地方文学の曙光

岸田國士





 日本は何処へ行つても日本だといふことを私は近頃ますます強く感じる。が、それと同時に、同じ日本でありながら、処によつてかうも違ふものかといふ印象を受ける場合がまた極めて多い。
 お互日本人は誰でもさうだと思ふが、この二つのことを少しも矛盾として受けとらない。おそろしく違ふもののなかに、根本的に共通したものを自然に嗅ぎ分けることができる。
 すべてがたゞ一つの目的に向はねばならぬ時代、小異を捨てて大同につけと云はれる時代に、ことさら地方々々の特殊性を云々するのも、さういふ自信のうへに立つてでなければなるまい。
 さて、問題は文学に関してである。
 本誌は私に「地方文学」について書けと命じるのだが、「何々文学」といふ名称を、私は概して好まぬから、少しばかり躊躇した。しかし、編輯者の意のあるところを汲めば、これは徒らな掛け声に終るべきものではなく、また、何ものかが為にするところあつて作つた名称でもないらしい。殊に、日本の現代文学が、この苦難の時代に雄々しく立ち向ふすがたの一つであるといふこともわかつた。
 厳密な意味では「地方文学」と「地方主義文学」とを区別した方がいゝとは思ふが、さういふ詮議をするのはこの文章の目的ではないから、一応こゝでは、いはゆる「地方主義」の旗印を掲げても掲げなくても、たゞ、日本全国のそれぞれの地域に根をおろし、主調として「地方的」とみられる独自の性格を帯びた文学活動をすべて「地方文学」と呼ぶことにする。
 それでは、「地方的」とはいつたい何を指すかといふと、これは、例の「地方文化」などといふ場合にも屡々疑義を生じたことでも明らかなやうに、元来、「地方」といふ言葉には二重の意味があり、「中央」或は「首都」に対して云ふ場合と、単に、ある限られた土地を指す場合とが、おのづから概念としての両端をなすので、この両者が時によると混乱したまゝ用ひられてゐるのである。つまり、「地方色」といふやうな意味の「地方」と、「地方分権」といふやうな意味の「地方」とが、不用意に口にされ、軽率に受けとられるからである。
 しかしながら、この両者は常に判然と区別して用ひなければならぬかといふと、必ずしもさうではなく、甲の意味のうちに乙の意味を含めるといふやうな用ひ方が許されないわけではない。さういふ繁雑な用法をひと通り呑み込んだ話のしかたが、お互に必要だといふことを、私は嘗ての乏しい経験から痛切に感じてゐる。
 そこで、この「地方文学」であるが、これも、ごく普通の意味で、一国一時代の文学活動がその中心を首都におくといふやうな実状からみて、かゝる中央集権的な現象をよそに、首都を含む地区をも一地方として、全国をそれぞれの地方の歴史と生活とが、それ自身として既に確乎たる文学の伝統を築いてゐる場合、この種の文学に若しも固有の名称が冠せられるとすれば、これを「地方文学」と名づけるのは極めて自然であつて、これはもうそれだけで、「地方」の二重の意味を完全に一つのものとして現はしてゐることになる。
 たゞ、「地方的」といふ言葉にあまりこだはりすぎると、なにか必要以上に、「反中央的」乃至「非都会的」なものを強調することになり、一方は政治的に、一方は趣味的に、観念の偏向を文学活動の分野で露呈するにすぎぬ結果となる。仮にそれが一定の主義主張に基き、「運動」の形で繰りひろげられるにもせよ、たゞそれだけでは、あらゆる「運動」の脆弱な一面がさうであるやうに、およそ文学の本質とはかゝはりないものとして、生命ある発展は期し得ないのみならず、戦時下の文学としても、その反動性の故に好ましからぬものとなるであらう。


 私がこゝで取りあげようとする「地方文学」とは、繰り返して云ふが、必ずしも何々主義を標榜する、同士相率ゐての流派的存在を云ふのではない。
 いはゆる中央文壇なるものゝ実体如何はしばらく問はず、また、その功罪についても、今は論ずるのをやめ、現在まで、文学を志す青年で何時かは東京へといふ夢を抱かないものは先づなかつたといふ事実をはつきり指摘しておいて、さて、かういふ風潮の因つて来るところを究めたうへで、文学だけはせめて、地方々々にそれぞれの地盤を作り、自分の生れ育つた土地で、その土地からでなければ出ないやうなものを、みんなで創り上げる努力をしてこそ、はじめて、日本の文学は新しい軌道に乗るのではないか、と、近頃私が考へてゐることを、この機会に少し敷衍して述べてみたい。
 その前に、先づ、断つておかねばならぬのは、最近、若い人々の発表する目星しい作品のなかに、地方生活を題材として取扱つたものが非常に多く、かつ、それらの作家は、概して、地方に在住して一定の職業についてゐる青壮年であり、この傾向は、現代文学の全体から云つて、特殊といふにはあまりに顕著な何ものかを示してゐる、これを「地方文学」と呼んで差支へないかどうか、また、この傾向の時局的、文学史的意義は如何といふことである。


 第一に、前述のやうな最近の傾向のなかに「地方文学」の胎動乃至は擡頭の機運はむろん見逃せない。
 ところが、私の眼にふれた現在までの作品を通じて、これこそ「地方文学」の代表的なものだと感じられるやうなものは、不幸にしてあまり見当らなかつたのである。
 なぜなら、それらの作品は、地方生活を題材とし、地方在住の作家の手から生れたものには違ひないが、端的に云へば、それらを個々にとつてみれば、これまで、地方生れの作家が、志を立てたまたま東京に出て来た後、過去の生活と経験とを基礎として書き上げた作品と風味に於てあまり逕庭はないと云へるからである。
 それにしても、この現象は、個々の作家、個々の作品についてみる前に、それぞれの地方の動きとしてみるべきであると思ふ。さういふ研究を実は私もまだしてゐないが、これは是非、何人かによつて試みられなければならぬ。
 さういふ地方的な動きが次第にはつきりして来るにつれ、やがては意識的にも無意識的にも、新しい文学の領域が拓かれ、作家の目指すところも亦違つて来て、この機運の伸ばし方次第では、決して皮肉ではなく、例へば何々賞は誰が貰つたかも知らぬといふやうな詩人が、初めは限られた郷党の間で注目を惹き、その反響が次第に四辺にひろがつて、遂にわれわれの耳にもはいるといふやうな風になる可能性は大いにある。
 さうなればわれわれは、はじめて、こゝに輝かしい「地方文学」の擡頭を認めざるを得ないわけである。
「人為的」といふ言葉はあまりいゝ意味には使はれないやうである。機運を作るなどといふことも、実は自然に作られるのだといふ説も成り立たないことはあるまい。わけても、文学の問題は、多勢で騒いでみてもはじまらぬと一応は誰でも想ふのだが、私は、今、文学を語りながら文学のみを語つてゐるのではなく、文学の拠つてもつて生れ育つ土壌について、むしろ語りたい多くのことが私の胸につかへてゐるのである。
 私は、現代の日本に於て、文学者が自己の文学的活動を営む以上に必要なことは、次の時代の文学を正しく大きく育てるための土壌に精いつぱい鍬を入れることだと思ふ。これは元来、政治家や教育者の仕事の一部かも知れない。さういふ仕事の一部をすら、彼等に委せておいてはどうにもならぬ現状である。文学者は、文学者の看板をいつでも外すことができる。例へば、学校の教師として、農村の指導員として、工場の勤務者として、或は一個の兵士としてさへも、文学の精神と技術とを活かし得るのである。生活と職業が一体でなければならぬ如く、仕事と文学とも亦一体たり得るといふ信念が、そもそも「地方文学」の出発点にはあるのだと思ふ。してみれば、文学に専念するといふ意味を狭く解せず、自分が何か書いて発表したいと云ふ欲求と、さういふ欲求の満されるやうな職場及び日常生活の雰囲気を作る工夫と、更に、さういふ雰囲気が一段力強く土地の文化的発展を促すといふ理想とが、容赦なく慌しい現実の戦時的活動のなかで、常に渾然として融け合ふ生活風景を何人も一度は想像してみるべきである。
「地方文学」の新たな発足にとつて、今日最も警戒すべきは「文学」にからまる総ての先入見である。
「文学愛好者」の名に於て集る人々は、おそらく、厳しい態度で過去の教養を自ら批判しなければ、共に「地方文学」を語る資格はないであらう。「文学」と云へばすぐに「雑誌」乃至「活字」を連想するが如きは、即ち「先入見」の最も甚しいものである。


 私は嘗てかういふことを考へたことがある。現代日本文学の著しい特色は地方出身の作家の地方的性格で書かれた作品が主流をなしてゐることではないかと。
 云ひ換へれば、東京は日本の首府ではあるが、若干の例外を除き、まだ帝都らしい文学を生むだけの成長を遂げてゐず、学校関係以外は却つて地方に縁の深い作家たちが、いはゆるジヤーナリズムの上の声価を獲得するに従つて、おのづから経済的生活の基礎をこゝにおき、それらの人々の集りが中央文壇らしい空気を徐々に作つたのであつて、ある意味に於ては「中央文学市場」とでも云ふべきものであり、その証拠に、それらの作家の大部はいはゆる文士社会の生活に深く足を踏み入れゝば入れるほど、東京といふ大都市の、どちらかと云へば浮動面ともみるべき市井生活の観察者にすぎなかつたのである。
 以上は決して地方出身の作家がどうかうといふのではなく、「地方文学」なるものを明瞭に浮き出させる「中央の文学」乃至「東京の文学」といふものが、現代日本の実状から云へば、決して、文学自体のすがたとしては、それほど大きく根を張つてゐないことを特に注意したかつたのである。
 さういふ見方からすれば、現代作家の大部分は、何等かの意味で「地方的」なものを濃厚に身につけ、それが個々の作品のなかで地方的な性格として露はに表面に出る代りに、ちやうど方言を標準語で云ひかへた程度の調整によつて、単に作家の持ち味の如く見做されてゐる場合が意外に多いことに気がつくであらう。
 私は今日までの批評がさういふ点に触れてゐるのをあまり見かけないが、作家研究の一端は、その系譜と彼を生んだ風土とに及ぶべきであるといふ原則からすれば、将来、批評の体系の確立と共に、「地方文学」の一つの理論的根拠もこのへんに見出されさうな気がする。


「地方文学」の胎動はもはや争ふべからざる事実であるが、それなら、その胎動を如何に注意し、如何に方向づけたらいゝかといふ問題が次ぎに来る。
 それは根本的な問題でもあるが、決して単純な問題とは云へないと思ふ。文学史的に見ても、この問題の解決次第によつては、なかなか重大な足跡を将来に残すに違ひないのである。戦乱のたゞ中に生れたひとつの明るい兆しとして、十分慎重にその成育を助けなければならぬと同時に、できれば、今のうちに、正しい方角を指し示しておく必要があるのもまさにそのためである。
 現在認め得る一般的傾向のなかからは、様々な一時的現象とも云ふべきものが拾ひ出せるけれども、それとこれとを混合しない限り、私は、こゝに先づ、文学の民族的自覚といふのつぴきならぬ精神の発動と、地方々々の生活を支へる伝統の力との結びつきを挙げたいと思ふ。
 土地と血縁と風習との上に築かれた歴史の色が、文学を志す若者の眼に、鮮やかに蘇つて来たのである。そこで、楽天的な歌を唱ふのはまづ勝手である。
 しかし、あるがまゝの地方生活のなかに、偉大な民族の悲劇的性格を発見し、周囲の苦悩とはるかな光明とを見つめる厳粛な眼ざしに接することは、近頃の最も大きな感動のひとつである。
 第二に、都市生活が消費生活と呼ばれるのに対して、多くは生産的とみられる地方生活者の、時代を背景とする自信に満ちた態度が、自然、文学活動の面にも反映することになつたのが、そのひとつの現れである。
 これも、たゞそれだけとしては、一方で云はれてゐる「生産文学」とか、「農民文学」とかに類するもので、必ずしも「地方文学」の範疇にはひるとは云へないが、こゝにも亦、職場を含む特殊な地方的生活形態があるとすれば、その矜りと反省と、希望と感傷とは、亦、「地方的」な文学の要素たり得るものである。
 私は、序に云ふが、都市が消費的で、都市以外の地方が生産的だなどと一概に差別をするのは考へものだと思ふ。また、生産のみが大切で消費はつまらぬことだといふやうな断定も危険だと思ふ。
 物質的生産はせぬやうにみえても、多かれ少なかれ精神的、頭脳的生産をしてゐるものも相当あるのである。かつまた生産は、生産であると同時に消費なのだから、消費を有効ならしめる能力は決して馬鹿にはならない。
 生産礼讃の「地方文学」が、他愛ない御用文学にならないためには、やはり地方生活の真の強みたる「郷土精神」のたしかな把握に基礎をおかねばならぬであらう。


「郷土精神」なるものの定義は知らぬが、結局、郷土に対する愛と矜りであるといふことができよう。
 ところが、この「郷土精神」は、往々にして、封建割拠の遺風のなかに埋没し、或は単にお国自慢となり、或は徒らに排他を事とし、時には、痼疾化した地方気質の露骨な表示に終始することすらあり、従つて、その反動もないわけではなく、恰も予言者の如く、郷土の懐を冷やかに見返るものが次第に多くなつて来たのである。
 つまり、郷土精神の穿き違ひと、郷土精神の歪められた一面への反抗から、その全体を否定し去らうとするものと、そのいづれもが「地方文学」の雑多な発展過程のなかに、どうかすると芽を出すかもわからないものである。
 郷土精神は飽くまでも、尊皇愛国の精神につながるのだと、理窟のうへではわけなく云へるけれども、これをたゞさうあるべきものとして観念の遊戯に耽つてゐてはならぬと思ふ。口に何々精神を唱へなくても、日常の行為がすべてを語るのだといふことを、文学ほど如実に教へるものはない。そしてまた、作家自らその思想を作品の中で説くには及ばぬ。作品はそのまゝ作家の思想の鏡である。「地方文学」の最も健全なすがたは、正しい郷土精神の発揚にありとは云へ、国家の存亡を賭する時局下の文学として、「地方文学」も亦、戦列の外にあることは許されぬ、といふ、その限界はまことに微妙である。
 なぜなら、「地方文学」の地方的性格は、そのためにいくぶんかは脱ぎ捨てる方がよいといふやうな場合がないとは限らぬからである。これも理窟から云へばそんなわけのものではなく、「地方文学」こそ新しい「国民文学」であるといふくらゐな論理は成り立つに相違ないけれども、実際問題としては、必ずしもさうはいかぬところも出て来るだらう。現に、我国独自の家族主義が、時局の要請に応へて一時の不便も省みずにこの難局を切り抜ける為に忍ばなければならないことを思へば、「地方文学」の思想的根拠も、おほらかな精神の現実処理と相俟つて、厳しい反省の上に打ち樹てられなければならぬと思ふ。


 以上述べたところによつて、ほゞ「地方文学」の今後向ふべき方向を暗示したつもりだが、更にこの機運をひとつの「運動」にまで発展させ、やゝ計画的、組織的に、これを促進せしめる方法があるかどうかを考へてみよう。
 先づ、これを最近唱へられてゐる国民運動なるものゝ一環としてみることである。強ひて形の上の連繋はつけなくても、嘗て翼賛会が指令した全国地方文化運動のうちに、当然、「文学」の領域も含まれてゐたのだから、他の文化部門との協力によつて、集団的な文学活動が何等かの機会に始められさうなものであつた。
 中央に於ける文学報国会の運動は、私たちの最初の考へでは、二つの主要な目的を内に蔵してゐた。
 一つは、今日まで個々の道を歩いてゐて、相互に当然行はるべき交流が絶えてゐる文学各部門の有機的結合である。
 もう一つは、全国各地に於ける「文学」の優れた萌芽の発見、培養である。
 ところで、地方に於ける「文学運動」と相呼応する面が、これまでの文学報国会ではどの程度に事業として取上げられてゐるかを私は詳かにしないが、もともと「地方文学」は、自ら中央との繋りをつけるといふことよりも、「地方文学」本来の精神から云つて、それぞれ地方に先づ、「文学」の確乎たる地盤を作ることの方が大切なのであつて、それがためには、「文学」も亦、「地方文化」の一要素であるといふ見地からあらゆる文化部門との協力を惜まず、「地方文化」昂揚のため、「文学」の負ふべき役割を自ら果すことから始めなければならぬ。「文学」は「文学愛好者」の手にのみ委ねらるべきものではない。
 国民運動第一の目標たる戦力増強のために、文学が如何に「地方文化運動」の中心力たり得るかを直接間接に示す機会はいくらもあるのである。しかも、そのことは、「文学愛好者」の他を顧みない道楽仕事のやうに見えがちであることもまた事実であつて、この感覚を失つた「文学」は、云はゞ時局下に用なきものであらう。
 こゝで、ふと、「地方文化運動」にからんだ私の印象の一つを想ひ出した。それは、文化運動と銘うつたものゝ中に、案外真の文化運動と云へないものが少くなく、文化運動といふ看板をかけない集団活動のなかに、むしろ却つて文化運動の真髄を掴んだものが、往々あつたことである。
 戦局緊迫を告げる昨今に於ては、文化運動も文学運動もない、といふやうな声を、屡々国民上下の間に聞くやうになつて来た。
 しかしながら、文化運動も文学運動も、実は旗印など仰々しく掲げる必要のない運動であり、それだけに、世間がどう騒がうと、なにに夢中にならうと、苦悩のさなか、絶望のさなかにさへも、一点、高きを目指す精神と精神との繋りさへあれば、黙々として、倶に、明日の日本の光栄を夢みることができるのである。
 運動の弾力性とは正にかくの如きものを云ふのであらう。
 たゞ、最後に云ひたいことは、「地方文学」の創造者たちは、今後、決して孤独に甘んじてゐてはならぬ、といふことである。孤独を感じるのは、或は文学者の常かとも思ふが、それも極めて高い意味に於てなら格別、若し仮に、今後の「地方文学」に於て、孤独にひたる作者の誇らしげな表情を映すやうなことがあつたら、それこそ地方文学の発展の為に寄与するところ少きはもちろん、国歩艱難とも云ふべき今日、まことに国民として不甲斐なき仕儀と云はねばならぬ。
「地方文学」擡頭の機運は、要するに、東京に於けるいはゆる文士生活の崩潰を前提とし、新たな国土計画に基く文学の疎開といふ形をとるところに落ちつくと思はれるが、かういふ外面的な条件を別にして、私がひそかに待ち望んでゐるのは、烈々たる郷土精神の文学的表現を得ることによつて、この時代を最も大きく動かすといふことである。その曙光だけは早くも既に見えてゐると、私は断言するものである。





底本:「岸田國士全集26」岩波書店
   1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「文芸春秋 第二十二巻第十号」
   1944(昭和19)年10月1日発行
初出:「文芸春秋 第二十二巻第十号」
   1944(昭和19)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年5月21日作成
2016年4月14日修正
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