歳月

岸田國士





浜野計蔵の家の応接間。

隠退せる高級官吏の格式と、憲法発布前後笈を負つて都に上つた人物の趣味とを語る室内の調度――例へば、維新元勲の書、地球儀、コロオの複写、硝子箱入の京人形、蝶の標本を額にしたもの等。

時は、大正八年頃の初春。

場所は、東京山の手の某区某町。
正面の窓からは、午後の日を受けた庭の一部が見え、赤い椿の花が植込の間からのぞいてゐる。

長男の計一と次男の紳二とが話しながらはいつて来る。兄は三十二三、弟は二十八九である。

紳二  おやぢにはもう少し黙つてた方がいいと思ふな。
計一  黙つてて、それでどうするんだ?
紳二  僕たちで、始末を考へるのさ。おやぢなんて、それこそ、何をやらかすかわかりませんよ。
計一  (軽く冗談めかして)それやわからん。(間)あいつに短刀をつきつけるか、自分が腹をきるか……。
紳二  をかしいな。僕も、すぐそれを考へたんだ。しかし、やつたら、馬鹿だな。
計一  まあ、さういふ詮議は後廻しにして、お前の意見を聴かうぢやないか。八洲やす子の云ふことは、なにもかもほんとだと思ふか?
紳二  なにもかもつて、八洲子はてんで口を利かないぢやありませんか。お母さんひとりが呑み込んぢまつてるんです。八洲子がお母さんに、あれだけのことしか云はなかつたとすると、僕は疑問があるんだ。
計一  しかし、事実は明かだね。いたづらをして子供をこしらへた。思案に余つて自殺を決心した。病気保養の名目で海岸へ行き、死に場所を選んだ。しかし、その決心を断行することができなかつた。
紳二  さうです。表面にあらはれた事実はその通りでせう。多少言葉を換へて云へば云へるぐらゐのもんだ。しかし、それだけでは、なんにもわからないのと同じぢやありませんか。相手の名はどうしても云へないつて云ふんでせう。死ぬ決心をするまでに、男がどんな態度を取つたか、それも、さつきのお母さんの話では曖昧です。僕がそこを突込まうとしたら……。
計一  わかつてるよ。あの場合、あんな訊き方をしちやいかんと思つて、わざと止めたんだ。お前は一緒に興奮するから駄目だ。
紳二  八洲子の奴、泣いてばかりゐて、癪に障つたからです。
計一  泣くより仕方があるまい。死にたくつても死ねないぐらゐ、惨めな話はないぞ。自業自得だなんて、云つてみたところで、そいつは一人の人間を救ふことに役立ちやしない。早く、生きてゐた方がいいつていふ気持にさせてやりたい。解決はそれから先だと思ふが、どうだ。
紳二  むろん、さうです。もう一度、ここへ呼んで来ませうか?
計一  まあ、待て。(窓ぎはに行つて、ぼんやり考へ込んでゐる)
紳二  かうしちやどうですか? 本人よりも、一度、礼子さんを呼んで訊いてみたら……。
計一  まだ、ゐるかい?
紳二  八洲子の部屋にゐたやうですよ。いろんな事情を、知つてるだけ喋つて貰はうぢやありませんか。
計一  よし。ぢや、お前、礼子さんに、あの電報をくれた前後の様子を訊いてみろ。八洲子には、おれ一人で会はう。礼子さんにあいつがなんて云つてるか、それもわかると都合がいい。
紳二  ちよつと変だな、僕一人で礼子さんと話をするのか。
計一  うるさいな、早くしろよ。

紳二が出て行つた後、計一は、ソフアーに倚つて煙草を喫ひはじめる。
八洲子がハンケチで洟をかみながらはいつて来る。二十二三の娘。

計一  そこへおかけ。お父さんが帰つて来るまでに、もう少し話の筋道をつけておきたいんだ。別に今日、お父さんの耳に入れる必要もないが、解決の道だけは、早くつけて置かうぢやないか。
八洲子  (兄の方を向かずに腰をおろす)…………。
計一  単刀直入に行かう。お前はその男を愛してるのか。
八洲子  …………。
計一  はつきりしてくれよ。肝腎な問題だよ。(間)愛してゐない筈はないね。(間)少くとも愛したことはあると云へるね。
八洲子  (うなづく)
計一  で、お前はその男を信じてゐるのか、(間)ゐないのか?
八洲子  (首をかしげる)
計一  信じられなくなつたんだね?
八洲子  (首をふる)
計一  今でも信じてゐるのか。よし。その男と結婚する意志はあるんだらう。
八洲子  …………。
計一  おい、ここで考へるべきことぢやないよ。お前にその意志があつて、しかも、その希望が達せられないといふのは、どういふわけだ?
八洲子  …………。
計一  向うにその意志がないのか?(間)それとも、双方の希望を、何かが妨げてゐるのか?(間)或はまた、今となつては、さういふ希望も持てなくなつたと云ふのか?
八洲子  (うなづく)
計一  さういふ希望がもてなくなつた、といふのは、過失を犯してしまつたといふ理由だね?
八洲子  (うなづく)
計一  そんなことはない。そんな事は絶対にないよ。誰がさういふ風に教へ込んだか知らんが、そんな考へ方は俗な考へ方だ。お前達の幸福といふことを考へれば、現実は現実として聡明に処理すればいい。お前の今の苦しみは、云はば愚かな苦しみだ。そんな苦しみ方は、しなくつてもいいんだよ。もつと広い眼で世間をみてごらん。死ぬほどの決心をしたのなら、死んだつもりで、この家を出て行けば、それでいいぢやないか。相手の男はどんな男か知らんが、まさか、お前を支へるだけの力が、ないわけぢやあるまい。
八洲子  お兄さま、あたし、今迄にもう、考へられるだけのことは考へましたわ。考へ方が足りないつておつしやるでせうけど、それは、まだお兄さまが、事情をすつかりごぞんじないからだわ。どういふ点から云つても、あたしは、このまま生きてゐられないんです……。それに……それだのに……死ぬこともできないなんて……自分で自分が口惜しいばかりだわ……。
計一  だからさ、その事情つていふのを、すつかり云つてみたらどうだい。実際のところそれを聴いてからでないと、兄さんにだつて好い智恵は出ないよ。むろん、お前の立場に立つて、すべてを考へよう。そこは信用してくれてもいいだらう。
八洲子  (うなづいて)でも、すつかりは云へないわ。それを云つてしまへば、事がなほ、面倒になるんですもの。いいえ、面倒になるんぢやなくつて、あたしが……あたしとして、絶対に、それこそ、生きてはゐられなくなるんですもの。
計一  死ぬの生きるのは、もうよさうぢやないか。それや、場合によつちや、死ぬのもいいさ。だが、かういふ結果は、お前一人で責任を負ふ必要があるのかい? お前が苦しんでゐるだけ、相手の男も苦しんでゐるのか? お前が死ぬと云へば、その男も死んでくれるかどうか、さういふところが、兄さんの腑に落ちないんだ。(間)お前のそれほど信じてゐる男だよ、なぜ、今日まで、此処へ現はれて来ないんだ。どうしてお前を、たつた一人で、あんな海岸へやつて置くんだ。(間)わからん、さつぱりわからん。
八洲子  そのわけは、どうかお訊きにならないで……。
計一  そのわけを聴かなけや、何をすることもできないぢやないか。お前は、その男に、なんにも知らせないでゐるんだね。
八洲子  ぢや、お兄さま、あたし、お話していいことだけお話しますわ。ただ、その男の名前だけは、お訊きにならないでね。そればつかりは、誰にも云へません。
計一  名前は云はなくつていいから、どういふ男だか云つてごらん。年はいくつだ?
八洲子  …………。
計一  職業は?
八洲子  …………。
計一  詳しく云はなくつてもいい。
八洲子  まだ学生なの……。
計一  ふむ。家は金持か、貧乏か?
八洲子  中くらゐでせう。
計一  東京か? 田舎か?
八洲子  田舎よ、でも東京の親類にゐるの。
計一  何処で知合つたの?
八洲子  お友達の家で……。
計一  ふむ、大体わかつた。
八洲子  お兄さま御存じない筈よ。
計一  事情がだよ。お前は、瞞されたんだね。不良にひつかかつたんだね。
八洲子  いいえ、不良なんかぢやないわ。学校もよく出来るし、図々しいところなんかちつともないのよ。お友達の家でも、みんな尊敬して、お交際ひしてゐるんですもの。
計一  そんなことはなんの証拠にもならないさ。不良つて云ふ言葉は冗談に使つたんだが、結局真面目な恋愛の相手ぢやないつて事さ。
八洲子  たつた一つの欠点つて云へば、とても気が弱いぐらゐのものだわ。それも純粋すぎるからだつて云へるの、でも、あたしたち、はじめから好意をもち合つたんですもの。(間)ギタアが上手なの。
計一  (顔をしかめ)まあ、いいさ、なにが上手でも……。で、何時からだい、二人きりで会ふやうになつたのは?
八洲子  二人きりでつて、さあ……。(記憶を正確に辿らうとする)
計一  (間。苦笑を浮べて)かういふ話をしてると、おれはなんだか、女つていふものが、まるで信用できなくなるんだ。
八洲子  …………。
計一  それはそれとして、もう少し訊くが、二人の間で、将来の問題を、どう考へてゐたのか、それを云つてごらん。あやふやなさういふ関係を何時までも続けて行くつもりはなかつたんだらう。正式に結婚するためには、どうすればいいつていふやうなことを話し合はなかつたのか?
八洲子  あの人が学校を出るまでは駄目だと思つてたの。それに……結婚つて云へば、年のことなんかも考へなけれやならないし、さう先のことは、あんまりどつちからも云ひ出さなかつたわ。信じ合つてゐるといふことだけで、なにもかもうまく行くんだつていふ気がしてたの。
計一  お前の方はそのつもりでも、向うは、ただお前を玩具にしてゐたとも云へるよ、それぢや……。だがさうかと云つて、お前に罪がなく、向うばかり悪いとは、こいつ、断定できないぞ。お前の年で、そんな夢みたいなことを考へてる女はないよ。第三者から見れば、お前たちは、不純な恋愛遊戯に耽つてゐたといふことになる。相手の芝居に釣り込まれて、お前は真剣になつてゐたとも云へるんだ。
八洲子  さうなら、さうでもいいわ。あたしはどうなつてもいい、欺されたら欺されたで、その時、後悔なんか決してしないつていふ覚悟をきめてゐるんです。今度でも、自分さへ死んでしまへば、あの人に迷惑はかからないと思つたからなの。あの人のためなら、そんなことなんでもないと思ひながら幾度、岩の上から暗い海の底をのぞきこんだかわからないの……。そばに、あの人がゐてくれたら、きつと、思ひ切つて飛び込んだと思ふわ。なんだつて、あんなに足が顫へて、いざつていふと、からだがすくんでしまふのか、自分にもわからないの。薬ならと思つて、町へアダリンを買ひに行つたこともあるんだけれど、店へはいると、舌がこはばつて、どうしても薬の名が云へないんですもの。(間)毎晩々々、それこそ、どうしたら死ねるかと、そのことばかり考へて、頭がふらふらして来たわ……御飯をまる一日たべずにゐたこともあつてよ。
計一  礼子さんが遊びに行つたのはその頃だね。
八洲子  ええ、礼子さんは、それやいろんなやり方を知つてるの。でも、やつぱり、あたしには向かないのばかりよ。
計一  (いく分面白がつて)いちいちやつてみたのか?
八洲子  瓦斯はないでせう。汽車は人が見てて厄介だし、お風呂の中で、ここんとこへ、(腕の動脈を抑へ)傷をつけて、血を出す方法も聞いたけど、剃刀がないから、それはよしたの。
計一  (何かを探り出さうとして)礼子さんも礼子さんだね。お前にそんなことをさせて見てゐる気だつたのかい?
八洲子  戯談みたいに話してたのよ。そのうちに、だんだん感づいて来て、たうとう、白状させられちまつたの。その晩、一緒に死んでくれつて頼んだら……。
計一  お前の話し方は恰で他人事みたいだ。その調子なら礼子さんが電報でお母さんを呼んでくれなくつても、大丈夫、死ぬ気づかひはないな。しかし、問題は事件の真相を早く知る必要があると云ふ事だ。そこで、最後に訊きたいことは、その相手の男つていふのは、現在のお前を、どうしようつていふんだ? 頭をかかへて困つてるだけか?
八洲子  …………。
計一  おれの知つたことぢやないから勝手にしろつていふのか?
八洲子  そんなこと云やしないわ。
計一  どつちにしろ、お前に死ぬ決心までさせたといふのは、これやどう解釈したらいいんだ? もし、お前をいやになつたんでなけりや堂々と結婚の申込をすればいいぢやないか? 今すぐに引取ることはできないにしても、結婚の手続だけは、この際取つておくべきだつて事位どうして気がつかないんだらう?
八洲子  家で許さないと思つてるんだわ。
計一  こつちでか?
八洲子  こつちもだし、お国の方で……。
計一  だからさ、その理由は?
八洲子  第一にまだ学校にゐるんだし、そんなこと云ひ出したつて相手にされないと思つてるんだわ。
計一  相手にするもしないもないぢやないか。結果はどうあらうと、それをやつてみるだけの勇気もないのか?
八洲子  それに、さうすることが、彼のためにならないと思つてるんでせう。
計一  彼のためとは?
八洲子  信用がなくなるからよ……。
計一  信用? どういふ信用だい? お前の想像を訊いてるんぢやないよ。その男の云つた通りを云つてごらん。
八洲子  だから、さう云つてるのよ――。こんなことが国に知れると、学費を送つて来なくなる、さうすると、学校も止めなけりやならないし、すぐ働いて食べて行く自信もないつていふの。それに第一、そんなことをしてたら、学歴も中途半端で、将来、どんな方面でも、上へ上れないにきまつてる……。それが一番辛いつていふの。自分は、今、野心に燃えてゐる……成功の道を絶たれることは、生きてゐる価値の全部を失ふことだつて云ふの。それは、あたしにもわかるわ。それに……自分は今迄、真面目な青年で通つてゐる。世間に対して、これくらゐ有利な看板はない。君とこんな関係になつてることが、先輩や友人たちに知れたら、今迄の看板は嘘つていふことになる。面目丸潰れだ。自分の云つたり為たりすることを、もう今迄のやうに、信用して注目してくれなくなる。男として、人から軽く扱はれるくらゐ、惨めなことはない。偉くなつてしまつてからなら別だが、今のうちに、弱点を暴露するつていふことは、生涯、頭の上らない原因を作ることだ。自分を若しほんたうに愛してくれるなら、どうか、さういふ惨酷な目にだけは遭はしてくれるな……。
計一  おい、八洲子! お前は、さういふ男の言葉を、どんな気持で聴いてゐた?
八洲子  ほんとにさうだと思つて聴いてたわ。でも、さうすると、女つて、つまらないものだと思つたけど、そんなこと云はなかつたわ。
計一  で、さういふわけだから、お前にどうしてくれつて云ふんだ? 別れてくれとでも云ふのか?
八洲子  (首を振る)
計一  時節が来るまで、待つてつていふわけだね?
八洲子  …………。
計一  黙つて、独りで、何処かに隠れてゐろつていふんだね? 子供はどうするんだ、子供は?
八洲子  …………。
計一  お前はいやかも知れんが、その男の名前を云つて貰はなけれや困るよ。なんべんも云ふやうに、兄さんは、お前のために計つてやる。お前のためといふことは、その男の為めとも云へるんだ。男の生涯も大事だが、女の生涯も同様に大事だ。殊に、子供の生涯を暗くしていいといふ権利は、これは誰にもない。
八洲子  どうしても死ねないとなつたら、死んだつもりで、どんな苦労でもします。あたしに出来ることなら、それこそ何でもして子供と二人で、あの人が立派になつてくれるのを待つてゐますわ。
計一  それでお前は満足するかも知れない。おれたちが、さうさせてはおかないよ。なぜつて、それより外に方法がないとは思へないからだ。お父さんはなんて云ふか、話してみなけれやわからないが、お母さんや、兄弟たちが、お前の力になれないといふ法はないぢやないか? お父さんはああいふ人だから、どんな頑固な態度を取るかも知れない。それはそれでいい。お父さんはお父さんで気の済むやうにさせてあげるさ。お前を家へ置かないと云へば、ほかへ住むところをこしらへよう。
八洲子  どうせさうなるものなら、今のうちに、何処かへ行きたいわ。お父さまのお顔を見るの、あたし、いやなの。怖いとかなんとか云ふんぢやないの。なんだか、お気の毒で……。
計一  お気の毒はないだらう。お前にだつて一度は裁きを受ける勇気は必要さ。
八洲子  ええ、それもさうだけど、やつぱりあのお父さまがと思ふと、お気の毒つていふ気がしてしやうがないんですもの。ひと思ひに、あたしを殺して下されば、どんなに楽だらうと思ふけれど、若しかしたらお自分が……。
計一  余計なことを考へるな。そんな馬鹿な真似はしやしないよ。平生から、修養々々と云つてる手前からでも、娘の過失ぐらゐで度を失ふ気遣ひはないよ。しかし、順序として、お父さんにお詫びをするといふことは、それが通れば、お前も余計な苦労をしないですむわけだ。お父さんだつて、お前の出方ひとつでは、退職知事の体面を棒にふつても、娘の幸福を守つてやらうといふ気になるだらう。あのお父さんにしてみれば、全く可哀さうには可哀さうだ。世の中で、これより大事なものはないと思つてゐる所謂「名誉なるもの」を、仮にも汚されたといふことになるんだから、余つぽど、用心してかからないと、お前が自分の娘だといふことさへ忘れてかかるかも知れないからな。おれが、うまく云つてやるよ。その男の名前を云ひなさい。
八洲子  それを云ふと、どういふことになるの? 会つて話をなさるおつもり?
計一  その必要があればね。しかし、お前がどうしてもいやだと云ふなら、外の方法を取つてもいい。学校は何処だ?
八洲子  高等学校なの。
計一  (唖然として)何年?
八洲子  二年……。
計一  ぢや、やつと、十九?
八洲子  二十よ。
計一  (不機嫌に)お前が誘惑したんだね。
八洲子  あら、そんな覚えないわ。ただ、二人つきりになると、あの人、何時でも泣くの、愛し方が足りないつて泣くの。あたし、どうすることもできないわ。
計一  いろんな手があるもんだな。もうわかつた。世の中に、学問をして、その学問が役に立たない男がゐるものだ、おれもその一人だ。しかし、涙で女を釣るやうな男が、学問をして立身出世をしたら、それこそ、天下に害をなすだらう。名前を云ひなさい。
八洲子  お兄さまがさういふ風におつしやるなら、なほ、あたし、名前なんか云へないわ。その人の値打は見る人で違ふと思ふの。あたしには、たつた一人の(声をおとし)すべてを許した人なんですもの……。誰がなんと云つても、自分の心だけは信じてゐます。
計一  さういふお前は、なるほど立派だ。いや、立派に見える。しかし、よく考へてごらん。間違つた判断の上で、どんなに大きく見栄を切つても、それは滑稽以上のものぢやないんだ。おれは今迄独身で、品行もまづ方正と云つていいんだから、女がどうの、恋愛がどうのといふ資格はなささうだが、これでも小説はちつとばかり読んでゐる。年のおかげで、人間の心つていふものが、多少は理解できるつもりだ。一途なお前の気持や、先方の子供臭い、それだけ許してもやりたいやうなエゴイズムも、おれには納得ができる。だからと云うて、それから生じるいろいろな結果までを、すべて是認するわけに行かないのだ。八洲子! この問題の解決を兄さんに委してくれないか? お前の立場も考へ、相手の顔もつぶさないやうに、おれが始末をしてやる。お前たち二人の将来が、そのために明るくなれば、それでいいぢやないか。

この時、紳二がはいつて来る。

紳二  兄さん、ちよつと……。礼子さんが此処へ来たいつて云ふんです。八洲子の前で一緒に話した方がいいらしいんだ。あとで文句を云はれると困るつて……。
計一  それやいいだらう。ねえ、八洲子、あの人には別に隠しておくことはないね。
八洲子  改まつて妙だけど、いいわ。心配して付いて来て下すつたんだから、なにもかも聴いといて貰ふわ。

紳二は戸口から礼子をさし招く。
礼子、幾分照れたやうにして入り来る。

礼子  御邪魔かも知れませんけど、何かみなさまのお役に立てば……。
計一  どうも失礼しました。別に、あなたから秘密を嗅ぎ出さうなんていふ量見ぢやなかつたんですが、八洲子の口からは云ひにくいこともあるでせうし、却つて、あなたの御存じのことははつきり伺つておいた方がいいと思つて……。
礼子  ええ、只今、紳二お兄さまから、さういふお話でしたけれど、八洲子さんを差措いて、あたくしがお喋舌りをするつてありませんから、そこはどうぞ、あしからず……。でも、あたくし、八洲子さんの味方として、お云ひつけなら、なんでもいたしますわ……。
計一  ありがたう。あなたが偶然、別荘の方へ遊びにいらしつたつていふことが、八洲子を救ひ得る第一歩だつたんです。御迷惑でなかつたら、今後も、いろいろ相談相手になつてやつて下さい。今も話してゐたところですが、過失は過失として、将来の問題を考へなけれやなりません。それについて、相手の名前を云へと云ふんですが、こいつ、どうしても云はないんです。あなたは、その男を御存じですか?
礼子  (ちよつと八洲子の方を見て)ええ、存じてをります。でも……。
計一  かまはないから云つて下さい。こいつ何か、考へ違ひをしてゐるんです。つまらない意地を張つてゐるんです。自分の代りに、あなたが云つて下されば、それで気が済むでせう。
礼子  (八洲子に)お兄さまが、ああおつしやるんだから、あたし、云ふわよ。
八洲子  (うつむいてゐて、返事をしない)
礼子  云つた方がいいと思ふから、云つてよ。それは、あの……高校の学生で、斎木一正つて、おつしやる方ですわ。あたくし、八洲子さんと御一緒に、ちよいちよいお友達のお宅でお目にかかつてましたけど、今度お話を伺ふまで、そんな関係、ちつとも、……御免なさい、八洲子さん……なんて云つていいんですか、気がつきませんでしたの。
計一  あなたにも黙つてたつていふわけですね。わかりました。
礼子  恨みましたわ。あたくし、八洲子さんを……。
紳二  親友の間柄でね。それやさうでせう。あなたにまで秘密にしておかなけれやならないつていふところに、動機の不純さがあるとは思ひませんか?
礼子  さうまでは思ひませんけど、なにか、危険がひそんでゐたんぢやないかとは思ひますわ。
計一  さうですね。どうだい、八洲子、おればかりぢやないよ、さう思ふのは……。現にその危険が、お前を身動きのできないところへ追ひ込んでゐるんだ(礼子に)その男は……まあ、これはよしませう。それより、八洲子の話では、その相手の態度といふのが、ひどく無責任すぎると思ふんです。そして、それをこいつが是認してゐるらしい。僕にはそれが不思議でもあり、焦れつたくもあるんですが、あなたはどうお考へですか?
礼子  (八洲子に)さあ、あたくしは……。
八洲子  (礼子の方をちらと横目でみる)
礼子  なにか、御自分ひとりで考へてらつしやることがあるんぢやないかと思ひますけど……。
八洲子  あなたにだつて、兄さまにだつて、それや云へないことがあるわ……。だからよ、後生だから、そのことは、もうお訊きにならないでね……、どうかすると、あの人を誤解させるやうなもんだから……。それだけは困るわ。
紳二  八洲子! 下らない警戒なんかしてちや駄目だよ。なにもかもさらけ出すんだ。お前の判断つて奴は、今の場合、なんの価値もないんだぞ。
礼子  さうでもないわ。斎木さんを一番よく御存じなのは八洲子さんの筈ですもの。あたくしは、八洲子さんがある事を信じてらつしやるのはいいとして、それが、何時か裏切られることがないやうにしてあげたいんですわ。お兄さまがたは、きつと、斎木さんつていふ方を悪くお思ひになつてらつしやるでせうけれど、それは、八洲子さんを信じてあげていただきたいんですの。思慮が足りなかつたとは云へるでせうけれど、それは、八洲子さんにも責任があるとして、あたくしの見たところ、やつぱり、好意のもてる青年ですわ。決して、八洲子さんを瞞したんでも、弄んだんでもない、真面目に、純粋に……あら、いやだ、演説みたいになつちやつた……。
紳二  かまひませんよ。謹んで拝聴してゐます。
礼子  おひやかしになるから、よすわ。でも、ほんとに、どういふんでせうね。(八洲子に)あなたが遠慮ばつかりしてるからぢやないの? なにしろ、まだ、さう云つちやなんだけど、向うは、それやお坊つちやんなんですもの。かういふ場合、責任をどう負へばいいか、自分にもまるで見当がおつきにならないでゐるんだわ。
計一  では、かうしようぢやないか、八洲子……。おれが一度、その斎木とかいふ青年に会はう。結婚する意志があるか、ないか、それさへわかれば、あとは簡単だ。
紳二  僕の方がよけれや、僕でもいいよ。若いもの同志で、話がし易いかも知れない。
計一  若いと来たね。お前はまだ、さういふ人事関係に喙を容れるのは早い。
紳二  社会の空気は、僕の方が余計吸つてるつもりだがなあ。兄さんは理窟が多すぎて、話の要点を外しちまひますよ。
計一  礼子さん、どつちが適任だと思ひます?
礼子  さあ、紳二お兄さまの方がよくはありません?
計一  おや、贔屓があるもんだね、やつぱり。
紳二  礼子さんと僕と、一緒に行かうか?
礼子  いやだわ、そんなお伴……。そんなくらゐなら、あたくし、一人で行つてぶつかつてみるわ。八洲子さんさへ承知して下されば……。
計一  ほう勇敢だなあ。さうして貰はうぢやないか。それが穏かでいいぞ。
紳二  僕が黒幕で、うしろに控へてるからね。

玄関が開いて、やがて、「お帰り遊ばせ」といふ女中の声。
和服に袴をつけた老紳士が、長い風呂敷包みを提げて、部屋の中をのぞく。浜野計蔵である。

計蔵  大分賑やかだな。おや、八洲子も帰つてるのか(礼子の会釈に応へて)やあ……。(八洲子に)なんだつてお母さんを呼んだんだ……。なんでもなかつたのか?
計一  なんです、お父さん、その包みは?
計蔵  これか、なんだと思ふ? 買はんかといふ奴がゐるから、まあ預つとくと云つて持つて帰つて来たんだ。見せようか?
紳二  なんです? 一体?
計蔵  (つかつかと入つて来て、卓子の上で包みを解きはじめる)わしの部屋の方が落着いていいんだが、まあ、ひとつ……。
紳二  なんだ、物騒なもんだぞ。
計蔵  (徐ろに、白鞘の太刀を取り出す)お前どもにやわかるまいが、この通り、業物ぢや……。(鞘を払ふ)
計一  (紳二と目を見合はせ)なんですか、物は……?
計蔵  備前さ。無銘だが、れつきとした兼光だ。(巫山戯て)さあ、どいつでも来い。不届者は真つ二つだ!
紳二  真つ二つは有難いが、そのメリヤスは似合ひませんね。
計蔵  ハヽヽヽヽ、まあ、武勇伝はこのくらゐで……。(鞘に納める。それから更めて、八洲子の顔をのぞき込み)お前、いやに神妙ぢやないか。からだの具合はどうだ?
八洲子  …………。
計一  病気だなんて嘘らしいですよ。礼子さんと諜し合せて、どうも浜で勝手な真似をしてたらしい。
計蔵  それこそ不届者だ。(笑ひながら反対側の入口から去る)

入れ代りに、浜野駒江(五十ぐらゐ)が、玄関の方から顔を出す。

駒江  お父さんは?
紳二  奥……。
駒江  まあ、いやだ……(さう云つて、引つ返さうとするのを、計一がその後を追つて、何か立話をする)
紳二  さて、ちよつと会社へ顔を出してみるか。
礼子  あら、今日はお休みぢやないの?
紳二  休むつて云つといて、ちよつとでも出れば、休まないより勤勉にみえるからな。
礼子  さもしいわ。
計一  わかりました。ぢや、さうしませう。
駒江  あたしや、どうも、作り事を云ふのが下手でね。
計一  八洲子、心配しないでいいから、お前は、礼子さんと……さうだな……。
礼子  あたくし、もう失礼させていただくわ。
計一  いや……別に、どうつていふことはないが……。
紳二  どうつていふことはないさ。ただ……。
駒江  (八洲子を見て)この人は、その場にゐない方がいいね。
計一  (腕組みをして考へ込みながら)ゐない……方……が、……いい……と……思ふが……(ソフアーに腰をおろし)ゐても……さ……し……つ……かへ……。

一同の不安な視線が計一に注がれてゐる。計一の言葉は、あとが続かない。そのうちに静かに、

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同じ家の日本間。正面は離れ風の八畳で計蔵の居間になつてをり、左手、廊下続きに、洋風家具を置いた長男計一の居間。廊下の一端は二階に通じる階段。

前幕より七年後、即ち昭和初頭の夏。月の夜である。

計蔵えんに出て団扇を使つてゐる。
計一は、寝台に寝転んで、雑誌を読み耽つてゐる。

計蔵  みどりの奴、たうとうこん負けをしよつた。
計一  …………。
計蔵  「おやすみ」も云ひに来よらん。
計一  子供をああ泣かせるのは、どうかしてる。
計蔵  泣き出すと長いが、平生はまあ泣かん方だ、あれで……。
計一  (雑誌を投げ出して)あ、さう云へば、紳二から何かお聞きになりましたか?
計蔵  いいや。
計一  家を探してるらしいですよ。
計蔵  礼子が、どうにも、やりにくいだらう。
計一  そんなところでせう。四十で独身の兄貴と、瘤つきの小姑がゐちや、活動を見に行くのも気兼ねでせうからね。
計蔵  瘤つきは別として、四十の独身は、どうかならんもんかな。
計一  どうもなりませんね。働かない代りに、これでも、多少、遠慮のつもりなんですから…………。
計蔵  遠慮もいいが、眼触りな遠慮だ。
計一  子供を泣かした方が、親孝行になるかな。
計蔵  わしが愛媛の部長時代に、面白い男がをつたよ。三十八で孫の顔を見たといふ奴だ。不思議とは云へんが、変な話だ。
計一  斎木一正の口ですね。
計蔵  八洲やす子に聞える。

この時、奥から駒江が茶を入れて来る。

駒江  兄さんは、冷たいものの方がいいね。
計一  シロツプは辞退しませう。
駒江  麦茶も冷えてますよ。
計一  八洲子も寝ちまつたんですか?
駒江  いいえ、今、お風呂……。今日は、みどりをあたしが入れてやつたもんだから……。(呼鈴を押す。女中現はる)若旦那さまに麦茶をお持ちして……。それから、玄関を締めておくれ。今夜は、お二人は遅いだらうから……。
女中  はい。(去る)
計蔵  代々木の家は、来月中に明けるつていふんぢやなかつたか?
駒江  さう云つてるらしいですよ。どうしてですか?
計蔵  いや、あの家でよかつたら、紳二夫婦に提供しようかと思つて……。
駒江  広すぎますよ。あれぢや、掃除だけでも大変ですからね……。まあ、家賃ぐらゐこつちで持つのは仕方がありませんけれど……。
計蔵  さうか。ぢや、あの家賃をそつくり渡して、勝手にさせるか。
計一  奴さん、そんなつもりぢやゐませんよ。百円は足して貰へるだらうつて云つてましたよ。
計蔵  さうすると、どういふことになる? あ、しまつた。今日、区役所へ行くのを忘れた。(駒江に)お前がぼんやりしとるからいかんのだ。
駒江  おや、あたくしは、そんなこと、存じませんよ。
計蔵  いいや、知つとる筈だ。
駒江  でも、なんにもおつしやりやしませんよ。
計蔵  云つたとも……。
駒江  伺ひません。
計蔵  伺はんことがあるものか。みどりのことで、わしが行かんとわからんつて云つとつたぢやないか。
駒江  今日つてお話は、どうでしたかね。
計蔵  今日でなけれや、何時行くんだ? 明日は日曜で、明後日は謡の会で、明後々日にはもう講演に発たなけれやならんぢやないか。
駒江  兎に角、あたくしには、今日つてことはおつしやいませんでした。
計蔵  云つた。誓つて云つた。
駒江  (慇懃に)誓つて伺ひません。
計蔵  云つたと云つたら云つた!
駒江  (落つきはらつて)なんとしても、伺ひません。
計蔵  (突然、大声で)うるさいなツ!(さう云つたと思ふと、起ち上つて、庭下駄を突つかけ、ぶらぶら、表の方へ出て行く)

女中が麦茶を運んで来る。

計一  みどりの籍をどうかするんでせう。僕が、明後日行つて来ませう。それくらゐの用事はしますよ。
駒江  八洲子の事件以来、なんでもあたしのせゐなんだから……。
計一  僕がのらくらしてるのもお母さんのせゐにしといて下さい。

駒江が出て行く。と、八洲子がはいつて来る。

八洲子  (計一に)あたし、もう、いやだわ。
計一  なにが?
八洲子  毎日かうしてるのが……。
計一  御同様さ。しかたがない。
八洲子  どうかして頂戴よ、早く……。
計一  おれにそんなこと云つたつてしやうがない。
八洲子  一正の方は、あたし思ひ切るわ。名義だけの夫婦なんて、結局どつちのためにもならないわ。会ひに行つても会はないくらゐだから、一緒に暮す意志はないにきまつてるんですもの。
計一  …………。
八洲子  無理に籍なんか入れさせたのが、やつぱり悪かつたのよ。
計一  その話は、お父さんにしたらいいだらう。おれは、自分一人を持てあましてるんだ。
八洲子  兄さまは、すつかり変つておしまひになつたわね。冷淡におなりになつたわ。
計一  力及ばずといふことを自覚したんだ。
八洲子  紳二兄さまが一番気楽ね。
計一  人のする通りのことをしてるからさ。
八洲子  夫は、妻と同棲を拒むつていふことできないでせう?
計一  拒みたけれや、拒んでもいいさ。但し、金を出すとかなんとか、そこは、法律の方でよろしくやつてくれるだらう。
八洲子  お金はいらないつて云つたら……。
計一  なほ有難いだらう。
八洲子  いいえ、お金で解決できない問題だとしたら?
計一  つまり、裁判所は、手を引かなけれやなるまい。愛情の強制は、国家の力でも駄目だらう。軍隊を繰り出して、相手の心臓を抜き取つたなんて話は聞かないね。
八洲子  一正だつて可哀さうよ。周りで変に他処々々しくされてゐちや、あたしやみイ坊への気持だつて、素直に現はせないわ。学校を出たらつて云つてるうちに、もう、何年たつとお思ひになつて……。自分で家が持てるやうになるまで、一緒に住むわけに行かないつていふんだから、あたしもそのつもりで今迄待つてたの。六十円でも七十円でも、あたしはやつて行ける自信があるんだけど、今、いくらぐらゐ取つてるのか知ら……? でも、ほんとの理由はさうぢやないつてことが、やつとわかつて来たわ。
計一  一と月に一度が、二月に一度になり……最近はもう、三月みつき、いや、あれや四月の初めに顔を出したつきりぢやないか。お前が行つたのは何時だ?
八洲子  下宿へは来てくれるなつて云ふんでせう。でも、こないだ、たうとう、みどりを連れて行つたわ。ゐるらしいんだけど、会はないの。この前の日曜よ。
計一  手紙ぐらゐ寄越すか?
八洲子  いいえ、ちつとも……。こつちから出しても、返事がないわ。電話はいつも「留守」にきまつてるの。
計一  嫌はれたもんだね。
八洲子  嫌はれるなんて、あたし思つてないわ。二人の間に、どつちもどうすることも出来ないなにか大きな障碍があるんだと思つてるわ。今は、それがどうにもならないんだわ。それがなんだつていふこともできない、もやもやした空気みたいなもの……。あたしにだつて、さういふものが、感じられるんですもの。あたしたち親子三人を並べて、それを見てゐる誰彼れの眼を想像してごらんなさい。
計一  で、お前は、どうしようつていふんだい。
八洲子  みどりも来年から学校ですし、あたしも手がすきますから、造花でも本式にやつて、先々困らないやうにしておかうと思ふんですの。
計一  いい心掛だ。もつと早くやればよかつた。
八洲子  お父さまはなんておつしやるか知ら……。
計一  わからん。反対はしないよ。
八洲子  お母さまは、なんだか、首を捻つてらしつたわ。――もうちつと上品な商売ならねえつて……。
計一  何が上品か訊いてごらんよ。
八洲子  兄さま、今年は泳ぎにいらつしやらないの?
計一  あの家も手入をしないと住めなくなつたな。風の晩なんか、寝てゐても口の中へ砂がはいるんだ。
八洲子  みイ坊を連れて、久し振りに貝拾ひをして来ようか知ら……。
計一  あん時は、みんなドキンとしたぜ、ほら、礼子がお前の名で電報を打つて寄越した時さ……。
八洲子  あれが若し、「ヤスコシンダスグコイ」なら、なほ面白かつたわね。
計一  面白かつた。今はもう死にたくないか?
八洲子  生きてゐたくもないわ。
計一  さういふことになるね。だが、おれはかうみえて、生きてゐることに多少の執着があるんだ。世の中が変つて行くのを見るのは、なかなか楽しみだ。早い話が、おやぢも変つた。おふくろも変つた。紳二も、礼子も、えらく変りやがつた。お前も……さうさな、変りつつある。すべてが、徐々に、動いて行く、その有様は、歴史を読む以上にコクがあつて面白い。おれは、なるべく、自分をひと処に置いて、それを眺めてゐたいんだ。働かないでも食へるといふことは、こいつは天の与へだよ。社会は、おれ一人ぐらゐ、役に立たなくつたつて困りやしない。寧ろ、失業救済になるくらゐなもんだ。(この時、呼鈴が鳴る)誰だ、今頃……。

二人は耳をそばだてる。

八洲子  あら、礼子さんの声だわ。

梯段を上る男の足音。
やがて、奥より、礼子が現はれる。

礼子  (はしやいで)只今……。いやんなつちやふわ。お眼鏡をこはしておしまひになつたの。
八洲子  だれ? 兄さま?
礼子  それが、切符を買つてすぐなのよ。はいりがけに、お眼鏡を外して、拭かうとなすつたらしいの。ほら、下がコンクリートでせう。(声が高すぎて)
計一  みイ坊が寝てるんだよ。
礼子  ええ。だけど、とにかく、席へすわるにはすわつたんですけど、前の列はいつぱいだし、これぢや、なんにも見えないつておつしやるの。折角来たのに、あたしがつまんないぢやないの。我慢してらつしやいつて云つたら、たうとう怒り出しておしまひになつたのよ。一人でお帰んなさいとも云へないから、諦めて帰つて来たんだけど……。をかしいの。按摩さんみたいに手を引いて……。そのくせ、怒つてらつしやるから、なにを云つても(顔をそむける真似をして)かうなのよ。眼鏡なしの膨れつ面つて、とても滑稽よ。
八洲子  代りはおありになるの?
礼子  大丈夫、ある筈よ。(盆の上の麦茶をみて)これ、いただいていい?(飲む)お父さまは?
計一  散歩だらう。頭を冷しに……。
八洲子  また議論をなすつたの?
計一  おやぢも、近頃は、議論に自信がなくなつたとみえて、いきなり、大きな声を出すからな。そのあとで、いやに悄げるから、却つて威厳を損ずるんだ。昔はあれでも、確乎とした処世哲学をもつてゐたんだが、自分でも時々云つてる通り、近来は、そいつが、世間に通用しないもんだつていふことを悟りはじめたんだ。
八洲子  知事さんなら通用したんでせう。
計一  それもある。が、さうは思つてないさ。時勢に遅れたと思つてる。どつちにしてもおんなじだが、淋しいだらうよ。あれぢや……。
礼子  でも、案外、ハイカラなことをおつしやるわ。
計一  余程出世したつもりで、その実、さうでもなかつたことに気がついた、といふところもあるね。知事の古手なんぞ、世間がそれほど有難く思やしない。こいつもこたへてるね。時々、勲章なんか出してみてる。
礼子  実家さとの父もおんなじですわ。昔の中将と今の中将と値打が違ふつて、そればかり云ふんですの。

この時、二階から、紳二が降りて来る。

八洲子  そのお眼鏡の方がお似合ひになつてよ。
紳二  (黙つて兄の前にあぐらをかく)煙草ある?
計一  (にやにやしながら、チエリイの箱を渡し)代々木の家を提供するつてさ、おやぢが……。
紳二  (不意を喰つたやうに)代々木の家? ああさうか、そんなものより、ちやんと財産を分けて貰ふよ。
計一  (相変らず笑ひながら)ああ、さうだ、さうして貰へ。恩給を別にして、ざつと十五万はあるだらう。
紳二  三十万と踏んでるんだ。
計一  さうなるかも知れん。半分持つてくか。
紳二  おやぢは?
八洲子  お散歩ですつて……。
紳二  誰だい、怒らしたのは?
計一  ハヽヽヽヽ、さうきまつちまつちや、散歩つていふ名はをかしいや。なんていつたらいいんだい? 「臨時家出」も変だし……。
礼子  いやだわ、さういふお話……。
紳二  家風が違ふからね。君んところは、みんなおやぢさんを奉つてるね。
礼子  さうでもないけど……。
計一  威令が行はれてゐる。喋らんのがいいんだね。
紳二  もう八時か?(誰も答へない)寝るにはまだ早いな。
礼子  レコードでもかけませうか?
紳二  ああ、よしてくれ、よしてくれ。みイ助が眼を覚して、ぐづり出すとまたうるさい。

呼鈴の音。一同顔を見合せ、耳を傾ける。

紳二  おやぢぢやあるまいな。
礼子  誰か出たわ。

一方、計蔵が、庭からはいつて来て、上へ上る。

礼子  お帰り遊ばせ。
計蔵  馬鹿に早いぢやないか。
礼子  ええ、ちよつと……(八洲子の方をみて笑ふ)

計蔵は、机に向ひ、謡曲の本をひろげる。駒江が名刺を持つて現はれる。先づ八洲子にそれを示し、次で、計一、紳二に見せる。妙な沈黙。

八洲子  来てるの?
駒江  会ふかい?
計一  むろんさ(八洲子に)早く出ろよ、お前……。
紳二  名刺とは、どういふ意味だい?
八洲子  あたし、会つていいかしら……。
駒江  そんなこと云つて、お前……。あたしが困るぢやないか。
計一  みんな変だなあ。なにをもぢもぢしてるんだい。此処へ来てもらつたらいいぢやないか。お客さんぢやないんだぜ。
八洲子  (起つて行く)
紳二  誰に会ふ気か知らんが、女房の実家さとへ来て、名刺を出す手はないよ。
駒江  (この間に、計蔵のそばへ行き、小声で)一正さんが見えたんですよ。
計蔵  わしは会はん。そこを締めといてくれ。
駒江  応接に通しましたよ。

駒江、奥へ去る。

紳二  実際、あん時、手を切らしちまふのがほんとだつた。
礼子  大きな声で、あなた、駄目よ。
計一  この空気を云ふんだ、八洲子は……。どうにもならん空気だ。
紳二  兄さん、僕の会社でね、こんだ、素晴しいラヂオのセツトが出来るんだぜ。
計一  輸入品を組立てるだけでね。
紳二  戯談云つちや……。輸入品も使ふには使ふが、さう馬鹿にしたもんぢやないよ。あれなら、家へ置いても恥かしかない。
計一  今のでも、一向、恥かしいと思つてないがね。ラヂオもいいが、そいつは、お前の専門と大分かけ離れてるぢやないか。
紳二  専門なんて、別にこだはる必要はないさ。卒業論文はスペクトル、はいつた会社は航空機製作所、最初が合金の研究をやらされて、次に、真空管工場の技師、今は無電の主任といふわけさ。そのうちに、朝鮮海峡へ橋をかけろなんて云はれるかも知れないよ。

礼子は起つて計蔵の部屋へ行く。

礼子  少し蒸して来ましたわ。扇風機こちらへ持つて参りませうか?
計蔵  いや、よろしい。
礼子  お茶は入れ替へなくてよろしうございますか?
計蔵  もう、結構……。それより、塩せんべいがありやしなかつたか、見て来て下さい。
礼子  はい。(奥へはいる)
紳二  お父さん、代々木の家を下さるつてほんとですか?
計蔵  やるとは云やせん。
紳二  そのことで、少し御相談があるんですが……(かう云ひながら、父のそばへ行つて坐る)
計蔵  …………。
紳二  僕、もうそろそろ、家を出ようと思ふんです。
計蔵  聞いとるよ。
紳二  分家つていふことになるんですか。
計蔵  希望なら、さうしてやる。
紳二  すると、一家を立てるわけですね。
計蔵  立てられまい、独力ぢや。
紳二  むろん、応分の補助をしていただかなくちや……。
計蔵  大したことはできんよ。
紳二  ざつくばらんなところ、どれくらゐ頂けます?
計蔵  考へとかう。
紳二  凡その見当は、つきませんか? 割合から云つて……。
計蔵  (不審げに)割合つていふと、財産のか?
紳二  後継者の一人としてです。
計蔵  後継者はお前ぢやないよ。
紳二  だから、――の一人と云ひました。兄さんと二人ですから……。
計蔵  それから、八洲子もゐるよ。
紳二  あれも勘定に入れるんですか。
計蔵  なんの意味かわからんが、浜野家の相続人は、一人で沢山だ。
紳二  ほかの一人は、分配に預からないんですか?
計蔵  分配するほどのものはない。
紳二  不動産があるでせう。株券もあるやうに聞いてゐます。
計蔵  (むつとして)お前がそんなことを云ひ出すのは可笑しいよ。
紳二  次男は次男らしくしろとおつしやるんでせう。その理窟が、僕には可笑しいんです。
計蔵  可笑しくつてもよろしい。わしが決めたんぢやない。
紳二  習慣がさうだとおつしやるんですか? それとも法律ですか。僕は、お父さんの自由になることだと思ふんですが……。
計蔵  だから、自由にするから、お前は黙つてゐなさい。

この間、計一は、煙草をふかしながら、にやにや二人の会話を聴いてゐる。
礼子が、菓子盆に塩せんべいを盛つて、出て来る。

礼子  (計一に)お兄さま、ひとつ、いかが?
計一  (黙つて一枚をつまみ、すぐ口へ運ぶ)
礼子  (計蔵の前に盆を置き)あんまりおいしいんぢやなささうですわ。厚やきはみんな切らしましたの。(計一の側へ来て、そつと、応接間の方を指し、呟く)あつち、大分、険悪よ。(去る)
計蔵  (紳二に)まあ、せんべでも食へ。わしも相当働いたが、官吏をいくら長くやつとつても、金は残らん。安い土地をちびりちびり買ひはしたが、何処もかしこも草が生えとるばかりだ。株と云つたつて、大部分は例の赤城製氷で、こいつは二束三文にもならん。計一が……。

と、云ひかけた時、駒江が、やや気色ばんで入つて来る。

駒江  (計一を差招き、そのまま計蔵の部屋にはいる。それから、小声で、促すやうに)兄さん、ちよつと、早く……。
計一  (やつと腰を浮かし、母の方へ歩み寄る)なんですか?
駒江  (三人に同時に話しかける形で)やつぱり、別れようつて云ふ話なんですよ。八洲子が、あたしに、今それを云ひに来て、泣くんですよ。どうしたもんでせう。
紳二  そんなこつたらうと思つた。
計蔵  怪しからん奴だ。わしは、会ひたくない。
駒江  でも、なんとかおつしやつて下さらなけれや……。
計蔵  なんにも云ふ必要はない。さつさと追ひ返せ。
駒江  ぢや、承知するんですか?
計蔵  そんな返事をすることはいらん。
紳二  八洲子は、なんて云つてるんです?
駒江  此処へ呼びませうか? 決心はしてるらしいんです。
計蔵  お前が会つて、何れ、弁護士を差向けるからつて、さう云へ。
紳二  弁護士をどうするんです?
計蔵  話をつけるのには、その方が便利だ。
駒江  とにかく、八洲子を連れて来ます。

駒江が奥へ引つ込まうとすると、出会ひがしらに、礼子が八洲子の肩に手をかけるやうにしてはいつて来る。

紳二  おい、お前、なんて返事をした?
八洲子  …………。
計一  それより、向うは、どういふ理由で別れたいつて云ふんだい?
八洲子  理由は云ふ必要ないつて云ふの。でも、あたしには、あやまるのよ。自分がわるかつたつて……。だから、あたし、わからないの。
紳二  とにかく、同意はしたんだね?
八洲子  (うなづく)
紳二  ぢや、しかたがない。お父さんがいやなら、兄さんの出る番だぜ。
計一  おれや、いやだ。断じていやだ。
紳二  つまらんことを云はずに、出たらいいだらう。
計一  お前の指図は受けない。さういふ掛合ひは真つ平だ。話がすんだら、それでもういいぢやないか。
紳二  だけど、まだゐるんだらう。八洲子、どう云つて引つ込んだ?
八洲子  あたしはそれでいいけど、父にも相談してつて云つたのよ。
紳二  なかなか周到ぢやないか。誰か会つてやるんだな。(一ツ時考へて)僕が会はう。(起ち上る)
計一  あつさりやれ、あつさり……。
紳二  (出て行きながら)八洲子、お前もついて来い。

八洲子はついて行かない。長い沈黙。

計一  で、みどりはどうするつて云ふんだい?
八洲子  だつて、どうせあたしの子ですもの。
計一  そんな当り前のことを訊いてるんぢやない。どつちが引取るかつてことだよ。
八洲子  だから、あたしが引取るのよ。
計一  さうきめたんだね。
八洲子  ええ。それぢやいけなくつて?
計一  いけないこともあるまい。
駒江  お父さんには御意見はないんですか。
計蔵  ない。

奥から、紳二の怒気を含んだ声が聞える。八洲子の不安な表情が目立つ。

計一  あの調子は、よろしくない。

紳二の声がだんだんはつきりして来る。

紳二の声……当然といふことはない。君の態度は卑怯だ……。七年間の犠牲的な生活は、誰が償ふんだ……勿論、物質を離れての問題だ……父親としての義務を欠いだことを、みどりに詫び給へ……(長い間)別居生活が女に与へる苦痛は、男の君にはわからんのだらう……いや、わかつてゐて、それを平気で見てゐた君は、天下の冷血漢だ(間)……黙り給へ、本人はどうか知らん……八洲子は、僕の妹だ……七年間、純情を捧げて、君の……夫の指図を待つてゐたんだ。その結果は、どうだ……君は、これを当然の成行と云ふのか……。

八洲子は、少し以前から袂を顔にあて、肩をゆすつて泣きはじめる。

計一  (駒江に)お母さん、あんなことを云はしといたつてしやうがないでせう。早く切上げるやうにさせたらどうですか。
八洲子  (声をつまらせ)あんな風にして別れたくないわ。あの人を侮辱する権利は、誰にだつてないわ……。ごらんなさい、なんて云はれても、我慢してるわ……。
紳二の声……それが、君の考へ違ひだ……八洲子は、君、一度、死なうとしたんだぜ……。いや、恐らく、一度や二度ぢやなかつたらう……。

駒江が、その間にたまり兼ねて、座を起つ。
長い沈黙。
玄関のあく音。靴の音が門の方へ遠ざかる。

計一  おや、帰るな。(間)かうみんなが怒鳴るのはどうかしてゐる。

その時、紳二が、肩をいからせ、緊張した面持で、勝利者のやうにはいつて来る。

計一  おい、ひどいとさ、今のやり方は……。八洲子が恨んでるぞ。
紳二  (それが聞えぬらしく)生意気なことを云やがる。――出発点の誤りが、かういふ結果を生んだんだとさ。その誤りを何時知つた? と訊いてやつたら、黙つてゐたよ。云ふことがいちいち気に喰はんぢやないか。――「あなたは科学者だが、僕は寧ろ実務家だ。論理よりも、情勢を重んじる」――なんだ、これや……。それから、かうも云つた。――「八洲子さんと僕とは、愛し合つたと云へる。しかし、お互に愛し方が違つてゐた。結婚に導かれる関係とは凡そ違つたものだ」――なんのことかわかるかい? 実務家らしくない文句さ。
八洲子  兄さま、後生だわ、そんなにあの人を悪くおつしやらないで頂戴……。
紳二  八洲子、お前は、あの男の正体が、今になつてもわからないのか! あいつは、結婚を承諾した時に、もう、結婚する意志はなかつたんだ。それが、今日、おれには、はつきりわかつた。お前はその前に死なうと思つたね。あの時の事情を、おれは、もう一度訊きたいんだ。時節が来るまで待てと云はれたんぢやあるまい? 突然、別れ話をもち出されたんだらう。それで、お前は、生きてゐる気がしなくなつた、さうだらう。今、あいつは、はつきりさう云つたぞ。
八洲子  (不意に顔をあげ)それや、少し違ふわ……。あの人、そんなこと云つて?
紳二  云つたとも……。二度、繰り返したよ。
八洲子  そんなら、云ふわ、これだけは、あたし、誰にも云ひたくなかつたの……。礼子さんには、いつか、戯談みたいにして云つたんだけど……。
礼子  なんでしたつけ……。どんなこと……? ちつとも気がつかなかつたわ。

駒江がそつとはいつて来る。

計一  なんだい、一体……?
八洲子  待つて頂戴……そん時の言葉を思ひ出すから……。あの人、さうだわ、それを云ふ時、涙をぼろぼろこぼしてたわ、――「僕は、今、どうしても、このことを家の者に知られては困る。時機が来たら結婚するといふ約束だけはしてもいいが、それまで、あなたも待ちきれないだらう。その上、子供をどうすればいいか、あなたの家でなんて云ふか……それを考へると、将来のことなんか問題でなくなる。ただ僕は、何よりも、男として、大きな仕事をしてみたい。それをやり遂げるまでは、生きてゐなけれやならない。そのためには、世間の信用を得ることが第一だ。あなたは、その子が誰の子だといふことを、きつと云はずには済まされないだらう、僕は、さうなると破滅だ。あなたが若し、僕を、ほんたうに愛してくれるなら、どうか、僕のゐないところで……(声をうるませ)東京から成るべく遠く離れた場所で……ひと思ひに……ひと思ひに……。(泣き伏す)
紳二  死んでくれつて云ふのか?
計一  (長い間)立身出世主義の亡霊がここにもまたひとつか……。
駒江  まあ……。
紳二  言語道断な奴だ。お前は、それを黙つて聴いてゐたのか?
計蔵  (腕を組み眼をつむる)
八洲子  あたしは、馬鹿ぢやないつもりです……。それが、どんなことか、あたしにはわかつてゐます……ええ、わかつてますとも……。ちやんとわかつてますわ……。でも……でも、あの人が、それを、どんな風に云つたか、どなたも御存じないからですわ……。いいえ、いいえ、決してわるい人ぢやありません……一正は……。正直に、困つた気持を云つただけです……。あたしは、それが、憎めないんです……恨むことなんかできません……どうしても、さうしてあげなけれやならない……さうするのがほんたうだと思つたんです……あの人のために、さうするのがうれしかつたんです……。
紳二  今はどうだ?
八洲子  今ですか? 今は……今は……やつぱり、あの人が好きですわ……。ただ、もうかうなつたら、何時までも生きてゐて、あの人の、立派な仕事をみさへすればいい……。みさへすれば、それであたしは……あたしは……。(声が涙の中に吸ひ込まれて、悶えるやうに、再び、畳の上に突つ伏す)

[#改ページ]


第一幕と同じ応接間。室内の装飾は、しかし全く一変してることに気がつく。明るい近代風の油絵がかかり、ピアノが置かれ、飾棚には、仏蘭西人形など。その筈である、当時から十七年、即ち前の場面より十年を経過してゐるから。季節は晩春、時刻は午後五時頃。

念のために、登場人物の年齢を、ここで示せば――
計一   五十
紳二   四十五
八洲子  四十
礼子   同
駒江   六十八
みどり  十七
そして、計蔵は、七年前に死亡。

ピアノに向つてゐるのは、女学校の制服を着たみどりである。傍らのソフアーに礼子が腰かけて、首で拍子を取りながら聴いてゐる。
曲が終ると、礼子は、拍手の真似をして、

礼子  だんだん、本物になるわね。
みどり  伯母さま、ひとつ、なんかお聴かせになつてよ。
礼子  あたしは、もう駄目よ。お嫁に来てから、練習なんかしたことないんだから……。
みどり  でも、何時か、あんなに……。
礼子  あん時は、ほら、癇癪を起して、なんでもガンガン音を出してみたかつたからよ。音楽つて、ああいふ風にやるもんぢやないわ。
みどり  さうか知ら……熱情的で、とても、聴いてて、よかつたわ。シヨパンの「こがらし」ね。
礼子  なんだつたか、忘れちやつた。まあ、いいから、もつとおさらへなさいよ。先生がああ一生懸命だと、習ふ張合があるわね。
みどり  張合がありすぎるわ。
礼子  生ちやん云はないで、さあ、始めた、始めた。

みどり、弾きはじめる。
やがて、八洲子が、そつと扉をあけ、その蔭で、立ち止つて聴いてゐる。

みどり  (弾きながら)知つてるわよ、お母さま、そんなところにかくれてらしつたつて……。
八洲子  (現はれ)黙つてお弾きなさい。(礼子のそばに行つて、小声で話しかける)
みどり  お母さま、今日はもうこれでいいでせう。あたし、くたびれちやつた。
八洲子  自分でいいと思つたら、およしなさい。
みどり  (躊つて)計伯父さまがいらつしやると、また悪口おつしやるわよ。
八洲子  理由はなんでもいいから、堂々と自分で自分が恥かしくないやうになさい。だあれも、無理に、ピアノのお稽古なんかさせやしません。
礼子  計伯父さま、どんなことおつしやるの?
みどり  また天才少女がやつとるなつて……。
礼子  そんなの、悪口ぢやないわ。
みどり  悪口よ、あたし、ちやあんとわかるの。
八洲子  それにしても、遅いわね、男の方たち……。
礼子  あたしが家を出る時、念のため会社の方へ電話をかけといたんだから、忘れる気づかひはないことよ。
八洲子  お祖父さまの七周忌を忘れる人もないわ。
みどり  計伯父さま、忘れてらしつたぢやないの?
八洲子  こないだね。あれやまあ、今年がさうだつてことを、つい忘れてらしつたのさ。今日のことは、二度も三度も云つてあるから大丈夫だよ。それとも、お電話してみようか知ら……。
礼子  めいめい勝手にお墓参りをして、晩、ここで一緒に御飯をいただくつていふのは、あの方の案なんだわ。
八洲子  さうですよ。まあ、とにかく、もう少し待つてみませう。あのホテルは、電話の通じが悪くつて、あとで喉が痛くなるわ。
礼子  六年も七年もホテル住ひをなすつて、よくお飽きにならないわね。
八洲子  でも、たまに、泊つてお帰りになるんだけど、畳の上もわるくないなあつて、にやにやしてらつしやるわ。
礼子  あらまあ、さう云へば、お兄さまの寝台ベツドは、うちが掠奪しちやつたわけね。
八洲子  掠奪はいいけど、ほら、この部屋にあつた地球儀ね、あれどうしたつておつしやるんだけど、あなた覚えてらつしやらない。お宅の方だつたか知ら……。
礼子  あ、そんなら、あれだわ、きつと……。書斎で見たやうだわ。
八洲子  見たやうだは暢気ね。なんだか知らないけど、さう云つてらしつたから、探しときますつて云つたの。いるならいるつておつしやるでせう……。
礼子  あんなものつて云つちやなんだけど、うちぢや、用はないでせう。なんだつて、あれ、持つて来たんだらう……。
八洲子  明治初年の珍らしいものなんですつて……。

玄関の呼鈴。

八洲子  あてつこしませう。どつち?
礼子  計兄さまだわ、きつと……。
みどり  あたし、紳二伯父さまだ。
八洲子  もう声が聞えるわ。みイちやんが当つた。

三人、同時に玄関に出る。
やがて、紳二がはいつて来る。

礼子  お墓へはいらしつた?
紳二  (誤魔化すつもりもなく)ああ、行つたよ。花がいつぱい差してあつた。お線香もまだ煙を出してたよ。
八洲子  いいのよ、証拠はなんて、訊いてやしないから……。
紳二  ここでも拝むのかい?
礼子  坊さまの方はもうすんだんですつて……。お位牌へ御焼香だけしてらつしやいよ。
紳二  (奥へ行く)

礼子だけ付いて行く。

八洲子  (みどりに)お祖父さまがお亡くなりになつた時のこと、よく、覚えてるかい?
みどり  それや、覚えてるわ。あたしの手を握つて、ぢつと顔をごらんになつたんですもの。それから、静かに眼をおつぶりになつたわ。その拍子に、涙をぽたぽたとお枕の上にお落しになつたの……。
八洲子  お前をほんとに可愛がつて下さつたのは、あのお祖父さま一人だつたと云つていい。お遺言に、「財産ハ三等分シテ、コレヲ計一、紳二、並ニ、みどりノ三人ニ譲ル」と書いてあつた。それを見て、あたしは、どんなにお祖父さまに感謝したかわからない……。
みどり  だつて、お母さまの分は?
八洲子  そのことは、後に書いてあるんだよ。「計一卜紳二ハ母駒江ヲ、みどりハ、母八洲子ヲ扶養スル義務ヲ負フモノトス」つて……。お祖父さまらしいだらう。
みどり  今飾つてあるお写真と、まるで違ふわね、あたしの覚えてるお顔は……。
八洲子  あのお写真は、もつとずつとお若い時のだもの……。あの頃は、あたしなんかびくびくするほど怖い方だつた。伯父さまたちだつて、今ああしてらつしやるけど、みんな、お祖父さまの前では、縮み上つてらしつたんだよ。
みどり  ぢや紳二伯父さまは、あたしにその真似してらつしたのね。――「こら、みどり」なんて、よくにらみつけられたわ。
八洲子  以前ね。だけど、近頃はやさしくして下さるね。
みどり  こないだ、紳二伯父さまつたら、こんなことおつしやつたわ――「やい、みイ坊、伯父さんの子供にしてやらうか」つて……。お父さまがいらつしやらないと思つてでせう、きつと……。
八洲子  お父さまのことは云はない筈だつたね。
みどり  あツ、忘れた。ごめんなさい。

この時、また、玄関の呼鈴。

みどり  計伯父さまだわ。

二人は玄関に出る。その間に、反対の入口から礼子と紳二がはいつて来る。

紳二  あんな地球儀、欲しけれや持つてくさ。
礼子  そんな風にお取りになつちやいけないわ。

やがて、計一が、女たちと共に現はれる。

計一  遅くなつて失敬。横浜へちよつと用があつたもんだから……。
紳二  近頃は、それでも用があるんだね。
計一  うん、あるよ。
八洲子  ぢや、お墓の方はまだね?
計一  まだつて、別に、行くつもりもないが……みんな、行つたのかい?
礼子  まあ、上手うはてね。

女中がお茶を運んで来る。

八洲子  御隠居さまに申上げた?
女中  なんでございますか?
八洲子  なんでございますかぢやないよ、麹町の若旦那さまがいらしつたつてことさ。
女中  はあ、申上げました。(去る)
八洲子  早く、お焼香してらつしやいよ。
計一  そんなことしなくたつていいよ。飯さへ食や、七周忌になるんだらう。
八洲子  変だわ、そんなの。
計一  おれは、おやぢの写真の前で、みんながお喋りをするつていふことに、ちよつと興味を感じてるだけだ。五十にもなつて、人の真似ができるかい。
紳二  誰でもすることは真似ぢやないよ。
計一  その鑑定は、こつちに委せとけ。今日は横浜へ行つて、はじめて外人のキスするところを見て来た。
礼子  いやなお兄さま。
紳二  映画でみたことはないのかい?
計一  実物をさ。
みどり  あら、学校で、マダムたちが、何時だつてなさつてるわ。
計一  女同士だらう。
みどり  ええ、それやさうだわ。
八洲子  およしなさい、子供のくせに……。
紳二  およしなさい、爺のくせに、だ、寧ろ……。
計一  (起ち上り)ええと、トイレツトはどつちだつけな。
八洲子  なに? お煙草?
礼子  (計一に、なんとか応対の意味で)お間違ひにならないやうに……。

計一が出て行く。
礼子は、ひとりでくすくす笑つてゐる。

八洲子  なに笑つてらつしやるの?
みどり  計伯父さま、うちの御不浄を、お忘れになつたのよ。
紳二  なるほど、オリヂナルたらんとすることも、亦難いかなだ。

駒江がはいつて来る。

駒江  兄さんが来てるつていふぢやないか。
礼子  今、お手洗ひにいらつしやいました。
駒江  それで、みんな揃つたわけだね。ぢや、女の人たちは、お座敷の用意にかかつたらどう。
八洲子  用意つて、別にないぢやないの。なんでも大袈裟ね、お祖母さまは……。
駒江  お座蒲団だけは出しといたからね、まあ、みなさんでおよろしいやうに……。

駒江が引つ込むと、計一が現はれる。

計一  (みどりに)どうだい、天才少女、ピアノに押しつぶされる夢を見やしないか?
みどり  みないわ。
計一  ぢや、お母さんとピアノの先生とで、お前を雲の上へ吊し上げる夢は?
八洲子  なんの意味ですの、それ?
計一  花環をからだ中へ縛りつけてね。下をみると、広い野原には一面に芒が生えてゐる。その芒の穂が、よく見ると、どれもこれも、人の手だ。指をひろげたのや、拳を固めたのや、人差指を出したのや……それから、猫の形をこしらへたのや……。
みどり  そんな夢つてないわ。
計一  あるとも……。もうぢき、そいつを、見るやうになる。お前は、何処へ連れて行かれるのかわからない。怖いやうなうれしいやうな、それでゐて、からだの芯がむづむづと痒いんだ。耳もとで、お母さんの声が囁く――「みイ坊、あれが聞えるかい?」……なんだかわからない。がやがやいふ音が、遠くでする。何処だらう……。すると、先生の声が、また囁く――「もうぢきですよ」……なにがぢきなんだ?……。眼の前に、はるか、明るい光りのやうなものが見える? あれか知ら……? 音が、なるほど、近づいて来る。それは、雷のやうな、物凄い唸りだ……。耳をふさいでゐたい……。お前の両手は、自由にならないんだ。胸がどきどきしてくる……。喉が、からからになる……。気が遠くなる……。急に、全身の力が抜けて、支へるもののないことに気がつく。お前は、はつと思ふ……。(沈黙)
みどり  そこで眼が覚めるんでせう。
計一  よくわかつた。お前は、悧巧な子だ。おれは大分腹がへつて来た。

この時、玄関で呼鈴が鳴る。一同そつちを向く。(間)

紳二  おや、まだ来るやつがゐたかなあ。
礼子  いやよ、気味の悪いことをおつしやつちや……。
八洲子  (耳を傾けてゐる)

八洲子の表情に引き入れられるやうに、一人一人、順々に、同じ表情をする。
女中が現はれる。

女中  (八洲子に名刺を差出し)奥様に是非お目にかゝりたいとおつしやいます。
八洲子  (名刺に眼をおとし、強ひて落つかうとする)
礼子  どなた?
八洲子  (黙つて、名刺を示す)
礼子  (「まあ」といふ顔付、但しそれは、驚きと困惑と憐憫の入り混つた表情である)

紳二が名刺をのぞき込む。

紳二  (即座に決断を示したいが、実は、自信のないことを包みかねた表情で、あたりを見まはす。名刺を取り上げて、それを計一に渡す)どういふんだい、これや……。
計一  (受け取るが早いか、それを八洲子の方に投げ返し)おれや、知らん……。会つたらいいだらう。
八洲子  (一同の同意を求める眼付で)会へない理由はないわね。
紳二  「会はない」理由はある。
八洲子  (ぼんやりしてゐるみどりを引寄せ、沈痛な調子で)ごらん……。お前のお父さまだよ。

長い沈黙。

八洲子  (みどりに)あんたが、第一に、決めて頂戴。お通しするか、しないか……?

長い沈黙。

八洲子  そんなにあたしの顔を見ないだつていいの。思ふ通りを云つてごらん……。お母さんとして、お眼にかかつた方がいいかどうか……。
みどり  (唾を呑み込んで低く)いいわ。
八洲子  (表情を崩さずに、女中に)離れの方へお通ししなさい。今日は親戚の集りで、手がはなせませんのですけれどつて、さう申上げてね。(女中退場)

みんなが、なにかを云ひ出さうとして、さて何も云ひ出すことのない、一種の気づまりな瞬間。

八洲子  ほんの五分間ほど、失礼させていただくわ。みイちやんは、しばらくここにいらつしやいね。

彼女は、行きかけて、また後帰りをする。誰にともなく、

八洲子  お兄さま方は、絶対にお会ひになりませんね。

二人の兄達は、大きくうなづく。

八洲子  なにか伺つておくこと、ありません……?
計一  ない。
紳二  云つてくれといふなら云ふが。……用事だけ聞いて、あとは何れつていふ事にするんだな。
八洲子  ええ。

彼女が出て行つた後を、一同の視線が見送つてゐる。
みどりは、おづおづ、礼子の傍にすり寄つて来る。
礼子は、それを、やさしく抱へ込むやうにする。

紳二  かういふことは、あり得べからざることだ。
計一  なにがあり得べからざることだ?
紳二  日もあらうに、今日、おやぢの命日に、ここへ舞ひ込んで来やがつたのは、果して、神か悪魔か?
計一  なんでも、さう、決めたがるな。みどり、ここへおいで……。なにを考へ込んでゐるんだ? 別に大変なことでもなんでもない。(膝の上へ腰かけさせ)いけないお父さんなら追ひ出してしまへばいいし、いいお父さんなら、遠くにゐてもいいお父さんだ。一緒にゐて仲の悪い親同胞もあるし、離れてゐても心の通つてゐる人間がゐる。お前はもう、誰にどうして貰はなくつても、ひとりで立派に、自分のしたいことができるんだよ。お母さんだけが好きだなんて、そんなことを云つてみろ。もうみんなに嗤はれるぞ。

みどりは、突然、伯父の膝から飛び降り、笑ひながらピアノに向ふ。

みどり  礼子伯母さま、弾くから、聴いてらしつてね。
礼子  なに弾くの?

みどりは、そらで、シヨパンの「こがらし」を弾く。大胆不敵な弾き方である。
計一は、にやにや、その走る指の動きを眺めてゐる。
紳二は、起ち上つて、窓ぎはに行き、外を眺める。
礼子は、眼をうるまして、ぢつと耳を傾けてゐる。
一節を弾き終らうとして、やけに最後の鍵をたたき、胸を反らして両手を高く差し上げる。そして礼子の方を、ませた上眼でにらんで、

みどり  なんとかおつしやつてよ、伯母さま!
礼子  (急いで、みどりのそばへ近づき、一層に手をかけて)さ、あつちへ行つてお祖母ちやまのお手伝ひをしよう。さうさう、伯父さまたちに、カクテルを差上げるんぢやなかつた?
みどり  さうよ。(と云つて、救はれたやうに部屋を飛び出す)

礼子は、男たちに、眼くばせをして、その後からついて行く。

紳二  ヒスだね、あの娘も……。
計一  ……も、とは?
紳二  あらゆる女の如く、と云ひたいが、うちの奴は例外だ。
計一  泰然自若か。
紳二  悠々閑々だ。(投げ棄ててある名刺を拾ひ)そんなことはどうでもいいが、問題は、この男の用向きさ。まさか、おやぢの霊前で頭を剃らうといふわけぢやあるまい。
計一  その後の消息を聞いてるのかい?
紳二  聞いてもゐないが、想像はつくよ。もうそろそろ、あの会社なら、なんとか支部長といふところだらう。三十……六か、七か……。慰藉科の二千円は借りた叔父さんとかにどうやら返したとして、こんだの女房と、子供の三人も連れて、松坂屋の食堂をうろついてると思つたら間違ひはない。
計一  いやに穿ちすぎてるが、どつかで遇つたな。
紳二  遇はないさ。ふと浮んだ想像だ。みどりに遺産がはいつたことを嗅ぎつけたかな。
計一  八洲子だつて、むろん、会つちやゐまいな。
紳二  と思ふがね。第一、われわれの前で、この十年間、あの男の名を口に出したことがあるかい。ないだらう、恐らく……。意地もあるだらうが、忘れる努力をしてゐたに違ひない。礼子の話だが、みどりにも、父親の話をすることは絶対に禁じてゐたらしい。
計一  さつきは、しかし、その名刺を見せて、「お父さんだ」と云つた。
紳二  あれは、まづかつた。固くなりすぎたんだ。どうしていいかわからなかつたんだ。黙つて追ひ返すより手はないのさ。おれは、十年前の、あの晩のことを考へると、腹の中が煮えくり返るよ。畜生、出てつて、殴りつけてやらうか――「なにしに来やがつた」つて……。
計一  ほんとに怒つてるのか?

みどりが、盆にカクテルの盃を二つのせてはいつて来る。

みどり  はい、こつちが計伯父さま、礼子伯母さまの御手並よ。

二人は同時にそれを受け取る。
みどりは、ぢつと立つて男たちが盃に口をあてるのを見てゐる。
この時、玄関の人声に、一同耳を立てる。
やがて、八洲子が、意外にも、軽い微笑を含んではいつて来る。

紳二  帰つたんだね。
八洲子  (ほつとしたやうに、ソフアーに倚りかかり)ええ。(間)なにしろ、不思議だわ……。でも、さつぱりしたの、あたし……。

駒江と礼子とが、両方の入口から、そつとはいつて来る。

駒江  なにしに来たの? 今時分……。
八洲子  まつたく、今時分、だわ。でも、……(間。声をおとして)ずつと、独身なんですつて……。
紳二  へえ、それで……?
八洲子  あたしに、帰つてくれつて云ふの。
紳二  やつぱりさうか。
八洲子  やつぱりつて、兄さまも、さうお思ひになつた?
紳二  奥の奥ではね。で、どう返事をした?
八洲子  返事なんかしないわ。ただ、黙つて、聴いてただけ……。
計一  (どかつとソフアーの背に頭をもたせかけ天井を見上げる)
八洲子  冷静この上なしつていふ風によ。だつて、自然に、さうなれたんですもの。なにか、予期してたことが、その通りになつて行くみたいに……。待つて頂戴……それでゐて、あの人の情熱は、目に見えるだけで、心に触れて来ないの。どう云つたらいいか知ら……。今、自分の前にゐるのは、あたしがこの十年間、信じつづけてゐた、あの一正だとは、どうしても思へないんです……。何処が変つてゐるとも云へません。あたしが、待つてたのは「この人」ぢやない、「あの人」だつていふ気がして……いちいちの言葉をうれしく聴きながら、こつちは、誰に応へていいか、その相手が見えないんです……。

この間に、みどりは、母親のそばに歩み寄つて、静かに、その膝に手をのせる。
八洲子は、その手を握りしめる。

八洲子  みどりには、なにもかも、ほんたうのことを云つてきかせてあります。(みどりに)あれは、十四の時だつたね。
みどり  (うなづく)
八洲子  このもよく知つてますわ。あたしは、一正を、一度だつて悪く云つたことはありません……。悪く思つてなんかゐないんですもの……。お兄さまたちの前で、こんなことを云ふとやせ我慢をはつてるとお思ひになるでせうけれど、今、あの人を赦すとか赦さないとか、そんなことは、問題にならないんですの。ただ、ほんたうに「あの人」であつててくれればいいんですわ……。ところが、今日会つてみると、成程年もとりましたけれどそれだけぢやなく、どこひとつとして、ほんたうの「あの人」ぢやないんですの……。何がそんなに変つたのか、どうしてもあたしには分らない。こんな、不思議な、気の抜けたやうなことつてあるかしら……?
計一  (起き返り)なるほどね。
紳二  一度、冷めたらそんなものだ、愛なんていふものは……。
八洲子  兄さまの理窟ね。でも、あたしの場合は、そんな簡単には行かないわ。あたしのうちにあるものは相変らず、ちやんと、あるんですもの……。ただあたしが待つてゐたのは今日の一正でなくもう一人の一正だつていふ気がするの。姉さまには、わかつていただけないか知ら……。別に、だからつて、失望してるわけぢやないのよ。
計一  来るものは来た。しかし、それを運んで来たのは、お前が待つてゐたものぢやなかつたんだ。
礼子  さういふことになるわね。
八洲子  さういふことになるの? ああ、さうだわ。
紳二  なんだ、簡単ぢやないか。
駒江  あたしにや、さつぱりわからない。
計一  お母さんの時代には、なかつたことでせう。
八洲子  (みどりの方へ向き直り、その両手を自分の両手の中に握つて)ねえ、みイちやん……。お父さまは、やつぱり、あたしたちのことを思つてゐて下さるのよ。何時か、ほんたうのお父さまが、あたしたちを迎ひに来て下さるわ……。待つてゐませうね。いつまででもよ。「早く」なんて思つちや駄目よ……。
礼子  さうよ、みイちやん……。お母さまのおつしやるほんたうのお父さまつて、あたしも、ちやんと識つてるわ……。ギタアが、それやお上手だつたのよ……。今日来た人は、きつと、そんなもの弾けないでせう……。
八洲子  弾けるもんですか……。さうだ、みイちやん、今日はあれをお祖父さまに聴かしておあげなさい、ほら……あれよ……。
礼子  グリークの「春」?
計一  また、やらされるのか。お祖父さまは、お墓の下で、おなかをぺこぺこにすかしてるぞ。
駒江  ほんとだよ。(去りながら)さ、大急ぎ、大急ぎ。
八洲子  ぢや、みイちやん、それひとつ弾いてる間に、ちやんとお支度いたしますから……。もう、しばらく御辛抱を……。

みどりが、ピアノに向ひ最初の一節を弾きはじめると、八洲子は、静かに部屋を出て行く。






底本:「岸田國士全集6」岩波書店
   1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「風俗時評」現代文学選25、鎌倉文庫
   1947(昭和22)年2月10日発行
初出:「改造 第十七巻第四号」
   1935(昭和10)年4月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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