静かな歩み

酒井嘉七





「あすの朝迄に一人殺して下さい。いゝですか。九時に報告に来て下さい。私は今晩ここで徹夜しますから朝までずつとゐます。報酬は先に渡しておきます。」
 と、札束を机の上へ投げる音がする。午後の十時である。八階二十五号室の表に佇んで聞くともなく、かうした会話を耳にした警手の西山は、ぎよッとした。この建物に警手として雇われてから、まだ一週間にもならない彼には、この二十五号室の事務所が何を商売にするのか、それすら知らない。表の名札には、「オベリスク社」と彼には何のことか分らない片仮名の文字が記されてゐるに過ぎない。殺人を依頼された人物が出て来る気配がする。警手の西山は知らぬ顔をして、リノリュームの通路を静かに歩き初めた。部屋部屋に異常はないか、と聞き耳を立てながら、静かに歩を移して行く。二十五号室から出て来た殺人の依頼を受けた男が、コツコツと靴音をさせながら後から近ずいて来る。
「御苦労さんです。」
 通り過ぎる時に、かう警手に声をかけた。
「はあ。」
 西山は前をむいたまま、軽く頭を下げて、遠ざかつて行く彼の後姿を見送つた。都会とは恐ろしい処だ。自分は田舎の国民学校へ通つてゐる頃から非常に残忍な性質を持つてゐて、喧嘩をしても相手を倒すだけでは満足せず、足で踏みにじつた。また、馬乗りになると、血を吹き出すまで、鼻柱を撲りつけた。目に指を突き込んで、失明させたこともある。先生にも校長にも突つ掛つて行つた。そして、もう五年生の頃からは、狂暴性あり残忍性を帯びた特異の児童として、総ての人々に敬遠されてゐた。国民学校を出ると、両親に従つて百姓を初めた。成年に達した。しかし、部落の人達は、なるべく自分に近かずかなかつた。狂暴性と残忍性の両翼をもつた悪魔が自分の体の中で、何時でも飛び出せる用意をして、待つてゐることを、彼等は、よく知つてゐたのである。この悪魔は、まだ自分の身体の中にゐる。自分は百姓をしながら、かう考へた。働くのは嫌だ。毎日ぶらぶらしてゐたい。それには誰かの話に聞いた都会の大きな建物の警手がいゝ。六尺近い頑丈な君にはもつて来いだ。それに軍隊生活の経験があるんだから文句はない。
「さうだ。そんな仕事が自分に適してゐる。」
 膝を打つて自分は立ち上つた。泥にまみれた股引と襦袢を脱ぎ捨てた。そして、今、金ボタンの付いたこんな立派な制服を着てゐる。しかし、さうした現在でも、悪魔は昔のままの姿で自分の身体の中に翼をたゝんでじつと踞んでゐる。この悪魔は、いつか翼をぱツと拡げて、飛び出して来る。そして、人を殺すぐらひのことは訳もなくやつてのける。しかし、『あすの朝までに一人殺して下さい。』『承知しました。』と、あの人達のやうに、そう容易に、事務的に飛んで出て来るかどうか。かう考へると全く都会の人は恐ろしい。あの人達を見ろ。見た目にも立派な紳士ではないか。頭の先から足の先まで、一分の隙もない、洗練された都会人ではないか。それが、あれほど簡単に殺人の依頼をし、殺人の受諾をしてゐる。都会とは、さても恐しいところだ。

 警手の西山はリノリュームの廊下に、静かな歩みを移しながら、七階、六階、五階、と巡視を続けつゝ、建物を降りて行つた。



 西山が一週間前に、このビルディングに警手として雇はれた時、古参から、かう教へられた。
「夜間に巡視する時の注意だが、時間が来ると、此れを……。」
 と、さも腫れ物にさはるやうに、弁当箱を立てにした写真機のやうなものを、両手に受けて取り出しながら、
「此れを首にかけて、こゝに付いてゐるバンドで動かない様に腰へ軽くしめ付ける。この上のボタンを押すと、中の機械も動き出すのだが、この機械の内部の詳しいことは、また暇な時に教へる。まづ、階段を屋上まで登る。屋上を一通り、巡回して、それから、八階、七階、六階と各段の各部屋部屋に、異常がないか確めながら降りて来る。」
 こゝで古参の警手は、彼の表情の大げさな緊張で、西山の注意を惹きながら、
「しかし、君に、充分、注意しておかねばならない事がある。それは、これを首にかけて巡視してゐる間は決して走つたり、荒々しく歩いてはいけないのだ。何時も一定の歩調で、静かに歩かねばならない。」
 と、その静かな歩調を示してくれた。西山には唯の一度で、その速歩が充分にのみ込めた。
「しかしだ。」
 古参は言葉を続けた。
「出火を認めた場合とか、部屋に盗賊を発見した時なぞには、勿論走りもし、必要とあれば、賊と格闘もしなければならない。そんな時には、もう静かな歩みも忘れて充分に働けばいゝ。さうした時には、その激動が機械に伝はつて、正しい時間と共に、その巡回器の中に記録される。そして、それが後の証拠になるのだ。」
「分りました。」
 西山は大きく頷いた。その時彼の身体の中でも不気味な声が聞えた。
「それぢや、巡視中に自分勝手な荒仕事をやりたいと思へば、まづ、巡回器を身体から取り外して、廊下の片隅へでも残しておくんだな。さうすりや、激動が機械に伝はる訳もなし、自分の好きな仕事が出来るといふものだ。訳ないさ。」
 西山は、ぎよッとした。彼の身体の中の悪魔が両翼を拡げて、今にも飛び出さうとする。



 坂部健作の住むアパートへ電話がかゝつて来た。午前四時である。
「八階の二十五号室からですよ。」
 懇意な秋山刑事の声である。
「二三十分かゝると思ふんですが、一寸来て頂けませんか。」
「何か事件ですか。」
「簡単なものですが殺人事件です。」
「すぐお伺ひします。」
 坂部健作は静かに受話器をかけた。彼には事件の全貌が、判然と目の前に浮ぶやうに思へた。
 坂部が八階の二十五号室に入ると、そこには何時ものやうに人なつこい微笑を軽く浮べた背広服の秋山刑事と制服の警官二人、そして、警手の西山と、その夜の当直に当つた今一人の警手とが、黙然と、立つてゐる。
「坂部さん、どうも大変な時間にお呼び出ししまして恐縮でした。実は私たちの親友の、この部屋の主人公が窓から墜死したのです。」
「へえ、窓からね。」
 かう云ひながら坂部は意外なほどに落ちついてゐた。
「自殺ぢやありますまいな。」
「さうとは考へられないんです。状況証拠から判断すると、明白に他殺で、それも金庫の中の金を目的にした非常に単純な頭脳の持主が、必要以上の狂暴性を発揮して決行した殺人なんですね。」
 坂部は黙したまま、軽く幾度も頷いた。
「ところが、困つた事には、単純な頭で何の計画もなく、突差に――または発作的に、と云ふ方が適切かも知れませんが――遂行しただけに、証拠が何も残されてゐないんですよ。」
「さうでせうな。」
 坂部は、何故か独り合点しながら、なほも軽い頷きを続けて、秋山刑事の言葉を聞いてゐる。
「ところで、」
 と、言葉を切つて刑事は坂部の顔を真面目な面もちで凝視した。
「あなたは、この部屋の主人公が生きてゐるうちにお会ひになつた最後の人物です。それに窓際にあなたの名刺入れが落ちてゐたのです。此れであなたが、まづ、第一の被疑者と云ふことになる訳なんです。」
 警官と警手各各二人は秋山刑事の言葉を非常な緊張味をもつて、聞いてゐる。彼等の目は期せずして坂部の面に集つた。彼の表情の動きを看取するためであらう。ところが、坂部の顔の筋肉には聊かの変化も見受けられない。四人の目は秋山刑事の面に移動した。刑事の職業的な真面目な顔つきは、この時もう一変して、もとの友人に対する、人なつこい面に変つてゐる。四人には、何がどうなつたのか、訳が分らないらしい。秋山刑事は、口調を改めると、
「坂部さん。これが事件の全貌なんですがね。あなたに一つ御解決を願ひたいと思ひましてね。それでお越しを願つた訳なんです。」
「さうですか。」
 坂部は最初から表情を少しも変へずに、秋山刑事の話を聞いてゐたが、ポケットから煙草を取り出すと、刑事にも勧めながら、静かな煙の輪を吹いた。
「ね、秋山さん。これは非常に非科学的な犯人探査法と思はれるかも知れませんが、私は近頃骨相学に拠る犯人の検挙方法を研究してゐるんです。で、こゝで今さら骨相学の講義でもありませんが、この学問が昔から中国や日本で盛んに研究されてゐるのと同じやうに、アメリカ辺りでも、古くから相当熱心に研究されてゐるんですね。で、これは最近アメリカで発表された新説とも云ふべきものですが、それによると、『骨相の細部』は時時刻刻に変化して行く、と云ふんですね。つまり、先天的に懐疑性を帯びた人間とか、狂暴性や残忍性のある者、さうした人達の本質的な性質は、そのまゝ『固定した骨相』として現はれてをり、当然、さうしたものには大した日日の変化はないのですね。ところが骨相学の神髄ともいふべきものは、さうした『固定した骨相』に有るのではなく、文字通り時時刻刻に変つて行く『骨相の細部』にあり、そこからはその人物が一時間前に、数時間前に、または数日以前に経験した総ての事実、及び、一時間後、数時間後、または数日後に、彼を待ちうけてゐる運命の全体が判然と読みとられると云ふのですね。」
 かう云つて、坂部は傍に立つた警手の西山の顔をちらりと盗み見た。視線が思ひがけず、ぴつたりと合つた。西山は明かに狼狽の色を示しながら、つと横をむいた。
「なあに、心配することがあるものか。」
 西山の身体の中にゐる悪魔が両の翼をひくひくと動かしながら、独白のやうに、かう呟いた。
「人殺しをやつた事が骨相に現はれるつて? へん、そんな馬鹿なことがあるものか。また現はれてゐたつていゝぢやないか。そんなことが一般人に確認される訳でもなし、どうして殺人の証拠になるんだ。知らぬ顔をしてゐりやいゝんだ。黙つて、知らぬ顔をしてゐるんだ。」
 西山は横をむいたまゝ頷いた。坂部は言葉を続けた。
「犯人はこの部屋の中にゐます。私は今いふ骨相学で完全に犯人を指示することが出来ます。しかし、初めにもいひましたやうに、一般の人々には、かうした探査法は余りにも非科学的であり、第一警察当局でも認めて呉れますまい。それで、私は今から確然とした物的証拠をお目にかけませう。これで犯人も兜をぬがざるを得ますまい。」
 坂部は、かう云ひながら、
「あの、そちらの警手の方、」
 と、西山の同僚に呼びかけた。
「あなた方お二人が昨夜から今暁にかけて使用された巡回器は何処にあります。」
「地下室の私達の部屋にあります。」
「さうですか。済みませんが直ぐ取つて来て下さい。」
 警手が急いで部屋を出て行くと、坂部は秋山刑事の方へ向き直つた。
「秋山さん、あなたはこのビルで使用してゐる巡回器を御存じですか。」
「知りませんが、例の静かに歩く、振動記録式ぢやないんですか。」
「いや、さうぢやないんです。警手達にはさういふ風に教へてゐますが、実は、新しい機械で、いはゞ、録音機なんですね。つまり、警手が静かに歩いても走つてもいゝんですよ。たゞ、総ての音響が、中にある錫で作つた十六ミリほどなフイルムに確実に録音されるのですね。ですから、警手が規定のやうに巡視しながら、独言を云つたり、欠伸をしたりする音は勿論、どんな歩調で歩いてゐるか、また、事故のあつた場合、つまり、出火を認めたときとか盗賊を発見した時にどうした処置をとつたか、どの程度に活躍したか、といふことが細大漏らさず録音される訳ですね。つまり、今いふやうに、精巧な録音機なんですから、別に警手の身体に着いてゐる必要はないんですよ。格闘の際にバンドが切れて、此の巡回器が廊下の片隅へ転がつて行くやうな事があるとても、この機械は忠実に、総ての音響を録音してゐる訳ですね。……もう持つて来るでせうが、あの巡回器をそのまゝ発声機に使用出来ますから、昨夜の巡回がどんなものであつたか、此処で皆で聞いてみませう。」
 坂部は落付いた口調でかう云ふと、言葉を切つて、警手の西山を改めて凝視した。彼は、先きほどから、身を震せながら、両手を固く握りしめてゐる。彼の身体の中の悪魔は両翼をぱッと拡げて勢よく立ち上つた。
「もう駄目だ。巡回器を身体から離して仕事をすりや、それでいゝ、と簡単に考へたのが間違つてゐたのだ。そんな立派な証拠があるんだつたら何とも仕方がない。もう度胸を定めろ。そして、行きがけの駄賃に、あの坂部といふ奴を掴み殺してしまへ。」
「さうだ!」
 悪魔の翼のやうに、うんと両腕を拡げた、西山は形相も物凄く、ぱッと坂部に飛びかゝつた。が、瞬間彼の両腕は警官の手にしつかりと押へられてゐた。そして、何時の間にか手錠がはめられてゐた。秋山刑事はずつと、いつもの人なつこい微笑を面にたゝへながら、坂部の言葉を聞いてゐたが、この時、
「坂部さん。」
 と呼びかけて、笑ひ出した。
「そんな精巧な巡回器ですが、もうアメリカ辺りぢや出来てるんでせうね。」
 坂部も笑ひ出した。
「さあどうですかね。まだ静かな歩みを必要とするものでせう。最近の映画に出て来たのもこのビルで使つてゐるのと同じものでしたからね。……しかし、秋山さん。私の名誉のために云つておきますが、骨相学の方は事実なんですよ。」
「さあ、どうだか。」
 二人は期せずして声をあげて哄笑した。



 朝の九時である。八階の二十五号室。探偵小説専門雑誌「オベリスク」発行所であり、編輯部であるこのオベリスク社の部屋にも朗かな朝の空気が漂つてゐる。しかし、窓際の大きな回転椅子に、どつかりと腰を下した此の部屋の主人公、雑誌の経営者であり、編輯者である粕山九郎の表情は一向に朗かでない。それは昨夜この部屋で徹夜し、その疲れが影響してゐるのではない。机の端に置かれたコーヒーは冷くなり、パンは固くなつてゐるが、そんなことは意に介さない。意に介さない、と云へば、彼の机の横に坐つた探偵小説家坂部健作の存在さへ少しも意に介する風がない。たゞ、机の上に拡げた原稿を異常な注意をもつて読みつゞけてゐるのである。
「昨夜の八時に今朝の九時迄に一人殺して下さいと君に頼んだね。時間がなかつたから無理なことは、僕もよく承知してゐる。しかし、君、この原稿は何だ。駄作だよ。僕をこの八階の窓からほうり出したのはいゝさ……。」
 編輯長は気味悪げに、そつと、横目で後の窓を見た。
「しかし、君、こりや駄作だよ。もうすぐ印刷屋から原稿を取りに来るから、雑誌に使ふことは使ふがね。」
 坂部は、この言葉を聞くと黙つて立ち上つた。帽子を手にとると扉を開けた。
「まあ待ち給へ、黙つて帰へる奴があるものか。十二時前に、来てくれ給へ。ホテルで飯を食はうよ。増刊の原稿の話もあるんだ。」
 探偵小説家の坂部健作は黙つて頷くと部屋の外へ出た。丁度、通りかゝつた警手の西山が、
「お早やうございます。」
 と、軽く頭を下げた。
(四・二・四六)





底本:「酒井嘉七探偵小説選 〔論創ミステリ叢書34〕」論創社
   2008(平成20)年4月30日初版第1刷発行
入力:酒井 喬
校正:小林繁雄
2011年3月10日作成
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