傍観者の言

岸田國士




 昔から、文芸上の論戦ほど、読んで面白く、考へると馬鹿々々しいものはない。
 面白いのは、尤もらしいからである。しかし、両方とも尤もらしいのだから、喧嘩にもなにもならず、そのくせ大にやり合つてゐるつもりでゐるから、そこが馬鹿々々しいのである。殊に相手の云ふことに耳を傾けない――傾けてもわからないらしい――論駁などは、甚だ愛嬌がある。
「なるほどね、さういふ主張もあつていいね。但し、おれは、趣味として不賛成だがね。しかし、まあ、大いにやつてくれ。何れ、「もの」を見せて貰はう。案外感心するかも知れんよ」
 大概の場合は、これで済むのである。
「これかい、君の主張する傾向の作品といふのは。なるほど、変つてるね。だが、どうもおれにはよくわからんよ。わからないから駄目だとは云へないが、一寸好きにもなれず、さう感心もできないね。誰か佳いつて云ふものがあるのかい。へえ、その人はほんとにわかつてるのかね」
 これで話のすむ場合も度々ある。不親切だと云ふなら、その後で
「それにしても君、君の主張する処によれば、……なんだらう。此の作品では、さういふ処が、まだ、それほどしつかりしたものになつてゐないぢやないか。どうも危なつかしいぢやないか。そこに面白さがあるといふのかい、危なつかしい処に……? さうなつて来ると、僕は僕の審美観念を疑はなくてはならないが、僕は飽くまでも自分の立場を正しいとして物を云へばだね、君の此の作品は、君の主張を完全に生かしてゐない処に、致命的な欠陥があると思ふね。一歩進めて云へばさ、君は君の主張する傾向の為めに、文学そのものを犠牲にしてゐやしないか。まあ、待ち給へ、それも決して悪いとは云はない、そこに止まつてゐることが危険だと云ふまでだ。此の次の作を見せて貰はうぢやないか。芸術家は、絶えず、歩いてゐなくちやいかんさ。しかし、新しい道を探す為めに、方角を誤つたり、同じ処を堂々めぐりしてゐたりするのは考へものだからね。或る完成から脱け出ることも必要さ。しかし、それは次の完成へ向つての脱出でなけれやね、どうしたつて。少しお説教じみたね、処で、君は、僕の作品を旧いといふが……」
「旧いよ、全く。物の観方、感じ方、表現のし方、丸で今までのものと変りはないぢやないか」
「変りがなくつちやいけないのか」
「当り前さ。変らなくつてもいいんなら、今更、君なんかが物を書く必要はないぢやないか」
「さういふ議論も成立つね。しかし、おれは、何も、今迄の人がやらなかつたことをやらうと思つてゐやしない。おれの作品はおれから始まつておれに終る、さういふ一つの歴史しかもつてゐないと見てくれたらどうだ。文学をその時代的価値ばかりで判断するのは少し可哀さうぢやないか」
「だからさ、君がもつと立派なものを書いてゐれば、それでもいいさ。立派なものの亜流だよ。おれたちが葬つてしまひたいのは」
「立派なものなら旧くつてもいいのか」
「いいさ、ただ、おれたちに用はないだけの話さ。君たちの書く作品のやうに、あたりの邪魔をしないだけでも、まだいいよ」
「冗談云つちやいけない。君達の邪魔をするのは、同じ旧いもので、佳いものなんだよ。その意味で、僕達の書くものが下らないものなら、君たちの作品を、却つて目立たせることに役立つ筈だ」
「さうも云へるね。ぢや、君達は僕たちの恩人か」
「まあ、そんな処らしいな」
 かうなると、論戦にもなにもならなくなるが、文学は、自分一人で坐る座敷ではないのだから、さう肱を張つて啀み合ふ必要はないぢやないか。
 ただ困るのは、文学とは「自分の主張するやうな種類」の文学でなければならないと断言して憚らない人達が、「正しい文学の道」にはひらうとする青年を誤らしめる事である。
 少し文学史を繙いた人なら、さういふ連中が何時の時代にもあつて、二十年後の世間は、もう相手にもしなくなるのであるが、結局新しい文学とは、主張だけから生れるのではなく、その主張によつて、疲弊した旧文学に「新しい生気」を与へることから生れるものであることがわかる筈だ。
 従つて、新傾向の主張を反駁する連中は、薬をいやがる病人のやうなものであり、或は、薬で腹がふくれるかと息巻くわからず屋である。
 さうかと思ふと、また、「かういふものがあつていい」と或る人が云へば、「そんなものよりこつちの方が大事だ」と答へる。どつちが大事かは別の問題で、無くつていいものでない限り、まして、在つてはならないものでない限り、どんなものでも在るに越したことはない――少くとも文学の中には。人の顔さへ見れば自分の持つてゐるものを取られるやうに思ふ癖は、文学者として、少々、慎しむべき癖である。
 そこで、どつちが大事かといふ問題であるが、それは、その人に取つて、そつちが大事だとも云へるまでである。なぜなら、既に在るものは、求めるに当らないからである。欠けてゐるものを求めることは、既に在るものを失ふことにはならないし、求めてゐるときは、そのものが何よりも大事な時であらうから。





底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
初出:「文芸時代 第二巻第七号」
   1925(大正14)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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