にんじん

POIL DE CAROTTE

ルナアル Jules Renard

岸田国士訳




目次の挿絵
[#改ページ]


鶏の挿絵

 ルピック夫人はいう――
「ははあ……オノリイヌは、きっとまた鶏小舎とりごやの戸をめるのを忘れたね」
 そのとおりだ。窓から見ればちゃんとわかるのである。向こうの、広い中庭のずっと奥のほうに、鶏小舎の小さな屋根が、暗闇の中に、戸のいているところだけ、黒く、四角く、くぎっている。
「フェリックスや、お前ちょっと行って、閉めて来るかい」
と、ルピック夫人は、三人の子供のうち、一番上の男の子にいう。
「僕あ、鶏の世話をしにここにいるんじゃないよ」
 蒼白あおじろい顔をした無精ぶしょうで、臆病おくびょうなフェリックスがいう。
「じゃ、お前は、エルネスチイヌ?」
「あら、かあさん、あたし、こわいわ」
 兄貴のフェリックスも、姉のエルネスチイヌも、ろくろく顔さえ上げないで返事をする。二人ともテーブルにひじをついて、ほとんどひたいと額とをくっつけるようにしながら、夢中で本を読んでいる。
「そうそう、なんてあたしゃ馬鹿なんだろう」と、ルピック夫人はいう――「すっかり忘れていた。にんじん、お前いって鶏小舎を閉めておいで」
 彼女は、こういう愛称で末っ子を呼んでいた。というのは、髪の毛が赤く、顔じゅうに雀斑そばかすがあるからである。テーブルの下で、何もせずに遊んでいたにんじんは、突っ立ちあがる。そして、おどおどしながら、
「だって、母さん、僕だってこわいよ」
「なに?」と、ルピック夫人は答える――「大きななりをして……。嘘だろう。さ、早く行くんですよ」
「わかってるわ。そりゃ、強いったらないのよ。まるで牡羊おひつじみたい……」
 姉のエルネスチイヌがいう。
「こわいものなしさ、こいつは……。こわい人だってないんだ」
と、これは兄貴のフェリックスである。
 おだてられて、にんじんはり返った。そういわれて、できなければ恥だ。彼はひるむ心と闘う。最後に、元気をつけるために、母親は、痛いめにわすといい出した。そこで、とうとう――
「そんなら、あかりを見せてよ」
 ルピック夫人は、知らないよという恰好かっこうをする。フェリックスは、鼻で笑っている。エルネスチイヌが、それでも、可哀かわいそうになって、蝋燭ろうそくをとりあげる。そしてにんじんを廊下ろうかのとっぱなまで送って行く。
「ここで待っててあげるわ」
 が、彼女は、づいて、すぐ逃げ出す。風が、ぱっと来て、蝋燭の火をゆすぶり、消してしまったからである。にんじんは、しりっぺたに力をめ、かかとを地べたにめり込ませて、闇の中で、ぶるぶるふるえ出す。暗いことといったら、それこそ、めくらになったとしか思えない。おりおり、北風が、冷たい敷布しきふのようにからだを包んで、どこかへ持って行こうとする。狐か、それともあるいは狼が、指の間やほっぺたに息をふきかけるようなことはないか。いっそ、頭を前へ突き出し、鶏小舎めがけて、いいかげんにけ出したほうがましだ。そこには、隠れるところがあるからだ。手探てさぐりで、戸のかぎをつかむ。と、その跫音あしおとおどろいたとりどもは、宿木とまりぎの上で、きゃあきゃあ騒ぐ。にんじんは怒鳴どなる――
「やかましいな。おれだよ」
 戸を閉めて走り出す――手にも、足にも、羽根がえたように。やがて、暖かな、明るいところへ帰って来ると、息をはずませ、内心得意だ。雨と泥で重くなった着物を、新しい軽いやつと着替きかえたようだ。そこで、になり、突っ立ったまま、昂然こうぜんと笑って見せる。みんながめてくれるのを待っている。危険はもう過ぎた。両親の顔色のどこかに、心配をしたあとが見えはせぬかと、それをさがしている。
 ところが、兄貴のフェリックスも、姉のエルネスチイヌも、平気で本を読みつづけている。ルピック夫人は落ちつきはらった声で、彼にいう――
「にんじん、これから、毎晩、お前が閉めに行きなさい」
[#改ページ]

鷓鴣しゃこ


鷓鴣の挿絵

 いつものように、ルピック氏は、テーブルの上で、りょう獲物えものを始末し、腸を抜くのである。獲物は、二羽の鷓鴣しゃこだ。兄貴のフェリックスは、壁にぶらさげてある石板せきばんに、そいつを書きつける。それが彼の役目である。子供たちは、めいめい仕事を割当てられている。姉のエルネスチイヌは、毛をむしり、羽根を抜くのである。ところで、にんじんは怪我けがをしたまま生きているやつの、最後の息の根をとめるのである。この特権は、冷たい心の持主であるというところからきている。彼の残忍性は、みんなの認めるところとなっているからである。
 二羽の鷓鴣は、じたばたする。首を振る。

ルピック夫人――どうして、さっさと殺さないんだい。
にんじん――かあさん、僕、石板に書くほうがいいなあ。
ルピック夫人――石板は、お前には、がとどかないよ。
にんじん――そいじゃ、羽根をむしるほうがいいや。
ルピック夫人――そんなことは、男のすることじゃない。

 にんじんは、二羽の鷓鴣をとりあげる。そばから、親切にやり方を教えるものがある。
「ぎゅっとめるんだよ、そうさ、頭んところを、羽根をさかさまに持って……」
 両手に、一羽ずつ、それをうしろへかくして、彼はやり出す。

ルピック氏――二羽一度にか。無茶しよる。
にんじん――早くやっちゃいたいからさ。
ルピック夫人――神経家ぶるのはよしとくれ。心ん中じゃ、うれしくってたまらないくせに……。

 鷓鴣は痙攣けいれんしたように、もがく。つばさをばたばたさせる。羽根を飛ばす。金輪際こんりんざいくたばりそうにもない。彼は、友達の一人ぐらい、もっと楽に、それこそ片手で締め殺せるだろうに。――今度は両膝りょうひざの間にはさんで、しっかり押え、赤くなったり、白くなったり、汗までかいて、なおも締めつづける。顔は、なんにも見ないように上を向いているのである。
 鷓鴣は、頑強だ。
 どうしてもだめなので、癇癪かんしゃくをおこし、二羽とも、あしをもったまま、靴の先で、頭を踏みつける。
「やあ、冷血! 冷血!」
 兄貴のフェリックスと、姉のエルネスチイヌが叫んだ。
「なに、あれで、うまくやったつもりなのさ」と、ルピック夫人はいう――「可哀かわいそうに……。あたしがこんなめにあうんだったら、まっぴらだ。ああこわい、怖い」
 ルピック氏は、年功を猟人かりうどだが、さすがに、胸を悪くして、どっかへ出て行く。
「これでいいだろう」
 にんじんは、死んだ鷓鴣をテーブルの上に投げ出す。
 ルピック夫人は、それを、こっちへ引っくり返し、あっちへ引っくり返しして見る。小さな頭蓋骨ずがいこつが、くだけて、血と少しばかりの脳味噌が流れ出している。
「あんとき、取り上げちまえばよかったのさ。これじゃ、目もあてられやしない……」
 ルピック夫人はいう。
 すると、兄貴のフェリックスが――
「たしかに、いつもよりゃ、まずいや」
[#改ページ]


犬の挿絵

 ルピック氏と姉のエルネスチイヌは、ランプの下で、ひじをついて、一人は新聞を一人は賞与の本を読んでいる。ルピック夫人は編物あみものをし、兄貴のフェリックスは暖炉だんろ両脚りょうあしをあぶっている。それから、にんじんは、床の上に坐って、何か考え事をしている。
 だしぬけに、靴拭くつぬぐいの下で眠っていたピラムが、ごろごろのどを鳴らしだす。
「しいっ!」と、ルピック氏がいった。
 ピラムは、一段と声を張り上げる。
「馬鹿」と、ルピック夫人はいう。
 が、ピラムは、それこそ、みんなが飛びあがるほど猛烈な声でえる。ルピック夫人は心臓へ手をあてる。ルピック氏は、歯をいしばって、横目で犬をにらむ。兄貴のフェリックスは怒鳴どなりつける。もう、お互いのいうことすら耳にはいらない。
「黙らないかい、しょうがない犬だね。お黙りったら、畜生!」
 ピラムはますます調子を上げる。ルピック夫人は手のひらでぶつ。ルピック氏は新聞でなぐる。それから、足でる。ピラムは、なぐられるのがこわさに、腹を床にすりつけ、鼻を下に向け、やたらに吠える。見ていると、まるで気が狂って、自分の口を靴拭いにぶつけ、声を微塵みじんたたき割っているとしか思えない。
 ルピック一家はかんかんに怒る。みんな総立ちになり、いっぽう腹ばいになったまま、頑としていうことをきかない犬にごうやす。
 窓ガラスがきしむ。暖炉だんろ煙突えんとつが音をたてる。姉のエルネスチイヌまでが金切声かなきりごえをしぼる。
 にんじんは、いいつけられもしないのに、外の様子を見に行った。たぶん退けのおそい駅員がおもてを通るのだろう。それも、ゆっくり自分の家に帰って行く途中に違いない。まさか泥坊どろぼうをしに庭の塀をじ登っているのではあるまい。
 にんじんは、暗い、長い廊下を、両手を戸のほうにつき出して、歩いて行く。かんぬきを探り、がたがた音を立てて、引っぱってみる。しかし、戸はけようとしない。
 昔なら、危険をおかしてでも外に出て、口笛を吹いたり、歌をうたったり、足を踏みならしたりして、さかんに相手をおどかそうとしたものだ。
 近頃は、要領がいい。
 両親は、彼が勇敢にすみから隅を探り、忠実な番人として、屋敷のまわりを見廻っているものと思っている。ところが、それは大間違いである。彼は戸のうしろに身を寄せて、じっとしているのである。
 いつかは思い知ることがあるだろう。しかし、もうよほど前から彼の計略がにあたっている。
 心配なのは、くさめせきをすることだ。彼は息をころす。そして、目をあげると、戸の上の小さな窓から、星が三つ四つ見える。え渡ったきらめきに、彼はすくみあがる。
 さて、戻ってもいい時間だ。お芝居に暇をかけ過ぎてはよくない。怪しいと思われたらそれまでだ。
 再び、かぼそい手で、重いかんぬきをゆすぶる。閂はびついたかすがいの中できしむ。それから、そいつを溝の奥まで騒々そうぞうしく押し込む。この物音で、みなの者は、彼が遠いところから帰って来たのだな、もうつとめをすませたのだなと思う! 背中の真中まんなかくすぐったいような気持で、彼は、みんなを安心させにとんで行く。
 ところで、やっとこさ、ピラムは、彼の留守の間に黙ってしまったので、安心したルピック一家は、また、めいめい、きまりの場所に着いていた。で、誰もたずねもしないのに、にんじんは、ともかく、いつものとおりにいう――
「犬が寝とぼけたんだよ」
[#改ページ]

悪夢


悪夢の挿絵

 にんじんは泊り客がきらいである。部屋を追い出され、寝台を占領され、そして、母親と一緒に寝なければならないからである。ところで、もし彼が、昼間あらゆる欠点を備えているとすれば、夜は夜で、とりわけ、いびきをかくという欠点をもっている。わざと鼾をかくんだとしか思えない。
 八月でさええびえする広い部屋に、寝台が二つ置いてある。一つはルピック氏ので、もう一つのほうへは、にんじんが母親とならんで、壁に近い奥のほうに寝ることになるのである。
 眠る前に、彼は掛布団かけぶとんをかぶって、こんこんせきをする。のどを掃除するためである。しかし、鼾をかくのは、ことによると、鼻かもしれない。そこで、鼻のあながつまっていないかどうか、そっと鼻から息を出してみる。それから、あんまり大きく呼吸いきをしない練習をする。
 それにもかかわらず、彼は、眠ったかと思うと、もう鼾をかいている。こればかりはどうしてもめられないとみえる。
 すると、ルピック夫人は、彼のしりっぺたの一番肉附にくづきのよさそうなところを、爪で、血の出るほどつねる。彼女は、この方法に限ると思っている。
 にんじんの悲鳴で、ルピック氏はにわかに眼をます。そして、こうたずねる――
やつ、どうしたんだ?」
「夢でうなされているんですよ」
と、ルピック夫人は答える。
 それから、彼女は、乳母うばがやるように、子守歌のひと節を口の中でうたう。これはインドの節らしい。
 にんじんは壁に額とすねとを押しつける。壁を突き破らんばかりに押しつける。両手で尻っぺたを隠す。鳴動が始まると同時に襲来する爪の鋒先ほこさきを防ぐためである。こうして、彼は、大きな寝台の中で、再び眠りにくのである――母親と並んで奥のほうに寝る、その大きな寝台の中で。
[#改ページ]

尾籠びろうながら


尾籠ながらの挿絵

 こんな話をしてもいいだろうか。しなければならないだろうか。ほかの者が、心もからだも真白になって、洗礼を受けようという年に、にんじんはまだきたないところがあった。ある晩は、いい出せずに我慢がまんをしすぎたのである。
 からだをだんだん大きくひねって、苦しい要求を抑えようと思った。
 ちっとずうずうしい量見だ!
 また、ある晩は、ちゃんと、適当のへだたりを置いて、へいかどに陣取っている夢を見た。その結果、なんにも知らずに、眠ったまま、敷布しきふの中へしてしまったのである。彼は眼をさました。
 自分のそばには、あるはずの塀がないので驚いた。
 ルピック夫人は、怒るところを怒らない。おだやかに、寛大に、母親らしく、始末をしてやる。そればかりか、翌朝は、甘ったれた小僧のように、にんじんは、寝床ねどこを離れる前に食事をする。
 さよう、寝床へスープを持って来てくれるのである。それは、なかなか手のかかったスープで、ルピック夫人が、木のへらでもって、少しばかり例のものをかし込んだのである。なに、ほんの少しである。
 枕もとには、兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌが、陰険な顔つきをしてにんじんを見張っている。今にも、合図さえあれば、大きな声を立てて笑う用意をしているのである。ルピック夫人は、さじで少しずつ、息子むすこの口へ入れてやる。彼女は、横目で、兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌに、こういっているらしい――
「さ、いいかい! 用意はできたね!」
「ああ、いいよ!」
 今からもう、二人は、そら、しかめっつらだと、面白おもしろがっている。近所の人たちを招待できるものなら招待するところだったに違いない。さて、ルピック夫人は、最後の眼くばせで、上の子供たちに問いかける――
「さ、いいね!」
 ゆっくり、ゆっくり、最後のひとさじをあげる。それを、にんじんが大きくけた口の中へ、のどの奥まで突っ込む。流し込む。押し込む。そして、あざけるように、顔をそむけながら、こういう――
「ああ、きたない。食べた、食べた。自分のだよ、おまけに……。昨夜のだよ」
「そうだろうと思った」
 こう、なんでもなく、にんじんは答える。みんなが当てにしていたような顔つきはしない。
 彼は、そういうことにれている。あることに慣れると、そのことはもうおかしくもなんともない。
[#改ページ]


壺の挿絵


 もう何度も、寝床ねどこのことで不幸な出来事が起こったので、にんじんは、毎晩、警戒をおこたらないようにしている。夏は、楽なもんだ。九時に、ルピック夫人が寝ておいでというと、にんじんは、自分から進んで、そとをひとまわりして来る。それで、ひと晩中ばんじゅう、安心である。
 冬は、この散歩が、なかなか苦になる。日が暮れて、鶏小舎とりごやめると、彼は、第一の用心をしておくのであるが、それも無駄むだで、明日の朝までは、とても持ちそうにない。晩飯ばんめしを食い、ぐずぐずしていると、九時が鳴る。もうとっくに夜である。そして、その夜は、いつまでも続くのである。にんじんは、第二の用心をしておかなければならない。
 で、その晩も、毎晩のように、自分で自分にたずねてみる――
「したいか、したくないか?」
 平生へいぜいは、「したい」と答える。もっともそれは、いよいよ我慢がまんができないか、さもなければ、月が出ていて、その光で元気をつけられるような時である。時としては、ルピック氏や兄貴のフェリックスがお手本を示してくれる。それに、要求の程度からいって、いつもそんなに遠くへ行くには及ばない。ほんとうなら、通りのどぶまで行くのである。それは、ほとんど野原の真中まんなかといっていい。たいていは、階段の下までりるだけである。その時々で違う。
 ところが、その晩は、雨が窓ガラスをたたき、風が星を消してしまい、胡桃くるみの木が牧場の中で暴れている。
「こういうこともあるんだ」――落ち着いて思案をしたあげく、にんじんは結論を与える――「したくない!」
 彼はみんなに「お休みなさい」といい、蝋燭ろうそくに火をつけ、それから、廊下の突き当りで右側の、がらんとして、人っのない自分の部屋にはいる。着物をぐ。横になる。ルピック夫人の入来を待つ。彼女は、掛布団かけぶとんふちをぎゅっとひと息に押し込んでくれる。それから蝋燭の火を消す。その蝋燭は置いて行くが、マッチなるものは残して行かない。戸を閉めて鍵をかける。彼が臆病だからである。にんじんは、その時まず、一人でいることの快楽を味わうのだ。彼は暗闇の中でいろんなことを考えるのが好きである。一日中のことを思い出してみる。幾度いくどとなく、あぶないところを助かってよかった。明日もやっぱり運がいいように。彼は、二日続けて、母親が自分のほうに注意を向けてくれなければいいがと思う。そういう空想をしながら、彼は眠りにこうとする。
 と、眼をつぶるかつぶらないうちに、彼はまた例の張りつめて来るような気持を感じ出す。
 ――やっぱり仕方がない。
 心の中で、にんじんはつぶやく。
 だれでも、普通なら起きるところだ。しかし、にんじんは、寝台の下に、小便壺が置いてないことを知っている。ルピック夫人が、どんなに、そんなはずはないと頑張がんばっても、彼女は、いつも、それを持って来て置くのを忘れるのである。それに第一、壺があったって、なんの役にも立たないわけである。どうせ、にんじんは寝る前に用心をするんだから。
 で、にんじんは、起きるかわりに、理窟りくつをこねる。
 ――おそかれ早かれ、降参しなければなるまい。ところが、我慢をすればするほど、たまるわけだ。今すぐやっちまえば、ぽっちりしか出ないんだ。すると、敷布しきふれても、からだのぬくもりで、かわくのに手間はかからない。これまでの経験で、そうすりゃきっと、かあさんに見つからずにすむだろう。
 にんじんは、ほっとする。ゆうゆうと眼をじる。そして、ぐっすり眠り込んでしまうのである。


 にわかに、彼は眼をます。そして、下腹の加減かげんはどうかと耳を澄ましてみる。
 ――やあ、こいつあ、あやしいぞ!
 さっきは、大丈夫だいじょうぶだと思った。話がうますぎた。昨晩、横着おうちゃくをしたのがわるかったのだ。天罰覿面てんばつてきめんである。
 彼は寝床の上に坐り、思案してみる。戸には鍵がかかっている。窓には鉄格子てつごうしがはまっている。外に出るわけにいかない。
 それでも、彼は起き上がって、戸と、窓の鉄格子にさわってみる。それから床の上に腹這はらばいになり、両手を寝台の下につっこんでかじのように動かす。ないことがわかっている壺をさがしてみるのである。
 彼は寝床にはいる。そして、また起きる。眠るよりも、からだをゆすぶるか、歩き廻るか、地団太じだんだを踏むほうがいい。両方の握りこぶしで、つっぱってくる腹を抑える。
「母さん! 母さん!」
 聞こえては困ると思うので、力の抜けたような声を出す。なぜなら、もし、ルピック夫人がここへ姿を現わそうものなら、にんじんは、けろりとなおってしまい、まるで彼女を馬鹿にしてるとしか思えないからである。明日になって、呼んだということがうそをつくことにならなければ、それでいいのである。
 それに、声を立てるといっても、声の立てようがないではないか。全身の力は、ことごとく、わざわいを延ばすために使い果している。
 やがて、極度の苦痛が襲ってきて、にんじんは、踊りはじめる。壁にぶつかって行く。それから、ね上がる。寝台の鉄具かなぐにぶつかる。椅子いすにぶつかる。暖炉だんろにぶつかる。そこで彼は、勢いよく焚口たきぐちの仕切り戸をける。そして、からだを捻じ曲げ、かぶとを脱いで、絶対の幸福にひたりながら、暖炉の薪台たきぎだいの上へ、全身を、根こそぎ、叩きつける。
 部屋の暗さが度を増してくる。


 にんじんは、やっと朝がた、眠りにいた。そして、寝坊をしている。ルピック夫人は戸を開けると、さも、どっちを向いていても鼻はくというように、顔をしかめながらいう――
「なんて変な臭いだい」
「母さん、おはよう」
と、にんじんはいう。
 ルピック夫人は、敷布を引きずり出す。部屋の隅々すみずみいで廻る。見つけるのに造作ぞうさはない。
「僕、病気だったの。それに壺がないんだもの」
 にんじんは、いそいでこういう。それが一番都合つごうのいい弁解だと思ったからである。
「嘘つき! 嘘つき!」
 ルピック夫人はこういいながらどこかへ出て行く。やがて壺をかくして持ってくる。それを、手早く寝台の下に押し込む。立っているにんじんを突き倒す。家じゅうのものを呼ぶ。それから大声でいう――
「こんな子供をもつなんて、いったい、何の因果いんがだろう……」
 それから、今度は、雑巾ぞうきんとバケツとを持ってくる。火でも消すように暖炉へ水をかける。寝具をふるう。そして、忙しそうに、訴えるように――
「息がつまる、息がつまる」
というのである。
 それから、また、にんじんの鼻先で、しぐさたっぷりの文句を並べる――
なさけない子だね! まるで無神経だ。いよいよ当り前じゃなくなってきた! これじゃ、畜生ちくしょうとおんなじだ! 畜生だって、壺をやっとけば、その使い方ぐらいわかる。それにお前どうさ。するにも事をかいて、暖炉の中なんぞへ、だらしがない……。あたしゃ、もう、お前のおかげで頭が変になるよ。それこそ、気が狂って死んじまうから、気が狂って……」
 にんじんは、シャツ一枚で、素足のまま、壺を見つめている。夜中には、この壺はなかった。それに、今になって、そこの、寝台のあしもとに壺がある。このからっぽの、白い壺を見ていると、彼は眼がくらむ。それでもまだ、そんなものはなかったなんていい張ると、今度はずうずうしい奴だということになるのである。
 うちのものが、やれやれという顔をしている。口の悪い近所の奴らが列を作っている。郵便屋まで来ている。そういう連中が、うるさくいろんなことを問いかけるので、とうとう――
「嘘だったら首をやる」――こう、壺の上に眼をそそぎながら、にんじんは答える――
「僕あ、もう知らないよ。勝手にしろい」
[#改ページ]


兎の挿絵

「メロンはもうないよ、お前の分は……」と、ルピック夫人はいう――「それに、お前はあたしとおんなじで、メロンはきらいだね」
「そうだったかも知れない」
と、にんじんは考えるのである。
 好き嫌いは、こうやって、人が勝手に決めてくれる。大体において、母親が好きなものだけを好きとしておかなければならない。チーズが来る。
「こりゃ、にんじんは食べないにきまってる」
と、こうルピック夫人がいうので、にんじんは――
かあさんが、きまってるというんだから、食べてみなくたっていい」と思うのである。
 第一、うっかり食べると、あとが恐ろしいことを知っている。
 それに、もうじき、誰も知らない場所で、この上もなく奇妙な欲望を満たす暇があるではないか。デザートになると、ルピック夫人が彼にいうのである――
「このメロンの皮を兎に持ってっておやり」
 にんじんは、皿をひっくり返さないように、できるだけ水平に持って、小股こまたで使いに出かける。
 小舎こやにはいって行くと、兎どもは、腕白小僧式わんぱくこぞうしきに、耳の帽子を深くかぶり、鼻を仰向あおむけ、太鼓でもたたくように前足を突き出し、がさがさ彼のまわりにたかって来る。
「こら、待て、待て」と、にんじんはいう――「ちょっと待ってくれ、半分ずつにしよう」
 そこでまず、ふんだとか、根だけ食い残したのぼろぎくだとか、玉菜たまなしんだとか、あおいの葉だとかいうものの堆高うずたかく積まれた上に、彼は腰をおろす。それから、兎どもにはメロンの種をやり、自分は汁を飲む。それは、葡萄液ぶどうえきのように甘い。
 そこで今度は、みんなが残した甘味のある黄色いところ、口へ入れてけるところを残らず歯でかじり取る。そして、緑色のところだけを、しりの上で丸まっている兎にくれてやる。
 小舎の戸はまっている。
 午睡の時間を照らす太陽が、屋根のあなすかして、その光線の一端をえびえした蔭の中に浸している。
[#改ページ]

鶴嘴つるはし


鶴嘴の挿絵

 兄貴のフェリックスとにんじんとが、一緒に並んで働いている。めいめい鶴嘴つるはしをもっている。兄貴のは、蹄鉄屋ていてつやに注文して鉄で作らせたのである。にんじんは、木で自分のやつをひとりで作った。二人は庭作りをしている。仕事はぐんぐんはかどる。一所懸命の競争である。突然、それは実に思い設けない瞬間に――災難にぶつかるのは、常にそういう瞬間に限られている――にんじんは、額の真中まんなかに、鶴嘴の一撃をったのである。
 すると間もなく、兄貴のフェリックスを寝台の上に運んで行き、そっと寝させなければならない。弟の血を見て、ふらふらっとなったからである。うちのものは、みんなそこへ来て、丈伸せのびをしている。それから、恐る恐る溜息ためいきをつく。
 ――塩はどこにある?
 ――冷たい水を少し……頭を冷やすんだから……。
 にんじんは、椅子の上にあがっている。みんなの頭の間から、肩越しにのぞくためである。額は布片きれで鉢巻をし、その布片がもう赤くなっている。血がにじみ出して、ひろがっているのである。
 ルピック氏はにんじんにいった――
「ひどい目にやがった」
 それから、姉のエルネスチイヌは、傷口に繃帯ほうたいをしてやりながら――
「バタの中へあなけたようだわ」
 彼は声を立てなかった。なぜなら、それは、何の役にも立たないということを、あらかじめ警告されていたから。
 ところが、そのうちに、兄貴のフェリックスが、片方の眼を開ける。それからもう一方の眼を開ける。こわかっただけで、無事にすんだのである。その顔色が、だんだん血のを帯びてくるにつれて、不安と驚愕きょうがくが、人々の心から消えて行く。
「いつでもこの通りだ」とルピック夫人はにんじんに向かっていう――「お前、気をつけることはできなかったのかい。しょうがないぽんつくだね」
[#改ページ]

猟銃


猟銃の挿絵

 ルピック氏は、息子むすこたちにいう。
「鉄砲は、二人で一ちょうあればたくさんさ。仲のい兄弟は、なんでも催合もあいにするもんだ」
「ああ、それでいいよ」と兄貴のフェリックスは答える――「二人で代りばんこに持つから……。なあに、時々にんじんが貸してくれりゃ、僕、それでいいんだよ」
 にんじんは、いいとも、わるいともいわない。どうせ油断ゆだんはならないと思っている。
 ルピック氏は、緑色の袋から鉄砲を出して、たずねる――
「初めにどっちが持つんだ? そりゃ、にいさんだろうな」

兄貴のフェリックス――その光栄はにんじんに譲るよ。先へ持て。
ルピック氏――フェリックス、今日きょうはなかなか感心だ。そうならそうで、とうさんにも考えがあるぞ。

 ルピック氏は、鉄砲をにんじんの肩にのっけてやる。

ルピック氏――さ、行って遊んでこい。喧嘩けんかをするんじゃないぞ。
にんじん――犬は連れてくの?
ルピック氏――連れて行かんでええ。お前たち、代りばんこに犬になれ。それに第一、お前たちほどの猟師が、獲物えものに傷だけ負わせるなんていうことはない。一発で仕留めるんだ。

 にんじんと兄貴のフェリックスは出かけて行く。服装は簡単だ。不断のままである。長靴がないことは少し残念だが、ルピック氏は常々つねづね、ほんとうの猟師は、そんなものを眼中に置かないといっている。ほんとうの猟師は、ズボンをかかとの上に引きずっている。決してまくり上げたりなんぞしない。それで、泥の中や、耕した土の上やを歩く。すると、長靴がひとりでに出来て、ひざのところまでくる。この長靴は丈夫じょうぶで、いや味がない。これは、女中が大事にするようにいいつかっている。
「手ぶらで帰るようなことはないよ、お前は……」
と、兄貴のフェリックスがいう。
「そりゃ、大丈夫だよ」
と、にんじんもいう。
 肩がげているので、なんだか窮屈きゅうくつだ。銃身がうまくのっかっていない。
「そらね、いくらだって持たしてやるから、きるほど……」
 兄貴のフェリックスがいう。
「やっぱり、兄さんだよ」
と、にんじんはいう。
 一群の雀が飛び立つと、彼は、兄貴のフェリックスに動くなという合図をする。雀のれは生籬いけがきから生籬に飛びうつる。二人の猟師は、雀が眠ってでもいるかのように、背中を丸くして、そうっと近づいて行く。雀の群れはじっとしていない。ちゅうちゅうきながら、またほかへ行って止まる。二人の猟師はち上がる。兄貴のフェリックスは、それに悪口雑言あっこうぞうごんを浴びせかける。にんじんは、心臓がどきどきしているにもかかわらず、それほどあせっている様子はない。自分の腕を見せなければならない瞬間をおそれているからである。
 もしも失敗しくじったら! 延びるたびにほっとするのだ。
 ところが、今度こそは、雀のほうで、彼を待っているらしい。

兄貴のフェリックス――まだつなよ。遠すぎるぞ。
にんじん――そうかなあ……。
兄貴のフェリックス――当りよ。からだを低くすると勝手が違ってくるんだぜ。すぐそばだと思っても、実際はかなり遠いんだ。

 そこで、兄貴のフェリックスは、自分のいったとおりだということを示すために、いきなり顔を出す。雀は、驚いて飛んで行ってしまう。
 が、そのうち、一羽だけ、しなった枝の先に止まったまま、その枝に揺られている。尾をぴんと上げ、頭を左右にかしげ、腹をむき出している。

にんじん――しめたぞ、こいつならてら、大丈夫……。
兄貴のフェリックス――どら、どいてみろ。うん、なるほど、素敵すてきなやつだ。さ、早く、鉄砲を貸せ。

 すると、もう、にんじんは、鉄砲を取り上げられ、両手をからっぽにして、口をけているのである。その前で、兄貴のフェリックスが、彼の代りに、鉄砲を肩に当て、ねらいを定め、引鉄ひきがねを引く。そして、雀が落ちる。
 それは、まるで手品のようだ。にんじんは、さっきまで、この鉄砲を、それこそ、胸にめていた。突然、彼はそれを失った。ところが、今また、それが彼の手に戻ってきた。いうまでもなく、兄貴のフェリックスが返したのである。兄貴のフェリックスは、それから、自分で犬の代りもする。駈け出して行って雀を拾う。そうしていう――
「ぐずぐずしちゃだめだよ。もっと急がなくっちゃ……」

にんじん――ゆっくり急ぐよ。
兄貴のフェリックス――ようし、ふくれっつらをするんだね。
にんじん――だって……。じゃ、歌をうたえばいいのかい。
兄貴のフェリックス――雀がとれたんだから、なんにもいうことはないじゃないか。もしか、あたらなかったらどうする!
にんじん――ううん、僕あ、そんな……。
兄貴のフェリックス――お前だって、兄さんだって、おんなじことさ。今日は兄さんがとった、明日はお前がとる、それでいいだろう。
にんじん――明日ったって……。
兄貴のフェリックス――きっとだよ。
にんじん――わかるもんか。きっとなんて、明日になりゃ……。
兄貴のフェリックス――もしうそだったら、なんでもやらあ。それでいいだろう。
にんじん――まあいいや……。それより、もっとろうよ。僕が撃ってみら……。
兄貴のフェリックス――だめだよ、もう遅いから。さ、帰って、こいつをかあさんに焼いてもらおう。そら、そっちへやるよ。カクシへ入れとけ。なんだい、馬鹿だなあ、おい、くちばしを出しとけよ。

 二人の猟師はうちへ帰って行く。その途中でどこかの百姓に会うと、その百姓はお辞儀じぎをしてこういいかける――
ぼっちゃん、お前たちゃ、まさかおとっつぁんを撃ったんじゃあるめえな」
 にんじんは、いい気持になり、さっきからのことを忘れてしまう。彼らは、仲よく、大威張おおいばりで帰って来る。ルピック氏は二人の姿を見かけると、驚いてこういう――
「おや、にんじん、まだ鉄砲をもっているな。ずっとお前がもち通しか?」
「うん、たいてい……」
と、にんじんは答える。
[#改ページ]

土竜もぐら


土竜の挿絵

 にんじんは道ばたで、煙突掃除えんとつそうじのように黒い一匹の土竜もぐらを見つける。いいかげん玩具おもちゃにしたあげく、そいつを殺そうと決心する。そこで、何べんも空中へほうり上げるのであるが、それは石の上へ落ちるようにうまく投げるのである。
 初めは、なかなか工合よく、すらすら行く。
 土竜はもうあしが折れ、頭が割れ、背中が破れ、根っからしぶとくもなさそうだ。
 すると、驚いた。にんじんは、土竜がどうしても死なないということに気がつく。うちの高さよりも高く、天まで届くほど抛り上げても、さっぱりき目がない。
「こね野郎やろう! 死なねえや」
 なるほど、血まみれになった石の上で、土竜はぴくぴく動く。脂肪あぶらだらけの腹がこごりのようにふるえ、その顫え方が、さも生命いのちのある証拠のように見える。
「こね野郎!」と、にんじんは躍気やっきになって怒鳴どなる――「まだ死なねえか」
 彼はまたそれを拾い上げる。罵倒ばとうする。そして、方法を変える。
 顔を真赤まっかにし、眼に涙をめ、彼は土竜につばをひっかける。それから、すぐそばの石の上を目がけて、力まかせにたたきつける。
 それでも、例の不恰好ぶかっこうな腹は、相変わらず動いている。
 こうして、にんじんが、死にもの狂いになって、叩きつければ叩きつけるほど、土竜は、よけい死なないように見えてくる。
[#改ページ]

苜蓿うまごやし


苜蓿の挿絵

 にんじんと兄貴のフェリックスは、夕方のおいのりから帰ると、急いで家へはいる。それは、四時のおやつだからである。
 兄貴のフェリックスは、バタやジャムをつけたパンをもらうことになっている。それから、にんじんは、なんにもつけないパンである。なぜなら、彼は、あんまり早く大人おとなのふりをしようと思って、みんなの前で、自分は食いしんぼうじゃないと宣言してしまったからである。彼はなんでも自然のままが好きだ。平生へいぜい、好んで、パンを何もつけずに食うのである。で、その晩もやはり、兄貴のフェリックスより早く歩く――自分が先に貰いたいからである。
 時として、なんにもつけないパンは固い。すると、にんじんは、敵に向かうようにそれにぶつかって行くのである。ぎゅっとつかむ。かじりつく。頭をぶつける。粉ごなにする。そして、かけらを飛ばす。まわりに居並ぶ親同胞おやきょうだいは、珍しそうにそれを見ている。
 駝鳥だちょうのような彼の胃のは、石だろうが、青錆のついた古銅貨だろうが、わけなく消化するに違いない。
 要するに、彼はちっとも食べ物のり好みをしない。
 彼は戸の※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねを引く。まっているのである。
とうさんもかあさんもいないんだよ、きっと……。足で蹴ってごらん、よう」
と、彼がいう。
 兄貴のフェリックスは、「こん畜生」といいながら、くぎの頭が並んでいる重い戸にぶつかって行く。戸はしばらく音を立てている。それから二人は、力をあわせて、肩で押す。むだである。

にんじん――たしかに、いないよ。
兄貴のフェリックス――どこへ行ったんだろう。
にんじん――そこまではわからん。坐ろう。

 階段の踏石ふみいししりに冷たく、二人は近来まれな空腹を感じる。欠伸あくびをしたり、心窩みぞおち握拳にぎりこぶしで叩いたりして、その激しさを訴える。

兄貴のフェリックス――帰るまで待っていると思ったら間違いだぞ。
にんじん――そいじゃ、ほかにうまい工夫があるかい。
兄貴のフェリックス――待ってなんかいるもんか。じにをしたかないからなあ、おれは……。今すぐ食いたいんだ。なんでもいい、草でもいい。
にんじん――草……! そいつあ面白おもしろい。父さんや母さんも、それを聞いたらぎゃふんだ。
兄貴のフェリックス――だって、サラダを食べるじゃないか。ここだけの話だけど、苜蓿うまごやしなんか、サラダとおんなじにやわらかいよ。つまり、油とをつけないサラダさ。
にんじん――かきまわすこともいらないし……。
兄貴のフェリックス――けをしよう。僕も、苜蓿うまごやしなら食べるよ。お前は食べられないぜ、きっと。
にんじん――どうして、にいさんに食べられて、僕に食べられないんだい?
兄貴のフェリックス――さ、いいから賭けをしよう。いやか?
にんじん――うん、だけど、その前に、お隣りへ行って、パンを一片ひときれずつと、それへヨーグルトを少し貰ってきたら?
兄貴のフェリックス――僕あ苜蓿うまごやしのほうがいい。
にんじん――行こう。

 やがて苜蓿うまごやしの畑が、美味うまそうな緑の葉を、彼らの眼の下にひろげる。その中にはいって行くと、二人は、面白がって靴を引きずる。軟かい茎を踏み切る。細い道をつける。
 ――なんだろう、どんな獣だろう、ここを通ったのは……?
 いつまでも、人は心配をして、こういうに違いない。
 ぼつぼつ疲れかげんになってきたはぎのあたりへ、ズボンをとおして、ひやりとしたものがみ込んでくる。
 彼らは畑の真中まんなかで止まる。そして、べったり、腹這はらばいになる。
「いい気持だね」と、兄貴のフェリックスがいう。
 顔がくすぐったい。それで二人は、むかし同じ寝床の中で寝た時のようにふざけるのである。あの頃、すると、ルピック氏が、隣りの部屋から怒鳴どなったものだ――
「もうろよ、餓鬼がきども!」
 彼らはひもじさを忘れ、水夫の真似まねをして泳ぎを始める。それから犬の真似をし、かえるの真似をする。二つの頭だけが浮き出ている。彼らは、くだけやすい小さな緑の波を手でかきわけ、足で押しのける。波は、くずれたまま、もとの形を取らない。
「僕、あごまでつくよ」
と、兄貴のフェリックスがいえば、
「こら、こんなに進むぜ」
と、にんじんがいう。
 ひと息ついて、もっと静かに、自分たちの幸福を味わうべきである。
 そこで、両肱りょうひじをついて、土竜もぐらの掘った塚を見渡してみる。それは、老人の皮膚にもりあがる血管のように、電光形を描いて地面にもりあがっている。時に見失ったかと思うと、また空地あきちへ行ってひょっこり顔を出している。その空地には、上等な苜蓿うまごやしい荒すたちのよくない寄生虫、コレラのような菟糸子ねなしかずらが、赤ちゃけた繊維のひげを伸ばしている。土竜もぐらの塚は、そこで、インドふうに建てられた小屋そのまま、ひとかたまりになって小さな村を形づくっている。
「することはこれっきりじゃないぜ。おい、食べよう。はじめるよ。僕の領分にさわっちゃいけないよ」
 兄貴のフェリックスはこういう。そして、片腕を半径に、彼は円弧えんこを描く。
「僕あ、残ってるだけでたくさんだ」
 と、にんじんがいう。
 二つの頭がかくれる。もうどこにいるかわからない。
 風が静かな吐息といきを送って、苜蓿うまごやしの薄い葉をひるがえすと、蒼白あおじろいその裏が見える。そして、畑一面に身ぶるいが伝わる。
 兄貴のフェリックスは、しこたま草を引き抜いて、そいつを頭の上にかぶり、さかんに口の中へ詰め込むふりをする。そして、乳を放れたばかりのこうしが、草を食う時に歯をみ合わせる、その音の真似まねまでして見せる。彼は根でもなんでも食ってしまうように見せかける。世の中をっているからである。ところが、にんじんは、それをほんとだと思う。ただ、もっと上品に、美しい葉のところだけをるのである。
 鼻の先でそいつをげ、口へもってきて、悠然ゆうぜんと噛みしめる。
 どうして急ぐ必要がある?
 テーブルを時間で借りたわけでもなく、橋の上にいちが立っているわけでもない。
 歯をきしませ、舌をにがくし、胸をむかむかさせながら、彼は呑み込む。なるほど御馳走ごちそうである。
[#改ページ]

湯呑み


湯呑みの挿絵

 にんじんは、これからもう、食事の時に、葡萄酒ぶどうしゅを飲まないことになった。彼はこの数日の間に葡萄酒を飲む習慣をなくしてしまったのだが、あんまり造作ぞうさがないので、親同胞おやきょうだいも、出入りの人たちも、これは意外に思った。そもそもの話はこうである。
 ある日の朝、母親のルピック夫人が、いつものように、彼の湯呑ゆのみに葡萄酒をごうとすると、彼はこういった――
「僕いらないよ。のど渇いてないから」
 夕飯の時、彼はまたいった――
「僕いらないよ。喉渇いてないから」
「なかなか経済だね、この子は」――ルピック夫人はいう――「みんな大助かりだ」
 そういうふうで、彼は、はじめの一日、朝から晩まで、葡萄酒を飲まずにいた。陽気が穏かで、それに、ただ、なんということなしに、喉が渇かなかったからである。
 翌日、ルピック夫人は、食器を並べながら、彼にたずねた――
「今日は、葡萄酒を飲むかい、にんじん?」
「そうだなあ」と彼はいった――「まあ、どうだかわからない」
「じゃ、好きなようにおし」と、ルピック夫人はいった――「湯呑みがしかったら自分で戸棚から出しといで」
 彼は、出しに行かない。億劫おっくうなのか、忘れたのか、それとも、自分で取りに行くのはいけないと思ってか?
 みんなが、そろそろ意外な顔をし出す。
「えらくなったもんさ」と、ルピック夫人がいう――「お前には、そんな芸当もできるんだね」
めずらしい芸当だ」――ルピック氏はいう――「そいつは、と、なんかの役に立つさ。ことにおっつけ、一人きりで、駱駝らくだにも乗らず、砂漠の中で道に迷いでもしたような時にはなおさらだ」
 兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌは、断乎としていい放った。

姉のエルネスチイヌ――「きっと一週間ぐらい飲まないでいられてよ」
兄貴のフェリックス――「なあに、この日曜まで、三日もてば、大したもんだ」

「だって」と、にんじんは、薄笑いを浮かべながらいう――「だって、喉が渇かなかったら、僕、いつまでだって飲みやしないよ。兎や天竺鼠てんじくねずみをみてごらん。あれのどこがえらいんだい」
「天竺鼠とお前とは別だよ」
 兄貴のフェリックスがいう。
 にんじんは、しゃくにさわった。そこで彼らに、これでもかというところをみせることになるのである。ルピック夫人は、相変わらず、湯呑みを出し忘れている。彼は、決してそいつを催促さいそくしない。皮肉なお世辞せじをいわれても、真面目まじめに感心したようなふうをされても、彼は、等しく我れ関せずで聞き流していた。
「病気でなけりゃ、気が狂ったんだ」
 あるものは、こういった。また、あるものは、こうもいった――
内証ないしょうで飲んでるんだ」
 だが、何事も、珍しいうちが花だ。舌がちっとも渇いてないという証拠をみせるために、にんじんが、舌を出して見せる回数は、だんだんにってくる。
 両親も、近所の人たちも、根気負けがしてきた。ただ、なんでもない人が、どうかしてその話を聞くと、また両腕を高くげた――
戯談じょうだんいっちゃいけない。自然の要求というものは、こりゃ、誰一人おさえることはできないんだから……」
 医者に相談すると、そういう例はどうも奇妙には奇妙だが、しかし、要するにあり得ないということは、なに一つないわけだと宣言した。
 ところで、にんじんは、自分ながら不思議ふしぎだった。そのうちに苦しくなりはせぬかと思っていたからである。彼は、規則正しく強情ごうじょうを張りさえすれば、どんなことでもできるという事実を確かめた。彼は、最初から、苦しい欠乏に堪え、一大難関を突破しなければならぬと覚悟した。それが、いっこう、痛くもかゆくもないのである。以前よりも、からだの調子はいいくらいだ。これなら、喉の渇きばかりでなく、腹がくのだって我慢できないはずはない! 飯なんか食わなくったってもいい。空気だけで生きてみせる。
 彼は、もう、自分の湯呑みのことさえとっくに忘れている。湯呑みは、長い間使わずにほうってある。すると、女中のオノリイヌが、その中へ、ランプの金具をみがく赤いみがき砂をれてしまった。
[#改ページ]

パンのかけら


パンのかけらの挿絵

 ルピック氏は、それでも、機嫌きげんのいい時には、自分から子供たちの相手になって遊ぶようなこともある。裏庭の小径こみちでいろんなはなしをして聞かせるのである。すると、兄貴のフェリックスとにんじんとが、しまいには地べたの上をころがりまわる。彼らはそんなにはしゃぐ。今朝も、そういうふうで、三人がへとへとになっていると、そこへ、姉のエルネスチイヌがやって来て、お昼の用意ができたという。やっと、それでしずまった。家族が集まると、どの顔も、みんな苦虫にがむしみつぶしたようだ。
 いつものとおり、大急ぎで、口もきかずに飯を食う。もし、これが料理屋なら、そろそろ、テーブルを次のお客に明け渡しても差支えないのだが、その時分になってルピック夫人は――
「パンのかけらを一つ、こっちへちょうだい、砂糖煮を食べちまうんだから……」
 誰にそういったのか?
 たいがいの場合、ルピック夫人は、自分の食べるものは自分で取るのである。そして話をするといえば犬相手である。彼女は、犬に野菜の値段をいって聞かせる。そして、当節とうせつ、わずかの金で、六人の人間と一匹の獣とを養って行くことが、どんなに困難かという説明をしたりする。
「馬鹿おいい」と、彼女は、お愛想にのどを鳴らし、靴拭くつぬぐいを尻尾しっぽで叩いているピラムに向かっていうのである――「お前にはわからないんだよ、このうちを持って行くのに、あたしがどんなに苦労してるか……。お前も、男の人たちみたいに、台所で使うものは、みんなただで手にはいると思ってるんだろう。バタが高くなろうと、卵が法外な値になろうと、そんなことはいっこう平気なんだろう」
 ところが、今日という今日、ルピック夫人は、大変なことをしでかした。慣例を破って、彼女は、じかにルピック氏に言葉をかけたのだ。相手もあろうに、彼女が砂糖煮を食べてしまうためにパンのかけらを請求したのは、まさしく彼に向かってだ。もう、誰も、それを疑う余地はないのである。第一彼女はルピック氏の顔を見つめている。第二に、ルピック氏のそばに、パンがある。彼はおどろいて躊躇ちゅうちょしている。が、やがて、指の先で、自分の皿の底からパンのかけらをつまみ上げ、真面目まじめに、無愛想に、そいつをルピック夫人めがけてほうったものである。
 戯談じょうだんか? 喧嘩けんかか? それがわからない。
 姉のエルネスチイヌは、母親のために侮辱を感じ、なんとなく胸騒むなさわぎがしている。
「おやじは、あれで、今日は気分がいいんだ」
 兄貴のフェリックスは、椅子の脚を傍若無人ぼうじゃくぶじんにがたがたいわせながら、こう考えている。
 にんじんはどうかというと、ぴりっとも身動きをせず、くちびるを壁土のように固くさせ、耳の奥がごろごろ鳴り、ほっぺたを焼林檎やきりんごふくらませながら、じっとしている。もしもルピック夫人が、息子や娘の前で、人間のくずみたいに取り扱われながら、すぐに食卓を離れずにいたら、それこそ彼は、でもしてやりたかったのだ。
[#改ページ]

ラッパ


ラッパの挿絵

 ルピック氏は、今朝、パリから帰って来たところである。かばんをあける。お土産みやげが出る。兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌへの素敵すてきなお土産だ。それもちょうど――なんという不思議ふしぎなことだろう――彼らがひと晩じゅう夢に見たというものばかりだ。それからあとで、ルピック氏は、両手をうしろへまわし、にんじんのほうをからかうように見ていう――「今度はお前だ、なにが一番しい。ラッパか、それともピストルか?」
 事実、にんじんは、それほど向こう見ずではないのである。むしろ、用心深いほうである。そこで、彼は、どっちかというとラッパのほうがいい。手に持っていて飛び出す心配がない。しかし、ふだん聞くところによると、自分くらいの男の子は、飛び道具か剣か、戦争で使う道具でなければ、遊んだって本気になれないらしい。年からいっても、火薬の臭いをぎ、物という物を粉砕したい年になっているのだ。おやじは子供をっている。あつらえ向きのものを持って来てくれたに違いない。
「僕あ、ピストルのほうがいいや」
と、彼は、大胆にいった。てっきり図星ずぼしを指したつもりなのだ。
 それだけならいいが、彼は少し調子に乗り過ぎた。そして、こう附け加えた――
かくしたってだめだよ。ちゃんと見えてるんだもの」
「へえ、そうか」と、ルピック氏は、当惑していった――「お前はピストルのほうがいいのか。じゃ、また変わったんだね」
 にんじんは、たちどころに、こたえた。
「ううん、そうじゃないよ、ふざけていってみたんだよ。心配しないだっていいよ。僕あ、大嫌いだ、ピストルなんか。さ、早く、ラッパをおくれよ。吹いてみせるからさ。僕、ラッパを吹くの大好きさ」

ルピック夫人――「そんなら、どうしてうそくんだい。お父さんを困らせようと思ってだろう。ラッパが好きなら、ピストルが好きだなんていうもんじゃない。おまけに、なんにも見えないくせに、ピストルが見えているなんていうもんじゃない。だから、その罰に、ピストルもラッパも、お前にはあげないよ。よくこれを見とくといい。赤いふさと、金の縁飾ふちかざりのある旗がついてる。よく見たね。じゃ、もういいから台所へ行って、もう一人かあさんがいるかどうか見といで。さっさと走って! 指で口笛を吹いてるがいい」

 戸棚のてっぺんの、白い下着類を重ねた上で、三つの赤い総と、金の縁飾のある旗にくるまって、にんじんのラッパは、手も届かず、見えもせず、音も立てず、最後の審判のそれのように、誰かに吹かれるのを待っている。
[#改ページ]

髪の毛


髪の毛の挿絵

 日曜日には、子供たちがミサに行かないと、ルピック夫人は承知しなかった。そこで、子供たちを小ざっぱりとさせるのだが、姉のエルネスチイヌが、みんなのおめかしを監督することになっており、そのために、自分のが遅れてしまうのである。彼女はそれぞれネクタイを選んでやり、爪を磨いてやり、祈祷書を持たせる。一番大きなのをにんじんに渡すのである。だが、なんといっても、仕事は、兄弟たちの頭へポマードを塗ることだ。
 これをやらないと、どうにも気がすまぬらしい。
 にんじんは、それでも、おとなしくされるままになっている。しかし、兄貴のフェリックスは、あらかじめ姉に向かって、しまいに怒るぞと念を押すのである。が、姉は姉で、こういってごまかすのである。
「ああ、また今日も忘れちゃった。わざとやったんじゃないわよ。この次の日曜から、きっとつけない」
 で、相変わらず、彼女は、その時になると、指の先でひとすくい、彼の頭へなすってしまうのである。
「覚えてろ」
と、兄貴はいう。
 今朝も、タオルにくるまり、頭を下へ向けているところを、姉のエルネスチイヌは、またこっそりやったのだが、彼は、気がつかぬらしい。
「さ、いうことを聞いたげてよ。だから、ぶつぶついいっこなしよ。あのとおり、びんふたをしたまま暖炉だんろの上に置いたるじゃないの。感心でしょう。だけど、あたし、自慢はできないわ。だって、にんじんの髪の毛なら、セメントでなくちゃだめだけど、あんたのなら、ポマードもいらないくらいだわ。ひとりでちぢれて、ふっくらしてるわ。あんたの頭は、花キャベツみたいよ。この分けたとこだって、晩までそのまま持つわよ」
「ありがとう」
と、兄貴のフェリックスはいった。
 彼は、別に疑う様子ようすもなくち上がった。ふだんのように、頭へ手をやってほんとかどうか調べてもみない。
 姉のエルネスチイヌは、彼に服を着せてしまう。飾るところは飾った。それから白い絹の手袋をはめさせる。
「もういいんだね」
と、兄貴のフェリックスはいう。
素敵すてきよ。まるでプリンスだわ」と、姉のエルネスチイヌはいう――「それで、帽子さえかぶればいいんだわ。開き箪笥だんすの中にあるから取ってらっしゃい」
 だが、兄貴のフェリックスは、間違えている。彼は、開き箪笥の前を通り過ぎてしまう。急いで食器戸棚のほうへ行く。戸を開ける。水のいっぱいはいった水差しを取り上げる。そして、これを、平然と、頭へぶっかけたのである。
「ちゃんとそういっといたろう、エルネスチイヌ」と、彼はいう――「僕あ、人から馬鹿にされるのは嫌いなんだ。そんなっぽけなくせして、この古強者ふるつわものをちょろまかそうったって、そりゃ無理だよ。こんどやったら、ポマードのびんを川ん中へぶち込んじゃうから……」
 髪の毛はぺしゃんこになり、日曜の晴着はれぎからしずくがたれている。そこで、びしょれの彼は、着物を着替えさせてくれるか、日に当たってかわくか、そのどっちかを待っているのである。彼は、どっちでもいい。
「ひでえやつ……」と、にんじんは、じっと感心している――「あいつあ、こわいものなしだ。おれがあの真似まねをしたら、みんなで大笑いをするだろう。ポマードが嫌いじゃないっていうふうに思わせとくほうがとくだ」
 しかし、にんじんが、いつもの調子であきらめていても、髪の毛は、いつの間にか、彼のかたきを打っている。
 ポマードで無理に寝かせつけられて、一時いっときは死んだ真似をしているが、やがて、むくむくと起き上がる。どこがどう押されてか、てかてかの軽い鋳型いがたに、ところどころ凸凹ができ、亀裂ひびがはいり、ぱくりと口をあくのである。
 藁葺尾根わらぶきやねの氷が解けるようだ。
 すると、間もなく、髪の毛の最初のひとたばが、ぴんと空中にね上がる、まっすぐに、自由に。
[#改ページ]

水浴び


水浴びの挿絵

 やがて時計が四時を打とうとしているので、にんじんは、矢もたてもたまらず、ルピック氏と、兄貴のフェリックスを起こすのである。二人は、裏庭のはしばみの木の下で眠っていた。
「出かけるんだろう」と、彼はいう。

兄貴のフェリックス――行こう。猿股さるまたを持っといで。
ルピック氏――まだ暑いぞ、きっと。
兄貴のフェリックス――僕あ、日が照ってる時のほうがいいや。
にんじん――それに、とうさんだって、ここより水っぷちのほうがいいよ。草の上へ寝転ねころんどいでよ。
ルピック氏――さ、先へ歩け。ゆっくりだぞ。死んじまっちゃなんにもならん。

 だが、にんじんは、早くなる足並みを、やっとのことでゆるめているのである。足の中をありっているような気持だ。肩には、模様のない、いかめしい自分の猿股と、それから、兄貴の、赤と青とのしまの猿股をかついでいる。元気いっぱいという顔つきで、彼はしゃべる。自分だけのために歌をうたう。木の枝へぶらさがって跳ぶ。空中で泳ぐ真似まねをする。さて兄貴にいう――
「ねえ、にいさん、水へはいると、きっといい気持だね。うんと泳いでやらあ」
生意気なまいきいえ!」
と、兄貴のフェリックスは、馬鹿にしきった返事をする。
 なるほど、にんじんは、ぴたりとしずまる。
 彼は、今、乾ききった低い石垣を、まっさきに、ひらりと飛び越えた。すると、たちまち、眼の前を小川が流れているのである。はしゃいでいる暇もなかった。
 魔性ましょうの水は、その表面に、寒々さむざむとした影を反射させていた。
 歯をみ合わせるように、ひたひたと波の音を立て、臭いともつかぬ臭いが立ち昇っている。
 この中へはいるわけである。ルピック氏が、時計を眺めて、めただけの時間を計っている間、この中でじっとしてい、この中で動きまわらなければならない。にんじんは、ふるえあがる。元気を出して、こんどこそはと思うのだが、いよいよとなると、またその元気がどっかへ行ってしまう。水を見ると、遠くのほうから引っ張られるようで、ついぐらぐらっとなるのである。
 にんじんは、一人離れて、着物をぎはじめる。せているところや、足の恰好かっこうを見られるのがいやでもあるが、それより、ひとりで、はばからずふるえたいのだ。
 彼は、一枚二枚脱いでいって、そいつを丁寧ていねいに草の上でたたむ。靴のひもを結び合わせ、それをまた、いつまでもかかってほどく。
 猿股を穿く。短いシャツを脱ぐ。だが、もうしばらく待っているのである。彼は包み紙の中でべたべたになる林檎糖りんごとうのように汗をかいているからだ。
 そうこうするうちに、兄貴のフェリックスは、もう川を占領し、わがもの顔に荒しまわっている。腕でなぐり、かかとで叩き、泡を立てる。そして、流れのまん中で、猛烈果敢もうれつかかんに、騒ぎ狂う波の群れを、岸めがけて追い散らすのである。
「お前はもう、やめか」
 ルピック氏はにんじんにいった。
「からだを乾かしてたんだよ」
 やっと、彼は決心する。地べたに坐る。そして、爪先つまさきを水にれてみる。その足のゆびは、靴が小さすぎてりむけていた。そうしながら、また胃ののあたりをさすってみた。恐らく、食ったものがまだこなれていないだろう。それから木の根に沿ってからだをすべらせる。
 木の根で、すねもも、それからしりをひっかかれる。水が腹まで来ると、もう上へあがろうとする。逃げ出そうとする。れた糸が、こまの紐をくように、だんだんからだへ捲きついて行くような気持だ。が、からだを支えていた土塊つちくれが崩れる。すると、にんじんは滑り落ちる。姿を消す。水の底を這う。やっと立ち上がる。き込み、つばを吐き、息をつまらせ、眼がかすみ、頭がぼうっとする。
もぐりはうまいじゃないか」
と、ルピック氏はいう。
 にんじんは、すると、
「ああ、だけど、僕あ、きらいさ。耳ん中へ水がたまっちゃった。頭が痛くなるよ、きっと……」
 彼は、そこで、泳ぎの練習ができる場所、つまり、膝で砂の上を歩きながら、両腕を前のほうへ動かせるところをさがす。
「あんまり急にやるからいけないんだ。手を握ったまま動かしちゃだめだよ。髪の毛を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしるんじゃあるまいし。その足を使うんだ、足を……。どうもしてないじゃないか」
 こうルピック氏がいうと、
「足を使わないで泳ぐほうがむずかしいんだよ」
と、にんじんはいう。
 が、一所懸命にやってみようとすると、兄貴のフェリックスがそれをさせない。しょっちゅう邪魔じゃまをするのである。
「こっちへおいでよ、にんじん。もっと深いところがあるぜ。こら、足がつかないや。沈むぜ。ごらんよ、ほら、僕が見えるだろう。そらこのとおり……見えなくなるよ。そいじゃ、こんだ、あの柳の木のほうへ行ってろよ。動いちゃいけないよ。そこまで十ぺんで行くからね」
「数えてるよ」
と、にんじんは、がたがた顫えながら、肩を水から出し、まるで捧杭のように動かずにいるのである。
 さらに、彼は、泳ごうとしてからだをかがめる。ところが、兄貴のフェリックスは、その背中へじ登って、飛び込みをやる。
「こんだ、お前の番さ、ね、僕の背中へおあがりよ」
「僕あ、自分で練習してるんだから、ほっといておくれよ」
 にんじんは、こういうのである。
「もう、よし。みんな出ろ。ラムをひと口ずつ飲みにこい」
と、ルピック氏は呼ぶ。
「もう出るの?」
と、にんじんがいう。
 今になると、彼はまだ出るのがいやなのだ。水浴びに来たのに、これくらいでは物足ものたりない。出なければならないと思うと、水がもう怖くはないのである。さっきは鉛、今は、羽根だ。獅子奮迅ししふんじんの勢いで暴れまくる。危険など眼中にない。人を救うために、自分の命を棄ててかかったようだ。おまけに、誰もしてみろといわないのに水の中へ頭を突っ込む。おぼれた人間の苦しみを味わうためである。
「早くしろよ」と、ルピック氏は叫ぶ――「さもないと、兄さんがラムをみんな飲んじまうぞ」
 ラムなら、あんまり好きじゃないのだが、にんじんは、いう――
「僕の分は、誰にもやらないよ」
 そうして、彼は、それを老兵ろうへいのごとく飲みす。

ルピック氏――よく洗わなかったな。くるっぷしに、まだあかがついてる。
にんじん――泥だよ、こりゃ。
ルピック氏――いいや、垢だ。
にんじん――もう一度水へはいってこようか。
ルピック氏――明日ればいい。また来よう。
にんじん――うまい具合に天気ならね。

 彼は、指の先へ、タオルの乾いたところを、つまり兄貴がらさずにおいてくれたところを捲きつけて、からだをく。頭が重く、喉はいがらっぽいのだが、彼は、大声を立てて笑うのである。というのは、兄貴とルピック氏が、彼のじくれた足のゆびを見て、へんてこな戯談じょうだんをいったからだ。
[#改ページ]

オノリイヌ


オノリイヌの挿絵

ルピック夫人――お前さんは、もう幾歳いくつだっけ、オノリイヌ?
オノリイヌ――この万聖節ばんせいせつで、ちょうど六十七になりました、奥さん。
ルピック夫人――そいじゃ、もう、いい年だね。
オノリイヌ――だからって、別にどうもありませんよ、まだ働けるだもの。病気なんぞしたことなしね。巌丈がんじょうなことときちゃ馬にだって負けやしませんからね。
ルピック夫人――そんなこというなら、あたしが考えてることをいってあげようか。お前さんは、ぽくりと死ぬよ。どうかした日の晩方ばんがた、川から帰りがけに、背負しょってるかごがいつもの晩より重く、押してる車が思うように動かないのさ。お前さんは、車の梶棒かじぼうの間へひざをついて倒れる。れた洗濯物の上へ顔を押しつけてね。それっきりさ。誰か行って起こしてみると、もうお前さんは死んでるんだよ。
オノリイヌ――笑わしちゃ困るよ、奥さん。心配しないでおくんなさい。あしだって、まだぴんぴんしてるんだもの。
ルピック夫人――そういや、少しばかり前こごみになってきたね。だけど背中が丸くなると、洗濯をする時に、腰が疲れなくっていい。ただどうにも困ることは、お前さんの眼が、そろそろ弱ってきたことだよ。そうじゃないとはいわせないよ。この頃、それがちゃんと、あたしにはわかるんだ。
オノリイヌ――そんなことはないね。嫁に行った頃とおんなじに、眼ははっきり見えるがね。
ルピック夫人――よし。それじゃ、袋戸棚ふくろとだなけて、お皿を一枚持って来てごらん、どれでもいい。もしお前さんが、ちゃんと皿拭布さらふきんをかけたというなら、この曇りかたはどうしたんだろう。
オノリイヌ――戸棚の中に、湿しめりっがあるだね。
ルピック夫人――そんなら、戸棚の中に、指が幾本もあるのかねえ。そうして、お皿の上をあっちこっちうろつきまわっているのかねえ。この跡はなにさ。
オノリイヌ――あれま、どこにね、奥さん。なんにも見えませんよ。
ルピック夫人――そうだろう? そいつを、あたしがとがめてるんだよ。いいかい、ばあや、あたしは、なにも、お前さんが骨惜しみをしてるっていいやしないよ。そんなことでもいったら、そりゃ、あたしが間違いだ。この土地で、お前さんぐらいせいを出して働く女は一人だっていやしない。ただ、お前さんは、年を取ってきた。もっとも、あたしだって年は取る。誰だってみんな年を取るのさ。こうもしよう、ああもしようと思ったって、それだけじゃどうすることもできないようになる。だからさ、お前さんだって、時おりは、眼の中が、布を張ったようにかすむこともあるだろうっていうのさ。いくらこすっても、なんにもならない。そうなってしまったんだから……。
オノリイヌ――それにしたって、わしゃ、ちゃんと眼は開けてるだよ。水桶の中へ顔をつっこんだ時みたいに、皆目かいもく方角もわからないなんてこたあないんだけどね。
ルピック夫人――いや、いや、あたしのいうことは間違いなし。昨日きのうだってそうだよ、旦那だんなさんに、よごれたコップを差し上げたろう。あたしはなんにもいやしなかった。なんだかんだっていうことになって、お前さんがまた気にむといけないと思ってさ。旦那さんも、そうだ。なんにもおっしゃらなかった。これはまた、ふだんから、なんにもおっしゃらないかただからね。だけど、なに一つ見逃みのがしはなさらない。世間では、無頓着むとんちゃくな人だと思ってるけど、こりゃ間違いだ。そりゃ、気がつくんだからね。なんでもひたいの奥へきざみ込んどく。だから、そのコップだって、指で押しやって、ただそれだけさ。お昼には、辛抱しんぼうして、とうとうなんにもお飲みにならなかった。あたしゃ、お前さんと、旦那さんと、二人分、辛い思いをしたよ。
オノリイヌ――そんな馬鹿な話ってあるもんじゃない。旦那さんが女中に気兼きがねするなんて……。そういいなさればいいのに……。コップを代えるぐらいなんでもありゃしない。
ルピック夫人――それもそうだろう。だが、お前さんよりもっと抜け目のない女たちが、どうしたってあの人に口をきかせることはできないんだよ。旦那さんは、物を言うまいって決心してらっしゃるんだからね。あたしは、もうあきらめてる、自分じゃ。ところで、今話してるのは、そんなことじゃない。ひと口にいってみれば、お前さんの眼は日一日に弱ってくる。これが、洗濯だとか、なんとか、そういう大きな仕事は、まあ、半分の粗相そそうですむにしたところで、細かな仕事になると、こりゃもう、お前さんの手にゃおえない。入費かかりえるけれど、しかたがない。あたしゃ、誰か、お前さんの手助けになる人をみつけようと思うんだよ……。
オノリイヌ――わしゃ、ほかの女に尻イくっついていられちゃ、一緒にやって行けませんや、奥さん。
ルピック夫人――それを、こっちでいおうと思ってるとこさ。だとすると、どうしよう。正直なところ、あたしゃどうすればいいかねえ。
オノリイヌ――わしが死ぬまで、こういうふうにして、結構やって行けますよ。
ルピック夫人――お前さんが死ぬって……? ほんとにそんなことを考えてるのかい。あたしたちをあいにくみんなお墓へ送りかねないお前さんじゃないか。そのお前さんが死ぬなんてことを、人が当てにしてるとでも思っているのかい。
オノリイヌ――奥さんは、だけど、きんのあてようがちょっくら間違ってたぐらいで、わしに暇をくれようっていうつもりは多分おあんなさるまい。だいいち、わしゃ、奥さんが出て行けっていいなさらにゃ、このうちから離れませんよ。いったん外へ出りゃ、けっく、野たれ死をするだけのこった。
ルピック夫人――誰が暇を出すなんていったい、オノリイヌ。なにさ、そんな真赤まっかな顔をして……。あたしたちは、今、お互いに、心置きなく話をしてるんだ。すると、お前さんは腹を立てる。お寺の本堂よりとてつもない無茶をいい出す。
オノリイヌ――わしにそんなこといったって、しょうがないだよ。
ルピック夫人――じゃ、あたしはどうなのさ。お前さんの眼が見えなくなったのはお前さんの罪でもなく、あたしの罪でもない。お医者になおしてもらうさ。治ることだってあるんだから。それはそうと、あたしと、お前さんと、一体、どっちが余計難儀をしてるだろう。お前さんは、自分で眼をわずらってることもしらずにいる。家中うちじゅうのものが、そのために不自由をする。あたしゃ、お前さんが気の毒だから、万一の粗相そそうがないように、そういってあげたまでだ。それに、言葉優しく何をこうしろっていう権利は、こりゃ、あたしにあると思うからさ。
オノリイヌ――いくらでもいっとくんなさい。どうにでも好きなようになさるがいいさ。わしゃ、さっき、ちっとの間、町の真中まんなかへおっぽり出されたような気がしただけれど、奥さんがそういいなさるなら安心しましたよ。わしのほうでも、これから皿のこたあ気をつけます。うけ合いました。
ルピック夫人――そうしてもらえりゃ、なんにもいうことはないさ。あたしゃ、これで、評判よりゃましな人間だからね。どうしてもいうことをきかない時は、こりゃ仕方がないが、さもなけりゃ、お前さんを手放すなんてことはしないよ。
オノリイヌ――そんなら、奥さん、もうなんにもいいなさるな。今という今、わしゃ、自分がまだ役にたつって気がしてきましたよ。もしも奥さんが出て行けっていいなすったら、わしゃ、そんな法はないって怒鳴どなるから……。だけども、そのうちに、自分で厄介者やっかいものだっていうことがわかったら、そうして、水をれたなべを火へかけてかすこともできんようになったら、そん時ゃ、さっさと、ひとりで、追い出される前に出て行きますよ。
ルピック夫人――いつなんどきでも、この家へ来りゃ、スープの残りがとってあるってことを忘れずにね、オノリイヌ。
オノリイヌ――いいや、奥さん、スープはいらん、いらん。パンだけで結構けっこう。マイット婆さんは、パンだけしか食わんようになってから、てんで死にそうもないからね。
ルピック夫人――それがさ、あの婆さんは、もう百を越してるんだからね。ところで、お前さんは、まだこういうことを知ってるかい? 乞食こじきっていうものは、あたしたちより仕合しあわせなんだよ。あたしがそういうんだから、オノリイヌ。
オノリイヌ――奥さんがそういいなさるなら、わしもそういっとこう。
[#改ページ]


鍋の挿絵

 家族のために何か役に立つという機会は、にんじんにとって、めったに来ないのである。どこかのすみちぢこまっていて、彼はそいつが通るのを待ちかまえている。あらかじめこれという当てもなく、彼は耳を澄まし、いざという場合に、物蔭ものかげから現われ出ようというのだ。そして、いずれを見ても、煩悩ぼんのうに心を乱されている人々の中で、ただ一人、頭の働きを失っていない遠謀深慮えんぼうしんりょある人物のごとく、事件いっさいの始末を引き受けようというのだ。
 ところで彼は、ルピック夫人が、利口りこうで確かな助手をしがっているということを感づいた。どうせ彼女は、それを口に出していうはずはない。それほど負け惜しみが強いのだ。契約は暗黙のうちに結べばいい。それで、にんじんは、今後、督促とくそくたず、しかも、報酬を当てにしないで働かなければならぬ。
 決心がついた。
 朝から晩まで、かまど自在鉤じざいかぎに鍋が一つかっている。冬は、湯がたくさんいるので、この鍋が幾度となく、いっぱいになったり、からっぽになったりする。鍋は燃え盛る火の上で、ぐらぐら音を立てている。
 夏は、食事の後で、皿を洗うためにその湯を使うだけである。ほかの時はえず小さな口笛を吹きながら、用もないのにいているのだが、その鍋のひびだらけの腹の下で、消えかかった二本のまきいぶっている。
 どうかすると、オノリイヌは、その口笛が聞こえなくなるのである。彼女は、こごんで耳を押しつける。
「みんな湯気ゆげになってしまった」
 彼女は、鍋の中へ、柄杓ひしゃくに一杯水を入れる。二本の薪をくっつけ、灰をきまわす。やがてまた、なつかしいしゃんしゃんいう音が聞こえ出す。すると、オノリイヌは安心して、ほかの用事をしに行くのである。
 仮に誰かが彼女にこういったとする――
「オノリイヌ、もう使いもしない湯を、どうして沸かすんだい。鍋をおろしておしまい。火をお消し。お前さんは、ただみたいに薪を燃すんだね。寒くなると、がたがたふるえてる貧乏人がどれだけあるか知れないんだよ。お前さんは一体、しまるところは締るひとなんだのにね」
 彼女は、返事に困って、頭をゆすぶるだろう。
 自在鉤の先に、鍋が一つ懸かっているのを、彼女は年が年じゅう見て来たのだ。
 彼女は、年が年じゅう、湯がたぎるのを聞き、鍋が空っぽになれば、たとえ雨が降ろうが、風が吹こうが、また日が照ろうが、年が年じゅう、そいつをいっぱいにして来たのだ。
 で、今ではもう、鍋に手を触れることはもちろん、それを眼で見る必要もない。彼女は、そらで覚えているのである。ただ耳を澄まして音を聴けばいい。それでもし、鍋が音を立てていなかったら、柄杓ひしゃくで一杯水をぎ込むのである。それはちょうど、彼女が南京玉なんきんだまへ糸を通すように、これこそれっこになっていて、いまかつて見当をはずしたことはないのだ。
 それが、今日はじめて、彼女は見当を外したのである。
 水がことごとく火の上に落ち、灰の雲が、うるさいものに腹を立てた獣のように、オノリイヌ目がけて飛びかかり、からだを包み、呼吸をつまらせ、皮膚をがした。
 彼女は、後すざりをしながら、叫び声を立てた。くさめをした。つばを吐いた。そしていう――
「地べたから鬼が飛び出したかと思った」
 眼がくっつき、それがちくちくと痛む。だが彼女は、真黒まっくろになった手を伸ばしてかまどの闇をさぐった。
「ああ、わかった」と、彼女は、びっくりしていう――「鍋がなくなってる」
「いや、そんなはずはない。さっぱりわからん」と、またいう――「鍋は、さっきまでちゃんとあったんだ。たしかにあった。蘆笛よしぶえのように、ぴいぴい音を立てていた」
 してみると、オノリイヌが、野菜の切りくずでいっぱいになった前掛けを窓からふるうために、向こうをむいている間に、誰かがそれをはずして行ったに違いない。
 だが、それは、一体、誰だ?
 ルピック夫人は、いかめしくそして落ち着きはらった様子ようすで、寝室の靴拭くつぬぐいの上へ現われる――
「なにを大騒ぎしてるんだい、オノリイヌ」
「騒ぎも騒ぎも、大変なことが起こったから、騒いでるんですよ」と、彼女は叫ぶ――「もうちっとで、わしゃ丸焦まるこげになるとこだ。まあ、この木履きぐつを見ておくんなさい。このスカアトを、この手を……。下着は跳ねだらけだし、カクシの中へは炭のかたまりが飛び込んでるだし……。」

ルピック夫人――その水溜みずたまりはなにさ。へっついがびしょびしょじゃないか。これで、綺麗きれいになるこったろう。
オノリイヌ――わしの鍋を、どうして黙って持ってくだね。どうせ、あんたがはずしたに違いない。
ルピック夫人――鍋は、このうちじゅうみんなのものなんだからね。それとも、あたしにしろ、旦那だんなさまにしろ、また子供たちにしろ、その鍋を使うのに、いちいちお前さんの許しを受けなきゃならないのかい?
オノリイヌ――わしゃ、無茶をいうかも知れませんよ。腹が立ってしょうがないんだから。
ルピック夫人――あたしたちにかい、それともお前さん自身にかい? そうさ、どっちにだい? あたしゃ物好きじゃないが、それが知りたいもんだね。まったくあきれた女だよ、お前さんは、鍋がそこにないからって、火の中へ柄杓にいっぱい水をぶっかけるとは、ずいぶん思いきったことをするじゃないか。おまけに意地を張ってさ、自分の粗相そそうは棚に上げて、他人に、あたしに、罪をなすくろうとする。こうなったら、あたしゃどこまでもお前さんをとっちめるよ。
オノリイヌ――にんじんぼっちゃん、わしの鍋は、どこへ行ったか知りなさらんか?
ルピック夫人――なにを知ってるもんか、あの子が。第一、子供には責任はない。お前さんの鍋はどうでもいいから、それより、昨日きのうお前さんはなんといったか、それを思い出してごらん。――「そのうちに、自分で、湯ひとつ沸かすことができなくなったっていうことに気がついたら、追い出されなくっても、勝手にひとりで出て行く」――こういったろう。現に、あたしには、お前さんの眼のわるいことはわかってた。だが、それほどまでひどいとは思ってなかったよ。もう、これ以上なんにもいわない。あたしの身になって考えてごらん。お前さんも、あたし同様、さっきからの事情はわかってるんだからね。自分で始末をつけるがいい。ああ、ああ、遠慮はいらないから、いくらでも泣くさ。それだけのことはあるんだもの。
[#改ページ]

知らん顔


知らん顔の挿絵

かあさん! オノリイヌ!」
 …………
 にんじんは、また、なにをしようというのか? 彼は、せっかくの話を台なしにしそうだ。幸い、ルピック夫人の冷やかな視線の下で、彼は、ぴたりと口をつぐんでしまう。
 オノリイヌに、こういう必要があるだろうか――
「僕がしたんだよ」
 どんなにしても、この婆さんを助けることはできないのだ。彼女はもう眼が見えない。もう眼が見えないのだ。気の毒だが、しかたがない。早晩、彼女は、我を折らねばならぬだろう。ここで、彼が自白をしても、それは彼女をいっそう悲しませるだけの話だ。出て行くなら出て行くがいい。そして、それがにんじんの仕業しわざとは気づかず、運命の避け難き兇手きょうしゅが、わが身に降りかかったものと思っているがいい。
 それからまた、母親にこういうと、どういうことになるのだ――
「母さん、僕がしたんだよ」
 自分の手柄を吹聴ふいちょうし、褒美ほうび一笑いっしょうにありつこうとしたところで、さあ、それが何になる? おまけに、うっかりすると、ひどい目にあうかも知れない。なぜなら、こういう事件に、彼がくちれる資格はないなんていうことを、ルピック夫人は誰の前でもいいかねないからだ。彼はそれを知っているのである。むしろ、母親とオノリイヌが鍋をさがす、それを手伝うようなふうをしているに限る。
 で、いよいよ、三人が一緒になって鍋をさがしはじめると、彼は誰よりも熱心らしく見えるのである。
 ルピック夫人は、うわの空で、真っ先に断念する。
 オノリイヌも、あきらめて、なにかぶつぶついいながら向こうへ行ってしまう。するとやがて、にんじんは、心配のあまり気が遠くなりそうだったのを、やっと我れに返るのである。それはちょうど、正義のやいばもちうるに要なく、再びさやに納まった形だ。
[#改ページ]

アガアト


アガアトの挿絵

 オノリイヌの代りには、その孫娘のアガアトが来ることになった。
 物珍ものめずらしそうに、にんじんは、この新来の客を観察した。この数日間、ルピック一家の注意は、彼から彼女のほうへ移るわけである。
「アガアトや」と、ルピック夫人はいう――「部屋へはいる前には、叩いて合図をするんだよ。だからって、なにも、馬みたいな力で戸を蹴破けやぶらなくったっていいんだからね」
「そろそろ始まった」と、にんじんは心の中でいった――「まあ、昼飯の時、どんなか見ててやろう」
 食事は、広い台所でするのである。アガアトはナフキンを腕にかけ、へっついから戸棚へ、戸棚から食卓へ、いつでも走る用意をしている。というのが、彼女はしずしずと歩くなんていうことがほとんどできないのである。ほっぺたを真赤まっかにし、呼吸をきらしているほうがいいらしい。
 そして、ものを言うときは、あんまり早口だし、笑うときは声が大きすぎ、それになんでも、あんまり一所懸命になりすぎるのである。
 ルピック氏が一番先へ席に着き、ナフキンをほどき、自分の皿を正面にある大皿のほうへ押しやり、肉をよそい、ソースをかけ、またその皿を引き寄せる。飲みものも自分でぐ。それから、背中を丸くし、眼を伏せたまま、つつましく、今日もいつもと同じように、我れ関せずというふうで食事をするのである。
 皿をえるときは、彼は椅子のほうへからだをそらし、しりをちょっと動かす。
 ルピック夫人は、自分手ずから、子供たちの皿につけてやる。第一番に兄貴のフェリックス。これは、もう我慢ができないほど腹をかしているからだ。次は姉のエルネスチイヌ。年長の故にである。おしまいがにんじん。彼は食卓の一等すみっこにいるのである。
 彼は固く禁じられてでもいるように、決してお代りをしない。一度よそった分だけで満足しているらしい。だが、もっとあげようといえば、それはもらうのである。飲みものなしで、彼は、嫌いな米を頬張ほおばる。ルピック夫人の御機嫌ごきげんを取るつもりである。一家のうちで、たった一人、彼女だけは米が大好きなのである。
 これに反して、誰に気兼きがねもいらない兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌは、お代りがしければ、ルピック氏のやり方にならって、自分の皿を大皿のほうへ押しやるのである。
 ただ、誰もしゃべらない。
「この人たちは一体どうしたんだろう」
 アガアトは、そう思っている。
 彼らはどうもしないのである。そういうふうなのだ。ただそれだけである。
 彼女は、誰の前でもかまわない、両腕を伸ばして欠伸あくびをしないではいられない。
 ルピック氏は、ガラスのかけらでも噛むように、ゆっくり食べている。
 ルピック夫人は、これはまた、食事の時以外はかささぎよりもおしゃべりなのだが、食卓につくと、手真似てまねと顔つきでものをいいつけるのである。
 姉のエルネスチイヌは、眼を天井に向けている。
 兄貴のフェリックスはパンのくずで彫刻をこしらえ、にんじんは、湯呑みがもうないので、皿についたソースをき取るのに、あんまり早すぎては食いしんぼうみたいだし、あんまり遅すぎてもぐずぐずしていたようだし、そこをうまくやろうと、そのことばかりに心をつかっている。この目的から、彼は、複雑な計算に没頭する。
 だしぬけに、ルピック氏が、水差しに水を入れに行く。
「わたしが行きますのに……」
と、アガアトがいう。
 あるいは、むしろ、そういったのではなく、ただそう考えただけである。彼女は、それだけでもう、世の中のあらゆる不幸に見舞われたように、舌がこわばり、口をきくことができない。だが、自分の越度おちどとして、注意を倍加するのである。
 ルピック氏のところには、もうほとんどパンがない。アガアトは、今度こそ、先手を打たれないようにしなければならぬ。彼女は、ほかの者のことを忘れるくらいにまで、彼のほうに気をつけている。
 そこで、ルピック夫人は、つっけんどんに、
「アガアトや、お前、そうしてると、からだから枝がえやしないかい」
 やっと、性根しょうねをつけられて、
「はい、なんでございます」
と、答える。
 それでも、彼女は、ルピック氏から眼を離さずに、心を四方にくばっているのである。彼女は、気がきくという点で、彼を感心させ、自分の値打ちを認めてもらおうというのだ。
 時こそ来たれである。
 ルピック氏がパンの最後のひと口を、今や口へほうり込んだと思うと、彼女は戸棚のほうへ飛んで行き、まだ庖刀ほうちょうも入れてない五斤分の花輪形パンをもって来て、それをいそいそと彼のほうに差し出した。主人のしいものが、黙っていてもわかるといううれしさで、胸がいっぱいだ。
 ところが、ルピック氏は、ナフキンを結び、食卓を離れ、帽子をかぶり、裏庭へ煙草たばこいに行くのである。
 食事がすんでから、またはじめるなんていうことを、彼はしない。
 釘づけみたいに、そこへ立ったまま、アガアトは、ぽかんとして、五斤かかる花輪形パンをおなかの上に抱え、浮袋会社の蝋細工看板ろうざいくかんばんそっくりである。
[#改ページ]

日課


日課の挿絵

「拍子抜けがしたろう」と、にんじんは、台所で、アガアトと二人きりになってから言った――「がっかりしちゃだめだよ。こんなことはしょっちゅうあるんだから……。だけど、そんなびんをもってどこへ行くの」
「穴倉へですよ、にんじんぼっちゃん」

にんじん――おっと待った。穴倉へは僕が行くんだ。梯子段はしごだんがあぶなくって、女の人はすべって首の骨をへし折っちまいそうなんだ。そいつを僕が平気でりられたもんで、それから、この僕でなけりゃならないってことになったんだ。赤い封蝋ふうろうと青い封蝋をちゃんと見分けられるしね。僕が空樽あきだるを売ると、そいつは僕の収入みいりになるんだぜ。兎の皮だってそうだよ。おかねはおかあさんに預けとくんだ。
よく打合せをしとこう、いいかい、お互いに仕事の邪魔をしないようにね。
朝は、僕が犬の小屋をける。それから、スープも僕がやることになってる。晩は、これも僕が、口笛で呼んで寝かせつける。町へ出てなかなか帰ってこないような時は、待ってるんだ。それから、母さんとの約束で、鶏小舎とりごやは、僕がいつもめに行くことになってる。僕はまた草むしりもする。どんな草でもいいってわけにいかないからね。くっついてる土は、足ではらって、あとの穴をめとく。草は家畜にやるんだ。
運動のために、僕は、とうさんの手伝いをしてたきぎを切ることになっている。
父さんが生きたまま持って帰った猟の獲物えものは、僕が首をひねる。君とエルネスチイヌ姉さんが羽根をむしるんだぜ。
魚のはらは、僕がく。わたも出す。それから、浮嚢うきぶくろかかとでぴちんとつぶす。
そういう時、こけを取るのは君だよ。それから、井戸から水を汲み上げるのもね。
糸巻の糸をほどく時は、僕が手伝うから。
コーヒーは、僕がく。
旦那さんが泥だらけの靴をいだら、僕がそいつを廊下へ持って出る。だが、エルネスチイヌ姉さんは、上履うわぐつを持ってくる権利をだれにも譲らないんだ。自分で刺繍ししゅうをしたからなんだ。
大事な使いは僕が引き受ける。遠道とおみちをするときだとか、薬屋や医者へ行く時もそうだ。
君のほうは、小さな買物やなんか、村んなかだけの走り使いをするわけだ。
しかし、君は、毎日二、三時間、それも年が年じゅう、川で洗濯をしなければならない。こいつが一等つらい仕事だろう。気の毒だがやってくれ。僕にゃ、それだけはどうすることもできないんだ。でも、時々は、暇があったら、僕も手をかしてあげるよ、洗濯物を生籬いけがきの上へひろげる時なんかにね。
ああ、そうそう、注意しとくけどね、洗濯物は、決して果物の樹の上へひろげちゃいけないよ。旦那さんは君に小言こごとなんか言やしない。いきなりそいつを地べたの上へはじき飛ばしちまうから。すると奥さんは、ちょっと泥がついただけで、もう一度川へ行ってこいというよ。
靴の手入れは君に頼むよ。猟に行く靴へは、うんと油を塗ってくれたまえ。ゴム靴には、ぽっちり靴墨くつずみをつけるんだ。でないと、あいつは、こちこちになるからね。
泥のついた半ズボンは、一所懸命に落とさなくったっていい。旦那さんは、泥がついてたほうがズボンの持ちがいいっていうんだ。なにしろ、掘り返した土んなかを、すそもまくらずに歩くんだからね。旦那さんは僕を連れてく時がある。獲物を僕が持つんだ。そういう時、僕は、ズボンのすそをまくったほうがいい。すると、旦那さんは僕にこういうんだ――
「にんじん、お前はろくな猟師になれんぞ」
しかし、奥さんは、僕にこういうんだ――
「ズボンをよごしたら承知しないから……。耳がちぎれても知らないよ」
こいつは、趣味の問題だ。
要するに、君だってそんなに悲観することはないさ。僕の休暇中は、二人で用事を分担しよう。それから、姉さんと兄さんと僕が、また寄宿へ帰るようになったら、君の用事も少なくなる。つまり、おんなじわけだ。
それに、誰も君に対しちゃ、それほどつらく当りゃしないよ。うちに来る人たちにいてみたまえ、みんなそういうから。――姉さんのエルネスチイヌは優しきこと天使のごとしだし、兄貴のフェリックスは心ばえいとも気高けだかく、旦那さんは、資性廉直しせいれんちょく、判断に狂いがない。奥さんは、こりゃ、まれに見る料理の名人だ。君の目からは、恐らく、家族じゅうで僕が一等むずかし屋に見えるだろう。なに、根を洗や、ほかのもんと違いはないのさ。ただ、扱い方を知ってりゃいいんだ。それに、僕のほうでも考えるし、悪いところは直しもする。謙遜けんそんぶらずにいえば、僕、だんだん人間がましにはなって来たんだ。もし君のほうで、少しでもその気になってくれりゃ、僕たちは、非常にうまく調子を合わして行けると思うんだ。
ああ、だめだぜ、僕のことをこれから「にんじん坊ちゃん」なんて呼んじゃ。「にんじん」って呼びたまえ、みんなとおんなじように。「若旦那さん」ていうよりゃ短くっていい。ただ君のお祖母ばあさんのオノリイヌみたいに、「こうだよ」とか、「こうしてやろう」なんていわないでくれたまえ。僕あ、それが嫌いさ。君のお祖母さんは、いつもそういうんだもの、僕あしゃくにさわってね。
[#改ページ]

盲人めくら


盲人の挿絵

 つえの先で、彼は、そっと戸を叩く。

ルピック夫人――またやって来た。一体なんの用があるんだろう。
ルピック氏――それがわからんのか、お前は。いつもの十銭玉がしいからさ。一日の食い分だ。戸をけてやれ。

 ルピック夫人は、仏頂面ぶっちょうづらをして、戸を開ける。盲人めくらの腕をとって、あわただしく引きずりこむ。自分が寒いからだ。
「こんにちは、そこにいるみなさん」
盲人めくらはいった。
 彼は前に進む。短い杖が、鼠をうように、小刻こきざみに床石ゆかいしの上を走る。そして、一つの、椅子いすにぶつかる。盲人は腰をおろす。かじかんだ手を暖炉だんろのほうに伸ばす。
 ルピック氏は、十銭の銀貨をつまんで、こういう――
「そら!」
 彼は、それっきり相手にならない。新聞を読みつづける。
 にんじんは、面白おもしろがっている。例のすみっこにしゃがんで、盲人の木履きぐつを眺めている。それがだんだんけて行くのである。そして、そのまわりには、もう、みぞが描かれている。
 ルピック夫人はそれに気がつく――
「その木履きぐつを貸してごらん、おじいさん」
 彼女はそれを暖炉の下へ持って行く。もう遅い。あとには水溜りが残っている。盲人めくら不安気ふあんげである。足が湿しめを感じ、片一方ずつ上へあがる。泥のまじった雪を押しのけ、そいつを遠くへ散らかす。
 にんじんは、爪で地べたをこすり、汚れた水に、こっちへ流れてこいという合図をし、深い石の割目われめを教えてやる。
「十銭もらったんだから、それでもういいじゃないか」
 聞こえよがしに、ルピック夫人は、こういうのである。
 が、盲人めくらは、政治の話をしだす。はじめは恐る恐る、しまいには誰はばからず。言葉につかえると、彼は杖を振りまわす。ストーヴの煙突へ握拳にぎりこぶしをぶつけ、あわてて引っ込める。それから、油断はならぬというふうに、かわききらない涙の奥で、白眼をくるりと動かすのである。
 時として、ルピック氏は、新聞を裏返しながら――
「なるほど、そりゃそうだろう。だが、じいさん、そりゃ、たしかなことかい?」
「たしかなことかって……?」と、盲人めくらは叫ぶ――「そいつあ、あんまりだ。まあ、いておくんなさい、旦那だんな。わしがどうして目をつぶしたかっていうと、そりゃこうだ」
「ちょっくら出て行きそうもない」
と、ルピック夫人はいう。
 なるほど、盲人めくらは、すっかりいい気持になり、自分の災難というのを話す。伸びをする。そして、全身あめのごとく、そのままそこへ、へばりついてしまう。今までは、血管の中を、氷のかたまりが、溶けながらぐるぐる廻っていたのだ。それが、こうしていると、その着物や手足は油汗をかいているとしか思えない。地べたを見ると、水溜りがだんだん拡がり、にんじんのほうへ近づいて行く。いよいよやって来た。
 目標もくひょうあれなのだ。
 やがて、にんじんは、それで遊べるのである。
 だが、そのうちに、ルピックス夫人は、巧妙な手段をめぐらし始める。彼女は、盲人めくらのそばをすれすれに歩き、わざとひじをぶつけたり、足を踏んだりするのである。彼はしかたがなく、後退あとすざりする。で、とうとう、火のの伝わってこない食器棚と袋戸棚の間へ押し込められてしまう。盲人めくらは、途方に暮れ、手探りをし、手真似てまねで何かいい、指の先が獣のようにいまわるのである。彼は、自分だけの闇を払いのけようとする。またぞろ、氷の塊りができてきた。なんのことはない、彼は、以前どおり、こごえつきそうだ。
 そこで、盲人めくらは涙声で彼の物語を終わるのである――
「そういうわけさ、ね、それでおしまいさ。眼玉もなくなるし、なにもかもなくなる。へっついのなかの暗闇くらやみばかり……」
 彼の杖が手からすべり落ちる。ルピック夫人は、それを待っていたのだ。駈け寄って、杖を拾いあげる。そして、そいつを盲人めくらに渡すのだが……実際は渡さない。
 盲人めくらは、受け取ったつもりだが、手にはなんにも持ってないのである。
 彼女は、うまくだまして、また相手を引き寄せる。そして、木履きぐつをはかせ、戸口のほうへ連れて行く。
 それから、彼女は、ちょっと意趣返いしゅがえしのつもりで、盲人めくらの腕をつねり、通りへ押し出す。そこは、雪をふるい落とした灰色の絨毛わたげの下である。締め出しを食った犬みたいに、鼻を鳴らしている風の真面まおもてである。
 で、戸を閉める前に、ルピック夫人は、つんぼにでもいうように怒鳴どなる――
「またおいで。今のお金をおっことさないようにね。今度の日曜だよ、お天気がよかったら。それから、お前さんがまだこの世にいたらね。まったく、お前さんのいうとおりさ。誰が死んで誰が生きてるかわかるもんじゃない。誰でも苦労っていうものはあるし、神さまはみんなのものだからね!」
[#改ページ]

元日


元日の挿絵

 雪が降っている。元日がおめでたいためには、雪が降らなければならぬ。
 ルピック夫人は、用心深く、中庭の開き戸を締めたままにしておくのである。すると、もう子供たちがやって来て、※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねをゆすぶっている。下のほうをこじけようとする。はじめは遠慮がちに、だが、しまいには、いまいましそうに、木履きぐつり散らす。ルピック夫人は窓から、そっとようすをうかがっているのである。いよいよだめと知ると、彼らは、それでもまだ眼だけは窓のほうを見上げたまま、あとすざりをして遠ざかって行く。その跫音あしおとが雪の中に吸い込まれてしまう。
 にんじんは、寝台から飛びおり、裏庭の水槽みずおけへ顔を洗いに行く。石鹸は持って行かない。水槽みずおけは凍っている。氷を割らなければならない。この、しょっぱなの運動は、暖炉だんろの熱よりも健康な熱を全身に伝えるのである。ところで、顔はらしたことにしておく。いつ見てもきたないといわれ、それが大々的にお化粧けしょうをした時でさえそうなのだから、彼は一番よごれたところだけけばいいのである。
 儀式らしく、ほがらかに、さわやかに、彼は兄貴のフェリックスのうしろへ並んで立つ。兄貴のフェリックスは総領である姉のエルネスチイヌの後ろに控えている。三人は食堂になっている台所へはいって行く。ルピック夫妻はなんでもないような顔をして、そこへ列席しにやってくる。
 姉のエルネスチイヌが、この二人に接吻をして、さていう――
「おはよう、とうさん、おはよう、かあさん。新年おめでとう。本年もお達者でお暮しになりますように。それから、来世は極楽へおいでになりますように……」
 兄貴のフェリックスも、同じことを、きわめて早く、文句の終りへいちもくさんに駈け出して行く。そして、同様に接吻をする。
 が、にんじんは、帽子の中から、一通の手紙を取り出す。封をした封筒の上に「我が親愛なる両親の君へ」とある。所番地は書いてない。種類まれなる鳥が、色彩はなやかに、その一隅いちぐうかすめているのである。
 にんじんは、そいつをルピック夫人のほうに差し出す。彼女は封を切る。紙一面、満開の花に飾られ、その上、レースのふちが取ってある。そして、レースのあなへは、しばしばにんじんのペンが落ち込んだらしく、隣りの字が霞んでしまっている。

ルピック氏――わしには、なんにもないんだね。
にんじん――それ、二人にあげるんだよ、母さんがすんでから見るといいや。
ルピック氏――よし、お前は、わしより母さんのほうが好きなんだね。それならそれで、この新しい十銭玉が、お前のポケットの中へはいるかどうか見ているがいい。
にんじん――ちょっと待ってったら……母さんがもうすむから。
ルピック夫人――文章はしゃれてるけれど、字がへたで、あたしにゃ読めないよ。

「さ、今度は父さんの番だ」と、にんじんはき込んでいう。
 にんじんが、まっすぐに突っ立って、返事を待っている間、ルピック氏は、一度、それからもう一度、手紙を読む。じっと見ている。いつものくせで、「ふむ、ふむ」という。そして、テーブルの上に、そいつを置く。
 目的が完全に達せられると、手紙は、もう何の役にも立たない。それこそ、みんなのものである。見ようと、触ろうと、めいめいの勝手だ。姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスが、順番に取り上げて、つづりの間違いをさがし出す。ここで、にんじんはペンを取り替えたとしか思えない。読めないという字がちゃんと読めるのである。手紙が彼の手にかえる。
 それを、こっちへひっくり返し、あっちへひっくり返しして見る。薄穢うすぎたない笑い方をする。
「これで気に入らんというのかい?」
 そう問い返しているように見える。
 やっと、彼は、手紙を帽子の中へ押し込む。
 お年玉の分配がはじまる。姉のエルネスチイヌは自分のせいほどの、いや、それよりも大きい人形である。兄貴のフェリックスは、箱入りの鉛の兵隊――今やまさに戦争をしようとしているところだ。
「お前には、取って置きのものがあるんだよ。なんだか当ててごらん」
 ルピック夫人は、にんじんにこういう。

にんじん――ああ、そうか。
ルピック夫人――なにが「ああ、そうか」だい。もう知っているなら、見せる必要はないね。
にんじん――ううん、そうじゃないよ。もし知ってたら、僕、首だってあげらあ。

 彼は、自らを信ずるもののごとく、おごそかに両手を上に差し上げる。ルピック夫人は食器棚を開ける。にんじんは呼吸いきをはずませる。彼女は、腕を肩のところまで突っ込み、ゆるゆると、霊妙不可思議れいみょうふかしぎな手つきで、黄色い紙にのせた赤い砂糖細工のパイプを引き出してくる。
 にんじんは、ためらわず、喜びにおむてを輝かす。彼は、この場合、自分のすべきことを知っている。即座に、両親の面前で、同時に、姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスのうらやましそうな眼つき(だが、何人なんびともすべてのものを得るわけには行かぬ)をしりえに、一服おうと思う。赤い砂糖のパイプを、二本の指だけでつまみ、ぐっとからだをらして、頭を左のほうへかしげる。彼は、口を丸め、ほおをへこまし、力を入れ、音を立てて吸い込む。
 それから、どえらい煙を天までとどくように吹きあげ、さて彼はいう――
「こいつは、具合がいい。よく通るぜ」
[#改ページ]

行きと帰り


行きと帰りの挿絵

 ルピックさんのぼっちゃんたちとお嬢さんが、休暇で帰って来る。乗合馬車からり、遠くのほうに両親の姿が見えると、にんじんは、「さてどうしたものか」と思う。
 ――この辺から走って行ってもいいだろうか?
 彼は躊躇ちゅうちょする。
 ――まだ早い。そんなことをすると息が切れちまう。それに、何事なにごとでも、程度を越えてはいかん。
 そこで、もう少したってということにする。
 ――ここいらから走ってやろうかな……いや、あの辺からにしよう……。
 彼は、自分自身に、いろんなことを問いかける。
 ――帽子は、いついだもんだろう? どっちへ前に接吻すべきだろう?
 ところが、兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌとは、彼を置いてきぼりにする。そして、両親の愛撫あいぶを、二人っきりで半分ずつとってしまう。にんじんがやって来た時には、もうほとんど、彼の分は残っていないのである。
「なんだい、そりゃ」と、ルピック夫人はいう――「お前は、その年になって、まだとうさんなんていうのかい? お父さんっておいい。そうして、ちゃんと、握手をするんだ。そのほうが、男らしい」
 そういっておいて、彼女は、たった一度、そのひたいに接吻してやる。ひがむといけないから。
 にんじんは、いよいよ休暇だと思うと、うれしくってたまらない。あんまりうれしくって、涙が出るのである。もっともこういうことは、しばしばあるので、彼は、しばしば、心とあべこべの顔つきをする。
 寮へもどるという日(それは十月二日、月曜の朝となっていて、授業の始まりは聖霊のミサである)――その日、ルピック夫人は、乗合の鈴が遠くから聞こえだすと、いきなり、子供たちのほうへのしかかり、彼らを、ひとまとめにして、両腕で抱き締める。にんじんは、ところが、その中にはいっていないのである。彼は根気よく、自分の順番を待っている。手だけは、もう、馬車の革具かわぐのほうへ伸ばし、別れの言葉もちゃんと用意している。彼は、まったく悲しいのである。だからこそ、うたいたくもない歌を、ふんふん唱っている。
「さよなら、おかあさん……」
と、鷹揚おうように、彼はいった。
「おや、一体お前は、なんのつもりだい、そりゃ……。みんなとおんなじに、あたしを、母さんって呼んだらいいじゃないか。こんな子がどこかにいるだろうか。まだ乳臭ちちくさい、鼻垂はなたれ小僧のくせして、それで、人と違ったことがしたいなんて……」
 だが、ルピック夫人は、彼の額に、一度だけ接吻してやるのである。ひがむといけないから。
[#改ページ]

ペン


ペンの挿絵

 ルピック氏が、兄貴のフェリックスと弟のにんじんとを入れたサン・マルク寮というのは、そこから、中学校へかよって、課業だけを受けに行くことになっている。で、毎日四度、寮生たちは同じ道をき帰りするわけである。時候がければ、すこぶるせいせいするし、また、雨降りでも、ごく近くなのだから、れても大したことはなく、かえってからだのほてりをますぐらいのもので、その点、この往復は寮生にとって、一年を通じての健康法なのである。
 今日もお昼に、彼らは、足を引きずり、羊のれのようにぞろぞろ中学校から帰ってくる。にんじんは、首をれて歩いていた。
「おい、にんじん、お前の親爺おやじがいるじゃないか、見ろよ」
 誰かがそういった。
 ルピック氏は、こういうふうにして、息子たちに不意打ちをくらわすのが好きである。手紙もよこさずにおいて、やって来る。で、だしぬけに、まちの角で向い側の歩道の上に突っ立ち、両手をうしろに組み、巻き煙草たばこを口にくわえている彼の姿を見つけ出すのである。
 にんじんと兄貴のフェリックスは、列から離れ、父親のほうへ駈け出して行く。
「やっぱりそうだ!」と、にんじんはいう――「僕、誰かと思った……。だって、とうさんのことなんか、ちっとも考えてなかったんだもの」
「お前は、わしの顔を見なきゃ、わしのことは考えんのだ」
と、ルピック氏はいう。
 にんじんは、そこで、なんとか愛情をめた返事をしたいと思った。が、何ひとつ頭に浮かばない。それほど、一方に気を取られている。彼は、爪先つまさきで伸びあがり、父親に接吻しようと、一所懸命なのだ。最初一度、くちびるの先がひげにさわった。ところが、ルピック氏は、逃げるように、つんと頭を持ち上げてしまったのである。それからもう一度、前へこごみかけて、また後退あとすざりをした。にんじんは、そのほっぺたをと思ったのだが、それも、だめだった。鼻の頭をやっとかすったぐらいだ。彼は、空間に接吻をした。それ以上やろうとはしない。彼は、もう、気持がこじれ、一体なぜこんな待遇を受けるのか、そのわけを知りたいと思った。
 ――おやじは、もうおれを愛してはいないのかしら。と、心の中でつぶやいた――おやじは、兄貴のフェリックスにはちゃんと接吻をした。後退あとすざりなんかしないで、するままにさせていた。どういうわけで、このおれを避けるのだ。おれをひがませようっていうのか。大体ふだんから、そういうところが見える。おれは三月みつきも両親のそばを離れていると、もう会いたくってしょうがないんだ。こんど会ったら仔犬のように首っ玉へ飛びついてやろうと、そういつも思っている。愛撫あいぶと愛撫のむさぼり合いだ。ところが、いよいよ会ってみる。先生たちは、きっとおれの気持を腐らしちまうんだ。
 頭が、この悲しい考えでいっぱいになる。すると、にんじんはギリシャ語がちっとは進むかというルピック氏の問いに対して、うまい返事ができないのである。

にんじん――それも科目によるさ。訳のほうは作文よりゃらくだよ。だって、訳のほうは想像で行くもの。
ルピック氏――そんなら、ドイツ語は?
にんじん――こいつは、発音がとてもむつかしいや。
ルピック氏――こね野郎やろう! それじゃお前、戦争が始まって、プロシャ人に勝てるかい、やっこさんたちの言葉も話せないで……。
にんじん――ああ、そりゃ、そん時までには、ものにするさ。父さんはいつでも、戦争戦争っておどかすけど、僕が学校を卒業するまで、戦争は起こりっこないよ。待っててくれるよ。
ルピック氏――この前の試験には、何番だった? まさか、びりっこけじゃあるまいな。
にんじん――びりっこけのやつも、一人はいなくっちゃ。
ルピック氏――こね野郎! わしは、お前たちに昼飯を御馳走ごちそうしてやろうと思ってたんだぜ。それがさ、今日は日曜だとまだってこともあるが――普通の日じゃ、お前たちの勉強の妨げになるといかんからな。
にんじん――僕自身としちゃ、別に大してすることもないんだけど……。にいさんは、どう……?
兄貴のフェリックス――それが、うまい工合に、今朝、先生が宿題を出すのを忘れたんだよ。
ルピック氏――それだけ余計復習ができるわけだ。
兄貴のフェリックス――もうとっくに覚えてるよ。昨日きのうのところとおんなじだもの。
ルピック氏――なにはともあれ、今日は帰ったほうがよかろう。わしは、なるべく日曜までいることにする。そうしたら、今日のめ合わせをしよう。

 兄貴が口をとがらしても、にんじんが黙りこくっていても、それで、「さよなら」が延びるわけではない。別れなければならない時が来た。
 にんじんは、それを心配しながら待っていたのである。
 ――今度は前よりうまく行くかどうか、ひとつ、やってみよう。おやじは、おれが接吻するのをいやがっているのか、それが、今いよいよ、そうかそうでないかがわかるんだ。
 そこで、意を決し、視線をまともに向け、口を上へ差し出して、彼は、近づいて行く。
 が、ルピック氏は、また容赦なく、その手で彼をさえぎり、そしてこういった――
「お前は、その耳へはさんでるペンで、しまいにわしの眼へ穴をあけるぜ。わしに接吻する時だけは、どこかほかへしまってくれることはできんか? わしを見てくれ、ちゃんと煙草たばこは口からとってるじゃないか」
にんじん――ああ、ごめんよ、父さん……。ほんとだ。僕がうっかりしてると、いつ、どんな間違いをしでかすか知れないね。前にも、誰かにそういわれたんだよ。だけど、このペンは、僕の耳んとこへ、そりゃうまくはさまるもんだから、しょっちゅう、そのままにしとくのさ。で、つい忘れちゃうんだ。まったく、ペンだけでもはずさないって法はないね。
ああ、僕、ほんとうに、うれしいや、父さんは、このペンがこわかったんだっていうことがわかって……。
ルピック氏――こね野郎! 笑ってやがる。わしを眼っかちにしそこなって……。
にんじん――ううん、そうじゃないんだよ、父さん。僕、ほかのことで笑ってるんだよ。さっきから、また、僕流ぼくりゅうの馬鹿馬鹿しい考えを起こしたからさ、この頭ん中へ……。
[#改ページ]

赤いほっぺた


赤い頬ぺたの挿絵


 夜の点呼がすむと、サン・マルクの寮監先生りょうかんせんせいは寝室から出て行く。すると生徒はめいめい、さやの中へおさまるように、できるだけちぢこまって毛布の中へすべり込む。外へはみ出ないようにだ。室長のヴィオロオヌは、くるりと左右を見廻し、みんながとこいたかどうかをたしかめる。それから爪先つまさきを立てて、そっと燈火あかりを小さくする。そうすると、やがて、隣り同士で、おしゃべりが始まるのである。枕から枕へ、ひそひそと声が伝わり、動くくちびるからは、寝室いっぱいに、なんともつかぬざわめきが立ち昇って、時々、その中で、子音しいんの短くれる響きが聞き分けられる。
 これが、低くにぶく、絶え間なく、はては、じれったくなる。実際、この種のささやきは、まるで鼠のように、姿は見せず、ただそこここで、せっせと沈黙をかじっているのだとしか思えない。
 ヴィオロオヌは、古靴をひっかけ、一時いっとき寝台の間をうろつき廻る。こっちでは一人の生徒の足をくすぐってみたり、あっちでは、もう一人の生徒の頭巾ずきんふさをひっぱったりする。そうした挙句あげく、マルソオのそばで立ち停るのである。この生徒とは、毎晩、夜のけるまで長っ話をし続けて、彼はそれこそ、みんなに模範を示すのだ。たいていの場合、生徒たちは、話をやめてしまっている――口の上へ、毛布をだんだん引っかぶせて、順ぐりに呼吸いきがつまったというふうだ。そこで、みんな眠ってしまうのだが、その間、室長は、まだマルソオの寝台の上へからだをこごめ、ひじをしっかり鉄の棒の上に支え、前腕がしびれても気がつかず、指の先までむずがゆくなっていても、それはいっこう平気なのである。
 彼は子供らしい物語に自ら興じ、ざっくばらんな打明け話や、いわゆる「心の想い出」というやつで、相手の眼をえ返らしてしまう。やがて、相手の顔は、ほのかに、き通るほど色づきはじめる。内側から照らされたようだ。彼は、それが可愛かわいくてたまらぬ。こうなるともう、皮膚ではない。ずいのような組織だ。そのうしろでは、すかし紙をあてた地図のように、ちょっとした雰囲気の変化で、小静脈しょうじょうみゃくがみるみるうちにもつれ合うのである。マルソオは、それに、第一、なぜともわからず、不意に顔を赤らめるという魅惑的みわくてきな手段をもっていて、それでまた、彼は、少女のようにだれかれから好かれるわけなのだ。よく、仲間の一人が、片っ方のほっぺたを指の先で押さえ、急にそれをはなすと、そこへ白い跡が残り、やがて、そいつが、見事な赤い色でおおわれる。それは、清水の中へ葡萄酒をたらしたようにぱっと拡がるのだが、その色合いはしごく変化に富み、薔薇色ばらいろの鼻先からライラック色の耳に至るまで、徐々にぼかされて行くのである。誰でも、めいめいが、それをやってみようと思えば、マルソオは機嫌きげんよく実験のもとめに応じるのだ。人はそこで彼に「行燈あんどん」とか、「提燈ちょうちん」とか、「赤頬あかほっぺ」とかいう異名いめいをつけた。が、この、自分勝手に顔色をほてらせ得るという性能に対して、彼をうらやむものはすくなくなかった。
 にんじんは、ちょうど、彼と寝台を並べていたし、わけても、彼をねたましく思った。自分は、淋巴質りんぱしつの、ひょろひょろの、顔に粉をふいたピエロ――むだとは知りながら、痛くなるほど、血ののない自分の皮膚をつねりあげた。そんなことをして、どうしようというんだ! なに、それも毎度のことではないが、ちょっぴり、怪しげな褐色ちゃいろの跡をつけるためにである。彼は、マルソオの朱色の頬を、いやというほど引っきむしり、蜜柑みかんのように皮をひんむいてやりたいほどだ。
 よほど前から、どうも気になっていたので、彼は、その晩、ヴィオロオヌが来ると、じっと聴き耳を立てていた。あやしいぞと思うのは、恐らく無理ではあるまい。室長のうさんくさい素振そぶりから、ほんとのことを嗅ぎ出そうと思ったのだ。彼は、彼独特の、あらゆる少年スパイ式術策じゅつさくをめぐらす。空鼾からいびきをかき、ことさら寝返りを打ち、そっちへちょうど背中を向けてしまうようにする。それから、うなされでもしたように、ひと声、けたたましい叫びを立てる。これで、室全体がびっくりして眼をまし、毛布という毛布は、激しく波形の運動を起こすのである。さて、ヴィオロオヌが向こうへ行ってしまうと、彼は、鼻息荒く、上半身を寝台から乗り出し、マルソオに向かっていう――
「あめちょこ! あめちょこ!」
 返事がない。にんじんはひざちあがってマルソオの腕をつかむ。そして、力まかせにゆすぶりながら、
「やい、あめちょこ!」
 あめちょこは、聞こえないらしい。にんじんは、躍気やっきとなり、またやり出す――
「だらしがねえぞ! おれが見てなかったと思うのか! やい、こら、あいつにキスさせなかったか! え、どうだ。それでも、てめえ、あいつのあめちょこじゃないのか!」
 彼は、人にからかわれた鵞鳥がちょうみたいに、首を前に突き出し、にぎこぶしを寝台のふちにあてて伸び上がる。
 が今度は、返事があった。
「だから、それがどうしたんだ」
 腰を浮かしたと思うと、にんじんは、毛布を引っかぶった。
 室長が、とっさの間に現われて、その場へ舞い戻っていたのだ。


「そうだ」と、ヴィオロオヌはいった――「そうだ、僕はお前にキスした。なあ、マルソオ、その通りいったっていいよ。お前はちっとも悪かないんだもの……。僕は、お前のひたいにキスしたんだ。それに、にんじんは、あの年で、もう邪気じゃき満々まんまんなもんだから、それが純粋な、清浄潔白しょうじょうけっぱくな接吻で、父親が子供にする接吻みたいなものだってことがわからないんだ。僕は、お前を子供のように愛してるんだ。あるいは、弟のようにっていうほうがよけりゃ、それでもいい。それがあいつにゃわからないんだから、明日あしたになったら、そこいらじゅうへ、なんのかんのっていい触らすがいいさ、あのちびころ間抜まぬ野郎やろう!」
 この言葉を聞いて、にんじんは、まだヴィオロオヌの声がかすかに耳へ響いてくるのに、急に眠った振りをしはじめる。それでも、頭だけは持ちあげて、その先を聞こうとしていた。
 マルソオは、呼吸いきをするかしないかで、室長の言葉に聴き入っている。それは、どこまでも当り前だとは思いながら、彼は、ある秘密の暴露ばくろをおそれるように、ふるえているからだ。ヴィオロオヌは、できるだけ小声で続ける。何を言ってるのか、ほそぼそと、遙か遠くで、音節の区切りもわからないくらいだ。にんじんは、またそっちへ向き直るわけにもいかず、腰をずらしながら、目立たないようにからだを寄せていったが、もうなんにも聞こえない。彼の注意力はいやが上にもかき立てられ、耳がうつろになり、漏斗じょうごの口のように口をくかと思われた。が、それでも、音らしい音は、はいってこないのである。
 彼は、時たま部屋の戸口に立って、中のようすをうかがったことがある。片眼を錠前に押しつけ、できればこのあなをもっと拡げて、見たいものをかすがいかなんかで手近へ引き寄せられたらと思う、あの努力感がこれに似たものだったことを覚えている。それにしても、ヴィオロオヌは、どうせ同じ文句を繰り返しているにきまっているのだ――
「そうだ、僕の愛情は純の純なるものだ。それがつまり、このちびころの間抜け野郎にゃわからないんだ!」
 さて、室長は、影のごとく静かに、マルソオの額の上へこごんでこれにキスをし、ちょびひげの先をこすりつけ、それから、からだを起こして、そこを立ち去る。寝台の列の間をすべり抜けて行く間、にんじんはそいつを見送っている。ヴィオロオヌの手がどうかして誰かの枕のはしに触れると、こいつは安眠妨害あんみんぼうがいだ。その生徒は、大きく溜息ためいきをついて寝返りをうつのである。
 にんじんは、しばらくようすを窺っている。ヴィオロオヌがまた突然引っ返してこないとも限らないからだ。すでにもうマルソオは、寝床の中で縮こまっている。毛布を眼までかぶり、その実、眠るどころではなく、どう考えていいかわからないさっきの出来事できごとを、それからそれへと想い浮かべているのだ。あんなことはちっとも厭らしいことではない、だから、苦にするには及ばないと彼は思った。それにしても、掛布団かけぶとんの下の暗闇の中に、ヴィオロオヌの面影おもかげがちらちらと浮かびあがる。それは今まで数々かずかずの夢の中で、彼をぽっとさせた、あの、女たちの面影のように優しいものだ。
 にんじんは待ちくたびれた。まぶたが、磁気じきを帯びたように、両方から近づく。彼は、消えそうで消えないガスのをじっと見つめていようと思う。が、パッパッと音を立てて、火口ひぐちから出渋でしぶる小さな焔の明滅を、やっと三つ数えたきりで、彼は眠入ねいってしまう。


 あくる朝、洗面所で、みんながタオルの隅をちょいと水に浸し、頬骨の上を、さも冷たそうに、軽くでている間に、にんじんは、意地の悪い眼つきでマルソオのほうをていた。が、やがて、精いっぱい獰猛どうもうな調子で、一音一音を喰いしばった歯の間から吹き出すように、またぞろ、喰ってかかる――
「あめちょこ! あめちょこ!」
 マルソオの頬は朱色にまる。が、彼は怒らずに、ほとんど哀願せんばかりの眼つきでこたえる――
「だって、そりゃ嘘だっていってるじゃないか。君が勝手にそう思ってるんだ」
 室長が手の検査をしにやって来た。生徒たちは、二列に並んで、機械的に最初は手の甲、次にてのひらと、すばやくひっくり返して見せるのである。それがすむと、その両手をなるべくあたたかいところへしまい込む。ポケットの中とか、あるいは、一番近くにある羽根布団のぬくもりの下とか。日頃、ヴィオロオヌは、手なんか見ないのが普通である。それが、今日に限って、あいにく、にんじんの手が綺麗きれいでないという。もう一度水道で洗ってくるように――この注意が、にんじんの気に入らない。なるほど、青味がかった汚点しみのようなものが目につく。しかし、彼は、それが凍傷しもやけの始まりだといい張った。どうせ、にらまれているんだ。
 ヴィオロオヌは、彼を寮監先生のところへやらねばならぬ。
 寮監は、朝早くから起き、暗緑色の書斎で、歴史の講義を準備している。これは自分の暇々に、上級組の生徒にしてやろうというのだ。テーブル掛けの上へ、太い指先を平たく押しつけて、主要なところへ標柱ひょうちゅうてたつもりになる。――ここはローマ帝国の没落、まん中はトルコ軍の君府攻略くんぷこうりゃく、その先は、近代史、これがどこから始まるかわからず、どこまで行っても終わらない代物しろものだ。
 彼は、だぶだぶの部屋着へやぎを着ている。いのはいった飾りひも巌丈がんじょうな胸を取り巻き、円柱のまわりに綱を取りつけたようだ。この男、ひと目見れば、物を喰いすぎるということがわかる。顔つきが、れぼったく、いつも、ややぎらぎらしている。彼は怒鳴どなるように話をする。婦人に向かってさえもそうだ。頸筋くびすじしわが、カラアの上で、ゆるやかに韻律いんりつ正しく波を打っている。彼はまた眼のくり玉の丸いことと、ひげの濃いことが特徴である。
 にんじんは、彼の前へ突っ立った。帽子をまたぐらに挾んでいる。動作の自由を保つためである。
 恐ろしい声で、寮監はたずねた。
「なんの用だ?」
「先生、室長が、僕の手はきたないから、そういいに行けっていったんです。だけど、そんなことないんです」
 で、もう一度、俯仰天地ふぎょうてんちに恥じずとばかり、にんじんは、両手をひっくり返して見せた――初めは裏、次はおもてと、なお念のため、彼は繰り返した――初めに表、次に裏。
「なに、そんなことはない※(疑問符感嘆符、1-8-77) 謹慎きんしん四日、わかったか」
と、寮監はいった。
「先生、室長に、僕、にらまれてるんです」
 にんじんがいった。
「なに? にらまれてる! 八日だ、わかったか」
 にんじんは、相手の人物をっていた。こんな生優なまやさしいことでは、びくともしない。なんでも来いと覚悟をしているからだ。彼は直立不動の姿勢を取り、両膝をぎゅっと締め合わせ、横面よこづらをぴしゃりと来るぐらいとも思わず、いよいよ図に乗ってきた。
 というのは、この寮監先生、実は時折、手の甲のことで強情すねたりする生徒を、ぴしゃり! とやる罪のない癖があるのだ。そこで、来るなと思ったら、時を測って、ぴょこりとかがむ。うまく行けば、寮監は、すかってよろける。みんながどっと吹き出す。ところが、先生は、もう一度やり直そうとはしない。自分の番にずるい真似まねをするのは、彼の威厳いげんに係わるからだ。この頬をと思ったら、一発でち止めるか、さもなくば、手出しはしないことだ。
「先生……」と、にんじんは、ほんとにふてぶてしく、昂然こうぜんといい放った――「室長とマルソオとが、変なんです」
 すると寮監の眼は、不意に羽虫はむしでも飛び込んだように、しばしぱっとする。テーブルの端を両方のこぶしで押さえ、腰を浮かし、にんじんの胸へぶつからんばかりに、顔を突き出し、そして、のどの奥から訊ねるのである――
「どう変なんだ?」
 にんじんは、当てがはずれたらしい。彼が待ち設けていたのは――もっとも、その後はどうなるかわからないが――たとえば、アンリ・マルタンあらわすところの歴史大全れきしたいぜんが、ねらあやまたず飛んで来ることだった。ところが、これはまた、詳しいわけを聴こうというのだ。
 寮監は、待っている。頸筋くびすじの皺がみんな集まって、ただ一つの円座えんざをつくり、皮でできた太いの上に、頭がはすかいにっているのだ。
 にんじんはためらっている。うまい言葉が見つかりそうもないとわかるまでの間である。すると、急にしょげた顔をし、背中をまるめ、見るからにぎごちなく、照れくさそうに、彼は膝の間へ手をやり、ぺしゃんこになった帽子を抜き出す。だんだん前こごみになる。肩をすぼめる。それから、その帽子をそっとあごのあたりまで持ち上げ、それからまたゆっくり、さりげなく、せいいっぱい神妙に、綿のはいった帽子の裏へ、黙って、その猿面さるづらを埋めてしまう。


 その日、簡単に取調べがあって、ヴィオロオヌは暇を出された。出て行く時は悲痛だった。まず儀式というところだ。
「またかえってくるよ。ちっと休むだけだ」
 ヴィオロオヌはそういった。
 しかし、誰にもそうとは信じられなかった。寮では、よく職員の入れ替えをやる。まるで、かびえるとでも思ってるようだ。今度も多分、室長の更迭こうてつというわけだろう。彼が出て行くのは、他のものが出て行った、あれと変わりはない。ただ、いのほど、早く出て行く。ほとんど全体が、彼を愛していた。ノートの表題を書く技術では、彼に匹敵するものはないと認めていた。たとえば、ギリシャ語の練習帳の表紙に「Cahiers d'exercices grecs appartenant ※(グレーブアクセント付きA小文字)……」と、書くのだが、頭文字かしらもじは看板の字のような恰好かっこうが取れていた。どの椅子いすからっぽになる。彼の机の前に、みんなが円陣を作る。指環ゆびわの緑の石が光っている彼の美しい手が、しなやかに紙の上をする。ページの下に、即興的な署名をする。その署名たるや、水に石を投げ込んだように、正確で、しかも気紛きまぐれな線の、波とうずだ。そして、それが、ちゃんと花押かきはんになり、小さな傑作なのだ。花押の尻尾はくねりくねって花押そのものの中へ没し去っている。そいつを見つけ出すのには、ごくそばで眺め、よくよく捜さなければならぬ。いうまでもなく、全体はひと筆の続け書きだ。ある時のごとき、彼は「天井の中心飾り」と称する線のこんぐらかりを見事にいてみせた。小さい連中は、感嘆これをひさしゅうした。
 彼が暇を出されたというので、この連中は、ひどく悲しがった。
 彼らは、最初の機会に、寮監をとっちめなけりゃならんと相談を決めた。つまり頬をふくらし、唇で山蜂の飛ぶ音を真似まね、かくて不満の意を表わすという次第しだいだ。そのうちに、きっとやらずにはいないだろう。
 さしあたり、彼らは、悲しみを分ち合った。ヴィオロオヌは、自分が慕われているのを知り、休みの時間につという思わせぶりをやったものだ。彼の姿が運動場に現われる。小使いがかばんをかついであとからついて来る。さあ、小さい連中は、ことごとく、駈けつけた。彼は、一人ひとり手を握り、顔をでる。そして、取り囲まれ、押しのめされ、微笑ほほえみながら、感動しつつ、自分のフロックのひだを、破れない程度に引き寄せる努力をしていた。鉄棒にぶらさがっていたものは、でんぐり返しを中途でめ、それから、口をけたまま、額に汗をかき、シャツの袖をまくり上げ、粘土ねばつちのついた指を拡げたまま、地べたへ飛びおりる。もっとおとなしいものは、運動場の中を千篇一律せんぺんいちりつに廻っていたが、これは、「さようなら」のしるしに手を振ってみせる。小使いは、鞄の下で背中をげ、へだたりを保つために止まっている。ところが、それをいいことに、一番小さいのが、濡れた砂の中へつっこんだ五本の指を、その小使いの白い前掛けへべったりと押しつける。マルソオの頬は、絵に描いたように薔薇色ばらいろに染まった。彼は、生まれてはじめて、真剣な心の苦しみを味わった。が、しかし、室長に対して、いくぶん、「従妹いとこ」のような気持で名残なごりを惜しんでいることは、なんとしても自分にわかり、それが、またそら恐ろしく、彼は、ずっと離れて、不安げに、ほとんど顔もあげ得ずに立っている。ヴィオロオヌは、なんのこだわりもなく、彼のほうへ進んで行った。ちょうどその時、ガラスがどこかで、こっぱみじんに破れる音がした。
 みんなの視線が、鉄格子てつごうしのはまった、謹慎室きんしんしつの小さな窓のほうへ昇って行った。不細工ぶさいくな、野蛮な、にんじんの顔がのぞいている。彼はしかめっつらをしてみせた。眼が髪の毛の間から見え、白い歯を残らずむき出し、おりの中のあおざめた小悪獣そのままだ。彼は、右手を、喰い込むようなガラスの割れ目へ威勢よくつっこみ、そして、その血みどろな拳固げんこでヴィオロオヌを威嚇いかくした。
 ヴィオロオヌはそれにこたえた――
「ちびころの間抜まぬ野郎やろう! これで気がすんだか!」
「へん!」と、にんじんは、叫ぶがいなや、もう一枚のガラスを陽気にぶちこわし――「なんだって、そいつにキスするんだい。どうして俺にしないんだ、え?」
 それから、彼は、切れた手から流れる血を、顔いちめんに塗りたくり、こう附け加えた――
「おれだって、赤いほっぺたになれるんだ、いざっていや……」
[#改ページ]

しらみ


虱の挿絵

 兄貴のフェリックスとにんじんとが、サン・マルク寮から帰って来ると、ルピック夫人は二人に足の行水ぎょうずいをさせるのである。三月みつきも前からその必要があるのに、寮では足を洗わないからである。もとより、規則書のどの箇条にもその場合はうたってない。
「お前のときたらさぞ黒いこったろう、にんじん」
 ルピック夫人はいうのである。
 彼女のいったとおりだ。にんじんのは、兄貴のより、いつも黒いのだ。どうしてだろう。二人は、すぐそばで、同じ制度のもとで、同じ空気の中で暮らしてきたのだ。なるほど、三月みつきの後には、兄貴のフェリックスも、白い足を出してみせることはできない。が、にんじんは、自分でも告白するとおり、誰の足だかわからなくなっているのである。
 ずかしいので、彼は、手品師の芸当よろしく、足を水の中へ突っ込む。いつのまに靴をいだか、彼は、兄貴のフェリックスがもうバケツの底へ沈めているその足の間へ、いきなり自分の足を割り込ませる。それまで誰も気がつかない。するとやがて、あかの層がぬのぎれのように拡がって、この四つの化物ばけものを包むのだ。
 ルピック氏は、いつもの癖で、窓から窓をったり来たりしている。彼は、息子たちの通信簿、ことに、校長先生自筆の注意書を読み返してみる。兄貴のフェリックスについては――
「不注意、然れども怜悧れいり。及第の見込み」
 それから、にんじんについては――
「その気になれば優秀なる成績を示す。ただし、常にその気にならず」
 にんじんが、これでたまには成績がいいのかと思うと、家族のものは、誰でも可笑おかしくなるのである。そういう今、彼はひざの上で両腕を組み合わせ、足を水の中で存分にふくらましている。彼はみんなから試験をされている気だ。赤黒く伸びすぎた髪の毛の下で、彼はむしろみっともなくなっていた。ルピック氏は、真情流露しんじょうりゅうろを逆に行く人物だから、久々ひさびさで彼の顔を見たよろこびを、揶揄やゆの形でしか表わさない。向こうへ往きがけに彼の耳をはじく。こっちへ来がけには、ひじ小突こづく。すると、にんじんは、待ってましたと笑いこけるのである。
 それからさらに、ルピック氏は、彼のもじゃもじゃの頭髪あたまへ手を通し、そして、しらみでもつぶすように爪をぱちんと鳴らす。これが、先生得意の戯談じょうだんである。
 ところが、ねらあやまたず、最初に、一匹、ったのである。
「やあ、うまいもんだ。仕留めたぞ」
と、彼はいう。さて、いくぶんげんなりして、そいつをにんじんの髪の毛へなすりつける。するとルピック夫人は、両腕を空に向けて差し伸べ、さも精がなさそうに――
「そんなこったろうと思った。やれやれ、とんだ御馳走ごちそうだ。エルネスチイヌ、急いで金盥かなだらいを持っといで。そら、お前の用事ができた」
 姉のエルネスチイヌは、金盥を持って来る。それから、目の細かいくしと、皿いっぱいのと……。虱退治しらみたいじが始まるのである。
「僕のを先へやってくれ」と、兄貴のフェリックスが叫ぶ――「僕にもよこしやがったに違いない」
 彼は、がむしゃらに指で頭をかきむしる。そして、頭ごとつっこむんだからバケツに一杯水を持ってこいという。
「静かにおしよ」と、姉はいう。心づくしを見せることが好きなのだ――「痛くしやしないわ」
 彼女は、彼の首のまわりへタオルをきつけ、母親の手際てぎわ丹念たんねんさとを示す。一方の手で髪の毛を押し分け、もう一方の手で軽くくしを取り上げる。彼女は、捜す。口をげて馬鹿にするふうもなく、獲物えものがひっかかってもびくともしない。
 彼女が、「また一匹いた」というごとに、兄貴のフェリックスはバケツの中で足をじたばたさせながら、にんじんを拳固げんこおどかす。一方は静かに自分の番を待っている。
「あんたのほうはんだ、フェリックス」と、姉のエルネスチイヌはいう――「七つか八つきりいなかったわ。勘定かんじょうしてごらん。にんじんのは幾ついるか、さあ」
 最初のひと櫛で、にんじんは、それ以上の得点だ。姉のエルネスチイヌは、これこそ巣にぶつかったようなものだと思った。それもそのはず、蟻塚ありづかの中を手当り次第しだいにかき寄せるのと違いはない。
 一同がにんじんを取り囲む。姉のエルネスチイヌは腕にりをかける。ルピック氏は、両手を背中に組んで、物好きな他人みたいに、仕事の運びを見物している。ルピック夫人は、なさけない声で嘆息たんそくの叫びを発する――
「これは、これは……。すき熊手くまでを持って来なけりゃ……」
 兄貴のフェリックスは、うずくまって、金盥かなだらいをゆすぶり、獲物えものを受け取っている。彼らは、雲脂ふけまじって落ちてくる。った睫毛まつげのように細かなあしが、ぴくぴく動くのが見分けられる。彼らは金盥の揺れるのに従い、そして、酢のために、またたく間に死んでしまう。

ルピック夫人――にんじん! お前はどういう量見りょうけんでいるんだか、あたしたちにゃもうわからないよ。その年になって、大きな男の子が、それで恥ずかしくはないかい? 足のことはまあいわないさ、ここで初めて見るんだろうから……。だが虱が食ってるのにさ、それを先生にいって取り締ってももらわず、家のものに始末をしてくれともいわず……。どうしたっていうんだい、一体……。どんなにいい気持なのさ、生きたままかじられるっていうのは……。髪の毛ん中が、血だらけじゃないか。
にんじん――櫛でかきむしったんだよ。
ルピック夫人――どうだろう、櫛だとさ。それが姉さんへのお礼のしかたかい? 聞いたろうね、エルネスチイヌ? 旦那は、気むずかしくっていらっしゃるから、床屋のねえさんに苦情をおっしゃるよ。わるいことはいわない、好きで食われてるんだから、さっさと虫のえさにしておやり。
エルネスチイヌ――今日は、もうこれでおしまいよ、母さん。大きいのだけ落としといたわ。明日もうひとでしてみるの。オードコロオニュを振りかけるってやり方があるのよ。
ルピック夫人――さあ、にんじん、お前は、金盥を持ってって、裏庭の土塀どべいの上へ出してお置き。村じゅうのものがぞろぞろ見て通れば、お前だってちったあ恥ずかしいだろう。

 にんじんは金盥を取り上げ、出て行く。そして、そいつを太陽の下にさらして、そのそばで見張りをしている。
 最初に近寄って来たのが、マリイ・ナネット婆さんである。彼女はにんじんの顔さえ見れば立ち止まって、近視の、小さなずるそうな眼で彼をじろじろ見るのである。そして、黒い頭巾ずきんを動かしながら、何事かを捜し当てようとする。
「なんだね、そいつは……」
 にんじんは返事をしない。彼女は金盥をのぞき込む。
小豆あずきかね。あいた、もう眼がはっきり見えないよ。息子のピエエルが眼鏡めがねを買ってくれるといいんだけど……」
 彼女は指でさわってみる。口へ入れそうな手つきだ。なんとしても、わからないらしい。
「そいで、お前さんはそこでなにしてるんだい。ふくれっつらをして、眼をぼうっとさせて……? ははあ、怒られたな。罰にそうしてろってわけか。いいかい、わしゃ、お前さんのお祖母ばあじゃないが、それでも、考えることだきゃ、考えてるよ。わしゃ、不便ふびんでならん。うちのもんがみんなで、いじめるんだろう」
 にんじんは、ちらりと眼をらす。そして母親が聞いていないことを確かめる。すると、彼はマリイ・ナネット婆さんに言うのである――
「だからどうしたんだい? そんなこと、婆さんには関係ないだろう。自分のことだけ心配するがいいや。僕のことは、ほうっといてくれ」
[#改ページ]

ブルタスのごとく


ブルタスのごとくの挿絵

ルピック氏――おい、にんじん、お前は前学年には、わしの望みどおり勉強しなかった。通信簿に、もっとやれば出来るはずだと書いてある。お前はほかのことばかり考えている。禁じられた書物を読む。暗記力はなかなかあると見えて、試験の点は相当よろしい。ただ宿題をなまけるんだ。おい、にんじん、真面目まじめにやろうという気になれ。
にんじん――大丈夫だよ、とうさん。まったく、前学年はすこしいい加減にやったところがあるよ。今度は、せいいっぱい頑張がんばろうって気が起こってるんだ。ただし、全科目、級で一番っていうのは受合うけあえないよ。
ルピック氏――ともかく、そのつもりになってみろ。
にんじん――いいや、父さん、僕に望むところが大きすぎるよ。僕あ、地理や、ドイツ語や、物理化学はだめなんだ。とても出来るやつが二、三人いるのさ。ほかのことときたらゼロなくせに、そればっかりやってるんだもの。こいつらを追い越すなんて不可能だよ。だけど、僕、ねえ、父さん、僕、フランス語の作文でなら、近いうち、だんぜん牛耳ぎゅうじって見せるよ。そして、そいつを続けてみせるよ。それが、もし、僕の努力にもかかわらず不成功に終わったら、少なくとも僕はみずからゆるところなしだ。僕は、かのブルタスのごとく誇らかに叫ぶことができる――「おお美徳よ、なんじはただ一つの名に過ぎず!」
ルピック氏――うむ、そうだ。わしは、お前がやつらに負けないことを信じている。
フェリックス――父さんは、なんていったい?
エルネスチイヌ――あたし、聞いてなかったわ。
ルピック夫人――かあさんも聞いてなかった。どう、もう一度いってごらん、にんじん。
にんじん――うん、なんでもないよ。
ルピック夫人――へえ? なんにもいわなかったのかい? でも、あんなに、赤い顔をして、こぶしを振り上げ、えらいいきおいでぺらぺらしゃべってたじゃないか? あの声ときたら村のはしまで届くほどだった。その文句をもう一ぺんいってごらん、みんなが聴いとくとためになるからさ。
にんじん――それにゃ及ばないよ、母さん。
ルピック夫人――いいからさ。誰の話なの? なんていう名前の人だっけ?
にんじん――母さんの知らない人だよ。
ルピック夫人――なおのことじゃないか。さ、お願いだから、戯談じょうだんはやめて、母さんのいうことをおきき。
にんじん――そんならいうけど、僕たち、今、二人で話をしてたの。父さんが僕に友だちとしての忠告をしてくれたもんで、そのお礼をいうつもりで、ふと、ある考えが浮かんだのさ。つまり、ブルタスっていうローマ人のように、誓いを立てる……つまり美徳のなんたるかを……。
ルピック夫人――つまりつまり、なんだい、そりゃ……。しどろもどろじゃないか。それより、さっきいった文句を、一字一句変えずに、おんなじ調子でいってごらん。母さんは、別にペルウの国をよこせっていってるわけじゃないだろう。だから、それくらい、母さんのためにしてくれたっていいじゃないか。
フェリックス――僕がいってみようか、母さん。
ルピック夫人――いいえ、にんじんがまずいってから、そのつぎ、お前がおいい。両方くらべてみるから……さ、にんじん、早くさ。
にんじん(うるみ声で、つぶやくように)――おお、び、び、びとくよ……なん……なんじは……ただ、ひとつの……な、なにすぎず……。
ルピック夫人――なんともしょうがない。ひとすじなわじゃ動かないや、この大将は……。母親の気にいることをするくらいなら、叩きのめされたほうがましだと思ってるんだ。
フェリックス――どら、母さん、やつはこういったんだよ――(彼は眼玉をぎょろりとさせ、いどむような視線を投げて)もしも僕がフランス語の作文で一番にならなかったら……(ほおをふくらませ、足を踏み鳴らし)僕は、かのブルタスのごとく叫ぶだろう……(両腕を高くげ)おお、美徳よ……(その腕を膝の上にどさりと落とし)汝はただ一つの名に過ぎず! こういったんだよ。
ルピック夫人――ひやひや。大出来おおできだ。にんじん、じゃまあ、おめでとう。それにしても、真似まねは実物だけの値打ちはないんだから、それだけに、お前が片意地なことは、母さん、残念だよ。
フェリックス――だけど、にんじん、そいつをいったのは、ほんとにブルタスだったかい? ケエトオじゃなかったかい?
にんじん――たしかにブルタスだ。「かくて彼は、友の一人が差し伸べしつるぎに、われとわが身をつらぬいて死せり」
エルネスチイヌ――にんじんのいう通りだわ。そして、ブルタスは、黄金をつえに忍ばせて、気違いの真似をしたのね。
にんじん――違うよ、ねえさん、そんなことをいうと頭がこんぐらかるじゃないか。僕のいうブルタスと姉さんのとは別物だよ。
エルネスチヌ――そうかしら……。それにしてもさ、ソフィイ先生が筆記させる歴史のお講義は、あんたの学校の先生と、値打ちからいって違いはないわよ。
ルピック夫人――そりゃ、どうでもいい。喧嘩けんかはおよし。肝腎かんじんなことは、家族の一人に、ブルタスがいるってこった。うちには現にいるんだ。にんじんのお蔭で、あたしたちは肩身が広いわけだ。それに、だあれも、自分たちの名誉を知らずにいたんだ。新しいブルタスをあがめようじゃないか。このブルタスはラテン語を司教さんのようにしゃべる。そのくせ、聾者つんぼがいても、ミサを二度繰り返してくれない。ぐるっとまわらしてごらん。正面から見ると、今日きょうおろしたばかりの上着にもう汚点しみをくっつけ、うしろから見ると、ズボンが破けてる。おお神様、どこへまたもぐり込んだんだろう。戯談じゃない、まあ、見てやっておくれ、あのブルタスにんじんの顔つきをさ。しょうがないブルドックだよ、ほんとに!
[#改ページ]

にんじんよりルピック氏への
    書簡一束ひとたば
      ならびにルピック氏よりにんじんへの返事若干じゃっかん


にんじんよりルピック氏への書簡一束ならびにルピック氏よりにんじんへの返事若干の挿絵

にんじんよりルピック氏へ

サン・マルク寮にて
親愛なる父上
休暇中の魚捕うおとりがたたって、目下気分に動揺を来たしています。ももに太い「くぎ」――つまり腫物はれものができたのです。僕は床にいています。仰向あおむけに寝たきりで、看護婦のおばさんが罨法あんぽうをしてくれます。腫物は、つぶれないうちは痛みますが、あとになると想い出しもしないくらいです。ただ、この腫物の「釘」は、ヒヨコのようにえるんです。一つがなおると、また三つ飛び出すという具合です。いずれにしても、大したことはないだろうと思います。
頓首とんしゅ

ルピック氏よりの返事


親愛なるにんじん殿
其許そこもとは目前に初の聖体拝受せいたいはいじゅを控え、しかも教理問答きょうりもんどうにもかよいおることなれば、人類が「釘」に悩まされた事実は其許に始まらざること承知のはずだ。イエス・キリストは、足にも手にもこれを受けた。彼は苦情をいわなんだ。しかも、その「釘」たるや、本物の釘だったのだ。
元気を出すべし。
※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう
     *

にんじんよりルピック氏へ


親愛なる父上
僕は今日、歯が一本えたことをお知らせできるのは愉快です。年からいえばまだですが、これはたしかに、早生そうせい智慧歯ちえばです。ねがわくは、一本でおしまいにならないことを。そして、希くは、僕の善行と勉強によって、父上の御満足を得んことを。
頓首

ルピック氏の返事


親愛なるにんじん殿
ちょうど其許そこもとの歯が生えようとしつつある時、余の歯は一本ぐらつきはじめた。そして、昨朝、ついに思い切って抜け落ちた。かように、其許の歯が一本えるごとに、其許の父は一本ずつ歯を失う次第しだいだ。それゆえ、すべてもともとにして、家族一同の歯は、その数に於いて変りなし。
※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)
     *

にんじんよりルピック氏へ


親愛なる父上
まあいてください。昨日は、僕らのラテン語教師、ジャアク先生の聖名祭せいめいさいです。で、衆議一決、生徒たちは、クラス全体の祝意を表するために、僕を総代に選びました。僕は大いにこれを光栄とし、適宜にラテン語の引用をはさんで、長々と演説の準備をしました。正直なところ、満足な出来栄できばえです。僕は、そいつを大型の罫紙けいしに清書しました。いよいよ当日になり、同僚たちの「やれよ、やれよ」とささやく声に励まされ、ジャアク先生がこっちを向いていない時を見はからって、僕は教壇の前に進み出ました。が、やっと紙をひろげ、せいいっぱいの声で、
  尊き師の君よ
と読み上げた瞬間、ジャアク先生は、憤然としてち上がり、こう怒鳴どなりました――「早く席に着いて! なにぐずぐずしとる!」
しかたがありません。僕は逃げ出すと、そのまま腰をかけました。同僚たちは、本で顔をかくしています。すると、ジャアク先生は、すごい権幕けんまくで、僕にあてました――
「練習文を訳して!」
父上、以て如何いかんとなさいます。

ルピック氏の返事


親愛なるにんじん殿
其許そこもとが他日代議士にでもなればわかることだ。その手の人物はいくらでもいるよ。人各々おのおのその畑あり、先生が教壇に立たるるのは、これ明らかに演説をなさるがためであって、其許の演説を聴かれるためではない。
     *

にんじんよりルピック氏へ


親愛なる父上
例の兎はたしかに地歴教師ルグリ先生のところへおとどけしておきました。むろん、この贈り物は先生をよろこばせたようです。厚くお礼を申してくれとのことでした。僕がちょうど濡れた雨傘あまがさを持って部屋へはいって行ったもんですから、先生は自分でそいつを僕の手から奪い取るようにして玄関に持って行かれました。それから、僕たちは、いろんな話をしました。先生は、僕がその気になれば、学年末には地歴の一等賞を獲得できるのだがといわれました。しかし、こんなことがあるでしょうか。僕は、この話の初めから終りまで、のべつちどおしです。ルグリ先生は、その点以外実にお愛想がいいのですが、とうとう僕に椅子ひとつすすめずじまいです。
忘却ぼうきゃくか、はたまた、非礼か?
僕はそれを知りません。ただし、できれば、父上の御意見を伺いたいものです。

ルピック氏の返事


親愛なるにんじん殿
よく不平を言う男じゃ。ジャアク先生が席に着けといえば、それが不平、ルグリ先生がったままでいさせれば、それがまた不平か。たぶん其許そこもとは、まだ一人前の扱いを受けるには、年が若すぎるのだよ。それに、ルグリ先生が椅子を薦められなんだことは、まあまあじょすべきだ。其許のせいが低いため、先生はきっと、もう腰かけているものと勘違いされたのだよ。
     *

にんじんよりルピック氏へ


親愛なる父上
近々パリーへお出かけの由、ああ首府しゅふ見物、僕も行きたいのですが、今度は心のみ父上のお伴をして、そのたのしみを分つことにします。僕は学業のためにこの旅行を断念しなければならないことを知っています。しかし、この機会を利用して、父上にお願いがあるのです。本を一、二冊買って来ていただけませんか。今持っている本はみんな暗記してしまいました。どんな本でもかまいません。もとを洗えば、似たりよったりです。とはいいますが、僕、そのうちでも特別に、フランソア・マリ・アルウェ・ド・ヴォルテエルの「ラ・アンリヤアド」と、それから、ジャン・ジャック・ルウソオの「ラ・ヌウヴェル・エロイイズ」とがしいんです。もし父上がそれを持って来てくだされば(本はパリーではいくらもしません)、断じて、室長が取り上げるようなことはありません。

ルピック氏の返事


親愛なるにんじん殿
御申出おんもうしでの文士は、其許や余らとなんら異なるところなき人間だ。彼らが成したことは其許も成し得るわけだ。せいぜい本を書け。それを後で読むがよかろう。
     *

ルピック氏よりにんじんへ


親愛なるにんじん殿
今朝の手紙には驚き入った。読み返してみたが、やはり駄目だめだ。第一、文章も平生へいぜいと違い、言うことも珍妙不可解で、およそ其許のがらでも、また余の柄でもないと思われることばかりだ。不断ふだんは、細々こまごまとした用事を語り、席順がどうなったとか、先生の特長または欠点がどうとか、新しい級友の名前、下着類の状態、さては、よく眠るとか、よく食うとか、書いてあることはそんなことだ。
余にとっても、実にそれが興味のあることで、今日はまったく何が何やらわからん。いかなる都合つごうでか、目下、冬だというのに、時まさに暮春云々とある。一体なんのつもりなんだ? 襟巻でも欲しいというのか? 手紙に日附はなし、そもそも余に宛てたのか、それとも犬に宛てたのか、てんでわからん。字体もまた変えてあるようだし、行のくばりといい、頭文字かしらもじの数といい、すべて意想外だ。要するに、其許は、誰かを馬鹿にしているらしいが、察するところ、相手は其許自身に相違ない。余はこれが罪に値するというのではないが、ただ一応の注意をしておくのだ。

にんじんの返事


親愛なる父上
前回の手紙につき、急ぎ釈明しゃくめいのため一言いちごんします。父上は、あの手紙が韻文いんぶんになっていることをお気づきにならなかったのです。
[#改ページ]

小屋


小屋の挿絵

 この小さい屋根の下には、これまでかわがわる、※(「渓のつくり+隹」、第4水準2-91-81)、兎、豚がすんでいたのだが、今はからっぽで、休暇中は、いっさいの所有権をにんじんが独占している。彼は易々やすやすとそこへはいり込むことができる。小屋にはもう戸がないからだ。ひとむら蕁麻いらくさがひょろ長く伸びて、しきいをかくしている。で、にんじんが腹這いになってそれを眺めると、まるで森のようだ。細かいほこりが土をおおっている。壁の石が湿気しっけを帯びて光っている。にんじんの髪の毛は、天井てんじょうをこするのだ。彼はそこにいると自分のうちにいる気がし、そこでは邪魔じゃまっけな玩具おもちゃなんかいらない。自分の空想だけでけっこう気がまぎれるのである。
 彼の主な遊びは、小屋の四隅よすみへ、尻で、一つ一つ巣を掘ることだ。それから、手をこての代りにして、埃をかき寄せ、これで目塗めぬりをして、からだを植えつけてしまうのだ。
 背中をすべっこい壁にもたせかけ、あしげ、両手をひざの上に組み、じっとしていると、まことに工合がよい。実際、これ以上場所を取らないというわけには行くまい。彼は世の中を忘れ、もう、そんなものを怖れない。大きな雷さえ落ちて来なければ、びくともしないだろう。
 食器を洗う水が、すぐそばを、流しの口から流れ落ちる、ある時は滝のように、ある時は一てきてき。そして、彼のほうへひやりとした風を送ってくる。
 突然、非常警報だ。
 呼び声が近づく。跫音あしおとだ。
「にんじん! にんじん!」
 一つの顔がこごむ。にんじんは、団子のようになり、地べたと壁の間へめり込み、息を殺し、口を大きくけ、じっと視線を据える。二つの眼が闇をすかしているのを感じる。
「にんじん! そこにいるかい?」
 ※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみがふくれ、のどがつまり、彼は断末魔だんまつまの叫びをあげかける。
「いないや、あの餓鬼がき……。どこへ行きくさったんだ?」
 行ってしまうと、にんじんのからだは、ややのんびりし、もとの楽な姿勢にかえる。
 彼の考えは、また沈黙の長いみちを走り続ける。
 すると、騒々そうぞうしい音が、耳いっぱいにひろがる。天井で、一匹の羽虫が蜘蛛くもの巣にひっかかり、じたばたしているのだ。蜘蛛は、糸を伝ってすべってくる。腹がパンくずのような白さだ。一時いっとき、不安げに、まりのようになってぶらさがっている。
 にんじんは、なかば尻を浮かし、眼を放さず、大団円だいだんえんを待っている。そして、この悲劇的な蜘蛛が、身を躍らし、星形の脚をすぼめ、獲物えものを抱き締めて食おうとする時、にんじんは、分け前でもしいように、胸をふるわせ、がばとちあがった。
 それだけのことだ。
 蜘蛛は、上へ引っ返す。にんじんはまた坐った。れにかえる。兎のような我れにかえる。心持は夜のように暗い。
 やがて、彼の夢想は、砂を混えたか細い流れのように、勾配こうばいがなくなると、水溜みずたまりの形で、止まり、そしてよどむ。
[#改ページ]


猫の挿絵


 にんじんは、こういう話を聞いた。――「※(「虫+刺」、第4水準2-87-66)ざりがにるのには、※(「渓のつくり+隹」、第4水準2-91-81)臓物ぞうもつ牛豚ぎゅうぶたなどのくずより、猫の肉が一番いい」
 ところで、彼は猫を一匹っていた。年をとり、みほうけ、そこここの毛が脱け落ちているので、誰も相手にしないのだ。にんじんは、牛乳を一杯御馳走ごちそうするからといって、そいつを自分のところ、つまり彼の小屋へ招待した。主客二人きりなわけだ。もっともねずみの一匹やそこら、壁のそとで冒険を試みるかもわからない。が、にんじんとしては、牛乳一杯しか出さないことにしてある。彼は茶碗を一隅ひとすみに置き、猫を押しやって、そしていった――
「たらふくつめ込め」
 彼は猫の背筋せすじをなで、数々の愛称で呼び、威勢のいい舌の運動を観察し、ついでほろりとする。
可哀かわいそうなやつだ。残りをたのしめ」
 猫は茶碗ちゃわんをからにし、底をぬぐい、ふちを掃除する。そして、もう、甘い唇をめずるよりほかはない。
「すんだか。綺麗きれいにすんだか」
 にんじんは、相変わらずなでながら、たずねる。
「もちろん、もう一杯お代りがしいだろう。が、これだけしか盗み出せなかったんだ。それに、ちっと早いかちっとおそいかの違いだ……」
 こういって、彼は、そのひたいに猟銃の筒先つつさきを押しあてる。そして火蓋ひぶたを切る。
 爆音で、にんじんは、眼がくらむ。彼は、小屋まで飛んでしまったかと思う。けむが散ったあとで、見ると、足許あしもとに、猫がたった一つの眼で彼を見据えている。
 頭の半分はどっかへ行ってしまった。そして、血が牛乳茶碗の中へ流れ込んでいる。
「死ななかったかな? 畜生ちくしょう、よくねらったんだがなあ」
 にんじんは、そういったまま、身動きもできない。片眼だけが、黄色く光り、それが不安なのだ。
 猫は、からだをふるわし、生きていることを示す。が、そこを動こうという努力はいっこう試みない。血を外へこぼさないように、わざと茶碗の中へ流しているらしい。
 にんじんは、これで初心ではない。幾多の野禽やきん、家畜、それと一匹の犬を、自分の慰みに、または他人の手助けに殺したことがある。彼は、どんな時どうすればいいかということ――もしも、そいつが苦しみながら生きているなら、猶予ゆうよをしてはならぬ。心を励まし、気をあららげ、時と場合では、取っ組み合いの危険を犯さなければならぬということを知っている。さもないと、余計な糞人情くそにんじょうがひょこり頭を持ち上げる。卑怯ひきょうになる。暇つぶしだ。ふんぎりがつかない。
 はじめ、彼は用心深くちょっかいを出してみる。それから、尻尾しっぽをつかみ、銃床じゅうしょうで、首筋を、何度となく、これが最後、これがとどめの一撃かと思われるほど、激しくどやしつけた。
 瀕死ひんしの猫は、脚で、狂おしく虚空こくうを掻き、丸くちぢまるかと思うと、長々とり返り、しかも、声は立てない。
「誰だい、一体、猫が死ぬ時は泣くなんていった奴は……」
 にんじんは、れる。暇がかかりすぎる。彼は猟銃を投げ出す。両腕で猫をきかかえる。そして、爪の襲撃に応えながら、歯を喰いしばり、血を湧き立たせ、ぎゅっと首を締めつけた。
 が、しかし、自分も、締めつけられる思いだ。よろめき、へとへとになり、地べたに倒れ、顔と顔とを押しつけ、両眼は猫の片眼にそそいだまま、坐ってしまう。


 にんじんは、今、鉄の寝台に横たわっている。
 両親と、急報を受けたその知合いの連中が、小屋の低い天井の下を這うようにして、惨劇の行われた場所を検分した。
「どうでしょう、心臓の上で猫をみくしゃにしている、それを無理むりに引き放そうっていうんで、あたしゃ、汗をかきましたよ。それでいて、このあたしをそんなふうに抱き締めてくれたことなんか、ありゃしないんですからね」
 この残虐ざんぎゃくの歴史は、やがて、家族の夜伽よとぎを通じ、昔噺むかしばなしさながらの興をそえることになるのだが、ルピック夫人が、ここでその説明をしている間、にんじんは眠り、そして夢を見ているのだ――
 ……彼は小川に沿うてきつもどりつしている。おさだまりの月の光が、ちらちらと動いて、女の編針あみばりのように入り交る。
 玉網たまあみの上には、猫の肉が、澄んだ水をすかして燃えあがっている。
 白いもや草原くさはらをすれすれに這い、どうかすると、瓢々ひょうひょうたる幽霊の姿を隠している。にんじんは、両手を背中に組み、幽霊などちっともこわくないという証拠を見せる。
 牛が一匹近寄って来る。立ち止まる。溜息をく。急に逃げ出す。四つの木履きぐつを空まで鳴り響かせ、やがて消えせる。
 何という静かさだ! もしこの饒舌じょうぜつな流れが、ばあさんの会合みたいに、彼一人の耳へ、べちゃくちゃ、こそこそと、きりのないおしゃべりを聞かせさえしなければ……。
 にんじんは、口をつぐませるために、それを打とうとでもするように、そっと玉網のさおを引き上げると、これはまた、あしの繁みから、大きな図体ずうたいをした※(「虫+刺」、第4水準2-87-66)ざりがにがいくつとなく現われてくる。
 あとから後から、まだえる。どれもこれも、まっすぐに突っ立ち、ぎらぎらと、水から上がる。
 にんじんは苦悶に打ちひしがれ、逃げることすらできない。
 ※(「虫+刺」、第4水準2-87-66)ざりがには、彼を取り囲む。
 喉をめがけて、伸び上がってくる。
 ぱちぱち音を立てる。
 もう、彼らは、はさみをいっぱいにひろげているのだ。
[#改ページ]


羊の挿絵

 にんじんは、最初、もやもやした丸いものが、飛んだりねたりしているのしかわからなかった。それが、けたたましい、どれがどれやらわからない声を立てる。学校の子供が、雨天体操場で遊んでいる時のようだ。そのうちの一つが彼のあしの間へ飛び込む。ちょいと気味がわるい。もう一つが、天窓てんまどあかりの中を躍り上がった。仔羊こひつじだ。にんじんは、こわかったのがおかしく、微笑ほおえむ。眼がだんだん暗闇くらやみれると、細かな部分がはっきりしてくる。
 分娩期ぶんべんきが始まっている。百姓のパジョオルは、毎朝数えてみると、仔羊が二、三匹ふえている。それは、母親たちの間をうろつき、不器用なからだつきで、あらった四本の棒切れのような脚を、ぶるぶるふるわせている。
 にんじんは、まだでてみる気がしない。そのうちで、ずうずうしいのが、そろそろ彼の靴をしゃぶりはじめる、あるいはひとすべの枯草を口にくわえ、前足を彼のほうへのせかける。
 年を取った、一週間目ぐらいのやつは、後半身にやたら力を入れすぎて、からだが伸びたようになり、宙に浮きながら電光形に歩く。一日たったやつは、せていて、かどばったひざをがくりと突き、すぐ、元気いっぱいにち上がる。生れたての赤ん坊はねばねばだ。めてないのだ。その母親は、水気すいきふくらんだ財布が、ゆさゆさ揺れる。それが邪魔なので、子供を頭ではね飛ばす。
不都合ふつごうな母親だ」
と、にんじんはいう。
畜生ちくしょうでも人間でも、そこはおんなじさ」
と、パジョオルはいう。
「きっと、乳母うばにでも預けたいんだろう、こやつ」
「まあ、そんなとこさ」と、パジョオルがいう――「一匹から上になると、哺乳器ってやつをあてがわにゃならん。薬屋で売ってる、ああいうやつさ。長くは続かねえ。母親が不便ふびんがるだよ。もっとも、艶消つやけしにしとくだ」
 彼は、親羊を抱き上げ、おりの中へ、そいつを別に入れる。くびわらのネクタイを結びつける。逃げた時にわかるようにだ。仔羊は、その後について行った。牝羊はやすりのような音を立てて食っている。すると、仔羊は、身顫みぶるいをし、軟らかな脚をふんばり、鼻先へべろべろのものをいっぱいくっつけ、哀れっぽい調子で、乳をしゃぶりたがる。
「この母親にでも、いまにまた、人情ってものがもっと出るのかねえ」
 にんじんはいう。
けつがもともと通りなおりゃ、むろんさね。お産が重かっただから……」
 パジョオルがいう。
「僕は、やっぱり、さっきいったようにしたほうがいいと思うなあ。どうして、しばらくの間、子供の世話をほかの牝羊にさせないのさ」
「あっちでことわらあね」
 なるほど、小屋の隅々すみずみから、母親たちのき声が交錯こうさくし、授乳の時刻を告げている。それが、にんじんの耳には一律単調いちりつたんちょうであるが、仔羊にとってはどこかに違いがあるのだ。なぜなら、めいめいが、まごつきもせず、一直線に母親の乳房へ飛びつくのである。
「ここじゃ、子供を盗んだりする女はいねえ」
 パジョオルがいう。
不思議ふしぎだ、こんな毛糸の玉に、家族っていう本能があるのは……」にんじんはいう――「なんて説明するかだ。鼻が鋭敏なせいかも知れない」
 彼は、ためしに、どれか一つ、鼻をふさいでみようと思ったくらいだ。
 彼はまた、それからそれへ、人間と羊とを比較した。そして、仔羊の名前が知りたくなった。
 仔羊たちが、ごくごく乳を吸っている間、おっさん連は、脇腹わきばらを鼻の頭で激しく小突こづかれながら、安らかに、素知そしらぬ顔で、口を動かしている。にんじんは、秣槽かいおけの水の中に、鎖のちぎれたのとか、車のわだちとか、すり切れたシャベルなどがはいっているのを見た。
「こいつは綺麗きれいだ、この秣槽かいおけは……」と、にんじんは、小賢こざかしい調子でいった――「なるほど。金物を入れて、血をやそうってわけだね」
「そのとおり。おめえだって、丸薬がんやくを飲まされるだろう」
 彼は、にんじんに、その水を飲んでみろとすすめる。もっと滋養分じようぶんをつけるために、彼は、その中へなんでもほうり込むのである。
「ダニ公をやろうか、ダニ公を……」
と、パジョオルはいう。
「ああ、おくれ。ありがたいぞ」
 にんじんは、何か知らずに、そういってみた。
 パジョオルは、母羊の深い毛をかき分けて、爪先つまさきで、一匹の、黄色い、丸い、肥った、満腹らしい、すごく大きなダニをつかまえた。パジョオルに従えば、この手のダニが二匹もいれば、子供の頭ぐらいすもものように食べてしまうというのだ。彼は、そいつをにんじんのてのひらへのせた。そして、もし戯談じょうだんなり悪戯いたずらなりがしたければ、兄貴やねえさんの、頸筋か髪の毛の中を這わしてやれと勧める。
 もう、ダニは仕事にかかり、皮膚を襲い出した。にんじんは指にちくちくと痛みを感じた。みぞれが降っているようだ。やがて、手頸、それからひじだ。ダニが無数に殖え、腕から肩へ食い上がって行く気持だ。
 ええい、どうにでもなれ! にんじんは、そいつを握りしめた。つぶしてしまったのだ。で、その手をパジョオルが見てないうちに、牝羊の背中へこすりつけた。
 くなしたといえばいいのだ。
 それから一時いっとき、にんじんは、じっと、羊の啼き声を聴いていた。それが、だんだんしずまって行く。と、まもなく、乾草ほしぐさがのろいあごの間で噛み砕かれる鈍い音のほか、なんにも聞こえなくなる。
 縞の消えた広袖ひろそでマントが、飼棚かいだなの柵にひっかかって、それが、ただ一つ、羊の番をしているらしく見える。
[#改ページ]

名づけ親


名づけ親の挿絵

 どうかすると、ルピック夫人は、にんじんにその名づけ親のところへ遊びに行き、泊まってくることを許すのである。この名づけ親というのは、無愛想ぶあいそうな、孤独なじいさんで、生涯を、魚捕うおとりと葡萄畑ぶどうばたけで過ごしている。彼は誰をも愛していない。我慢がまんができるのは、にんじん一人きりだ。
「やあ、来たな、坊主ぼうず
と、彼はいう。
「来たよ、おじさん……。釣竿つりざおの用意、しといてくれた?」
 にんじんは、そういうが、接吻はしない。
「二人で一つありゃたくさんだ」
 にんじんは納屋なやけてみる。別に一本、釣竿の用意ができている。こうして、彼は、にんじんをからかうのが常であるが、にんじんのほうでは、万時み込んで、もう腹を立てない。老人のこの癖も、二人の間柄をややっこしくするようなことはまずないのだ。彼が「そうだ」という時は、「そうでない」という意味、そのあべこべが、またそうなのである。それを間違えさえしなければいい。
「それが面白おもしろいなら、こっちはどうだっておんなじだ」
 にんじんは、そう考えている。
 で、二人は、相変わらず仲善なかよしだ。
 この爺さん、平生は一週に一度、一週間分の炊事をするだけだが、今日は、にんじんのために、隠元豆いんげんまめの大鍋を火にかけ、それに、ラードの見事なかたまりをほうり込む。で、一日の予定行動をはじめる前に、生葡萄酒きぶどうしゅを一杯、無理に飲ますのである。
 さて、彼らは、釣りに出かける。
 爺さんは水の岸に腰をおろし、テグスを手順よくほどいてゆく。彼は、敏感な釣竿を重い石で押さえておく。そして、大きなやつしか釣り上げない。魚は、手拭てぬぐいにくるんで日蔭へころがす。まるで赤ん坊のおむつだ。
「いいか、浮子うきが三度沈まなけりゃ、糸をげるじゃないぞ」

にんじん――どうして、三度さ?
おじさん――最初のは、なんでもない。魚がせせっただけだ。二度目が、ほんものだ。呑み込んだんだ。三度目は、もう大丈夫。離れっこない。いくらゆっくり揚げてもかまわんよ。

 にんじんは河沙魚かわはぜを釣るのが面白い。靴を脱ぎ、川にはいり、足で砂の底をかきまわし、水を濁らせてしまう。馬鹿な河沙魚は、すると、駈け寄ってくる。にんじんは糸を投げ込むごとに、一尾ずつ引き上げるのである。おじさんに、それを知らせる暇もない。
「十六……十七……十八……」
 おじさんは、頭の真上に太陽が来ると、昼飯に帰ろうという。彼は、にんじんに白隠元しろいんげんをつめ込ませる。
「こんな美味うまいものはないさ」と、おじさんはいう――「しかし、どろどろに煮たやつが、わしは好きだ。噛むとごりごりするやつ、まるで、鷓鴣しゃこ羽根肉はねにくにもぐってる鉛の弾丸たまみたいに、がちりと来るやつ、あれを食うくらいなら、鶴嘴つるはしの先をかじったほうがましだ」

にんじん――こいつは、舌の上で溶けるね。いつも、かあさんのこしらえるのは、そう不味まずかないけど……。でも、こんな具合にはいかないや。クリームを倹約するからだよ、きっと。
おじさん――やい、坊主、お前の食べるところを見てると、わしゃうれしいよ。おっさんの前じゃ、腹いっぱい食えないだろう。
にんじん――母さんの腹具合によってだよ。もし母さんがおなかをすかしてれば、僕も、母さんの腹いっぱい食うんだ。自分の皿へ取るだけ、僕の皿へも、うんとつけてくれるからね。しかし、母さんが、もうおしまいだっていう時は、僕もおしまいさ。
おじさん――もっとくれっていうんだ、そういう時は……阿呆あほう
にんじん――言うはやすしさ、おじさん。それに、いつもひもじいくらいでよしといたほうがいいんだよ。
おじさん――わしは子供がないんだが、猿のけつでもめてやるぜ、その猿が自分の子供なら……。なんとかしろよ。

 彼らは、その日の日課を葡萄畑ぶどうばたけで終えるのである。にんじんは、そこで、ある時はおじさんが鶴嘴を使うのを眺め、一歩一歩その後をつけ、ある時は、葡萄蔓ぶどうづるたばの上で寝ころび、空を見上げて柳の芽を吸うのである。
[#改ページ]


泉の挿絵

 彼はおじさんと一緒に寝はするが、それは、気持よく眠るためではない。部屋は寒いには寒い。しかし羽根はねの寝床では暑すぎるのだ。それに、羽根は、おじさんの年取としとったからだには柔らかく当りもしようが、にんじんは汗びっしょりになってしまう。が、ともかく、彼は母親のそばを離れて寝られるわけだ。
「おっさんが、そんなにこわいのか」
と、おじさんはいう。

にんじん――というよりも、かあさんには、僕がそれほど怖くないんだよ。母さんが兄貴をとうとすると、兄貴はほうきへ飛びついて、母さんの前へ立ちふさがるんだ。母さんは、手が出せずに、それっきりさ。だもんで、兄貴に向かっちゃ、情味じょうみで行くよりしょうがないと思ってる。それでこういうのさ――フェリックスはとても感じやすい性質たちだから、ったりたたいたりしてもなんにもならない。にんじんのほうは、まだそれでいいけれどって……。
おじさん――お前も箒をためしてみりゃいいのに……。
にんじん――そいつがやれりゃ、なんでもないさ。兄貴と僕とは、よくなぐり合いをするんだ。本気でやることもあるし、ふざけてやる時もあるけど……。どっちもおんなじぐらい強いんだぜ。だから僕だって、兄貴のように、打たれないですむわけなんだ。でも、母さんに向かって、箒を手に持つなんてことをしてごらん。母さんは、僕がそいつを取ってやるんだと思うよ。箒は僕の手から母さんの手に渡る。すると、母さんは、僕をひっぱたく前に、たぶん、「ご苦労」っていうだろう。
おじさん――ろよ、坊主ぼうず、もう眠ろ!

 両方とも、ねむれない。にんじんは、寝返りを打つ。息がつまる。空気をさがす。じいさんは、それが可哀かわいそうなのだ。
 突然、にんじんがうとうとしはじめた頃、爺さんは、彼の腕をつかまえる。
「そこにいたか、坊主……。ああ、夢を見た」と、爺さんはいう――「わしゃ、お前がまだ、泉の中にいるんだと思った。覚えてるかい、あの泉のことを?」

にんじん――覚えてるどころじゃないさ。ねえ、おじさん、小言こごとを言うわけじゃないけど、幾度いくども聞くぜ、その話は……。
おじさん――なあ、坊主、わしゃ、あのことを考えると、からだじゃう、ふるえあがるよ。わしは、草の上で眠ってた。お前は泉のへりで遊んでいた。お前はすべった。お前は落ち込んだ。お前は大きな声を立てた。お前はもがいた。それに、わしは、なんたるこっちゃ……なにひとつ、聞こえやせん。その水といったら、猫がおぼれるほどもないのだ。だが、お前は、起き上がらなんだ。災難は、つまり、そこからさ。一体全体、起き上がることぐらい考えつかなかったかい?
にんじん――泉の中で、どんなことを考えてたか、僕が覚えてると思う、おじさん?
おじさん――それでも、お前が水をばちゃばちゃいわせる音で眼がめた。やっとこさで間に合ったんだ。この糞坊主くそぼうず! 可哀そうに、ポンプみたいに水を吐くじゃないか。それから、着物を着替えさせた。ベルナアルの日曜に着る服を着せてやったんだ。
にんじん――ああ。あいつは、ちかちかしたっけ。からだを掻きづめさ。馬の毛で作った服だよ、ありゃ。
おじさん――そうじゃないよ。だが、ベルナアルは、お前に貸してやる洗いたてのシャツがなかったんだ。わしは、今、こうして笑ってるが、あれでもう一、二分、うっちゃらかしといてみろ、起こした時は、お前は死んでるんだ。
にんじん――今頃は、はるか遠くにいるわけだね。
おじさん――よせ、こら! わしも、つまらんことをいい出した。で、それからっていうもの、夜、ぐっすり眠ったためしがないのだ。一生安眠を封じられても、こりゃ、天罰てんばつだ。わしは文句をいうところはない。
にんじん――僕は、文句をいいたいよ、おじさん。眠くってしょうがないんだ。
おじさん――ろよ、坊主、眠ろよ!
にんじん――ろっていうなら、おじさん、僕の手を放してよ。眠っちまったら、また貸したげるから……。それから、このあしをそっちへ引っこめとくれよ。毛がえてるんだもの。人がさわってると、僕、眠られないんだ。
[#改ページ]

すもも


李の挿絵

 しばらく寝つかれないで、彼らは羽根布団はねぶとんの中でもぞもぞしている。おじさんがいう――
坊主ぼうず、眠ってるかい?」

にんじん――ううん。
おじさん――わしもだ。どら、起きてやろうかな。お前も、よかったら、蚯蚓捕みみずとりに行こう。

「よかろう」
と、にんじんはいった。
 二人は寝台から飛びおり、着物をひっかけ、カンテラに火をけ、そして、裏庭へ出る。
 にんじんがカンテラをげ、おじさんが半分泥のつまったブリキかんを持って行く。この中へ、釣り用の蚯蚓みみずを蓄えて置くのである。それから、その上へ湿しめったこけせる。これで、蚯蚓がなくなることはない。一日雨が降ったような時は、収獲は豊富である。
「踏みつけないように気をつけろ」と、彼は、にんじんにいう――「そっと歩けよ。わしも風邪かぜを引きさえしなきゃ、布靴ぬのぐつ穿くんだ。ちょっとした音でも、蚯蚓のやつ、穴へ引っ込んじまうから……。やっこさん、うちから這い出しすぎた時でなけりゃつかまらんのだ。急に押さえて、すべらないくらいに、そっとつまむんだぜ。半分頭をつっこんだら、はなしちまえ。ちぎるといかん。切れた蚯蚓は、なんの役にも立たんのだ。第一、ほかのやつをくさらしちまう。それに、品のいい魚は、そんなものは見向きもしない。漁師の中には、蚯蚓をけちけちするのがいる。こりゃ、間違いだ。丸ごと、生きていて、水の底でちぢこまる蚯蚓でなけりゃ、上等な魚は釣れんのだ。魚は、そいつが逃げるとみて、あとを追っかけ、安心しきって、ぱくりとやる」
「どうも、失敗しくじってばかりいる」と、にんじんはつぶやく――「それにやつらのきたねえよだれで、こら、指がべたべたすらあ」

おじさん――蚯蚓はきたなかない。蚯蚓は世の中で一番きれいなもんだ。奴あ、土を食って生きてる。だから、つぶしてみろ、土を吐き出すだけだ。わしだったら、食ってみせる。
にんじん――僕だったら、おじさんに進呈すらあ。食べてごらん。
おじさん――こいつらは、ちっとでけえや。まず、火であぶらにゃ。それから、パンの上へなすりつけるんだ。だが、小さいのなら、なまで食うぜ。そら、すももについてる奴よ、いってみりゃ……。
にんじん――うん、そんなら知ってるよ。だから、うちのもんがおじさんをいやだっていうんだ。かあさんなんか、ことにそうだ。おじさんのことを考えると、胸が悪くなるってさ。僕あ、真似まねはしないけど、おじさんのすることはいと思ってるよ。だって、おじさんは、文句をいわないもの。僕たちは、まったく意気投合いきとうごうしてるんだ。

 彼は、カンテラをげ、李の枝を引き寄せ、李をいくつかちぎる。そして、良いのを自分が取っておき、虫のついたやつをおじさんに渡す。すると、おじさんは、順々に、丸いのをそのまま、たねごと、ひと息に呑み込んで、そしていう。
「こういうのが、一等うまいんだ」

にんじん――なに、僕だって、しまいに、それくらいのことはするさ。そんなのをおじさんみたいに食べてみせるよ。ただ、あとがくさいといやなんだ。母さんが、もしキスした時、気がつくもの。
「臭いもんか」
と、おじさんはいう。そして、にんじんの顔へ息を吐きかける。

にんじん――ほんとだ。煙草たばこの臭いがするっきりだ。こりゃひどい、鼻じゅういっぱい臭うぜ。……僕、おじさんは大好きだ、いいかい。だけど、もし煙管パイプを吸わなかったら、もっと、それこそ、ほかの誰よりも好きなんだがなあ。
おじさん――いうなよ、坊主……。こいつは、人間の持ちをよくするんだ。
[#改ページ]

マチルド


マチルドの挿絵

「あのね、かあさん……」と、姉のエルネスチイヌは息を切らしてルピック夫人にいいつけた――「にんじんがね、また原っぱで、マチルドと夫婦ごっこをしてるわよ。フェリックスにいさんが着物を着せてんの。だって、あんなことしちゃいけないんでしょう」
 なるほど、原っぱでは、小娘マチルドが、白い花をつけた牡丹蔓ぼたんづる衣裳いしょうで、じっとしゃちこばっていた。おめかしは十分、これならまぎれもなく、オレンジの枝でよそわれた花嫁そっくりだ。しかも、つけたわ、つけたわ、疝痛せんつうの薬だけに、世の中の疝痛が残らず止まるほどだ。
 そこでこの牡丹蔓だが、まず頭の上で冠形かむりがたに編まれ、それが波を打ってあごから、背中、さては腕に沿ってれさがり、からみ合い、胴にきつき、やがて地べたを這って尻尾しっぽとなる。それをまたフェリックスが延ばすこと延ばすこと。
 やがて、彼は、あとすざりをしていう――
「もう動いちゃいけないよ。さ、お前の番だ、にんじん!」
 今度は、にんじんが、新郎の衣裳をつける番だ。同じように牡丹蔓を捲きつける。が、ところどころへ、罌粟けし山査子さんざしの実、黄色いたんぽぽをぱっとあしらう。マチルドと区別をするためだ。彼は、笑いたくない。で、三人とも、それぞれ大真面目おおまじめである。彼らは、儀式儀式にふさわしい空気というものを心得ている。葬式では、始めから終りまで悲痛な顔をしていなければならぬ。婚礼では、ミサがすむまで厳粛でなければならぬ。さもないと、何ごっこをしても面白おもしろくないのである。
「手をつないで!」と、フェリックスはいう――「前へ進め! 静かに!」
 彼らは、足をそろえ、からだを離して歩き出す。マチルドは、お引摺ひきずりが足にまつわりつくと、自身でそれをまくり上げ、指の間にはさむ。にんじんは、片足を上げたまま、優しく、彼女を待っている。
 兄貴のフェリックスは、彼らを原っぱじゅうひっぱりまわす。彼は後向うしろむきになって歩くのである。両腕を振子ふりこのように振って、拍子を取る。彼は、自分が村長のつもりで彼らに会釈えしゃくをし、それから、司教らしく祝福を与え、ついで、友だちとしてお祝いを述べ、お世辞をいう。それからまたヴァイオリンきになり、棒切れと棒切れとをこすり合わす。
 彼は、二人を縦横に歩かせる。
「止まれっ!」と彼はいう――「ずれて来やがった」
 が、マチルドの花冠はなかむりを平手で押しつぶすだけの暇で、また、行列は動き出す。
「あいたあ!」
 マチルドは、しかつらをして叫ぶ。
 牡丹蔓の節くれが髪の毛をひっぱるのだ。兄貴のフェリックスは、髪の毛ごとそいつを取りける。また続行だ。
「ようし……。さあ、婚礼がすんだ。キスし合って……」
 二人が遠慮していると、
「おい、どうしたんだい。キスしないかよ。婚礼がすんだら、キスするんだよ。両方から寄っかかって行きな。なんとかいうんだぜ。まるで棒杭ぼっくいみたいだ、お前たちゃ」
 自分が上手うわてとみて、彼は、二人の不器用さを鼻でわらう。多分もう、甘い言葉ぐらい口にしたことがあるのだろう。彼はそこでお手本を示す。まっ先にマチルドにキスをする。骨折り賃というところだ。
 にんじんは勇気を奮い起こす。蔓草つるくさ隙間すきまからマチルドの顔を捜し、その頬に唇をあてる。
戯談じょうだんだと思わないでね。僕、ほんとにお前と夫婦になってもいいや」
 マチルドは、されたとおり、彼にキスを返す。たちまち二人ともぎごちなく、はにかんで、になる。
 兄貴のフェリックスは、そろそろ敵意を示しだす。
「やあい、れた、照れた……」
 彼は二本の指をこすり合わせ、唇を中へ捲き込み、足をじたばたさせた。
「ずうずうしい奴! ほんとに、その気になってやがらあ」
「第一、照れてなんかいやしない」と、にんじんはいった――「それから、はやしたけりゃ、囃したっていいよ。僕がマチルドと夫婦になるのを、兄さん、いけないっていえるかい。母さんがいいっていえばだよ」
 しかし、折も折、その母さんが、自分で、「そいつはいかん」と返事をしに来た。彼女は原っぱのさかいの木戸を押しける。そして、ぐちをしたエルネスチイヌを従えて、はいって来た。生籬いけがきのそばを通る時、彼女はいばらの枝をへし折り、とげだけ残して葉をもぎ取った。
 彼女は、まっすぐにやって来る。嵐と同様、避けることはできない。
「ぴしゃっと来るぞ」
 兄貴のフェリックスはいった。もう原っぱのはしまで逃げて行き、からだをかくして眼だけ出している。
 にんじんは決して逃げない。平生へいぜいから、臆病おくびょうではあるが、早く始末をつけたほうがいいのだ。それに、今日は、なんとなく勇猛心が起こっている。
 マチルドは、ふるえながら、寡婦やもめのようにしゃくり泣きをしている。

にんじん――心配しないでいいよ。母さんって人、僕をってるんだ。僕だけとっちめようてんだ。万事引き受けるよ。
マチルド――そりゃいいのよ。だけど、あんたの母さん、なんでもうちの母さんにいいつけるわ。うちの母さん、あたしをつわ。
にんじん――折檻せっかんする。セッカンするっていうんだよ、親が子供をぶつ時は……。お前の母さん、折檻するかい?
マチルド――ええ、時々……。事柄ことがらによるわ。
にんじん――僕なんか、もうきまってるんだ。
マチルド――だけど、あたし、なんにもしやしないわ。
にんじん――いいったら……。そら、エヘン。

 ルピック夫人は近づいた。もう逃げようったって逃がさない。ひまは十分にある。彼女は歩をゆるめる。そばへ寄れるだけ寄る。姉のエルネスチイヌは、これ以上近寄ると、棒がはね返って来た時にあぶないと思い、行動の中心地帯を境として、その線上に立ち止まる。にんじんは、「お嫁さん」の前に立ちふさがる。「お嫁さん」は、ひときわ激しく泣き出す。牡丹蔓の白い花が入り乱れる。ルピック夫人は茨の枝を振り上げる。まさに打ちろそうという時だ。にんじんは、あおざめ、腕を組み、そして首を縮め、もう腰のへんがあつく、脹脛ふくらはぎがあらかじめひりひり痛い。が、彼は、傲然ごうぜんといい放つ――
「いいじゃないか、そんなこと……戯談じょうだんなんだもの……」
[#改ページ]

金庫


金庫の挿絵

 翌日、にんじんはマチルドに会う。彼女は彼にいう――
「あんたんちのかあさん、うちの母さんにあのことをいいつけに来たわよ。あたし、うんとおしりをぶたれちゃった。あんたは?」

にんじん――僕、どうだったっけ、忘れちゃった。だけど、お前、ぶたれるわけはないよ。僕たちなんにも悪いことしやしないんだもの。
マチルド――ええ、そうよ。
にんじん――僕、お前と夫婦になってもいいっていったろう、あれ、真面目まじめにそういったんだよ、ほんとだよ。
マチルド――あたしだって、あんたと夫婦になってもいいわ。
にんじん――お前は貧乏で、僕は金持ちだから、ほんとなら、お前を軽蔑けいべつしちゃうんだけど、心配しないだっていいよ。僕、お前を尊敬してるから……。
マチルド――お金持ちって、いくらもってんの。
にんじん――僕んちには、百万円あるよ。
マチルド――百万円って、どれくらい?
にんじん――とてもたくさんさ。百万長者っていや、いくらお金を使ったって使いきれないんだから……。
マチルド――うちのとうさんや母さんは、お金がちっともないって、よくこぼしてるわ。
にんじん――ああ、うちの父さんや母さんだってそうだ。誰でも、人に同情されようと思ってこぼすんだ。それと、ねたんでるやつにお世辞せじを使うのさ。だけど、僕たちは、金持ちだってことは、ちゃんとわかってるんだ。毎月まいげつじつには、父さんが一人っきりでしばらく自分の部屋へひっこんでる。金庫の錠前じょうまえがギイギイって音を立てるのが聞こえるんだ。夕方だろう、それが……。まるで青蛙あおがえるが鳴くみたいさ。父さんはあれも知らない――母さんも、兄貴も、ねえさんも誰あれも知らない文句をひとこというんだ。それを知っているのは、父さんと僕とだけさ。すると、金庫の扉が開く。父さんは、そん中からお金を出して、お勝手のテーブルの上へ置きに行く。なんにもいわずにさ。ただ、お金をがちゃがちゃっていわせるだけだ。それで、へっついの前で用をしてる母さんに、ちゃんとわかるんだ。父さんが出て行く。母さんはうしろを振り向く。お金をかき集める。毎月毎月、そのとおりのことをするんだ。それが、もうずいぶん長く続いてるもんだもの、金庫の中に、百万円のうえはいっている証拠だろう。
マチルド――で、開ける時に、父さんがいう文句って、そりゃ、どんな文句?
にんじん――どんなって、くだけむだだ。僕たちが夫婦になったら教えてあげるよ。ただ、どんなことがあっても人にしゃべらないって約束しなきゃ……。
マチルド――今、すぐ教えて……。そしたら、今すぐ、人にしゃべらないって約束するわ。
にんじん――だめだよ。父さんと僕との秘密だもの。
マチルド――あんなこといって、自分でも知らないくせに……。知ってるなら、あたしにいえるわけだわ。
にんじん――おあいにくさま、知ってますよだ。
マチルド――知らないよだ。知らないよだ。やあい、やあい、いい気味きびだ。

「よし、知っていたら、何よこす」
と、にんじんは、おごそかにいった。
「なんでもいいわ。なに?」
 マチルドは、ためらい気味ぎみだ。
「僕がさわりたいところへさわらせろよ。そしたら、文句を教えてやら」
 にんじんが、こういうと、マチルドは、相手の顔を見つめた。よくわからないのだ。彼女は、ずるそうな灰色の眼を、思い切り細くした。さあ、こうなると、知りたいことが、一つでなく、二つになったわけだ。
「先へ文句を教えてよ、にんじん」

にんじん――じゃ、指切ゆびきりだよ。教えたら、僕がさわりたいところへさわらせるね。
マチルド――母さんが、指切りなんかしちゃいけないって。
にんじん――じゃ、教えてやらないから。
マチルド――いいわよ、そんな文句なんか……。あたし、もうわかっちゃった。そうよ、もうわかっちゃったわ。

 にんじんは、しびれを切らし、手っ取り早くことを運ぶ。
「ねえ、マチルド、わかってるもんか。ちっともわかってやしないや。だけど、君がしゃべらないっていうなら、それでいいよ。父さんが金庫を開ける前にいう文句はね、いいかい、オペレケニュウ。さあ、もうさわってもいいね」
「オペレケニュウ! オペレケニュウ!」――一つの秘密を知ったよろこびと、それがいいかげんじゃないかという心配とで、マチルドは、あとすざりをする――「ほんと? あたしをだましてんじゃないの?」
 で、にんじんが、返事もせずに、いきなり片手を伸ばして向かって来るので、彼女は逃げ出す。彼女のケケケケという笑い声がにんじんの耳にはいる。
 彼女の姿が消えると、うしろで、誰かが嘲笑あざわらう声がする。
 後ろを振り向く。うまや天窓てんまどから、お屋敷の下男が頭を出し、歯をいている――
「見たぞ、にんじん。おっさんにいいつけちゃろう」

にんじん――ふざけてたんだよ、ピエエルおじさん。あのをつかまえようと思ったんじゃないか。オペレケニュウってのは、僕がいいかげんに作った名前だよ。第一、ほんとのことは、僕だって知りゃしないよ。
ピエエル――安心しな、にんじん、オペレケニュウはどうだっていいんだ。おめえのおっさんにそんなこたあいやしねえ。それより、もう一つのことをいわあ。
にんじん――もう一つのことって?
ピエエル――そうよ、もう一つのことよ。おらあ、見たぞ、見たぞ、にんじん。そうじゃねえっていってみな。へえ、年にしちゃ、やるぞ、おめえ。いいから、みてろ、今夜、耳がどうなるか。いやってほどひっぱられるぞ、やい!

 にんじんは、別にいうべきことはない。髪の毛の自然な色が消えたかと思うほど顔を赤くし、両手をポケットにつっこみ、鼻をすすりながら、がまのように遠ざかって行く。
[#改ページ]

おたまじゃくし


おたまじゃくしの挿絵

 にんじんは、ひとり、中庭で遊んでいる。それも、ルピック夫人が窓から見張りのできるように、まん中にいるのである。で、彼は、神妙しんみょうに遊ぶ稽古けいこをする。そこへちょうど、友だちのレミイが現われた。おなどしの男の子で、跛足びっこをひき、しかも、しょっちゅう走ろうとばかりする。自然わるい方の左のあしは、もう一方の脚に引きずられ、決してそれに追いつかない。彼は、ざるをもっている。そしていう――
ない、にんじん? うちのおとっつぁんが川へ網をかけてるんだ。手伝いに行こう。そいで、僕たちは笊でオタマジャクシをしゃくおうよ」
かあさんにけよ」
と、にんじんは答える。

レミイ――どうして? 僕がかい。
にんじん――だって、僕だと許しちゃくれないからさ。

 ちょうど、ルピック夫人が、窓ぎわに姿を現わす。レミイはいう――
「おばさん、あのねえ、すみませんけど、僕、オタマジャクシりに、にんじんを連れていっていいですか」
 ルピック夫人は、窓ガラスに耳を押しつける。レミイは、声を張り上げて、もう一度いいなおす。ルピック夫人は、わかった。口を動かしているのが見える。こっちの二人には、なんにも聞こえない。で、顔を見合わせて、もじもじする。しかし、ルピック夫人は、頭を振っているではないか。明らかに、不承知の合図をしているのだ。
「いけないってさ」――にんじんはいう――「きっと、あとで、僕に用事があるんだろう」

レミイ――じゃあ、しょうがないや。とっても面白おもしろいんだけどなあ。なあんだい、いけないのか。
にんじん――いろよ。ここで遊ぼう。
レミイ――いやなこった。オタマジャクシ捕りに行ったほうが、ずっといいや。あったかいんだもん、今日は……。僕、笊に何杯も捕ってみせるぜ。
にんじん――もう少し待ってろよ。母さんは、いつでも、はじめいけないっていうんだ。あとになって、どうかすると、また意見が変わるんだ。
レミイ――じゃ、十五分かそこらだよ。それより長くはいやだぜ。

 二人とも、そこに突っ立ったまま、両手をポケットに入れ、素知そしらぬ顔で、踏段ふみだんのほうに気をくばっている。と、やがて、にんじんは、レミイをひじ小突こづく。
「どうだ、いったとおりだろう」
 なるほど、戸がいて、ルピック夫人が、片手ににんじんのための笊を持ち、踏段を一段おりた。が、彼女は、不審ふしんげに、立ち止まる。
「おや、お前さんまだいたの、レミイ? もう行っちまったのかと思った。おとっつぁんにいいつけるよ、そんなとこで無駄遊むだあそびをしてると……」

レミイ――おばさん、だって、にんじんが待ってろっていうんだもの……。
ルピック夫人――なに、そりゃほんとかい、にんじん?

 にんじんは、そうだともそうでないともいわない。自分ながら、もうわからないのだ。彼はルピック夫人のどこからどこまでをり抜いている。だからこそ、今もまた、彼女のはらの中を見抜いたわけだ。ところが、このレミイの間抜野郎まぬけやろうが、こと面倒めんどうにし、なにもかもぶちこわしてしまった。にんじんは、もう結末がどうであろうとかまわないのである。彼は、足で草を踏みにじり、そっぽを向いている。
「そんなこというけど、考えてごらん」と、ルピック夫人はいう――「母さんは平生へいぜいでも、一度いったことを取り消したりなんかしないだろう」
 その後へは、ひとことも附け加えない。
 彼女は、また踏段を登って行く。ついでに笊も持ってはいってしまう。にんじんがオタマジャクシをしゃくうために持って行く笊だ。そして、そいつは、彼女がわざわざなま胡桃くるみをあけて来たのである。
 レミイは、もう、はるか彼方かなたにいる。
 ルピック夫人は、ほとんど戯談口じょうだんぐちをきかない。それでよその子供たちは、彼女のそばへ来ると用心をする。まず学校の先生程度に怖ろしいのである。
 レミイは、向こうのほうを、川を目がけて、一目散いくもくさんに走っている。その駈けっぷりの早さときたら……相変わらず遅れる左の足が、道のほこりへ筋をつけ、踊り上がり、そして鍋のような音を立てている。
 せっかくの一日を棒に振って、にんじんは、もう、何をして遊ぶ気にもならない。
 彼は、すばらしい慰みを取り逃がした。
 これから、そろそろ口惜くやしくなるのだ。
 彼は、それを待つばかりである。
 わびしく、頼りなく、にんじんはじっとしている――退屈が来るなら来い! ばちが当たるなら当たれ! だ。
[#改ページ]

大事出来だいじしゅったい


大事出来の挿絵

第一場


ルピック夫人――どこへ行くんだい?
にんじん(彼は新しいネクタイをつけ、靴へはびしょびしょにつばをひっかけた)――とうさんと散歩に行くの。
ルピック夫人――行くことはならない。わかったかい? さもなきゃ――(彼女の右手が、勢いをつけるために、うしろへさがる)
にんじん(低く)――わかったよ。

第二場


にんじん(柱時計の下で考え込みながら)――おれは、どうしたいっていうんだ? 痛い目にあわなきゃ、それでいいんだ。父さんは、かあさんより、そいつが少ない。おれは勘定かんじょうしたんだ。父さんには気の毒だが、まあしょうがない。

第三場


ルピック氏――(彼はにんじんを可愛かわいがっている。しかし、いっこう、かまいつけない。えず、商用のため、東奔西走とうほんせいそうしているからだ)――さあ、出かけよう。
にんじん――ううん、僕、行かないよ。
ルピック氏――行かないたあ、なんだ? 行きたくないのか?
にんじん――行きたいんだよ。だけど、だめなんだ。
ルピック氏――わけをいえ、どうしたんだ。
にんじん――なんでもないの。だけど、うちにいるんだ。
ルピック氏――ああ、そうか、また例の気紛きまぐれだな。うるさい真似まねはよせ。一体、どうすりゃいいんだ! 行きたいっていうかと思うと、もう行きたくない。じゃ、いいから家にいろ。そして、勝手に泣きつらかくがいい。

第四場


ルピック夫人――(彼女はいつでも、人の話がよく聞こえるように、用心深く、戸のかげで聴き耳を立てているのである)――よしよし、可哀かわいそうに! (猫撫声ねこなでごえで、彼女は、彼の髪の毛の中に手を通し、それをひっぱる)――涙をいっぱいめてるよ、この子は……。そうだろうとも、父さんが……、(そこで彼女は、ルピック氏のほうをそっと見る)――いやだっていうもんを無理にれて行こうとするからだね。母さんはそんなことしないよ、そんな残酷ざんこくないじめかたは……。(ルピック夫婦は、背中を向き合わせる)

第五場


にんじん(押入れの奥である。二本の指を口の中へ、一本を鼻の孔へつっこみ)――れもかれも、孤児みなしごになるってわけにゃいかないや。
[#改ページ]

猟にて


猟にての挿絵

 ルピック氏は、息子むすこたちをかわがわる猟にれて行く。彼らは、父親のうしろを、鉄砲の先をけて、すこし右のほうを歩く。そして、獲物えものかつぐのである。ルピック氏は疲れを知らぬ歩き手だ。にんじんは、苦情もいわず、遮二無二しゃにむにがんばってあとをついて行く。靴で怪我けがをする。そんなことは※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも出さない。手の指がじ切れそうだ。足の爪先つまさきふくれて、小槌こづちの形になる。
 ルピック氏が、猟のはじめに、兎を一匹殺すと、
「こいつは、そのへんの百姓家へ預けるか、さもなけりゃ、生籬いけがきの中へでもかくしといて、夕方持って帰るとしようや」
 こういう。にんじんは、
「ううん、僕、持ってるほうがいいんだよ」
 そこで、一日じゅう、二匹の兎と、五羽の鷓鴣しゃことをかついで廻るようなことがある。彼は獲物嚢えものぶくろかわの下へ、あるいは手を、あるいはハンケチを差し込んで肩の痛みを休める。誰かにうと、大仰おおぎょうに背中を見せる。すると、一瞬間、重いのを忘れるのである。
 が、彼はきあきしてくる。ことに、何ひとつ仕止しとめず、見栄みえという支えがなくなると、もうだめだ。
「ここで待ってろ。わしは、その畑をひとあさりしてくる」
 時として、ルピック氏はこういう。
 にんじんはれて、日の照りつける真下に、突っ立ったまま、じっとしている。彼は、親爺おやじのすることをみている。畑の中を、うねから畦へ、土くれから土くれへと、踏みつけ踏みつけ、まぐわのように、かため、らして行く。鉄砲で、生籬いけがき灌木かんぼくの茂みや、あざみくさむらをひっぱたく。その間、ピラムはピラムで、もうどうする力もなく、日蔭ひかげをさがし、ちょっと寝転ねころんでは、舌をいっぱいに垂れ、呼吸をはずませている。
「そんなとこに、なにがいるもんか」と、にんじんは心の中でいう――「そうそう、ひっぱたけ! 蕁麻いらくさでもへし折るがいい。秣掻まぐさかきの真似まねでもしろ! もしおれが兎で、溝のくぼみか、葉の蔭にんでいるんだったら、この暑さに、ひょこひょこ出かけることはまず見合わせだ!」
 で、彼は、ひそかにルピック氏をのろい、小さな悪口を投げかける。
 すると、ルピック氏は、またひとつの柵を飛び越えた。かたわらの苜蓿畑うまごやしばたけを狩り立てるためだ。今度こそ、兎の小僧が二匹や三匹、どんなことがあったっていないはずはないときめていたのだ。
 にんじんは、そこでつぶやく――
「待ってろっていったけど、こうなると、くっついて行かなきゃなるまい。初めの調子の悪い日は、しまいまで悪いんだ。親爺! いいから走れ! 汗をかけ! 犬がへとへとになろうと、おれが腰を抜かそうと、かまうこたあない! どうせ坐ってるのと、結果はおんなじさ。手ぶらでかえるんだ、今夜は」
 そういえば、にんじんは、他愛のない迷信家である。
(彼が帽子のへりへ手をかけるたびごとに)ピラムが、毛を逆立さかだて、尻尾しっぽをぴんとさせて、立ち止まるのである。すると、ルピック氏は、銃尾じゅうびを肩に押しあて、ぬき足さし足で、できるだけそのそばへ近づいて行く。にんじんはもう動かずにいる。そして、感動の最初の火花が、彼を息づまらせる。
(彼は帽子をぐ)
 鷓鴣しゃこが舞い立つ。さもなければ、兎が飛び出す。そこで、にんじんが、(帽子を下へおろすか、または、最敬礼の真似をするかで)、ルピック氏は、失敗しくじるか、仕止しとめるか、どっちかなのである。
 にんじんの告白によれば、この方法も百発百中というわけにはいかぬ。あまりしばしば繰り返してやると、がないのである。好運も同じ合図にいちいちこたえることは面倒なのであろう。で、にんじんは、控え目にを置くのである。そうすればまず大概は当るというわけだ。
「どうだい、撃つとこを見たかい?」と、ルピック氏は、まだあたたかい兎をつるし上げ、それから、そのブロンドの腹を押さえつけて、最後の大便をさせる――「どうして笑うんだい」
「だって、父さんがこいつを仕止めたのは、僕のお蔭なんだもの」
 にんじんは答える。
 また今度も成功だというので、彼は得意なのだ。そこで、例の方法を、ぬけぬけと説明したものである。
「お前、そりゃ、本気か?」
と、ルピック氏はいった。

にんじん――いいや、そりゃ、僕だって、決して間違いはないとはいわないさ。
ルピック氏――もういいから、だまっとれ、阿呆あほう! わしから注意しといてやるが、もし、頭のいいっていう評判をくしたくなけりゃ、そんなでたらめはよその人の前でいわんこった。こっぴどくわらわれるぞ。それとも、万が一、わしをからかおうとでもいうのか?
にんじん――ううん、そんなことないよ、父さん。だけど、そういわれてみると、ほんとだね。ごめんよ。僕あ、やっぱりお人好ひとよしなんだ。
[#改ページ]


蠅の挿絵

 猟はまだ続くのである。にんじんは、自分が馬鹿ばかに思えてしかたがなく、後悔のしるしに、肩をぴんと上げる。それから、新しく元気を出して、父親の足跡を拾って行く。つまり、ルピック氏が左の足を置いたところへ、自分も左の足を置くというふうにである。いきおい大股おおまたになる。人喰鬼ひとくいおににでも追っかけられてるようだ。休む暇といったらくわの実とか野生のなしとか、または、口がしびれ、唇が白くなり、そしてのどの渇きをとめるうつぼそうの実とかをちぎる時だけである。それに、彼は獲物嚢えものぶくろのカクシの中に、焼酎しょうちゅうびんをもっている。それを、ごくりごくり、彼ひとりで、あらまし飲んでしまう。ルピック氏は、猟に夢中で、請求せいきゅうするのを忘れているからだ。
「ひと口どう、とうさん」
 風は「いらん」という音しか運んでこない。にんじんは、今すすめたそのひと口を自分で飲み干し、罎をからっぽにする。頭がふらふらになる。が、父親の後を追いかけはじめる。突然、彼は立ち止まる。耳のあなへ指をつっこむ。乱暴に廻す。引き出す。それから、耳を澄ます恰好かっこうをして、ルピック氏に叫びかける――
「あのね、父さん、僕の耳ん中へ、はえが一匹はいったらしいよ」

ルピック氏――ったらいいだろう。
にんじん――奥の方へ行っちゃったんだよ。届かないんだもの。ブーンっていってんのが聞こえるよ。
ルピック氏――っとけ。ひとりでに死ぬよ。
にんじん――でも、もしかして、卵をんだら? 巣をこさえたら? え、父さん?
ルピック氏――ハンケチのかどつぶしてみろ。
にんじん――焼酎をすこし流し込んで、おぼれさしちまったらどう? そうしてもいい?
「なんでも流し込め!」と、ルピック氏はどなる――「だが、早くしろ」
 にんじんは罎の口を耳にあてがい、もう一度そいつをからっぽにする。ルピック氏が、わしにも飲ませろといい出した時の用心にである。
 で、やがて、にんじんは、駈け出しながら、うきうきと叫ぶ――
「そらね、父さん、僕、もう蠅の音が聞こえなくなったよ。きっと死んだんだろう。ただ、やつめ、これみんな飲んじまやがった」
[#改ページ]

最初のしぎ


最初の鴫の挿絵

「そこにいろ、一番いい場所だ。わしは犬をれて林をひと廻りしてくる。しぎを追い立てるんだ。いいか、ピイピイって声がしたら、耳を立てろ。それから眼をいっぱいにけろ。鴫が頭の上を通るからな」
 ルピック氏は、こういった。
 にんじんは、両腕で鉄砲を横倒しに抱いた。鴫をつのはこれが初めてだ。彼は以前に、父の猟銃で、うずらを一羽殺し、鷓鴣しゃこの羽根をふっとばし、兎を一匹そこなった。
 鶉は、地べたの上で、犬が立ち止まっているその鼻先で、仕止しとめたのである。はじめ、彼は、土の色をした丸い小さな球のようなものを、見るともなしに見据みすえていた。
あとへさがって――。それじゃあんまり近すぎる」
 ルピック氏は彼にそういった。
 が、にんじんは、本能的に、もう一歩前へ踏み出し、銃を肩につけ、筒先つつさきを押しつけるようにして、ぶっ放した。灰色のたまは、地べたへめり込んだ。鶉はというと微塵みじん、姿は消えて、ただ、羽根のいくらかと血まみれのくちばしが残っていただけだ。
 それはそうと、若い狩猟家の名声が決まるのは、鴫を一羽撃ち止めるということだ。今日という日こそ、にんじんの生涯を通じて、記念すべき日でなければならぬ。
 黄昏たそがれは、誰も知るとおり、曲者くせものである。物みなが煙のように輪郭りんかくを波打たせ、が飛んでも、かみなりが近づくほどにざわめき立つのである。それゆえ、にんじんは、胸をわくわくさせ、早くその時になればいいと思う。
 つぐみの群れが、牧場まきばからかえりに、かしわ木立こだちの中で、ぱっとはじけるように散ると、彼は、眼を慣らすために、それを狙ってみる。銃身が水気すいきで曇ると、袖でこする。乾いた葉が、そこここで、小刻こきざみな跫音あしおとをたてる。
 すると、やがて、二羽の鴫が、舞い上がった。例の長い嘴で、そのために、飛びかたが重い。それでも、情愛こまやかに、追いつ追われつ、身顫みぶるいする林の上に大きなを画くのである。
 ルピック氏が、あらかじめいったように、彼らは、ピッピッピイと啼いてはいるが、あんまりかすかなので、こっちへやって来るかどうか、にんじんは心配になりだした。彼は、しきりに眼を動かしている。見ると、頭の上を、二つの影が通り過ぎようとしている。銃尾じゅうびを腹にあて、空へ向けて、いいかげんに引鉄ひきがねを引いた。
 二羽のうち一羽が、嘴を下にして落ちてくる。反響が林の隅々すみずみへ恐ろしい爆音をき散らす。
 にんじんは、羽根の折れたその鴫を拾い、意気揚々いきようようとそれを打ち振り、そして、火薬の臭いを吸い込む。
 ピラムがルピック氏より先に駈けつけてくる。ルピック氏は、平常いつもよりゆっくりしているわけでもなく、また急ぐわけでもない。
ないつもりなんだ」
 にんじんは、められるのを待ちながら、そう考える。
 が、ルピック氏は、枝をかき分け、姿を現わす。そして、まだ煙を立てている息子に向かい、落ちつき払った声でいう――
「どうして二羽ともやっつけなかったんだ」
[#改ページ]

釣針


釣針の挿絵

 にんじんは、釣ってきた魚のこけを、今、はがしている最中だ。河沙魚かわはぜふな、それにすずきの子までいる。彼は、小刀こがたなでこそげ、腹を裂く。そして、二重ふたえきとおった気胞うきぶくろかかとでつぶす。わたはまとめて、これは猫にやるのだ。彼は働いているつもりだ。忙しい。泡で白くなったおけの上へのしかかり、一心不乱である。が、着物をらさないようにしている。
 ルピック夫人が、ちょっと様子ようすを見に来る。
「よしよし、こりゃいい。今日は、素敵すてきなフライを釣ってきてくれたね。どうして、お前も、やる時はやるじゃないか」
 そういって、彼女は、息子むすこくびと肩をでる。が、その手をひっこめるとたん、彼女は苦痛の叫びをあげる。
 指の先へ釣針つりばりが刺さっているのだ。
 姉のエルネスチイヌが駈けつける。兄貴のフェリックスもこれに続く。それから間もなく、ルピック氏自身やってくる。
「どら、見せてごらん」
と、彼らはいう。
 ところが、彼女は、その指をスカートで包み、ひざの間へはさんでいる。で、針はますます深く喰い込むのである。兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌが、母親を支えていると、一方でルピック氏は、彼女の腕をつかみ、そいつをひっぱりあげる。すると、指がみんなに見えるようになる。釣針はおもてからうらへ突き通っていた。
 ルピック氏は、それを抜こうとしてみる。
「いや、いや、そんなふうにしちゃ……」
 ルピック夫人は、とがった声で叫ぶ。なるほど、釣針は、一方にかえりがあり、一方にとめがあって、ひっかかるのである。
 ルピック氏は、眼鏡めがねをかける。
「弱ったなあ。針を折らなけりゃ」
 どうして、それを折るかだ。ご亭主も、こうなると手のくだしようがなく、ちょっと力を入れただけで、ルピック夫人は、飛び上がり、泣きわめくのである。何を抜き取られるというのだ。心臓か、命か? もっとも、釣針は、良くきたえたはがねでできている。
「じゃ、肉を切らなけりゃ……」
 ルピック氏はいう。
 彼は眼鏡をかけなおす。ナイフを出す。そして、指の上を、よくもいでない刃でやわらかくこする。むろん、刃は通りっこない。彼は押さえつける。汗をかく。やっと血がにじみ出す。
「あいた、た、あいっ」
 ルピック夫人は叫ぶ。一同はふるえあがる。
「もっと、早く、とうさん」
と、姉のエルネスチイヌがいう。
「そんなふうに、ぐったりしてちゃだめだよ」
 兄貴のフェリックスが母親にいう。
 ルピック氏は、癇癪かんしゃくが起こってきた。ナイフは、盲滅法めくらめっぽうに、引き裂き、鋸引のこぎりびきだ。ルピック夫人は、「牛殺し、牛殺し」と喚いているが、はては、気が遠くなる、幸いなことに。
 ルピック氏は、それを利用する。顔はあおざめ、躍気やっきとなり、肉をきざみ、掘る。指は、それ自身、血にまみれた傷口きずぐちだ。そして、そこから、釣針が落ちる。
 やれやれ!
 その間、にんじんは、なんの手助けもしない。母親の最初の悲鳴といっしょに、彼は逃げ出した。踏段ふみだんに腰をおろし、両手で頭を抱え、そもそもことの起こりは……と、考えてみた。たぶん、糸を遠くへ投げたつもりでいたのが、針だけ背中へひっかかっていたんだろう。で、彼はいう――
「どうも食わなかったと思ったら、じゃ、別に不思議ふしぎはないわけだ」
 彼は、そこで、母親の痛がる声を聴いている。第一、それが聞こえても、別に悲しい気持にもならない。もう少したって、今度は自分が、彼女よりも大きな声で、できるだけ大きな声で、のどがつぶれるほどわめいてやろうと思っている。そうすれば、彼女は、さっそく意趣返いしゅがえしができたつもりになり、彼を放っておくに違いないからだ。
 近所の人たちが、何事かと思い、彼にたずねる――
「どうしたんだい、にんじん?」
 彼は答えない。耳をふさいでしまう。彼の赤ちゃけた頭がひっこむ。近所の人たちは踏段の下へ列をつくり、便たよりを待っている。
 そうこうするうちに、ルピック夫人が乗り出してくる。彼女は、産婦さんぷのように血のが薄らいでいる。しかも一大危険をおかしたという得意さがつつみきれず、ていねいに繃帯ほうたいを巻いた指を前のほうへ差し出している。痛みの残りをじっとこらえて、彼女は、その場の人々に笑いかけ、短い言葉で安心させ、それから、優しく、にんじんにいう――
「母さんをあんな痛い目にわして、こいつめ……。だけど、母さんは怒ってやしないよ、ね、お前が悪いんじゃないもの」
 いまかつて、彼女はこういう調子でにんじんに話しかけたことはないのである。面喰めんくらって、彼は顔をあげる。見ると、彼女の指は、布片きれと糸で、さっぱりと、大きくがんじょうに包まれている。貧乏な子供のお人形さんそっくりだ。彼のからびた眼が、涙でいっぱいになる。
 ルピック夫人は前へこごむ。彼は、ひじを上げて防ぐ身構えをする。癖になっているからだ。しかし、彼女は、鷹揚おうように、みなの前で、彼に接吻をする。
 彼は、もう、何がなんだかわからない。泣けるだけ泣く。
「もういいんだっていうのにさ。ゆるしてあげるっていってるじゃないか。母さんは、そんなに意地悪いじわるだと思ってるのかい?」
 にんじんのむせび泣きは、いちだんと激しくなる。
「馬鹿だよ、この子は。首でも締められてるみたいにさ」
 母親の慈愛に、しんみりさせられた近所の人たちに向かい、彼女はそういうのである。
 彼女は、一同の手に釣針を渡す。彼らは、もの珍しげに、それをあらためる。そのうちの一人は、こいつは八号だと断定する。そろそろ彼女は口が自由にけ出す。すると、からみつくような舌で、大方おおかたしゅうに惨劇のしだいを物語るのである――
「ほんとに、あん時ばかりは、どんなはずみで、この子を殺しちまったかも知れません。可愛かわいくなけりゃですよ、むろん。うっかりできないもんですね。こんなっぽけな針でも……。あたしゃ、天まで釣り上げられるかと思いましたよ」
 姉のエルネスチイヌは、そいつを遠くのほうへ、庭のすみかなんか、穴があれば穴の中へでもうっちゃってしまい、その上へ土をかぶせて踏み固めておくように提議する。
「おい、戯談じょうだんいうない」と、兄貴のフェリックスはいう――「おれが、とっとくよ。そいつで釣りに行かあ。とんでもねえ、母さんの血んなかへかってた針なんてなあ、申し分、この上なしだ。れるっちゃねえぞ、魚が! ももみたいなでっけえやつ、気の毒だが、用心しろ!」
 そこで、彼は、にんじんをゆすぶる。こっちは、罰を免れたので、相変わらずきょとんとしている。それでも、自ら責めているふうをまだ誇張して見せ、かすれたしゃくり泣きを喉から押し戻し、ひっぱたき甲斐がいのある、その醜い顔の、ぬかみたいな斑点しみを、大水おおみずで洗い落としている。
[#改ページ]

銀貨


銀貨の挿絵


ルピック夫人――お前、なんにもくしたもんはないかい、にんじん?
にんじん――ないよ。
ルピック夫人――すぐに「ない」なんて、どうしていうのさ、知りもしないくせに。まずカクシをひっくり返してごらん。
にんじん――(カクシの裏を引き出し、驢馬ろばの耳みたいにれた袋を見つめている)――ああ、そうか。返してよ、かあさん。
ルピック夫人――返すって、何をさ? 失くなったもんがあるのかい。母さんは、いいかげんにいてみたんだ。そうしたら、やっぱりそうだ。何を失くしたのさ。
にんじん――知らない。
ルピック夫人――そらそら! 嘘をこうと思って、もう、うろうろしてるじゃないか、あわったふなみたいに……。ゆっくり返事をおし。何を失くした? こまかい?
にんじん――そうそう、うっかりしてた。こまだった。そうだよ、母さん。
ルピック夫人――そうじゃないよ、母さん。こまなもんか。こまは先週、あたしが取り上げたんだ。
にんじん――そいじゃ、小刀こがたなだ。
ルピック夫人――どの小刀? 誰だい、小刀をくれたのは?
にんじん――だれでもない。
ルピック夫人――なさけない子だよ、お前は……。こんなこといってたら、きりがありゃしない。まるで、母さんの前じゃ口がきけないみたいじゃないか。だけどね、今は二人っきりだ。母さんは優しく訊いてるんだよ。母親を愛してる息子むすこは、なんでも母親にほんとのことをいわなけりゃ。どうだろう、母さんは、お前が、お金を失くしたんだと思うがね。銀貨さ。母さんはなんにも知らないよ。でも、ちゃんと見当がつくんだ。そうじゃないとはいわせないよ。そら、鼻が動いている。
にんじん――母さん、そのお金は僕んでした。おじさんが、日曜にくれたんです。そいつを失くしちゃったんだ。僕が損しただけさ。しいけど、僕、あきらめるよ。それに、そんなもん、大してしかないんだもの。銀貨の一つやそこら、あったってくったって!
ルピック夫人――それだ。らず口はいかげんにおし。それをまた、あたしが聴いてるからだ、お人好ひとよしみたいに。じゃ、なにかい、おじさんの志を無にしようっていうんだね。そんなにお前を甘やかしてくれるのに……。どんなに怒ることか。
にんじん――だって、もしか僕が、そのお金を好きなことに使ったとしたらどうなの? それでも、一生そのお金の見張りをしてなけりゃいけないかしら?
ルピック夫人――うるさいっ! 偉そうに! このお金はね、失くしてもいけないし、ことわらない前に使ってもいけません。こりゃもうお前に渡さないよ。代りがあるなら持っといで。さがしといで。つくれるなら造ってごらん。まあ、そこはいいようにするさ。あっちへおいで。つべこべいわずに!
にんじん――はあ。
 ルピック夫人――その「はあ」は、これからやめてもらおうかね。一風いっぷう変わったつもりか知らないけど……。それから、すぐに鼻唄はたうたを歌ったり、歯と歯の間で口笛を吹いたり、気楽な馬方うまかた真似まねをしたら、今度は承知しないよ。母さんにゃ、そんなことしたって、なんにもなりゃしないんだ。


 にんじんは、小刻こきざみに、裏庭の小径こみちきつ戻りつしている。彼はうめき声を立てる。少し捜しては、時々鼻をすする。母親がているような気がする時は、動かずにいる。さもなければ、しゃがんで、酸模すかんぽを、また細かな砂を指の先でほじくっている。ルピック夫人の姿が見えないと思うと、もう捜すのをして、あごを前に突き出し、しゃなりしゃなりと歩き続ける。
 一体全体、例の銀貨はどこに落ちてるんだろう? はるか上の、木の枝か、その辺の古巣の奥か?
 時として、何も捜していない、何も考えていない人たちが、金貨を拾うということもある。現にあったことなのだ。しかし、にんじんは、地べたを這い廻り、ひざと爪とをり切らし、しかも、ピン一本拾わずにしまうだろう。
 さまよい疲れ、当てのない望みに疲れ、にんじんは、とてもだめだとあきらめた。で、母親のようすを見にうちへ帰ってみる決心をした。たぶん彼女はもう落ちついているだろう。銀貨がみつからなければ、もう仕方がない。
 ルピック夫人は、影も姿も見えない。彼は、おそるおそる呼んでみる――
「母さん……ねえ……母さん……」
 返事がない。彼女はたった今出かけたばかりだ。そして、仕事机の抽斗ひきだしけたままにしている。毛糸、針、白、赤、黒の糸巻いとまきの間に、にんじんは、いくつかの銀貨を発見した。
 それらの銀貨は、そこで、歳月としつきを経ているらしかった。どれもこれも眠っているようだ。まれに眼を覚ましているのもある。すみから隅へ押し合い、入り混じり、そして数は無数だ。
 つまり三つかと思えば四つ、そうかと思えばまた八つなのだ。数えようにも数えようがない。抽斗をさかさまにし、毛糸のたまをひっかき廻せばいいのだ。あとは証拠といえば何がある?
 とっさの思いつき、これが、こと重大な場合でないと彼を見放さないのである。このとっさの思いつきで、彼は今、意を決し、腕を差し伸べ、銀貨を一つ盗んだ。そして逃げ出した。
 見つかったらという心配で、彼は、ためらうことも、後悔することも、またもう一度仕事机のほうへ引っ返すこともできないのである。
 彼はまっすぐに飛び出した。あんまり先へのめって、止まることすらむずかしい。小径こみちをぐるぐる廻り、ここという場所を探し、そこで銀貨を「く」し、かかとで押し込み、腹這いに寝転ねころがる。そして、草に鼻をくすぐらせながら、めったやたらに這いずって、不規則な円をそこここにく。一人が眼隠めかくしをしてかくされた品物のまわりを廻ると、一人の音頭取おんどとりがはらはらしながら、あしを叩いて、
「もう少し、おくらに火がきそう、もう少し、お蔵に火が点きそう……」
 こう叫ぶあの無邪気な遊びそのままだ。


にんじん――母さん、母さん、あれ、あったよ。
ルピック夫人――母さんだって、あるよ。
にんじん――だって……。そらね。
ルピック夫人――母さんだって、こら……。
にんじん――どら、見せてごらん。
ルピック夫人――お前、見せてごらん。
にんじん――(彼は銀貨を見せる。ルピック夫人は、自分のを見せる。にんじんは二つを手に取り、くらべてみ、いうべき文句を考える)――おかしいなあ。どこで拾ったの、母さんは? 僕は、この小径のなしの木の下で拾ったんだ。見つける前に二十度もその上を歩いてるのさ。光ってるんだろう。僕、はじめ、紙ぎれか、それとも、白いすみれだろうと思ってたんだもの。だから、手を出す気にならなかったの。きっと僕のポケットから落っこったんだろう、いつか草ん中をころがり廻った時……気違いの真似をして……。しゃがんでみてごらん、母さん、この野郎やろうがうまく隠れたとこをさ、かくをさ。人に苦労させやがって、こいつ得意だろう。
ルピック夫人――そうじゃないとはいわない。母さんは、お前の上着の中にあったのをみつけたんだ。あんなにいってあるのに、お前はまた、着物を着替える時にカクシのものを出しとくのを忘れてる。母さんは、ものを几帳面きちょうめんにすることを教えようと思ったんだ。自分でりるように自分で捜しなさいといったんだ。ところが、捜せばきっと見つかるっていうことが、やっぱりほんとだった。そうだろう、お前の銀貨は、一つが二つになった。えらい金満家きんまんかだ。終りよければすべてよしだがね、いっといてあげるが、お金はしあわせの元手もとでじゃないよ。
にんじん――じゃ、僕、遊びに行っていい、母さん?
ルピック夫人――いいとも、遊んでらっしゃい。子供くさい遊びはもう決してするんじゃないよ。さ、二つとも持ってお行き。
にんじん――ううん、僕、一つでたくさんだよ。母さん、それしまっといて、またいる時まで……ね、そうしてね。
ルピック夫人――いやいや、勘定かんじょうは勘定だ。お前のものはお前が持っていなさい。両方とも、これはお前のもんだ。おじさんのと、梨の木のと……。梨の木のほうは、持主が出れば、こりゃ別だ。誰だろう? いくら考えてもわからない。お前、心当りはないかい?
にんじん――さあ、ないなあ。それに、どうだっていいや、そんなこと……。明日あした考えるよ。じゃ、行ってくるよ、母さん、ありがとう。
ルピック夫人――お待ち。園丁えんていのだったら?
にんじん――今すぐ、いて来てみようか?
ルピック夫人――ちょっと、ぼうや、助けておくれ。考えてみておくれ。とうさんは、あの年で、そんなうっかりしたことをなさるはずはないね。ねえさんは、貯金はみんな貯金箱に入れておくんだからね。にいさんはお金を失くす暇なんかない。握るといっしょに消えちまうんだから……。そうしてみると、どうもこりゃ、あたしだよ。
にんじん――母さんだって? そいつあ、変だなあ。母さんは、あんなにきちんと、なんでもしまっとくくせに……。
ルピック夫人――大人おとなだって、どうかすると、子供みたいな間違いをするもんだよ。なに、しらべてみればすぐわかる。とにかく、こりゃ、あたしの問題だ。もう話はわかった。心配しないでいいよ。遊んどいで。あんまり遠くへ行かずに……。その暇に母さんは、仕事机の抽斗ひきだしの中をちょっとのぞいて来るから……。

 にんじんは、もう走り出していたが、振り向いて、一時いっとき、遠ざかって行く母親のあとを見送っている。やがて、突然、彼は彼女を追い抜く。その前に立ちふさがる。そして、黙って、片一方の頬を差し出す。

ルピック夫人(右手を振り上げ、くずれかかる)――お前の嘘吐うそつきなことは百も承知だ。しかし、これほどまでとは思ってなかった。嘘の上へまた嘘だ。どこまででも行くさ。初めに卵一つ盗めば、その次ぎは牛一匹だ。そして、しまいに、母親を締め殺すんだ。

 最初の一撃が襲いかかる。
[#改ページ]

自分の意見


自分の意見の挿絵

 ルピック氏、兄貴のフェリックス、姉のエルネスチイヌ、それと、にんじん、この四人は、根のついた切株きりかぶが燃えている暖炉だんろかたわらで、寝るまでの時間を過ごす。四つの椅子いすが、それぞれ前脚を中心にして前後に揺れる。議論をしているのだ。で、にんじんは、ルピック夫人がそこにいない間に、自分一個の意見をべるのである。
「僕としちゃあ、家族っていう名義は、およそ意味のないもんだと思うんだ。だからさ、とうさん、僕は、父さんを愛してるね。ところが、父さんを愛してるっていうのは、僕の父さんだからというわけじゃないんだ。僕の友だちだからさ。実際、父さんにゃ、父親としての資格なんか、まるでないんだもの。しかし、僕あ、父さんの友情を、深い恩恵として眺めている。それは決して報酬ほうしゅうというようなもんじゃない。しかも、寛大にそれを与え得るんだ」
「ふむ」
と、ルピック氏はこたえる。
「おれはどうだい?」
「あたしは?」
と、兄貴のフェリックスに、姉のエルネスチイヌである。
「おんなじことさ」と、にんじんはいう――「偶然が、ただ君たちを、僕の兄、僕の姉と決めただけだ。それを僕が君たちに感謝するわけはないだろう。僕たち三人が同時にルピックの姓を名乗ってるからって、それは誰の罪だ? 君たちは、それをこばむことはできなかったんだ。望んでもいない血縁につながれることが、君たち、満足かどうか、僕あ、それを知る必要もない。ただ、にいさん、僕あ、君の庇護ひごに対して、それから、ねえさん、君の手厚い心尽こころづくしに対して、僕あお礼をいうよ」
「はなはだ行き届きません」
と、兄貴のフェリックスはいう。
「どこから考えついたの、そんな夢みたいなこと?」
 姉のエルネスチイヌはいう。
「それに、僕のいってることは……」と、にんじんは附け加える――「一般的には、たしかにそういえるんだ。個人的の問題はけよう。だから、かあさんがもしここにいれば、母さんの前で、僕あ、おんなじことをいうよ」
「二度はいえないだろう」
と、兄貴のフェリックスがいう。
「僕の話の、どういうところが悪いの?」と、にんじんは答える――「僕の考えを変に取らないでおくれよ。僕に愛情が欠けていると思ったら間違いだ。僕あ、これで、見かけよりゃ、兄さんを愛しているんだぜ。しかし、この愛情たるや、月並つきなみな、本能的な、紋切型もんきりがたのようなもんじゃない。意志が働いている。理性に導かれている。いわば論理的なものだ。そうだ、論理的、僕の捜していた言葉はこれだ」
「おいおい、その癖はいつやめるんだい、自分で意味のわからんような言葉をやたらつかう癖は……?」
 ルピック氏は、そういってち上がった。寝に行くのである。が、それでもなお言葉をついだ――
「ことに、そいつを、お前の年で、ほかのものに言って聞かせるなんて……。もしくなったお前のお祖父じいさんに、そんな軽口かるぐちをわしがこれっぱかりでも言ってみろ。さっそく、蹴っ飛ばされるか、ひっぱたかれるかして、わしがどこまでもお祖父さんの息子むすこだってことを知らされるだけだ」
「暇つぶしに話してるんだからいいじゃないの」
と、にんじんは、そろそろ不安である。
「黙ってるほうがなおいい」
 ルピック氏は、蝋燭ろうそくを取り上げた。
 父親の姿は消える。兄貴のフェリックスが、そのあとにくっついて行く。
「じゃ、失敬、昔のおきゅうともだち!」
と、彼はにんじんにいう。
 それから、姉のエルネスチイヌが座を起つ。そして、おごそかに――
「おやすみなさい」
と、いった。
 にんじんは、ひとり取り残されて、途方に暮れる。
 昨日、ルピック氏は、物の考え方について、もっと修行をしろと、彼に注意したのである――
我々って、いったいなんだ? 我々なんて、ありゃせん。すべての人っていうのは、誰でもないんだ。お前は、聞いてきたことをぺらぺら言いすぎる。ちっとは自分で考えるようにしろ。自分一個の意見をいえ。はじめは、一つきりでもかまわん」
 最初に試みたその意見が、さんざんなあしらいを受けたので、にんじんは、暖炉だんろの火に灰をかぶせ、椅子いすを壁に沿って並べ、柱時計におじぎをして、部屋へ引き退さがる。その部屋というのは、穴倉へ降りる階段に通じていて、みなが穴倉のと呼んでいるのである。夏は涼しくて気持のいい部屋だ。猟の獲物えものは、そこへ置くとゆうに一週間はもつのである。最近殺した兎が、皿の中で鼻から血を出している。いくつもの籠は、牝鶏めんどりにやる粒餌つぶえでいっぱいだ。にんじんは、両腕をまくりあげ、ひじまでつっこんで、そいつをかき廻す。いつまでやってもきない。
 平生へいぜいなら、外套掛けにひっかけてある家じゅうのものの着物が、彼の眼をくのである。それはまるで、めいめいの長靴を、きちんと上の棚にのせておいて、さてゆうゆうと首をくくった自殺者じさつしゃのようだ。
 しかし、今夜は、にんじんはこわくないのである。寝台の下をのぞいて見ることもしない。月の光も、木の影も、庭の井戸さえも、気味が悪くない。井戸といえば、こいつは、窓から飛び込みたいもののために、わざわざ掘ってあるように見えるのだ。
 こわいと思えば怖いのだろう。が、彼は、もう怖いなんていうことは考えない。シャツ一枚で、赤い敷石しきいしの上を、なるたけ冷たくないようにかかとだけで歩くことも忘れている。
 それから、寝床へはいり、湿しめった漆喰しっくいのところどころにできた水脹みずぶくれを見つめながら、彼は、自分の意見をし進める。なるほど、自分のためにしまっておかねばならぬから、これを自分の意見というのであろう。
[#改ページ]

木の葉の嵐


木の葉の嵐の挿絵

 もうよほど前から、にんじんは、ぼんやり、大きなポプラの、一番てっぺんを見つめている。
 彼は、うつろな考えを追う。そして、その葉の揺れるのを待つ。
 その葉は、から離れ、それだけで、軸もなく、のんびりと、別個の生活をしているように見える。
 毎日、その葉は、太陽の初めと終りの光線をび、黄金色こがねいろに輝く。
 正午からこっち、死んだように動かない。葉というよりも点だ。にんじんは我慢がしきれなくなる。落ちついていられない。すると、ようやく、その葉が合図をする。
 その下の、すぐそばの葉が一つ、同じ合図をする。ほかの葉が、また、それを繰り返し、隣り近所の葉に伝える。それが、急いで、次へ送る。
 そして、これが、危急を告げる合図なのである。なぜなら、地平線の上には、褐色の球帽きゅうぼうが、その繍縁ぬいぶちを現わしているからだ。
 ポプラは、もう、ふるえているのだ! 彼は動こうとする。邪魔になる重い空気の層を押し退けようとする。
 彼の不安は、山毛欅ぶなへ、かしわへ、マロニエへと移って行き、やがて、庭じゅうの樹という樹が、互いに、手まね身ぶりでささやき合う。空には例の球帽が、みるみるうちに拡がり、そのくっきりと暗い縁飾ふちかざりを、前へぐんぐん押し出していることをしらせ合うのである。
 最初、彼らは、細い枝を震わせて、鳥どものおしゃべりをめさせるのである。生豌豆なまえんどうを一つほうるように、気紛きまぐれにぽいといていたつぐみ、ペンキ塗りののどから、やたらにごろごろという声をしぼり出すところを、にんじんもさっきから見ていた山鳩、それから例のかささぎの尾の、それだけで、なんとも困りものの鵲……。
 その次は、彼らは、敵を威嚇いかくするために、その太い触角しょっかくを振り廻しはじめる。
 鉛色の球帽は、徐々に侵略を続けている。
 しだいに天をおおう。青空を押し退け、空気の抜けあなをふさぎ、にんじんの呼吸をつまらせにかかる。時として、それは、自分の重みのために力が弱り、村の上へちて来るかと思われることがある。しかし、鐘楼しょうろうの尖端で、ぴたりと止まる、ここで破られてはならぬというふうに。
 いよいよすぐそこへ来た。ほかからいどみかける必要はない。恐慌きょうこうが始まる。ざわめきが起こる。
 すべての樹木は、荒れ狂い、取り乱した図体ずうたいを折り重ねる。その奥には、つぶらな眼と、白いくちばしに満たされた幾多の巣があるであろうと、にんじんは想像する。こずえが沈む。と、急に眼をましたように、起き上がる。葉の茂みが、組を作って駈け出す。が、間もなく、こわごわ、素直すなおに、戻って来る。そして、一所懸命にすがりつく。アカシヤの葉は、華車きゃしゃで、溜息ためいきをつく。皮をがれた白樺の葉は、哀れっぽい声を出し、マロニエの葉は口笛を吹く。そして、つるのある馬兜鈴うまのすずくさは、壁の上へ重なり合って波のような音をたてている。
 下のほうでは、ずんぐりむっくり、林檎りんごの木が、枝の林檎をゆすぶり、にぶい力で地べたを叩く。
 その下では、スグリの木が赤いしずくを、黒すぐりがインク色の滴を垂らしている。
 さらに下のほうでは、ぱらったキャベツが、驢馬ろばの耳を打ち振り、上気のぼせたねぎが、互いに鉢合せをして、種でふくらんだ丸い実を砕く。
 どうしてだ? 何事だ、これは? そして、一体、どんなわけがあるのだ? 雷が鳴るのでもない。ひょうが降るわけでもない。稲光いなびかりひとつせず、雨一滴落ちて来ず……。とはいえ、あの混沌こんとんたる天上の闇、昼の日なかに忍び寄るこの真夜中が、彼らを逆上させ、にんじんをちぢみ上がらせたのだ。
 今や、くだんの球帽は、覆面した太陽の真下で、拡がれるだけ拡がった。
 動いている。にんじんはちゃんと知っている。すべって行く。正体はばらばらの浮雲だ。さあ、もうおしまいだ。お日様ひさまが見られるわけである。だが、そのうちに、空いっぱいに天井てんじょうを張ってしまっても、にんじんの頭は、かえってそのために締めつけられ、ひたいのへんへ喰い込むように思われる。彼は眼をつぶる。すると、例の球帽は、情容赦なさけようしゃもなく、まぶたの上へ眼かくしをしてしまう。
 彼は彼で、両方の耳へ指をつっこむ。ところが、嵐は、叫びと旋風せんぷうに乗って、そとから、家の中へ侵入する。
 そして、街で紙片かみきれを拾うように、彼の心臓をつかむ。
 む。しわくちゃにする。丸める。にぎつぶす。
 やがて、にんじんは、これが自分の心臓かと思う。わずかに、飴玉あめだまの大きさだ。
[#改ページ]

叛旗はんき


叛旗の挿絵


ルピック夫人――にんじんや、あのね、いい子だから水車へ行って、バタを一斤もらって来ておくれな。大急ぎだよ。お前が帰るまでに食事をはじめずに待っててあげるからね。
にんじん――いやだよ。
ルピック夫人――「いや」っていう返事はどういうの? さ、待っててあげるから……。
にんじん――いやだよ。僕は、水車へなんか行かないよ。
ルピック夫人――なんだって? 水車へなんか行かない? なにをいうの、お前は? 誰なのさ、用を頼んでるのは? ……なんの夢を見てるんだい?
にんじん――いやだよ。
ルピック夫人――これこれ、にんじん、どうしたというのさ、一体? 水車へ行って、バタを一斤もらっておいでって、かあさんのいいつけだよ。
にんじん――聞こえたよ。僕は行かないよ。
ルピック夫人――母さんが、夢でも見てるのかしら……? 何事だろう、こりゃ……? お前は、生れてはじめて、母さんのいうことをかないつもりだね?
にんじん――そうだよ。
ルピック夫人――母さんのいうことを聴かないつもりなんだね?
にんじん――母さんのね、そうだよ。
ルピック夫人――そいつは面白おもしろい。どら、ほんとかどうか、……走って行って来るかい?
にんじん――いやだよ。
ルピック夫人――おだまり! そうして行っといで!
にんじん――黙るよ。そうして行かないよ。
ルピック夫人――さ、このお皿を持って駈け出しなさい!


 にんじんは黙る。そして、動かない。
「さあ、革命だ」
と、ルピック夫人は、踏段の上で、両腕をげて叫んだ。
 なるほど、にんじんが彼女に向かって「いやだ」といったのは、これが初めてだ。これがもし、何かの邪魔でもされたとか、また、遊んでいる最中ででもあったのならまだしもだ。ところが、今、彼は、地べたに坐り、鼻を風にさらし、二本の親指をあっちへ向けこっちへ向け、そして、眼をつぶり、眼が冷えないようにしていたのだ。が、いよいよ、彼は、昂然こうぜんとして、母親の顔を直視する。母親はなにがなんだかわからない。彼女は、救いを求めるように、人を呼ぶ――
「エルネスチイヌ、フェリックス、面白おもしろいことがあるよ。とうさんも一緒に来てごらんって……。アガアトもだよ。さあ、誰でも見たいものは、来た、来た!」
 そこで、通りをたまに通る人々でも、立ち止まって見られるわけだ。
 にんじんは中庭の真中に、へだたりを取って、じっとしている。危険に面して、自分ながら泰然自若たいぜんじじゃくたることに感心し、またそれ以上、ルピック夫人が打つことを忘れているのは不思議ふしぎでならぬ。この一瞬は、それほど由々ゆゆしき一瞬であり、彼女はために策の施しようがないのだ。平生へいぜい用いるおどしの手真似てまねさえ、赤い切先きっさきのように鋭く燃えるあの眼つきにっては、もう役に立ちそうもない。とはいえ、いかに努めても、内心の憤りは、たちまち唇を押しけ、笛のような息と共にそとあふれ出た。
「みんな、いいかね、あたしゃ、丁寧ていねいに頼んだんだ、にんじんにさ、ちょっとした用事だよ、散歩がてら、水車まで行きゃいいんだ。ところが、どんな返事をした。いてみておくんなさい。あたしがいいかげんなことをいうみたいだから……」
 めいめい、察しがついた。彼の様子ようすを見ただけで、訊くまでもないと思う。
 優しいエルネスチイヌは、そばへ寄って、耳のところでそっという――
「気をつけなさい。ひどい目にうわよ。あんたを可愛かわいがってるねえさんのいうことだから聴きなさい。『はい』っていうもんよ」
 兄貴のフェリックスは、見物席におさまっている。誰が来たって席は譲るまい。もし、にんじんがこれから走り使いをしなくなると、その一部が当然自分のところへまわってくるのだということまでは考えていない。彼は弟を声援せいえんしたいくらいだ。昨日きのうまでは軽蔑していた。れた牝鶏めんどり程度に扱っていた。今日は、対等だ。見上げたもんだ。彼は雀躍こおどりする。なかなか面白くなってきた。
「世の中がひっくり返った。世の終りだ。さあ、あたしゃ、もう知らない」と、へこたれて、ルピック夫人はいった――「あたしゃ、引き上げるよ。誰か口をいてみるさ。そして、あの猛獣を手馴てなずけてもらいましょう。息子と父親とむかい合って、あたしのいないところで、なんとか話をつけてごらん」
「父さん」と、にんじんは、こみあげてくる感情の発作ほっさのなかで、締めつけられるような声を出した。ものを言うのにまだ調子が出ないのである――「もし、父さんが、水車へバタを取りに行けっていうんなら、僕、父さんのためなら……父さんだけのためなら、僕、行くよ。母さんのためなら、僕、絶対、行くのいやだ」
 ルピック氏は、このり好みで、気をよくするどころか、むしろ、当惑とうわくていである。たかがバタの一斤ぐらいで、そばから家じゅうのものにけしかけられ、そのため自分の威光にものをいわせるというのは、なんとしても具合が悪いのだ。
 そこで彼は、ぎごちなく、草の中を二、三歩あるいて、肩をぴくんとあげ、くるりと背を向けて、うちの中にはいってしまう。
 当分、事件は、そのままというわけだ。
[#改ページ]

終局の言葉


終局の言葉の挿絵

 夕方、食事がすむ。ルピック夫人は、病気で寝ているので、いっこう姿を見せない。みんな黙りこくっている。習慣からでもあり、また、遠慮からでもある。ルピック氏は、ナフキンを結び、そいつを食卓の上へ投げ出し、そしていう――
「旧道の羊飼い場まで散歩に行くが、一緒に来ないか、誰も?」
 にんじんは、ルピック氏がこういう方法で彼を誘い出すのだと気がつく。彼は同じくち上がり、椅子をいつものとおり壁のほうへ運び、おとなしく父親のあとに従う。
 はじめのうち、彼らは黙って歩く。訊問じんもんはすぐには開かれない。ただ、避けることは不可能だ。にんじんは、頭の中で、およその見当をつけてみる。そして、返答のしかたを稽古けいこしてみる。用意ができた。激しくゆすぶられた挙句あげくの彼は、いまいささかも後悔するところはない。昼間あれほどの大事件にぶつかったのだ。それ以上の何をおそれるものか。ところで、ルピック氏は、決心をする。その声がまた、にんじんを安堵あんどさせた。

ルピック氏――何を待ってるんだ? 今日、お前がやったことは、どういうんだ、ありゃ? わけをいってみろ。かあさんはあんなに口惜くやしがってるじゃないか。
にんじん――とうさん、僕、今までながい間、いいだせずにいたんだけど、いいかげんにかたをつけちゃおう。僕、ほんとをいうと、もう、母さんが嫌いになったよ。
ルピック氏――ふむ。どういうところが? いつから?
にんじん――どういうところって、どこもかしこも……。母さんの顔を覚えてからだよ。
ルピック氏――ふむ。そいつはなげかわしいこった。せめて、母さんがお前にどんなことをしたか、話してごらん。
にんじん――長くなるよ、そいつは。それに、父さん、気がつかない、なんにも?
ルピック氏――つかんこともない。お前がよくふくれっつらをしてるのを見たよ。
にんじん――僕、膨れるっていわれると、なおしゃくさわるんだ。そりゃむろん、にんじんは、真剣に人をうらむなんてこと、できないんだよ。やっこさん、膨れっ面をするだろう。ほっとけばいいのさ。するだけしたら、落ちつくんだ。機嫌きげんを直して、すみっこから出て来るよ。ことに、奴さんにかまってるふうをしちゃいけない。どうせ、大したことじゃないんだから。ごめんよ、父さん。大したことじゃないっていうのは、父さんや母さんや、それから、ほかのものにとってはさ。僕あ、ときどき膨れっ面をするよ。そりゃそれに違いないけど、ただ形の上さ。しかし、どうかすると、まったくの話、心の底から、何をっていうふうに、腹を立てることもあるの。で、その侮辱ぶじょくは、もう、どうしたって忘れやしないさ。
ルピック氏――まあ、まあ、そういわずに、忘れちまえ。からかわれて怒るやつがあるか。
にんじん――ううん、ううん、そうじゃないよ。父さんはすっかり知らないからさ。うちにいることは、そうないんだもの。
ルピック氏――出歩であるかにゃならんのだ。しょうがない。
にんじん(我が意を得たりという風に)――仕事は仕事だよ、父さん。父さんは、いろんなことに頭を使ってるから、それで気がまぎれるんだけど、母さんときたら、今だからいうけど、僕をひっぱたくよりほかに、さばらしのしようがないんだよ。それが、父さんの責任だとはいわないぜ。なに、僕がそっといいつけりゃよかったのさ。父さんは、僕の身方みかたになってくれたんだ。これから、ぼつぼつ、もう以前からのことを話してみるよ。僕のいうことが大袈裟おおげさかどうか、僕の記憶がどんなもんだか、みんなわかるさ。だけどね、父さん、さっそく、相談したいことがあるの。僕、母さんと別れちゃいたいんだけど……。どう、父さんの考えで、一番簡単な方法は?
ルピック氏――一年にふた月、休暇に会うだけじゃないか?
にんじん――その休暇中も、寮に残っちゃいけない? そうすりゃ、勉強のほうも進むだろう?
ルピック氏――そういう特典があるのは、貧乏な生徒だけだ。そんなことでもしてみろ。世間じゃ、わしがお前を捨てたんだっていわあ。それに第一、自分のことばかり考えちゃいかんよ。わしにしてみてからが、お前と一緒におられんようになるじゃないか。
にんじん――面会に来てくれればいいんだよ、父さん。
ルピック氏――なぐさみの旅行は、高くつかあ、にんじん。
にんじん――是非ぜひっていう旅行を利用したら……? ちょっと廻りみちをしてさ。
ルピック氏――いや、わしは、今まで、お前を兄貴や姉さんとおんなじに取り扱ってきた。誰を特別にどうするっていうことは、決してしなかった。そいつは変えるわけにいかん。
にんじん――じゃ、学校のほうをそう。寮を出しておくれよ。お金がかかりすぎるとでもいってさ。そうすりゃ、僕、何か職業を選ぶよ。
ルピック氏――どんな? 早い話が、靴屋へでも丁稚奉公でっちぼうこうにやってしいっていうのか?
にんじん――そうでもいいし、どこだっていいよ。僕、自分の食べるだけかせぐんだ、そうすりゃ、自由だもの。
ルピック氏――もう遅い、にんじん。靴の底へ釘を打つために、わしはお前の教育に大きな犠牲を払ったんじゃない。
にんじん――そんなら、もし僕が、自殺しようとしたことがあるっていったら、どうなの?
ルピック氏――おどかすな、やい。
にんじん――うそじゃないよ。父さん、昨日きのうだって、また、僕あ、首をろうと思ったんだぜ。
ルピック氏――ところで、お前はそこにいるじゃないか。だから、まあまあ、そんなことはしたくなかったんだ。しかも、お前は、自殺をしそこなったという話をしながら、得意そうに、あごを突き出している。今までに、死にたいと思ったのは、お前だけのように考えているんだ。やい、にんじん、我身勝手わがみがっての末は恐ろしいぞ。お前はそっちへ布団ふとんをみんなひっぱって行くんだ。世の中は自分一人のもんだと思ってる。
にんじん――父さん、だけど、僕の兄貴は幸福だぜ。姉さんも幸福だぜ。それからもし母さんが、父さんのいうように、僕をからかって、それがちっとも楽しみじゃないっていうんなら、僕あ、なにがなんだかわからないよ。その次ぎは、父さんさ。父さんは威張いばってる。みんなこわがっているよ。母さんだって怖がってるさ。母さんは、父さんの幸福に対して、どうすることもできないんだ。これはつまり、人類の中に、幸福なものもいるっていう証拠じゃないか。
ルピック氏――融通ゆうずうのきかないちっぽけな人類だよ、お前は。その理窟は、みたいだ、そりゃ。人の心が、いちいち奥底まで、お前にはっきり見えるかい?
 ありとあらゆることが、もう、ちゃんとわかるのか、お前に……?
にんじん――僕だけのことならだよ、ああ、わかるよ、父さん。少なくとも、わかろうと努めてるよ。
ルピック氏――そんならだ。いいか、にんじん、幸福なんていうもんは思い切れ! ちゃんといっといてやる。お前は、今より幸福になることなんぞ、決してありゃせん。決して、決して、ありゃせんぞ。
にんじん――いやに請合うけあうんだなあ。
ルピック氏――あきらめろ。鎧兜よろいかぶとで身を固めろ。それも、年なら二十になるまでだ。自分で自分のことができるようになれば、お前は自由になるんだ。性質や気分は変わらんでも、家は変えられる。われわれ親同胞おやきょうだいと縁を切ることもできるんだ。それまでは、上から下を見おろす気でいろ。神経を殺せ。そして、他の者を観察しろ。お前の一番近くにいる者たちも同様にだ。こいつは面白いぞ。わしは保証しとく、お前の気安きやすめになるような、意外千万いがいせんばんなことが目につくから。
にんじん――そりゃそうさ。他の者は他の者で苦労はあるだろうさ。でも、僕あ、明日あした、そういう人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりゃましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛していないんじゃないか。

「そんなら、わしが、そいつを愛してると思うのか」
 我慢ができず、ルピック氏は、ぶつけるようにいった。
 これを聞いて、にんじんは、父親のほうに眼をあげる。彼は、しばらく、そのむつかしい顔を見つめる。ひげがある。あまりしゃべり過ぎたことを恥じるように、口がその中へ隠れてしまっている。深いひだのある額、眼尻めじりしわ、それから、伏せたまぶた……歩きながら眠っている恰好かっこうだ。
 一時いっとき、にんじんは、口をきくことができない。このひそかなよろこび、握っているこの手、ほとんど力まかせにすがっているこの手、それがすべてどこかへ飛んで行ってしまうような気がするのだ。
 やがて、彼は、こぶしを握り固め、闇の彼方かなたに、うとうとと眠りかけた村のほうへ、それを振ってみせる。そして、大袈裟おおげさな調子で叫ぶ――
「やい、因業婆いんごうばばあ! いよいよ、これで申し分なしだ! おれはお前が大嫌いなんだ!」
「こら、せ! なにはともあれ、お前の母さんだ」
と、ルピック氏はいう。
「ああ」と、にんじんは、再び、単純でしかも用心深い子供になり――「僕の母さんだと思ってこういうんじゃないんだよ」
[#改ページ]

にんじんの
  アルバム


にんじんのアルバムの挿絵


 たまたまどこかの人が、ルピック一家の写真帖をめくってみると、きまって意外な顔をする。姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスは、立ったり、腰かけたり、他処行よそゆきの着物を着たり、半分裸だったり、笑ったり、ひたいに八の字を寄せたり、種々様々な姿で、立派な背景の中におさまっている。
「で、にんじんは?」
「これのはね、ごく小さな時のがあったんですけれど……」と、ルピック夫人は答えるのである――「そりゃ可愛かわいれてるもんですから、みんな持ってかれてしまったんですよ。だから、一つも手許てもとには残ってないんです」
 ほんとのところは、いまかつて、にんじんのはったためしがないのだ。


 彼はにんじんで通っているが、その通り方は、ひと通りではない。うちのものが彼のほんとの名をいおうとしても、すぐにはちょっと浮かんでこないのである。
「どうしてにんじんなんてお呼びになるんです? 髪の毛が黄色いからですか」
性根しょうねときたら、もっと黄色いですよ」
と、ルピック夫人はいう。


 その他の特徴をげれば――
 にんじんの面相めんそうは、まずまず、人に好感をもたせるようにできていない。
 にんじんの鼻は、土竜もぐらの塚のように掘れている。
 にんじんは、いくら掃除そうじをしてやっても、耳のあなに、しょっちゅうパンくずめている。
 にんじんは、舌の上へ雪をのせ、乳を吸うようにそれを吸って、かしてしまう。
 にんじんはひうちをおもちゃにする。そして、歩きかたが下手へたで、佝僂せむしかしらと思うくらいだ。
 にんじんのくびは、青いあかまり、まるでカラアを着けているようだ。
 要するに、にんじんの好みは一風いっぷう変わっている。しかも、彼自身、麝香じゃこうにおいはしないのである。


 彼は一番に起きる。女中と同時だ。で、冬の朝など、日が出る前に寝台から飛びり、手で時間を見る。指の先を時計の針に触れてみるのである。
 コーヒーとココアの用意ができる。すると、彼は、何のひときれでもかまわない、大急ぎでつめ込んでしまう。


 誰かに彼を紹介すると、彼は顔をそむけ、手をうしろから差し伸べ、だんだんちぢこまり、あしをくねらせ、そして、壁をひっかく。
 そこで、人が彼に、
「キスしてくれないのかい、にんじん」
と、頼みでもすると、彼は答える――
「なに、それにゃ及ばないよ」


ルピック夫人――にんじん、返事をおし、人が話しかけた時には……。
にんじん――アギア、ゴコン。
ルピック夫人――ほらね、そういってあるだろう、子供はなんかほおばったまま、ものを言うんじゃないって……。


 彼は、どうしても、ポケットへ手をつっこまずにはいられない。ルピック夫人がそばへ来ると、急いで引き出すのだが、いくら早くやったつもりでも、遅すぎるのである。彼女はとうとうポケットをいつけてしまった――両手をつっこんだまま。


「たとえ、どんな目におうと、うそくのはよくない」と、ねんごろに、名づけ親のピエエルじいさんはいう――「こいつはいやしい欠点だ。それに、なんの役にも立たんだろう。だって、どんなこっても、ひとりでに知れるもんだ」
「そうさ」と、にんじんは答える――「ただ、時間がもうからあ」


 怠け者の兄貴、フェリックスは、かろうじて学校を卒業した。
 彼は、のうのうとし、ほっとする。
「お前の趣味は、一体なんだ」と、ルピック氏はたずねる――「もうそろそろ食って行く道をめにゃならん年だ、お前も……。なにをやるつもりだい?」
「えっ! まだやるのかい?」
と、彼はいう。


 みんなで罪のない遊戯ゆうぎをしている。
 ベルト嬢が、いろんなことをたずねる番に当たっていた。
 にんじんが答える――
「そりゃ、ベルトさんの眼は空色だから……」
 みんなが叫んだ――
「すてき! 優しい詩人だわ」
「ううん、僕あ、眼なんか見ないでいったんだよ」と、にんじんはいう――「なんていうことなしにいってみたまでさ。今のは、慣用句かんようくだよ。修辞学しゅうじがくの例にあるんだよ」

十一


 雪合戦ゆきがっせんをすると、にんじんはたった一人で一方の陣をうけたまわる。彼は猛烈だ。で、その評判は遠くまで及んでいるが、それは彼が雪の中へ石ころを入れるからである。
 彼は、頭をねらう。これなら、勝負は早い。
 氷が張って、ほかのものが氷滑こおりすべりをしていると、彼は彼で、氷の張ってない草の上へ、別に小さな滑り場をこしらえる。
 天狗跳てんぐとびをすると、彼は、徹頭徹尾てっとうてつび、台になっているほうがいいという。
 人捕ひととりの時は、自由などに未練はなく、いくらでも捕まえさせる。
 そして、隠れんぼでは、あんまりうまく隠れて、みんなが彼のことを忘れてしまう。

十二


 子供たちはせいくらべをしている。
 ひと目見ただけで、兄貴のフェリックスが文句なしに首から上ほかのものより大きい。しかし、にんじんと姉のエルネスチイヌとは、一方いっぽうがたかの知れた女の子だのに、これは肩と肩とを並べてみないとわからない。そこで、姉のエルネスチイヌは、爪先つまさきで背伸びをする。ところが、にんじんは、ずるいことをやる。誰にもさからうまいとして、軽く腰をかがめるのである。これで、心もち高低のあるところへ、ちょっぴり、差が加わるのである。

十三


 にんじんは、女中のアガアトに、次のように忠告をする――
「奥さんとうまく調子を合わせようと思うなら、僕の悪口をいってやりたまえ」
 これにも限度がある。
 というのは、ルピック夫人は、自分以外の女が、にんじんに手を触れようものなら、承知しないのである。
 近所の女が、たまたま、彼をつといっておどしたことがある。ルピック夫人が駈けつける。えらい権幕けんまくだ。息子むすこは、恩を感じ、もう、顔を輝かしている。やっと連れ戻される。
「さあ、今度は、かあさんと二人きりだよ」
と、彼女はいう。

十四


猫撫声ねこなでごえ! そりゃ、どんな声をいうんだい?」
 にんじんは小さなピエエルにたずねる。このピエエルは、おっさんに甘やかされているのである。
 おおよそ合点がてんがいったところで、彼は叫ぶ――
「僕あ、そんなことより、一度でいいから、馬鈴薯じゃがいもの揚げたのを、皿から、手づかみで食ってみたい。それから、桃を半分、種のあるほうだぜ、あいつをしゃぶってみたいよ」
 彼は考える――
「もし母さんが、僕を可愛かわいくって食べちまうっていうんだったら、きっとさきに、はなぱしらかじりつくだろう」

十五


 時々は、姉のエルネスチイヌも兄貴のフェリックスも、遊びきると、自分たちの玩具おもちゃを気前よくにんじんに貸してやる。にんじんはこうして、めいめいの幸福を一部分ずつ取って、つつましく自分の幸福を組み立てるのである。
 で、彼は、決して、あまり面白おもしろく遊んでいるようなふうは見せない。玩具を取り返されるのがこわいからだ。

十六


にんじん――じゃ、僕の耳、そんなに長すぎるなんて思わない?
マチルド――変な恰好かっこうだと思うわ。どら、貸してごらんなさい。こんなかへ泥を入れて、お菓子を作りたくなるわ。
にんじん――かあさんがこいつをひっぱって、あつくしときさえすりゃ、ちゃんとお菓子が焼けるよ。

十七


「文句をいうのはおよし! いつまでもうるさいね。じゃ、お前は、あたしよりとうさんのほうが好きなんだね」
と、ルピック夫人は、折にふれ、いうのである。
「僕は現在のままさ。なんにもいわないよ。ただ、どっちがどっちより好きだなんてことは、絶対にない」
と、にんじんの心の声がこたえる。

十八


ルピック夫人――なにしてるんだい、にんじん?
にんじん――なにって、知らないよ。
ルピック夫人――そういうのは、つまり、また、ろくでもないことをしてるってこった。お前は、一体、いつでも、知っててするのかい、そんなことを?
にんじん――こうしてないと、なんだかさびしいんだもの。

十九


 母親が自分のほうを向いて笑っていると思い、にんじんは、うれしくなり、こっちからも笑ってみせる。
 が、ルピック夫人は、漠然と、自分自身に笑いかけていたのだ。それで、急に、彼女の顔は、黒すぐりの眼を並べた暗い林になる。
 にんじんは、どぎまぎして、隠れる場所さえわからずにいる。

二十


「にんじん、笑う時には、行儀ぎょうぎよく、音を立てないで笑っておくれ」
と、ルピック夫人はいう。
「泣くなら泣くで、どうしてだか、それがいえないって法はない」
と、彼女はいう。
 彼女は、また、こうもいう――
「あたしの身にもなってくださいよ。あの子ときたら、ひっぱたいたって、もうきゅうとも泣きゃしませんよ」

二十一


 なお、彼女はこういうのである――
 ――空に汚点しみができたり、道の上にふんでも落ちてると、あの子は、こりゃ自分のものだと思ってるんです。
 ――あの子は、頭の中で何か考えてると、お尻のほうは、お留守るすですよ。
 ――高慢なことといったら、人が面白おもしろいっていってくれれば、自殺でもしねませんからね。

二十二


 事実、にんじんは、水をいれたバケツで自殺をくわだてる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へじっと突っ込んでいるのである。その時、ぴしゃりと、どこからか手が飛んできて、バケツが靴の上へひっくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。

二十三


 時として、ルピック夫人は、にんじんのことを、こういうふうにいう――
「ありゃ、あたしそっくりでね、毒はないんですよ。意地が悪いっていうよりゃ、気がかないってほうですし、それに、大事おおごとをしでかそうったって、ああ尻が重くっちゃ」
 時として、彼女は、あっさり承認する――
 もし彼に、けちな虫さえつかなければ、やがては、羽振はぶりをかす人間になるだろうと。

二十四


「もし、いつか、兄貴のフェリックスみたいに、誰かがお年玉に木馬をくれたら、おれは、それへ飛び乗って、さっさと逃げちまう」
 これが、にんじんの空想である。

二十五


 彼にとっていっさいが河童かっぱだということを示すために、にんじんは、そとへ出ると口笛を吹く。が、あとをつけて来たルピック夫人の姿が、ちらりと見える。口笛は、ぱったりまる。あたかも彼女が、一銭の竹笛を歯でみ破ったかのごとく、そいつは痛ましい。
 それはそうと、くさめが出る時、彼女がひょっこり現われただけで、それが止まってしまうことも事実だ。

二十六


 彼は、父親と母親の間で、橋渡しをつとめる。
 ルピック氏はいう――
「にんじん、このシャツ、ボタンが一つとれてる」
 にんじんは、そのシャツをルピック夫人のところへ持って行く。すると、彼女はいう――
「お前から、指図さしずなんかされなくったっていいよ」
 しかし、彼女は、針箱を引き寄せ、ボタンを縫いつける。

二十七


「これで、とうさんがいなかったら、とっくの昔、お前は、かあさんをひどい目にわしてるとこだ。この小刀こがたなを心臓へ突き刺して、わらの上へころがしといたにきまってる」
と、ルピック夫人は叫ぶ。

二十八


はなをかみなさい!」
 ルピック夫人は、ひっきりなしにいう。
 にんじんは、根気こんきよく、ハンケチの表側おもてがわへかみ出す。間違って裏側へやると、そこをなんとかごまかす。
 なるほど、彼が風邪かぜを引くと、ルピック夫人は、彼の顔へ蝋燭ろうそくあぶらを塗り、姉のエルネスチイヌや兄貴のフェリックスが、しまいにけるほど、べたべたな顔にしてしまう。それでも、母親は、にんじんのために、特にこう附け加える――
「こりゃ、どっちかっていえば、悪いことじゃなくって、いことなんだよ。頭ん中の脳がせいせいするからね」

二十九


 ルピック氏が、今朝けさから彼をからかいどおしなので、つい、にんじんは、どえらいことをいってしまった。
「もう、うるさいったら、馬鹿野郎ばかやろう!」
 にわかに、周囲まわりの空気がこおりつき、眼の中に、火のかたまりができたように思われる。
 彼は口の中でぶつぶついう。あぶないと見たら、地べたへもぐり込む用意をしている。
 が、ルピック氏は、いつまでも、いつまでも、彼を見据えている。しかも、危ない気配けはいは見えない。

三十


 姉のエルネスチイヌは、間もなくおよめに行くのである。で、ルピック夫人は、彼女に、許婚いいなずけと散歩することを許す。ただし、にんじんの監視のもとにである。
「先へ行きなさいよ。駈け出したっていいわ」
 彼女は、こういう。
 にんじんは先へ歩く。一所懸命に駈け出しては見る。犬がよくやるあの走りかただ。が、うっかり、速度をゆるめようものなら、彼の耳にあわただしいキスの音が聞こえてくるのである。
 彼は咳払せきばらいをする。
 神経がたかぶってくる。ちょうど、村の十字架像の前で、彼は帽子をいだついでに、そいつを地べたに叩きつけ、足で踏みにじり、そして叫ぶ――
「おれなんか、絶対に、誰も愛してくれやしない!」
 それと同時に、ルピック夫人が、しかもあのすばやい耳で、唇のへんに微笑を浮かべながら、塀のうしろから、物凄ものすごい顔を出した。
 すると、にんじんは、無我夢中むがむちゅうで附けたす――
「そりゃ、母さんは別さ」





底本:「にんじん」岩波文庫、岩波書店
   1950(昭和25)年4月1日第1刷発行
   1976(昭和51)年2月16日第31刷改版発行
   2004(平成16)年5月25日第76刷発行
※フェリックス・ヴァロットン(1865年12月28日〜1925年12月29日)の挿絵を同梱しました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2014年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード