村の吸血鬼

THE VAMPIRE OF THE VILLAGE

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 丘の細道の曲り角に、二本のポプラがピラミッドのようにそびえ立つて、そのためにホンの一団の家のかたまりに過ぎない小さなポタス・ポンドの村がなおさら小さく見えていたが、ここを或る時歩いていたのは、大へん目立つた型と色の衣裳をつけた男であつた……あざやかな深紅色の外套を着て純白の帽子を真黒な[#「真黒な」は底本では「直黒な」]神々しいほどの巻き毛の上にかたむけていた。巻き毛の先きはバイロン風のはなやかな頬ひげに続いていた。
 なぜその男がこういう風変りな古風の服を着ていたか……しかもそれを当世風の気取つたような所さえあるかつこうで着ていたか……という謎は、最後に彼の不幸な運命の秘密を解決するときに解決された多くの謎の一つに過ぎなかつた。ここでの要点は、その男がポプラを通り過ぎたとき消えてしまつたように見えたことである……まるで青白い夜明けの光がひろがつてきた中に溶けこんでしまつたか、それとも朝風に吹き飛ばされてしまつたかのようであつた。
 男の死体が四分の一マイルほど離れた所で発見されたのはわずか一週間ほど後であつた……お屋敷グレインジと呼ばれている、よろい戸を閉めきつた、ヒョロ高い家に通じる、段庭の急な岩山の上で打ちくだかれていた。この男が姿を消す直前に、どうやらだれかそばにいた連中と口論して、特にこの村を「みじめなつまらん小村ハムレット」と言つて罵つている声を、偶然立ち聞きした者があつた。そこでこの男は土地の若者の極端に熱烈な愛郷心をそそり立てたあげくその犠牲になつたものと、想像された。少なくとも土地の医者は、頭蓋骨に死の原因となるほど猛烈な一撃を受けていると、証言した……尤もおそらく頭の太い棒か、農民が武器に使つた棍棒ようの物で受けた一撃にすぎないということであつた。これは、かなり野蛮な田舎の若い衆が襲撃したのではないかという考え方に、実にうまくあてはまつた。しかし特定の若者をさぐり出す手段についてはだれにも見当がつかなかつた。そこで死後審問は、未知の人物による殺人という評決を答申した。
 一二年後この問題が妙な具合に再開された……この村に一連のでき事があつて、そのためにマルボロ博士(この人が親友連中にマルベリ<桑の実>と呼ばれていたのは、ありがたくない肥満した体とかなり紫色の顔色が豊かなみずみずしい物を連想させるので、それをうまくほのめかしたのであつた)という医者が、この種の問題でたびたび相談したことのある一人の友人をつれて、ポタス・ポンドまで汽車の旅をすることになつた。この医者は、やや酒好きらしい重々しい外見に似合わず、鋭い目を持つていて、ほんとうに大へん非凡な分別のある男であつた。医者はその分別ぶりを、ずつと以前或る毒殺事件で知り合つたブラウンという小がらな坊さんに相談するときにも、はつきり見せているつもりであつた。小がらな坊さんは医者の向側に腰をかけて、赤ん坊のように辛抱強く、教えられることを吸収していた。そして医者はとうとう旅行のほんとうの目的を説明していた。
「わたしは、ポタス・ポンドがみじめなつまらん小村にすぎないという、あの深紅色の外套を着た紳士の意見には賛成できません。しかし、たしかに大へんへんぴな人里はなれた村ですから、百年前の村のように、ごく風変りな感じがします。やもめ女スピンスタ糸をつむぐ者という意味)はほんとうに糸をつむいでいます――ええくそ、あなたは連中が糸をつむいでいる姿を見ているような気がするでしよう。女たちはただの女たちではありません。淑女です……それから薬局は、薬局ではなくて薬種屋です。村では、その薬種屋の手伝いをするためにわたしのような平凡な医者の存在を認めているだけです。しかしわたしなどはむしろ若造の新米だと思われています。たつた五十七才で、あの州にたつた二十八年いただけですからな。村の弁護士はまるで二万八千年前からあの土地を知つていたような顔をしています。それから、ディケンズの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵そつくりの、海軍の老提督がいます……家中を水夫用の短剣や大イカでいつぱいにして、望遠鏡を備えつけています」
「そりや海岸にはいつも或る程度の数の海軍提督が余生を送つているでしようが、なぜあの連中がそんな遠い奥地に打ち上げられていることがあるのか、わしにはどうもわかりませんでしたのじや」
「たしかにこの国の奥地の死んだような土地の深みには、ああいう連中の存在も必要だからですよ」と医者は言つた。
「それから、もちろん、村にふさわしいタイプの牧師がいます――保守党で、ロード大司教時代以来のかびくさい感じの高教会派ハイチャーチです……どんなおばあさんよりもばあさんくさい人です。真白な髪をした勤勉な老人で、村のやもめ女以上に簡単にショックを受けやすい人です。実際、あの淑女連中ときたら、主義は清教徒でも、昔の本物の清教徒と同じに、かなりはつきりした話をすることがありますからね。一二度わたしは、カーステアーズ・キャルー老嬢がバイブルの中にある言葉に劣らないほど刺戟の強い表現を使うのを聞いたことがあります。老牧師さんのほうはバイブルを読むのには勤勉ですが、どうもそういう文句に出合うと、目をつぶるのじやないかと思います。いや、わたしは別に新しがるわけではありませんよ。わたしは、あの明るい若い連中のジャズ騒ぎや興味本位のドライブを喜びませんし――」
「明るい若い連中はそんなものを喜んでやしませんわい」とブラウン神父。「それがほんとうの悲劇です」
「しかしわたしはこの先史時代の村の人よりは当然かなり多く世間にふれています」と医者は話を進めた。「そこでわたしは、ほとんどあの大醜聞を歓迎したいような気分になつていました」
「まさか例の明るい若い連中がけつきよくポタス・ポンドを見つけ出したわけじやないでしような」坊さんはニコニコしながら批評した。
「ああ、村では醜聞といつても古風な芝居じみたものです。やがて牧師の息子が当面の問題になるということを申しあげておく必要はないでしようね? もし牧師の息子がごくまともだとしたら、そいつはまともじやないことになるでしようからな。わたしの見るかぎりでは、その息子はまともでないといつても、ごく無難なホンのちよつとした程度です。『青獅子亭』の表でビールを飲んでいる姿を見られたのが最初でした。ただ彼は詩人らしいのですが、詩人などというのはあの土地では密猟者と紙一重ぐらいに思われてますからね」
「まさか、いくらポタス・ポンドにしても、それだけでは大醜聞とは言えますまい」
「ええ」と医者は厳粛に答えた。「大醜聞がはじまつたのは、こうなのです。村の森の一番はずれにある、『お屋敷』と呼ばれている家に、一人のレデイが住んでいます。孤独のレデイです。マルトラバース夫人と自称しています(それでわれわれもそう呼んでいます)が、一二年前に来たばかりで、彼女についてはだれも何一つ知りません。『あたしにはなぜあの方がこんな所に住む気になつたのか考えられませんよ。あたしたちは訪ねていかないことにしてますわ』とカーステアーズ・キャルー嬢が言つていました」
「たぶんそれでその婦人は村に住む気になつたのですわい」とブラウン神父。
「ところで彼女の独り住まいは怪しいと思われています。彼女は美人でおまけにいわゆるお上品でもあるのですから、みんなを悩ませています。そこで若い連中はみんな、あれは吸血鬼ヴァムプだからと言つて、警告されています」
「慈悲の心を失なう者は一般に論理を失なう」とブラウン神父は意見を述べた。「その婦人が独りで閉じこもつていると文句を言つておいてから、こんどは村中の男性をヴァムプのように誘惑すると言つて非難するのは、かなりこつけいですわい」
「そりやまつたくです。それにしても彼女はほんとにかなり謎の人物です。わたしはあの人に会つて、興味をそそる人だと思いました……例のとび色の肌の婦人で、背が高くて優美で、いまわしいほど美しいとでも言うのでしようかな。かなりウイットに富んでいますし、まだ若いのに、たしかにいわゆる――ウン、そうだ、経験が深そうな印象を受けます。村のおばあさんたちに言わせると、過去というやつです」
「そこのおばあさんたちはみんなたつたいま生れたばかりでしようからな」とブラウン神父は批評した。「わしは推測できそうです……その婦人が牧師の息子を誘惑したと思われているのでしような」
「そうです。そしてそいつがきのどくな老牧師にとつては大へん恐ろしい問題らしいのです。彼女は未亡人だと思われていますからね」
 ブラウン神父の顔に珍らしくイライラしたような表情が発作的にひらめいた。「その婦人が未亡人だと思われるのは、牧師の息子が牧師の息子だと思われるのと同じですし、弁護士が弁護士だと思われたり、あなたが医者だと思われたりするのと同じでしよう。なんだつて未亡人であつてはいけないのですか? 村の人たちは彼女の話を疑うだけの一応の証拠をいくらかでも握つているのですか?」
 マルボロ博士はだしぬけに広い肩をいからせて、坐りなおした。
「もちろんそれもあなたのおつしやるとおりです。しかしわれわれはまだ醜聞の話になつていないのです。さて、その醜聞は彼女が未亡人だということです」
「ああ」とブラウン神父は言つた。そして顔色が変つて、何かをそつとかすかに言つたが、それはことによると「畜生!」というようなことだつたかもしれない。
「まず第一に、村の連中はマルトラバース夫人について、一つの発見をしました。彼女は女優です」
「わしはそんな気がしていました」とブラウン神父は言つた。「そのわけはきかないでください。わしはほかにも想像していることがありますが、そいつはなおさら見当違いだと思われそうですわい」
「ところで、あの時は彼女が女優だつたというだけで十分醜聞になりました。老牧師はもちろん悲嘆に暮れています……男たらしの女優のために、死ぬまで苦労をしなきやならんと考えているのでしようからな。やもめ女たちは金切り声の合唱です。提督は、時には町の劇場へ行くことがあると認めていますが、いわば『この土地の真中』にこういうことがあつては困ると反対しています。ところで、もちろんわたしはそういうことに特別反対はしません。この女優は、シエクスピアの十四行詩ソネットに歌われている例の黒夫人ダークレデイのようなところがいくらかあるとしても、たしかにレデイです……青年は彼女を大へん愛しています。それにわたしはたしかにセンチメンタルなバカおやじで、『お屋敷』の附近をひそかにうろついている心得違いの若者にひそかに同情しています。そしてわたしはこの田園のロマンスにまつたく牧歌的な気分になりかけていました……するとだしぬけに晴天のヘキレキでした。それでわたしは、あの人たちに多少とも同情していた唯一の人間なので、この凶運の使者に立たされたのです」
「なるほど、するとなぜ使者に立たされたのですかな?」
 医者はうめくように答えた――
「マルトラバース夫人は未亡人だというだけでなく、マルトラバース氏の未亡人なのです」
「そうおつしやると、まつたく驚くべき天のお告げのようですわい」坊さんはまじめに承認した。
「そしてマルトラバース氏は……」と医者は続けた……「実にこの村で一二年前に明らかに殺された男でした……無知な村人に頭をなぐりつけられたものと思われていました」
「わしはさつきのお話をおぼえています。その医者は、どこの医者か知りませんが、死因はおそらく棍棒で頭を打たれたためだろうと言つたのですな」
 マルボロ医師は当惑したように顔をしかめて、しばらく黙つていた。それからぶつきらぼうに言つた――
「犬は犬を食いませんし、医者は、たとえ相手が気違いの医者であつても、医者には食いつきません。もしできることなら、わたしはポタス・ポンドのすぐれた先輩を非難したくありません。しかしたしかにあなたは秘密を打ち明けてもほんとに大丈夫な方です。ですから、内密な話ですが、ポタス・ポンドのわたしのすぐれた先輩はとんでもないバカでした……酔つぱらいのほら吹きおやじでまるきり無能でした。わたしは元来州の警察部長に頼まれて(これはわたしがこの村へは最近来たばかりですが、この州には長いあいだ住んでいたからです)死後審問の宣誓証言や報告その他の仕事を一さい見ることになりました。そこでその点についてはまつたく何の問題もありません。マルトラバースは頭をなぐられたのかも知れません……彼は通りがかりの旅役者でした。そこでポタス・ポンドでは、あんな人間が頭をなぐられるのはあたりまえだと、考えているようです。しかしだれが彼の頭をなぐつたとしても、その男が彼を殺したのではありません。あの傷は、説明どおりだとすると、せいぜい二三時間気絶させるくらいが関の山です。しかし最近わたしは事件に関係のある二三の事実を見つけ出しました。その結果かなり不気味なことになりました」
 医者は車窓を流れて行く風景に顔をしかめていた。それからいつそうぶつきらぼうに言つた――
「わたしが村へ帰るのにあなたの助けをお願いしたのは、死体発掘が行われることになつているからです。毒殺の疑いがひじように濃厚なのです」
「ヤア、着きましたわい」とブラウン神父は上きげんで言つた。「どうやらあなたのお考えでは、そのきのどくな男を毒殺した疑いがふりかかるのはどうしても家事の勤めをしていた細君だというのでしような」
「フム、この村であの男と特別の関係があつた者はほかに一人もいなかつたらしいんです」マルボロは、列車から降りながら、答えた。「少なくとも一人だけ彼の昔の相棒で、役者くずれの変てこな男がうろついています。しかし警察や土地の弁護士は、そいつは頭のおかしいおせつかいだと思いこんでいるようです……昔自分の敵だつた或る役者――たしかにマルトラバースとは違う男――との喧嘩について固定観念にとりつかれている男です。まあ何かとりとめのない偶然事件で、たしかに毒殺の問題とは何の関係もありますまい」
 ブラウン神父は話をすつかり聞いてしまつた。しかしこの人には、話の中の登場人物がわかるまで話というものはわかるものでないことが、わかつていた。ブラウンは翌日から二三日をつぶして、あれこれと礼儀正しい口実を作つて、この劇の主演者を訪ねてまわつた。最初の神秘的な未亡人との会見は短いが明るいものだつた。その会見からは少なくとも二つの事実がつかめた――一つはマルトラバース夫人はこういうビクトリア時代そつくりの村では、皮肉だと言われそうな調子で話すことがときどきあるということ……それから第二に、たいていの女優と同じに、彼女もたまたまブラウンの宗派に属していたということであつた。
 ブラウンはこの宗派のことだけで当の犯罪についての彼女の身の潔白を推論するほど非論理的ではなかつた(またそれほどの異端者でもなかつた)。自分の古い宗派だつて幾人か著名の毒殺者がいたのを自慢できることをよく承知していた。しかしブラウンには、こういう場合の、或る程度の精神的自由とカトリックとの関係が苦もなくのみこめた……なにしろそういう自由は、清教徒の連中には放縦だと言われるだろうし、こうした旧式な英国のせまい教区ではたしかに四海同胞主義だと思われそうであつた。ともかく、彼女が善悪いずれにしても大いに問題にされそうだということはブラウンも確信した。彼女のとび色の目はいまにも戦おうとするほど勇敢だつたし、情の深そうなかなり大きい、謎のような口元は、彼女が牧師の詩人息子を動かした目的は、何であろうと、かなり根深いものだということを物語つていた。
 牧師の詩人息子自身は、村の大へんな醜聞の最中に青獅子亭の表のベンチで会見してみると、まつたくのすね者だという印象を受けた。サミュエル・ホーナー師の息子ハレル・ホーナーは薄ねずみ色の服を着た肩幅の広い青年で、薄緑色のネクタイに多少芸術家的気分を見せていたが、そのほかは主としてたてがみのような金褐色の髪の毛と絶えずにがい顔をしているのが目についた。しかしブラウン神父は、一言もいわないと拒絶した相手にその理由をかなり長々と説明させてしまうコツを心得ていて、それをこの男にも用いた。この村でごくふつうになつている醜聞あさりについて、青年は思うままに罵倒しはじめた。自分のちよつとした醜聞あさりまでつけくわえた。清教徒のカーステアーズ・キャルー嬢と弁護士カーバー氏とのあいだの昔の浮気話らしい話をにがにがしげにほのめかしたのである。その法律家がむりにマルトラバース夫人と近づきになろうとしたのを非難したりさえした。しかし自分の父親の話になると、親に対する辛竦な礼儀か敬意からか、それとも口がきけないほど深い怒りのためか、二言三言かみつくように言つただけであつた。
「フム、そうなんですよ。父は彼女を、白粉を塗つた男たらしだ、にせ金髪の酒場女だと言つて、朝に晩に攻撃するんです。ぼくは、そんな人じやないと、言つてやります……あなたはご自分でお会いになつたので、そんな人じやないのはおわかりでしよう。ですが父は会おうともしないんです。通りがかりのところさえ見ようとしないし、窓からのぞいて見ようともしないんです。女優なんていうものは父の家をけがし、父の神聖な存在さえけがすんでしようよ。それでもし清教徒的だと言われるようなら、おれは大喜びで清教徒になると言うんですよ」
「あなたのお父さまは、たとえどんな意見にしても、ご自分の意見を尊重される資格があります……お父さまのご意見はわし自身にはよくのみこめませんけどな。したがいくらお父さまでも、自分が会つたこともない婦人について独断的な文句をならべて、その上顔を見ることさえ拒絶する資格がないのは、わしも認めます。それでは理屈に合いません」
「それが父の大へんかたくなな所です。ほんのちよつとでも会おうとしないんです。もちろん、父はぼくのそのほかの演劇趣味にも同じようにどなりつけますがね」
 ブラウン神父はこの新しい手がかりを手早くたどつて、知りたいと思うことを大分きき出した。この青年の性格上一つの汚点だと見られていた詩は、ほとんどまつたく劇詩ばかりであつた。韻文でいくつかの悲劇を書いていて、それは立派な目のある人たちに賞賛されていた。彼はただの芝居気違いのバカではなかつた……実際どこからみてもバカではなかつた。シエクスピア劇の演技については、ほんとうに独創的なアイデアを持つていた。彼がお屋敷であのすばらしいレデイを見つけて、呆然として歓喜した気持はよくわかることであつた。そして坊さんの知的な同情だけでもこのポタス・ポンドの反逆児の胸をよほどやわらげたとみえて、別れるとき彼はほんとに微笑してみせた。
 青年が実はみじめな気持でいることがふいにブラウン神父にはつきりわかつたのは、その微笑であつた。顔をしかめているあいだは、それはなるほどただのすね者なのかもしれなかつた。しかし彼が微笑したときは、それはともかく心の底の悲しみをもつとほんとうに物語つていた。
 詩人と会見してから何かがいつまでも坊さんの頭から離れなかつた。本能的にたしかだと思われたのは、このたくましい青年が、月並な親たちがほんとうの恋愛の進路の障害物になるという月並な物語以上に、何か大きな悲しみに内部からむしばまれているということであつた。そのほかに明らかな原因がないのだから、なおさらそうとしか思えなかつた。青年はすでに文学的にも演劇的にもかなり成功していた。いくつかの作品は飛ぶように売れていたと言つてもよかつた。それに酒を飲みもしなかつたし、自分でかせいだ金を使いはたしもしなかつた。青獅子亭での悪名高い底抜け騒ぎは軽いビール一杯のことだつた。そして自分の金にはかなり用心しているらしかつた。ブラウン神父は、ハレルの大きな収入と小さな支出にはどうやら別のもつれが関係していそうだと考えて、ひたいを暗くした。
 ブラウンがその次ぎに訪問したカーステアーズ・キャルー嬢の話は、たしかに牧師の息子を一番暗い色彩で色どるように計算されていた。しかし夢中になつてしてくれる話が、ブラウン神父にはたしかに全然感じられなかつたあの青年の特別の悪徳ばかりならべ立てているので、これはありふれた清教主義と噂話が結びついたからだなということがわかつた。しかしこの婦人は、高尚ぶつてはいたが、ごく親切だつたので、どこでも見られるごく古風な大伯母さんのような態度で、お客さまに小さなグラスのポートワインと一切れの種入れケーキを出してきて、ブラウンが逃げ出すひまのないうちに、道徳や行儀作法の一般的堕落についてさんざんお説教を聞かせたのであつた。
 次ぎの寄港地はそれとは大へん対照的であつた。というのはブラウンは暗いきたない裏道に姿を消したが、こんな所はカーステアーズ・キャルー嬢なら考えるだけでも同行を拒絶しそうであつた。それからブラウンは、屋根裏部屋でカン高い熱弁をふるつている声がするためによけいそうぞうしい、せま苦しい一軒の借家にはいつて行つた……。そこからブラウンは、かなりボーッとしたような表情で、また現われてきたが、歩道までそのあとを追つてきたのはようかん色のフロックコートを着て、顎の青々とした、ひどく興奮している男で、議論するように大声で叫んでいた――
「奴は消えたんじやねえ! マルトラバースは絶対に消えやあしなかつた。奴は現われたんだ……死んで現われたし、あつしは生きて現われてらあ。だが一座のほかの連中はどこにいる? あの男はどこにいる……おれのせりふをわざと盗んで、一番の見せ場をだいなしにして、おれの一生を棒に振らせやがつた、あの化け者野郎はどこにいるんだ? あつしはいままでに舞台を踏んだ中じや一番みごとなチューバル(「ベニスの商人」に登場する端役)だつたぜ。奴はシャイロックをやつた――奴はあの役には大して芝居する必要はなかつたのよ! そしてあつしの一生で、最大のチャンスにもあんなことをする必要はなかつたのさ。あつしがフォーチンブラスをやつたときの新聞の切り抜きを見せたら……」
「きつとそりやすばらしい、また当然の批評だつたでしような」小がらな坊さんはあえぎながら言つた。「わしは一座がマルトラバースの死ぬ前に村を立つていたことがよくわかりました。したがそれでけつこうです。まつたくけつこうです」そう言うと、ブラウンは急いでまた通りを歩きはじめた。
「奴はポローニアスをやることになつていた」止めようのない雄弁家がうしろで言い続けた。ブラウン神父はふいにパッタリ足を止めた。
「ああ」ブラウンは大へんゆつくり言つた。「ポローニアスをやることになつていた」
「あの悪党のハンキンめ!」役者は金切り声で言つた。「奴の跡を追つ駆けてくれ。地球のはてまで追つ駆けてくれ! むろん奴は村を出て行つた……そいつはたしかさ。奴を追つ駆けてくれ――奴を見つけてくれ……そしたら畜生め――」しかし坊さんはまた通りを急いで進んでいた。
 この芝居がかつた場面のあとで、もつとずつと散文的でおそらくもつと実際的な二つの会見が続いた。最初坊さんは銀行へはいつて行つて、そこでは支配人と十分間密談した。それから老年の愛想のいい牧師に大へん当然の訪問をした。ここもまたすべてが話にきいていたのとそつくりで、変つていなかつたし、また見たところ変えられそうもなかつた……厳格な伝統から生れた信心の深さがなんとなく偲ばれたのは、壁にかかつた細長い磔刑像や、書見台にのつている大きなバイブルや、老牧師が口をひらくとすぐ日曜日を無視する傾向がだんだんひどくなつてくるのを嘆いた苦情などであつた……しかしすべてに上品なゆかしさがただよつていたのは、ちよつとした所に見られる洗練された趣味と色あせたぜいたく品のためであつた。
 牧師も客に一杯のポートを出した。しかしそれに添えたのは、種入れケーキではなく、古風なイギリス風のビスケットであつた。坊さんはまたしても、あまりに何もかもがそろいすぎているので、自分が一世紀も昔の世界にいるのではないかという不気味な感じを味わつた。ただ或る一点で、この愛想のいい老牧師はそれ以上愛想のいい所を見せようとしなかつた……彼はおだやかに、だが断固として、舞台の役者に会うのは自分の良心が許さないと言い切つたのであつた。
 しかし、ブラウン神父は尤もだというような表情で謝意を表しながらポートのグラスを置いた。そして打ち合わせたとおり町角であの医者に会いに出かけた。そこから二人は弁護士カーバー氏の事務所に同行することになつていた。
「うつとうしい訪問だつたでしような」と医者は言いはじめた。「それにひどく退屈な村だということがおわかりになつたでしよう」
 ブラウン神父の声は金切声に近いほど鋭かつた。
「この村を退屈だなんて言わないことじや。わしは保証しますが、実際ここはなかなか尋常でない村ですわい」
「わたしはいままでこの村で起つた唯一の尋常でないことをあつかつてきたところですよ。それだつてよそから来た人に起つたことです。実をいうと当局は昨夜こつそり死体を発掘しました。わたしは今朝それを解剖しました。わかりやすく言えば、われわれはまつたく毒薬をつめこんであるような死体を掘り出していたのです」
「毒薬をつめこんだ死体」ブラウン神父はかなりボンヤリしたようにくりかえした。「いいかな、この村にはそれ以上にもつとずつと尋常でないことがあるのじや」
 だしぬけに沈黙が続いたが、やがて弁護士の家の玄関の古風なベルの引き綱を同じようにだしぬけに引つぱることになつた。二人はすぐにこの法律家の前に通されたが、法律家は二人を順番に白髪頭で、黄色い顔に傷跡のある、例の提督らしい紳士に紹介した。
 このころには村の雰囲気が小がらな坊さんの潜在意識に深くしみこんでいた……しかしブラウンは、なるほどこの弁護士はカーステアーズ・キャルー嬢のような人たちの相談相手にふさわしい弁護士だということを、改めて意識した。だが弁護士は、古くさい老人ではあつたが、まるきり時代遅れの人間とも見えなかつた。たぶんそれは長いあいだの弁護士生活のおかげであつたろう。しかし坊さんは、この弁護士が二十世紀まで生き残つたというより、むしろ自分のほうが十九世紀初期に逆戻りさせられたのではないかという妙な感じをまたしても味わつた。弁護士のカラーやネクタイは、長い顎をその中にうずめていると、まるで昔の幅広の襟飾りのように見えた。しかしそれはすつきりしていると同時に清潔であつた。そしてこの男には大へん冷たいしやれ者のおやじというような所さえあつた。早く言えば、この弁護士は、たとえ或る点では無感覚になつていたとしても、いわゆる案外若々しい男であつた。
 弁護士と提督が――そして医者までも――かなり驚かされたのは、どうやらブラウン神父が、村中で老牧師のために嘆いているあの息子を弁護しようとしているらしいのに、気がついたからであつた。「わしの見た目ではあの若い人はむしろ魅力があると思いました」とブラウンは言つた。「なかなかよく話をしますし、よい詩人だと思います。それにマルトラバース夫人は、少なくとも舞台のことには真剣ですが、あの青年をまつたくいい役者だと言つてほめています」
「実はね」と弁護士が言つた……「マルトラバース夫人以外はポタス・ポンドの村中が、あれがいい息子かどうかを、かなり疑問にしているのですよ」
「あれはいい息子です」とブラウン神父。「それがつまり尋常でないことです」
「畜生、とんでもない」と提督が言つた。「ではあいつがほんとに父親を愛してると言うんだね?」
 坊さんは躊躇した。それから言つた――「わしはその点についてはあまり確信がありません。それがもう一つの尋常でないことです」
「いつたい何を言つてやがるんだ?」提督は船乗りらしい乱暴な言葉で詰問した。
「つまり、あの息子は父親の話をするときにいまだにかたくなな容赦のない口調になりますからな……しかもけつきよくあの息子は当然の義務以上のことをしているようです。わしは銀行の支配人と話してきました。わしらは警察の承認を得て或る重大な犯罪を内密に調査しているわけなので、支配人は事実を教えてくれました。あの老牧師は教区の仕事から隠退しています……実はここはあの人のほんとの教区ではありませんでした。かなり異端が多いこの土地の人間で、かりにも教会へ行くような連中は、一マイルと離れていないダットン・アボットへ行きます。老人には個人的な資産はありませんが、息子がかなりの金をかせいで、老人の面倒を見ていますのじや。老人はわしにとびきり上等のポートを出してくれました。わしはほこりまみれの古いびんが幾列もならんでいるのを見ました。それにわしが出てくるとき、あの人はちよいとした昼飯だというのに古風な流儀のごくより抜きの料理の席についていました。あれは若い息子の金でやつているに違いありません」
「まつたく模範的な息子ですな」カーバーがかすかに冷笑しながら言つた。
 ブラウン神父は、まるで、自分の謎を思いめぐらしているかのように顔をしかめながら、うなずいた。それから言つた――
「模範的な息子。したがかなり機械的な模範じや」
 ちようどこの時、一人の事務員が切手をはつてない手紙を弁護士に持つてきた。弁護士はその手紙にチラリと目を通してから、もどかしそうに二つに裂いた。それが二つに別れて落ちたとき、坊さんは蜘蛛の糸のように細い気違いめいた字でゴタゴタつめこんである筆蹟と、『フィーニックス・フィッツジェラルド』という署名を見た。そこでその筆者を言い当てると、弁護士はそつけなくそれを認めた。
「こいつはいつもわれわれを悩ましているあの芝居じみた役者ですよ」と弁護士は言つた。「あいつは或る死んでしまつた昔の役者仲間に深い恨みを持つていてそいつにとりつかれているんです……そんなものはこの事件と何の関係もあるはずがないんです。われわれはみんな奴に会うのを拒絶していますが、ただこのマルボロ先生は奴に会いました。そしてあれは気違いだと言つています」
「さよう」ブラウン神父は、考え深そうに唇をすぼめながら言つた。「まあ気違いでしような。したが、もちろんあの男の話が正しいことも疑えないのじや」
「正しい?」カーバーは鋭く叫んだ。「何が正しいんですか?」
「昔の一座と関係のあるその話ですわい。あんた方は、この事件でわしが最初にまごついたのは何だつたか、おわかりかな! そいつは、マルトラバースが村を侮辱したために村人たちに殺されたという、あの考え方でしたわい。実際検屍官の言い方一つで陪審員は意外なほど何でも信じこんでしまいますからな……そして新聞記者は、もちろん、まつたく信じられないほど信じやすいものです。あの連中はイギリスの田舎者のことなどあまり知つているはずがありません。わしは自分がイギリスの田舎者です……少なくともわしはエセックスでほかのカブラ連中と一緒に大きくなりました。あんた方は、イギリスの農夫が、昔のギリシャの都市国家の市民のように、自分の村を理想化したり人間あつかいしたりしているところを想像できますか……イタリアの町の中世期のごく小さな共和国の人間みたいに、村の神聖な旗じるしのために剣を抜いたりするでしようかな? あんた方は、陽気な田舎おやじが、『ポタス・ポンドの紋章の汚点をぬぐい去るものはただ血潮のみ』と言つているのを聞くことができますかな? 聖ジョージさまと竜に誓つて、わしはただそうあつてほしいと願うだけですわい。したがそれはともかく、実際問題として、わしはもつと実際的な論拠のあるほかの考え方をします」
 ブラウンは一息ついて考えをまとめているようであつたが、やがて話を進めた――
「連中は、きのどくなマルトラバースが最後に言つたというあの一言二言の意味を誤解したのですわい。あの男は、この村がつまらん小村ハムレットだと、村人たちに言つていたのではありません。或る役者に話しかけていたのです……一座は或る出し物をかけることになつていて、その劇でフィッツジェラルドがフォーチンブラスをやり、未知の男ハンキンがポローニアスになり、そしてマルトラバースがもちろんデンマークの王子になるはずでした。たぶんだれかほかの男が、その役をほしがるか、あるいはその役についての意見を述べるかしたのでしよう。そこでマルトラバースが怒つて、『きさまなんかみじめなつまらんハムレットだ』と言いました――話はこれだけですわい」
 マロボロ医師は目をみはつていた。その暗示をゆつくりとだが苦もなく消化しているらしかつた。最後に医者は、ほかの連中が口もきけないでいるうちに、言い出した――
「するとこれからどうしたらいいでしようか?」
 ブラウン神父はかなりだしぬけに立ちあがつたが、ごくていねいに言つた。「もしこの方々がしばらくお待ちくださるなら、先生、あなたとわしはすぐホーナー家へ行こうじやありませんか。牧師も息子も、ちようどいまなら家にいるはずです。そこでわしのやりたいことはな、先生、これですわい。村ではまだだれも、あなたの解剖やその結果については知らないでしような。あなたにお願いしたいのは、牧師と息子が一緒にいる前で、事件の正確な事実を話していただくことだけです……マルトラバースが死んだのはなぐられたためではなく、毒のためだということをな」
 マルボロ博士には、さつき尋常でない村だと言われたときに、自分の頑固な疑念を考えなおすだけの理由があつた。彼が坊さんの計画を現実に実行したとき、続いて起つた場面はたしかに諺のとおり、ほとんど自分の目を疑うようなたぐいのものであつた。
 サミュエル・ホーナー師は黒い法衣を着て立つていた。法衣のあいだから銀色の神々しい頭が出ていた。ちようどそのとき、いつも聖書を研究するために立ちよる聖書台に片手をかけていたが、この場合はおそらくホンの偶然の身ぶりであつたろう。しかしそれだけになおさら権威あるようすに見えた。牧師の向側に、あの反抗的な息子が椅子にふんぞりかえつて、これまでにないほど重苦しいしかめつらで安煙草をふかしていた――親不孝の青年の生きた画像であつた。
 老人はていねいにブラウン神父を席にまねいた。ブラウンは黙つてそこに腰かけて、おとなしく天井を見つめていた。しかしなんとなくマルボロは、自分のニュースを伝えるのには立つたままのほうが印象的だという気がした。
「わたしは、或る意味でこの土地の精神的な父親としてのあなたに通知すべきだと思います……つまり、村の記録に残るただ一つの恐ろしい悲劇が新しい、おそらくもつと恐ろしい意味さえ帯びてきたからです。あなたはマルトラバースの死の悲しい事件を思い出されるでしよう……あの男はおそらく相手の田舎者が振りまわした杖の一撃で死んだものと判決されましたね」
 牧師は手を振るような身振りをした。「神さまの戒めで、わたしはどんな場合でも殺人の暴力を弁護するようなことを言つてはなりますまい。しかし役者ふぜいがこの清浄な村に邪悪な所業を持ちこんできたら、それは神様のお裁きにいどむようなものです」
「そうかもしれません」と医者は厳粛に言つた。「しかしともかくお裁きの下つたのはそうではありませんでした。わたしはたつたいま委任されて死体を解剖してきたばかりです。そしてはつきり申しあげると、第一に、頭の打撃はどう考えても死因となるものではありませんでした。そして第二に、死体には毒薬がいつぱいあつて、それが明らかに死の原因でした」
 若いハレル・ホーナーは煙草を投げ捨てて、猫のようにすばやく身軽に立ちあがつていた。一飛びで読書デスクから一ヤードかそこらの所へ着陸した。
「それはたしかですか?」若者はあえぐように言つた。「あの打撃が死因になるはずがないというのは絶対にたしかですか?」
「絶対にたしかです」と医者は言つた。
「なるほど。ではこの一撃を絶対たしかなものにしてやりたいな」
 アッというまに、だれもが指一本動かすひまのないうちに青年は牧師の口のあたりをガーンと音のするほどなぐりつけた……牧師はバラバラになつた真黒な人形のようにうしろのドアに叩きつけられた。
「何をするんだ、きみは?」マルボロは、その一撃の音だけでびつくりして、頭から足の先きまでふるえながら、大声を出した。「ブラウン神父、この気違いは何をしているんですか」
 しかしブラウン神父はビクリともしていなかつた。やはり静かに天井を見つめていた。
「わしはこの人がこうするのを待つてたのじや」坊さんはおちついて言つた。「むしろいままでにそうしなかつたのを不思議に思うくらいです」
「なんてことを」と医者は叫んだ。「たしかに、われわれが考えていたとおり、この男は或る意味で不当な扱いを受けました。しかし父親をなぐるとは……非戦闘員の牧師をなぐるとは――」
「この人は父親をなぐつたのではありませんし、牧師をなぐつたのでもありませんわい。この人がなぐつたのはゆすりの悪党です……牧師に仮装していた或る役者で、長いあいだヒルのようにこの人に吸いついて生きていたのです。いまこの人はゆすりから解放されたのを知つて、急にカッとしたのです。わしはどうもこの人をあまり責められません。特にわしはこのゆすりが同時に毒殺者でもあるという強い疑いを持つていますからなおさらです。マルボロさん、あなたは警察に電話をかけたほうがいいでしよう」
 ブラウンと医者は部屋から出て行つたが、こちらの二人はじやまもしなかつた……一人は目がまわつてヒョロヒョロしていたし、もう一人は安心と憤怒の激情でまだめくらのように鼻息荒くあえいでいた。しかし通り過ぎながらブラウン神父は一度だけ青年のほうへ顔を向けた。すると青年は、珍らしくブラウンがほとんど人に見せたことのないような厳しい顔をしているのを見た。
「その点ではあの男の言うとおりでしたのじや」とブラウン神父は言つた。「役者ふぜいがこの清浄な村に邪悪な所業を持ちこんできたら、それは神さまのお裁きにいどむようなものです」

「さて」ブラウン神父は、医者と一緒にポタス・ポンド駅に停車していた列車の中にもう一度おちついたとき、言いはじめた。「おつしやるとおり、これは不思議な話です、したがもう神秘的な話ではないと思います、ともかく、話は、ザッとこんなふうだつたような気がします。マルトラバースは巡業劇団の一部と一緒にここへ来たのです。一行の中にはダットン・アボットに直行した者もありましたが、そこで十九世紀初期の或る通俗劇をやることになつていました。マルトラバースはたまたま舞台衣装のままぶらついていました……当時の伊達男の大へん人目につく衣装です。もう一人の役者は古風ななりの牧師で、その黒つぽい衣装はあまり目立たなかつたし、ただ古風だと思われるだけで通用しそうなものでした。この役を引き受けていたのは、大てい老け役をやる男でした……シャイロックをやつたことがあつたし、あとではポローニアスをやることになつていました。
「この劇の三人目の人物はあの劇詩人で、これは俳優の経験もあるだけに、ハムレットの演技についてマルトラバースと論争しましたが、個人的な問題についてもそれ以上の争いがありました。青年があの時すでにマルトラバース夫人を愛していたということは十分考えられます。だが、あの二人には何のまちがいもなかつたとわしは信じています。そしてこれからの二人がうまくいくといいと思いますのじや。したが青年がマルトラバースの夫としての横暴ぶりを不快に思つたのは無理もないかもしれん……というのはマルトラバースは喧嘩早い乱暴者だつたからです。とやかく口論をしているうちに二人はステッキで戦うようになりました。そして詩人はマルトラバースの頭を大へん強くなぐりつけました。死後審問の結果が出てみると、青年はどうしても自分がマルトラバースを殺したのだと思わないわけにはいきませんでした。
「三人目の男は、事件の現場にいたか、隠れているかしたのです……例の老牧師の役の男でした。そこでこの男は、犯人と見なされた若者をゆすりはじめて、隠居した牧師としてぜいたくな暮しをする維持費をしぼり取りました。こういう男がこういう土地で、単に舞台衣装を着続けるだけで隠退した牧師になりすますのは、見えすいた仮装でした。したがこの男には牧師になりすましてごくこつそり隠退しなければならない別の理由がありました。というのはマルトラバースの死の真相は、こうだつたからです……あの男は深いワラビの藪にころがりこんでからしだいに意識を回復して、人家のほうへ歩こうとしたが、ついにまいつてしまつたのでした……それもなぐられたためではなく、例の慈悲深い牧師が、一時間ほど前に、おそらくポートのグラスに入れた毒を飲ませたためでしよう。わしは牧師のポートを一杯飲んだとき、そう思いはじめました。それでわしはちよつと神経質になりました。警察はいまその仮説を元にしてしらべていますが、その点を証明できるかどうかはわかりません。当局ははつきりした動機を見つけ出さなければならないでしようが、この役者仲間がガヤガヤ言い争つてばかりいて、マルトラバースが大へん憎まれていたことは明らかですわい」
「警察は容疑をかけた以上何か証明するでしよう」とマルボロは言つた。「わたしに合点がいかないのは、どうしてあなたが疑いはじめたかということです。いつたいどうしてあなたはあの何の罪もなさそうな黒服の紳士を怪しいと思つたのですか?」
 ブラウン神父はかすかに微笑した。「どうやらそれは或る意味で特殊な知識の問題だつたと思います……ほとんど専門的な問題ですが、一風変つた意味なのじや。ご存じのとおりわしらの論客は、わしらの宗教がほんとうにどんなものかを知らない人がたくさんあると言つて、よく嘆いています。したがこれはそれ以上にほんとに妙な話ですわい。英国がローマ教会についてあまりよく知らないのは事実ですし、別に不自然ではありません。したが英国は英国教会をさえあまりよく知らないのです。わしが知つているほどさえ知らないのです。あなたは、英国教会の論争について一般世間の人がほとんど何一つ理解する所がないとお聞きになつたら、びつくりされるでしような。たいていの人は高教会派(教会の権威や儀礼を重んじる英国教会の一派)や低教会派(権威や儀式を比較的軽視する一派)がどんな意味を持つているかさえほんとうに知らないのです……両者の背後にある歴史や哲学の両派の理論はさておき、特定の実際的な習慣についてさえ知らないのです。この無知はどんな新聞にも、どんな大衆的な小説や劇にも、見られます。
「さて、最初にわしの胸を打つたのは、あの神々しい坊さんが信じられないほど何もかもを混同していたことじや。英国教会の牧師でしたら、どんな人でも、英国教会のあらゆる問題についてあんなにまちがうはずはありません。あの男は保守党の高教会派の老人と思われていました……それなのに清教徒と言われてもいいと自慢しました。ああいう男は、個人的にはむしろ清教徒に近いかもしれませんが、清教徒になつてもいいなどとは絶対に言うはずがありません。あの男は芝居が大きらいだと公言しました……あれなども、なるほど低教会派は芝居をきらいますが、高教会派はふつうそれほど特別に芝居をきらわないのを知らなかつたからですわい。あの男は安息日について清教徒のような言い方をしました……それなのに自分の部屋に磔刑像を飾つていました。明らかにあの男は、信心深い牧師ならどういう風にしなければならないかという点について、何の考えも持つていなかつたのです……ただもうごくまじめに神々しいようすをして、世間の快楽には顔をしかめて見せなければいけないものと思つていただけです。
「最初からわしの頭の奥には、或る考えがまつわりついていました……何だかはつきり思い出せなかつたのです……それがふいに浮かんできました。こりや舞台の牧師だ。あれは、旧式の劇作家や役者が坊さんの役というと妙にそう思いこんでいる考え方に一番近い、あいまいな神々しいバカおやじにそつくりでした」
「旧式な医者については言うまでもありませんね」マルボロは上きげんで言つた。「こつちも坊さんがどういうものかについてはあまり知らなかつたようです」
「実際問題として」とブラウン神父は続けた。「怪しいと思つたのには、もつとわかりやすい、もつと目につく原因がありました。それは村の吸血鬼ヴァムプだと思われていたあのお屋敷の黒夫人に関係したことでした。わしはあの黒い汚点はむしろ村の明るい美点だという印象を早くから受けていました。あの夫人は神秘的な取りあつかいを受けていましたが、実はちつとも神秘的な所はなかつたのです。あの婦人はこの村へごく最近にごく公然と本名でやつてきて、自分の夫の問題が新しく調査されるのを手伝おうとしていたのです。マルトラバースはあの婦人をかなり手ひどくあつかいました。したが、あの婦人には節操があつて、婚家の姓を名乗り、世間の常識にしたがうのは当然だという風に考えていました。同じ理由で、あの屋敷に住むことにしたのもあすこの表で夫の死体が発見されたからでした。村の吸血鬼ヴァムプのほかに、もう一つ別の無邪気で率直な事件は、例の村の醜聞でした……牧師の放蕩息子です。この若者も自分の職業や劇界とのいままでのつながりを隠そうとしませんでした。それだからわしは、牧師を疑つたほどには、あの青年を疑わなかつたのですわい。したがあなたは、あの牧師を疑つたほんとうの適切な理由をもうお察しになられたでしような」
「ええ、わかると思います。それであなたがあの女優の名前を持ちだしてこられたのですな」
「さよう、つまりあの男が女優を見たくないと言つて狂信的に頑張つていたのを言いたかつたのです。したが実は奴はあの婦人を見るのを反対したのではありません。あの夫人に見られるのを反対したのじや」
「ええ、わかります」と相手は同意した。
「もしあの夫人があのありがたいサミュエル・ホーナー師を見たら、とたんにこいつはちつともありがたくないハンキンという役者だと見破つたでしようからな……にせの牧師に変装した仮面のうしろにかなり悪い性格を隠していたのです。さて、これがあの素朴な村の田園詩の全部だと思います。したが、わしが約束を守つたことは認めていただけるでしような……わしは死体以上にゾクゾクするような物をあの村でお見せしました……毒をつめこんだ死体だつて、あれにはかないません。ゆすり男をつめこんだ牧師の黒服は少なくとも注目する価値がありますし、わしの見つけたこの生きている男は、あなたがあつかつた死んだ男以上に、地獄に落ちた男でした」
「ええ」医者は、クッションに気持よくよりかかりながら、言つた。「もし汽車の旅でちよつとした気持のいい道連れがほしかつたら、まだしもあの死体のほうがましですよ」





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字9、1-13-29) 村の吸血鬼ヴァムプ」となっています。
※誤植を疑った「直黒」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:時雨
校正:sogo
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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