周囲に聴く

岸田國士




     新劇を繞る論議

 近頃芝居に関する諸家の意見といふやうなものを瞥見すると、いろいろ興味のある問題が含まれてゐるやうである。が、それらの問題をいちいち取り上げて批判論議を試みるといふことは、やや大儀である。なぜなら、文字の上ではとかく誤解が生じ易く、その誤解を互に解き合ふためには、万事を棄ててかかつてもなほ足りないほどの努力が必要だからである。
 例へば、歌舞伎、新派が発展の道なく、これに代るべき新劇が近来生気を失ひ、このままだと、正統演劇の将来は誠に暗澹たるものだといふやうな考へが一般に拡がつて、これを救ふ道如何が、今や劇壇の彼方此方に論議されてゐる。
 そこで、かかる現象を呈するに至つたのは、それは今までの新劇が面白くないからで、その面白くない原因は、あまり高踏的であり、あまり文学的であり、あまり末梢神経的であり、あまり写実的であり、あまり深刻陰鬱であり、あまり淡々としてゐるからだといふやうな理由を挙げるのが常識になつてゐるやうだ。
 更に、進んでは、傑れた創作戯曲が出ないからだといひ、新劇俳優の演技がマンネリズムに陥つてゐるからだともいひ、宣伝が足りないとか、小屋が辺鄙だとか、甚だしきは、世間の同情が足りないからだともいふ。
 そしてなほ、この状態から新劇を浮び上らせるために、即ち一言にして云へば、芝居を面白くするために、若干の提唱が試みられた。曰くメロドラマの再認識、曰く大劇場主義戯曲の生産即ちスペクタクル的要素の新劇化、曰く舞台と見物席の境界撤廃、曰く戯曲の舞台性強調、曰く芝居は華やかに、おほらかに……等、等。
 さて、それらの意見が、今日の新劇壇に何等かの刺激を与へ、その進むべき道に若干の光明を投げかけたかどうか、私は不幸にしてその具体的な例を知らぬが、忌憚なく云へば、恐らくそれらの議論は一瞬の思ひつきであつて、さしたる根柢があるとは信じられぬ。
 私は、もう十年以来、演劇に関する意見を発表して来たが、それらは常に時流の眼から逸し去られてゐたやうである。人各々畑ありといふ言葉に偽りはないが、同時代の、等しく芝居に関心をもつ人間の間で、かくも興味の中心が喰ひ違つてゐるかと思ふと、つくづく、仕事の困難を感じさせられる。
 私は十年以来、同じことを繰り返してゐる。それはたしかに野暮な話であるが、当面の事情が変らず、自分の目標が変らない以上、新しい問題の起りやうがないのである。
 芸術的で且面白い芝居――これは私が十年前に別な言葉で云つたことである。
 新メロドラマの提唱は、たしかに反動的で面白いが、メロドラマに新旧があらうとは思はれぬ。メロドラマは、芝居そのものの如く旧く、また、衣裳の流行に似て新しいのである。言ひ換へれば、メロドラマは常に存在し、常に演劇の堕落を助けてゐる。
 大劇場主義に基く「スペクタクル」的要素の尊重は、現代の日本新劇、乃至は、その影響下にありと思はれる商業劇場の所謂「新作」に対する不満から生じたものであらうが、演劇に於ける「スペクタクル」的要素の行詰りは、西洋の演劇史が屡々繰り返してゐることであり、また、近代に於て、レヴュウ劇場がその要求を満たしてゐると思はれる。もつと芸術的なもつと洗煉されたものをとの註文なら、それは、舞踊劇の発達に俟つべきで、物語の発展を骨子とする演劇のスペクタクル化は、近代文学の洗礼を受けた演劇の知的要素を無視するものである。

     面白い芝居とは?

 優れた戯曲出でよの掛声には、私は黙つて耳を塞ぐ。そして、小声で、今の日本でほかに何か傑れたものが出てゐるかと呟きたい。そして、相手が黙つてゐれば、新劇勃興以来、今日ぐらゐ「有望な」新進が輩出した時代が嘗てあるかと問ひ返すつもりである。諸君はただ、それを知らずにゐるか、或は、故らに眼を閉ぢてゐるのではないか? 更に極言すれば、諸君が北の空に出づべしと予期してゐた星は、悠然と、南の空に輝き出したのだ。そして、諸君のあるものは、それを見て、「あれは星に非ず」と負け惜みを云ふかもしれぬ。諸君の天文学は、それほどのものであらうかと云ひたくなる。
 空はたしかに薄曇りである。しかし、今宵星を探す人は、眼を左右に転じ給へ。
 言ひ換へれば、新しきドラマツルギイを理解し給へ。
 さて、それなら、私の云ふ新しいドラマツルギイとは何か? ほんとは、別に新しいものでもなんでもなく、私が十年前から千遍一律の如く説いてゐる演劇本質論で、いはば、近代劇の遺産とも称すべき、わが国の新劇が、拠つて以てその基礎を築くべき純粋戯曲の精神とその発見である。
 今日は、戯曲らしい戯曲が、わが国にもやつと出かかつた時代だといへば、多くの人は奇異な感じを抱くであらうが、それがつまり、従来の新劇が概して芸術的でもなく、面白くもなかつた最大の原因なのだ。
 この間の消息を最も痛切に感じてゐるものは、直接、それらの戯曲を演ずる俳優のうち、相当現代の俳優としての素質を恵まれてゐる人々であらうと思ふ。
 ところが、俳優といふものは、所謂「人気商売」であるところから、思つてゐることを正直に云へないものとされてゐる。
 だから私が代つて云はう。ある新劇の最も才能ある女優の一人は、嘗てこんな意味の告白をした。
「台詞を正確に云ふ工夫を演技の第一目標とし出してから、舞台が今までになく楽しく、俳優としての生き甲斐を感じ出しました。」
 かういふ女優によつて自作を演ぜられる作者こそ、脚本の書き甲斐があり、かういふ役者の才能を伸ばし得るやうな作品にして、はじめて、戯曲らしい戯曲といへるのである。
 戯曲評価の第一歩をここに置くことを忘れた従来の「新劇運動」は、今日四苦八苦の体である。自業自得といへばそれまでであるが、眼覚むることのなんぞ遅きやと嘆ぜざるを得ぬ。
 序だから、簡単に、新劇を面白くする方法を述べれば、
 第一に、新劇俳優のうち素質のないものはみんな止めてもらふこと。
 第二に、素質のあるものは、演技の第一歩から修業をしなほすこと。お手本は……已むを得ぬから、外国トオキイに出る舞台俳優のうちから好きなのを選ぶこと。
 第三に、練習用脚本は、日本現代作家のものなら誰のものでもよろしい。但し、自分が面白いと思ふものを選ぶ。それも、工夫する毎に面白さの増すやうなものでなければ永く続けないこと。
 第四、上演目録は、新進作家のものか、或は西洋劇の巧な翻案を選ぶ。但し、これは責任上私に推薦させて欲しい。
 第五、稽古は、少くとも二ヶ月間、ぶつ通しでやること。勿論、稽古の方法は、演出者と相談して、無駄を省くこと。
 これだけを守つて、新劇が「面白く」ならなかつたら、私はエチオピヤへ行つて獅子に食はれてもいい。
 松竹が如何に「演劇の大学」なりと自称し、東宝が如何に「大衆芸術の殿堂」を標榜しても、松竹は「現代的」でなく、東宝は「演劇的」でないこと明かで、将来若し、第三者が、「現代的」なること東宝の上に出で、「演劇的」なること松竹より純乎たる一分野を開き得たら、「現代演劇」の主権は、疑ひもなくその掌中に握られるわけである。

     映画は演劇よりも演劇的なり

 ところが、かくの如き分野は、皮肉にも、既に存在するのである。
 私はじめ、演劇を愛し、現代に興味を寄せる一観客層は、不幸にして、今日の劇場に足を向ける勇気がなく、その鬱憤を、辛ふじて映画――殊に外国トオキイによつて晴らしてゐるのである。
 映画を映画として観る以外に映画を演劇としてみる習慣がいつの間にか、われわれの間に植ゑつけられてゐる。
 最近の外国トオキイは、この意味で、わが国の演劇的饑饉を救つてくれたといつてよく、ここに至つて、「映画は演劇よりも演劇的なり」といふ逆説が生れて来さうだ。
 私はまだ、トオキイになつてからでも、これに出演する外国の舞台俳優を通じてまだ名優らしい名優の演技に接したわけではないが、少くとも俳優らしい俳優の、決して映画的とばかりは云へぬ、寧ろ、舞台的魅力の数々を「眼と耳」によつて感じ、現在日本の芝居に、そのうちの一人にでも匹敵する現代劇俳優を求め得られない事実を、誰が否定し得るかと云ふのである。
 ある者は云ふかもしれぬ。――それは西洋人が俳優的素質に恵まれてゐるのであると。またある者はかうも云ふであらう。――君は、西洋人の肉体的魅力を舞台的魅力と混同してゐはしないか?
 私はそれに応へよう。
 ――日本に於ても、ハアバアト・マアシャルやクロオデット・コルベエルぐらゐの男女は、ざらにゐると思ふ。ただ、彼等及び彼女等は、舞台に立つことを思ひ立たないだけである。いや、既に、あの程度の「素質」をもつた役者が二三人はゐると思ふ。が、彼等は、ああいふ種類の演技を教へられなかつたまでである。
 この議論を押し進めて行くと、結局、
 一、これから如何なる男女をして俳優を志望させねばならぬか?
 二、如何なる素質を標準に俳優志願者を採用すべきか?
 三、如何なる舞台に適する俳優を養成し、これを如何に使用すべきか?
といふ問題を解決しなければならぬ。
 さうなると、劇団統率者の頭脳並びに趣味を一応吟味してかからねばならぬ。さういふ標準なら御免蒙るといふ志望者の中に、仮にわれわれの期待する俳優の悉くがゐるとすれば、日本の演劇も、未来は暗澹たるものである。
 従来俳優を志す青年男女で、自信ありげな連中をざつと点検すると、男ならば、列車のボオイ型、医者の代診型、呉服屋の番頭型、角帽被りたさの大学生型等々に限られ、女ならば、芸者、女給、ダンサア型、が主で、偶々変つてゐれば、味もそつけもない娘型と相場がきまつてゐる。私は何も以上の職業を軽蔑するわけではなく、ただ、これらの職業が作りだす類型的醜悪さを厭ふのである。
 電車のなかなどで、ひとわたり見廻すと、これが役者ならと思ふやうな、印象深い「人間的魅力」を備へた青年男女、乃至は、小父さん小母さんが、決して少くないのである。職業や身分は問ふところでない。彼等は概して類型に嵌つてゐないだけである。必ずしも美男美女ではない。それでゐて、見事に典型の美を備へてゐる。即ち、個性がタイプを作り、そのタイプが現代の雰囲気と調和し、「生活の深い味はひ」を伝へてゐるのである。
 現代の俳優の中にも、新旧を通じ、ある種の「人間的魅力」を備へた人々がゐることはゐるが、なにしろ、その「味ひ」たるや、現代人の舌に合はぬものが多い。伝統的な深みはあつても、社会的の幅が足りない。従つて、今日の舞台が要求する感覚と神経は、それらの人々に求める方が無理である。
 現在、如何なる「職業」に従事するものでも、凡そ俳優と称する「職業」にあるものを除いては、もつと「現代劇の人物」たるに適した風貌を有し、現代劇の「生活」に近い生活をなし、現代劇の呼吸を呼吸しつつあるやうに思はれる。即ち、将来の演劇は、俳優型俳優を排除するところから新生命を齎すであらうともいへるのである。(一九三四・一二)





底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「都新聞」
   1934(昭和9)年2月25日、3月1、2日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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