戯曲時代

岸田國士




 雑誌の創作欄が、昨日までは小説のみで埋められてゐたのに反し、読み物としての戯曲が可なりの頁数を占めるやうになつた今日の時勢を、誰かゞ、名づけて戯曲時代と呼んでも、それは少しも不思議ではない。
『戯曲時代』――これは、また、十月創刊の一同人雑誌の標題である。その同人の一人が、自ら「劇芸術界の山椒」と名乗るその雑誌の内容については、他に、之を評する適任者があらう。それはさうと、雑誌『戯曲時代』を生んだ世界未曾有の戯曲時代――故意か偶然か、その時代に生れ合せて、同じく戯曲作家の仲間入りをはじめた僕の――僕とは限らないが――さういふ人間の、心持ちに少々立ち入つて見たら、表面は兎も角、存外悪い時に出て来たといふやうな、後悔に似たものがありはしないだらうか。
 なぜかと云へば、戯曲時代といふ素晴らしく景気のよささうな言葉の裏には、独身主義とでもいふやうな、一種の寂しい響きが籠つてゐるからである。
 それは、誰でも感じてゐる通り、舞台の暗黒時代、俳優の払底時代を意味してゐるのではないか。つまり、演劇の演劇としての恐慌期を意味してゐるのではないか。
 それと同時に、戯曲は、戯曲としての本質に関係なく、殆ど小説の一形式としてその存在を主張し得ることを意味してゐるのではないか。従つて似而非戯曲が、傲然として真の戯曲を――若しあるとすれば――真の戯曲を尻目にかけてゐられることを意味するのではないか。
 更にまた、「会話で筋を運ぶ物語」が、「地の文を使ふ物語」ほどにうまく行かないのは当り前だといふ――まあ、聴いておいでなさい――さういふ口実に道理を与へ、戯曲は小説ほど渾然たる芸術的表現に達し得ない――少くとも、それは困難であるといふやうな遁辞が、公然と通用することを意味するのではないか。
 そして結局、当分は、何か書きたい連中が、小説の方が六ヶ敷さうだからとて、所謂「戯曲らしきもの」を書き連ね、それを咎めるものがないのをよいことにして、「今が戯曲の書き時」だと悦に入る――さういふ時代を指してゐるのではないか。
 かう考へて来ると、此の華々しい戯曲時代も、どうやら心細い。特に、その時代に顔を連ねる戯曲作家なるものこそ、正に眉唾ものである。
 自分のことはまづ棚に上げて、こんなものを書いてゐては困るなあと思ふやうな人が、いつまでも戯曲家で通つてゐたり、おやおや、とうとうひどくやつゝけられたな――いよいよ致命傷を受けたなと思つてゐると、翌月の雑誌には、また麗々しく戯曲何々の作者として、その名前が出てゐたりする当今、戯曲時代は、百花爛漫その実は百鬼昼行の時代である。
「上演されるといふ心配」がまづ無い――さういふ時代の戯曲家は、いゝ気なもので、何んと云つても、独りよがりが許される。
 独りよがりもよからう。よからうから、一つさういふ戯曲家は、お互に何んとか、絶対に上演されないやうな工夫を廻らして、折角の夢をさまさないやうにしようではないか。

 戯曲家の方ではさういふ組合なり、何なりを作るとして、今度は芝居の真似でもして見ようと思ふ人達は、今こそ、乗ずべき時である。
 僕の考へでは、今時の戯曲の中には、とても所謂玄人が上演しさうもない戯曲がざらにあるから、さういふ戯曲の中から、兎に角、こいつは変つてるなと思ふやうなものを探し出して、それを舞台にかけて見たら、面白からうと思ふ。
 面白からうといふのは、誰が見ても面白からうといふ意味では勿論ないが、そんなことには頓着なく、自分たちさへ面白ければいゝといふぐらゐのつもりで、玄人の真似なんか一切せず――さうかと云つて、素人ぶる必要は決してないが――何よりも先づ今迄日本にない芝居を創り出すといふ意気込みで、何か始めて見たらどうだらう。
 金などは大して要らない。その代り、時間を十分かけて、みつしり稽古をする。
 一つの戯曲を如何に演出するか――このことばかりに気を取られて、戯曲の演出とは如何なるものかといふことを忘れてゐる場合が多い。つまり、如何にして巧みな演出をしようか――さう考へる前に、如何にして正しい演出をしようか――と考へなければうそだ。
 これだけの事を信条として、仕事を「初めから始め」得る素人劇団の出現は、目下極めて意義があると同時に、「我々の演劇」は、どうしても、そこから出発しなくてはならないやうに思はれる。
 それはつまり、今日、新劇の劇団と称せられるものゝ仕事は、既に、成長を阻まれた過去の存在に過ぎないと断言し得るからである。
 現在新劇を演ずる俳優――せめて、彼等だけの頭をもつて――それが何といふ頭だ――全く舞台に立つた経験もなく、彼等の演出法から何らの影響をも受けてゐない人々が、今一つの脚本を演じて見ようと云ふ希望を抱いて、彼等と全く異つた――そして、それのみが正しい――方法によつて、彼等よりはほんの少し長い時間を稽古に充てたならば、僕はきつと、その結果が、彼等の「仕事」よりも仕事らしく、彼等の「芝居」よりも芝居らしく、彼等の「芸術」よりも芸術らしいものに到達することを信じて疑はない。
 諸君は、かくして、たゞ一回舞台を踏んだだけで、すぐに「彼等よりも玄人」に、「彼等よりも真物」に、「彼等よりも芸術家」になり得ることを僕は保証して置く。
 然し、それが為めに諸君は、直ちに「俳優」になつたと思つてはいけない、「玄人」に、なつたと思つてはいけない。「仕事」はそれからだ。「芸術」はそれからだ。
 諸君に天分さへあれば、それからの修業次第で、啻に新日本の名優たり得るのみならず、実に日本新劇の創始者たり得る余地が十分にある。今のうちなら十分にある。
 僕は、似而非玄人の前に尻込みをしてゐる素人に、「今が俳優になり時」であることを告げて、僕の言を聴いてくれた人と共に、機を看るの明を誇りたいと思ふ。
 少々、煽動家デマゴオグの口吻になつて来たが、それはどうでもいゝ。一つ、やつて見たまへ。
 時に、さういふ素人に脚本を提供してくれる戯曲家がゐないだらうといふ疑問が起るかも知れない。殊に、「自作上演拒否同盟」でも作られては、一寸困るだらうといふ心配もあらうが、なあに、そこにはまたいろいろ、何があつて、例へば僕の如きは、さういふ同盟には入らないつもりでゐるし、また、前に述べた同人雑誌『戯曲時代』の諸君のうちでも山根邦夫君の如きは、「戯曲作家のもとに演出相談に走る舞台監督は自分の無能を示すものと知れ」と力んでゐるくらゐだから、同君の作品なら、どんな演出をしたつて黙つてゐてくれやうし、従つて「上演されることを心配して」ゐるわけでもあるまい。
 僕は、僣越ながら、将来の「素人劇団」に、その第一回試演として、山根邦夫君作『操られる人間』を上演されんことをお勧めする――勿論、読んで見て面白いと思つたらだ――。但し、第二回試演には、もう少し疲れないものをやつても好い、西洋にも、カイザアやグラウ(『ピグマリヨン氏』の作者)ばかりゐるわけではない。
「脚本の書き時」は、やがて「役者になり時」である。かういふ時代に生れて、毎月の雑誌に載る戯曲を読み、その辺の素人劇を見せられて、大に好劇家面をしてゐる読者見物諸君は存外お人好しのやうであるが、これはどうも責める方が無理らしい。

「戯曲掲載雑誌不買同盟」などぼつぼつ思ひつく読者はないか知ら。
「新作上演妨害同盟」といふやうなものも――これは、一つ早速やつたらどうです――勿論これは玄人俳優に限ること。
 さうすると、みんなおれも素人だ、あたしも素人よ、などゝ云ひ出すかもわからない。

 僕の最も敬慕する詩人の一人アルフレッド・ド・ミュッセは、十九世紀が生んだ仏蘭西最大の戯曲作家である。
 彼の処女劇作『ヴェネチヤの夜』が、オデオン座に上演された時、見物は冷遇した。批評家は嘲笑した。
 彼は憤つた。然し、落胆はしなかつた。彼は書き続けた。彼はその戯曲を活字にすることで満足した。『戯れに恋はすまじ』、『マリヤアヌの移り気』など、今日、仏蘭西の舞台を飾る名篇は、当時の劇壇から全く顧みられなかつた。
 後年――作者の歿後――女優アラン夫人が、露国の首都に旅して、始めて同作者の小喜劇『出来心』を舞台にかけ、予期以上の成功を収めて、これを巴里に持ち帰つた。仏蘭西の劇評家は、あつと云つて、顔を見合せた。見物は、無邪気に手を叩いた。劇場主は図々しく『ミュッセ全集』をひろげて、『コメヂイとプロヴェルブ』の目次を繰つた。

 日本には、今、世界未曾有の戯曲時代が来た。
 ミュッセ出でよ。アラン夫人出でよ。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「演劇新潮 第一年第十一号」
   1924(大正13)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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