川口一郎君の『二十六番館』

岸田國士




 今月の二十三日から、築地座が飛行会館で上演する戯曲の一つに、『二十六番館』三幕といふのがある。作者は川口一郎君、恐らくこの名前は、まだ多くの人に知られてないだらう。
 とかく今日までの新劇は、概ね雑誌文学の影響を受け、創作戯曲と称するものも、真の意味に於て、舞台的写実の妙境に達し得た作品は絶無と云つてよかつた。然るに、川口一郎君は、この処女作に於て、全く時代のスノビスムをよそに、戯曲の本質的生命を周密犀利な観察のうちに求めて、全篇、堂々たる「舞台の脈搏」を感じさせる大戯曲を書き上げたといふことは、時節柄、愉快に堪へないことだ。
 舞台は紐育だが、人物は悉くわが移民の群である。そこには、「根こぎにされたもの」の姿が、特殊な雰囲気のうちにそれぞれ面白く描き出され、諧調に富む心理的リズムが、この無装飾に近い「ビルディングの物語」を、切々たる「生活の詩」ともいふべきものにしてゐる。殊に、見逃してはならないのは、この戯曲が、如何にも「舞台を心得た」技巧の数々を、細かくはあるが、惜し気もなく使つてゐるといふことだ。しかも、その技巧たるや、恐らく作者が亜米利加の舞台を観て来た人だからだらう、何れも、日本の舞台では嘗て試みられなかつたやうな種類の、いはば、「舞台を活かす」ための戯曲作法的からくりで、これがまた、感心すべきことには、少しのわざとらしさもなく、巧に、必要な場所にをさまつてゐるのである。
 それだけでも、「新劇」の舞台は、この戯曲の上演によつて、先づ第一に、演技上の革命を強ひられたと云つてよく、勿論、これまでに、翻訳劇がその役割をつとめてゐなければならないのを、それが翻訳であるために、自他共に見逃してゐたといふまでであつて、その点、『二十六番館』は、不思議な運命を負はされてゐるのだ。
 要するに、わが国の創作劇も、この一作によつて、はじめて、「新劇的」に眼を覚ましたのだと私は思ふ。つまり、この戯曲の、今日に於ける確乎たる存在理由は、まさに、「今日まで出づべくして出でなかつたものが、やうやく現はれた」といふことだ。こけおどしのテエマにつかず、紋切型のドラマツルギイを排して、ひたすら、「魂の韻律」を捉へることにのみ、その努力と才能とを傾け尽したところ、近来、誠に頼もしきデビュウと云はねばならぬ。
 上演の結果がどうであれ、私は、この戯曲が、まだ読まるべき人に多く読まれてゐないと思ふ故に、この機会に、是非、世の好劇家は、築地座の舞台を観ておいて欲しい。
 演出者として私の名も連ねられてゐるが、この戯曲の上演に、演出家の工夫は無用である。俳優諸君が、存分にその技量を揮つてくれればそれでいい。幸ひなことに、この戯曲の舞台、紐育をこれまた親しく見て来た伊藤熹朔君を装置家として得たことは、効果の上で、申分はないと思ふ。(一九三二・九)





底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「読売新聞」
   1932(昭和7)年9月23、25日
※初出時の題は「新劇の画期的作品――川口一郎君の『二十六番館』」。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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