久米正雄




 新派俳優の深井ふかゐすけは、いつもの通り、正午おひる近くになつて眼を覚した。戸外そとはもう晴れ切つた秋の日である。彼は寝足りた眼をわざとらしくしばたゝいて、障子の硝子越しに青い空を見やると、思ひ切つて一つ大きな伸びをした。が、ふと其動作が吾乍ら誇張めいてゐるのに気がつくと、平常ふだん舞台での大袈裟な表情が、此処まで食ひ込んでゐるやうな気がして、思はず四辺あたりを見巡し乍ら苦笑した。彼は俳優の中でも、実に天成の誇張家であつた。そして其誇張が過ぎて道化た気分を醸す処に、彼の役処の全生命が在つた。彼は新派中での最も有名な三枚目役者だつた。
 彼はもと魚河岸の哥兄あにいだつたが、持つて生れた剽軽な性質は、新派草創の祖たるオツペケペーの川上が、革新劇団の旗を上げて、その下廻りを募集した時、朋輩たちの嘲笑をも顧みず、真つ先きにそれに応募した。が、愈々その試験めいたものを受けた時、川上はつく/″\此の※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)栗頭いがぐりあたま哥兄あにいを見て、さて見縊みくびつたやうにかう云つた。
「おまへさんは到底役者になる柄ではないね。」
 彼が凡ての言葉を尽したにも係らず、川上は笑つて受け附けなかつた。が彼はそれでも懲りなかつた。して今度は頭をすつかり剃り円めて、人相を変へて再び募集に応じた。ところが恰度ちやうど一座が多人数を要したので、彼も川上の眼をのがれ、人々に紛れてうまく採用されて了つたが、入つて了つてから、川上はすぐに彼に気が附いた。
「やあ、此奴こいつとう/\入りやがつたな。」川上は幾分驚嘆の気味で彼に云つた。
「へん、どんなもんです。」と彼は剃つた頭を二つほど叩いて見せた。
「まあ仕方がない。入つたんならしつかりやれ。」と川上も笑ひ乍ら、それでも心中かう云ふ男の使ひ道がないでもないと思つて、快く入座を許さない訳には行かなかつた。かうして彼は俳優になる時から、既に既に[#「既に既に」はママ]立派な三枚目の役を勤めた。して今では、新派興亡の幾変遷を経て、兎にも角にも由井の一座に、無くてはならぬ俳優となつた。給金も相応には取れる。役者らしくたまには女も出来る。――思へば彼もうまい出世をしたものに相違なかつた。
 が、彼とても又、決して自分の今の地位に、満足してゐる訳ではなかつた。彼ももう三十五歳を越えてゐた。普常なみの職業に従事してゐるのなら、分別盛り働き盛りの年輩だつた。けれども今の儘の彼は、舞台で絶えず道化を演じてゐるに過ぎなかつた。真面目な役は一つも振られなかつた。彼は只、観客をわつと笑はす為にのみ、もしくは浮き立たす為にのみ、配合的に用ゐられるばかりだつた。これでは手品師の介添に出る、戯奴ジヨーカーに変らぬことを彼自身も知つてゐた。知つてゐたが仕方がなかつた。彼はいゝ年をして相変らず、大向うをわや/\笑はして、自らも己の境涯を笑つてゐた。
 彼にはもう八歳になる子があつた。そして其子そのこは去年初舞台を踏んで、彼と同じく、いな彼よりももつと正式な、新派俳優になる未来をつてゐた。彼はその子を決して、三枚目にはしたくないと思つた。自分と違つて正当な、立派な立役に仕立てるのが願ひだつた。――
 今、深井はぼんやり床の上で、昨日受取つた役の事を考へてゐた。昨日は今度く歌舞伎座の茶屋の二階で、「まゝしきなか」の本読みがあつたのだが、そこで彼の振られた役と云ふのは、たゞ「虎」の一役だつた。人の名ではない。ほんとの獣の虎に扮する一役だけだつた。
 虎一役! 彼は考へると不満でもあり、又不平も云へぬほど可笑をかしくもあつた。彼は甞つて猫にも扮した。又犬になつて幕外まくそとで踊つた事もあつた。而して動物役者と云ふ異名をさへ取つてゐた。で今更虎の役を振られたとて、それが何の不思議であらう。むしろ彼にその役が廻らなかつたら、それこそ一つの不可思議事なのである。
 けれども彼は、彼が虎に扮することの不思議でない事を、鳥渡ちよつと悲しく感じた。長年馴れて来てゐ乍ら、職業だと思つてゐ乍ら、どうせ茶化してゐるのだとは思ひ乍ら、自分の中なる「人間」が馬鹿にされてるやうな気がして、鳥渡ちよつとは腹立たしくさへ思つた。
 昨日の本読みの時にも、丁度作者が三幕目を読み初めようとして、さて一座をずつと見渡し乍ら、
「こゝで一つ在来の趣向を変へまして、清岡球江きよをかたまえ豪奢がうしやを見せるために、私はヴェランダに虎を飼ふことにしました。南洋産の猛烈な奴で、そいつが幕切れに暴れて、球江に喰ひつかうとする処を考へたんですが、どうでせう。」
 と云つた時、皆の視線は一度に彼の方へ注がれた。して座長の由井が、
「そいつはよからう。それで深井君の嵌り役が出来た。受ける事は疑ひなしさね。」
 と云つた時、皆のもう一度彼の方へ投げた視線が、何となく嘲笑の色を帯びてゐるやうに、彼には感ぜられたのだつた。けれども又、立女形たておやまの川原までが、
「そいつはきつと評判になりますね。その幕はすつかり深井君の虎に食はれて了ひますよ。」
 と云つた時には、彼も笑ひに加はり乍ら、幾らか得意にさへなつてゐた。……
「兎にも角にも、」彼は猶床の上で考へた。「振られた虎一役は、うまくやらなければならない。獣に扮することが、何も耻辱と云ふ訳ではない。獣でも鳥でも、うまく演りさへすれば立派な役者なのだ。して何と云つても、虎をれる役者は、日本中に俺しかないのだ。さうだ。一つ虎をうまくやつて見物をわつと云はしてやらう。そして外の役者どもを蹴とばしてやらう。今の俺が生きて行くには、さうするより外はないのだ。」
 彼は急いで起き上ると、階下したにゐる妻を呼んで、着物を着かへた。そしてもう晴々した顔付をし乍ら、階下したへ下りて行つた。そこの長火鉢の傍には、黄色い布帛ふきんが懸けてある、彼の遅い朝の食台が待つてゐた。彼は急いで楊子を使ふと、そゝくさとその朝飯とも昼飯ともつかぬ物に向つた。
 縁側には息子の亘が、日向ひなたぼつこをし乍ら、古い演藝画報のページを、見るともなく引繰り返してゐた。其口絵の中には、極く稀れにしか載らぬ、彼の小さい写真姿が在るに違ひなかつた。お情けでたまに載せて貰ふ写真。彼は息子に対して、いつも乍ら耻らひを感じた。此の息子の眼に、役者としての自分がどの位に映るだらう。而してそれが父としての自分と、どれだけの抵触を引起すだらう。――彼は漠然とそんな事を考へて、箸を運んでゐる時に、亘は不意に声を掛けた。
「お父さん。今日は稽古がお休みなの。」
「あゝ立稽古たてげいこまでお父さんは休みだ。」
 かう云ひ乍ら彼は、覚えなければならぬせりふが一言もない虎の役を、改めて苦々しく思ひ起した。彼は実際稽古場へは出ても、今度は他人とせりふを合はせる必要も無かつた。要するに稽古と云ふものは、彼には如何に虎らしく跳躍すべきかを、一人で考へればそれでよかつた。
 がしかし虎と云ふものは、一体どんな飛び跳ね方をするのだらう。彼は絵に画いた虎は見た。旧劇の或る物に出る虎も見たが、実物の虎は、たゞそれらを通して、漠然想像してゐるに過ぎなかつた。いざ自分が演ずるとなると、如何に動物役者の自分にも、まるで特徴が解らなかつた。いづれ猫属に入つてゐる獣だから、勢ひ立つた大きな猫と思へば大差はなからうが、もし旧劇の猫騒動なぞに出る、猫のしぐさ以上に一歩も出ないで、口の悪い劇評家なぞから、深井の虎は文字通りに、虎を描いて猫に類するなぞと云はれては癪だ。――彼は又そんな事を考へ続けた。
 息子の亘は父がそんな事を思ひ悩んで居るとは知らず、親におもねる小供の技巧の、おづ/\するやうな甘へた口調で、猶も問を進めて行つた。
「それぢや何処へも行く御用はないの。」
「うん。まあ無いな。――だが何だつて、そんな事を聞くんだ。」
「僕ね。お父さんが暇なら、今日上野へ連れてつて貰ひたいんだよ。お天気がいゝんだからさ。ね。連れてつとくれよ。」
「上野の何処へゆくんだ。あんな処へ行つたつて、少しも面白くはないぢやないか。子供に絵の展覧会は解らないし。――」
「だつて、僕動物園へ行つて見度いんだよ。昨年からまだ一度も行かないんだもの。」
「動物園?」
 思はず反問した彼は、頭の中でひら/\と思ひ浮ぶ事があつた。彼はこの小供の言葉を、一種の啓示として感謝していゝか、一種の皮肉として苦笑していゝか、どつちに取るべきかに迷つたが、仮令たとへ小供を通して、神様から嗤はれてゐるにしても、此の機会を利用して、虎の実態を研究して置くのが昨今の急務だと彼の職業が教へた。
「動物園へ河馬かばが来てるんだからさ。ね。連れてつてお呉れよ。」
「さうだな。それぢやたまには亘坊の相手にもなつて、河馬でも虎でも見て来ようか。」
 かう云つて彼は、申訳をするように傍の細君を顧みた。
「ご用が御座いませんでしたらさうなさいよ。よそへ行くよりかへつて気が晴れるかも知れませんよ。」
 細君は「虎」にこだわる良人をつとの心持とは違つて、「よそへ行くより」と云ふ言葉に、一種の意味を持たせて賛成した。
 彼は勿論そんな諷刺には敏感だつた。がそれをはづすのにも又、軽く受け流す手段を知つてゐた。
「成程、どこかへ猫を見に行くよりは、おまへも幾らか安心だらうな。」
 かう云つて彼はわざと大声に笑つた。
「ぢやお父さん直ぐ行かうね。」
「あゝよし/\。」
 かうして彼は何の憚りもなく、天の与へて呉れた好機に乗つたが、彼の心の何処かには、何となくくすぐつたい或るもの、小供に耻づかしい或るものがあつた。併しまづ何よりも職業なのだから……さう思ふと快活に凡てを諦めて、自分を笑ひ乍らいたはる「江戸つ子」に帰つてゐた。
 それから小半時も経つと、彼はもう亘を伴れて上野行の電車に乗つてゐた。彼は普通の俳優並みにかう云ふ電車の中なぞでは、人に知られまいとする努力の快感と、その努力にも係らず、人にそれと知られ指される快感とを、交互に得たいと思つた。彼は誰が見ても目に立つ派手な大島の袷を揃へてこれも子役らしく袖を長くした衣物の亘と共に、車室の隅に殊更身を縮めてゐた。彼は知人にこんな動物園へ行く所を、見つけられたく無いと思つた。がそれと同時に、誰かにひよいと出会つて、此の自分の妙な動物園行を、さりげなく笑ひ話の種にしたくも在つた。
 丁度須田町から乗り合はした男が、うまく其要求を満たして呉れた。それはJ新聞社に居る、見知り越しの劇評家だつた。深井は眉深に被つたソフトの下から、素早くそれと認めたが、向うでそれと気附いて呉れるまで、息をつまらせて待ち構へた。間もなく劇評家は彼と解ると、側へ寄つて来てひそかに、親しげに、鷹揚に黙つて肩を叩いた。
「いや、先生ですか。これは珍らしい処でお目にかゝりましたな。」
「妙な人と乗り合せたものだね。だから此の電車いなづまぐるまといふ奴は面白めんぱくだて。」
「又そんな六ヶい言葉をお使ひなすつちやあ不可いけません。――だが今日はどちらへ。おいでの所かお帰りの所か存じませんが。」
「さあ、どつちに片附けるかね。行きとも云へるし、帰りとも云へる。……」
「どちらが御本宅だが[#「御本宅だが」はママ]解らないと来てますからね。」
「そんな粋な寸法ぢやないよ。――だが君はどちらへ。」
わつしですか。わつしはこれで仲々粋な処へ行くんぜ。[#「行くんぜ。」はママ]――まあ御覧なさい。かう云ふ瘤付きです。」
 と彼は無視されてゐた小供にあごを向けた。
「ほう、亘公か。――今日はお父さんのお伴かい。それともお父さんがお前のお伴かね。」
「さう/\。其イキなんです。今日は小供に引かれて上野へ行くんです。」
「何だい。展覧会かい。鳥渡ちよつと感心だね。」
「そんな野暮な処ぢやないんです。――これでも動物園へ行かうてんです。」かう云つて彼は、慌てゝ附け加へた。「河馬かばを見にね。」
「動物園?」劇評家はわざと大仰に眉をひそめたが、すぐ又にた/\しい笑顔に帰つて、ぽんと膝頭を打つた。「あ、成程。さうかい。解つた、解つた。――だが見に行くのは河馬ぢや無からう。」
「ぢやあ河馬の逆さまを見に行くとでも洒落ますかな。」
「いや、さうはぐらかしても其手は食はないよ。見に行くのは例の「虎」だらう。今度の趣向はもうちやんと聞いてるぜ。あれは大谷の思ひ付だつて云ふが、彼奴あいつも話せる男さね。」
「へゝえ、さうですか。そいつあ初耳ですね。私は又、亭々てい/\さんのわるい悪戯だとばかり怨んでゐましたよ。――それぢや鳥渡ちよつと研究の仕栄しばえがありますね。何しろこちとらは、座主しうちの受けが大切ですからな。」
「そうれ見給へ。見事に白状に及んだぢやないか。併し虎を見たいんなら、わざ/\動物園まで行くにも及ぶまいぜ。」
「一二升飲ませれや誰だつて成りますか。」
「どうだい、そつちの虎を見に行かうぢやないか。」
「そいつあ不可いけません。何しろ此奴を、撒く訳には行きませんからね。」と彼は又小供を顧みた。
「君も老いたね。」劇評家も亘の方をぢつと見乍ら、何気なしに云つた。
 深井は此言葉を聞くと、水を掛けられたやうに真面目に帰つた。而して息子の手前を顧みず、べらべら冗談口を叩いた事が、何とも云へず耻しいやうに思へた。が其儘口を噤んで了ふには、今迄の彼の教養が軽快過ぎた。
「年は取つてもる事は小供ですつてね。何しろ虎一役ぢや遣り切れませんよ。」
「併し馬鹿さ加減を云へば、由井の役だつて同じやうなものさ。寧ろ君の虎一役が名誉かも知れんぜ。人気が虎の一身に集つたりしてね。」
「さう思つてわつしも一生懸命やるだけはやる積りなんですがね。」
「さうとも、僕たちだつて寧ろ君の虎に期待してゐるよ。」
「恐れ入ります。」深井は苦笑をし乍らも、内心すくなからず慰められた。
 其の中に電車は上野山下へ着いたので、彼は息子に促されて、劇評家を残したまゝ慌てゝ電車を下りた。
 上野の秋は木々も色づいて、広く白い散歩道には、人の流れが所々に日傘を浮かして動いてゐた。屋内にばかり居馴れた深井は、青空の下で自ら気が晴々した。彼は真つ直ぐに動物園へ向つた。
 園内に入ると、亘は喜んで駆け出さうとした。深井はそれを引留めて、
「ぢやあお父さんは虎を見てゐるから、お前はすつかり見て廻つたら帰つておいで。」と云ひ渡した。亘は父が何故さう虎に興味を持つかと穿鑿する余裕もなく、勇み立つて父のもとからの解放を喜んだ。彼はもう走つて行つて、猿の檻の前にゐる多勢の小供の中に紛れ込んで了つた。
 父もまた子からの解放を喜んだ。して一人ゆつくり歩を運んで、ずつと前に来た時の記憶を辿りつつ、猛獣の檻を探し廻つた。目ざす虎の居る所は直ぐに解つた。
 彼は妙な心持で檻の前へ立つた。方二間ほどの鉄の檻の中には、彼の求むる虎其物が、懶げに前足を揃へてうづくまつてゐた。その薄汚れた毛並みと、どんより曇つた日のやうな眼光が、先づ彼の眼に入つた時、彼は鳥渡ちよつとした落胆を感じた。余りに今迄想像してゐた、猛獣の威勢と違つたからである。けれどもぢつと見凝めてゐる間に、彼の心はだん/\虎に同情して来た。一種の憐憫と共に、妙な愛情さへも生じて来た。この朗らかな秋の日を、うすら寒く檻の中に塞されて、あらゆる野性の活力を奪はれ、只どんよりと蹲つて、人々の観るが儘に動きもせぬ獣。その獣こそは自分の境遇にも似てゐるとさへ感じた。併し何処が似てゐるのか、彼自身にも解らなかつた。
 彼は漠然とそんな感慨に打たれて自分が此の虎に扮するのを忘れ、虎の肢態を研究するのを忘れてぢつと檻の前に立つてゐた。
 虎も動かなかつた。彼も動かなかつた。此の不思議な対象をなす獣と人とは、ぼんやり互ひに見合つた儘、ぢつと何時までも動かなかつた。終ひには深井は、虎と同じ心持を持ち虎と同じ事を考へてゐるやうに感じた。
 突然虎は顔を妙に歪めた。と思ふと其途端に、それだけ鮮かな銀色の髯を植ゑた口を開いて、大きな獣の欠伸をした。開いた口の中は鮮紅色で、牡丹といふよりは薔薇の開いたやうだつた。がそれも一分間と経たずに、虎はまた元のやうな静けさに帰つた。
 ふと吾に帰つた深井は、危ふく忘れかけた自分の目的を、再び心に蘇らせた。けれども眼前の虎は、彼に只一度の欠伸を見学させただけで、あとは林のやうに動かなかつた。それでも彼は満足した。これだけ虎の気持になれゝばあとは、自分で勝手に跳ね狂へるやうに感じた。
「さうだ。一つ思ひ切つて虎になつてやるぞ。俺には色男の気持なぞよりも、もつと切実に虎の気持が解るのだ。」かう彼は心に叫んだ。
 やがて彼はそこへ戻つて来た息子の手をひいて、前よりももつと欣然としながら、動物園の門を出た。――
 翌日彼はふとJ新聞の演藝一夕話と云ふ噂書の一欄を見た。すると其処には麗々しく、
「例の動物役者で売つた深井八輔は、此頃ではすつかり人間離れがして了つて、昼飯はにやご/\云ひ乍ら鮑貝あはびがひで食ひ、給金はチン/\後足で立ち乍ら貰ふと云ふ凝り方だが、愈々今度の歌舞伎座でも役もあらうに虎一役で大収おほをさまりに収まり、動物園に通つて熱心に研究中と。」出てゐた。それは昨日会つた例の劇評家が、筆にまかせて書いた物に相違なかつた。
 彼はそれを読んだ時、鳥渡ちよつと一種の憤激に近いものを心に起した。が併しそれはすぐ消えて、あとには苦笑となり、次いで晴れやかな微笑へ推移した。
「なあに是が俺の人気なのだ。」
 さう思ふと彼は更に「虎」一役を成功させる必要を感じた。彼はもう煙草を吸ひ乍らも、飯を食ひ乍らも、寝床の中に居乍らも、只管ひたすら虎の動作のみを考へてゐた。
 其中に愈々いよ/\初日は来た。して丁数ちやうすうは進んで彼が虎となつて現はるべき三幕目となつた。彼は笑い顔一つせずに虎の縫ぐるみを着て、知らせの木と共に球江邸の露台バルコニーうへに横たはつた。
 幕は開いた。まだ誰も登場しなかつた。ただ懶げに寝てゐた虎が、やうやく永い日の眠りから覚めたやうに、鳥渡ちよつと身を動かして一声二声「うゝつ」と唸つた。其途端に大向ふから、「深井、深井!」と呼ぶ声が五つ六つ掛つた。深井は内心尠からず得意だつた。
 つゞいて由井が登場した。川原が登場したが、その度にかゝる大向の懸け声は、深井のそれに劣るとも勝らなかつた。深井は「それ見ろ」と思つた。而して内心益々得意だつた。
 劇は進行した。彼は由井と川原との会話を聞き乍ら、只管ひたすら自分が跳躍すべき機を待つてゐる。劇は高潮に達した。して愈々いよ/\彼の活躍すべきキツカケとなつた。
 彼は先づ猫とも虎ともつかぬ獣の伸びを一回した。それから徐ろに一二度唸つた。而して球江の揶揄からかうに連れて、猛然と其胸を目がけて躍りかゝつた。繋いである鎖がぴんと緊張する程に、勢ひ込んで跳ね狂つた。
 観客は湧き立つた。「深井、深井!」と呼ぶ声が随処に起つた。彼は縫ぐるみを通して、それらの喝采を聞き乍ら、殆んど吾を忘れて跳躍した。もう不平も無かつた。憤激もなかつた。鬱憂もなかつた。耻辱もなかつた。たゞ彼の忘我の心の中には、云ひようのない快感のみが存在した。
 彼の猶も猛然たる跳躍の中に幕は閉ぢた。見物の喝采はまだ鳴り響いてゐた。彼はすつかり満悦した。して揚々として縫ぐるみの儘、舞台を引上げて来た。すると其暗い書割の陰で、不意に彼の片手へ縋り付く者があつた。彼は鳥渡ちよつと吃驚して、縫ぐるみの覗き穴から、其方を見やつた。其処には彼の息子の亘が、
「お父さん!」と云つて立つてゐた。
 深井は得意の絶頂から、忽ちにして愧耻きちのどん底に放り込まれた。彼は彼の息子の前で、縫ぐるみの中の顔を年甲斐もなく真赤にしたが、再び見下した息子の眼には、この腐甲斐ない父の一役を、非難する様な何物も無かつた。却つて父の苦しい境遇に同情する、泣き度いやうな表情が現れてゐた。
「お父さん!」再び息子は鼻声で云ひ乍ら寄り添つて来た。
「亘!」深井も思はずさう云つて、息子の身体をひしと引寄せた。涙が縫ぐるみの虎斑とらふを伝うてぼろぼろと落ちた。…………
 かうして虎と人間の子とは、暗い背景の陰で暫し泣き合つた。
(大正七年、四月)
(「文章世界」大正7年5月号)





底本:「編年体大正文学全集 第七巻 大正七年」ゆまに書房
   2001(平成13)年5月25日第1版第1刷発行
底本の親本:「文章世界 第十三巻第五号」
   1918(大正7)年5月1日発行
初出:「文章世界 第十三巻第五号」
   1918(大正7)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「小供」と「子供」の混在は、底本通りです。
入力:H.YAM
校正:荒木恵一
2015年6月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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