用捨なき観客

岸田國士




 今日我が新劇の観客といへばどういふ人達であるか――。いづれも多くは「現在までの新劇」を標準にして「まあこれ位ならば……」といふ見当をつけて見に行く人々である。結局、今迄のものより悪くなければ、勿論我慢をしてくれ、その中からさへも、何かしら「今までのもの」より以上のものを見落すまいとしてくれる人々である。
 然し、これは我が新劇の為に、存外頼みにならない観客であることを忘れてはならないと思ふ。
 今此処に、或る用捨なき観客がゐて、厳正にして公平な批判の眼を、我が新劇団に加へたとしたならば、恐らく今日の新劇団の現状は、到底問題にさへならぬものであるだらう。我々はお互ひに、芝居といふものに関係してみると、現在さう厳しいことばかりもいつて居られないことが分り、腹を立てたり、軽蔑したりしてゐては、実際キリがないことが自然に呑み込めて来るのであるが、それがもう堕落の、少なくとも妥協の第一歩ではないだらうか。私は勿論、二三の新劇団の真面目な努力を認め、その将来に可なりの期待をかけてゐるのであるが、これは、それ等新劇団の内幕を見たり聞いたりして居るし、殊にそれ等の劇団と比較して一層ものになつてゐない劇団の存在を知つてゐるからで、ただ一晩、その舞台を見ただけでは、屹度、そこまで好意のある見方は出来ないだらうと思ふ。殊に西洋の優れた舞台を見た眼で比較をするとなると、殆んどお話にならないと言つて了へるかも知れない。
 譬へてみれば、或る事情で稽古が充分出来なかつたとする。さういふ事情は、これを承認すべきものだと限つてはゐない。事に依ると、どういふ事情があつたにもせよ、稽古不充分の舞台を公開したといふ一点だけで、既にその劇団の芸術的良心が問題になる筈である。問題にならなければ嘘である。所がそれは、今日の劇団では公然と通用する遁辞である。私はそれが、上に述べた二三の劇団の場合だけでないことを、それ等の劇団の為に喜び、同時に、我が新劇団の為に悲しむものである。
 今若し誰かゞ、日本で最も高いレベルに在る新劇団に対し、聊かの同情をも持たないやうな批評を加へたとして、その批評を不当なりと呼ぶものが有つたならば、私は敢て言ふ。――罪はあなた方双方にある。それは一方が余りに我が新劇界の事情に疎く、一方が余りに我が新劇界の人になり過ぎてゐるからだ――と。
 現在の新劇のあらゆる病根、あらゆる情弊を一掃することに努力する人がもうそろそろ出来てもいゝ時ではあるまいか。そして、さういふ人の最も頼みとし、力となる相手は、正に上述の用捨なき観客である。





底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
初出:「文章往来 第一年第六号」
   1926(大正15)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月29日作成
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