空地利用

岸田國士




思想と性格


「思想」といふ言葉がたびたび口にされる。それは常に「誰か」の思想であると同時に、右か左かといふやうな政治的意味をもつもののやうに考へられる。「思想」そのものと、思想の表現との間に、ある作用がみられることを屡々人は忘れがちであるが、それを「性格」の作用とみるのは誤りであらうか。ある思想はある性格と結びつき易く、またある性格はある思想を生み易いといふやうなことを前提として、これは不即不離なものと云へば云へるが、こゝに注意すべきことは、ある性格が思想に対して弱く、影響が速かでかつ目立つのに反して、ある性格は思想に対して強く、影響が緩慢で内部から徐々に表面に及んでいくといふやうな傾向のあることである。この強さ弱さは、性格のなんらの価値とも関係はない。たゞ、表面が一つの思想に著色される濃度によつて、むしろ、強さが弱く、弱さが強く印象づけられるのみである。思想が信念にまで昇華し、信念が思想としての体系をとる過程に於て、これに対する心理的抵抗は、性格の宿命として、思想を思想するもののみの興味を惹くに足る問題である。
 観念としての思想が、やゝもすれば脆弱な性格の衣裳となつて、純然たる思想の悲劇ではなく、奇怪な思想の軽喜劇を演ずることを、時代の現象として後世はなんとみるであらう。

掛値とマイナス主義


 現代の教育について多くの革新意見が提出された。いづれも当を得た、あるひは虚を衝いた意見のやうにうけとれる。
 尻馬に乗るわけではないが、平生から疑問に思つてゐることを、私もついでに云はせてもらへば、ひとつは、道徳教育の上で「これくらゐに云つておいて丁度いゝ」といふやり方、つまり例外を一般の目標にさせようとする見えすいた掛値主義がこれである。それから、学校の試験制度は止むを得ないとして、試験の採点に、なぜ「間違ひ」だけ点を引くことによつて成績の上下をきめ、問題に対する予想以上の名答に対して、その問題に割当てられた点数以上の点数を与へることにより、答案全体の成績を引き上げることをしないのか。例へば二問題のうち、一問題が仮に零点でも、残りの一問題が予想以上に優秀な答案になつてゐたら、極端に云へば敢て満点をつけてもいゝではないかといふことがひとつ。
 この二つの「主義」は、現代の教育に於ける最も痛ましい痕跡を国民の性情の上に印してゐるやうに思はれる。しかも、これは学校教育ばかりでなく、その延長でもあらうか、社会各方面の指導的言論のうちにこれをみるのである。
 日本国民の、本来、与へられたもの以上を与へ、命ぜられることをそれ以上になさんとする、かの闊達恬淡な気宇は、教育こそがこれを尊重すべきであると思ふがどうであらう。

義腹、論腹、商腹


 浅学にして私は、かういふ言葉が徳川時代にあちこちで用ひられたといふことを知らなかつた。
 例の殉死の流行した時代、主君の病死に際してさへもその後を追ふ家臣が続々と現れ、遂に幕府は禁令をもつてこれを制したといふ話は、たしかに聞いたことがあるけれども、その当時、この流行に対して、かくも鋭い批判を加へるものがあつたのは、流石に日本人は隅におけぬといふ気がする。
 切腹といふ行為は、もちろんそれ自身として人間力のある極致を示したものであり、客観的にも悲壮といふ言葉以外にこれを形容することは困難であるが、さういふ神聖な行為さへも、一旦流行となると、その本質から遥かに遠い動機によつて遂行されるといふ不可思議な現象を、三百年以前の日本が既にこれを示してゐたのである。即ち、義腹とは、主に称する義によつて側近たるの務めを死後にまで果さうとする、云はゞ宗教的信念に基くもので、これは、本物の殉死である。論腹とは、主死すれば臣死せざるべからずといふ論法に依つたもので、一種の理攻めであり、時によると、殉死者を一人も出さなかつたと世間で云はれるやうなことがあつては、死んだ主人もさぞ面目なからうといふやうな考慮から、自ら進んでその一人となる老臣があつたであらう。
 ところで、第三の商腹とは、文字通り、算盤づくの切腹である。殉死者の世襲ぎは間違なく禄高を上げられ、主家の覚えはことのほか目出たく、うまくいけば幕府の恩賞にでも与らうといふやうな抜目のない追跡自殺を指すのださうである。何時の時代にも極めて打算的な人物はゐない筈がなく、加俸を望まない武士は、これも殆どなかつたに違ひないけれども、たゞそれだけの理由で、切腹までしてみせるとは、これこそ「ハラキリ」を辛うじて理解する外国人の常識ではとても考へられないことである。彼らには考へられないことだが、しかし、それくらゐのことはしさうだと、われわれには考へられるところが面白い、と、私は思ふ。
 一念凝つて発する無気味な激しさと、生命を何ものとでも代へ得る気軽さとを、ほんたうに神聖な目的のために、われわれの独自の力としたいものである。
 時は昭和の御代である。幾千万といふ日本人が悉く「死」をもつて君恩に報い奉らうとしてゐるこのすがたは、米英のともがらにはしよせん想像もつくまい。

理髪業


 ある地区で商業報国会の役員会が開かれ、警察の経済関係官から一場の訓示があつた。
 それはそれでよろしいのであるが、役員のうちに、理髪店を経営してゐる某といふものがゐて、訓示中、しきりに首をひねつてゐる。訓示が一向にぴんと来ないのである。それもその筈、訓示の要旨は、「物品を売買するもの」の戦時下の心構へについてであつたからである。
「理髪業は商業であらうか」といふ疑問が某の念頭にはじめて浮んだ。
「人間の髪の毛を刈るといふ仕事は、衛生上の必要と外容を整へる本能とを満足させる仕事であつて、一定の道具と技術とがありさへすれば立ち行く職である。してみると、これは整形外科医のそれとまつたく似たものである」と、気がついた。
 そこまではそれでいゝ。
 彼は、その席で報国会の最高幹部に申出た。「自分たちはどうも呉服屋さんや時計屋さんの仲間入りをして一緒に会を作つても、なんにもお役に立ちさうもないから、どこか適当な別の職域へ加へてもらふことにしたいと思ふ。ひとつ御詮議を願ひたい」
「まあまあ、そんなことを云はずに……」
 と、これがその返答であつた。
 彼は諦めかねて、誰彼をつかまへて、「いつたい理髪師は商人だらうか」と、詰問した。
「まあさうだらうね」
「だつて、君、なんにもこれといふものを売つてやしないぜ。たかが、クリームとローションの……」
「理窟はさうだけれども、お客に――毎度ありがたうと云ふぢやないか」
 彼は、憮然として家に戻り、折から来合せた客の一人に、鏡に映るその無精髭を生やした顔に話しかけた。
「旦那は理髪屋へいらしつて、いつたい、何をもつてお帰りになりますか」
「うむ……なんだらうな、まあ、好い気持ぐらゐのもんかな」
「それだ」
 と、彼は雀躍した。
「すると、ほかの商売に例へるとなんでせう」
「芸術家さ」
「芸術家?」
「彫刻家だよ」
「彫刻家?」
 しばらく、彼は考へた。
「しかし、旦那、彫刻家つていふのは、あつしの知つてるんぢや、夜店へどしどし品物を出してますぜ」

 この話は別に大した寓意を含んでゐるわけではない。近頃云はれる「職域」なるものの分類について、さう簡単にはいかぬといふ一例にすぎない。

単刀直入


 日本人の最も好みに通つた物の言ひ方に、「単刀直入」といふのがある。
「言あげせぬ」といふことが、若し、「議論をせぬ」といふ意味なら、さういふところからも来てゐるのだらう。とにかく、ずばりと物を言ひ、いきなり急所要点をついて、相手に有無を云はせぬ筆法である。もちろん「武道」の呼吸にならつたものと云へよう。
 実際、言論の士には、廻りくどい方も少くないが、単刀直入の使ひ手がなかなか多い。ほかのことはともかく、単刀直入だけは心得てゐるといふ風な人物もゐるのである。
 うまくいけばこれほど痛快なことはなく、うまくいかなくても、相手に罪を着せることは容易であり、少くとも、こつちはもともとであるやうに思へる。
 大体、人と言葉を交すことを、日本では戦闘競技に喩へる風習があつて、短兵急とか、一本参らすとか、止めを刺すとか、揚足を取るとか云ふ。尚武の国であつてみれば、それは当然であるが、たゞ、そのためには、言葉を武器として使ふほどの用意がいりはせぬかといふことを、私は近頃、ふと気がついた。
 修練を欠いた言葉の操作は、それが武器のつもりであればあるほど、生兵法の危険を伴ひ、相手を戸迷ひさせ、何か間違ひではないかと、頭を叩かれながら訊ねるやうなことにもなる。
 ところで、単刀直入は、やはり、禅などの影響もあり、人が眼をぱちくりさせることは勘定に入れず、極めて象徴的な一言を放つて、相手が応と受けとめてくれることを期待するところがないではない。
 しかし、単刀直入の名手のみあつて、これと正面から渡り合ふ相棒がゐなくなつた今日を考へると、私はなんとなく淋しい気がする。
 その証拠に、多くの議論を聴いたり読んだりすると、何れも、手応へのない単刀直入と、その解説、弁疏に満ちてゐるのである。

文化の擁護


 私は嘗て二年前、「文化の擁護」といふ言葉は、この時局下に穏かでないし、さういふ考へ方も、戦争といふ国民的事業を遂行しつゝある際、今日までの模造舶来文化などに恋々としてゐるやうにみえてよろしくないから、潔く投げ棄てゝ、今後、文化の「建設」とか「創造」とかいふ方向に一大転換を試みなければならぬ、と云つた。
 これは一部の人々の同意を得たやうに思ふ。
 当時、一般に「文化」の概念なり、意識なりは、今日とはおよそ違つてゐたことは事実で、云はゞ「文化」の国際性といふやうなものに大きな意義を与へ、戦争も文化の一表現だなどと云へば、忽ち反対者が現れさうな情勢であつたけれども、しかしまた、一面に、「文化」は如何なる状態に於て最も健全に伸び育つかといふ問題を、真面目に考へてゐた人々もゐたであらう。
「文化」とは何ぞやといふ問題だけは、一応、日本自体の問題として解決され、日本の文化は将来如何なる方向に発展すべきやといふことすら、もはや、心あるものゝ間では、漠然とではあらうが、焦点らしいものもつかめて来たやうに思ふ。
 この時に当つて、私は、前言を翻すことではなく、まつたく新しい見地に立つて、「文化の擁護」といふ言葉を、もう一度使ひたくなつたことを告白する。
 それは、戦争そのものではなく、戦争に附随する様々な予期せざる生活事情のなかに、また、政治そのものではなく、政策遂行の繁雑な手順のなかに、往々、日本文化のかくあるべきすがたを見失はしめ、かくあらしむべき方向を迷はすやうな処理法が、誤つて介入することがあり、これに対して、一言の注意を加へるものがないとあつては、まことに国家のために由々しいことだからである。
 たゞ、一言の注意ですむくらゐなら、わざわざ「文化の擁護」などと云はなくてもよろしいのである。私の考へをもつてすれば、これこそ、戦争目的達成の上からも、政治の日本的な在り方の上からも、なんとかして、有力な民間の声としなければならぬまでに、問題は重大性を帯びて来てゐる。

握り飯


 これは実話である。あちこちで話したから二番煎じのやうな気もするが、棄て難いものなので、こゝに収録する。そして、美談とはかくの如きものであらうと思ふ。
 ある若い画家が、写生のためと、暮しを安くあげるために、山間の鄙びた温泉宿で一と夏を過した。
 宿の附近に駐在所があつて、そこのお巡りさんが度々その画家を訪ねて来た。遊びに来ると云つた方がいいくらゐ、お巡りさんは画家と話が合ふ。夜おそくまで夢中で話し込むこともあつた。
 すると、ある晩のこと、女中が駈け込んで来て、お巡りさんに七分、画家に三分の割合で、かう告げた。
「そこの時に行き倒れがゐるさうです。子供がそれをみつけて、いま駐在へ行つたんですつて……」
 お巡りさんは、話の腰を折られ、それでも元気をつけて起ち上つた。と、その姿が部屋から消えようとする時、画家は、お巡りさんの後ろから声をかけた。
「握り飯を持つてつたらどう?」
 お巡りさんは、そのまゝ、下駄をつつかけて、峠へと走つた。
 画家は、ぢつとしてゐられず、女中にさう云つて握り飯をこしらへさせ、それをつかんで、これも峠へ急いだ。
 翌日は朝から、お巡りさんが画家の部屋へ顔を出した。
「やつと送り出した。あゝあ、僕は、もう巡査は勤まらんと思つた」
「どうして?」
 と、画家は訊いた。
「どうしてつて、君にしてやられたからさ。握り飯といふ声はたしかに聞えたつもりだが、その時は、なんのことかわからなかつたよ。だつて、行き倒れの処置なんぞ始めてだからねえ。法規になんとあつたか、それを想ひ出しながら駈け出したんだもの。それでも、一所懸命なんだぜ、職務上、手落があつてはならんと思つて……」
 お巡りさんの、口惜しさうな、そして悄げ返つた様子を、画家は面白さうに眺めながら、
「だつて、立派に職責は尽したんだらう?」
「うむ、尽したと云へば云へるが、さうでないと云へば、さうでないとも云へる」
「お巡りさんとしての?」
 と、画家は念を押した。
「さうさ、警官として、行き倒れの命は救はんでいゝといふ法はない。君が握り飯を持つて来なかつたら、あいつ、助からなかつたよ」
 画家は始めてわかつたといふやうな顔をし、お巡りさんの真剣な眼差しに見入りながら、ふと、胸をつまらした。
「僕は絵かきで、ほかになんにもすることはないぢやないか」
 慰めるつもりで、画家は、呟いた。
「僕は警官だ。ねえ、人民の生命財産を保護するといふのが第一の勤めなんだ。僕は平生、神にさう誓つてゐながら……」
 お巡りさんが、いよいよくどくならうとするので、画家は、口笛を吹きだした。
 話はこれだけである。私は、もちろん、この画家は当り前の「人間」だと思ふ。しかし、お巡りさんは、当り前のお巡りさんでないばかりでなく、なかなかさうざらにはゐない「人物」だと思ふ。このはうを実は美談の主として、私は推賞する所以である。

 この話は、もう一つの、ある医者から聞いた話に通じるところがありさうだから、これも序に紹介する。
 ある婦人がお産をして寝てゐた。産科の医者がもう起す時分だと思ふ頃、その産婦は胸が痛むと云ひ出した。産婦の主人の希望で内科の医者が呼ばれた。医者二人の対診がはじまつた。
 内科医は、軽微な肋膜と診断した。しかし当分絶対安静を必要とする旨、厳かに宣告した。
 産科医は、当惑げに、産婦の経過から云へば、もう今日明日にも床上げをさせなければ、婦人科的に見て余病を起す惧れが多分にあるのだがと、説明した。
 内科医は、それはさうかも知れぬが、内科的に云へば、この容態では、なんとも致し方がない、と答へた。
 産科医は、それでは、極く静かに床の上に坐らせるぐらゐはどうか、と訊ねた。
 内科医は、それは貴下の御自由だが、自分には責任はもてぬ、といふ。そして、附け加へる。いつたい、これ以上寝てゐると、どこがどうなるか知らんが、あとはまたあとでなんとか処置があるだらう、と。
 産科医は、それがさう簡単にはいかんので、と曖昧に云ふ。
 これを側で聴いてゐる産婦とその主人とは、気が気ではない。
 この話を私にして聞かせた医者は、最後にかう言つた。
「そこで、その産婦のことはもう心配せんでいゝけれども、かういふことはだね、つまり、近頃の医者が、患者の生命よりも病気により多く関心をもつといふことなんだ。病気は癒した、しかし病人は殺した、といふやうな例もなくはないぜ」

 あゝ、豈に医者のみならんや、である。

代理の声


 近頃、必要があつて青年のために書かれた啓蒙教訓の書を十数冊集めてみた。何れもごく新しく市場に出たもので、この種の書物が各方面で如何に迎へられてゐるかがわかるのである。
 いろいろな立場から、それぞれ当面の問題となる事柄について解説し、指導しようと試みてゐるのであるが、それはそれで相当に目的を達してゐるやうに思はれる。
 たゞ、そのなかに、特に専門的な知識を授けるといふやうなものでなく、むしろ、青年を単に自分の後輩、或は後継者とみ、「若き国民」の指導者とでも云ふやうな態度で、その奮起と自覚を促し、専ら青年の国家的使命と新しき世界観などについて、自己の薀蓄を傾けてゐるものがいくつかある。
 この種のものを通読して、先づ第一に感じることは、何処かで誰かがもう云つたやうなことばかりだといふことが一つ、第二には、言つてゐることはまことに堂々としてゐるが、ほかの誰かゞ言へば、もつと効果があるであらうに、と思はれることが一つである。
 これはいつたいどういふことかと云へば、さういふことを一番言つて欲しい人が、なかなかさういふことを言はぬから、まあ、自分あたりが、といふ面持でそれが語られてゐるからだと思ふ。
 もちろん自信がない筈はない。つまり、自信があることを意識しすぎてゐる者の、激しくはあるが、どこか頼りない調子が響いて来るのである。私はつくづく思ふ、その人の一と声で、青年の瞳が輝きだすやうな思想家を、隠れ家から今すぐに引き出さねばならぬ、と。
「代理」の声では青年はなかなか満足しない。そして、「代理」は、今や多きに失しやうとしてゐる。

頼もしさ


 近頃、なにが一番私の心を惹くかと云へば、すべてなにによらず「頼もしい」ことである。人についてはむろんのこと、その人と無関係ではあり得ない、眼に触れ耳に聞く世の中の大小ありとあらゆる事象を通じて、私は屡々「これだ」と胸の中で叫びながら、同じ感動に快い瞬間を過すことがある。それが、この「頼もしい」といふ一点に知らず識らず私の好みが傾いてゐるのに気がついた時、凡そ、今は、誰でもさうではあるまいかといふ風に考へた。
 しかし、全国民がひとしく同じ心を心としてゐる筈のこの時局下でさへ、何を「頼もしい」とするかは、ずゐぶん人によつて違ふと思ふ。
 私が特に云ひたいことは、ほんたうに「頼もしい」と感じられるものが、実は衆目の集るところ、世間の表面に浮びでたところよりも、ふと何気なくあるもの、ぢつと底に沈んでゐるもののなかに、寧ろはつきり認められるといふことである。
 これは私の天邪鬼が言はせるのではあるまい。ぱつと人目をひくもののなかには、もう既に「頼もしさ」のある条件が欠けてゐるやうな気さへする。
 その意味で、当節、最も「頼もしく」私に思はれ、また事実、さうであるに違ひないのは、無名の戦士を筆頭として、多くは年若き同胞のうちにみられる「落ちついて順番を待つ」といふやうなあの黙々とした姿である。
 また、一方、なにやかやと追ひたてられるやうな日常生活の隅々で、私は、嘗ては気のつかなかつた日本人の「不覚をとるまい」とするつゝましい「嗜み」のあらはれを、だんだん多く見かけるやうになつたことを注意したい。
 文学に於ても、語られてゐること以上に、作家のさういふ表情が、文体に見事な自然さを与へはじめた。品位といふものはこゝにもあつたのである。
 公けの宣伝が、国民の士気を鼓舞するのに役立つことは云ふまでもないが、どうかすると、また、国民おのおのが自分たちの周囲にこれほど「心を強くする」に足るものをもちながら、うつかりそれには気づかず、宣伝の方にばかり眼を吸ひ寄せられるやうなことがあつては、それこそ考へものだと、私はひそかに心配するのである。
「これを見よ」と云はれる前に、一人一人が、自分の眼で、心で、さういふものを発見し、それに感動するといふことが何よりも望ましい。
 しかし、結局は、それが当り前のこととなつた時が、もつと素晴しいとも云へるのである。

敵愾心


 敵のなかに、敵と敵でないものがあると云へば、恐らく不穏当にひゞくであらうが、その「敵でないもの」をも、自衛上、一刀両断するところに戦争の現実のすがたがある。
 旺盛な敵愾心とは、敵のなかの「敵」を徹底的に憎むことであり、そのなかに「敵ならざるもの」があるといふ理由で、苟くも敵に気をゆるすが如き「宋襄の仁」を排撃する精神を云ふのである。
 しかしながら、日本人は由来、如何なる時でも、敵のなかの敵と敵ならざるものとのけぢめをはつきりつけ、そしてなほかつ、敢然として容赦なき戦ひを戦つた。これが「ますらを」の精神であり、国民の矜りでもある。われわれの揺籃の歌は「戦ひの花」に満ちてをり「泣いて馬謖を斬る」ことは、支那ではともかく、日本では朝飯前である。
 戦争の形態と条件とが、必然的に時代の色を帯びることはもちろんながら、既に国民性とも云ふべきこの峻烈にして高雅な心情を、何人も無視してはならぬ。
 敵のなかの「敵でないもの」を故ら認めず、いはゆる「袈裟」まで憎ましめるといふやり口は、単に日本の伝統に反するのみならず、味方のなかの「敵」をどうかすると見逃すことになり、まして、敵とも味方ともつかぬものの始末に手古摺るといふ結果を生じ易い。
 国民の士気は、もともと感情にのみ支配されるのではなく、常に良心の満足と、自ら恃むところによつて、はじめて振ひ、如何に厳しくとも、おほらかな戦ひを戦ふことによつて、益々昂るのである。最後の勝利も、かくて一段と輝かしく、鞏固なものとなるであらう。

卑俗といふこと


 卑俗といふことが近頃あまり問題にされなくなつた。卑俗の最も恐るべきは、それが世間普通のこととなり易いところにあるとすれば、今まさに、さういふ時ではないかと思ふ。
 一方に於て、最も高貴な精神が讃へられ、国民の祈願はひとしくその精神につながつてゐるにも拘はらず、一方に於て、現実処理に名を藉りた卑俗な空気が瀰漫するとは、いつたい、どうしたことであらう。
 この傾向の主な原因は、真の理想を夢みる能力を欠き、性急で手軽な効果をねらふ便宜主義にある。
 従つて、本来、厳粛なるべき道徳の問題に於てすら、その道徳を標榜し、鼓吹する精神のうちに、唾棄すべき「卑俗さ」を含むといふ矛盾が存する場合が少くない。そこには、見えすいた誇張、若くは、われ知らず陥る自己欺瞞を伴ひ、低調な道徳観の、身のほどを知らぬ思ひあがりが目だつのである。
 かゝる道徳観、道徳意識によつて導かれたあらゆる行為、あらゆる事業は、常にその表現の空疎で月並な感激調と共に、最も「卑俗な」臭気をあたりに撒きちらし、世間は、それに馴らされてしまふ。営利主義が道徳と結ぶのは、この虚に乗ずるより外はないのである。
 政治も亦、国民大衆を導く「便法」として、屡々この種の「卑俗さ」を利用したやうに見えはするが、実は、政治そのものの陥つた「卑俗さ」が、期せずして「俗衆」のみを対象とせざるを得なかつたと云ふ方が、真相に近いかと思はれる。
 結局は、この「卑俗さ」なるものが、単に道徳的な面だけでなく、一般に、綜合的な意味で、例外なく、「文化感覚」の鈍さ、乏しさを示してゐることは疑ひなく、すべての現象を通じて、この「卑俗さ」を生みだす直接の理由は、「文化感覚」の幼稚、貧困、磨滅である。
 面白いのは、現在では、健康な「文化感覚」が指導階級よりも、寧ろ民衆のなかにひそんでゐるといふことである。
 民衆は必ずしも「俗衆」ではないのだといふことを、この間の消息がはつきり伝へてゐる。なぜなら、公けの名をもつて掲げられた標語の類を、その「卑俗さ」のゆゑに、民衆は味気ない思ひを以てこれを迎へる例が甚だ多い。
「卑俗」の反対は、悪い意味の貴族趣味を代表する「高尚」や「上品」では決してなく「雅俗」といふ場合の「雅」ですらもないと私は信じる。それは、今日の要求をもつてすれば「日本人らしい」といふことで十分なのである。
「卑俗」の正体を突きとめることは、文学の任務のひとつである。久しきに亙る理想なき政治と功利的な教育とにその責任を著せることは容易であるが、一面、社会心理からこれをみれば、個人々々が、時の大勢に就かうとする保身の本能にもとづき、また「人が許しさへすれば、どんなことでもしでかす」群衆心理の現れとも考へられるところに、人間探求の緒があるやうに思ふ。
 要するに、精神の矜りを失つた人間の、常に「一番楽な道を通らう」とする、怠惰で、かつ、慾深い性向の顕著な一例であるに過ぎぬ。
 類ひなく美しいわが国体の尊崇は、われわれの現在生きつゝある日本の、世界に冠絶する理想のすがたを夢み、その理想達成のために戦はんとするひたぶるな意志によつて示されなければならぬ。
 日本の理想顕現を阻む敵は、外に米英ありとすれば、内に「卑俗な精神」ありと、敢て私は云ひたいのである。





底本:「岸田國士全集26」岩波書店
   1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「文学界 第十巻第一〜三号」
   1943(昭和18)年1月1日、2月1日、3月1日発行
初出:「文学界 第十巻第一〜三号」
   1943(昭和18)年1月1日、2月1日、3月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
2016年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード