生活の美しさについて

岸田國士




 この雑誌の前の号で、私は坪田譲治さんの文章を読み、いろいろな感慨にふけつた。
 坪田さんは、すぐれた作家であるが、それなら、人間生活の美醜について最も敏感なはずであり、また、人間生活を美しいものにすることをねがつてゐるにちがひない。ところが、さういふひとがこの雑誌をみて、あゝいふ感想を抱くといふことは、いつたいなぜなのだらう。もちろん、それは坪田さんの人柄によるのだけれども、たゞそれだけではない、現に、私なども、もうすこし表現をかへれば、ほゞおなじやうな気持を感じさせられることがある。年寄の物ぐさにも関係があるやうに坪田さんは言つてゐるが、多分そんなことではあるまい。
 私は、自分の場合を考へてみて、第一にこれは、われわれ日本の男に共通な、「衣食住に対する観念」から来てゐるものと思ふ。どういふ観念かと云へば、まづ、それらに対して恬淡であることをよしとする風習、従つて、それらに対して無関心であることが不思議でなく、たまたま特別な関心を払ふといふことは、いきおひ、「贅沢」とか「通」とかの部類に入れてしまひ、少くとも「有閑階級」の享楽乃至虚栄の一種と考へる、世間の通念である。つまり、「暮し」の一切の工夫は、一定の予算さへあてがへば、あとは婦女子に委しておくといふ男性の心理は、見やうによつては、女性の能力を正当に評価し、これに全幅の信頼を寄せてゐることにもなるのである。
 ところで、衣食住の問題は、今や、女性の手だけでは解決のできない重大危機にあるといふことを、われわれ男性はもう自覚してゐることはゐる。それにも拘はらず、われわれの伴侶たる女性は、その危機を危機として肝に銘じてゐるであらうか?
 危機とはなにか? 衣食住の問題が、もはや個人限りの問題ではなく、日本の社会を蔽ふ国民全体の問題になつてをり、その解決は、一人一人ではもちろん、一家を単位とした生活のなかではもはや解決がつかなくなつてゐるといふ事態なのである。
 そこで、衣食住に向けられる関心の性質が今までとまつたく変つて来なければ、個人生活そのものゝ「かくあるべき姿」は新しく発見もできず、またそれへの意慾も湧いて来ない。「趣味の生活」といふ如き、一見、非難の余地のない目標さへ、単なる好事家の夢、時として、時代から遊離した自慰的な雰囲気を想ひ起させるにすぎぬものとなるのである。

 日本人の現代生活を、想像し得る人間生活の理想といふ標準から観察してもよい。また、それとは別に、国際的な視野から、諸外国、殊に欧米諸国民の生活の形態、様式と比較してみてもよい。そこに様々な問題が生れて来る。われわれの生活のなかに、どんなすぐれた要素が取入れられてあるか、また、如何なる点で、弱点を暴露してゐるか、そして、いつたいどうすれば、われわれの「生活」がわれわれの「生存」にとつてマイナスとならぬやうにできるのか? その答へは決して簡単ではない。議論百出も予想しなければならない。しかし、この危機感の上になつた「生活への関心」でなければ、私たちは、それがたとへ美的なものであらうと、科学的なものであらうと、或は更に道徳的なものであつてさへ、なにか中心をはづれた枝葉末節の問題のやうな気がするのである。

 われわれはまづ現在の日本人の生活全般のなかに、根本的な欠陥を見出す。これをひと言で云へば、われわれの「生活方法」は、われわれを不必要に「疲れ」させるといふことである。そしてその疲労の結果が、われわれの大多数を野蛮に追ひ込んでゐる。無秩序、猿真似、不潔、卑俗がこれである。
 われわれの現在の「生活方法」は、どうしてわれわれを不必要に「疲れ」させるのか? ここでいちいちその原因を数へあげることはできぬが、その原因の大きなひとつは、生活の実体とその従属的部分との均衡がとれてゐず、しかも常にバラバラにそれが営まれてゐるといふことである。最も非能率的で不健康な生活をさほど意に介せず、それでゐて、世間への義理を果すとか、人前を飾るとか、気晴しに金のかゝる物見遊山をするとか、しかもそのうへ、やれ教養をつけるの、やれ趣味を解するのと、いろいろな負担に精力を費してゐる。さういふ生活全体の表情はまさに奇怪そのもので、民族としての品位をどれだけ傷けてゐるかわからない。

 私は自分のさういふ生活が、自分だけの責任だとは思はないが、さういふ生活しかできぬやうに育てられ、周囲ともさほどかけ離れてゐないのをよいことにして、実は、いつかうにその改革に着手してゐないものゝ一人である。が、たゞ、これだけのことは、いまでも公言できると思ふのは、いはゆる「趣味の浮きあがつた生活」で自分を誤魔化すまいといふ決心をしてゐることである。いはゆる「趣味生活」なるものの、なんとなく味気ないものであることを人一倍感じる私は、「よい趣味」で全生活を作りあげる能力が現在の日本人にはないのだといふ確信をいつの間にか抱くやうになつた。それは、「趣味生活」と呼ばれるもの、乃至は、「生活」のなかの「趣味的」な要素が、多くその在り方によつて私の眼には一種の「悪趣味」と映るからであつて、そのために、私個人の生活は「趣味的」な要素を努めて強調しない方針であり、自分の審美眼を誇るやうな装飾品を排し、すべてどこにでもあるやうなものゝうちから、たゞ我慢のならぬものだけを除いて、ごく気楽に日用品を撰ぶことにしてゐる。
 それは時としてあまりに殺風景にみえることもあるらしく、家人は最初憂慮の面持ちであつたが、私は、現在のところ、これ以上のことを考へるのは無益であることを説き、「無趣味は悪趣味に優る」といふ消極的美学を主張した。

 何事かを成さんとすれば、他の事を犠牲にせねばならぬ場合もあらう。しかし、事、「生活」に関しては、何事も犠牲にしてはならぬといふのが、私の信念である。さもなくてさへ隙間だらけの現在の私たちの生活に、どこかへ力を入れすぎる危険は、すべてをあるがまゝにしておく危険とほゞおなじである。その意味に於て、一時やかましく云はれた「生活」の科学化とか合理化とかにも、うつかり賛成はしなかつたのである。
 人間らしい生活のすがたは、ほんとに人間を知り、人間を愛し、そして、人間尊重の精神に徹したもののみが、よく描き得るイメージである。私たちは、先づ、そのイメージが描けるやうにならねばならず、また、なりたいものである。それは、「理想生活」そのものではないかもしれぬ。しかし、「生活の美しさ」とは、人間の宿命をはらんで、ひたむきに幸福を追求する努力と苦しみとの表現であらう。それは、時として可憐であり、時として、厳粛なものでもある。おなじ造形と色彩の世界も、実生活の領域にあつては、現代の悩みと無関係な「美」がほんたうにわれわれを魅する道理はないのである。

 この雑誌がどういふ批評を受けるにしろ、私は、編集者の意図が正しいものであることを信じ、その意図が正しく反映する限り、この雑誌の果す使命は大きいと思ふ。たゞ、私には、「美しい暮し」についての具体的な名案もないまゝに、坪田さんの感想を借りて私の日頃の考へを述べた。決して他意はないのである。





底本:「岸田國士全集27」岩波書店
   1991(平成3)年12月9日発行
底本の親本:「美しい暮しの手帖 第四号」
   1949(昭和24)年7月1日
初出:「美しい暮しの手帖 第四号」
   1949(昭和24)年7月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月1日作成
2011年5月30日修正
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