遺憾の弁

――芥川賞(第二十四回)選後評――

岸田國士




 今期は該当作品なし、といふ決定をみた経過については、私から特に説明する必要はないと思ふ。私もそれに異議はなかつた。
 候補作品九篇は、それぞれに候補作品たる理由と資格とをもつてゐたのだから、それにふさはしい特質だけは備へてゐるものだが、さて、そのうちから特に授賞の価値あると認められる作品が一篇もなかつたといふこと、しかも、出席委員がほとんど例外なくその意見に同じないわけにいかなかつたといふのは、誠に結果として淋しいことであつた。
 伊賀山昌三の「最後の人」は、日記の形式で、一人の時代的な意味をもつた人物の典型がなかなか巧妙に捉へられ、とくに、その人物の批判を透して、作者の背骨といふやうなものがはつきり感じられる好もしい短篇である、が、それにも拘はらず、これは単に日記体といふ特殊な形式の限界によるだけでなく、内容手法ともに、もつと新味がほしい。
 野村尚吾の「遠き岬」は、人物の映像がぼやけてゐて、結局、作者のねらひと思はれる叙情の効果が薄い。
 石川利光の「手の抄」は、これだけでは、作者の手腕はわからないが、なかなか光つた才能の萌芽は認められる。将来に期待しよう。
 洲之内徹の「砂」は、正確にものを観てゐるけれども、なんとなく戦争を背景とする暴露記事の臭ひがする。
 近藤啓太郎の「飛魚」は、ところどころ、実に鮮明な描写力を示してゐるけれども、題材も文体も、やや通俗的すぎる。興味を追ふことに重点がかかつてゐるためであらう。
 島村進の「源七履歴」は、才筆には感心するが、これも興味のもち方が浅く、観察の面白さが意識的な軽口に化けてしまつてゐる。
 斎木寿夫の「女音」は、しんのない、甘つたれた作品といふ印象をうけた。
 中村地平の「八年間」は、腰のすわつた、見るものをちやんと見てゐる、かなり成熟を思はせる作品であるが、どこか惰性的とも言ひたい疲労感が全体を覆つてゐて、これだけをみると、あまり秀れた出来栄とは言へない。
 最後に、高杉一郎の「極光のかげに」が問題になつたが、厳密に言へば、これは創作ではなく記録であり、誠実さからいつても、感性の豊かさからいつても、文学的にみて相当高い水準のものだと思ふが、既に衆目を浴びて世評の定まつたものといふ意味をも含めて、一応、審査から除外するといふ結論に私も同意した。





底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「文芸春秋 第二十九巻第五号」
   1951(昭和26)年4月1日発行
初出:「文芸春秋 第二十九巻第五号」
   1951(昭和26)年4月1日発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2010年8月17日作成
2011年5月31日修正
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