緑色の人

THE GREEN MAN

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 半ズボンの青年が、血色のいい熱心な横顔を見せながら、砂浜と海に平行したリンクで、独りゴルフを楽しんでいた。あたりは夕闇で灰色になりかけていた。青年はむぞうさにボールを打ちまくつているわけではなく、むしろ特殊のストロークを人目につかない激しさで練習しているのであつた……キチンと身ぎれいにした旋風という感じであつた。この青年はいろんなゲームを手早く習得していたが、ふつうより少しでも早く習得したい癖があつた。どうやらそのために、六回のレッスンでバイオリンを習得する法とか、通信教授で完全なフランス語の発音を身につけられる法とかいうたぐいの人目を引く広告の被害者になりがちであつた。彼はこういう希望に満ちた広告や冒険のいきいきした雰囲気の中で暮していた。目下は、このリンクと境を接している大庭園のうしろに大きな屋敷を持つている海軍提督マイクル・クレイブン卿の個人秘書であつた。なかなか大望があつたので、相手がだれであろうと個人秘書をいつまでも続けるつもりはなかつた。しかしまた理性的でもあつたので、秘書をやめる最上の方法は立派な秘書になることだと知つていた。したがつて彼は大へん立派な秘書であつた……提督の通信物がドンドン集まつてきてたまつたのを整理するのにも、ゴルフボールを相手にするときと同じようにすばやい一心不乱の精神集中法を用いていた。彼はいまのところひとりで適当に判断して通信物と取り組まなければならなかつた。というのは提督はこの六ヶ月来船に乗つていたからである。そして、もう帰途についていたが、まだ数時間のあいだは――あるいはことによると数日のあいだは――帰つてこないはずであつた。
 運動家らしい大またで、ハロルド・ハーカーという名のこの青年は、リンクの囲いになつている芝生の高台に登つた。そして砂浜の向こうの海を見わたすと、不思議な光景が見えた。あまりはつきり見えたわけではなかつた……というのは宵闇が荒れ模様の空の下で刻々と暗くなつていたからである……しかしそれは、瞬間的な幻影のようなものであつたためか、青年にとつては遠い昔の日の夢か、歴史の別の時代から出てきた幽霊が演じている芝居のような気がしたのであつた。
 落日の名残りが銅色と金色の細長い縞になつて、青というよりむしろ黒に近く見える海のはての暗い沖の上に、消え残つていた。しかし西空のこの輝きを背にしてひときわ黒く、影絵芝居の人影のようにクッキリ輪郭を浮きあがらせて通り過ぎたのは、かどが三つある三角帽をかぶり剣を着けた二人の男であつた……まるでたつたいまネルソンの木造艦隊から上陸してきたようなかつこうであつた。その姿は、たとえハーカー君にまぼろしを見る癖があつたとしても、夢にも思いつきそうもないまぼろしであつた。彼は血色がいいのと同じに科学的なタイプでもあつたので、もし空想するとすれば、昔の軍艦より未来の飛行船が目にうかんだことであろう。そこで彼はごく分別よく、いくら未来派の人間でも自分の目で見た物は信じられるという結論に到達した。
 幻想が続いたのはホンの瞬間であつた。二度目に見なおすと、目にはいつたものは、異様ではあつたが、信じられないものではなかつた。二人の男は十五ヤードほど間隔をあけて一列に砂浜を大またに歩いていたが、ごくふつうの現代の海軍士官であつた……しかし、この二人の海軍士官はあのとほうもないような正装の制服を着ていた……これは、もし着ないですませられるものなら、士官たちは決して着やしない。せいぜい皇族の来臨のような大きな儀式の場合だけである。前に立つて歩いている男はどうやらうしろから歩いてくる男に気がついていないらしかつたが、ハーカーには、その秀でた高い鼻とスパイクのような形の顎ひげで、主人の提督だなと、すぐわかつた。跡をつけているもう一人の男はハーカーの知らない人だつた。しかしハーカーはこういう儀式的な場合と関係のある事がらについては多少知つていた。提督の船がこの附近の港にはいると、高貴の方が公式にお訪ねになるはずだということを知つていた。その意味なら、それでこの士官たちが正装していた理由はよくわかつた。しかしハーカーは士官たちのことも――あるいはともかく提督の性質もよく知つていた。それだけに、提督が平服に着かえるか、少なくとも通常軍装に着かえるかするための、五分ぐらいのひまはあるにきまつているのに、何に夢中になつてこんな盛装をこらして上陸して来たのか、それが秘書にはなんとも見当がつかなかつた。ともかくこんなことはおよそ提督がやりそうもないことであつた。実際これは後になつてもこの神秘的なでき事の中での主な神秘の一つとして何週間も未解決のままに残つた。そんなわけだつたので、暗い海と砂地を背景にした人けのない所にうかび出たこの幻想的な宮廷服姿はなんとなく喜歌劇の舞台を連想させた……そして「軍艦ピナフオア」の見物人を思い出させた。
 第二の人物はもつとずつと異様であつた。正しい海軍大尉の軍服にもかかわらず、かつこうがなんとなく異様だつたし、動作はなおさら異様であつた。妙に不規則なおちつかないようすで歩いていて、ときには早くなつたり、ときには遅くなつたりしていた……まるで提督に追いつこうか追いつくまいかと心を決めかねているようであつた。提督はかなり耳が遠かつたので、うしろから柔らかい砂地の上を歩いてくる足音がきこえないのはたしかであつた。しかしうしろから来る足音は、もし探偵的にさぐつてみたら、びつこを引いてるかとも思えるし、ダンスをしているかとも思えるし、いろんな推測ができたろう。男の顔は影になつて暗かつたが、それと同時に浅黒かつた。ときどきその目がキョロキョロ動いてキラリと光つたので、心の動揺がなおさら強く感じられた。一度は走りかけたが、やがてだしぬけにゆつくりむとんちやくにノッシノッシと歩き出した。それから男は或ることをした……それはハーカー氏には、英国王につかえるふつうの士官なら、たとえ気違い病院にはいつている男でも、まさかこんなことをしようとは思えないことであつた。男は剣を引き抜いた。
 異常な前兆がこの爆発点に達したとき、通り過ぎていた二つの人影は岸の岬のかげに消えてしまつた。目をみはつていた秘書は、ちようど色の浅黒い未知の男が、またむとんちやくなようすになつて、キラキラ光る刃でカラカサ花の頭を打ち落すのを見とどけただけであつた。男はその時は提督に追いつくのをすつかりあきらめていたようであつた。しかしハロルド・ハーカー君の顔はほんとに大へん考え深そうになつていた。そこに立つたまましばらく思いめぐらしていたが、やがて厳粛に陸のほうへ向かつた……大きな屋敷の門の前を通つて、海のほうへ長いカーブを描いている道のほうへ行つた。
 提督が歩いていた方角から考えると、そしてまた当然自分の屋敷へ向かうものと仮定すると、浜からカーブを描いているこの道を登つてくるはずであつた。ゴルフリンクの下の砂浜伝いの細道は、岬のすぐ先きで陸に向かい、やがて立派な道になつてクレイブン邸のほうへ通じていた。そこで秘書が持ち前の短気を出して、帰つてくる主人を出迎えに矢のように駆けだしたのは、この道を下つたのであつた。しかし主人はどうやら家へ帰ろうとしているのではなかつた。まだもつと変つていたのは、秘書もまた家へ帰ろうとしなかつた……少なくとも数時間後まで帰らなかつた。これだけ帰りがおそくなつてはクレイブン邸に驚愕と神秘がわき起つたのは当然であつた。
 このかなり豪華すぎるほどの本邸の柱やシュロの木が立ちならんでいる背後では、実際いまかいまかと待ちもうけていた気分がしだいに不安に変つてきていた。召使頭のグライスは、どこにいても珍らしいほど無口な胆汁質の大男だが、正面玄関のホールを歩きまわつたり、ときにはポーチの横の窓から表の白い道が海のほうに伸びているのを見たりしながら、なんとなくおちつかないようすであつた。提督の妹で家政を預かつているマリオンは、兄そつくりの高い鼻をしていたが、もつとお高くとまつているような表情をしていた……口達者で、かなり長々とユーモアをまじえてしやべり続けながら、ふいにオウムのようにカン高い声で一段と力説する芸当を心得ていた。提督の娘オリーブは色の浅黒い、夢を見ているような娘で、たいていはボンヤリ黙りこんでいて、どうやら陰気な感じであつた。だから会話のほとんどはたいてい伯母がリードしていたが、別に文句は出なかつた。しかしこの令嬢にもふいに笑い声をあげる天賦の才能があつて、それが大へん魅力的であつた。
「変だねえ、なぜお二人とも帰つてこないのかしら」と伯母は言つた。「郵便配達がはつきり話してくれたけど、提督が浜伝いに帰つてくるのを見たんですつて。あのいやなルークとかいう人と一緒でしたつて。いつたいなぜみんなはあの人のことをルーク大尉だなんて言うのか……」
「そりやあね」陰気な若い令嬢は、ホンの一時明るい口調になつて、言い出した……「そりや、あの方は副官ですから、大尉でしよう」
「わたしにはなぜ提督があんな男を雇つておくのかわかりませんよ」伯母はまるで女中の噂でもしているように鼻を鳴らした。彼女は大へん兄を自慢にして、いつも提督と呼んでいた。しかし海軍将校の地位に対する彼女の考えはいいかげんなものであつた。
「そうね、ロージャー・ルークはムッツリしていて交際ぎらいだから損なたちですわ」とオリーブは答えた。「でも、もちろんそんなことはあの人の船乗りとしての才能にはじやまにはならないわ」
「船乗りですつて!」伯母は、例のかなり人をハッとさせるオウムのような口調で、叫んだ。「あの人はわたしが考えてる船乗りと違いますよ。『船乗りを愛している娘』なんて、わたしが若いころによくはやつた歌だけどね……マア考えてごらん!あの人は陽気でのんびりした船乗りらしいところがありませんよ。船乗りの歌もうたわないし、陽気なホーンパイプも踊らないじやないの」
「そうね」と姪はまじめに批評した。「提督だつてあんまりホーンパイプを踊りませんわ」
「マア、あなただつてわたしの考えはわかつてるでしよう――あの人は明るい所や陽気な所がないし、ちつとも船乗りらしくありませんよ。そら、あの秘書の男のほうがあれよりよつぽどましかもしれないわ」
 オリーブのかなり悲劇的な顔がくずれて、彼女の長所の若々しい笑い声が波打つた。
「そりやハーカーさんならきつと伯母さんのためにホーンパイプを踊つてくださるわね……そして独習書を見て半時間で覚えたのだと言うでしようよ。あの人は年中そんなことを習つてますからね」
 娘はふいに笑うのをやめて、伯母のかなり緊張した顔を見た。
「変だわねえ、ハーカーさんが帰つてこないのはなぜかしら」と娘はつけくわえた。
「わたしはハーカーさんのことなんか心配していませんよ」と伯母は答えて、立ちあがると、窓の外をのぞいてみた。
 夜空の光はずつと前に黄色から灰色に変つていたが、いまは月の光がひろがつてきたので、ほとんど真白に変つて、浜のあたりの広々とした平坦な陸景を照らしていた……何一つ目をさえぎる物もなかつたが、ただ一つ池のまわりに汐風に曲りくねつた木立があつた。その先きに、地平線を背にしてかなり無気味に黒ずんで見えるのは、漁師たちの集まる岸辺のみすぼらしい居酒屋で、緑人亭という名前がついていた。道にも陸景にも生き物の姿は何一つ見えなかつた。宵のうちに海のそばを歩いている姿を見せた三角帽子をかぶつたあの人影を見た者は一人もいなかつた。それからその跡を追つている姿を見せたもう一人の見慣れない姿を見た者もいなかつた。この二人を見た秘書の姿を見た者さえ一人もいなかつた。
 秘書がとうとうだしぬけに帰つてきて、家内中を叩き起したのは真夜中過ぎであつた。幽霊のように血の気がなくなつた顔は、あとから同行してきた大男の警部の鈍感そうな顔や姿を背景にしているだけに、なおさら青ざめて見えた。どうやら警部の赤い重々しい無関心な顔は、血の気のない悩みきつた秘書の顔以上に、不吉な運命の仮面に似ているようであつた。このニュースを二人の婦人に打ち明けるときは、できるだけひかえ目にしたり、一部を隠したりした。しかしこのニュースは、クレイブン提督の体がけつきよくあの木立の池に浮かんでいる雑草や浮きかすの中から引き上げられたということであつた……そして提督はおぼれて死んでいた。

 だれでも秘書のハロルド・ハーカー君と親しい者ならなるほどと思うであろうが、この男はあれほど興奮していたのに朝になるともうすつかり殺人現場にでもいるような気分になつていた。彼は、昨夜緑人亭のそばの路上で会つた例の警部を無理に別室に連れこんで、実際的な内密の相談をした。彼が警部に質問する口調は、むしろ警部が田舎者に質問するときのような勢いであつた。しかしバーンズ警部は鈍感な性格だつたし、バカでもなしリコウ過ぎもしなかつたから、そんなささいなことには憤慨しなかつた。警部が見かけほどバカでないことはすぐにわかりはじめた。というのは彼はハーカーの熱心な質問を、ゆつくりはしてるが整然とした合理的な態度で、すつかり処理したからである。
「なるほど」とハーカーは言つた(彼の頭は『十日間で名探偵になる法』というような題のいろんな参考書でいつぱいになつていた)。「なるほど、これは古くからある三角問題でしようね。事故か、自殺か、殺人か」
「どうも事故とは言えないようです」と警部は答えた。「まだ暗くなつていなかつたし、あの池は、提督が自分の家の玄関のようによく知つているまつすぐな道路から、五十ヤードも離れています。あの池にはいりこむくらいなら、往来のぬかるみにはいりこんで用心深く寝ころがつていたでしようよ。自殺については、そう言い出すだけの責任が持ちにくいし、これもどうやら考えられないようです。提督はなかなか活動的な成功者で、事実、百万長者に近い大へんな金持でした……尤もむろんそんなことは何の証拠にもなりませんがね。家庭生活もなかなか健全で楽しそうでした。およそ身を投げるなどとは思えない方です」
「そうすると結論は」秘書はゾッとするほど声を低くして言つた……「どうやら第三の可能性になるわけでしよう」
「その点はあまり急がないようにしましよう」と警部は言つたが、ハーカーは何でも急ぎたい男だけにこれでは承知できなかつた。「しかしもちろん、一つ二つ知つておきたいことがあります。たとえば、提督の財産について知りたいのです。あなたは、だれが財産を受け取るようになつているか、ご存じですか? あなたは個人秘書ですね……何か遺書についてご存じですか?」
「ぼくはそれほど個人的な秘書ではありません。提督の弁護士は、サトフォード・ハイ町のウイリス・ハードマン・アンド・ダイク事務所です。たしか遺書はそこに預けてあると思います」
「フム、なるべく早く弁護士に会うほうがよさそうだ」
「すぐご一緒に会いに行きましよう」とせつかちな秘書は言つた。
 秘書はソワソワしながら室内をあちこちと歩きまわつていたが、ふいに新たな問題で爆発した。
「死体はどうしたんですか、警部さん?」
「ストレイカー先生がいま本署でしらべています。一時間かそこいらのうちに報告書ができるはずです」
「報告書は早いほどいいんです。もし弁護士の所でそのお医者さんに会えたら時間の節約になるんですが」ねえそれから[#「なるんですが」ねえそれから」はママ]ハーカーは言葉を切つたが、ふいにいままでの性急な口調が当惑したような口調に変つた。
「ねえ、どうでしよう。ぼくは……いや、われわれはあの若いレデイ――きのどくな提督の令嬢について、いますぐ、できるだけの考慮をはらいたいと思います。お嬢さんはナンセンスだとしか思えないような或る意見を持つています。ですが、ぼくはお嬢さんを失望させたくないのです。お嬢さんがぜひ相談したいとおつしやる友達があつて、目下この町に泊つています。ブラウンという名の人で、司祭か教区牧師かです。お嬢さんはぼくにアドレスを教えてくれました。ぼくは司祭や教区牧師にはあまり興味はありませんが、しかし……」
 警部はうなずいた。「わたしは司祭や教区牧師には何の興味もありませんが、ブラウン神父なら大いに興味があります。偶然わたしは変てこな社交界の宝石事件であの人に関係しなければならないことがありました。あれは牧師より警察官になつたほうがよかつたような人です」
「ああ、けつこうです」秘書は、部屋から姿を消しながら、息を切つて言つた。「その人に弁護士の所へ来てもらいましよう」
 こうして、二人が弁護士の事務所でストレイカー博士に会うために隣町へ急行すると、ブラウン神父はもうそこに坐つて、重そうなこうもり傘の上に手を組んだまま、事務所でたつたひとり相手になつてくれている人と愉快そうにしやべつているところであつた。ストレイカー博士も来ていたが、どうやらたつたいま来たばかりと見えて、手袋を注意深くシルクハットの中に入れ、そのシルクハットを小さなテーブルの上に置いているところであつた。そして坊さんのお月様のようにまんまるい顔や眼鏡のおだやかで明るい表情と、その話相手になつていた、かなり年取つたごま塩まじりの弁護士の忍び笑いとを思い合わせると、医者がまだ死のニュースを知らせていないことがよくわかつた。
「やつと美しい朝になりました」とブラウン神父は言つていた。「あの嵐は頭上を通り過ぎたようです。大きな黒雲がありましたが、雨は一滴も降らなかつたようですな」
「一滴も降りません」と弁護士は、ペンをおもちやにしながら、相槌を打つた。この人は事務所の共同経営者のうち三人目のダイク氏であつた。「いまは空に雲一つありません。休日向きの日です」そのとき彼は新来の連中に気がついて目を上げると、ペンを下に置いて立ちあがつた。「ああ、ハーカーさん、いかがですか? 提督はまもなくお帰りだそうですね」そこでハーカーが話し出すと、その声が室内にうつろに響きわたつた。
「残念ながら、われわれは悲しいニュースの使者です。クレイブン提督はお屋敷へ帰りつかないうちにおぼれてしまいました」
 静かな事務室の空気そのものが、変つてしまつた……そのくせ動かないでいた坊さんと弁護士の態度には変りがなかつた。二人ともハーカーの顔を見つめて、言いかけていた冗談が唇に凍りついたような顔をしていた。二人とも「おぼれた」という言葉をおうむがえしにくりかえして、おたがいに顔を見合わせてから、また報告者の顔を見た。それからちよつとガヤガヤして口々に質問が出た。
「いつそんなことになつたのですか?」と坊さんがきいた。
「どこで発見されたのですか?」と弁護士がきいた。
「発見されたのは」と警部が言つた……「緑人亭から程近い浜のそばのあの池の中でした……引き上げたときは、緑色の浮きかすや雑草にすつかりおおわれていたので、ほとんど見分けがつかないくらいでした。しかしここにいるストレイカー博士が――どうしたんです、ブラウン神父? どこか悪いんですか?」
「緑人……」とブラウン神父は身ぶるいして言つた。「すみません……取り乱して失礼しました」
「どう取り乱したんですか?」と警部は目をみはつてきいた。
「提督が緑色の浮きかすにおおわれていたせいでしような」坊さんは、かなりふるえ声で笑つてから、言つた。それからいくらかしつかりと言いそえた。「わしは海草だつたろうと思いましたのでな」
 この時分にはみんなが坊さんの顔を見て、気が違つたのではないだろうかと怪しんでいたのは無理もなかつた。それでいて次ぎの決定的な驚きは坊さんから出た言葉ではなかつた。死んだような沈黙の後に、口をひらいたのは医者であつた。
 ストレイカー博士は、一見しただけでも、すぐ目につく人であつた。大へん背が高くやせこけていて、キチンとした医者らしい服装をしていた……しかもビクトリア中期以後ほとんど見られないような流行を守つていた。まだ比較的若いのに、茶色の顎ひげを大へん長くしてチョッキの上までひろげていた。それと対照的に、荒削りだが美しい顔が、妙に青ざめてみえた。彼の立派な容貌が割引されていたのは、深くくぼんだ目が、やぶにらみというほどではないが、かすかにやぶにらみのような感じがしたからでもあつた。みんなが彼のこういう点に注目したのは、口をひらいたとたんに、この人は何とも言いようのない権威者らしい態度を見せたからであつた。しかし彼が言つたのはこれだけであつた――
「こまかく言えば、クレイブン提督がおぼれたことについては、もう一つだけ言うことがあります」それから考えこみながらつけくわえた……「クレイブン提督はおぼれたのではありません」
 警部は、いままでにない早さでふり向くと、矢のように質問を投げかけた。
「わたしはたつたいま死体をしらべてきました」とストレイカー博士は言つた。「死因は小さな短剣ようの先きのとがつた刃物で心臓をつらぬいた刺し傷です。死体を池に隠したのは、死後のことで、それもしばらくたつてからです」
 ブラウン神父は、めつたに見せたことのないような大へんいきいきした目で、ストレイカー博士を眺めていた。そして事務所にいたグループが解散しはじめると、ブラウンはうまく医者をつかまえて、往来を引き返しながら、また少し話しこんでいた。やや形式的な遺書の問題以外には、みんなが残つているほどの用は大してなかつたからであつた。せつかちな若い秘書は老弁護士の職業的な礼儀正しい態度にやや悩まされた。しかしおしまいには弁護士は、警部の権威よりもむしろ坊さんのじよさいない態度に動かされて、別に秘密にする必要のない問題まで秘密にする癖をやめてしまつた。ダイク氏は、提督の遺書は大へんまともな平凡な書類で、全部を一人子のオリーブに残すことになつているし、実際この事実をお隠しするような特別な理由は何もありませんと、ニコニコしながら認めた。
 医者と坊さんは町からクレイブン邸の方角へ出る往来をゆつくり歩いていた。ハーカーは、どこへ行くつもりか、例の生れつきの熱心さでブラウンより先きに飛びだしていた。しかし一足遅れたこの二人は歩いている方角よりもおたがいの議論のほうに夢中になつているらしかつた。背の高い医者がそばにならんでいる背の低い坊さんにこう言つたときの口調は、なんだか謎めいていた――
「ところで神父さん、あなたはこの問題についてどう思われますか?」
 ブラウン神父は、しばらく相手の顔をかなり熱心に見ていたが、やがて言つた――「なるほど、わしは一つ二つ思いついたことがあります。したが一番困るのは、わしはお嬢さんには或る程度お目にかかつていますが、提督をほとんど知りませんでしたからな」
「提督は世の中に一人も敵がいないと噂されるような方でした」医者は無気味なほど顔を動かさずに言つた。
「どうやらあなたの話ですと、噂以外に何かあるようですな」
「ああ、これはわたしには関係のない問題です」ストレイカーはあわてて、だがかなり荒つぽく、言つた。「あの方はなかなか気むずかしかつたようです。一度わたしを或る手術のことで告訴すると言つて脅したことがありました。だが考えなおしてくだすつたと思います。わたしの想像では、あの方は部下にかなり荒つぽかつたに違いありません」
 ブラウン神父の目はずつと前方を大またに歩いていく秘書の姿に釘づけになつていた……見つめているうちに、特に急いでいる原因がわかつてきた。五十ヤードほど前方に、提督の令嬢が屋敷のほうへ行く道をブラブラしていた。まもなく秘書は令嬢と肩をならべた。そのあとしばらくブラウン神父が背中を向けた二人の無言の劇を見守つていると、やがて遠くに消えてしまつた。秘書は明らかに何かで大へん興奮していた。しかし坊さんは、それが何だか見当がついていたとしても、口には出さなかつた。医者の家へ行く曲り角まで来たとき、ブラウンは手短かにこう言つただけであつた――「もう何かお話しくださることはありませんでしような」
「あるはずがないじやありませんか?」医者は大へんぶつきらぼうに答えて、大またに立ち去つてしまつたので、その最後の一言は、話すようなことはないという意味なのか、それとも話はあつても話す必要はないという意味なのか、どつちともはつきりしなかつた。
 ブラウン神父は、二人の若い人の跡を追つて、ひとりトボトボと進んで行つた。しかし提督の大庭園の並木道から玄関にさしかかつたとき、令嬢の動作に思わず足を止めた。令嬢がふいにふり向いて、まつすぐブラウンのほうへ来たからであつた。異常なほど顔が青ざめ、目は、何かこれまでに見られなかつた、しかもなんとも言いようのない激しい感情に輝いていた。
「神父さま」と彼女は低い声で言つた。「できるだけ早くあなたにお話しなければなりませんわ。わたくしの言うことを聞いてくださらなければいけませんわ。ほかにどうしようもないのです」
「もちろん、うかがいますとも」坊さんは、浮浪児に時間をきかれたときのように、冷静に答えた。「どこへ行つてお話しましようか?」
 令嬢は偶然行きあたつた屋敷内のかなり荒れはてたアズマヤに案内した。そしてギザギザの大きな葉がむらがつてついたてのようになつているうしろに腰をおろした。彼女は、まるではりつめている気持をすぐに解きはなさないと気絶でもしそうなようすで、すぐに話しはじめた。
「ハロルド・ハーカーがわたくしにいろんなことを話しました。恐ろしい事ばかりです」
 坊さんがうなずくと、令嬢は急いで話を進めた。「ロジャー・ルークのことなんです。あなたはロジャーの噂をご存じですか?」
「わしの聞いているのは、海軍仲間では彼を陽気なロジャーと呼んでいることです……これはロジャーさんが海賊の旗じるしのドクロとぶつちがいの骨みたいな顔をしていて、ちつとも陽気な顔を見せたことがないからだそうです」
「いつもそうだとはかぎりませんのよ」とオリーブは低い声で言つた。「あの人には何かよほど変なことがあつたに違いありませんわ。わたくしはおたがいに子供だつたときからあの人をよく知つていました。いつもあすこの砂浜で一緒に遊びました。あの人は無鉄砲で、いつも海賊になる話ばかりしていました。たぶんあの人は、いわばスリラー小説を読んで犯罪が好きになるようなたちだつたのでしよう。でもあの人が海賊になるんだと言つていたころはかなり詩的なところがありました。あの時分はほんとに陽気なロジャーでした。あの人は、伝説どおりにほんとに海へ出て行きたいという気持を持ち続けた、最後の少年だつたと思いますわ。そしてとうとう家の人たちもあの人が海軍にはいるのを認めなければなりませんでした。それで……」
「なるほど」とブラウン神父は辛抱強く言つた。
「そうなんです」と彼女は、珍しく楽しそうな気分を見せて、それを認めた。「かわいそうにロジャーは海軍に失望したのだと思いますわ。海軍士官が口にナイフをくわえたり、血にまみれた短剣や真黒な旗を振りまわしたりすることはめつたにありませんもの。でもそれだけではあの人の変りようが説明できませんわ。あの人はほんとに固苦しくなりました……鈍くて無口になりました……歩きまわつている死人でした。あの人はいつもわたくしを避けるんです。でもそんなことはどうでもいいんです。わたくしは、きつとわたくしに関係のない何か大きな悲しみがあつて、それで参つてしまつたのだろうと思つていました。ところがいまになると――ええもしハロルドの話がほんとうだとすれば、その悲しみはまるで気違いになるか悪魔に取りつかれるかしたようなものだつたのですわ」
「するとハロルドの話というのはどんな話ですか?」と坊さんはきいた。
「あんまり恐ろしい話で、わたくしの口からは申しあげられないくらいです。ハロルドは、あの晩ロジャーが父のうしろから忍びよつて、ためらいながら、やがて剣を引き抜いたのを見たと、誓言しているんです……それにあのお医者さまの話では、父は刃物で刺されたのだそうです……。わたくしはロジャー・ルークがそんなことに関係したとはどうしても信じられません。あの人の偏屈と父のかんしやくから時には口論になつたことがあります。でも口論なんて何でもないことじやありませんか? わたくしはかならずしも昔からのお友達の弁護をしているわけじやないのです。だつてあの人は友達らしくさえしてくれないんですもの。でも昔の知り人だというだけでも、或る程度確信せずにはいられないことがあります。それなのにハロルドの誓言ではあの人が……」
「ハロルドはずいぶん誓言することがあるようですな」とブラウン神父は言つた。
 ふいに沈黙がひろがつた。しばらくして彼女は別人のような口調で言つた――
「ええ、ハロルドはほかにもいろいろ誓言していることがあります。ハロルド・ハーカーはたつたいまわたくしに求婚したんです」
「おめでとうはあなたに言つたらいいのか、それともむしろハーカーさんに言つたほうがいいのかな?」とブラウンは尋ねた。
「わたくしは待たなければいけないと言つたんです。ハロルドは待つのは不得手です」彼女はまたフッと彼女には不似合いなこつけい感におそわれていた――「ハロルドは、あなたこそぼくの理想で、ぼくの生涯の望みだというようなことを言いました。あの人はアメリカに住んでいたことがあるんです……でもどういうわけかわたくしは、あの人がドルの話をしているときにそれを思い出さないで、理想について話してくれているときに、やつとそれを思い出しました」
「では、どうやらあなたがロジャーについての真相を知りたいと言われるのは、ハロルドの問題で決心しなければならないからでしような」ブラウンはごくやさしく言つた。
 彼女は体を固くして顔をしかめたが、やがて同じようにだしぬけにニッコリして、言つた――「まあ、あなたは何でもよくご存じですわ」
「わしは何もわかつてやしません……特にそういうことはな」と坊さんは厳粛に言つた。「わしにわかつているのは、だれがあなたのお父さまを殺したかということだけです」彼女はハッとして、立ちあがると、サッと血の気のなくなつた顔で相手を見つめた。ブラウン神父は顔をしかめて、話を進めた――「わしは、初めてそれに気がついたとき、バカなまねをしました……ちようどみんなが、どこで死体が発見されたかときいてから、緑色の浮きかすや緑人亭について話していたときでした」
 それからブラウンも立ちあがつた。改めて決心したように例のぶかつこうなこうもり傘をつかむと、改めて厳粛に令嬢に話しかけた。
「そのほかにもわかつていることがあつて、それはまだ申しあげますまい。たぶん悪いニュースですぞ……したがあなたが想像なすつてるような悪いことではありません」ブラウンは外套のボタンをすつかりかけてから、門のほうへ向いた。
「わしはあなたのそのルークさんに会いに行くつもりです。ハーカーさんがあの人の歩いているのを見たという場所の近くにある、海岸の小屋の中です。どうもそこにあの人がいそうな気がします」そう言うとブラウンは急いで浜のほうへ行つてしまつた。
 オリーブは空想に富んでいた……おそらくあまり空想に富んでいるので、ブラウンが投げかけたような暗示を考えこませておくのは安全ではなかつたろう。しかしブラウンは、むしろ彼女の物思いを一番ホッとさせる助けを見つけ出そうとして、急いだのであつた。ブラウン神父が最初にフッと気がついてギョッとしたことと、あの池や居酒屋について言つた気まぐれな言葉とのあいだの神秘的なつながりが、彼女の空想を悩まして、何かを象徴する無数の醜悪な形になつて現われた。緑色の人が、いやらしい雑草を踏み分けながら月下の田舎道を歩いている幽霊になつた……緑人亭の看板が、絞首台からぶらさがつているような、宙釣りの人間の姿になつた……そして池そのものが居酒屋になつた――死んだ船乗りのための暗い水底の居酒屋であつた。それでもブラウンはそういう夢魔をくつがえすために一番早い方法を取つたので、やがて夜以上に神秘的な感じがする目のくらむような昼の光をあびせかけるつもりであつた。
 というのは日が沈まないうちに、或る物が彼女の生活に帰つてきて、全世界をもう一度あべこべにひつくりかえしたからである……その或る物を自分がこれほど望んでいるとは、ふいにそれが許された今日になるまで、彼女はほとんど気がつかずにいたのであつた……その或る物は、夢と同じに、古くからのなじみ深いものであるが、それでいていまだに理解できないで信じられなかつた物であつた。それはロジャー・ルークが砂浜を大またに横切つてきたからであつた……そしてまだ遠くに黒い点のような姿を見せたときから、彼女は彼のようすが変つているのにすぐ気がついた。そしてだんだん近づいてくるにつれて、彼女はルークの浅黒い顔が喜びにあふれた笑いでいきいきしているのを見た。ルークは、まるで二人が一度も別れたことがなかつたように、まつすぐ彼女のほうにやつてくると、彼女の肩をつかんで言つた――「サア、これからぼくがきみのめんどうをみられるんだ……神さまのおかげだ」
 彼女は何と返事したかわからないくらいであつた。しかし気がついてみるといつのまにか、なぜあなたはそんなに人が変つたように幸福そうなのと、かなり激しく尋ねていた。
「そりや、ぼくが幸福だからさ」とルークは答えた。「ぼくはあの悪いニュースを聞いたんだ」

 関係者全員が、中にはかなり無関係らしい者も加えて、クレイブン邸に続く庭の細道に集まつていた……弁護士の遺書朗読という、この場合はほんとに形式的な、形式上の手続きと、この危機について弁護士から当然出そうないくらか実際的な助言を聞くためであつた。正式遺言状で武装した、ごま塩の弁護士その人のほかに、この犯罪についてのもつと直接的な権威で武装した警部がいたし、それから人目をかまわず令嬢につきそつているルーク大尉がいた。中には、医者の背の高い姿を見てかなり不思議そうにしている者もいたし、またズングリした坊さんの姿を見てちよつと微笑した者もいた。空を飛ぶ天の使者そつくりのハーカー君は、みんなを出迎えに門番小屋まで駆け出して芝生に案内して帰ると、こんどはまたみんなの先きに立つて接待の準備をするために駆け出した。彼は、すぐ帰つてきます、と言つていたし、そのピストンのような精力ぶりを見ているとまつたくそう思えた。しかし、さしあたり、みんなはどうやら家の外の芝生の上に立往生させられていた。
「クリケットの試合で得点している男の走りつぷりを思い出しますよ」と大尉が言つた。
「あの青年は、法律があの男ほど機敏に動けないので、かなりいらいらしているんです」と弁護士が言つた。「幸いにクレイブン嬢はわれわれの職業的困難や遅延の理由を理解していてくださいます。お嬢さんはわたくしのゆつくりしたやり方にやはり信頼するからと、ご親切に保証してくださいました」
「われわれはあの男の機敏さにもそれくらい信頼したいと思うんですがねえ」ふいに、医者が言つた。
「オヤ、どういう意味ですか?」ルークは額にしわをよせながら、きいた。「つまりハーカーが機敏すぎるという意味ですか?」
「あまり機敏すぎるし、あまりゆつくりすぎるんです」ストレイカー博士はいつものかなりテキパキした調子で言つた。
「わたしは少なくともあの男があまり機敏でなかつた場合を一つだけ知つています。なぜあの男は、警部が来て死体を発見するまでに、一晩近くもあの池や緑人亭のあたりをうろついていたのですか? なぜあの男は警部に会つたのですか? なぜ緑人亭の表で警部に会うのを待つていなきやならんのでしようか?」
「どうもよくわからないな」とルークが言つた。「つまりハーカーの話は事実でないというわけですか?」
 ストレイカー博士は黙つていた。ごま塩の弁護士が無気味な上きげんで笑つた。
「わたくしがあの青年に文句を言うとすれば、一番重大なのは、彼がわたくしに弁護士の仕事を教えようという迅速な賞賛すべき企てを試みたことです」
「そう言えば、あの男は、わたしにも警察の仕事を教えようと試みましたよ」と警部が言つた。この人はたつたいま一同の仲間入りをしたばかりであつた。「だがそんなことはどうでもいいじやありませんか。もしストレイカー博士があの男の暗示でどうかしたというなら、それは重大な問題になります。はつきり言つていただかなきやなりませんね、先生。わたしの義務としてすぐあの男にきいてみる必要があるかもしれません」
「ホラ、こつちへ来ますよ」ルークは、秘書の機敏な姿がまた戸口へ現われたので、言つた。
 ちようどこの時、行列の後尾について無言で人目につかずにいたブラウン神父がひどくみんなを仰天させた……おそらく特にブラウンをよく知つている者ならなおさらであつたろう。彼は足早に前に歩き出しただけでなく、下士官が兵隊に止まれと言いつけるときのように、まるでみんなを引き止めて脅しつけるような表情で全員に向かい合つた。
「止まれ!」とブラウンはほとんど厳格に言つた。「皆さんにお詫びをしますが、わしが一番先にハーカーさんに会うことが絶対に必要です。わしの知つている或る事をあの人に言わなきやならん……ほかの方はだれも知らないことで、あの人に聞かせなければならんことじや。そうすれば、あとで或る人とのあいだの大へん悲劇的な誤解が救われるかもしれません」
「いつたいあなたは何を言つてるんですか?」と老弁護士ダイクがきいた。
「つまりあの悪いニュースですわい」とブラウン神父は言つた。
「ヤア、こいつ」警部はカッとして言いかけた。するとふいに坊さんと目を合わせて、ほかの事件で目撃したこの坊さんのいろんな不思議を思い出した。「いや、これがあなた以外の者だつたら、わたしはこんないまいましい、あつかましい……」
 しかしブラウン神父はもうそんな言葉のきこえない所まで遠ざかつていて、一瞬後にはポーチでハーカーと話しこんでいた。二人は一緒にあちこちと二足三足歩きまわつていたがやがて暗い屋内に消えてしまつた。ブラウン神父がたつたひとりで出てきたのは十分後であつた。
 みんながびつくりしたのは、全員がいよいよ家の中へはいろうとしているのに、ブラウンは二度と中へはいるようすを見せなかつたことであつた。彼は木の葉の茂つたアズマヤの中のかなりガタガタした腰かけに身を投げかけて、一同の行列が戸口をはいつて見えなくなると、パイプに火をつけて頭のまわりにある長いギザギザの葉のむらがりをボンヤリ見つめながら、小鳥の声に耳をすましているらしかつた。これほど辛抱強く心から無為を楽しもうとしている人はいなかつた。

 ブラウンが見たところ煙の雲に包まれ放心状態でウットリしていると、玄関のドアがもう一度サッと開いて、何人かの人影があわてふためいてブラウンのほうに駆けてきた。令嬢とその賛美者の若いルーク氏が楽々と競走に勝つた。二人の顔は驚きに燃えていたし、そのあとから、庭をゆるがす象のように、重々しく進んできたバーンズ警部も憤慨して負けずに燃え立つていた。
「いつたいどういうわけなんですの?」オリーブが、あえぎながら立ち止まつて、大きな声で叫んだ。「あの男は行つてしまいましたわ!」
「逃げたんだ!」と大尉が爆発するように言つた。「ハーカーはスーツケースを荷作りして逃げちまつたんです! 裏口から出て、庭の塀を乗り越えて、どことも知れない所へあざやかに行つてしまいました。あなたは何を言つてきかせたんですか?」
「ばかなことを言うもんじやないわ」とオリーブがさつきより心配そうな表情で、言つた。「もちろんあなたはあの男の仕業を発見したと言つておやりになつたのでしよう……それで逃げたんですわ。わたくしにはあの男がそんなに悪い人だとはとても信じられませんでしたわ!」
「オイ!」警部がそのあいだに割つてはいつて、あえぐように言つた。「あんたは何をしたんですか? 何のためにわたしにこんな失敗をさせたんですか?」
「えッ」ブラウン神父はおうむがえしに言つた。「わしが何をしたんですか?」
「あんたは殺人犯人を逃がしたんだ」バーンズがキッパリ叫ぶと、静かな庭に雷鳴のように響きわたつた。「殺人犯人が逃げるのを手伝つたのだ。わたしはバカみたいにあなたが奴に警告するままにしておいた。もう何マイルも遠くへ行つている」
「わしは或る時代に二三の殺人犯人を助けたことがあります……ほんとうです」とブラウン神父は言つてから、こんどは注意深くはつきりとつけくわえた。「したが、よろしいかな、わしは奴らが殺人を実行するのを助けたことはありませんぞ」
「でもあなたはずつと前から知つてらしたんですわ」とオリーブが言いはつた。「あなたは最初からあの男に違いないと見当をつけていらしたんです。死体が発見されたと聞いてあなたが取り乱したのは、それだからですわ。父が部下にきらわれるかもしれないとお医者さまがおつしやつたのも、それだからです」
「それだからわたしが文句を言うのだ」と警部は憤然として言つた。「あんたはあの時から知つていたんだ、あの男が……」
「あなたはあのときから知つてらしたんですわ」とオリーブが言いはつた……「あの犯人は……」
 ブラウン神父は厳粛にうなずいた。「さよう、わしはあのときから知つていました……殺人犯人はダイク老人でした」
「だれだつて?」と警部はくりかえしたが、死んだような沈黙に言葉を切つた……それを中断するのはときどきの鳥のさえずりだけであつた。
「つまり弁護士ダイクさんですわい」ブラウン神父は、幼稚園の子供に何か幼稚なことを説明して聞かせるように、説明した。「これから遺言状を読むことになつているあのごま塩の紳士です」
 みんなが彫像のように立つて見つめているうちに、ブラウンはまた注意深くパイプをつめて、マッチをすつた。やつとバーンズが声の力を取りかえして、息のつまりそうな沈黙を暴力に近い努力で破つた。
「だが、いつたいなぜだ?」
「ああ、なぜでしようか?」と坊さんは言つて、パイプをふかしながら、考え深そうに立ちあがつた。「なぜあの男がこんなことをしたかというと……いや、どうやらあなた方に――というよりあなた方の中でまだご存じのない方に、この問題のすべての鍵になる事実をいよいよお知らせするときが来たようです。これは大きな災難です……大きな犯罪です。したがそれはクレイブン提督殺しとは違います」
 ブラウンはオリーブの顔をまともに見て、ごく真剣に言つた――
「わしは例の悪いニュースをあまり言葉を費さないで露骨にあなたに申しあげよう……というのはあなたはそれをチャンと聞いてくださるだけの勇気があるし、それにそんなことには負けないほど幸福そうだと思うからです。あなたには立派な女性になるだけのチャンスがあるし、それからそれだけの力もあると思います。あなたは大財産の女相続人ではないのじや」
 それに続いた沈黙の中で、また説明をはじめたのはブラウンであつた。
「お父さまの財産の大部分は、残念ながら、なくなつてしまつたのです。なくなつたのは、あのダイクというごま塩の紳士の財政的手腕で、あれは(悲しいことですが)詐欺師ですわい。クレイブン提督を殺したのは、詐欺の一件を口外させないためでした。提督が破産してあなたが相続権を奪われたという事実は唯一の簡単な手がかりです……殺人ばかりでなく、この問題のすべての不思議を解くものです」ブラウンは一二度煙を吐いてから、また続けた。
「わしはあなたの相続権がなくなつたことをルークさんに話しました。するとこの方は大急ぎであなたを助けに帰つてきました。ルークさんはなかなか尋常でない方じや」
「ああ、やめてください」ルークさんが憤然として言つた。
「ルークさんは怪物じや」ブラウン神父は科学者のように冷静な態度で言つた。「この人は時代錯誤の先祖返りで、石器時代の生き残りじや。わしらが今日ではまつたく消滅したと思つていた、たつた一つの野蛮な迷信があるとすれば、それは名誉と独立心についてのルークさんのような考え方でした。したがそれではわしはあれほどたくさんの死滅した迷信と混同していることになります。ルークさんは消滅した動物です。プレジオザウルス[#「プレジオザウルス」はママ]古生代の[#「古生代の」はママ]蛇頸竜)です。妻に頼つて暮したり、あいつは金持の女をさがしあてたぞと言われるような妻を持つたりしたくなかつたのでした。そういうわけでこの人は奇怪な態度でふさぎこんでいたのです。あなたが破産したといういいニュースをわしが知らせると、やつとまた生気を取り戻しました。ルークさんは妻のために仂きたかつたので、妻に養われたくなかつたのでした。ムカムカするような話じやありませんか、ええ? ではもつと明るいハーカー君の問題に移ろうじやありませんか。
「わしはあなたの相続権がなくなつたことをハーカー君に話しました。するとあの男はあわてふためいて逃げ出しました。ハーカー君にはあまり手ひどくしないでください。あの男は善悪ともほんとに熱情を持つていたのです。ただそれをすつかり混同していたのです。野心を持つのは別に害はありません……したがあの男は野心を持つていて、しかもそれを理想と名付けていました。昔の名誉観念は、成功を疑うことを教えました……つまり、『これでは利益になる……これでは買収されるのではなかろうか』と考えたものです。善を築くについての十層倍もあさましい、新しい、ナンセンスな考え方では善を築くことと富を築くことを同一視するように教えます。その富を築くことがハーカーにとつては何より大切なことでした。ほかの点ではまつたくいい男なのですが、ああいう人はたくさんいます。幸運の星をつかむことと世の中で立身することだけが向上でした。よい妻をめとることと金持の妻をめとることだけが善を築く道でした。したがあの男は皮肉な悪党ではありませんでした。もしそうだとしたら、アッサリ戻つてきて、ようすしだいであなたを振り捨てるか縁を切るかしたでしようからな。あの男はあなたに面と向かい合うことができなかつたのです……あなたが現にここにいるのに、あの男の理想の半分が破れてしまつたからです。
「わしは提督と話したのではありません。したが、だれか話した者があつたのです。ともかく最後の艦上閲兵式中に、あの友達の弁護士が裏切つたという知らせが提督の耳にとどいたのです。提督はとたんにカッとしていきり立つたので、正気だつたらとてもやりそうもないことをしました……悪党を捕えようとして金モールの正装に三角帽でまつすぐ上陸したのです。警察に電報を打つておいたので、それで警部が緑人亭のあたりをうろついていたのです。ルーク大尉があとを追つて上陸したのは、何か家庭にゴタゴタがあつたのではないかと思つたからですし、ことによれば自分が援助して信用を取り戻したいと半ば希望していたからです。そのためにためらいがちな挙動になつたのでした。一足おくれてひとりつきりになつたと思つたとき剣を引き抜いたのは、いや、あれは空想力の問題です。ルークさんは剣を夢見たり海上生活に走つたりしたほどロマンチックな人でした。ところが勤務してみると、三年に一年ぐらいしか剣をつけるのも許されないということがわかりました。ルークさんは、子供のころ遊んだ砂浜にひとりつきりでいると、思いました。もしルークさんのしたことがあなた方におわかりにならないとすれば、わしは、スティブンソンと同じに、『あなた方は絶対に海賊になれませんよ』と言うよりしかたがありませんわい。それからまた詩人にもなれないでしようし、男の子だつたこともないのでしような」
「わたくしはそうですわね」とオリーブはまじめに答えた……「でもわたくしはわかると思いますわ」
「ほとんどどんな人でも剣や短刀のような形をした物だとおもちやにするものです」と坊さんは沈思しながら続けた。「たとえペーパーナイフでもそうです。それだから弁護士がそうしなかつたのをわしは大へんおかしいと思つたしだいです」
「どういう意味ですか?」とバーンズがきいた。「何をしなかつたんですか?」
「オヤ、気がつきませんでしたか?」とブラウンは答えた。
「最初事務所で会つたとき、弁護士はペンをおもちやにしていて、ペーパーナイフをおもちやにしませんでした。そのくせイタリア風の短剣の形をした美しいよく光る鋼鉄のペーパーナイフがありました。ペンはホコリだらけでインクでよごれていました。したがナイフはチャンときれいにふいてありました。それなのにナイフをおもちやにしなかつたのです。卑劣な殺人者の皮肉にも限度があるのでしような」
 しばらく黙つていてから、警部は、夢からさめたように、言つた――「どうでしよう……わたしは足が地についているのか逆立ちしているのかどつちだかわかりません。あなたがこれで話はおしまいだと思われているのかどうかもわかりません。ですがわたしはまだ最初の所もわかつていないのです。どこからあなたはこの弁護士の材料を手に入れたのですか? どうして怪しいとにらんだのですか?」
 ブラウン神父はそつけなく陰気に笑つた。
「犯人は出発点で或る手ぬかりをしたのです。ほかの人がなぜ気がつかなかつたか、わしには考えられないくらいです。あなたが弁護士の事務所へ初めてあの死のニュースを持つて行かれたときは、あの場にいた人はだれも何も知らないはずでした……提督は帰つてくるとばかり思つていたわけです。提督がおぼれたとあなたが言われたとき、わしはいつのことかとお尋ねしましたし、ダイク氏は死体はどこで発見されたかと尋ねました」
 ブラウンはちよつと一息入れて、パイプの灰をはたきおとしてから、考え深そうにまた話しはじめた。
「ところで海軍の人が海から帰る途中でおぼれたということだけ聞かされたら、それは海上でおぼれたものと考えるのが自然ですわい。ともかく、海上でおぼれたように思うはずです。デッキから波にさらわれたか、船と一緒に沈んだか、それとも遺体を海底に葬られたか、いずれにしても死体が発見されるわけは全然ないはずじや。あの男が、どこで死体が発見されたかと、尋ねたとたんに、わしは、たしかにこの人は死体が発見された所を知つてるなと思いました。だつてあの男があすこへ置いたのですからな。殺した犯人でなかつたら海上の人間が海から数百ヤード離れた、陸にかこまれた池の中でおぼれているというような、めつたにありそうもないことを思いつくはずはありません。それだからわしは急に気分が悪くなつて、緑色に近いほど青くなつたのでしよう……あの緑色の人のように緑色に近かつたでしような。自分が人殺しのそばにすわつているのにフッと気がついたのは初めてのことでしたからじや。そこでわしは話をそらして、たとえ話をしなければなりませんでした。したがあのたとえ話には、けつきよく、かなり意味があつたのです。わしは、死体は緑色の浮きかすでおおわれていたが、海草のほうがふさわしかろうにと、言いましたのじや」

 悲劇が喜劇を絶滅させるわけにいかないので、この二つが平行して見られるのは幸運である……そこでウイリス・ハードマン・アンド・ダイク事務所で実務を取つていた唯一の弁護士ダイク氏が、警部が自宅に押し入つて逮捕しようとすると、ピストルで頭を吹き飛ばしたあいだに、オリーブとロジャーは、子供の時一緒に遊んでいたとおりに、夕暮の砂浜でおたがいに大きな声で呼び合つていた。





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ロージャー・ルーク」と「ロジャー・ルーク」の混在は底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字4、1-13-24) 緑色の人」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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