私の演劇論について

岸田國士




 私は所謂演劇学者ではない。しかし、私は私流の演劇論をもつてゐる。旧著「我等の劇場」は、その一端を示すものであるが、あの一巻に収めた極く断片的な文章が、一部の読者に多少の誤解を招いたとすれば、それは私の心外とするところである。
 今日まで私の眼に触れたものは、大体二種の問題に係つてゐる。
 第一は、私が演劇の本質を「白」即ち「言葉」にありと主張したやうに思つてゐること。
 第二に、私が演劇の要素を感覚的と心理的とに区別し、「白」即ち心理的要素なりと断定したやうに思つてゐること。

 さて、第一の誤解については、「我等の劇場」中の「演劇の本質」なる一項を熟読して貰へばわかることと思ふ。
 第二は、最近、舟橋聖一氏によつて暗から鉄砲式に提出された抗議であるが、私はまだ嘗てそんなことを云つた覚えはない。
 なるほど、脚本の使用によつて「物語」を展開せしめる演劇の形式について、これこそ心理的要素を主とする演劇であると説いたことはある。又、心理的要素は、物語の叙述に必要な「白」のなかに含まれてあることをも述べたに違ひないが、「白」のなかに心理的要素以外のものがないと云つた覚えは決してないのである。そんな非常識な議論を組み立てる勇気は私にはない。
 現に、本誌(「悲劇喜劇」)第二号の「語られる言葉の美」を読んで貰へば、私が如何に、「白」の感覚的効果を無視してゐないかがわかると思ふ。

 尤も、人の意見などといふものは、断片的な文章だけで判断することは多くの危険を伴ふもので、まして、芸術上の主義主張は、常に相対的意味を含めて解釈しなければならぬと思ふ。話は少し違ふが、ロマンチスムの主唱者ヴィクトオル・ユゴオがデカダン、ボオドレエルの芸術を讃美し、象徴派の巨頭マラルメが、自然主義の親玉ゾラの小説を推賞してゐるのを見て、人は不思議に思ふのであるが、実は不思議でもなんでもない。

 序だから云ふが、私は嘗て自分の雑文集に「言葉言葉言葉」といふ標題をつけた。ところが、それを、どう勘違ひしてか、その意味を「一にも言葉、二にも言葉、三にも言葉」といふやうな「肯定的」意味に解してゐる人が随分あるやうだ。これも、私を「言葉の信者」にしてしまつた一つの原因だらうが、あれは辰野氏の序文にもある通り、「ハムレット」の中の句から取つたので、「言葉の空しさ」を歎じた否定的意味である。
「言葉の空しさ」――これをはつきり意識するところに、私の文学ははじまつてゐるのだと思ふ。私が戯曲を書く興味は、今日まで大部分「言葉の空しさ」を捉へる努力に出発してゐるといつていい。(一九二九・五)





底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「悲劇喜劇 第八号」
   1929(昭和4)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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