『断層』の作者久板栄二郎君へ

岸田國士




「文芸」所載の貴作『断層』について、「テアトロ」から何か感想を書けといふ註文ですが、僕はあれを草稿の時分に読んで聞かせていただいたきり、まだ活字になつたのを拝見してゐませんから、その後手をお入れになつた部分について――つまりその部分を含めて、全体の意見を述べることはできません。
 しかし、あの草稿を仮に決定的なものとして、その印象を今ここで公に云々することはどうでありませうか? 僕には、それが聊か危険に思はれだしたのです。何故なら、ここをかう直したと伺つた二三の個所についてさへ率直に云へば、やや遺憾に思はれる節があるからです。
 しかし、それはそれとして、恐らく、最初の感銘は、本質的にこの作品の一貫した精神からは抜け去つてゐないことを信じます。
 僕はある文学的作品の価値を、作家の人間的な味ひとその才能の最も研ぎ澄まされた状態から判断するのを常とし、人格の分裂と対峙、その摩擦と相剋の中にのみ、調和と混沌の美を、更に稟質と教養とが自から向ふところの興味を捉へ、燃え上る何ものかに総てを托したといふやうな表現のうちに、最も作家的な魂を発見して、所謂「芸術的な」悦びを感じるのです。
 戯曲は戯曲であるが故にのみ僕には面白い。これに盛られた思想などといふものは、それが独創的なものでない限り、しかも予めレッテルが貼られてゐては、なほさら、一向僕には魅力がありません。それ故、マルクス主義の作品と聞いただけで、実は今まで、おほかた敬遠してゐたといふことは、嘗て君にも告白した通りであります。
 が、それは決して、一人の作家がある思想、ある主義を奉じてゐるから、その作品が面白くないといふことにはなりません。彼が文学的行動を取るに際して、自己批判の名にかくれて、全人格の赤裸々な表現を憚る卑怯さ、政治的なる口実の下に、修正され、装飾され、従つて、他所行きになつた自分自身の厚かましい押売り、さういふものが、作品を通じて、われわれのモラルではなく寧ろ神経を、趣味といふよりは寧ろ感覚そのものを絶えず焦ら立たせるからです。
 一度過ちを犯した人間が、その過ちを「清算」しさへすれば、今度は、もうどんな過ちも犯さない人間になるやうな錯覚を、誰が承認できるでせう。「ああでなかつたからきつとかうだ」と単純に云ひ切れるやうな人物を僕は警戒します。「神聖な目的」を振りかざして、自分を赦すことのあの寛大さは、凡そ文学の精神からは遠いものであります。如何なる信念もそんなところからは生れないといふ信念は、僕を一見懐疑的にしてゐます。しかし、廻り道でも、僕はこの最後の信念から出発するつもりです。
 久板君、君の今度の作品――僕は外のものはまだ読んでゐません――は、少くとも活字になる前までは、君の人間的な姿が、芸術家としての熱情が、ところどころ素晴らしい閃光となつて僕の心を搏ちました。構成の緻密さや、観察の豊富さは、勿論この作品の血となり肉となつてゐますが、何よりも、君の眼が澄んでゐました。聡明な額が感じられました。思ひ上つた力み返りがない。憤りはあつても、それを見せびらかさず、時折は、ああ見えて、内心はさぞ堪へられないくらゐだらうといふ底深い悩みが漂つてゐます。これはよほどのことではありますまいか。
 僕は、もう、この作品を現在のレヴェルからいつて、無条件に傑作の部類に入れることを躊躇しませんでした。
 僕は君の立場をよく承知してゐる関係上、故らこんなことは申したくないのですが、芸術の畑に於て、一つの才能がどういふ風に伸び育つかといふ甚だ示唆に富む例をここに見たのです。そして、君の芸術家としての成長は、同時に、「人間」としての輝やかしい発展であり、君の思想と、全行動の確乎たる「力」たるに相違ないことを僕は断言します。
 プロレタリヤ演劇も、優れた演劇であることを知らしめるのは、多分これからではないでせうか?
 僕は、如何なる才能の前にも、それが僕にとつて魅力である限り、わけなく頭を下げる人間です。少くとも君にそれがわかつてもらへれば、われわれは「あるところまで」手を繋いで、愉快に仕事ができると思ひます。
 最後に、村山君の演出による新協劇団の舞台を、刮目期待してゐます。(一九三五・一一)





底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「テアトロ 第二巻第十号」
   1935(昭和10)年11月1日発行
※初出時の題は「久板君に」。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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