話に聞いた近藤勇

三田村鳶魚




 この頃はとんだ人間がはやるので、その一人は唐人お吉という淫売女、早く外国人に春をひさいだということが景物になっている。売淫が景物になるような人間は、あまり披露されては迷惑であります。が、これは別にお話し申すこととして、それとともに持て囃されている近藤勇、これは淫売を景物にするほどではないが、決して立派な代物ではない。近藤については、別段調べたのではありませんが、かねて聞いておりますところによって、その人柄のおおよそは知れております。
 新徴組しんちょうぐみと申すのは、文久三年の五月からの名前で、その前には浪士取扱というものに属しておったのであります。これは清河八郎が画策して出来た浪人団体でありまして、前年の十二月に、小川町の講武所、それが後に筋違外へ移りまして、近い頃まで芸者屋などがありました。明治の中頃には、講武所芸者といって、ちょっと知られてもおりました。まだそこへ移りません小川町に講武所がありました時に、幕府は諸家の家来及び浪人で、武芸のあるものを召集して、この講武所の教官にしたのであります。幕府が浪人を採用することは、まことに久しぶりのことでありまして、江戸入部以後、これほど大きく浪人召集の手をひろげたことはなかったでありましょう。もっとも徳川氏が江戸へ入って来ました時分には、随分多くの浪人を採用しておりましたが、その後はほとんど浪人を採用することはなかったと申していいくらいであります。
 その講武所の師範役になりました一人に、越後少将忠輝の末孫で、三州長沢に無高で引っ込んでおりました松平主税介ちからのすけという人がありました。この人は名を信敏と申しまして、徳川家の立派な親類筋であったのですが、例の越後騒動以来、本国の片隅に引っ込んでいなければならないような境遇にあったのが、武芸を申し立てて講武所の師範役になったのであります。その主税介を清河八郎が説いて、説き落した。そこで主税介は本供で登城いたしました。無高ではありましたが、大名の格式を持っておりましたから、主税介は仰々しい様子で本丸へ乗り込んだ。そうして老中に面会を求めましたので、板倉周防守が出てこれに会いました。何しろ国家の一大事というのでありますから、一応聴き取らなければなりません。その要旨は、浪士があばれて、とかく世間が騒がしい。それには浪士を浪士としておくからいけないので、これを集めて幕府の管轄の下において、そうして諸方から来る浪人どもを制御することにしたらいいだろう、その仕事は不肖ながら、かく申し立てるところの、自分がお引受け致そうということでありました。
 幕閣の上席におりました板倉周防守は、この人が後に江戸城を引き渡した人でありますが、当時の権力者でありました。当時の浪士騒ぎというのは、今日で申しましたら、まあ暴力団とでも申していいのでしょう。ですからこっちにも浪士を集めて、あばれっこをさせればいい。暴をもって暴を制するというやつで、御用の暴力団を作ることがおもしろかろうというように考えましたから、早速これを聴き届けました。それからその趣を主税介が清河に伝えましたから、清河はすぐ浪士募集に着手しました。けれども清河といったところが、浪人者でありますから、信用が乏しいために、何分しかるべきものは集まってまいりません。けれども集まらないといっては、話にならない。折角の仕事もそれで壊れるのですから、何でも構わないから沢山集めるがいいということで、種々雑多なものを掻き集めて、そうして二百人以上集めることが出来ました。
 自体、浪人という言葉と、浪士という言葉とが違っている通りに、これは同じではないのであります。浪人と申せば失業者・失職者のことでありまして、百姓でも町人でも、それに構いはないのでありますが、浪士と申すと、扶持離れの侍でなければならない。ただぶらぶらしているものということではない。この差別は、幕末においては、ほとんど滅茶苦茶になっておりまして、誰でも構わず刀をさして、浪人ともいえば浪士ともいうありさまであったのです。清河が集めた浪士と申したところが、やはり浪士・浪人の区別はないので、百姓もあれば神主もあり、博奕打ばくちうちもある。小泥坊さえあったのであります。従来刀をさしていなかった者どもが、この募集に応じて、はじめて刀をさすというものも大分ありました。清河八郎はその発頭人でありましたが、その人も武士ではなくって、奥州の百姓の子でありました。ですから藩というような足溜りもなく、殿様という背景もないので、志を当世にほしいままにしようとしてもやり方がない。そこで幕府を道具にして、自分の考えを世の中に行おうという腹なのです。それからまた、当時尊王攘夷論、これは幕臣のうちにも、諸大名の手を借りずに幕府自身攘夷を決行すれば、それでよろしいのである。そうすれば何も諸大名から騒がれるようなことはない。幕府の当局があまり因循姑息だから攘夷が出来ないのだ、と考えているものもありました。そういう機会でありましたから、清河は攘夷論をもって、幕府側に割り込んでゆこうとする。幕臣のうちにも、幕府に攘夷を決行させようという心持のある際でありますから、清河が割り込んできても、自分の考えと同じもののように思う者もあった。清河の内心は、それとは違っておるのでありますけれども、分量は少うございましたろうが、幕臣中にも多少清河に同情するものもなくはなかったのであります。
 しかし清河は風雲児であります。意気の盛んな、功名心の高いものではありましたけれども、生きんがための勤王党、生きんがための佐幕党というようなものとは違っている。腹をよくするためなら、何でも食う、物食いのいい人間どもとは、一緒になりません。大変に策略を用いますから、清河の人格を疑うことがないでもないが、しかしまたその策略に腐心する彼の心持から申せば、穢いものではないということが知れないこともありません。しかしここに集められたものは、そういうこととは全く懸り合いのないものであって、随分物食いのいいのもいたのであります。糾合されたところの浪人等は、軍用金の調達をするといって、随分市中を荒しました。そうしてその取締りというものは、もうなかなか松平主税介には出来ません。本尊様の主税介は置物になって、働き手の清河が表に出るのみならず、末派末流が無法なことを働く、その始末も立たなくなりましたから、そこで主税介をやめて、浪士取締りとして、鵜殿民部少輔・中条金之助・山岡鉄太郎・松岡万などというものを任命して、浪士団を統率するように致しました。
 この時丁度家茂将軍の御上洛がありました。これは文久三年の二月に出発されるのであります。その御警衛というわけで、浪士等は鵜殿民部少輔以下の人に率いられて、中山道を先発したのでありますが、それはその当時と致しましては、江戸で浪人があばれるということよりも、京都にいる浪人どもがあばれる。西国九州から出て来た浪人等があばれる。お公家様をおどかしたり、幕府の有司をおどかしたりして、始末がつかない。そこで関東で浪士を募集して、御用の暴力団を拵え対抗させる。これは板倉周防守が、主税介の申立てを聞いた時に思いついたことだったので、それを実行したのでありました。しかし出発を命ぜられたところの浪人達というものは、沢山お手当を貰えることと思っていたところが、ほんの旅費だけだったので、衣服や大小を新調した、その払いさえ出来ません。いずれ御用が済んで帰って来てから払う、というわけで、借り倒して江戸を立った。そうして上京を致しましたが、御所のうちに新しく建てられました学問所、これへ建言するというわけで、清河八郎等が出かけて行く。どうして、西国九州から来ている浪士を防ぐどころでなく、幕府は自分で集めた浪士を持て余すありさまになった。京都でこの手合が攘夷論を煽るのですから、幕府は非常に迷惑しました。この時あたかも島津三郎が生麦で外国人を斬りまして、大騒動が起ったので、この一件は随分危険なところまで進行しておったので、江戸の状況も甚だ心配されるようなありさまになった。そこで江戸の人心が恟々きょうきょうたる様子もあり、ここを付け込んで不逞の徒が跳梁する。これを鎮撫させるという名義を拵えて、御用の暴力団を江戸へ返しました。それから帰って来た人達というものは、攘夷の先鋒を承ったなどといって大威張りで、なかなかの騒動をやったのでありますが、近藤勇はここまでで、この御用の暴力団との関係が一きりになるのであります。
 近藤の舞台は京都でありまして、ここで大変な評判の男になれたのである。一体は清河の募集に応じて出て来た人間でありますけれども、教授方とか、組頭とかいう位置についたのでありません。全く一兵卒の位置で、新見錦しんみにしきという人の手に属しておった。清河八郎に最も近かった数人を除けば、いずれも腹の減った、物食いのいいやつが多いので、皆らん哉の人間どもでありましたから、そこからいえば、近藤だっても悪くもいわれない。近藤は京都にまいりまして間もなく、京都守護職であった会津侯と結託して、芹沢鴨せりざわかも土方歳三ひじかたとしぞう等数人と一団になって、清河等と分離しまして、京都に居残ったのであります。これは近藤一人では、なかなか京都に踏みとどまるの、分離するのということがうまくゆきませんから、頭立っていますところの芹沢を担いで、それをお頭にして、数人踏みとどまるというようなことになったのであります。が、そうきまるというと、この芹沢という者を近藤の手で暗殺してしまった。芹沢という人は、随分素行のよくない人であったといいますけれども、別に分離後に素行が悪くなったのではない、前から悪いのでありますが、都合のいい時は、素行が悪くても大将に押し立てるし、都合によっては素行を論じて排斥の理由ともし、それだけではまだ不十分なので、ついに暗殺する。かなり陰険な働きをするものである。
 さて最初は十二三人であったのが、後には百人余りになって、壬生浪士といわれておりましたが、それが新選組ということになって、近藤はそのお頭になったのであります。ここの手際の最もよかったことは、三月の三日に清河等が江戸へ帰りますと、七八日たった十日の日には、所司代に属することになって、新選組という名前も出来た。これは、会津侯は前月すでに、「在京有志の徒にして、主家なきものを守護職に属せしむる」ということを申し立ててもおりますし、のみならず、この前後に浪人を懐柔することについて、ちっとも油断なくやっておられたのでありますから、江戸から御用の暴力団が来るということを聞くと、直ちにこれを物色して、得意の懐柔手段を用いられたということは、十分想像することが出来ます。会津に属することが決定したから、近藤等は京都に踏みとどまることにしたのでもありますし、踏み止まることが出来たのでもあります。それが幾日もたたぬうちに、新選組というものになった。ここらの手際というものは、実に巧妙なものである。自体近藤というものは、小才の利く男でありまして、妥協とか、折合とかいうようなことは、最も得意な人だったのです。
 それでは会津藩が近藤を用いて、どういう効能があったかというと、会津の人達は、近藤がしきりに薩長その他の秘事を内通して来るのを褒めた。探偵の技量のえらいことを感心している。探偵の上手な人間などというものは、明るい人間ではない。影の暗い人でなければならない。そうしてそれにはまことに相応した暗殺上手である。随分沢山人を斬っている、というその一面には、会津に上手な使い手があって、近藤等を煽動し、使嗾しそうしてうまく働かせた。それだから、あれだけの男があれだけに売れるような働きが出来たのであります。近藤は決して晴れ晴れした、近頃皆が喜ぶチャンバラなどというような、あっさりした、あどけないようなわけの人間じゃない。もっと粘りっ気のある、毒々しいところのある人間なのであります。
 彼が人を多く斬って世間から注目された蛤御門の合戦、これは御築地の陰のところに隠れては、行き過ぎる敵をうしろから斬っては、またもとの位置に隠れている。そうしてまた敵の行き過ぎるのを見ては、そこから出て斬った。それから三条小橋の升屋喜右衛門のところに、西国筋の浪士が五六十人もおりますところへ、二十人ばかりで押しかけて行って、そのうち七人を斬って、追い飛ばしてしまったなどということは、人におぼえられている仕事だったのでありますが、近藤の人を斬ったのに、前から斬ったのは一つもない。必ずうしろから斬っている。御築地の陰から出て斬るとか、隣座敷へ呼び出して斬るとか、二階から呼びおろして斬るとかいう行き方をする。いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります。しかし粘っこいだけに、臆面もなく道場を出していないともいわれない。明治の初めに、漢学教授・英学教授の看板を出しておりましたのが、皆学者かといえば、そうじゃない。時の流行だから、随分怪しいのが多かった。近藤が道場を持っていたとしたところが、そういうわけでありましたらば、それが立派な剣客であったという早呑込みをしては、大きな間違いが出来るだろうと思います。
 それからまた近藤は、決して一人で出歩かない。必ず数人の同行者がなければならなかった。これは用心深いためでありましたろうか。彼は当時京都に大勢力のある会津侯に取りついて、会津党になった、あれこそ忠実なる御用の暴力団でありました。彼がおだてられて得意に探偵をやるだけでなしに、暗殺を盛んにやりましたために、何程西国九州の連中に幕府を怨ませることをしでかしたか。なかには必ず斬らなければならぬ人でない人までやっておりはしないか、そんなことのわかるような男じゃない。彼が京都に居残ります時、清河等と別れる場合に何とも言わないで、芹沢にものを言わせて、黙々として手持無沙汰の姿でいたなんていうことは、何と解釈してよろしいか。彼は楯を持たずに戦争に出られない男である。京都におった時は、立派ないい楯があった。すなわち会津侯であった。京都から去って江戸へ来ては、もう前のような働きは出来ない。
 殊に滑稽に感ずるのは、彼が明治元年になって、甲府城を乗っ取るといって、江戸を出かけた。その時に若年寄の格というので、裏金の陣笠を被って出かけた。生れ故郷をその扮装いでたちで、いい心持で通過する。ところの者からえらい御馳走を受ける。この時になってみると、もう若年寄も何もあったものじゃない。幕府はあれどもなきがごとしというありさまなのですから、裏金も裏銀もあったものじゃない。しかるにそれがたいそううれしかった、というのは、江戸へ帰された後に、浪人取締りが新徴組になったのですが、それから庄内の酒井左衛門尉に属せしめられた、清河のない後ですから、浪人等もついに庄内侯の家来になった。清河がいたら、そうはゆきますまい。幕府のきめた新徴組の相場というものはどんなかというと、伊賀者次席というのです。御家人の下級のものです。それですから、新徴組の平の者が二十五両四人扶持、伍長となりまして二十七両五人扶持、肝煎きもいりというのになって三十両六人扶持、取締りになって三十五両七人扶持、こういう俸給なのである。それで唯々として新徴組であるといっていたほど、清河等数人を除けば、ありがたからぬ廉売の代物なのである。それがぶちこわれた幕府にしても、若年寄の格――今日でいえば政務次官か、事務次官か知らないが、ともかく次官というわけで出かけたのですから、近藤はうれしかったのでしょう。そういうことから考えても、彼の人柄がわからないことはない。そのぶちこわれた幕府でも、それが背景なり、持楯なりで、甲府城を乗っ取って、上方からの軍勢と戦うという元気を出せたのでありますが、御馳走酒に酔っ払って、もう甲府へ十七里という与瀬というところへまいりました時分に、敵はすでに信州の下諏訪まで来ている。この方は甲府へ十三里しかない。そうしてこの手には、いくさ上手である土佐の板垣退助さんが、兵を率いておられる。そういう内報を受けながら、近藤は疲れているからもう行かれないといって、与瀬へ泊り込んでしまった。その翌日は大雪で出て行かれない。また逗留している。ようやく笹子峠を越した時には、敵はすでに完全に甲府城を占領している。笹子を下りて柏尾というところで戦うようなことになっては、一溜りもあるものではない。わけもなく敗走してしまった。戦争のことでありますから、負けるも勝つもそれはよろしい。負けたからといって、その人間に甲乙がきっとつくものではないが、しかし彼の志を見ると、裏金の陣笠がうれしく、御馳走酒に酔っ払って、敵迫れりと報告されても、向って行けないほどにうれしくなってしまってはしようがない。この方向から見れば、よくその人柄がわかるように思う。
 下らない、つまらない、小才の利く、おだてられれば思いもよらない働きをもするというような人間が、何がおもしろくって、この頃持て囃すのか、どこに興味があるのか、今日近藤勇をおもしろがって、皆が楽しむということを見て、我が国の今のありさまを悲しむのみならず、その心が続いていったならば、近い将来がどんなであるかと思うと、まことに悲しみが深い。





底本:「三田村鳶魚全集 第十七巻」中央公論社
   1976(昭和51)年9月25日発行
底本の親本:「江戸の実話」政教社
   1936(昭和11)年7月
初出:「日本及日本人」日本及日本人社
   1930(昭和5)年10月1日号
入力:大久保ゆう
校正:小林繁雄
2006年7月26日作成
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