田口竹男君のこと

岸田國士




 第一次「劇作」同人として田口君に最初会つたのは随分以前のことであつたが、「翁家」とか「京都三条通り」とかいふ作品について私は直接君になんにも言つたことはないと思ふ。新進作家として相当の腕もあり、勉強もしてゐる人にちがひないが、どこかまだ「持ち味」だけに頼つてゐるところがみえ、リアリストらしい観察の面白さもなくはないが、もう一歩新時代の息吹を感じさせて、私たちをぎくりとさせてほしいと思つてゐた。
 彼は、同人諸君といつしよに私を訪ねたり、私とどこかで落ち合つたりしても、ほとんど口を利かず、こんなに遠慮深いひとも珍しいと思ふくらゐ、末輩然と片隅に控へてゐるといふ風で、今から思ふと、ほんとにもつと私の方から何か話しかけて、いろいろ意見のやりとりをすべきだつたと、後悔の気持をしきりに感ずる。
 ところが、この春、文学座について私は大阪へ行つたのだが、その機会に、京都で、「劇作」関係者の集りがあり、その席で久しぶりに彼に会つた。重患のあとと聞いてゐたのに、案外に元気な様子をしてゐたので安心したばかりでなく、その話し方も別人のやうに活溌で、翌日であつたか、内輪の者で座談会をやつた時など、ほとんど談論風発といふ概があり、希望と自信に燃えながら、新しい仕事に立向はうとしてゐるらしかつた。私は、彼の健康のことを耳打ちされてゐたから、いつなん時倒れるかわからぬといふからだで、その烈々たる意気をみせてゐることを、いくぶん悲壮にさへ感じたのであるが、あとから思ふと、あの絶筆とも言ふべき「文化議員」の構想がいよいよ熟してゐた頃であつたらう。
 私は「劇作」に田口君の新作が発表されたのを、大に期待して読んだ。先づ傾向としては大きな飛躍をみせてゐた。それだけにまた、田口君の手にいささか余つたといふやうなところもみえ、野心のうはすべりをどうすることもできず、言はゞ「名誉ある失敗」に終つた作として、私は同君になんといふ励ましの言葉を送るべきかに迷つてゐた。そして、今日は、今日はと延ばしてゐるうちに、田口君急逝の悲報が私を見舞つた。芸術家の生涯として、これほど短きを嘆かしめる生涯はない。
 決して複雑とは言へないが、あの生活人としての素直な感覚、温かく物を見、微妙にこれを受けとる天性、そこから、戯曲家としてのひとつの特色といふべき日常の心理的詩味への不断の傾倒がみられたことは、彼の作品を早くから老成の域に押し進めはしたが、また同時に、自らそれにあきたらず、生命の最後の焔を、一層複雑な社会風景の凝視と、その知的な把握に燃やしつくしたことは、私からみると、なんとしても、彼をまだ死なしてはならなかつたといふ気がするのである。
 しかしながら、彼の死後に残した業績をしらべてみると、現代の戯曲作家として、決して貧しい仕事でないばかりか、幾多の彼に先んずるものたちに比して、堂々一家の風をなしてゐることは、今更、何びとも承認せざるを得ないのである。
 わが戯曲界も、さまざまな意味で、色めきたつてゐる。旧いものと新しいものとの間に、よかれあしかれ、明瞭な一線が引かれるのではないかと思ふ。個々の作家のうちに、その転機がおとづれることも亦自然である。既に二、三の例もみられなくはない。田口君は、まさにかゝる時代に生き、その生活と創作の意欲とをあげて、文字通り旧き殻を破つた。勇気のいることであるが、実は、それ以上に必要なのは一つの夢である。私が田口君と最後に会つた、その時に同君から受けた印象は、実に、情熱と夢の権化だ。彼は、生前、その作品に於て十分にこれを世に示すことはできなかつたけれども、彼はしかし、その作家としての「生き方」によつて、彼の周囲に深い影響を与へ得るものと信じる。
 彼は、先駆者の一人であつた。





底本:「岸田國士全集27」岩波書店
   1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「現代演劇論・増補版」白水社
   1950(昭和25)年11月25日
初出:「劇作 第十六号(通巻一二〇)」
   1948(昭和23)年10月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月1日作成
2011年5月30日修正
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