空飛ぶ悪魔

――機上から投下された手記――

酒井嘉七





「ボーイング単座機の失踪。
 坂譲次氏は愛機、四十――年型ボーイング機J・B3A5を駆って、昨十三日午後十時、大阪国際飛行場を離陸したまま、行方不明になった。
 同機は最高速力毎時三百五十マイル、航続時間二十五時間の優秀機で、本日未明、金華山沖を東に向って飛行する同機を認めたとの報あるも、真偽不明……」

 明日の新聞には、こうした記事が掲載されるであろう。今午後九時二十分。北緯五十度、東経百六十五度のあたりを、大圏航空路にそって、ただ一路、東に向って飛んでいる。昨夜の十時大阪国際飛行場を出発して、そのままずっと飛行を継続しているのだ。星一つ見えない暗黒の闇だ。が、無気味なほど気流はいい。殆ど操縦棹に触れる必要もないほどだ。航続時間はあと四時間を余すのみ。しかし、二時間もあれば、この手記を終り得ると考える。積載燃料の総てが、消費しつくされる一時間前には、横浜に向けて航行中の北太平洋汽船会社“シルバー・スター号”の船影を認め得るはずだ。
 自分は、この手記を通信筒に入れ、同船の甲板に投下する。



 自分は沙里子をどれほど愛していたことか、彼女も自分には厚意を持っていた。
 そうした事には些の疑いもない。彼女は自分に唇を許したことによって、それを表示したではないか。が、しかし許された者は自分一人ではなかったのだ。私は、そうした事を知ると同時に、競争者ライバルであり親友である、清川に手紙を書いた――。
(二人の内、何れかが、彼女から手を引かねばならない。この問題を解決するために三人で面会したい……)
 彼は快諾した。三人は会った。沙里子は二人きりで逢う時のような快活さで云った。
「私はお二人とも同じほど好きよ。同じようにお附合させて頂くわ。けれど、もし、それがいけなかったら、あなた方、お二人で勝手にわたしの対手あいてをおきめなさいよ……ね」
 おのが唇を許した二人の男を前に、こうまでも厚顔であり無恥である彼女の態度は、蔑まれるべく十分であった。しかし、私達は明らかにめしいていた。
 自分の体内から、騎士道も武士の魂も抜け去っていた。
「いかなる手段を講じても、彼女は自分のものだ――」
 私は、こう心に決めた、その瞬間、ある卑劣な「決闘」の方法が頭に浮んだのだ。



「――どうした方法で、この問題を解決するんだ」
 彼は詰問するように鋭く云い放った。私は彼の目の前に、週刊雑誌“北極アークティック”を置いた。
「これを利用するんだ」
 私はこう云って最後のページに載せられた社告を彼に示した。

「オーナー・フライヤーの参加を希望す。
 本誌“北極”主催のもとに、本月二十五日、土曜日、午後十時より大阪――東京間を指定区域とせる飛行機による宝探しを挙行する。参加資格はアマチュワー・オーナー・フライヤーに限る。集合場所及び出発点は大阪国際飛行場。
 三機までの共同参加を許し、相互間の無線電話による連絡も妨げない」

「参加機の離陸にあたって、本社係員より厳封せる封筒が飛行士に手渡される。機は直ちに出発を命令される。封筒には一篇のポエム、または和歌が記されている。この詩、または和歌は、東京――大阪間の一、市町村附属の飛行場を暗示させる。飛行士はそれを解し、指定された場所に向って、最短コースを飛行する。指定飛行場では平常使用せる航空標識は全部消灯し、ただ、場の中央なる地上に、本誌名“北極”を意味する英字(arctic)の最初の一文字、即ち『A』をネオン・サインで表した文字を置く。これは十フィート平方の大きさで、赤く点灯される」

「参加機は、この文字レター発見と同時に、水平飛行に移り、同標識を中心に直径二百米突メートルの円を三回連続して画く。第三回目の終りに、地上より第二の目的地を意味する詩、または和歌が無電ラジオによって送られる……」



「――これをどうするのだ」
 清川は、不審そうに、私を見た。私は静かに、煙草に火を付けた。
「僕たち三人で、これに参加するんだ。三機編隊で飛ぶ。沙里子さんが第一番機、右翼と左翼は君と僕だ。リーダーは沙里子さんだ。僕達は、こんなことを云えば、主催者には失礼だが、催物それ自体には、何の興味もない。僕達の三機は無電で連絡をとりながら飛ぶ。暗号(?)の解読も三人が無電を通じて行う。記載された飛行場が解ると同所まで飛ぶ。これは、どこにあるか僕達の誰にも分らない。しかし、市町村に附属するものであるというから、夜間発着には十分の広さがあるはずだ。標識の全部は消灯されているが、場の中央を示す『A』のネオン・サインがある。これを頼りに降りるのだ。無事故で着陸した方が勝だ。第一飛行場で勝負がつかなければ、第二、第三、と――即ち a―r―c―t―i―c の各文字のネオン標識を有する――最後の飛行場まで、この『決闘』を継続するのだ」
「承知した」
 彼は目を血走らせて、こう云った。「名刺」は交換されたのである。



 三機は編隊で離陸した。一番機は沙里子だ。ほど近く航空標識の緑白紅、三連閃光が、正しい十秒の間隔を置いて、星ばかりの暗い夜空を衝きさしている。私は、彼女の唇を思わせるような、一番機の真赤な尾灯を、じっと見つめながら、注意深く操縦棹を握っていた。左翼が清川、右翼が自分だ。
「沙里子さん、封を切りましたか」
 私は無電の送話器に口をあてて、彼女に話しかけた。彼女の声が、受話器レシーバーに聞えた。
「まだですの。も少し昇ってから見る方がいいでしょう」
「そうですね。少し高度を取っておく方が、どの方向へ飛ぶにしてもいいでしょう。ね、清川君――」
「そうだ」
 彼の声が聞えた。三機は編隊のまま、ぐんぐんと昇って行った。
「封を切りますよ」
 沙里子の声だ。
「……おや短歌よ。とても日本趣味ね、万葉集の歌らしいわ。読みますよ。お二人とも聞いていて頂戴。――牽牛と織女と今夜逢ふ天漢内あまのかわとに波立つなゆめ……」
「天漢内に……」
 清川の声が聞えた。
「それじゃ、漢内かわと飛行場ですね。坂君、そう考えないかい」
「そうだろう、そうに違いない。あれは伊吹山の山麓に、新しく出来た飛行場だったな」
 私は、送話器を通じて答えた。清川の得意げな声が聞えていた。
「ねえ、沙里子さん。暗号だなんて、ひどく驚かせましたがこれでは暗号じゃありませんね」
 沙里子の第一番機は、手際よく、急旋回で、機首を巡らせた。発動機の調子はいい。深い睡りに陥っている大阪の街が雲の下に、かすかに瞬いている。



「もう来ているんじゃないか」
 清川の声が受話器に聞えた。
「うん、もう来ているはずだ。沙里子さん、少し高度を下げましょうか」
「ええ」
 彼女が、こう答えた瞬間、
「見えるよ、ネオンが見える。左方前方二キロ……」
 清川の声だ。

 私達は下舵を取った。ネオン・サインの「A」が鮮明の度を増して来た。飛行場には灯火はない――私は、自分では、こう考えた――しかし、確か、東西一千米突、南北二百米突の広さがあるはずだ。ネオン・サインは場の中央に置かれてある。そうすれば、文字に接近した前後左右の何れかに百米突メートル[#「百米突メートル」は底本では「百メートル」]以内の滑走で着陸すれば、何の事故も起り得ない訳だ。
「清川君」
 私は、送話器に口をあてて彼に呼びかけた。
「……用意はいいか」
「うん、先に行くぞ」
 彼は自信に満ちた言葉を私の受話器に残したまま、急角度で下降して行った。
無事な着陸セーフランディングを……」
 沙里子の声が、小さく、受話器に聞えた。私達は上空を旋回しながら、彼の尾灯を見守っていた。と、地上附近で、突如、闇に消えた。不気味な予感が私の背を走った。私は闇黒の地上を凝視し続けた。が、無事着陸を意味する何の信号も送られて来ない。……二分……三分……と、今まで真紅まっかの光芒を放っていたネオン・サインの附近に大きな火柱が立った。
「あっ!」
 私と沙里子は殆んど、同時に叫んだ。
「一体どうしたのでしょう」
「何か変ったことがあったようですね。見て来ましょう」
 自分は注意深く、旋回しながら、機を下げた。高度計は二百米突、百五十米突、と下って行った。と、下は水だ。
 海、ではない。
 すれば湖水!
 琵琶湖だ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 地面とばかし思っていた下界は疑もなく琵琶湖の真中だ。
「沙里子さん。下は水だ」
 こう叫ぶと、私は、ぐい、と上げ舵を取った。
「では、清川さんは……」
 彼女の声が受話器を通じて聞える。私は上を見た。と、突然、彼女の機首が真下を向いた。
「あっ、危い」
 私が思わず、こう叫んだ瞬間、彼女の低い声が受話器に響いた――。
「清川さん……」
 彼女の機体は矢のように落下して行った。

「沙里子さん、沙里子さん」
 自分は送話器レシーバーに口をあてて、こう叫び続けた。湖水の水面とすれすれに幾度か飛び廻った。しかし、どこにも彼女の姿は見えなかった。親友、清川のみか、愛する彼女までも呑みこんだ漆黒の湖水面は、物凄いまでに静寂そのものだった。



 ゆうべのように今夜も星が美しい。海面から五十米突の低空を、私は東へ東へと飛び続けている。私の愛機は、あと数時間で、主人もろとも、波荒い太平洋の藻屑となることも知らずに、いとも調子よく活動を続けている。

 沙里子は自分達二人を同じ程度に愛している、と私は思いつめていた。しかし、彼女の心の底に刻み付けられていた者は、清川一人であったのだ。私は潔く二人から手を引くべきであった。
 自分達に態度を明らかにしなかった彼女にも一半のせめはある。しかし、何故、私は彼女のそうした心持ちを看取することが出来なかったのであろう。私の自負心は、私にこう考えさせていた。
 ――彼女は自分でも云っているように、彼と自分とを同じ程度に愛しているのだ。
 と、私は自分に、こう云った。
 ――よし、では、自分が彼女の心を決してやる。清川を地上から抹殺すればそれでいいのだ。そうすれば、彼女は完全に自分のものになるのだ。

 私は非常に周到な用意をもって、この計画を遂行した。自分ながら、賞讃に値するほど手際よく、総てが運ばれたのである。
 しかし、清川を失った沙里子は、この世に希望をなくしてしまったのだ。彼一人を殺害すべく計ったこの計画は、愛する彼女をも湖水の底に沈めたのである。――私は、この手記を完全にする目的を以て、いかなる方法によって、この殺人が行われたかを記しておかねばならない。そして、そのために、話をもとへ戻すことを許されたい。



 三機は並んで出発命令を待っていた。主催者“北極”の係りの人が私に近づいた。
「じゃ、しっかりやって下さい」
 そう云って、私に第一通過飛行場を示す封筒を手渡した。
「有難う。きっと、一等賞を頂きますよ」
 私は封筒を一番機の沙里子に渡した。
「沙里子さん、まだ封を切っては反則になりますよ。機体が地上を離れてからでないと駄目です」
 私は彼女に、こう注意した。

 用意は出来た。発動機は活動を開始した。自分達の三機は翼を並べて離陸した。自分のポケットには雑誌社の係員から手渡された封筒が残されている。沙里子に渡したものは、自分が前以て用意しておいた偽造のものだ。その内容は漢内飛行場を意味する。「A」の文字を表したネオン・サインも自分の手によって用意されている。が、場所は飛行場の中央ではない。湖水の中央だ。
 ネオンはモーター・ボートにしつらえられた偽りの標識である。それを目あてに着陸する(?)飛行機は、搭乗者と共に、千古の謎を秘めた湖の底深く葬られるのだ。そして、殺人の総ての証拠を湮滅いんめつするために、ネオン・サインを載せたボートには、電気時計と爆薬が装置してある。それは無人の船内で、不気味な時を刻んでいるはずだ。
 彼の「水葬」が終った五分または十分の後に、彼を湖底に導いた悪魔の標識も、船ともろともに湖水の底に没するのである。



 この手記もこれで終りだ。もう何も附記する事はない。あと三十分東へ飛んで、そして、太平洋の波間に機首を突っ込むのだ。
 清川君、沙里ちゃん。もうすぐ君達にあえるんだ。





底本:「酒井嘉七探偵小説選 〔論創ミステリ叢書34〕」論創社
   2008(平成20)年4月30日初版第1刷発行
初出:「新青年 17巻1号」
   1936(昭和11)年1月
入力:酒井 喬
校正:北村 タマ子
2011年6月27日作成
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