「速水女塾」あとがき

岸田國士




 私はこゝでこの作品の解説をするつもりはない。たゞ、中央公論七月号に発表した「速水女塾」は、原稿を渡したあとで、急に手を入れる気になり、可なり書き足したところもあつて、それを決定稿としたかつたのであるが、雑誌発行の都合でその希望は達せられず、やむなく旧稿のまゝ公表しなければならなくなつた関係上、すぐ追つかけて第二稿を単行本として出すことにしたことだけ、読者におことわりしておきたいと思ふ。従つて、雑誌発表の分は、作者としてはもう破棄してもよいものである。
 ところで、かういふ経験は私にははじめてなので、ちよつとそのことに触れて私の感想を述べておきたいと思ふ。
 従来も、雑誌の締切期日に追はれて、云はゞ未定稿にひとしいものを発表したことがないわけではない。さういふ場合、やはり気がかりで、いつか機会があれば手を加へるつもりでゐるのだが、ほとんどそれを果したことがない。上演の際、自分で稽古に立ちあふと、多少目に立つ欠点をなほしたくなるくらゐのものである。さういふわけで、私がこれまで雑誌に発表した戯曲は、比較的長いものほど、いつでも、全体として書き足りないといふ不満が最後まで残り、それをやはり、「雑誌に発表する」といふ無意識の制約によるものと独りできめてゐた。実際、私の場合について云へば、すべての雑誌がいつでも枚数をかれこれ云ふわけではないのに、どうも、百枚以上といふことになると月刊雑誌には不向きといふ気がし、せいぜい百二十枚で自然に打ち切るやうなかたちになつてしまつてゐたのである。思ふに、これは私の処女作「古い玩具」がはじめて演劇新潮に掲載される時、あれがたしか百五十枚ほどだつたのと、なるべく百枚程度に縮めてほしいと編輯者に云はれた印象が深く脳裡にあつたからかもしれぬ。むろんこれは戯談だが、戯曲の演ぜられる初舞台が「活字の舞台」であるといふ習慣は、戯曲家をして存分に手足を伸ばさせないといふ憾みはたしかにあるやうである。
「速水女塾」の雑誌版は原稿紙にして百三十枚であつた。これは当時の編輯者Y君が、特に臨時別冊発行の予定もあつて、十分に枚数をとれと気前をみせてくれた結果であるが、それでゐて、私は、百三十枚の原稿をやゝ遠慮気味で渡したのである。が、今度は、この戯曲は文学座の八月公演の出し物として書くといふ意図も含んでゐたために、稽古がはじまるまで出来るだけ手を入れる必要と、その暇があつたのである。雑誌の原稿を渡してしまふと、現金なもので、私はやつと「活字の舞台」から解放された。そこで、はじめて、俳優が演じ、観衆を前にした舞台のイメージが、私の感興を新しく刺激し、約四十枚ほど書き込みをした。それが、いくぶん作品の肉附けに役立つたと自分では信じてゐる。
 かういふ楽屋話はどちらかと云へば作者の恥さらしだが、しかし、私は、わが国現代の戯曲作家のすべてが、かゝる矛盾と悩みとをもつものであることを、一般演劇愛好家に訴へたいのである。
 さて、この「速水女塾」は、文学座八月公演の上演目録に予定されてゐたのであるが、止むを得ぬ事情で無期延期となつた。その事情についてこゝで述べることは差控へるが、この作品はあくまでも文学座座員諸君をひとりひとり頭において書かれたものである以上、この劇団の存続する限り、或は、主なるメンバアが残留する限り、同一座のために捧げられたものである。そして、作品の出来不出来は別として、久しく戯曲創作から遠ざかつてゐた私をして、ともかくも「私の一番長い戯曲」を書かしめたわが文学座の俳優諸君に対しては、たゞお礼を申せばよいのである。
 最後に、雑誌発行の直後であるにも拘はらず、私の意を察して、即刻「改訂版」の刊行を申出られた中央公論社の好意を謝する。
  昭和二十三年八月
浅間山麓にて
著者





底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「速水女塾」中央公論社
   1948(昭和23)年11月30日発行
初出:「速水女塾」中央公論社
   1948(昭和23)年11月30日発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2011年7月30日作成
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