『同志の人々』

岸田國士




 僕は近頃、芝居はどこが面白いかといふ問題について頭を捻つてゐる。
 少しそれがわかりかけたやうな気がする。そこへ、畏友山本有三氏から近著戯曲集『同志の人々』の恵贈に預つた。で、早速、そのうちの或るものを再読して見た。
 山本有三氏には甚だ失礼ではあるが、僕の戯曲論の説明に、同氏の作品を一例として拝借することにする。それは、同氏の第一戯曲集たる『嬰児殺し』中に収められてある諸作から、今度の『同志の人々』中に収められてある諸作へと、或る著しい進化が認められ、此の進化が、僕の戯曲論を裏附ける為めに、極めて便利な性質をもつたものであるからである。
 作品の発表順序について、僕はしつかりした記憶はないが、第一戯曲集の諸作は大部分、第二戯曲集の諸作よりも前期に属するものであることは疑ひない。
 一口に云へば、前期の諸作は、主題として所謂「劇的境遇」が選ばれてをり、後期の諸作は、少くとも表面的に「波瀾の少い場面」が選ばれてゐる。『同志の人々』と『指蔓縁起』は別としても、『海彦山彦』『本尊』『熊谷蓮生坊』『女中の病気』みな然りである。勿論、内面的には「或る心理的の動き」があるけれども、これは小説にでもざらにある「心理の動き」である。作者は、つまり、外面的の「ドラマ」から内面的の「劇」へ足を踏み込んだと云へる。
 そこで、この内面的の「ドラマ」であるが、前にも述べた通り、『海彦山彦』『女中の病気』程度の「ドラマ」なら、特に之を「劇的境遇」と呼ぶ必要はあるまい。然るに、僕は、『海彦山彦』を以て作者の傑作と思惟するものである。『女中の病気』は恐らく之に次ぐものであらう。勿論『同志の人々』、『指蔓縁起』それぞれに面白くはあるが、作者の「最も佳きもの」は、前に挙げた二作のうちに、最も多く、最も明かに之を見出すことが出来ると信じてゐる。
 こゝで僕は、此の事実を、僕のやゝ独断的な戯曲論に結びつける。
 所謂「劇的ドラマチツク」といふ言葉は、芸術としての戯曲を評価する場合に何等の標準を示すものではない。芸術として傑れた戯曲は、主題として所謂「劇的境遇」が選ばれる必要は少しもなく、それ以外に、もつと本質的な「劇的美」がある筈である。これは恐らく戯曲の近代的進化が、特に誇りとすべき発見であらうと思はれる。
 戯曲の主題が所謂「劇的」でなければならないといふ主張は、小説の主題が所謂「小説的」でなければならないといふ時代の因襲的観念であつて、戯曲が戯曲たる所以は儼然として、その外にある。結論を急げば、戯曲の本質的「美」は、人生の真理を物語る活きた魂の最も諧調に満ちた声と姿、最も韻律的な動き(響きと云つてもいゝ)の中に在るとは云へないか。「語られる言葉」と「行はれる動作」の最も直接的な、最も暗示的な表現、そこからのみ生れる心理的詩味のうちにあるとは云へないだらうか。
 山本有三氏の近業は、この点で興味が深い。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「時事新報」
   1924(大正13)年12月5日
※「時事新報」掲載時の題名は「芝居はどこが面白いのか」。
入力:tatsuki
校正:Juki
2008年11月30日作成
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