「チロルの秋」以来

岸田國士




 私の戯曲の処女上演は、「チロルの秋」です。
 一昨々年の九月、演劇新潮に、私の第二作「チロルの秋」が発表されると、間もなく、新劇協会の畑中君が見えて、あれを出したいと云ふのです。
 ステラの役は伊沢君にきまつてゐました。伊沢君は、数年前その初舞台を見たきりですが、あの落ついた物腰と云ひ、あのうるほひのある声と云ひ、申分ないと思ひました。
 アマノは、郷橋君か石川君といふことでした。どちらも未知の俳優でしたが、まあ、やつて見て貰ふことにしました。
 稽古がはじまると、私は、入院をしなければならなくなつたので、私の作品をよく読んでくれてゐる友人の辰野隆君に、一二度稽古を見てもらひました。間もなく、起きられるやうになつて、私も稽古に立ち会ひました。
 その時は、アマノの役は石川君にきまつてゐました。少し優しすぎるアマノだなと思つてゐました。
 エリザは、今の松井潤子さん、可憐なチロルの少女になつてゐました。

 初日の幕が明きました。
 私は、実際、汗をかきました。とても見物席に坐つてはをられないのです。喫煙室へはひつて、頭をかゝへ、おれはどうしてこんなものを演らせたんだらうと、地団太を踏みました。舞台からは、まだ台詞が途切れ途切れに聞えて来ます。はやく幕が下りればいゝのに……。さうだ、見物席から、そんな芝居はやめちまへ! と呶鳴つてやらう。が、そんなことをしたら、なほ恥さらしぢやないか。私は人から顔を見られるのさへたまらない気がして、こそ/\楽屋へひつ込みました。処が、そこでまた俳優に顔を合はせ、一体、何と挨拶をすべきでせう。伊沢君が、舞台をすませて、私の方へ歩いて来ます。石川君が化粧を落しながら、何か私に話しかけました、お前は、こんなところにゐる人間ぢやない――誰かゞさう云つてゐるやうな気がして、私は、後を振り返らずに外へ出ました。
 帝国ホテルの、あの建物が、晴れた星空の下で、大きな口を開いてゐました。

 此の思ひ出は、私にとつて、決して愉快な思ひ出ではありません。
 しかし、私と芝居との腐れ縁は、此の時にはじまつたと云つて差支へないでせう。なぜなら、その時から、私は、芝居といふものを真剣に考へ出したのです。





底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「若草 第三巻第八号」
   1927(昭和2)年8月1日発行
初出:「若草 第三巻第八号」
   1927(昭和2)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月17日作成
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