この頃はとんだ人間がはやるので、その一人は唐人お吉という淫売女、早く外国人に春を
その講武所の師範役になりました一人に、越後少将忠輝の末孫で、三州長沢に無高で引っ込んでおりました松平
幕閣の上席におりました板倉周防守は、この人が後に江戸城を引き渡した人でありますが、当時の権力者でありました。当時の浪士騒ぎというのは、今日で申しましたら、まあ暴力団とでも申していいのでしょう。ですからこっちにも浪士を集めて、あばれっこをさせればいい。暴をもって暴を制するというやつで、御用の暴力団を作ることがおもしろかろうというように考えましたから、早速これを聴き届けました。それからその趣を主税介が清河に伝えましたから、清河はすぐ浪士募集に着手しました。けれども清河といったところが、浪人者でありますから、信用が乏しいために、何分しかるべきものは集まってまいりません。けれども集まらないといっては、話にならない。折角の仕事もそれで壊れるのですから、何でも構わないから沢山集めるがいいということで、種々雑多なものを掻き集めて、そうして二百人以上集めることが出来ました。
自体、浪人という言葉と、浪士という言葉とが違っている通りに、これは同じではないのであります。浪人と申せば失業者・失職者のことでありまして、百姓でも町人でも、それに構いはないのでありますが、浪士と申すと、扶持離れの侍でなければならない。ただぶらぶらしているものということではない。この差別は、幕末においては、ほとんど滅茶苦茶になっておりまして、誰でも構わず刀をさして、浪人ともいえば浪士ともいうありさまであったのです。清河が集めた浪士と申したところが、やはり浪士・浪人の区別はないので、百姓もあれば神主もあり、
しかし清河は風雲児であります。意気の盛んな、功名心の高いものではありましたけれども、生きんがための勤王党、生きんがための佐幕党というようなものとは違っている。腹をよくするためなら、何でも食う、物食いのいい人間どもとは、一緒になりません。大変に策略を用いますから、清河の人格を疑うことがないでもないが、しかしまたその策略に腐心する彼の心持から申せば、穢いものではないということが知れないこともありません。しかしここに集められたものは、そういうこととは全く懸り合いのないものであって、随分物食いのいいのもいたのであります。糾合されたところの浪人等は、軍用金の調達をするといって、随分市中を荒しました。そうしてその取締りというものは、もうなかなか松平主税介には出来ません。本尊様の主税介は置物になって、働き手の清河が表に出るのみならず、末派末流が無法なことを働く、その始末も立たなくなりましたから、そこで主税介をやめて、浪士取締りとして、鵜殿民部少輔・中条金之助・山岡鉄太郎・松岡万などというものを任命して、浪士団を統率するように致しました。
この時丁度家茂将軍の御上洛がありました。これは文久三年の二月に出発されるのであります。その御警衛というわけで、浪士等は鵜殿民部少輔以下の人に率いられて、中山道を先発したのでありますが、それはその当時と致しましては、江戸で浪人があばれるということよりも、京都にいる浪人どもがあばれる。西国九州から出て来た浪人等があばれる。お公家様をおどかしたり、幕府の有司をおどかしたりして、始末がつかない。そこで関東で浪士を募集して、御用の暴力団を拵え対抗させる。これは板倉周防守が、主税介の申立てを聞いた時に思いついたことだったので、それを実行したのでありました。しかし出発を命ぜられたところの浪人達というものは、沢山お手当を貰えることと思っていたところが、ほんの旅費だけだったので、衣服や大小を新調した、その払いさえ出来ません。いずれ御用が済んで帰って来てから払う、というわけで、借り倒して江戸を立った。そうして上京を致しましたが、御所のうちに新しく建てられました学問所、これへ建言するというわけで、清河八郎等が出かけて行く。どうして、西国九州から来ている浪士を防ぐどころでなく、幕府は自分で集めた浪士を持て余すありさまになった。京都でこの手合が攘夷論を煽るのですから、幕府は非常に迷惑しました。この時あたかも島津三郎が生麦で外国人を斬りまして、大騒動が起ったので、この一件は随分危険なところまで進行しておったので、江戸の状況も甚だ心配されるようなありさまになった。そこで江戸の人心が
近藤の舞台は京都でありまして、ここで大変な評判の男になれたのである。一体は清河の募集に応じて出て来た人間でありますけれども、教授方とか、組頭とかいう位置についたのでありません。全く一兵卒の位置で、
さて最初は十二三人であったのが、後には百人余りになって、壬生浪士といわれておりましたが、それが新選組ということになって、近藤はそのお頭になったのであります。ここの手際の最もよかったことは、三月の三日に清河等が江戸へ帰りますと、七八日たった十日の日には、所司代に属することになって、新選組という名前も出来た。これは、会津侯は前月すでに、「在京有志の徒にして、主家なきものを守護職に属せしむる」ということを申し立ててもおりますし、のみならず、この前後に浪人を懐柔することについて、ちっとも油断なくやっておられたのでありますから、江戸から御用の暴力団が来るということを聞くと、直ちにこれを物色して、得意の懐柔手段を用いられたということは、十分想像することが出来ます。会津に属することが決定したから、近藤等は京都に踏みとどまることにしたのでもありますし、踏み止まることが出来たのでもあります。それが幾日もたたぬうちに、新選組というものになった。ここらの手際というものは、実に巧妙なものである。自体近藤というものは、小才の利く男でありまして、妥協とか、折合とかいうようなことは、最も得意な人だったのです。
それでは会津藩が近藤を用いて、どういう効能があったかというと、会津の人達は、近藤がしきりに薩長その他の秘事を内通して来るのを褒めた。探偵の技量のえらいことを感心している。探偵の上手な人間などというものは、明るい人間ではない。影の暗い人でなければならない。そうしてそれにはまことに相応した暗殺上手である。随分沢山人を斬っている、というその一面には、会津に上手な使い手があって、近藤等を煽動し、
彼が人を多く斬って世間から注目された蛤御門の合戦、これは御築地の陰のところに隠れては、行き過ぎる敵をうしろから斬っては、またもとの位置に隠れている。そうしてまた敵の行き過ぎるのを見ては、そこから出て斬った。それから三条小橋の升屋喜右衛門のところに、西国筋の浪士が五六十人もおりますところへ、二十人ばかりで押しかけて行って、そのうち七人を斬って、追い飛ばしてしまったなどということは、人におぼえられている仕事だったのでありますが、近藤の人を斬ったのに、前から斬ったのは一つもない。必ずうしろから斬っている。御築地の陰から出て斬るとか、隣座敷へ呼び出して斬るとか、二階から呼びおろして斬るとかいう行き方をする。いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります。しかし粘っこいだけに、臆面もなく道場を出していないともいわれない。明治の初めに、漢学教授・英学教授の看板を出しておりましたのが、皆学者かといえば、そうじゃない。時の流行だから、随分怪しいのが多かった。近藤が道場を持っていたとしたところが、そういうわけでありましたらば、それが立派な剣客であったという早呑込みをしては、大きな間違いが出来るだろうと思います。
それからまた近藤は、決して一人で出歩かない。必ず数人の同行者がなければならなかった。これは用心深いためでありましたろうか。彼は当時京都に大勢力のある会津侯に取りついて、会津党になった、あれこそ忠実なる御用の暴力団でありました。彼がおだてられて得意に探偵をやるだけでなしに、暗殺を盛んにやりましたために、何程西国九州の連中に幕府を怨ませることをしでかしたか。なかには必ず斬らなければならぬ人でない人までやっておりはしないか、そんなことのわかるような男じゃない。彼が京都に居残ります時、清河等と別れる場合に何とも言わないで、芹沢にものを言わせて、黙々として手持無沙汰の姿でいたなんていうことは、何と解釈してよろしいか。彼は楯を持たずに戦争に出られない男である。京都におった時は、立派ないい楯があった。すなわち会津侯であった。京都から去って江戸へ来ては、もう前のような働きは出来ない。
殊に滑稽に感ずるのは、彼が明治元年になって、甲府城を乗っ取るといって、江戸を出かけた。その時に若年寄の格というので、裏金の陣笠を被って出かけた。生れ故郷をその
下らない、つまらない、小才の利く、おだてられれば思いもよらない働きをもするというような人間が、何がおもしろくって、この頃持て囃すのか、どこに興味があるのか、今日近藤勇をおもしろがって、皆が楽しむということを見て、我が国の今のありさまを悲しむのみならず、その心が続いていったならば、近い将来がどんなであるかと思うと、まことに悲しみが深い。