言った。
「きのうは大変な失敗をやってくれたね。」
「すみません。」
 と、次郎は眼をふせた。が、すぐ、
「しかし、あれでけりがついてかえってよかったと思っているんです。」
「けりがついたっていうと?」
「僕、退学になるんでしょう。」
 黒田先生は眼を見はった。次郎は、その眼に出っくわすと、かえって気の毒そうに、自分の視線をおとし、
「僕、もうこないだから、この学校には居られないような気がしていたんです。」
「どうして?」
「何だが僕の良心がゆるさなかったんです。」
「良心が? 何かほかにわるいことでもしていたかね。」
「そんなことありません。僕、そんな意味で言っているんではないんです。」
「じゃあ、どうなんだ。」
「僕は――」
 と、次郎はしばらくためらっていたが、
「僕は、不正な権力の下で勉強するのが、不愉快で仕方がなかったんです。」
 黒田先生は、もう一度眼を見張った。そして永いこと次郎を見つめたあと、ふうっと大きな息を吐き、そのまま眼をつぶってしまった。
 どちらからも口をきかない時間が、おおかた五分間もつづいた。次郎は何か悲しい気がした。宝鏡先生の事件のおり、この室で朝倉先生に訓戒された時のことがいつの間にか思い出されて来た。すると、朝倉先生の澄んだ眼が、そして最後のあの険しい眼が、はっきりうかんで来た。彼は、もう声をあげて泣きたいような気持だった。
 黒田先生は、やっと自分で自分を励ますように、
「君がそんなふうに考えているんなら、私はもう何も言う事はない。いや、何も言う資格はないといった方が適当かも知れないね。先生はみんな弱い。私もむろん弱い。ほんとうに強いのは朝倉先生だけだったんだ。その先生ももう去られたし、君らも淋しいだろうね。」
 次郎の眼からは、とうとう涙がこぼれ出した。
「先生、僕、生意気言ってすみません。ゆるして下さい。」
 彼はそう言うと、テーブルに顔をふせてしまった。
「許してもらわなければならんのは、私だよ。」
 黒田先生は、いきなり手をのばして、次郎の肩をつかみながら言った。その眼にも、もう涙がにじんでいた。
 次郎はしばらくして顔をあげたが、
「先生だけにでも、僕の気持、よくわかっていただいて、僕はうれしいのです。もういつ処分されてもいいんですから、校長室につれていって下さい。」
「校長室になんか、行かなくてもいいんだ。君が得心とくしんしてくれさえすれば、それでいいんだから。」
「しかし、校長先生から言い渡しがあるんでしょう。」
「言い渡しなんかないよ。諭旨退学ということになっているんだ。」
「諭旨――すると僕の方から退学願が出せるんですね。」
 次郎は眼をかがやかした。形式だけでも自発的に退学が出来るということが、妙にうれしかったのである。
「そうだよ。それもきょうあすでなくてもいい。もし近いうちに転校先でも見つかるようだったら、その方の手続きをしてもいいんだ。」
「それが出来るんでしたら、僕、朝倉先生にお願いしてみたいんです。」
「それがいい。私からもお願いしてみよう。東京には私立も沢山あるしね。」
 次郎は、もう処罰されるために呼び出された生徒のように見えなかった。
 黒田先生は淋しい笑顔になって立ち上りながら、
「じゃあ、君、ここでしばらく待っていてくれたまえ。君のことだから、ひとりで帰っても大丈夫だとは思うが、きょうはやはりお父さんといっしょに帰ってもらうことにしよう。お父さんは、実は、もうさっきから、学校にお見えになっているんだ。」
 次郎は、さすがにはっとしたように顔をあげて、室を出て行く黒田先生のあとを見おくった。
 そのころ、俊亮は校長室で、校長、西山教頭、曾根少佐の三人を相手に対談していたのだった。
 彼は、けさ、次郎がうちを出ると間もなく、学校からの呼出状をうけとって出て来たのであるが、先ず黒田先生から懇談的に、つづいて校長室で校長自身からきわめて用心ぶかく、次郎の諭旨退学の理由を説明されたのである。校長室には西山教頭も立ち会っていた。俊亮は、黒田先生とはわだかまりなく話が出来たが、校長からの説明の時には一言も口をきかず、ただ微笑しているだけだった。そして説明をきき終っても納得したのか、しないのか、一向要領を得ないような顔をして、かなり永いことだまっていた。校長は、それがよほど心配だったらしく、「これは全職員にはかりまして、一人の異議もなく決定いたしましたことで。」とか、「何分多数の生徒をお預りいたしています関係上、心ならずもこういうことになりました次第で。」とかいろいろそういったことをならべ立てた。
 俊亮はそんな言葉に対しても、ほとんど聞き流すような態度でいたが、おしまいに、ひょいと忘れものでも思い出したかのように言った。
「配属将校の方、曾根少佐と仰しゃいましたかね。――その方にちょっとお目にかからしていただけませんでしょうか。」
 校長は鼻をぴくりと上にすべらせて、西山教頭を見た。すると、西山教頭が、
「配属将校は生徒のことでは直接責任がないんです。処分は学校としてやるんですから。」
「むろん、そうだろうと存じます。」
 と、俊亮は西山教頭の方に眼をうつして、
「ですから、次郎の処分について私は配属将校の方にとやかく申そうというのではありません。」
「するとどういうご用件で?」
「次郎という人間をどうご覧になっているか、それを直接おききしたいのです。」
「それは、校長からさきほどおつたえしました通りで、あらためておききになる必要はないと存じますが。」
「私は、直接おききしたいと申上げているのです。」
「すると、校長をご信用なさらない、というわけですか。」
「信用するとか、しないとかいう問題ではありません。人の子の親として、一度、直接お会いしてうけたまわっておきたいのです。」
 俊亮の態度は厳然としていた。
 西山教頭は、校長とちょっと眼を見あったあと、変に言葉の調子をやわらげ、
「しかし、何分、ほかの職員とはちがいますので、生徒の処分問題などで、父兄の方に直接会っていただくというようなわけには参りにくい点もありますし……」
「学校の一職員としてではなく、人間としてお会い下さるというわけには参りませんか。」
「どうも――」
 と、西山教頭は、わざとらしく笑って頭をかきながら、
「そんなふうにおっしゃられると、いよいよ事が大げさになるような気もいたしますが……」
「少しも大げさになることはありません。まじめなことではありますがね。」
「どうも――」
 と、西山教頭は、今度は冷笑に似た苦笑をもらした。すると、俊亮はきっとなって、
「いやしくも、次郎という一人の人間に、新しい運命、――と申しては或いは大げさになるかも知れませんが――よかれあしかれ一つの新しい方角をお与え下すった方に、親としての私が直接お会いしたいと申すのを、先生はまじめでないとお考えでしょうか。」
 西山教頭の三角形の眼が急に引きしまった。校長の鼻は上にすべったきり動かない。
 しばらく沈默がつづいたあと、西山教頭はひとりで何かうなずいたが、
「いや、それほど仰しゃるなら、とにかく一応配属将校にご希望をお伝えしてみましょう。しかし、お会い願えるとしても、それはあくまでも学校の一職員としてではありませんから、その点十分おふくみ願って置きます。」
 そう言って校長室を出て行ったが、間もなく、曾根少佐といっしょに何か高笑いしながらもどって来た。
 曾根少佐は室にはいるとすぐ、
「やあ、本田次郎君のお父さんですか。」
 と、いかにもわだかまりがないといった調子で、俊亮に言葉をかけた。そして、俊亮が立ちあがって挨拶をかえしているうちに、もうどさりと椅子に膝をおろし、
「いや、今度は次郎君はまことにお気の毒な事になりました。しかし見どころのある青年ですから、心機一転すると却っていい結果になるかも知れません。」
 俊亮は、しばらくの間、まじまじと少佐の顔を見まもっていたが、
「そうでしょうか。あなたも見どころがあるとお感じでしょうか。」
 少佐は、「あなたも」と言われたのに、ちょっと変な気がしたらしく、眼をぎろりとさせたが、
「ええ、たしかに見どころはありますね。あれでもう少し思慮が深いと、こんなことにもならなかったろうし、私としては、むしろ校風刷新さっしんのために、片腕になって仂いてもらいたいとさえ思っていたぐらいなんですがね。」
 俊亮は微笑しながら、
「なるほど。で、見どころと申しますと?」
「非常に気が強いところです。こうと思いこむと、なかなかあとへはひかないたちですね。」
「たしかに親の目から見てもそういう点はあります。同時に、相当思慮も深いように思いますが、そうではありますまいか。」
「いや、その点はどうも。……もっとも、かなり策士さくしらしい面もありますから、それを思慮深いといえば格別ですが。」
「策士?」と、俊亮はちょっと意外だといった顔をしたが、すぐうなずいて、
「いや、なるほどそういう点もたしかにありましょう。しかし、このごろでは、あまり筋のとおらない策は用いないように思いますが、いかがでしょう。朝倉先生の問題でも、初めから終りまで、一に筋を通そうとして細かく頭を使っていたようですし、おとといお宅にお伺いしました時も、自分の信じていることの筋を通すために、つい失礼なことも申上げましたように私には思われますが。」
 曾根少佐は、それまで多寡たかをくくったような調子で、応対おうたいしていたが、やっと俊亮の鋒先ほこさきを感じたらしく、急にいずまいを直して、口ひげをひねりあげた。校長のピラミッド型の鼻と西山教頭の三角形の眼とに、それがある波動をつたえたことはいうまでもない。
 俊亮は、しかし、三人の様子には無頓着なように、
「それで、実は、私はこんなふうに考えたいのですが、まちがっていましょうか。次郎は、思慮はあるが、策がない。もし仰しゃるとおうに策があって思慮のない人間でしたら、どんな恥ずかしいことでもして、きょうの処分をまぬがれることが出来ただろう、とそう思うのですが。」
 三人の眼は俊亮の顔に釘づけにされた。
 俊亮は微笑してそれを見くらべている。
 しばらくして、曾根少佐が、まるで相手にならん、といわぬばかりの顔をして、眼を天井に向けた。同時に西山教頭が言った。
「あなたは、そんなことを言って、処分を収消させようとでもなさるおつもりですか。」
「とんでもない。」
 と、俊亮はふき出すように笑って、
「私は、次郎にあくまでも筋を通させたいとこそ思え、自分から先に立ってそんな下品な策を弄しようとは、夢にも考えていません。お言葉を承っただけでも恥ずかしい気がいたします。」
 西山教頭は顔を真赤にして曾根少佐を見た。曾根少佐は相変らず天井を向いたまま、眼をぱちぱちさせている。
「次郎は、これまで、一所懸命で筋をとおして来ましたし、これからもとおすだろうと思います。ですから――」
 と、俊亮は曾根少佐の横顔を見ながら、
「さきほどあなたは、次郎が心機一転するのをご期待下すったようですが、それは駄目でしょう。私としても、むろんそんなことがないように希望しているのです。今の信念と心境のままで突きすすんでさえもらえば、おそらく次郎は人間としてまちがいのない道を歩くことになるだろうと思います。ただ残念なのは、仰しゃるとおり気が強すぎて、つい長上に対して失礼な口のききかたをすることです。その点は本人にも十分申しきかせましょうし、諸先生方にも重々じゅうじゅうおわび申上げなければならないと存じています。」
 曾根少佐の眼が、その時天井をはなれて、まともに俊亮の顔にそそがれた。
「さきほどから默って承っていますと、――」
 と、少佐はすこしそり身になりながら、
「あなたは、次郎君が筋をとおすというのでご自慢のようですが、それはまあそうだとしても、しかし、ご用心なすった方がいいでしょう。何といっても大事なのは、根柢になる思想ですからね。それが間ちがっていたのでは、――」
「ありがとう存じます。しかし、思想の点では今のところ大丈夫だと信じています。」
「さあ、それが――」
「いや、それだけはご安心が願えるかと思います。私がこれまで見て来ましたところでは、次郎はあくまでも国家の道義のために仂きたい、不正な権力に対しては身を捨てても戦いたい、と、そういった考えでいるようですから。」
 曾根少佐の長いひげがびりびりとふるえた。俊亮は平然として、
「とくに最近は、そういう考えが固い信念のようになって来たようです。それは多分朝倉先生のご感化だと思いますが、しかし、今度の事件で、実際問題にぶっつかってきたえられたということが非常によかったと思います。その点で、私は、朝倉先生だけでなく、そういう機会を次郎にお与え下すった皆さんに、深くお礼を申さなければならないと思っています。」
 俊亮の調子には、微塵みじんも皮肉らしいところがなかった。悠然というか、淡々というか、まるで表情のない顔付をして、ごくあたりまえの調子でそう言ったのである。
 校長も、西山教頭も、曾根少佐も、ただ渋い顔を見合わせているよりほかなかった。
 そこへ、廊下の方の扉に軽くノックする音がきこえ、やがて黒田先生がはいって来た。
 先生は、曾根少佐がその席にいるのを見て、ちょっとけげんそうな顔をしたが、すぐ校長に向かって、
「本人にはただ今申しつたえましたが、わけなく納得してくれました。納得したというよりは、自分からその気でいたようです。それから、――」
 と、俊亮の方を見て、
「本人には、転校の希望もあるようですが、もしお父さんの方でもそのおつもりでしたら、さっきお書き下さった退学願いは、当分私の方でお預りいたしておきましょう。」
「そう願えれば何よりです。」
 すると西山教頭が言った。
「もし転校の手続をなさるのでしたら、出来るだけ早くお願いします。学籍薄の整理上、いつまでも中途半ぱには出来ませんから。」
「承知しました。もし永びいて御都合がわるいようでしたら、黒田先生にお預けしてある退学願をいつでもお役立て下さい。」
 俊亮はめずらしく烈しい調子で言って立ち上り、
「では、私、これで引取らしてもらいます。いろいろ勝手なことを申しましてすみませんでした。」
 黒田先生は気まずそうに眼をおとしていたが、
「本人はまだあちらに待たしてあります。今日はごいっしょにおつれ帰り下さる方がいいかと思いまして。」
「そうですか。それはどうも。」
 俊亮は何か可笑しそうに微笑した。
 ちょうどその時間の終りの鐘が鳴った。俊亮は黒田先生のあとについて、さわがしくなった廊下を通り、次郎の待っている室にはいったが、次郎はその時、窓の近くに立って外を見ていた。
「じゃあ、次郎、帰ろう。」
 俊亮はそれだけ言ったきり、一ことも口をきかなかった。次郎も父の顔を見て、ただうなずいたきりだった。
 間もなく二人は黒田先生に見おくられて玄関を出た。次郎は、方々からたくさんの眼が自分を見ているのを感じて、さすがにいい気持はしなかった。
 校門を出ると、すぐ俊亮がたずねた。
「どうだった。最後の瞬間に動揺はしなかったかね。」
「そんなことありません。僕、黒田先生にかえって気の毒だったんです。」
「どうして。」
 次郎は黒田先生との対話のあらましを話して、
「僕、先生にあんなふうに言われると、どうしていいかわからなくなるんです。」
「ああいう先生には、ミケラシゼロののみの必要もないというわけだね。ははは。しかし、あの先生は実際いい先生だ。おまえも気持よく学校にお別れが出来て、仕合わせだったよ。」
「父さんは校長にも会ったんですか。」
「うむ、会った。西山教頭や曾根少佐にもあったよ。」
 俊亮はべつに校長室の様子をくわしく話しはしなかった。彼はただ笑いながら、
「父さんには、ミケランゼロの鑿なんて、とても使えんよ。下手すると、女神どころが悪魔が出て来そうだからね。むずかしいもんだ。まあ、しかし、父さんの鑿も、まるで役に立たなかったわけではあるまい。あてた鑿のあとだけは、どこかに残っているだろうからね。」
 二人ははればれとした気持になって、校門を遠ざかった。次郎はうしろをふりかえって見ようともしなかった。そしていつの間にか町をぬけ土手にさしかかっていた。しかし、一心橋のたもとまで来ると、次郎は急に馬田との一件を思いおこして、不愉快になった。自分が退学したあとの学校の行きかえりのことまでが気になって来たのである。
「父さん、水をあびて帰りましょうか。」
「うむ、よかろう。」
 二人は馬の水飼場に来ると、着物をぬいで川に飛びこんだ。
「次郎といっしょに水泳をやるのは、これで三度目だね。」
「ええ。」
 次郎はすべての過去を払いのけるように、水の中をあばれまわった。俊亮は、首から下をしずかに水にひたして、それを見まもっていた。
 水を出ると、俊亮が言った。
「きょうはもう一度、鶏をつぶそう。誰か呼びたい友達はないかね。」
「新賀と梅本です。今日は、默っていても、きっと学校のかえりに来ると思います。」
 次郎はしんからうれしそうに答えた。
「大巻のうちにも、みんなで来て下さるように、そう言っとくといい。徹太郎叔父さんと道江さんには是非ってね。二人とも、おまえのことは誰よりも気にかけていたようだから。」
 俊亮はそう言って歩き出したが、あとについて行く次郎の心には何かまた暗いかげがさしていた。道江の名は、もうどんな場合にも、彼の耳に、軽い風のような快いひびきをもつものではなかったのである。

     *

 次郎の生活記録の第四部をここで終る。考えてみると、この記録は、次郎の生活の中の、わずかに二十日にも足りない期間の記録でしかなかった。その点からいって、それについやされた紙数は、これまでの記録にくらべて、あまりにも多過ぎたように思える。しかし、この短い期間が次郎の一生にとつて持つ意義は、それだけの紙数に値しないほど小さなものであったとは決して思えない。それは、次郎が時代というものに身をもって接触しはじめ、従って大きな社会に実践じっせんの足をふみ入れたという点で。また、はじめて恋というものを意識し、その苦悩を味わいはじめたという点で。そしてまた、それらの諸事情によってかもし出された「運命」と「愛」との新しい葛藤かっとうによって、「永遠」への彼の道が、これまでとはかなりちがった様相ようそうを呈しはじめたという点で。
 過去数年の間彼の心を支配し、いくらかずつその内容を深めて来た「無計画の計画」とか「摂理」とかいう考えが、これからも素直に彼の心の中で成長して行くか、どうか。それは彼を愛する人たちにとって、最も大きな関心事でなければならない。私はそうした点について、注意深く彼を見守り、つづいて彼の生活をつぶさに記録して行くであろう。
[#改段]

附記

「次郎物語」の完成は、いかにそれが貧しい内容のものであろうと、私にとっては、生涯のうちの最も大きな仕事の一つである。そして私は、出来うれば、敗戦後の日本の運命と次郎の運命とがどう結びつくかを書き終るまでは、この物語に別れを告げたくない、と思っている。しかし、それまでには、なお数巻の記述を必要とするであろう。悲しいことには、私は世間の物笑いになるほどの遅筆である。しかも、今年の十月には私は私の六十六歳の誕辰を迎えようとしている。たとい健康にある程度の自信があるとしても、私は急がなければならないという気がしてならない。まして、第三次世界大戦の危機がわれわれの頭上をおびやかしていることを思うと、一切をなげうって、この仕事に没頭すべきではないか、とさえ思うのである。これは誇張でも何でもない。第四部を書き終えた時の私の実感なのである。
 しかし、今はただ出来るだけ少い煩累の中で出来るだけ多くの記述をすすめうることを神に祈りつつ、最善の努力を試みるより外はない。なぜなら、私もまた次郎と共に運命と愛との葛藤の中に生きる人間の一人なのだから。
一九四九・三・一九





底本:「下村湖人全集 第二巻」池田書店
   1965(昭和40)年7月30日発行
※「黒+犬」は、「默」で入力しました。
※誤植が疑われる箇所を、「次郎物語 (中)」新潮文庫、新潮社、1987(昭和62)年5月30日発行、1994(平成6)年6月10日4刷を参照してあらためました。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年1月31日作成
2015年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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