ながうた勧進帳

(稽古屋殺人事件)

酒井嘉七




        一

 師匠の名は杵屋花吉きねやはなきちと申されました。年は二十三、まだ独身でございました。何んでも、七つか、八つの時から、長唄のお稽古を始められたのだそうでございまして、十七の春には、もう、立派な名取さんであった、というのでございますから、聡明なお方には、違いなかったでございましょう。
 しかし、それにいたしましても、あの傍の見る目もいじらしい程な、お母さんのきついお仕付けがございませんでしたならああも早くから、お師匠さんにはなれなかったに相違ございません。お母さんにしてみますれば、何んでも一人前の師匠にしてやりたいと思う、親心からのお仕付けに違いなかったのではございましょうが世間の口はうるさいものでございまして、人の子であればこそ、ああまでも出来たもの、自分の腹を痛めた子供であれば、いくら心を鬼にしても、あれだけのお仕込みはできますまい、等と噂していた様でございます。

 師匠はすっきりとした身体つきの、とても美しいお方でございました。睫毛まつげの長い、切れ長の眼に少し険があると云えばいえますものの、とても愛嬌のある子供子供したお方でございました。何しろ、お母さんが頼りにしていられる唯一人の娘さんでございますから、それはもう、文字通りの、箱入り娘でございまして、どこへ行かれるのにも、お母さんがついて行かれ、決して、一人歩きはおさしになりませんでした。そうした理由からででもございましょうか年頃になられましても、浮いた噂とて一つもなく、しごくおとなしいお方でございました。
 お弟子の方は十二三人もございましたでしょうか。その内三四人が男の方、他は皆、女とお子供衆でございました。お稽古を始められた最初の内は、男のお弟子さんは断られていた様でございました。それと申しますのも、何分にもお師匠さんが年頃のお娘御、若い男のお弟子さんと、変な噂でも立てられる様なことがあってはと、心配されていたからでございましょう。しかし、何時のまにか御近所の方で断り切れずとか、お知り合いの方だから、といった風で、男のお弟子さんも、時としては、四五人もあったのでございました。

 師匠の宅は坂東堀にございまして、黒板塀に見越しの松さながら、芝居の書割にある様な、三階建のお住居でございました。で家内は、お母さんとの二人きりで、しごくむつまじくお住いになっておりました。お稽古場は三階でございまして、私たち、お稽古人は階下の表の間で、順番がくるのを待つ様になっていたのでございます。師匠のお母さんは、何時も、奥の間の長火鉢の前に坐っていられまして、表の間で順番を待っているお稽古人を相手に、何かと世間話をされていたものでございます。この方は、色の黒い、せぎすな、悪く申しますと、蟷螂かまきりを思わせる様な御仁でございましたが、お商売がら、と申すのでございましょうが、とても、お話がお上手で御座いまして、お弟子さんのお相手にも、子供には子供らしく、お若い方にはその様に、よくもああまでお上手にお話し対手が出来ること、と、私たちは何時もお噂いたしていたほどでございます。

 丁度あの日は、嫌に湿っぽい、とても陰気なお天気でございました。私がお稽古に上りました時は、まだ、四時過ぎで、いつもは明るい奥の間が、うす暗く、ぼんやりと、座敷に座っていられるお母さんの影が、古い土蔵の白壁に静かにとまっている蜥蜴とかげの様に、とても気味悪く、くっきりと浮んでいたことを記憶いたします。私が這入って行きますと、呉服屋のけんさんが、唯一人座っていられました。私は、お母さんと、健さんに、
「今日は……」
 と御挨拶いたしまして、健さんの傍に座ったのでございます。健さんは、
「いらっしゃい」
 と、軽く頭を下げられました。二階からは、お稽古の声と三味線が聞えて参ります。
 ※(歌記号、1-3-28)旅の衣は篠懸すずかけの、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしぼるらん
 勧進帳でございます。どうやら、お稽古されているのは光子さんらしゅう御座います。健さんは、二階の声について小声で唄っていられましたが、
「私は次にあれを習いたいと思っています。今日はもうお稽古をすませて頂きましたが、光子さんがおさらいをしていられますので、聞かせて頂いています」
 と、こう申されました。光子さんと健さんとの、仲のいいのは、師匠の宅でも、内密でお噂していた事でございまして、時間を申し合せて来られるのか、何時もお二人は同じ頃に来られて、お稽古を待ち合せては、一所におかえりになる――と、いい加減お年寄りな小母さんまでが(こうも女は口賢くちさがないものでございましょうか)お子供衆の弟子さんを対手に、そうしたお噂をされていた事がございました。
「そうでございます。聞き覚えておきますと、お稽古をして頂く時に、ほんとに、役に立つ様でございます」
 私が、こう、お受け答えいたしますと、小母さんは、話の機会しおを見付けられた様に、長煙管ながきせるを、火鉢の縁で、ぽんと、はたかれまして、
「ほんとでございますよ。こんな、お稽古ごとにも、岡目八目と申すのがあるのでございましょうか……」
 とお追従ついしょう笑いをされまして、新しく、煙管を吸いつけられました。その火が、蛍の光の様に――しかし、どす黒く赤く――薄暗くなった奥の部屋で、消えてはつき、ついては、消えていた事を憶えております。
 光子さんは調子よく唄っていられました。あの、むつかしい、
 ※(歌記号、1-3-28)元より勧進帳のあらばこそ、おいの内より往来の、巻物一巻とりいだし
 のところなんぞも大変お上手に唄っていられました。が度々、調子をはずしては、また唄いなおしていられました。健さんはこうした時、そっと、上目で天井を見上げては、何となく落ちつかぬ御様子でございました。それも、そうした折、光子さんの、うろたえた、汗ばんだ面に注がれる師匠のきつい目を、想像していられたがためで御座いましょう。しかし、それにいたしましても、とても、お上手に唄っていられた光子さんが、
 ※(歌記号、1-3-28)判官ほうがんおん手を取り給い
 のところで、すっかり弱ってしまわれた様子でございました。二三度も、同じところを繰返していられましたが、四度目に、やっと、師匠のお許しがありましたのか、次にすすんで行かれました。が、その時、私は思わず、
 ※(歌記号、1-3-28)判官……
 と、光子さんの唄われた文句を、そのまま、口の中で繰返したのでございました。

        二

 二階から降りて来られた光子さんは、すっかり汗をかいていられましたが、私に軽く会釈されると、
「有難うございました」
 と、小母さんの方をむいて、畳に手をつかれました。
「師匠は気嫌が悪いでしょう。頭痛がすると朝から云っておりますが、物を云っても返事もしないほどでございますよ」
 小母さんは、小さな声で、こう云われまして、子供のするようなしぐさで、少し肩をすくめられました。光子さんは、
「ええ」
 と、微笑されて、私と健さんとの前に坐られました。そして、
「いらっしゃいませ」
 と、挨拶をなさいました。小母さんは、火鉢の上で、快い音をたてて、たぎっている鉄瓶のお湯を湯呑に入れて、二階へもって行かれました。丁度、その時菓子屋の幸吉こうきちさんが、這入って来られたのでございます。
 この方は、高松屋たかまつやという、町では相当に老舗しにせた、お菓子屋の息子さんでございまして、親の跡をつぐために、お店で働いていられたのでございます。見ると、手には、お店の印の入った風呂敷包みを持っていられます。
「光子さんも広子さんも、お揃いでございますね」
 幸吉さんは、私たちに、こう云って、健さんの方をむかれると、
「嫌なお天気でございますね。頭の重い……」
 と、申されました。
「ほんとでございますね。それに、今日は、また、お珍しく、お早いお稽古で」
「ええ、実は横町のお米屋さんからの、御注文を届けに参るところでございますが、かえりに寄って混んでいると悪いと思って、寄せていただきました。しかし、あなたがた、もう、おすみになったのでございますか」
 と、私たちの方をむかれました。私は、
「光子さんと健さんはお済みになりました。わたし、まだでございますけれど、お急ぎの様でしたら、どうか、お先きに……かまいませんのよ」
 こう、申しますと、幸吉さんは、
「そうですか。ほんとに、よろしいのですか。では、厚かましいですけれど、先にさして頂きます」
 と、急いで、座を立たれました。その時、小母さんは二階から降りて来られました。幸吉さんは梯子段の下で、小母さんが降りられるのを待っていられましたが、顔を見ると、
「小母さん、今日は」
 と、声をかけられました。
「一寸、用事がありますので、広子さんに、順番をかわって頂きました」
 すると、小母さんは、何時もの様に、愛想よく、
「そうでございますか」
 と、申されましたが、声をくめて、
「今日は師匠の御気嫌が、とても悪い様でございますから、御用心なさいませよ」
 と、微笑まれました。
 幸吉さんが二階へ上られてから、五分間余りも、お稽古の声も、三味線の音も聞えて参りません。私は、お師匠さんと幸吉さんが、世間話でもされているのだろう、と考えていましたが、それにしても、三味線の調子を合せる音も聞えないのは、どうしたことであろう――何をしていられるのだろう、と、淡い腹立たしさのようなものを感じました。が、次の瞬間に、これが、嫉妬というものでもあろうか、と気付き、思わず、顔を赤らめたのでございます。健さんと光子さんは、そうした私にもお気づきにならず、目と目で、一所にかえる御相談か、何かを、されていた様でございます。その時でございました。幸吉さんの、
「わあッ――」
 と、いう様な叫び声が聞えまして、
「師匠が、師匠が……」
 と、云いながら、梯子段を、ころげる様に、降りて来られたのでございます。
「何、何ごとです」
 私達は、声をそろえて、こう申しました。小母さんも、健さんも、光子さんも、すっかり、驚かされまして、皆が思わず立ち上ったのでございました。
「師匠が……師匠が……」
 階段を下りきったところで、幸吉さんは、べったりとすわったまま、あえぐ様に、唯、こう云ったままで、指で二階をさされました。健さんと、小母さん、そして、光子さんも、顔色をかえて、二階へ駈け上られました。師匠はお稽古台に、がっくりと、頭をのせたまま、もう、すっかりこと切れていられたのでございます。しかし、その時にはまだ身体には暖かみが、十分に残っていたのでございますから、死後あまり時間が経過していなかったことは明らかで御座います。

        三

 警察では色々と、お調べになりましたが、事件のありました二階は、私達が坐っていた部屋を通り、そして、梯子段を上らないと、どこからも決して、行かれないのでございまして、表には、打ちつけの格子がはまっており、裏手には物干台がありまして、ガラスの障子が閉切たてきってあるのでございますが、何時も内側からかきがねをかけていられたのでございます。従って、犯人は外部から侵入した者とは思えず、当時、師匠の宅にいた人達と考えられたのでございます。
ところが、この人達と申しますのは、
(い)呉服屋さんの健さん
(ろ)光子さん
(は)師匠のお母さん
(に)菓子屋の幸吉さん、それに、
(ほ)私
の五人でございまして、(い)の健さんと、(ほ)の私とには何のお疑いも、かからなかったのは当然のことでございましょう。
 光子さんは、警察のお取調べに対して、次の様に申されたと承っております。
「私は、あの四日前から勧進帳の、お稽古を始めて頂いたのでございます。唄と三味線を習っておりましたので、普通の通り、まず唄のお稽古をして頂き、唄が上ると、三味線を始めて頂くことになっていたのでございます。あの前日には、唄はもう、すっかり、済ませていただいたのでございますから、当然、三味線のお稽古を始めて頂く筈でございましたが、どうも、も一つ、自信がない様に思いましたので、もう一日だけ、唄のおさらいをして頂き、あくる日から、三味線にかかって下さいます様に、と、お願いしたのでございました。師匠は、頭が痛いので、と、とても御気嫌が悪い様でございましたが、私がお願いした通りあの日も唄をさらって下さったのでございます。私のおけいこ振りは、下にいられた皆様がお聞きになっていた通りでございまして、大変に出来が悪うございました。私は、どうにか、お稽古をすませて頂きますと、お師匠さんに有難うございました、と挨拶し、逃げる様に、階下に降りたのでございます。お師匠さんは、私の言葉に、小さな声で左様なら、と、お答えになりましたが、よほど、おつむりめていましたものか、そのまま、お稽古台の上に、俯伏うつぶせになられました」

 光子さんの次には、師匠のお母さんが、お取調べを受けられたのでございますが、警察でなさいました陳述は、次の様であった、と承っております。

「何でまた私が、そうしたお疑いを受けるのでございましょう。お仰せになります様に、あれは私の実の子では御座いません。しかし、三つの年から二十三まで、手しおにかけて育てた、わが子に相違はございません。何でまた、私が手をかけてよろしゅう御座いましょう。お仰せになります様に、私には実の子がございます。あの娘よりも三つの年上ことし二十六でございます。私が、あの家に嫁入りします前に生んだ子供で、二三年前から密かに逢っていたのは事実でございます。娘が死ねば、相当まとまったお金のはいる事、もし、そうした暁には、私と実の子が、誰に何の気兼もなく、一所に住める事は、お仰せの通りでございます。しかし、いくら、実の子供と申しましても、二十幾年も他人にまかせきりの子供と、自分の腹を痛めないまでも、赤子の時から貰いうけて、大きくした子供と、どちらがほんとに、可愛いでございましょう。その、わたくしが、どうしてあの娘を殺す……ええ、とんでもない、そうしたことを考えるだけでも、身の毛がよだつ様でございます」

「お稽古の順序は、呉服屋の健さん、光子さん、その次が菓子屋の幸吉さんでございました。これに相違はございません。光子さんは、勧進帳の唄のおさらいでございました。お稽古がすむとすぐに、降りて来られました。いいえ、何の物音もいたしませんでした。私は、光子さんが降りられますと、すぐに、お茶をくんで持って上ったのでございます。……その時の模様は、とお仰せになるのでございますか。娘はお稽古台の上に顔を伏せておりました。朝から頭痛がする、と申しておりましたし、気嫌も悪い様でございましたから、私は、(お茶を置いておくよ)と、か様に申しまして、座蒲団の傍に置き、そのまま下に降りたのでございます。返事がないのに、不審に思わなかったかとお仰せになるのでございますか。さ様に申されるのは、御尤もでございますが、お稽古の最中には、なるべく物を云わぬ様にしていたのでございます。それに、今までにも、頭痛を押して、お稽古をしている時なぞでございますと、お弟子さんと、お弟子さんの合間なぞ、よく、そんな風に、お稽古台に、俯伏さっていたものでございます。そうした時には、私は、なるべく、言葉をかけぬ様にいたしておりましたし、言葉をかけましても、返事がなければ、そのままに済ませる様にしていたのでございます。あの娘は、よい娘で、私には、とても、よく尽して呉れましたが、時として、返事もしない事がございました。しかし、一日中、お弟子さん方の、気嫌きづまを取っていますのも、随分と気も心も疲れること、と娘の気持ちを汲んでやる様なつもりで、そうした時にも、何の小言も云わぬ様にしていたのでございます」

「……部屋の様子に、何か、変ったことはなかったか、と仰有るのでございますか。別に何も、変った事とてはございませんでした。表の、格子戸は、大掃除の時に、外すきりでございますから、決して、人の出入なぞ出来る筈はございません。裏の方は、ガラス戸がはまっておりまして外は物干台になっているのでございますが、鍵は何時もかかっております。……では、誰が殺したと考えるか、と仰有るのでございますか。それはどうも推量もいたしかねます。何しろ、光子さんはお稽古を、おすましになって、すぐに降りて来られましたし、私と入れ替る様に、二階へ上られた菓子屋の幸吉さんも、上られてから、降りて来られる迄の間に、五分間あまりの時間がございましたものの、その間には、何の物音もいたしませんでした」

        四

 小母さんの次には、菓子屋の幸吉さんが、取調べをお受けになりましたが、警察の方の訊問に対して、次の様に、お答えになったとのことでございます。
「私は二階へ上りまして、今日は、と申しましたが、何の答もなく、師匠は稽古台の上に俯伏さっておいでになりました。私は下でも伺っておりましたし、お頭が痛むのであろうと存じまして、そっと、お稽古台の前に坐り、顔をお上げになるのを待っていたのでございます。私は、声をかけるのも、悪いか、と存じまして、しばし、御遠慮申していましたが、余り長いので、(お頭が痛むのでございますか)と、声をかけたので御座います。それでも、何の返事も御座いません。私は、その時に初めて、不気味な予感に襲われたのでございます。(お師匠さん……)私は、こう申しまして、横顔を覗き込んだのでございます……」

「お仰せになります様に、私が死体の発見者でございますから、お疑いを受けるのは、当然のことでございましょう。しかし、私には、師匠を殺害せねばならない様な理由はございません。師匠に思いをよせていた、愛の申し出を拒絶されたが為の兇行とは、あまりに、穿うがち過ぎた御推測でございます。お仰せになります様に、いつか、師匠に歌舞伎座のお芝居でございましたか、おさそいした事がございました。別に、私と二人きりで、とも、皆を誘って、とも申しませんでしたが、言葉の調子から、私と二人で、そっと見物に行く、と云う様に聞こえたのでございましょう。師匠は、(二人きりで行ったりしますと、人の口がうるそう御座いますよ)
 と、微笑みながら申されました。私は何とも答えず、同じ様な微笑を返したのでございました。こうした話を、師匠は小母さんにもしていられたのでございましょうし、そうした事をお耳にされてのお言葉と存じます。しかし、師匠に思いを寄せていたがために、さような事を申したのではございません。従って、あの時にお断りされたことも、私にしましては、別に悲しい事でも、腹の立つことでもなかったのでございます」

 これで、まあ、容疑者の一と通りの訊問は終ったのでございますが、警察の方は、最初、このお三人とも、同じほどに、疑いの目をもって見ていられた様でございました。即ち、
 光子さんは生きている被害者を最後に見た人として、
 菓子屋の幸吉さんは、被害者の死体発見人として、そして、
 小母さんは、被害者の死によって利益を受ける唯一の人物として、
 だそうで御座います。ところが間もなく、光子さんと小母さんに対する嫌疑は、全く晴れた様でございました。と申しますのは、殺人方法なのでございますが、それは素手で行った絞殺でございまして、何んでも両手の親指を被害者の咽喉部にあて、四指を頸の後に廻して、そのまま締めつけているのだそうでございまして、こうしたことが光子さんや小母さんの様な、女の手で出来そうになく、それに咽喉部に残された親指の跡と、中指、食指等によってなされたらしい、後頸部の爪跡、との間隔を調べた結果、加害者は男に相違ない事が証明されたのでございます。こう云った訳で、小母さんと光子さんの嫌疑は全く晴れたのでございますが、同時に、死体発見者である幸吉さんこそ、真犯人に相違ない、と考えられる様になったのでございます。しかし、幸吉さんは、決して、自分が犯人ではない、と極力弁明していられました。私が御面会いたしました時にも、
「広子さん。たとえ、誰が何と云いましても、あなただけは、私が犯人でない事を信じて下さるでしょう」
 と、申されました。私は、幸吉さんがお可愛想になって思わず涙をこぼしました。
「ええ、信じますとも……」
 こう申したのでございます。そして、声を低くめまして、
「幸吉さん、御心配なさいますな。私が、きっと、犯人を探してごらんに入れますわ」
 と申しました。すると、幸吉さんは、
「え、広ちゃんが……」
 と思わず叫ばれました。
「ええ、私に思いあたることがございますの」
 私は、きっぱりとこう申しました。

        五

 かような事を申しますと、甚だ、生意気な様でございますが、皆様の中には、長唄という様なクラシックな日本音楽について、何も御存じない方が、おありになるかも知れないと存じます。そうした方の御参考までに、この純日本趣味な音楽について、少しばかり、申し述べて見たいと存じます。私が今、手許においております百科全書には「長唄」という項に、次の様なことが記されて御座います。

「(長唄)江戸歌舞伎の、劇場音楽として発達したものである。創始者は明確でないが、貞享じょうきょう元禄げんろく年間に、上方から江戸へ下って来た、三味線音楽家、杵屋一家の人々が、歌舞伎の伴奏に用いた上方唄が、いつしか、江戸前に変化し、その基礎をなしたことに疑いはない。……江戸長唄なる称呼が、判然と芝居番附に掲げられたのは、宝永ほうえい元年のことである」

 しかし、これは、劇場音楽としての長唄でございますが、私たちがお稽古をいたしておりますものは、たとえ、歌詞や曲が全然、同じではございますものの、完全に独立した、家庭音楽としての長唄なのでございます。百科全書にも、この劇場から独立した長唄について、次の様な附記がございます。

「(家庭音楽としての長唄)明治三十五年の八月に『長唄研究会』が創立された。その目標とするところは、劇場から独立した長唄――芝居や所作事または、舞踊、等に拘束されぬ、聴くべき音楽としての長唄――研究であって、創立以後、演奏回数五百有余に及び、長唄の趣味好尚を、広く、各階級、各家庭にあまねからしめた」

 こうした過程を経まして、今日では、地唄じうた歌沢うたざわ端唄はうたと同じ様に、純然たる家庭音楽になっているのでございます。しかし、そうは申しますものの、唯今の様に普及される迄には相当に、生れ出ずる悩みがあった様でございます。その第一は、長唄のあるものは、とても美しく唄っては御座いますものの、随分と、そうでない個所があった様でございます。例えば、伊勢音頭にいたしましても、こうした一節がございます。
 ※(歌記号、1-3-28)流れの泉色も香もめで給わればいそいそと花に習うてちらりとそこに情の通う若たちの心任せに紐ときて上の下のととる手も狂うヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ
 ※(歌記号、1-3-28)豊な御代に相逢はこれぞあたいのなき宝露もこぼさずすなおなる竹の葉影に組重ねあかぬ契りのあかしにはあけの唇ぬっくりと月花みゆきひとのみに傾け捧げ乱れざしヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ

 それに、作詞家の間違いか、それとも、唄本の版元が飜刻ほんこくの際に過ったものが、そのまま、後世に伝りましたものか、時として、唄の意味が通じなかったり、とても変な場合があるのでございます。例えて申しますと、あの殺人事件がありました時、師匠から最後のお稽古をうけていられた光子さんが、その時、唄っていられました勧進帳でございますが、あの聞きどころの、
 ※(歌記号、1-3-28)判官御手を取り給い……
 が、どうも変でございます。
 御存じでもございましょうが、この長唄は、歌舞伎十八番勧進帳の、いわば、伴奏曲でございまして、この芝居が天保十一年の三月五目、河原崎座で初めて上演された際に、作曲されたものだそうでございます。劇の荒すじは、次の様でございます。

 頼朝よりとも公と不和になられた義経よしつね公が、弁慶べんけい亀井かめい伊勢いせ駿河するが常陸坊ひたちぼうの四天王を引きつれて陸奥みちのくへ下向される。一同は山伏に姿をやつしている。が、こうしたことは鎌倉に聞えている。それがために、関所でも、山伏は特に厳しく詮議されていた。関守の富樫左衛門は義経主従を疑惑の目で見守る。しかし、弁慶は落ちつきはらって、自分達は南都東大寺建立のため勧進の山伏となっているものである、と云う。関守は、若し、そうした御僧であれば、勧進帳を所持されているはず、とつめよせる。義経主従のものは、この思いもかけぬ言葉に動揺するが、弁慶は咄嵯の機転でおいの中から一巻の巻物を取り出し、勧進帳と名づけつつ、声高らかに読み上げる。これで、関守富樫左衛門の疑も晴れ、通れ、と許しが出る。が、強力ごうりき姿の義経が、判官に似かよっている事から、一同は再び引きもどされる。弁慶はじめ、四天王の面々は、はっ、と驚く。もう、これまで、と刀に手をかけ、関を切り抜けようとする。弁慶は血気にはやる人々を押しとどめ、強力姿の義経につめよる。
「日高くば能登のとの国まで越えうずると思えるに、僅かの笈一つ背負うて、後にさがればこそ人も怪むれ」
 と、怒りの形相物凄く、金剛杖をおっ取って、散々に打擲ちょうちゃくする。関守の富樫は、義経主従と看破してはいるものの弁慶の誠忠に密かに涙し、疑い晴れた、いざお通りめされと一同を通してやる。

 義経主従は、毒蛇の口を逃れた思いで、ほっと、息をするが、弁慶は敵を欺く計略とはいえ、主君を打った冥加みょうがの程も恐ろしい、と地に手をついて詑び入る。すると、義経は、汝の機転故にこそ危いところを逃れ得た、と弁慶の手を取って喜ばれる。

        六

 ――ここまで、お話し申しますと、私が前に、勧進帳の文句にある、
 ※(歌記号、1-3-28)判官おん手を取り給い
 が、どうも、おかしい、と申しましたのも、故あることとお考えになると存じます。主人の義経が、弁慶の手を取られるのでございますから、おん手では、勿論のこと、変でございましょう。こうした誤謬ごびゅうも、長唄が家庭音楽として発達して参りましてからは、前述の様な個所と共に、改められまして、一と頃は、古い文句と、新しいのとが唄本に並べて記されていたものでございます。つまり菖蒲あやめ浴衣ゆかた三下さんさがり、
 ※(歌記号、1-3-28)すだれ川風肌にしみじみと汗に濡れたる(枕がみ[#改行]袖たもと) 合びんのほつれをかんざしのとどかぬ(愚痴も惚れた同士命と腕に堀きりの櫛も洗い髪幾度と風に吹けりし)水に色ある 合花あやめ
 の様でございます。つまり、向って右側には古い文句、左には新しいもの、といった風に塩梅されていたのでございます。前述の勧進帳も、
 ※(歌記号、1-3-28)判官おん手を取り給い
 が、判官その手を、に改められていたのでございます。
 しかし、間違っているにしろ、「美しく唄ってある文句」でございますから、昔から唄いなれたものには、やはり、それだけにいいところがあるのでも御座いましょうか、かように改められましても、改作された文句をお稽古される師匠がたは、ほんの一部の方のみでございました。私たちの師匠にしましても、前の菖蒲浴衣でございますと、
 ※(歌記号、1-3-28)……汗に濡れたる枕がみ……とどかぬ愚痴も惚れた同士命と腕に堀きりの
 と古い文句をお稽古されていましたし、勧進帳の場合でございましても、
 ※(歌記号、1-3-28)判官おん手を取り給い
 と、唄っていられたのでございます。ところが、光子さんはあの日、お稽古の最中に、ここのところが、どうも、工合が悪く、二度も三度も唄いなおしていられたのでございます。そして、四度目に、やっと、お師匠のお許しが出て、次に進まれたのでございますが、最後には、
 ※(歌記号、1-3-28)判官その手を取り給い
 と、唄ったままで、進んで行かれたのでございます。そうすれば師匠は、この間違いに気付かれなかったのでございましょうか? 三度も、繰返して唄いなおす様に云われて光子さんの唄に耳をかたむけていられた筈の師匠が、四度目に、唄の文句が間違って唄われているのにも気付かずに三味線を弾いていられたのでございましょうか、名のない端唄のお師匠でもあれば、とにもかく、かりにも名取さん、それも、お若いのに似合ず、芸に関する限りでは、随分とお弟子さんに厳しかった師匠が、そうした、取んでもない間違いに気付かれなかったのでございましょうか。そんな事は、決してある筈はございません。そうすれば、その時には――即ち、光子さんにお稽古をされていた時には――どうしていられたのでございましょう! 眠っていられたのでございましょうか。いいえ、そんな事は絶対にございますまい。そうすれば、若しか……死んでいられたのではございますまいか! 若し、光子さんが、死体になった師匠を前にして、お稽古をされていたものとすれば、三味線は誰が弾いていられたのでございましょう。もとより光子さんの外には誰とて人は御座いません。しかし、勧進帳の唄をあげられたばかりの光子さんが、まだお稽古されていない、勧進帳の三味線を御存じの筈は御座いません。……
 が、あの、
 ※(歌記号、1-3-28)判官おん手を取り給い
 と、いうところを、
 ※(歌記号、1-3-28)判官その手を取り給い
 と、唄われたことを考えますと、
 光子さんは、師匠殺害の計画をたてられた後、ひそかに第二の師匠のもとで、前もって勧進帳の唄も三味線も、教わっていられたのではございますまいか。そうすればあの時に死体を前にして、師匠の替りに自分が三味線を弾き、お稽古をうけている風を装うて、自分一人で唄っていられた……
 しかし、第二の師匠は、たまたま改正された文句、
 ※(歌記号、1-3-28)判官その手を取り給い
 と教えていられたので、わざと、その個所を二三度くり返している内に、つい、その癖が出て、後の様に唄い、自分でも気付かずに、そのまま先に進んで行かれた――と考えられるで御座いましょう。しかし、そうといたしましても誰が師匠を殺したのでございましょう? もとより、光子さんに相違ございますまい。……が、女の手では決行し得ない殺人方法――とすれば、光子さんの先に稽古をされた、そして、お互に許し合った、呉服屋の健吉さんではございますまいか。お二人が共同されての犯罪では御座いますまいか。

 相当、綿密な計画と、周到な用意のもとに、決行された犯罪ではございますものの、光子さんも、健さんも、殺人ということを余り容易に考え過ぎていられたのではございますまいか。
 自分たちが、稽古を終るまで、師匠は生きていられた、という事を何等かの方法で証明することが出来れば、自分達は絶対に安全だ、と単純に、考えていられたのでございましょう。そうしたことから、お二人の計画は、全く齟齬そごしてしまったのでございます。私は時折、かような、いらぬ詮議だてをいたしました事を、悔む事がございます。しかし、それにいたしましても、光子さんは師匠を恨んで自殺されたお兄さんのために――健さんは、愛する光子さんのために、そして、また、私は、総てを捧げている幸吉さんの冤罪を晴すために、お尽ししたのに過ぎない事を考えますと、こうしたことも人の世の因果の一例に過ぎないのか等と考えるのでございます。
(「月刊探偵」一九三六年五月[#「一九三六年五月」は底本では「一九三七年五月」]





底本:「「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9」光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年1月20日初版1刷発行
初出:「月刊探偵」黒白書房
   1936(昭和11)年5月号
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2008年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について