長閑なる反目(三場)

岸田國士




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人物
保根
もえ子
野見
丸地
くみ
美奈子


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第一場


保根の家――八畳の座敷――机が二つ部屋の両隅に並んでゐる。

保根は一方の机に向つて、何か調べものをしてゐる。
野見は縁側に座蒲団を持ち出して日向ぼつこをしてゐる。

野見  この家もわるくはないが、折角、これだけの庭があるんだから、もう少しなんとかできないもんかな。せめて、季節季節の花だけでも欠かさないやうにするんだね。椿、躑躅つつじ、ぼけ、こんなもんなら、一株二十銭も出せば、臍までぐらゐのやつがあるよ。
保根  ……。
野見  おれはいろいろ考へて見てるんだが、君たちの生活には、もう少し変化があつていゝよ。それは、今にはじまつたことぢやない。君が毎日勤めに出てゐた頃からさうだ。朝きまつた時間に出て、晩きまつた時間に帰つて来るのはいゝさ。しかし、それが機械のやうに正確だと、少し退屈だよ。お互にね。もえ子さんにしてもさうだ。朝起きて晩寝るまで、立つてゐる時は割烹著かつぱうぎをつけ、坐つてゐる時は指抜きをはめてゐる。なるほど、晩飯の時だけは、君も、もえ子さんも、やや人間らしい眼つきをしてゐるが、話と云へば、六分づきの米にはヴイタミンが多いといふことと、電車が混んで帯革を締め直すこともできなかつたといふことと、大家の神さんが道で遇つてもお辞儀をしなかつたといふことと、それくらゐのもんぢやないか。これぢや、お互にやりきれんよ。君が社の方を罷めてから、この傾向は益※(二の字点、1-2-22)著しくなつて来た。朝が遅く、晩が早いので、いくらかは助かるが、君がさうして、一日机に噛りついてゐるのを、おれも、もえ子さんも、同じやうに心配してゐるんだ。勿論……。
保根  おい、少し黙つててくれ。
野見  そんな売りこむ当てもない翻訳なんかしたつてなんになる。商業英語をちつとばかりやつたからつて、オオ・ヘンリは訳せやしないよ。
保根  売れなきや売れないでいゝのさ。勉強になるからやつてるんだ。
野見  おい、それより、何か一つだけ新聞を取れよ。時事の夕刊も、先週から投げこんで行かなくなつたし、隣の大将は、何時のぞいて見ても新聞を読んでて、そいつを一寸と云つて借りに行くこともできないし、第一、体裁が悪いぢやないか。それはまあいゝよ。君と云ふ人間が世間から益※(二の字点、1-2-22)離れて行くぢやないか。
保根  世間のことなんか、おれには興味はないよ。
野見  それぢや、あれはどうだ、広告欄は……。就職口を探すなら、先づ新聞の広告欄を利用すべきだぜ。麻布あざぶの伯父さんも結構さ。先輩の羽入はにふさんもそれや頼みにはなるだらうが、もうあれから三月、どつちからも口らしい口はかかつて来ないぢやないか。この上、何を待つてるんだい。
保根  そんなことを君に云はれなくたつて、明日から少し心当りを歩いてみようと思つてるんだ。
野見  おれも歩く。おれの知つてる処で、少しでも見込みのあるところは、いちいち当つてみるつもりだ。おれの親友で、かうして厄介になつてる男だつて云へば、何んとか考へてくれないこともあるまい。死んだ兄貴の友達で、今建築かなんかをやつてる男が――君、困つた時は、何時でもやつて来給へ、僕で出来ることならなんでもするからつて、さう云つたことがある。あいつのところへ行つて、君のことを頼んでみよう。事務所はなかなか大きいらしいから、人の一人や二人、どうにでもなるだらう。
保根  そんな口があるなら、もつと早くさう云つてくれりやいゝのに……。
野見  さうか。だつて、さう面白い仕事ぢやないからね、建築事務所なんて……。いやしくも最高学府へ卒業間際まぎはまで通つたといふ君が、大工の見習ぢや納まるまいと思つてさ。しかし、昨今の生活は、僕も見るに見兼ねてゐる。だから、さういふところでも、よかつたら、世話しようと思つたまでさ。
保根  どんな仕事だつて、かうなつたらやるよ。文句なんか云つてる場合ぢやない。しかし、なんだな。おれの方もおれの方だが、君も、一つ、早く仕事を見つけて貰ひたいな。学校を出て、何時までもさうぶらぶらしてると、そのうちに時機を失するぜ。あとからあとから、新しい奴が出てくると、使ふ方ぢや、旧いのとは云はんからな。支那語は、今が一番売れ口も早いんだし、もう少し奔走してみたらどうだ。
野見  なに、四年や五年遊んだつて、あとがつかへるやうなことはないよ。おれは、まあ何時だつていゝから、君の方を早く片づけよう。それでないと、かうして厄介になつてるのが気苦労でいかん。
保根  なにしろ、以前はこれでも定収入といふものがあつたから、始末をすれば、君一人ぐらゐ食はして置けたんだが、今の状態ぢや、われわれ二人の家族が、満足にやつて行けないんだからね。
野見  だから、おれが骨を折ると云つてるぢやないか。くよくよすることはないさ。

この時、表の戸が開いて、もえ子が帰つて来る。

野見  (もえ子の姿を見て)お帰んなさい。早かつたですね。
もえ子  電車が大変……。
野見  もう聞いた、その話は……。
もえ子  誰から……。
野見  それより、「東方時論」を買つて来てくれましたか。
もえ子  まだ出てないんですつて……。
野見  そんな筈はないさ。今日は五日ですよ。毎月、一日発行の雑誌が五日になつても出ないなんて法はありませんよ。方々探したんですか。
もえ子  方々つて……紀ノ国屋で訊いたのよ。
野見  紀ノ国屋……? 嘘だ。大嘘だ。もえ子さん、忘れたんでせう。あすこで訊けば、うちではさういふ雑誌を置きませんつて云ふ筈だ。忘れたか、さもなければ、わざと買はなかつたか。だつて、新宿駅の売店にだつて売つてますよ。
もえ子  あら、さうでしたの。
野見  さうでしたのぢやないよ、もえ子さん、そんならさうで、七十四銭くれりや、僕が自分で買つて来るんだ。
もえ子  あたしんとこへ、手紙来てない?
野見  手紙なんか来てませんよ。どら、七十四銭貸して……。
もえ子  いゝわよ、この次、あたしが買つて来るから……。
野見  今、読みたいんだもの……さ、壱円でお釣もつて来ますよ。
もえ子  野見さん、あんたも好い加減察しが悪い人ね。
野見  (しばらくもえ子の顔を見てゐるが、やつと、腑に落ちたらしく、気まづげに横を向く)
保根  (机の方を向いたまま開封した手紙を差出し)姉さん、これ、……。
もえ子  (それを受け取り)なんて云つて来たの。
保根  ……。
もえ子  (手紙を読む)

長い間。

保根  直接返事を出さない方がいゝよ。僕から何んとか云つてやるから……。
もえ子  だつて、これぢや約束が違ふぢやないの。
保根  だから、姉さんは黙つてた方がいゝよ。名村にさう云つて、解決をつけて貰はう。
もえ子  月々五十円の仕送りをするつて約束で、かうして別居してるのに、そんなこと云ふなら、どんな女がゐたつてかまはないから押しかけてつてやるわ。
保根  さうすれや、こつちが不愉快なだけぢやないか。話はわかつてるんだから、表向きにするつて、さう云つてやりやいゝのさ。それには、僕から、そんなことを云つてくのも可笑しいから、弁護士にやらせた方が、さつさと事が運んでいゝよ。
もえ子  ううん、あたしが、ぢかに掛け合つて来る。
保根  駄目だ、そんなことしちや……。向うから、さうして理由までちやんとこしらへて云つて来てるんだから、当人同志ぢや、押問答をするだけだ。
野見  おれが行つて来ようか。
保根  君のやうにお人好しぢや、甘く見られてなほ駄目だよ。
野見  夫は、妻を扶養する義務があるんだぜ。
保根  わかつてるよ、そんなことは……。
野見  若し、その義務を履行しないときは、妻の方から……。
保根  わかつてるつてば……。
もえ子  こんな、自分の方の都合ばかり並べたてたつて、なんにもならないわ。
野見  もえ子さんも、そんな男はいゝ加減見きりをつけて、早く、第二の新しい生活にはひるんだなあ。女三十二なら、まだ遅かないさ。僕がもえ子さんより、一つでも年上なら、早速渡りをつけるんだが、五つも年下と来ちや、相手にされないや。
もえ子  およしなさいよ、馬鹿なこと云ふのは……。
野見  どうして……。そんなこと、冗談だけど、お世話なら、僕、しますよ。四十から六十までの間で、細君をなくした男、僕二三人識つてますからね。子供があつていやなら、子供のないのもある。
もえ子  そいぢや、こつちへは返事を出さないで、すぐ名村さんにお願ひするのね。
保根  さうさ。それがいゝだらう。
もえ子  だつて、そんなことして、却つて永びくやうだと、困りやしない。
保根  大丈夫だよ。どうせ、あんな金、何時までも当てにできやしないんだから……。なまじつか、少しでも月々はひると思ふから、つい、こつちも油断をしていけないんだ。裸にならうよ、裸に……。さうして、二人で、ふんばらうよ。
野見  さうだ。おれもふんばる。また、米がない時は、芋でもなんでもいゝ。三人分ない時は、二人分を三人で分けて食へば、なんでもないさ。おれは、いくらだつてふんばるよ。貧乏は惨めぢやない。貧乏を苦にするのが惨めなんだ。

表で「御免」といふ男の声。
保根ともえ子は顔を見合はせる。

保根  来たよ。
もえ子  どうする。
保根  さう云へばいゝぢやないか。
もえ子  なんて……?
保根  面倒臭いから、上げちまはう。

もえ子、玄関に出る。

野見  おれが追払つてやる。大将、おれには変に好意をもつてるんだよ。

もえ子の「どうぞ、お上り下さい、そこではなんでございますから……」といふ声。
やがて、もえ子に続いて、丸地が現はれる。

保根  さあ、どうぞ……。
野見  御無沙汰致してます。
丸地  いや、こちらこそ……。お隣に住んでゐて、来にくくなるやうぢや困りますよ。こつちぢや、なんとも思つてないんだが、そつちで変な気持がなさるだらうと思つて、つい遠慮してしまふもんだから……。
もえ子  (座蒲団をすすめ)お敷き下さい。
野見  僕の方だつて、なんとも思つてやしませんよ。毎日、新聞を拝見に行きたいと思つてるんですが、何時のぞいて見ても、読んでらつしやる時なもんだから……。
丸地  新聞でも見てなきや、日が暮せませんからな。これでも、小遣がちつと自由になる頃は、家でぶらぶらしてたことなんかないんですがね。
野見  大分発展されたつていふ話ですなあ。
丸地  大分といふこともないが……誰にお聞きです。
野見  此の界隈ぢや、みんな知つてますよ。毎年一軒づつ借家を売つて、それで新橋柳橋と飲み歩いた大家さんは、さう幾人もありませんからね。
丸地  全く幾人もない。それでもうあと売る家と云へば、この家が一軒きりです。
野見  当分売らないで下さいよ。売るなら、借家人ともといふことに願ひたいですなあ。
丸地  御尤も……。それについて御相談ですがね。当分売らないことにしますから、家賃だけ、少し、入れて下さいよ。六箇月までは黙つてようと思ひましたが、先月で八箇月溜りましたからな。
野見  それくらゐなんでもないぢやありませんか。
丸地  いや、さうは行かん。泣きごとを云ふやうだが、収入のあてと云へば、今、これだけです。少しばかりもつてゐた書画骨董を、ぼつぼつ手放して食つてゐるわけですが、佐々木文山が当節、二十円といふ相場ですからな。
野見  もつと気の利いたものがあるでせう。
丸地  それや、ないことはない。抱一の梅をもつてますがね。これが、足許を見られると、相手は、百とつけて来ませんよ。
野見  百円ですか。
丸地  百円と云へば、此の家賃四月分に足りません。
野見  そいつを売つて、もう四月我慢して下さい。
丸地  我慢はいくらでもする。保根さんは、わたしも信用してる方だ。しかし、物には際限といふものがありますよ。
野見  後に僕が控へてゐてもですか。
丸地  あなたが控へてゐるから、なほ、わたしは心配だ。事情はよく知りませんが、家内なんかの話によると、風呂銭まで保根さんがもつてるつていふぢやありませんか。
野見  保根君と僕とは無二の親友ですよ。お互に困つてる時は助け合ふことになつてる。保根君が困つた時には僕がどうかするし、僕が困つた時は、保根君が引受けるといふわけです。ところが、僕の方が先に困つた。それで、保根君のところへころがり込んだ。すると、保根君が、今度は、困り出した。しかし、僕もやつぱり困つてゐる。かうなれば、二人で、困りつくらをするより、しかたがないことになる。現にそれをやつてる。どつちか、先へ困らなくなつた方が損をするだけです。
丸地  なるほど、それも親友の一種ですかな。してみると、わたしなんか、まだ当分は親友の必要なしですよ。ところで、どうでせう、保根さん、さう黙つてないで、なんとか返事をして下さいな。無理なことは云はない。できるだけ都合して下さい。二月分でも、三月分でもよろしい。あとは急ぎません。
保根  なんとかします。そのうちに、きつとなんとかします。
丸地  それですよ。保根さん、さうおつしやられると、なんにも云へなくなるんですよ……。苦しいのはお互ですからなあ。よろしい、待ちませう。もう一と月待ちませう。なんとかして下さい。親友なみに、なんとかして下さい。家内には内証ですが、わたし、近頃、そこへ出来た、カフエー・ドン・フアンと云ふのにちよいちよい行くんでしてね。茶屋酒の代りにウヰスキイを一杯引つかけに行く。キング・オブ・キングスつてやつが、あれや五十銭ですか。あれをせめて、一週に一度は……(茶を運んで来たもえ子に)や、奥さん、どうかわるくお思ひにならないやうに……。決して催促に押しかけたわけぢやないんです。お隣同志に住んで、顔をそむけ合ふなんていふのは、全く、世の終りですからな。
もえ子  ほんたうにお恥しい話で……。
丸地  いや、いや、それがいかん。兎に角、此の家へ見えてから、最初の一と月だけは、きちんきちんと頂いたものです。その翌月は、丁寧に来月一緒にといふお断りがあつた。翌々月は、月末が過ぎてから、道でお遇ひした時、やはり、来月はきつとといふわけで、それもなんでもなかつた。その翌月からですよ。月末は勿論、月の半ばになつても、音沙汰がない。それから、とうとうお眼にかかる機会もなかつたわけですが、こつちは、なに、家賃そのものよりも、家を貸して恨まれたんぢや引合はんですからな。そんなわけで、今日は幸ひ天気もよし、一応御諒解を得かたがた伺つたやうな次第です。家内も、奥さんのことでは、蔭ながら、御同情申上げてゐます。どうぞ、ちと、お話しにいらつしつて下さい。
もえ子  ほんとに、さうおつしやつていただきますと、なほ面目ございませんわ。
丸地  そんなら、もうこんなことは云ひますまい。わたしはね、保根さんも好きだが、此の野見さんといふ方が、どうも好きでしてね。
野見  僕も小父さんが好きですよ。他人のやうな気がしないんだ。
丸地  いや、他人は他人で結構ですがね、だが、同じ好きでも、遊ぶのにいゝ友達だといふ気がする。一緒に苦労はしたくない。
野見  僕もさういふ気がしますよ。第一、そんな爺さんと苦労をして見たつて、はじまらない。

此の時、表で、「電報」といふ声。
もえ子が走つて出る。――「えゝ、さうです、うちです」といふもえ子の返事が聞える。
やがて、もえ子が、電報をもつて来て、それを野見に渡す。

野見  (受取りながら)僕に……なんだ、これや、電報為替だ。

一同の視線が野見の手に集る。

野見  (中を開き)誰だらう……。

長い沈黙。

野見  ああ、さうか。わかつた。僕、一寸、郵便局へ行つて来る。えゝと、今、三時だね。よしツ!

野見は、勢よく起ち上つて、机の抽斗から蟇口を取り出し、表に飛び出ようとする。

丸地  ぢや、わたしも失礼します(起ち上る)
保根  (機弾ばねのやうに起ち上り)野見、一寸待てツ!
野見  なんだ(かう云つて、次の間に立ち止る)
保根  あのね……(と云ひながら、野見のそばに近づき、何か小声で囁く)
野見  あゝ、わかつた。わかつた。さうするよ。無論、そのつもりさ。

話がすむと、野見は、表へ走り出る。

丸地  一寸、一寸、野見さん、わたしも郵便局に用がある。一緒にお伴しませう。(さう叫びつゝ、挨拶もそこそこ、表へ飛び出す)

保根ともえ子は、唖然として、突つ起つたまゝ、顔を見合はせてゐる。


第二場


保根の家の勝手口――右手にポンプ井戸――干し忘れた洗濯物――蓋のない埃溜――寒い月光。

もえ子は勝手口から寝巻の半身を出し、くみは外に立つて、襟をかき合せてゐる。しばらく無言。

くみ  以前なら、こんなことぐらゐぢや、驚きやしませんけれど、なにしろ、半年この方、夜遊びだけはぷつつりしなくなりましたし、まあ安心だと思つてたとこなもんですから……。
もえ子  野見さんだつてさうですわ。わたくしどもへいらつしつてから、たつた一度だつて、夜遅くなつたなんてことはないんですものね。
くみ  それや、どつちみち、お小遣ひが自由にならないからでせう。ところが、今日は、さういふわけなら、てつきり、二人で何処かへ行つたんだらうと思ひますよ。わたしや、こちらでそのお話を伺ふまでは、事によつたら、お家賃をいくらか都合していただいて、そのお金をもつたまゝ、ふらツと出掛けちまつたもんと思つてましたの。
もえ子  でも、まさか、そんなことはないと思ひますがね。野見さん一人なら、わかりませんけれど、お宅の旦那様がついていらつしつて、そんな、子供のお使ひみたいなこと、ないと思ひますわ。あ、さうさう、近頃、そこへ出来たカフエー・ドン・フアン、あそこへでもはひり込んでるんぢやないでせうか。なんでも、夜は、一時過ぎまで賑やかなやうですよ。
くみ  そこは、ぬかるもんですか。もう、さつき、ちやんと行つて見て来ましたよ。
もえ子  あそこぢやないとすると、やつぱり東京へでも出掛けたんでせうね。もう終電車までがありませんわ。
くみ  でもねえ、わたしも、永年一緒に連れ添つて見て、あの人の気質はよく呑み込んでるつもりですけど、まさか、人さまの懐を当てにして、方々遊んで歩くやうな人ぢやないと思ふんですがね。
もえ子  そりやもう、弟もしよつちゆう申してますわ。――あんなさつぱりした方はない、大家さんにや珍しいよつて、さう申してるんですよ。
くみ  恐れ入ります。でも、その為めに、これまでどんなに損をしたか知れないんですよ。大工には誤魔化される、家賃は踏み倒される、その上、借家人の方で、困つてらつしやる方があると、お米の払ひまで立替へてあげるつていふ始末ですからね。今ぢや、もう、そんな余裕もありませんけど、それでも、お家賃の取立なんか、馬鹿落著きに落著いてゝ、わたしがいつでも癇癪を起しちまふんですよ。
もえ子  ほんとにね。さういふ大家さんも、たまにはゐて下さらないと、困る人は困りますわ。
くみ  でも、昨今は、図々しい方が多うござんすからね。はひつちまつたら自分の家みたいな顔をして、家賃の催促に行くと変に威猛高になる人がありますからね。結局、貸してる方が負けですよ。だつて、さうでせう、向うは、出すお金を出さずにすむし、こつちは、はひるお金がはひらないだけの話ですからね。比較にはなりませんよ。
もえ子  そんなところに立つてらしつちや、お寒いでせう。
くみ  (それとなく家の中をのぞき込み)なにしろ、大家とか地主とかいふものは、なんにもしなくつても、人に恨まれるもんでしてね。それや、たまには、相手次第でいやなことも云はなきやなりませんけど、高利貸やなんかとは違ひますからね。(さう云ひながら、また、家の中をのぞき込む)
もえ子  弟ですか、もう、とつくにやすんでますわ。
くみ  (さりげなく)保根さんは、柔道なんか、なさいませんのですか。
もえ子  (無頓著に)えゝ、なんですか、学生の頃は講道館とかによく通つてゐましたわ。
くみ  柔道つていふのは、人の首を締めたりなんかするんですつてね。
もえ子  それに、急所を突いて殺す真似なんかもするらしうござんすわ。なんでも、おなかの辺に、さういふ急所があるんだつていひますわ。
くみ  物騒なことを教へるもんですね。うちの人なんかは、士族は士族ですけれど、丸でさういふ心得はありませんからね。男のくせに泥棒を怖わがるつたらないんですよ。毎晩、自分で一と通り戸締りを見て廻らないと、気が済まないんですがね。
もえ子  でも、この辺は、割合、さういふやうな話は聞きませんわね。
くみ  ですから、何時でも、あの人にさう云つてるんですよ。家賃の催促なんかに行つて、あんまり永居をしちやいけないつてね。第一、上へは上らない方がいゝんですよ。云ひ争つた末、相手がどんなことで乱暴をしないとも限りませんからね。これは高利貸ですけれど、金を貸した男から、棒で擲り殺されたつて話、お聞きになりませんでしたか。
もえ子  さあ……いゝえ。
くみ  よつぽど前のことですよ。

この時、野見が一人、しよんぼり帰つて来る。井戸端の陰に佇む。

くみ  (それを見つけ)あら、野見さんぢやありませんか。うちの人、御一緒ぢやなかつたんですか。
野見  御一緒でした。
くみ  それで……。
野見  もう帰つて寝てるでせう。
もえ子  (思はず全身を現はし)何処へ行つてらつしつたの、今頃まで……。随分心配したのよ。
野見  さうですか。遅くなつたことをですか。
もえ子  ……。
くみ  そいぢや、どうもおやかましうございました。(行きかけて、引返し)野見さん、うちの人と一緒に、何処へいらつしつたんです。
野見  奥さんには黙つててくれつて云はれてるんだがなあ。
くみ  やつぱり、さうだつたんですね。
野見  さうとは……?
くみ  もうわかりましたよ。(もえ子に)奥さん、ね、わたしの云つた通り……。(かう云ひながら、走り去る)
もえ子  どうしたの、早くおはいんなさいよ。
野見  保根、どうしてます?
もえ子  もう寝てますわ。さつきまでお待ちしてたんですけど……。
野見  なんか、云つてましたか。
もえ子  遅いのはかまはないけどつて、さう云つてましたわ。
野見  そんなこつたらうと思つた。
もえ子  ねえ、野見さん、早く上るなら上つて頂戴よ。あたし、こんなりで、それや寒いのよ。
野見  上つてもいゝけど、保根が怒ると、うるさいなあ。
もえ子  そんなに怒つてやしないわよ。
野見  もえ子さん、済まないけど、一寸、先生を此処へ呼んで下さいな。
もえ子  お話があるなら、こんなとこでしないだつていゝぢやないの、可笑しな人ね。
野見  それがさうはいかないんだよ。顔を見とかないと上れないわけがあるんですよ。
もえ子  さう、そんなら呼んで来るわ。(奥に去る)

やがて、保根が羽織を引つかけながら現はれる。

保根  なんだい、変な奴だなあ。なんの用だい。
野見  おい、勘弁してくれ。
保根  ……。
野見  あんなに云はれてながら、みんな使つちやつたよ。

保根は黙つて野見の顔を見つめてゐたが、いきなり、拳固で横面を擲り飛ばす。
野見は、はずみを喰つて井戸端までよろけて行き、やつと井戸側にからだを支へる。
保根は、裸足のまゝ、これに追ひつき、また続けさまに擲る。野見は、黙つて擲られてゐる。

保根  貴様には、おれたちの苦みが見えないか。馬鹿! 野良犬! 蛆虫うぢむし
野見  (痛むところを、いちいち抑へながら)百円のうち、八十円は持つて帰るつもりだつたんだ。
保根  金のたかなんぞ問題ぢやない。貴様の性根が問題だ。
野見  しかし、やつぱり、金を使つちまつたのが悪いんだらう。
保根  馬鹿! これだけ云つてもわからんか。(また、飛びかかる)

保根は、野見を投げ倒して、その上に馬乗りになり、喉を締める。
もえ子が出て来る。

もえ子  もういゝ加減に免しておあげよ、ねえ、べんちやん……。野見さんだつて、一人でなすつたことぢやないんだから……。
保根  (相変らず野見の頸を押へ)舌を引込めろ、舌を……。頸を締められて舌を出す奴があるか。畜生ツ! かうしたら、どうする。(片手で頸を締め、片手で頭を抱へて、前に曲げる)

もえ子は、この様子を見て、事面倒と思つたか、急いで隣りへ駈けつける。
やがて、もえ子の声で――「丸地さん、丸地さん、一寸いらしつて下さい。大変です。」といふのが聞える。
もえ子の後に続いて、丸地が、恐る恐る現はれる。

丸地  (遠くから)保根さん、そりやいかん、そりや乱暴だ。みんな、これや、わたしが悪い。野見君に罪はないんだ。この通りわたしがあやまる。保根さん、気を鎮めて……。

保根は、丸地の声を聞きつけて、手を緩める。この隙に乗じて、野見が、起き上らうとするのを、保根は、さうさせない。

丸地  事情をお話します。兎に角、野見君を放してやつて下さい。その恰好ぢや可哀相です。丸で小犬がぢやれてるやうだ。(そつと保根に近づき)さあ、さ、あんたもそんなに弱いものいぢめをしないで……。起つて下さい。野見君、き上る拍子に、保根さんの脚に絡みついたりなんかしちやいかんよ。

保根は、しかたなく、野見を放して起ち上る。野見は、その場に坐つてしまふ。

丸地  おい、まだ酔つてるのか。しつかりしろ、野見君……。
野見  くたびれた、おれは……。
丸地  なんだ、鼻血を出してるぢやないか。さ、これで拭け。(袂からハンケチを出して渡す)
もえ子  待つてらつしやい、今、脱脂綿をもつて来てあげるから……。(家の中にはひる)

何時の間にか、くみが来てゐる。

くみ  保根さん、ほんたうに申訳ございません。野見さんも野見さんですけれど、うちの人もうちの人です。この人こそ、どんな目に遭はされたつてかまやしません。
丸地  いや、お前はさういふが……ねえ、保根さん、わたしも、たしかに悪い。しかしこればかりは、時のはずみといふもので、遊んだもんでないとわからない。酔つてるから云ふんぢやないが、金といふものは、使ふとなくなる。当り前のことです。わたしはね、お話をするとかうだ。

もえ子が、綿をもつて出て来る。それを少しつつ丸めて野見に渡す。野見は、そいつを鼻の孔につめる。

丸地  さうさう。さうして置けば、ぢきに止る。「これだけあると、一寸飲めるね」――さう云ひ出したのは、なるほどわたしだ。「半分だけぢやつまりませんかね」――野見君がかう切り出したのが事の起りなんです。「よろしい、五十円、面白く遊ばせて見せる」――乗りつけたのは、嘘ぢやない、神楽坂かぐらざかです。
野見  おれが、あぶないから止せといふのに、先生、大尽かぜを吹かすんだ。
丸地  顔を知られてるから、しかたがない。
野見  おれや、あんまり面白くなかつたよ。
丸地  贅沢を云ひなさんな。
くみ  つまんない話はよして、みんな、もうやすまうぢやありませんか。こんなところで立ち話をしてちや風邪を引きますよ。
丸地  それから先は、たしかに、わたしの誤算だ。それもね……。
野見  おい、余計なことを喋舌ると、承知しないぞ。
丸地  さういふわけで、重々、わたしからお詫びを入れますから、保根さん、どうぞ、今夜のところは、大目に見て下さい。その代り、この埋め合せは、なにかで、きつとします。野見君、君も保根さんにあやまれ。
野見  おれは、さつき、あやまつた。これ以上あやまる必要はない。それより、保根の方でも、おれにあやまるべきだ。
保根  なにをツ!
丸地  まあ、まあ……。野見君、今、そんなことを云ひ出しちや、納りがつかない。
野見  ううん、あやまらなければ、帰つてやらないよ。誰が帰るもんか。おれのやつたことは、たとへ悪いにしても、三つぐらゐなぐれば沢山な筈だ。それを、幾つ擲つた。よく勘定はしてなかつたけど、覚えてるだけでも十以上だ。その上、頸を締めやがつた。頸を締めるといふのは、人間の呼吸いきの根を止めることだ。殺人未遂だ。おれは、あいつから、殺される覚えはない。これでも親友だ。畜生つ! 破落戸ごろつき! 暴力団! 鬼熊おにくま
保根  よしツ、云つたな。

丸地が制するひまもなく、再び、取組合が初まる。
が、忽ち、野見は、保根の腕力に屈服して、無抵抗の状態に陥る。
保根は、悠々と立ち上り、微笑さへ浮べながら、足下に横はつた野見の姿に、優勝者の一瞥を投げかける。

丸地  これや、どうもいかん、かうして置いちや……。奥さん、どうか弟さんを連れてつて下さい。わたしは、今夜だけ野見君をお預りします。こら、死んだ真似なんかしてないで、早く立て。

丸地は、かう云ひながら、そこに倒れたまゝ動かうとしない野見の襟頸を引つ張る。


第三場


丸地の家の茶の間――炬燵が作つてある。正午近い朝食のあと。
丸地は、膳に向つたまゝ楊枝を使つてゐる。
くみは、膳の上のものを片づけてゐる。野見は、赤、紫、黒、濃淡さまざまの痣を顔一面に残し、くはへ楊枝で、炬燵にあたり、仔細らしく新聞を読んでゐる。

野見  久し振りで新聞を読むと、世の中が丸で変つたやうだ。
丸地  君の支那語は、北で通用するのか、南で通用するのか。
野見  どつちでもしないね。第一、学校でやる支那語なんか、てんで眼中に置いてなかつた。
丸地  なにを眼中に置いてた、それぢや。
野見  はじめは、馬賊になるつもりで、満洲と蒙古の地理を研究したよ。
丸地  それから、しまひには……?
野見  しまひには、新聞記者になるつもりで、支那の社会事情、政治経済の方面に手をつけた。
丸地  保根つていふ人は、あれや、学校の成績はよかつたのかい。
野見  中学ぢや、おれの方が上だつた。それから先は知らない。あいつは勉強家だよ。
丸地  海外通信社つていふのをどうして首になつたんだらう。
野見  あんまり真面目で、融通が利かないからさ。毎日来る通信を、わからないところがあるたんびに、わざわざ学校で習つた教師のところへ訊きに行くつていふんだからね。事務がはかどる気遣ひはないよ。
丸地  惜しいもんだね。使ひやうによつちや使へる人だらうにな。
野見  それやさうさ。もうちつと英語でもできれば、中学の教師ぐらゐやれるし、あれで少しお愛想でも云へれば、商館の番頭にだつてなれるしね。なにをやらせても、どつか足りないつていふだけさ。
丸地  お前さんはどうだい。
野見  おれは、その反対さ。なにをやつても、少しづゝ、余計なところがある。
丸地  それも困つたもんだね。
野見  小父さん、碁は打てるのかい。
丸地  碁なら、一寸、この辺に相手になる奴はなからう。
野見  へえ、ほんとか、それや……。そいつあ、うまい。毎日かうしてても、お互、退屈だからね。

くみ、手を拭きながら台所から出て来る。

くみ  (丸地に)ねえ、ちよつと……野見さん、かうしてらしつてもなんだから、早く、あんたが附いてつて、保根さんと仲直りをさせてあげたらいゝぢやありませんか。
野見  いや、僕は、仲直りはしませんよ。こつちがすると云つたつて、向うぢや聴き入れつこありませんよ。
くみ  そんなこと云つてて、あんた……。
野見  いゝえ、いゝから、ほうつといて下さい。僕にも考へがあるんだから……。
丸地  まあ、さう急がないだつていゝやな。
くみ  こんなことつていふものは、時機を取り逃すと、まづくなるもんですからね。昨夜の今朝なら、一番、切り出し易うござんすよ。
野見  僕も、昨夜は、酔つたまぎれに、いろんなことを云ひましたが、なんと云つても、わるいのはこつちなんだから、向うから赦すと云つて来るまで、おとなしく辛抱してませう。
くみ  でも、そんなこと云つてらつしやると、だんだん帰りにくくなるばかりですよ。
野見  なに、かうして隣にゐるんだから、しよつちゆう顔を突き合はせなきやならず、自然、どつちからも近づいて行くつてことになりますよ。それに、僕は、どつちにゐたつて、おんなじなんだから、かまやしませんよ。どうせ不自由には馴れてゐるし、別にかまつて下さらなくつたつていゝですよ……。
くみ  それや、無論、おかまひはできませんけどね。うちもこの通り狭いんだし……。
野見  向うよりや広いでせう、これでも……。
丸地  さう、離れの四畳半だけ広いわけだな。
野見  そいつを僕の部屋にすれや、なんでもない。荷物は行李一つです。四畳半で沢山ですとも……。
くみ  でも、あの部屋には道具がいつぱい置いてあるから……。
野見  なに、寝るだけの場所があれば、昼間は、此処にゐたつていゝんだし、客なんか滅多にないんですから、御心配いりませんよ。僕、煮た魚は、あんまり好きませんから、それだけ云つときます、それと、ぜんまいひじき、あゝいふものは一切、食ひません。保根のとこぢや、二人とも、あればかり食つてますよ。
くみ  野見さん、あんたを家へお置きするつてことは、だあれも云やしませんよ。
野見  だつても、現にもう置いてるぢやありませんか。
くみ  (丸地に)あんた、さういふつもりぢやないんでせう。
丸地  うむ……? まあ、そんなことは、今、きめないだつていゝさ。とにかく、保根さんの方と諒解さへつけば、どうにでもなる。
くみ  わたしや、昨夜だけ、お泊めしたんですからね。あゝいふことがあつた後だからと思つて、いやな顔もしずにゐたんですよ。あんたもあんたぢやありませんか。ちつとはうちの事情も考へて御覧なさい。
丸地  だから、なにも、さうときめてやしないぢやないか。保根さんの方との……。
くみ  保根さん保根さんつて、この方は、保根さんのところばかりが、いらつしやるところぢやないでせう。
野見  僕のことですか。僕は、どこへだつて行きますよ、行くところさへ出来れば……。その代り、行くところのない間は、今ゐるところにゐるといふのが、僕の方針です。
くみ  方針だかなんだか知りませんが、さういふ方針は、一つ、変へて頂きませうかね。わたしたちは、人様をお世話するだけの余裕はないんですから……。
野見  そいつは、僕にもない。
丸地  おくみ、さうまあ、がみがみいふなよ。お前の知つたことぢやないといふかも知れんが、昨夜は、大変、御馳走になつてるんだ。それに、わしとしても、今、更めて保根さんに合はす顔はない。家賃のこともあるにはあるが、それとこれとは一緒にならん。たとへ、家賃をいくらか負けてあげると云つても、わしのやつたことを償ふわけにやいかん。そこを一つ、考へてくれ。当分、野見君の面倒を見るのは、こいつ、保根さんに対するわしの義理だ。そこでだ、今度は野見君、家内の云ふことも無理はないのだ。昨日もお聞きの通り、わしたちの手許てもとは、目下不如意を通り越してゐる。君も一つ奮発して、早く仕事を見つけて下さい。食費だけ払つてくれれば、君ならいくらでもお世話をする。君は、実際、快男児だ。その意気を押し通し給へ。必ずものになる。
野見  小母さん、僕で出来ることなら、なんでも用を云ひつけて下さい。お勝手と、針仕事と、家の掃除と、あゝ、それと、八百屋のお使ひとを除いたら、大概のことはやりますよ。小父さんのやるくらゐのことはやりますよ。こんな人はゐなくつたつていゝんだ。あ、表が開いたやうですよ。僕、出て見ませうか。(かう云ひながら、玄関に出る)

間。

丸地  どうだい、可愛い男だらう。
くみ  これから先きどうなるか、あたしや、知りませんよ。
丸地  さう捨鉢になるなよ。何が誰のためだかわかるもんぢやない。

やがて、野見が先きに立ち、若い女を案内して現はれる。
丸地とくみとは驚いて顔を見合はす。

野見  (いくらか照れて)この人、今、僕を尋ねて、保根の家へ行つたんですつて……。さうして、此処を教へられて来たんですよ。(女が坐つてお辞儀をする、それを見て)あ、これ美奈子さん又は美奈ちやんと云つて……、君、姓は何と云ふんだつけな、まあいゝや……僕の友達です。そんなにしてないでもいゝよ。こつちへはひり給へ。炬燵こたつがあるぜ。寒いのに、よく来たね。さ、手を出さない?

丸地とくみは、あつけにとられながら、それでも、座を外さうとする。

野見  小父さんと小母さんは、座敷が寒けれや、僕の部屋へ行つてるといゝや。
美奈子  (二人が去つた後)どうして、あんなに、人をぢろぢろ見てんの。
野見  僕んとこへ、女のひとなんか訪ねて来たのは初めてだからさ。
美奈子  あら、あんな嘘云つて……。
野見  向うの家でなんか云つたかい。
美奈子  あれ、お神さんか知ら……はじめ、どういふ用で来たかなんて訊くのよ。あたし、あゝいふ風に訊かれんの、嫌ひさ。
野見  そいで、なんて云つた。
美奈子  黙つてたら、此処教へたのよ。昨夜から、こつちへ引越したんですつて……?
野見  僕の顔、変つてやしないかい。
美奈子  えゝ、さつきからさう思つてたけど、わるいから云はなかつた。どうしてそんなんなつたの。
野見  喧嘩したんだ。
美奈子  擲られたのね。
野見  擲らしてやつたのさ。
美奈子  あら、随分慈善家ね。どういふ人に……。
野見  親友にだよ。その男は、今頃、後悔してるさ。だが、その時は、さうするより外解決の方法がなかつたんだ。当分、お互に顔をそむけ合ふだらうが、どこかで、気持が通じ合つてるに違ひない。どつちも、相手のために、なにかしらしてやつたといふひそかな悦びを感じてゐる。つまり、そこが親友の親友たるところさ。
美奈子  なんて、擲られりや、やつぱり痛いでせう。馬鹿馬鹿しいわ。時に、あんたに、少し、御相談があつて来たのよ。
野見  金か。
美奈子  あたつた。どう、少し都合つかない。
野見  昨日だとよかつたんだがなあ。百円ばかり余分な金があつたんだ。
美奈子  それが今日はどうしてないの。
野見  野暮なことを訊くなよ、美奈ちやんらしくもない。いくらいるんだい。
美奈子  ううん、いくらでもいゝの。友達に貸してやるんだから……。
野見  君の友達に貸してやる金なんか、おれは用意してないよ。
美奈子  だつて、なくちや困るのよ。是非つて云はれたんだから……。二十円でも三十円でもいゝわ。
野見  ない。今日はない。
美奈子  あんたなら大丈夫だと思つて来たんだわ。
野見  昔のことだ。今は違ふ。
美奈子  そいぢや、もうひとつ、こつちはあんたの悦ぶ話なんだけど、云つてあげないわよ。
野見  そつちを先きへ云へばよかつた。あとからなら聞きたくない。聞いても無駄だ。
美奈子  怒つたの。
野見  ……。
美奈子  怒つたつて、怖くないから……。よう、貸して頂戴よ。貸さないと動かないから……。
野見  動くな。
美奈子  ずつと此処にゐてもいゝ?
野見  いゝ。
美奈子  あんたの部屋、何処……?
野見  あとで、見せてやる。
美奈子  ほんとね、ぢや、荷物持つて来てもいゝ? すぐそこだから……。
野見  どこだ?
美奈子  そこの煙草屋へ預けて来たの。
野見  前の家はやめたのか。
美奈子  あたしぢや、ハイカラすぎるつていふんだわ。
野見  早く行つて来い。
美奈子  ついでに郵便局へ寄つて来るわよ。
野見  なにしに……。
美奈子  電報打ちに……。
野見  何処へ……。
美奈子  国へ帰る筈だつたの。
野見  よし、煙草も買つて来い。
美奈子  バツトね。
野見  バツトだ。

美奈子は、いそいそと出て行く。
隣から、もえ子の歌ふらしい歌が聞えて来る。「埴生の宿」である。
野見は縁側に出て、しばらく、耳を傾けてゐる。がやがて、自分もそれに合せて、「長閑かなりや、わが宿」と、やや調子外れな声で歌ひ出す。

――幕――





底本:「岸田國士全集4」岩波書店
   1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院
   1931(昭和6)年2月10日発行
初出:「改造 第十一巻第一号」
   1929(昭和4)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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