「序文」まへがき

岸田國士




 この四篇を特に撰んでくれたのは、私の若い友人内村直也君であるが、戦後ほかから出版された戯曲集と重複しないやうにといふ配慮のほかに、私の全作品を通じて、それぞれ異つた傾向を示すものを一つづゝ拾ひ出すつもりだつたやうである。その目的はたしかに達せられてゐると思ふ。そして、作者が自分でさういふ撰び方をするよりも、ある意味では面白い結果が生じてゐる。なぜなら、この目次をみて、作者としては、なんとなく注文をつけたいやうな気もしないではないが、わざとそれはせず、いさぎよく観念の眼を閉ぢることにした、といふところに、この集の客観的価値とでもいふべきものがはつきり現はれてゐるからである。
 従つて、これらの作品の一つ一つについて、作者は更めて弁解じみた解説は加へないことにする。たゞ、年代順から言ふと、「可児君」が最も旧く、「序文」が一番新しい。
「序文」は私の他のすべての戯曲作品と異り、上演といふことは全く考へないで書いた。あるフランスの肖像画家のエッセイ集をたまたま手に入れて読んでみると、その巻頭に、マルセル・プルウストの序文がのつてをり、その序文がなかなか意味深長で面白いと思つてゐると、そのエッセイ集の続巻ともいふべきものに、こんどは、著者自身が、プルウストの序文をもらつたいきさつと、その序文に応へるやうな前書きを書いてゐて、それがまた私の興味を惹いた。そこで、この画家とプルウストとを対談させる場面が私の頭に浮び、戯曲体による一つの心理風景がすらすらと書けた。プルウストの作品を少しは読み、その時代的背景にいくらか通じてゐる人でなければ、この一場面は、多少親しみにくいのではないかと思ふ。
「顔」は、最初、一人の人物の独白だけで押し通さうと、その構想をねつたのだが、それは不成功に終り、かういふ形のものになつた。その頃、私は、チェーホフの「煙草の害」や、コクトオの「声」のやうな独白のみによる形式にある野心を抱いてゐたので、女一人を舞台に立てゝ、「モノローグ」といふ一幕を書き、つぎに、やはり、この意図のもとに、「クロニック・モノロゲ」を試作した。「クロニック・モノロゲ」は、フランス語で、「独白される社会記事」といふくらゐな意味である。
「可児君の面会日」は、私のファルスに対する関心を示したいくつかの作品の一つで、現代日常生活の戯画化がどの程度文学性を保ち得るかといふ試験を、私はいくたびか繰り返し、その度毎に、自分の才能に疑ひをもつ以外、なんの得るところもなかつた。近代ファルスであるためにも、文学的な意味をもつためにも、いづれも何かしら足らぬものがある中途半端な作品だといふことだけは言ひ添へておかなければならぬと思ふ。
  昭和二十三年十二月
著者





底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「序文」百花文庫、創元社
   1949(昭和24)年3月8日発行
初出:「序文」百花文庫、創元社
   1949(昭和24)年3月8日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
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