人間カザノヴァの輪郭

岸田國士





 カザノヴァの回想録を訳しはじめてみると、いろいろな問題が自分にも起こつて来るし、この書物の解説といふやうなものが同時になくてはならぬといふ気がするので、既に世にあらはれている文献をできるだけ探す一方、自分自身のメモもひと通り作つておきたいと思つてゐる。これから二十巻ぐらゐに分けてつぎつぎに刊行する予定の訳本に、いくらかづゝでもそのノートをのせるやうにしたい。
「人間カザノヴァ」は、私が今、一番興味を惹かれてゐる「人間の典型」の一つである。
 十二三年前のこと、私はふとカザノヴァを読んでみる気になつた。フラマリオン版の古典叢書で全八巻といふ大部なものだが、私は一と夏かゝつてぼつぼつ読んだ。時には読み耽るといふ状態に自分で気がついて、やゝそらおそろしくなることもあつた。
 ともかく、天下の珍書である。そして、私のこの書物から受けた印象から云へば、カザノヴァといふ人物は、聞きしにまさる「痛快な男」である。
 もちろん、稀代の漁色家といふ一面で、ドン・ファンの向ふを張る腕前は、さすがに名声に恥ぢないものではあるが(ドン・ファンとの比較は古来好事家の間で屡※(二の字点、1-2-22)行はれてゐる。カザノヴァ論には欠かすことのできない重要な一項目である)、この十八世紀の生んだヴェネチア人は、決してそれだけの代物ではない。これはまさしく、人間の歴史が永く記念すべきエポック・メーキングで、ヨオロッパ人はあるひはそれほどにも思はぬかもしれぬが、われわれ東洋人の眼にうつる彼の人間像は、過去現在を通じて、最も注目すべき一つの典型、「解放の途上にある」人間の、ある特殊な条件のもとに示された裸のすがた、しかも、極めて逞しい、魅力に富む裸のすがたなのである。
 われわれも同様に「ヨオロッパ精神」と呼ぶもの、かのギリシャとヘブライの伝統のなかに芽生えた人間性の発展の過程は、必ずしもつねに平坦な軌道に乗つてはゐない。ルネッサンスは、一方から言へば、叡智の開花ではあつたが、また一方からみると、混沌への突入である。光明ははるか彼方にあつて、足許はまだ暗く、「自由」は観念として人々を覚醒させたとは言へ、その「自由」は、まだ求めて得られるか得られぬかが問題で、それは畢竟自己以外のところにあつた。つまり、「自由」はどこかになければならぬことを知り、何が「自由」であるかを悟りはじめ、「自由」をわがものとするために戦はねばならぬ時機であつた。そして、その状態は、十八世紀まで続いたのである。
 といふ意味は、「人間は自由」だといふことを、観念としてではなく、身をもつて感じ得るまでに数世紀を要したといふ事実に眼をふさいではならぬといふことである。つまり、人間の自由は、なによりも、己れみづからこれを束縛してゐることに思ひ至る必要があつた。かくて、ヨオロッパに於ける人間改造は、十八世紀の開幕によつて、やうやく一段落を告げた。近代社会革命の精神的準備が曲りなりにもできたと言つていゝのである。
 私は、この世紀に登場するヨオロッパのいくたりかの代表的人物について、その例をあげたいのだが、いまその暇はない。たゞ興味あることは、封建末期の硬化した政治的、社会的情勢のなかで、制度が人間を縛るといふ考へに先行して、既に、民衆の大多数は、自分が自分の主人であることを感じ、かつ、信じるやうになつてゐたこと、従つて、生活のあらゆる分野、私生活はもちろん、その公生活の数々の場面に於て、放縦が単なる放縦でなく、無軌道は無軌道でも、おほかた、それは明快な信条を伴つた自律的無軌道とも言ふべき性質をおびてゐたといふことである。
 彼らは、なるほど、多分に前時代の風習を身につけ、まだ階級の框といふものを脱してゐない。しかしながら、いはゆる世の掟の重圧を重圧とする程度と、その階級意識の内容は、明らかに大きな変化を示してゐる。権力は権力そのものとして彼らの利害を左右するけれども、権力をもつ人間に対する彼らの不敵な対抗策は、その弱点に乗じ、これをある程度翻弄し、時には、それを最大限度に利用することによつて完全に遂行されてゐる。ボオマルシェの「フィガロの結婚」はこの種の無頼性と階級意識を取り扱つた極めて代表的な諷刺喜劇である。
 ジャック・カザノヴァは実にかういふ時代に生れ、育ち、かういふ時代の民衆の魂をその全生活のなかに活かしきつた人間である。言ひかへれば、彼こそは、自ら「自由なり」と信じ、かつ感じ、その行動のすべてをそこから出発させた、おそらくは最初の、そして完全な「自由人」の一人だつたやうに思はれる。
 自由だと信じることは、自由な筈だと信じることではない。自分はどこまでも自由だと真に信じるものは、身をもつてそれを感じ、すべての行動をその上に築くものでなければならぬ。自由でなければならぬと知りながら、自由な行動に出ることができないのは、たゞ、その人間に力と勇気とが欠けてゐるからではあるまいか。もし己れの自由がなにものかのために束縛されてゐるなら、それと戦ひ、或は巧みにそれをすりぬける手段を選ぶ自由が彼にはあるのである。
 こゝから、いはゆる個人の自由の限界がどこにあるかといふ社会契約と近代道徳の原理が生れるのであるが、それはまた別の話である。
 十八世紀は、ともかくも、「人間の自由」が生活感覚として文字どほり血肉化し、それまでにはごく少数の人々にしか知られてゐなかつた「自由の味」が、民衆にもわかりかけて来た時代である。つまり、「人間の解放」がまづ人間の内部に於てあらまし形をとゝのへたのである。
 かういふ事情をひと通り理解したうへでないと、カザノヴァのやうな人物の出現にわれわれとしてはそれほど興味はもてない。なぜなら、回想録を書かない似而非なるカザノヴァは、いつの時代にも、その類型を求めることは容易だからである。ところが、わがカザノヴァは、決して、いかなる時代にも生れ得るやうな単なる猟奇家でもなく、また色事師でもない。彼のおほらかさは、その天性によるよりも、むしろ、「時代の子」なるがゆゑであり、その行動に著しい生彩を与へる彼の勇気さへも、彼が、自ら言ふやうに、「おれは自由だ」と信じる、その信念の如きものから生れ出てゐると思はれる。彼が、なによりも、自分で自分を束縛する一切の妥協を排してゐるのをみればわかる。
 彼はまた、同時に、時代の波に乗る「国際宮廷ゴロ」の札附の一人でもあるが、このことがまた、彼を類例のない多彩な猟奇物語の作者たらしめたのであつて、ルソオの告白にみる過剰な自意識によつて読者を不必要に悩ますことがないのである。
 なにはともあれ、私は私なりに、このヨオロッパの名物男にすつかり興味を惹かれてしまつたのだが、この回想録から得た感銘をさう簡単に説明できるものではない。しかし、はつきり言へることは、この書物は、世間の一部で想像されてゐるやうに、エロチックな場面で人の眼をそばだたしめるといふだけのものでは断じてなく、それを含めてではあるが、やはり全体を通じて、彼、カザノヴァなる人間の、なにものをも畏れない生き方、屡※(二の字点、1-2-22)、平然と死地に赴くあの澄みきつた態度、それは、死とすれすれに生きる生命の鼓動に耳を傾け、死を超えた生の凱歌に自ら酔はんがための勇気のいる酔興が、この書物のどの頁にもあふれてゐるといふことである。
 なるほど、彼は、ときに理窟は言ふ。その哲学はヴォルテエルの君臨する百科辞典派の口吻を真似たやうなところがあつて、風潮は争はれぬといふ気もするが、それは決して、彼にとつて致命的なことではなく、却つてそれは一種の愛嬌になつてゐる。思考は、彼にあつては、単に行動の附属物にすぎず、行動こそは彼のすべてだと言つてもよいからである。思索する彼の頭脳は、彼の生きる姿の溌刺とした全像に比すれば、まさに帽子の羽根飾にもひとしいもので、彼の生涯は、彼の語り方によつて面白くされたといふより、むしろ、彼がそれを語るとき、彼はその生涯を再びまざまざと生きてみせてゐるからである。


 カザノヴァに関する文献は、ちよつと調べただけでも相当にあるらしい。私は、実は、さういふ方面の研究についてほとんどなんの知識もない。たゞ、偶然に、ミュッセ、レニエ、サント・ブウヴ等のカザノヴァ回想録読後感を読んだことがあるくらゐのものだが、最近、シュテファン・ツワイグのカザノヴァ論を読んで、大いに啓発されるところがあり、かつ、この論文が極めてすぐれたものであるのに感心した。
 さすがにユダヤ系の批評家らしい鋭さと、ねばりと、陰翳をそらさぬ明快さと、そして、ある種の理想主義的立場とをもつて、彼はカザノヴァなる怪物に真正面から立ち向ひ、見事にその急所をついてはゐるけれども、彼の厳しさも寛大さも、私に言はせると、たゞ時代と民族とをいくらか異にしたヨオロッパ人同士のなにもかも呑み込んだ批評であり、価値づけであるといふ気がしてならぬ。これが、ミュッセになると、時代も近く、民族もおなじラテン系といふわけあひからか、カザノヴァを観る眼は、不思議なほど、表面的な興味にとゞまつてゐる。
 私は、敢て言へば、近代ヨオロッパ人のすべてを通じて、よかれあしかれ、いくらかづゝでもカザノヴァを身内に住まはせてゐるか、カザノヴァ的なものを通過してゐさうに思へるのである。
 ツワイグは言ふ――「この生きる名人に比して、自分らを捏土細工の職人かなんぞのやうに思はざるを得ない。男たる以上、ゲーテ、ミケロアンジェロ、バルザックなどよりも、むしろカザノヴァになりたいと思ふことも、間々あるどころか、なんべんもあるだらうと思はれる」と。また、かうも言ふ――「世の女たちがこの大の女蕩しに余りにも抵抗しすぎなかつたといつて、正直のところ、われわれは彼女たちを咎める柄ではないかもしれぬ。なにゆゑなら、そもそも、われわれ自身が彼に出逢ふ毎に、彼の生き方の魅力と情熱にころりと参つてしまふのだから。じつさい、あつさり白状してしまはう。男にとつて、激しい羨望の念にかられることなしに、カザノヴァの回想録を読むことは容易な業ではないのである」と。
 かういふツワイグも、いよいよカザノヴァの解剖にとりかゝると、決してそのメスに手心を加へはしない。曰く――「行動と快楽の人々は、あらゆる詩人達よりも自分等の生活した事柄を語らねばならぬ筈だのに、彼らにはその手段が欠けてゐる。それに反して、創作家達は、物語の種をつくる体験をほとんど持つてゐないために、それを考へ出さなければならぬ。詩人が興味ある伝記をもつことが稀有であるやうに、真に心を奪ふやうな伝記をもつてゐる人々でそれを物語ることのできる人々は珍しい。こゝに於て、カザノヴァが代表するところの、素晴しい、唯一無二とも言ひたい『成功』が産みだされるのである」
 こゝでツワイグがはつきりさせてゐることは、カザノヴァ回想録の古典文学としての地位である。イタリアに例をとつてみても、カザノヴァと同時代、或はその前後に出た傑れた文学者、カザノヴァ輩はその足もとにも及びつかないほど隆々たる文名を馳せた人々が、今日、その名も作品も歴史の塵のなかに埋れてしまつたのに、かれカザノヴァ一人、その回想録一篇をもつて、後世に大きな足跡を残した所以を、ツワイグは、いまいましさうに、しかし、微笑を以て語る――「彼は完全に勝負に勝つた。この不当な勝利に対して、どんな憤慨も抗議も無駄に終つた。われらが畏友を、その道徳の欠如の点で、例のことに関して彼の真実の足りない点で、人々は彼を軽蔑することもできよう。人々は歴史家としての彼に抗議すること、芸術家としての彼を否認することもできよう。人々に出来ないことは、たつた一つのことしかないのだ。彼をもう一度死なせるといふこと――。なぜなら、あらゆる詩人、あらゆる思想家の筆をわづらはしても、爾来、世界は、彼の生涯ほどロマネスクな小説を編み出し、彼の人物ぐらゐ、架空的で、しかも生き生きとした人物を考へだしたためしはないからである」と。


 ジャック・カザノヴァは、一七二五年、ヴェネチア生れの旅廻りの俳優を父とし、同じ町の職人の娘で、後に歌劇の舞台を踏んだ一女性を母として、当時のいはゆる小市民の家庭の血を享けた。主に祖母の手で育てられ、学校教育もまづ十分に受けた。十五歳の彼は、神学者の資格でヴェネチアの教会へ乗り込み、最初の説教をしたくらゐである。十六歳で法学博士の学位をとつたと自分では言つてゐる。化学、数学、医学、歴史、哲学、文学、なんでもひととほり噛つてゐる。殊に、金になる学問はちやんと身につけ、占星と錬金は得意とするところらしい。それと同時に、貴族たちの仲間入りをするためには、自らド・サンガル(de Seingalt)なる由緒ありげな騎士名を僭称し、舞踏、剣術、乗馬、射撃、いづれも人に後れをとらず、ことに、骨牌ではその道の玄人になり、一方、古典語はもちろん、ヨオロッパ諸国の国語をあらまし自由に話すといふ抜目のなさである。
 彼は、職業らしい職業をもたない。すべてその時々の風の吹きまはしで何にでもなる。金融事業家を気取り、オペラの台本を書き、鉱山に手を出し、絹の染色法を新しく考案するかたはら、ヴァイオリンの演奏会を開き、農業経営の抱負を語り、植民地駐屯の副官になりすまし、秘密の金庫の鍵を開け、女優周旋業を思ひ立ち、ポオランド王国の歴史と彼自身の脱獄記を併せて出版し、プロシャ王フレデリックに見込まれて幼年学校の舎監に就任し、ロシヤ女帝エカテリナに暦の改正を勧告し、なんとか肩書をこしらへてヨオロッパを股にかけるが、不良外人として到るところ国外追放の処分を受け、屡※(二の字点、1-2-22)乞食同然の旅の空で、財布か美女か、思ひがけぬ地位を手に入れるのである。
「この浮気な俗物は、悪魔に取り憑かれた人間とも違ふ」と、ツワイグは断定する。おそらく、それはさうであらう。「彼を動揺させる唯一匹の悪魔と言へば、それは簡単に退屈と呼ばれてゐるところのものだ」と彼は附け加へるのだが、なるほど、厳密にいふなら、精神の遊戯にまつたく興味をもたず、またそれを楽しむ能力を欠いた、カザノヴァといふ人間のなかに、「感覚の新しい刺戟」を追ひまはして疲れることのない、一種のスポーツマンのタイプを見出すことはできぬであらうか。
 誤解のないために言へば、十八世紀は、既に、浪曼主義のアンニュイ即ち倦怠がいろいろの形で目ざめつゝあつた時代ではあるが、カザノヴァは、かゝる精神の孤高ともいふべき領域にはいさゝか無縁な存在で、彼の瞑想は手近な現実の野心にすぎず、独居に耐へ得ぬ習慣は、むしろ、生理的な衝動が彼を常に静止の状態に落ちつかせないだけのことである。ツワイグも亦、このことは決して見落としてゐるわけではない。その証拠に、別のところで、彼は言ふ――「その弾力性と順応性は、彼が決して熟考しないといふところに専ら由来してゐるのだ」と。
 思慮分別ほど、彼に苦手なものはないやうである。すべての人間を比較的道徳的にすると考へられてゐる思慮分別こそ、彼の敵ではないまでも、彼の生活術にとつて無用の長物なのである。
 彼は、しかし、なかなか道徳を気にしないわけではない。たゞ彼の道徳観はすこぶる身勝手なもので、理性に不信を投げかけてみるところ、彼がもうちやんと合理主義の洗礼をうけた十八世紀人になりきつてゐることを思はせる。彼の道徳は、「真実を愛し、真実に仕へる」ことである。そして、真実とは、彼にあつては、事物の内奥に深くひそむものではなく、見るがまゝの自然、あるがまゝの己れのすがた、といふことらしい。従つて、欲するところを行ひ、愛するものに近づき、為し得ることに全力をあげ、そして、無益に他を傷つけさへしなければ、彼の良心は平静なのである。彼の道徳は、それゆゑに、時として、曲事を曲事と見なさず、欺瞞も、ことさらではなく、至極当り前に、才気ある企らみの部類に入れてしまふ。厄介な話ではあるが、彼には彼の信条の如きものがあり、一切の行動は、まづ、自己に忠実であつたかどうか、巧妙に成し遂げられたかどうか、によつて、その価値がきまるのである。それは、あたかも、芸術作品に対する品評の尺度の如きものがあるだけである。彼の決意は、ツワイグの例のうまい比喩をかりれば、彼自身の関節から生じると言へば言へよう。


 この回想録のフラマリオン版の註解者は、カザノヴァなる人物の実在性が疑はれたある時代の挿話を語つてゐるが、さういふ伝説的な一面がもうこの回想録の著者にはできてゐる。
 極端な一例は、フランスの某文学史家が、この回想録の真の作者はスタンダアルに相違なしと断定し、その理由として、この書物の思想、趣味、文体、すべて、アンリ・ベイルの面影を髣髴とさせるものだと、大いに力んでみせてゐることである。
 もちろん、この説は牽強附会、一笑に附すべきもののやうだが、私がそれについて、多少注意を払はされる一点は、闊達自在、悠揚迫らぬ堂々たるペテン師の惚れぼれするほどの男性美は、もしこれが一個想像の所産だとしたら、かゝる人物の行動と生活と風貌とを躍如たるすがたに定着せしめ得る頭脳とは、そもそもどんな頭脳だらうかといふことである。こゝで、ふと、「赤と黒」の作者が眼に浮んだとしても、それは甚だしい見当違ひではないかも知れぬ。
 ところで、この回想録が種々の臆測を生む有力な動機として挙げなければならないのは、最初、ライプチヒのシュッツ社からドイツ語訳で公刊されたのであるが、原文はフランス語で書かれたものであるにもかゝはらず、フランスではそのドイツ語版からわざわざ仏訳するといふ手数をかけ、後にブルュッセルから原文によるフランス語版が出版されるに至つたのである(一八一六―一八三八)。この間、原文を所蔵するライプチヒの出版社は、その原文が既に曰くつきのものである事実を発表した。即ち、カザノヴァ自身の手によるフランス語の原稿は、ラフォルグなるフランス人が語法その他について厳密な訂正を加へたものであること、ラフォルグとは、当時ライプチヒに在住した仏語教師であることが一般に知れ亙つた。一方、カザノヴァなる人物が必ずしも架空の人物ではなく、ヴェネチアには彼に関する若干の記録と、彼の著名のある仏文の書類が残されてあり、その記録は、ある点、回想録の事実に符合することが証明されたが、最も重要なことは、彼のフランス語がかなり怪しいもので、たとへある程度の語法の誤りを正したにしろ、とうてい、あの光彩に富む回想録の文学的表現が生れる道理はないといふ鑑定が、専門研究家のあひだで一般に認められたことである。
 そこで、今度は、もしカザノヴァの仏文原稿に眼を通して、これを現在の文章に直したフランス人がゐるとしたら、そのフランス人こそ、果して微々たる外地住まひの一語学教師であらうかといふ疑問が何人の胸にも湧きあがる。この校閲者、決してたゞ者ではない。むしろ、カザノヴァの名にかくれた一世の巨才を、実体としてそこに見ようといふ好奇心が動く道理である。
 殊に、問題をいやがうへにも複雑に、かつ謎めいたものにしてゐる一事実は、例の原稿を所蔵するライプチヒのシュッツ社が幾多の研究家の執拗な要望、嘆願にもかゝはらず、今日に至るまで、一度もその原稿なるものを公表することを肯んじないといふことである。


 カザノヴァが、その序文によると、七十二歳の老齢に至つてこの回想録の筆をとりだしたやうに、そして、彼が自己の「青春の狂態」を反芻することによつて僅かに自ら慰めてゐるやうに、私もまた、六十歳を迎へようとしてこの書の翻訳を思ひ立ち、そして、索漠たる青春への安全な復讐を試みようとしてゐるのである。
 私は、このつぎ生れかはつたら、別にカザノヴァのしたとほりのことをしたいとは思はないが、彼のしたことを、もししたければできるやうな人間に生れて来たい。そして、せめて、彼が全身を以て味はつた「自由の味」を、自分ひとりでもよい、真に味はへるやうな人間になりたいと思ふ。己れの欲するところに従つてのりを超えないことなどを願ふまへに、おのれの欲するところに従へるといふ自由さが得られさへしたら、どんな犠牲を払つても惜しくないといふ気がする。
 私自身の立場から云ふと、もちろん、私とおなじやうに、この書物を無条件に愛読書のなかに加へてくれるであらう人々を周囲に想像することができる。それらの人々に対して、私は、決して註文をつけようとはしないし、また、私がひそかにこの書物から引き出した教訓を、必ずしも同様に引き出してもらはなくてもよいが、たゞ、私が万難を排し、やゝ無謀かもしれぬ九千枚にあまる逐字訳に取りかゝるに当つて、なんとしても、この仕事の意味を、たゞ自分の道楽、自分の利益、あはよくば同好の士への奉仕といふほどのものに局限したくないのである。
 なにをそんなに慾張るかと言へば、この文章の初めに述べたとほり、カザノヴァといふ一個の人間像は、ともかくも、現在のわれわれにさまざまな示唆を与へる、最も健康な生命の一典型であることを明らかにしておきたいのである。彼に欠けたものをわれわれはもつといふ口実のもとに、われわれが致命的に喪つてゐる貴重なものを、彼が本質的に豊かに身につけてゐるといふ点を無視することはできない。この拡大された人間美のあやしい閃きは、われわれの民族が、無意識に、いくひさしく渇仰しながら、つひにわれわれの文学も歴史もそれを鮮やかには指し示し得なかつたものである。
 自由な精神がつねにこの世にあつて反抗のすがたをうつすとしても、それはやむを得まい。しかし、そのすがたが、つねにいぢけてゐたり、とげとげしかつたり、または、好んで悲壮な面もちを示したりするやうなものであることは、一方から言ふと、決して望ましいことではないのである。なぜなら、自由とは、それ自身、ひろく、ゆるやかなものだから。
 カザノヴァは、革命家でもなければ、いはゆる「不平分子」でもない。彼は、おそらく、彼の興味ある回想録を残した以外、人類になんの寄与するところもなかつた、没理想の行動人にすぎないのである。かゝる人物の生涯が、われわれの眼に驚嘆すべき新鮮な魅力としてうつる所以は、いつたいどこにあるのだらう。それは、われわれの伝記物語が今日までなにかしら英雄視して来たかの任侠の徒の、陰にこもつた啖呵や、すゝり泣きの義理人情とはちやうど正反対の、陽気で、あけすけで、世間を呑んでかゝる屈託のなさと、その乱行の数々を通して、見栄や気取りでなくどこまでも人間としての美しさでそれを飾らうといふ情熱とが、不思議な心理像をわれわれに示してゐることもそのひとつであらう。
 じつさい、彼には、病的な自尊心などはない。自分の失敗は失敗としてあつさり認め、ふと演じた醜態をば事こまかに語つて相手と共に笑ふのである。彼には、ヒロイックなところがあるだらうか。あるやうにみえることもあるが、それは自分で気がついてゐないほどだと私は思ふ。彼は決しておだてに乗らない。自分で好きなやうにしか振舞はないのである。
 私はカザノヴァといふ男を識るに及んで、ますますその感を深くするのであるが、自己抑制の習慣が、一方、われわれの民族のうちに、誇るべき一種の高い性格を作つたことは否めないにしても、それはまた同時に、民衆の大多数に、久しきに亙つて精神のギプスの如きものをあてがつたことになり、われわれの精神機能はそのために、意識するとしないにかゝはらず、ほゞ完全に萎縮してしまつたことは、今いちいち例をあげなくてもわかると思ふ。
 私自身、その反動でもあらうか、世をすねて虚無の世界を彷徨する人々にはさほど興味は惹かれないが、「自由な人間」の真の姿を、どんな色合ひででも生きてみせてくれる人物を、恍惚として打ち眺めざるを得ないのである。ましてその人物が、たとへ青春の一と時でも、意気揚々として快楽から快楽に移る足どりは、またとない愉しい観ものであつてもしかたがないではないか。


 こゝでちよつと、この回想録の大きな看板であるエロチシズムについて一言すれば、これはたしかに文学として論じるやうな性質からは遠いもので、たゞ、主人公自身がいかに平然と、いかに詳細に、そしていかに愉しんでその愛慾の実相を語つてゐるかといふ問題につきると思ふ。そこでは、カザノヴァは、光源氏でもなく、世之介でもなく、そして、なほさら、何人の描いたドン・ファンでもないのであつて、もしその情景と人物とに活き活きとしたなにものかが感じられるとすれば、それは、おそらく、老年に及んで彼になほ女体の記憶を甘美な印象としてそのまゝ五官に蘇らせ得る力が残つてゐるのと、それがためにまた、彼自ら言ふやうに、それは、享楽の反芻となつてペンがおのづから躍るのだと思ふ。
 彼はしかし、老境にはいつて老境に処する道をたゞこの回想録の執筆に求めたのである。彼の武器であり財産でもある「若さ」の喪失は、彼から一切の幸福を奪つた。それのみならず、彼に最も縁遠いと信じてゐた憂鬱の虜とならなければならなかつた。われわれは半ば驚きと、半ばさうあるべきだといふ承服の気持で、彼のこの末路を見送るのであるが、ある城主の食客としての他の余生は、次第にまつたく色褪せたものになつてしまつたやうである。
 回想録は、彼が四十歳を過ぎる頃の記録を最後として、なんの予告もなく、ぷつりと切れてゐる。これもいろいろな臆測を生んでゐるけれども、これ以上書くことを断念したのか、或はまた、それから後の記録は、一旦書き綴つた後にことさら破棄する決心をしたのか、そのへんのことは未だに明らかにされてゐないらしい。たゞわれわれが想像し得ることは、彼といへども、五十の声を聞かうとするに至つては、さして面白いこともできなかつたらうといふことである。





底本:「岸田國士全集27」岩波書店
   1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「カザノヴァ回想録(一)」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年4月25日
初出:「人間 第四巻第二号」
   1949(昭和24)年2月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月1日作成
2011年5月31日修正
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