文学オリンピツク

――主催国としてどうするか――

岸田國士




 オリンピツク大会が今度東京で行はれるについて、その一部門たる文学オリンピツクをどうするかといふ問題が当局の間で評議に上つてゐるといふ話を聞いた。
 この文学オリンピツクなるものが、従来の大会ではどういふ結果を収めたか、日本の新聞などは一向報道もしてゐないし、世間もその事情を知らずにゐるのだが、私は偶然、去年のベルリン大会前に画家のH君から芸術オリンピツクに日本の美術家と音楽家が参加するといふ話を聞き、ドイツで出した刷りものを見るに及んで、その芸術オリンピツクのなかに文学の部門があることをはじめて知つて、日本の当局が何ゆゑにそれを世間一般に公表しないかを不審に思つた次第である。で、私は早速、その規約を当時編輯の番に当つてゐた雑誌「文芸懇話会」に転載した。が、もう既に時期が遅かつた。
 私は元来オリンピツク大会の東京招致運動を苦々しく思つた一人であるが、いよ/\来るとなれば第一に国民全体がオリンピツクの精神を十分に理解し、見栄や外聞でなく、主催国としての責任を完うする覚悟を示してほしいのである。
 それには運動競技の部門に劣らず、伝統的大芸術コンクールにおいても、文化国らしいプログラムの発表を期待する。但し、今まではさういふことに無関心であつた日本の当局が、いざ東京でやるといふ場合に、慌てゝ専門家の意見など訊かうとするその態度がまつたく冷汗ものであつて、まあ/\、危いことはやつてほしくないと思ふ気持ちが私のどこかにあることはある。
 何よりも芸術コンクールとはいかなるものかを研究して貰ひたい。それがどんな性質のものかはつきりわかり、専門家の協力が望めるやうだつたら、必ずしもドイツの真似をしなくても、日本独特のプランによつて、世界各国に呼びかけるがよろしい。文学は詩、小説、戯曲の三部に分ける前例であるが、場合によつては、詩だけでもよろしからう。
 世界各国の言葉で綴られた作品を、いつたい誰が読み、誰が審査するか? 英、独、仏、露、支の五ヶ国語に限るといふ方法も考へられる。それらを一旦日本語に翻訳して審査員が採点することになるのであらうが、どうせ厳密な比較評価はできるはずがない。そこで、まづ大体の標準によつて、半分はお祭気分で一等、二等を決めることになるだらう。応募者もそのつもりでなければ、どうせ応募はしないだらう。専門家がむきになつて騒ぐやうな問題ではない。文学アマチユアの道楽仕事に過ぎず、雑誌などで「何々の歌」を募るのと同断の催しであるから、審査員の顔ぶれさへ堂々としてゐれば、国内的には相当の「観もの」になるだらう。こゝでちよつと心配なのは、外国人の応募者が一人でもあるかどうかといふことである。
 どう考へても、かういふ国際的な催し、殊にオリンピツクのやうな西欧の伝統的な「お祭り」を日本人が主催するといふのは、どうもぴつたりしないところがあり、つまり国民の気風に適しないものゝやうである。スポーツそのものが、変に深刻で、血眼で、勝つても負けてもすぐに涙なんか流すのだから、折角のお祭り気分を台なしにしてしまふ。かういふ習慣を一掃しない限り、文学オリンピツクなどやつても面白くないにきまつてゐる。





底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「大阪朝日新聞」
   1937(昭和12)年1月26日
初出:「大阪朝日新聞」
   1937(昭和12)年1月26日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
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