雪の宿り

神西清




 文明ぶんめい元年の二月なかばである。朝がたからちらつきだした粉雪は、いつの間にか水気の多い牡丹ぼたん雪に変って、ひるをまわる頃には奈良の町を、ふかぶかとうずめつくした。興福寺の七堂伽藍しちどうがらんも、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入っているようである。人気ひとけはない。そういえば鐘の音さえも、今朝からずっととだえているような気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。
 さるの刻になっても一向に衰えを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞い下りるが、中ぞらには西風が吹いているらしい。塔という塔の綿帽子が、言い合わせたように西へかしいでいるのでそれが分る。西向きの飛簷垂木ひえんたるきは、まるで伎楽ぎがくの面のようなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れている。
 うっかり転害てがい門を見過ごしそうになって、連歌師れんがし貞阿ていあははたと足をとめた。別にほかのことを考えていたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪にめられているので、ちょっとこの門の見わけがつかなかったのである。入込いりこんだ妻飾つまかざりのあたりが黒々と残っているだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思わぬ深い雪にかえって手間どった貞阿は、単調な長い佐保路さほじをいそぎながら、この門をくぐろうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねていたのである。
 ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内さんないは、まるで京を縮めて移して来たような有様で、連歌師風情ふぜいにはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいって、連歌友達の玄浴主よくすのところで一夜の宿を頼もうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。
 玄浴主は深井じんじ坊という塔頭たっちゅうに住んでいる。いわゆる堂衆の一人である。堂衆といえば南都では学匠のことだが、それを浴主などというのは可笑おかしい。浴主は特に禅刹ぜんさつで入浴のことをつかさどる役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大華厳寺八宗兼学けごんじはっしゅうけんがくの学侶のあいだに親しまれている。それほどにこの人は風呂好きである。したがって寝酒も嫌いな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあったのである。

 その夜、客あしらいのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にもつかり、固粥かたかゆの振舞いにまで預ったところで、実は貞阿として目算もくさんに入れてなかった事が持上った。雪はまだむ様子もない。風さえ加わって、庫裡くりの杉戸の隙間すきまから時折り雪を舞い入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲炉裏いろりをかこんで、問わず語りの雑談がしばらく続いた。
 貞阿は主人の使で、このあいだ兵庫の福原へ行って来た。主人というのは関白一条兼良かねらで、去年の十一月に本領安堵あんどがてら落してやった孫房家ふさいえの安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来ている関白のことに移って、太閤たいこうもめっきりけられましたな、などと玄浴主が言う。とって六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言艸いいぐさだが、事実この矍鑠かくしゃくたる老人は、近年めだって年をとった。それは五年ほど前に腹ちがいの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがいの弟の東岳※(「日+斤」、第3水準1-85-14)ちょうきん[#ルビの「ちょうきん」は底本では「ちょうき」]遷化せんげして以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあったこの二人の禅僧をうしなって、兼良生来の勝気な性分もめっきり折れて来た。あの勧修念仏記かんじゅねんぶつきを著したのはその年の秋のことである。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、ついでに一慶和尚の自若たる大往生だいおうじょうぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添えさせながら、「即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏」と大書たいしょしたと云うのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合槌あいづちを打つ。
 客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一献いっこんの振舞いにあずかって、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分って来た。もっとも最初からそれに気が附かなかったのは、貞阿の方にも見落しがある。第一ほとんど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにいた。応仁の乱れが始まって以来の東奔西走で、古い馴染なじみを訪ねる暇もなかったのである。自分としては戦乱にはもう厭々あきあきしている。しかし主人の身になってみれば、紛々たる巷説こうせつの入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身をさらしていたこの連歌師れんがしの口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違いない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めている。差当さしあたっては明日にも、恐らく斎藤妙椿みょうちんのところへであろう、主命で美濃みのへ立たなければならぬと云うではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構えがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
 それにもう一つ、貞阿にとって全くの闇中の飛礫ひれきであったのは、去年の夏この土地の法華寺ほっけじに尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心をいているらしいことであった。世の取沙汰とりざたほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良にしばらく腰を落着けて、鶴姫のうわさが色々とあらぬ尾鰭おひれをつけて人の口ののぼっているのに一驚を喫したが、工合ぐあいの悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕えるようになったのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母うばあがって以来のことであるぐらいの経歴なら、とうの昔に知り抜いている。……
 主人の口占くちうらから、あらまし以上のような推察がついた今となっては、客も無下むげじょうこわくしている訳にも行かない。実際このようなあわただしい乱世に、しかも諸国をわたり歩かねばならぬ連歌師の身であってみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝えて置きたい人の上のないこともない。……そうはらえると、銅提ひさげが新たに榾火ほたびから取下ろされて、赤膚焼あかはだやきの大湯呑ゆのみにとろりとした液体が満たされたのを片手にひかえて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹雪ふぶきの音を虚空こくうに聴き澄ましながら、客はおもむろに次のような物語の口を切った。

        *

 御承知のとおり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷にあがりますまで、東福寺の喝食かっしきを致しておりました。ちょうどその時分、やはり俗体のままのお稚児ちごで、奥向きのお給仕を勤めておられた衆のなかに、松王まつおう丸という方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたろうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついおなつきくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思えば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛火みょうかのなかであわただしいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日向ひなたになり断えずおとり申上げるようなめぐり合せになったのでございます。あの方のお声やお姿が、今なおこの眼の底に焼きついております。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。
 その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、おとしこそ七十ぢかいとは申せまだまだおさかんな頃で、かねがね五山の学衆の、或いは風流韻事にながれ或いは俗事政柄せいへいにはしって、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百丈清規ひゃくじょうしんぎを衆徒に御講釈になっておられました。その厳しいおしつけを学衆の中には迷惑がる者もおりまして、いま義堂などと嘲弄ちょうろうまじりにはしたない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられますこともまことにお厳しく、十七年のあいだかつてお脇をむしろにおつけ遊ばした事がなかったと申します。この御警策の賜物たまものでございましょう、わたくし風情ふぜいの眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝たちまさって見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚こうえんつらなるものが多々ございました。その中には相国寺しょうこくじのあの桃源瑞仙ずいせんさまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱ていしゅの学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であったと伺っております。
 このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児ちごを、お二方ともよくよくの御鍾愛ごしょうあいのようにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤たいこう殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参ったものでございます。そういうお席で、お伴について来られた松王様が、かたわらにきちんとひざを正されて、易だの朱子だのと申すむずかしいお話に耳を澄ましておられるお姿を、わたくしどももよく垣間見かいまみにお見かけしたものでございました。
 この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございましょう。右兵衛佐うひょうえのすけ殿(斯波義敏しばよしとし)の御曹子おんぞうしで、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役伊勢いせ殿(貞親さだちか)の、奥方の縁故にかされての邪曲よこしまなお計らいがもとで父君が廃黜はいちゅつ[#ルビの「はいちゅつ」は底本では「はいちゅう」]き目にお遇いなされた折り、一時は武衛ぶえい家の家督をがれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指金さしがねでむざんにも家督を追われ、つむりをまるめられて、人もあろうにあの蔭凉軒おんりょうけん真蘂西堂しんずいせいどうのもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛わしいお弟子入りについては、色々とこみ入った事情もございますが、掻撮かいつまんで申せばこれは、父君右兵衛佐殿の調略のにえになられたのでございました。松王様が家督をおすべり遊ばした後は、やはり伊勢殿のお差図さしずで、いま西の陣一方の旗がしら、左兵衛佐さひょうえのすけ殿(斯波義廉よしかど)が渋川家より入って嗣がれましたが、右兵衛さまとしてみれば御家督に未練もあり意地もおありのことは理の当然、幸いおてかけの妹君が、そのころ新造さまと申して伊勢殿の寵愛無双ちょうあいむそうのお妾であられたのを頼って、御家督におん直りのこと様々に伊勢殿へ懇望せられました事のついでで、これまた黒衣の宰相などとはやされて悪名天下にかくれない真蘂西堂にも取入って、そのお口添えを以て公方くぼう様をも動かさんものとの御たくらみから、松王様を蔭凉軒に附けられたものでございます。いやはや何と申してよいやら、浅ましいのは人の世の名利みょうり争いではございますまいか。これが畠山はたけやま殿の御相続争いと一つになって、この応仁の乱れの口火となりましたのを思えば、その陰にしいたげられて、うしろ暗い企らみ事のただのお道具に使われておいでの松王様のお身の上は、なかなかお痛わしいの何のと申す段のことではございません。
 このたびの大乱の起るに先だちましては、まだそのほかに瑞祥ずいしょうと申しますか妖兆と申しますか、色々といやらしい不思議がございました。まず寛正かんしょうの六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜の刻ごろ、その大いさ七八しゃくもあろうかと見える赤い光り物が、坤方ひつじさるより艮方うしとらへ、風雷のように飛び渡って、虚空こくうは鳴動、地軸も揺るがんばかりのすさまじさでございました。たちまちにして消え去った後は白雲に化したと申します。そのとき安部殿(在貞)などのたてまつられた勘文かんもんでは、これは飢荒、疾疫群死、兵火起、あるいは人民流散、流血積骨の凶兆であった趣でございます。当時、なんぴとの構えた[#ルビの「ざ」は底本では「ぎ」]れ事でございましょうか、天狗てんぐ落文おとしぶみなどいう札を持歩く者もありまして、その中には「徹書記てっしょき宗砌そうぜい、音阿弥、禅竺、近日此方こちらきたシ」など記してあったと申します。さきのお二人はわたくしの思い違えでなくば、これより先に亡くなっておられますが、観世かんぜ殿が一昨年、金春こんぱる殿が昨年と続いて身罷みまかられましたのも不思議でございます。それにしましても世の乱れにとって、歌よみ、連歌師れんがし猿楽師さるがくしなど申すものに何の罪科がございましょう。思えばひょんな風狂人もあったものでございます。
 わたくし風情ふぜいが今更めいて天下の御政道をかれこれ申す筋ではございません。それは心得ておりますが、何としてもこの近年の御公儀のなされ方は、わたくし共の目に余ることのみでございました。天狗星てんぐせいの流れます年の春には花頂若王子にゃくおうじのお花御覧、この時の御前相伴衆ごぜんしょうばんしゅうはしは黄金をもってべ、御供衆おともしゅうのは沈香じんこうを削って同じく黄金の鍔口つばぐちをかけたものと申します。その前の年は観世の河原猿楽御覧、更には、これは貴方あなたさまよく御存じの公方くぼうさま春日社御参詣、また文正ぶんしょうの初めには花の御幸。……いやいやそんな段ではございません、その公方さま花の御所の御造営にはいらかに珠玉を飾り金銀をちりばめ、そのついえ六十万さしと申し伝えておりますし、また義政公御母君御台所みだいどころの住まいなされる高倉の御所の腰障子こししょうじは、一間の値い二万せんとやら申します。かみこのようななされ方ゆえ、したがっては公家くげ武家の末々までひたすらに驕侈きょうしにふけり、天下は破れば破れよ、世間は滅びば滅びよ、人はともあれ我身さえ富貴ふうきならば、他より一段栄耀えように振舞わんと、このような気風になりましたのも物の勢いと申しましょうか。
 その一方に民の艱難かんなんは申すまでもございません。例の流れ星騒動の年には、大甞会だいじょうえのありました十一月に九ヶ度、十二月には八ヶ度の土倉役どそうやくがかかります。徳政とやら申すいまわしい沙汰さたも義政公御治世に十三度まで行われて、倉方も地下じげ方もことごとく絶え果てるばかりでございます。かてて加えて寛正はじめの年は未聞の大凶作、あくる年には疫病えやみさえもはやり、京の人死ひとじには日に幾百と数しれず、四条五条の橋の下に穴をうがってしかばねを埋める始末となりました。一穴ごとに千人二千人と投げ入れますので、橋の上に立って見わたしますと流れ出す屍も数しれず、石ころのようにごろごろとまろんで参ります。そのため賀茂かもの流れもふさがらんばかり、いやその異様な臭気と申したら、お話にも何にもなるものではございません。いま思いだしても、ついこのほおのあたりに漂って参ります。人のうわさではこの冬の京の人死は締めて八万二千とやら申します。
 願阿弥陀仏がんあみだぶつと申されるおひじりは、この浅ましさを見るに見兼ねられて、義政公にお許しを願って六角堂の前に仮屋を立て、施行せぎょうをおこなわれましたが、このとき公方くぼう様より下された御喜捨はなんとただの百貫もんと申すではございませんか。また、五山の衆徒に申し下されて、四条五条の橋の上にて大施餓鬼せがき執行しゅぎょうせしめられましたところ、公儀よりは一紙半銭の御喜捨もなく、ついえはことごとく僧徒衆の肩にかかり、相国寺のみにても二百貫文を背負い込んだとやら。花の御所の御栄耀ごえように引きくらべて、わたくし風情ふぜいの胸の中までも煮えたつ思いが致したことでございます。
 このような天災地妖がたび重なっては、御政道は暗し、何ごとか起らずにいるものではございません。応仁元年正月の初めより、京の人ごころは何かしら異様な物を待つ心地で、あやしい胸さわぎを覚えておりましたところ、果せるかなその月の十八日の夜、洛北らくほく御霊林ごりょうばやしに火の手は上ったのでございます。
 もっともわたくしは二三日前より御用で近江おうみへ参っておりまして、その夜のことは何も存じません。御用もそこそこに飛ぶように帰って参りますと、騒ぎは既に収まって、案外に京の町は落着いております。とは申せその底には容易ならぬ気配も動いておりますし、桃花坊はその夜の合戦の場より隔たっておりませんので、すぐさま御家財御衣裳ごいしょうの御引移しが始まります。太平記と申す御本を拝見いたしますと、んぬる正平しょうへいの昔、武蔵守むさしのかみ殿(高師直こうのもろなお)が雲霞うんかの兵を引具ひきぐして将軍(尊氏たかうじ)御所を打囲まれた折節、兵火の余烟よえんのがれんものとその近辺の卿相雲客けいしょううんかく、或いは六条の長講堂、或いは土御門つちみかど三宝院さんぽういんへ資財を持運ばれたよしが、載せてございますが、いざそれが吾身わがみのことになって見ますれば、そぞろに昔のことも思いでられてまことに感無量でございます。この度の戦乱の模様では、京の町なかは危いとのことで、どこのお公卿くげ様も主に愛宕あたごの南禅寺へお運びになります。一条家でも、御縁由ゆかり殊更ことさらに深い東山の光明峰寺こうみょうぶじをはじめとし、東福、南禅などにそれぞれ分けてお納めになりました。京じゅうの土倉、酒屋など物持ちは言わずもがな、四条しじょう坊門、五条油小路こうじあたりの町屋の末々に至るまで、それぞれに目ざす縁故をたどって運び出すのでございましょう、その三四ヶ月と申すものは、京の大路小路は東へ西への手車小車に埋めつくされ、足のんどころもない有様。中にはいたいけな童児が手押車を押し悩んでいるのもございます。わたくしも、その絡繹らくえきたる車の流れをかいくぐるように、御家財を積んだ牛車ぎっしゃを宰領して、幾たび賀茂の流れを渡りましたやら。その都度、六年前の丁度ちょうどこの時節に、この河原にち満ちておりました数万のしかばねのこともおのずと思い出でられ、ああこれが乱世のすがたなのだ、これが戦乱の実相なのだと、覚えず暗い涙にむせんだことでございました。
 室町のお屋敷には、桃華文庫と申す大切なお文倉ふみぐらがございます。これも文和ぶんなの昔、後芬陀利花ごふだらく院さま(一条経通つねみち)御在世のみぎり、折からの西風にあおられてお屋敷の寝殿しんでん二棟ふたむねが炎上の折にも、幸いこの御秘蔵の文庫のみはつつがなく残りました。かわらき土を塗り固めたお倉でございますので、まあ此度このたび大事だいじはあるまいと、太閤たいこうさまもこれには一さい手をお触れにならず、わざわざこのわたくしを召出されて、文庫のことは呉々くれぐれも頼むと仰せがございました。お屋敷に仕える青侍あおさぶらいの数も少いことではございませんが、殊更ことさらわたくしにお申含めになったについては、少々訳がらもございます。それは太閤さまが心血をそそがれました新玉集しんぎょくしゅうと申す連歌れんが撰集せんしゅう二十巻が、このお文倉に納めてありまして、わたくしもその御纂輯ごさんしゅうの折ふしには、お紙折りの手伝いなどさせて頂いたものでございます。ゆくゆくは奏覧にも供え、また二条摂政さま(良基よしもと)の莵玖波つくば集の後をけて勅撰ちょくせん御沙汰ごさたも拝したいものとひそかに思定おもいさだめておいでの模様で、いたくこの集のことをお心に掛けてございました。もっともこれは、なまじえせ連歌などもてあそぶわたくしの思い過しもございましょう。お文倉には和漢の稀籍群書およそ七百余合、巻かずにして三万五千余巻が納めてありましたとのことで、中には月輪つきのわ殿(九条兼実かねざね)の玉葉ぎょくよう八合、光明峯寺殿(同道家みちいえ)の玉蘂ぎょくずい七合などをはじめ、お家累代るいだいの御記録の類も数少いことではございませんでした。
 そうこう致すうち一月の末には、太閤は宇治の随心院へ奥方様とお二人で御座を移されました。御老体のほどを気づかわれたお子様がたのお勧めに従われたものでございましょう。さあそうなりますと、身に余る大役をお請けした上に、大樹とも頼む太閤はおいでにならず、東の御方様はじめお若い方々のみ残られました桃花坊で、わたくしは茫然ぼうぜんと致してしまいました。見渡すところ青侍の中には腕の立ちそうな者はおりませず、夜ふけて風の吹き募ります折りなどは、今にもつわものどもの矢たけびが聞えて来はしまいか、どこぞの空が兵火に焼けていはしまいかと落々おちおちまぶたを合わす暇さえなく、しとみをもたげては闇夜の空をふり仰ぎふり仰ぎ夜を明かしたものでございました。
 さいわい五月の末ごろまでは何事もなく過ぎました。とは申せ安からぬ物の気配は日一日と濃くなるばかり。東西両陣の合戦の用意が日ごとに進んで参る有様が手にとるようにうかがわれます。その中を、わたくしにとってただ一つの心頼みは、あの松王丸様なのでございました。いやそうではございません。すでに御家督をおすべりになって、蔭凉軒にて御祝髪ののちの、見違えるような素円そえんさまなのでございます。お歳ははや二十四、ああ世が世ならばと、御立派に御成人のお姿を見るたびに、わたくしは覚えず愚痴の涙も出るのでございました。……実は先刻から申しそびれておりましたが、この松王さまが(やはり呼び慣れたお名で呼ばせて頂きましょう――)、いつの間にやら鶴姫さまと、深いおん言交しの御仲であったのでございます。母親にたずねてみますれば色々その間のいきさつも分明ぶんめいいたしましょうが、そのような物好き心が何の役にたちましょう。ただ、武衛家の御家督に立たれました頃おい、太閤様にじきじきの御申入れがあったとやら無かったとやら、もとより陪臣ばいしんのお家柄であってみれば、そのような望みのかなえられよう道理もございません。それ以来松王さまのお足も自然表むきには遠のいたのでございます。
 わたくしとしましてはただそのお心根がいじらしく、おん痛わしく、お頼みにまかせてふみ使いの役目を勤めておったのでございます。お目にかかる折々には、打融うちとけられた磊落らいらくなお口つきで、「室町が火になったら、俺が真すぐけつけてやるぞ。屈強な学僧づれを頼んで、文庫も燃させることではないぞ」などと、おおせになったものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思われましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築山つきやまのあたりからこっそり忍んで参られることもございました。そのような折節には、母親のひそかな計らいで、片時の御対面もあったようでございました。また時によっては、「文庫を燃させなんだらその褒美ほうびに、姫をさらって行くからそう思え」などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどそうなれかしと望んだことで御座いましょう。渦を巻く猛火みょうかのなかを、白い被衣かつぎをかずかれた姫君が、ねずみ色の僧衣のたくましいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐって彼方かなたの闇にみるみるうちに消えてゆく、そのような夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹立こだちのざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入ったものでございました。悲しいことに、それもこれもうつつとはなりませんでした。もっともわたくしのまなこの中にえがいた火の色と白と鼠の取り合わせは、後日まったく思いもかけぬすがたで現われるには現われましたが、それはまだ先の話でございます。
 忘れも致しません、五月二十六日の朝まだき、おっつけとらの刻でもありましたろうか、北の方角に当って時ならぬ太鼓たいこの磨り打ちの音が起りました。つづいてそれがどっと雪崩なだれを打つときの声に変ります。わたくしはほとんどもう寝間着姿で、寝殿しんでんのお屋敷にじ登ったのでございます。しばらくは何の見分けもつきませんでしたが、やがて乾方いぬいに当って火の手が上ります。その火が次第に西へ西へと移ると見るまに、夜もほのぼのと明けて参りました。見ればさきの関白様(兼良男教房のりふさ)をはじめ、御一統には悉皆しっかいお身仕度を調えて、おひさしの間にお出ましになっておられます。東の御方(兼良側室)はじめ姫君、侍女がたは、いずれも甲斐々々かいがいしいお壺装束つぼそうぞく。わたくしも、こう成りましては腹巻の一つも巻かなくてはと考えましたが、万が一にも雑兵ぞうひょう乱入のみぎりなどにはかえって僧形そうぎょうの方が御一統がたの介抱を申上げるにも好都合かと思い返し、慣れぬ手に薙刀なぎなたをとるだけのことに致しました。何せこの歳まで、本物の戦さと申すものは人の話に聞くばかり、今になって顧みますと可笑おかしくなりますが、小半時ほどは胴のふるえがとまりません。いやはやとんだ初陣ういじんぶりでございました。
 そのうちに物見に出ました青侍あおさぶらいもぼつぼつ戻って参ります。その注進によりますと、今日の戦さの中心は洛北らくほくとのことで、それも次第に西へ向って、南一条大宮のあたりに集まってゆくらしいと申すのでございましたが、時刻が移りますにつれどうしてそんな事ではなく、やがて東のかた百万遍ひゃくまんべん革堂こうとう(行願寺)のあたりにも火の手が上ります。これは稍々やや艮方うしとらへ寄っておりますので、折からの東風に黒々とした火煙は西へ西へと流れるばかり、幸い桃花坊のあたりは火のもかぶらずにおりますが、もし風の向きでも変ったなら、炎の中をどうして御一統をお落し申そうかと、ただもう胸をかれるばかりでございます。頼みの綱は兼々かねがねお約束の松王さまばかり、それも室町のあたりは火にはかからぬと思召おぼしめしてか、或いはまた相国寺の西にも東にも火の手の上っております有様では、無下むげにその中を抜け出しておいで遊ばすわけにも参らぬものか、一向に姿をお見せになりません。やがてその日も暮れました。夜に入って風は南に変ったとみえ、百万遍、雲文寺のかたの火焔かえん廬山寺ろざんじあたりの猛火みょうかも、次第に南へ延びて参ります。渦巻きあがる炎の末はことごとく白い煙と化して棚びき、その白雲の照返てりかえしでお庭先は、夜どおしさながら明方のような妙にあおざめた明るさでございます。ことすさまじいのは真夜中ごろの西のかたの火勢で、北は船岡山ふなおかやまから南は二条のあたりまで、一面の火の海となっておりました。
 ようようにその夜も無事にすぎて、あくる二十七日には、朝の間のどうやらときの声も小止おやみになったらしいすきを見計らい、東の御方は鶴姫さまと御一緒に中御門なかみかどへ、若君姫君は九条へと、青侍あおさぶらいの御警固で早々にお落し申上げました。やれ一安心と思ったが最後、気疲れが一ときに出まして、合戦のいきおいがまた盛返もりかえしたとの注進もうつろ心に聞きながし、わたくしは薙刀なぎなたつえに北の御階みはしにどうと腰をえたなり、夕刻まではそのまま動けずにおりました。この日のいくさとりの終までには片づきまして、その夜は打って変ってさながらきつねにつままれたような静けさ。物見の者の持寄りました注進を編み合わせてみますと、この両日に炎上の仏刹ぶっさつ邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるいは洞院とういん殿、冷泉れいぜい中納言、猪熊いのくま殿など、おびただしいことでございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向いの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村雲の橋の北と西とが悉皆しっかい焼け滅んだとのことでございます。
 さりながらこれはほんの序の口でございました。住むに家なく、口にするかてもない難民は大路小路にあふれております。物とり強盗は日ましにしげくなって参ります。かてて加えて諸国より続々と上ってまいる東西両陣の足軽あしがると申せば、昼は合戦、夜は押込みを習いとするやからばかり、その荒々しい人相といい下賤げせんな言葉つきと云い、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思いでございました。そうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大刀たちを振りかざし掛声かけごえも猛に、どこやらのやしきから持ち出したものでございましょう、重たげな長櫃ながびつを四五人連れでいて渡る足軽の姿などは、一々目にとめているいとまもなくなります。築地ついじの崩れの陰などでは、抜身ぬきみを片手に女どもをなぐさんでおります浅ましい有様が、ちょっと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸しとみ蹴破けやぶる物音の、けたたましい叫びと入りまじって聞えて参ることも、室町あたりでさえ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜生道ちくしょうどう阿鼻あび大城とはこの事でございましょう。
 そのような怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いておりますうち、六月八日には、ついに一大事となってしまいました。そのうまの刻ばかりに、中御門猪熊の一色いっしき殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません、近衛このえの町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放ったとやら、たちまちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風にあおられて、上京かみぎょうの半ばが程はみるみる紅蓮ぐれん地獄となり果てました。火焔かえんの近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまくる風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫のかわら屋根にじっと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめておりますと、その上をう薄い黒煙のなかに太閤たいこう様のお顔が自然かさなって見えて参ります。あの名高い江家ごうけ文庫が、仁平にんぺいの昔に焼亡して、とびらを開くいとまもなく万巻の群書片時に灰となったと申すのも、やはりうまの刻の火であったことまでが思い合わされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸いこの火も室町小路こうじにて止まりました。そうそう、松王様はその夕刻、おっつけいぬの刻ほどにひょっくりお見えになり、わたくしがおうらみを申すと、
「なに、ついそこの武者の小路で見張っておったよ」と、事もなげにおおせられました。
 その日の焼亡はまことに前代未聞の沙汰さたで、しもは二条よりかみ御霊ごりょうつじまで、西は大舎人おおとねりより東は室町小路をさかいにおおよそ百町あまり、公家くげ武家のやしきをはじめ合せて三万余宇が、小半日のに灰となり果てたのでございます。そうなりますと町なかで焼け残っている場所とては数えるほどしかございません。お次はそこが火の海と決まっておりますので、桃花坊も中御門のお宿も最早これまでと思い切りそのあくる日にはさきの関白様は随心院へ、また東の御方様は鶴姫様ともども光明峰寺へ、それぞれお移し申し上げました。
 越えて八月の半ばには等持、誓願の両寺も炎上、いずれも夜火でございます。その十八日には洛中らくちゅうの盗賊どもこぞってついに南禅寺に火をかけて、かねてより月卿雲客げっけいうんかくの移し納めて置かれました七珍財宝をことごとかすめ取ってしまいます。これも夜火でございましたが、粟田あわた口の花頂青蓮院しょうれんいん、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山ひがしやまの空を焦がす有様はすさまじくも美麗な眺めでございました。
 ……ああ、由玄どの、今あなたはまゆをおひそめなされましたな。いえ、よく分っております、美麗だなどと大それた物の言いよう、さぞやお耳にさわりましょう。神罰もくだりましょう、仏罰ぶつばちも当りましょう、それもよく心得ております。けれどこの貞阿はじつに感じたままをお話しするまででございます。まことに人間の心ほど不思議なものはありませぬ。火をくぐり、血しぶきを見、腐れたしかばねきもを冷やし、人間のする鬼畜きちくごうまなこにするうち、度胸もついて参ります、捨鉢すてばちすさびごころも出て参ります、それとともに、今日は人の身、明日はわが上と、日ごと夜ごとに一身の行末ゆくすえを思いわび、或いははかない夢を空だのみにし、或いは善きにつけしきにつけ瑞祥ずいしょうに胸とどろかせるような、片時の落居らっきょのいとまとてない怪しい心のみだれが、いつしかに太い筋綱にり合わさって、いやいやが身ひとの身なんどは夢幻の池のにうかぶつかのまの泡沫うたかたにしか過ぎぬ、この怖ろしい乱壊転変らんえてんぺんすがたこそ何かしら新しいものの息吹いぶき、すがすがしい朝を前触れるきよめの嵐なのではあるまいかと、わたくしごとの境涯を離れて広々と世を見はるかす健気けなげな覚悟もいて参ります。ふるき代の富貴ふうき栄耀えようの日ごとにこぼたれ焼かれて参るのを見るにつけ、一掬いっきく哀惜の涙をとどめえぬそのひまには、おのずからこの無慚むざんな乱れをべる底の力が見きわめたい、せめて命のある間にその見知らぬ力の実相をこの眼で見たい、その力のはたらきから新しい美のいのちをみとりたい……このような大それた身の程しらずの野心も、むくむくと頭をもたげて参ります。一身の浮き沈みを放下ほうかして、そのようなまなこであらためて世の様を眺めわたしますと、何かこう暗い塗籠ぬりごめから表へ出た時のようにまなこえとして、あの建武けんむの昔二条河原の落書らくしょとやらに申す下尅上げこくじょうする成出者なりでものの姿も、その心根のいやしさをもって一概に見どころなき者とおとしめなみする心持にもなれなくなります。今まではただおぞましいおそろしいとのみ思っておりました足軽あしがる衆の乱波らっぱも、土一揆つちいっき衆の乱妨も檀林巨刹だんりんきょさつの炎上も、おのずと別のまなこで眺めるようになって参ります。まことにわれながらあきれるような心の移り変りでございました。……
 その間にも戦さの成行きは日に細川方が振わず、いきおいを得た山名やまな方は九月朔日ついたちついに土御門万里つちみかどまでの小路の三宝院に火をかけて、ここの陣所を奪いとり、愈々いよいよ戦火は内裏だいりにも室町殿にも及ぼう勢となりました。その十三日には浄華院の戦さ、守る京極きょうごく勢は一たまりもなく責め落され、この日の兵火に三宝院の西は近衛このえ殿より鷹司たかつかさ殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西園寺さいおんじ殿、転法輪てんぽうりん、三条殿をはじめ、公家くげのお屋敷三十七、武家には奉行ぶぎょう衆のおやど八十ヶ所が一片のけむりと焼けのぼりました。最早やこうなりましては、次の火に桃花坊の炎上は逃れぬところでございます。お屋敷の方はともあれかし、この世の乱れの収まったのち、たとえ天下はどのように変ろうとも、かならず学問のかつえが来る、いにしえの鏡をたずねる時がかならず来る。あのお文倉ふみぐらだけは、この身は八つ裂きになろうとも守り通さずにはかぬと、わたくしは愈々覚悟をさだめ、水を打ったようなしいんとしたあきらめのなかで、深く思いきったことでございました。さりながら、思えば人間の心当てほどはかないものもございません。わたくしがそのように念じ抜きました桃華文庫も、まったく思いもかけぬ事故ことゆえから烏有うゆうに帰したのでございます。……


 貞阿はほっと口をつぐんだ。流石さすがに疲れが出たのであろう、かたわらの冷えた大湯呑ゆのみをとり上げると、その七八分目まで一思いにあおって、そのまま座を立った。風はいつの間にかやんでいる。かわやの縁に立って眺めると、雪もやがてれるとみえ、中空にはほのかな光さえ射している。ああ静かだと貞阿は思う。今しがたまで自分の語りふけっていた修羅黒縄しゅらこくじょうの世界と、この薄らのようにすき透った光の世界との間には、どういう関わりがあるのかと思ってみる。これは修羅の世を抜けいでて寂光の土にいたるという何ものかのひそやかなあかしなのでもあろうか。それでは自分も一応は浄火のさかいを過ぎて、いま凉道蓮台のかどさきまで辿たどりついたとでも云うのか。いや何のそのような生易なまやさしいことが、と貞阿はわれとわが心をしかる。京の滅びなどの眼で見て来たことは、恐らくはこの度の大転変の現われの九牛きゅうぎゅうの一毛にしか過ぎまい。兵乱はようやく京を離れて、分国諸領に波及しようとするきざしが見える。この先十年あるいは二十年百年、ふるいものの崩れきるまで新しいものの生れきるまでは、この動乱は瞬時もやまずに続くであろう。人間のたかが一世や二世で見きわめのつくような事ではあるまい。してみればいま眼前のこの静寂は、仮の宿りにほかならぬ。今宵こよいの雪の宿りもまた、所詮しょせんはわが一生の間にたまさかに恵まれる仮の宿りに過ぎないのだ。……貞阿はそう思い定めると、しばらくじっと瞑目めいもくした。雪が早くも解けるのであろう、どこかでをつたう水の音がする。……
 やがて座に戻った連歌師れんがしは、玄浴主よくすの新たに温めてすすめる心づくしの酒に唇をうるおしながら、物語の先をつづけた。

 それは九月の十九日でございました。明け方からすさまじい南の風が吹き荒れておりましたが、その朝のの刻なかばに、お屋敷のすぐ南、武者の小路のかみの方に火の手があがったのでございます。つづいてそのしもにもかみにも二つ三つと炎があがります。火の手はたちまちに土御門の大路を越えて、あっと申す間もなく正親町おおぎまちめつくし、桃花坊は寝殿しんでんといわずお庭先といわず、黒煙りに包まれてしまいました。折からの強風にかてて加えて、火勢の呼び起すつむじ風もすさまじいことで、御泉水あたりの巨樹大木も一様にさながらほうきを振るように鳴りざわめき、その中を燃えさかったままの棟木むなぎの端や生木なまきの大枝が、雨あられと落ちかかって参ります。やがて寝殿の檜皮葺ひわだぶきのお屋根が、赤黒い火焔かえんをあげはじめます。お軒先のきさきをめぐって火のへびがのたうち廻ると見るひまに、ごうと音をたててしとみが五六間ばかりも一ときに吹き上げられ、御殿の中からは猛火みょうかの大柱が横ざまに吐き出されます。それでもう最後でございます。わたくしは、居残っております十人ほどの青侍あおさぶらいや仕丁の者らと、兼ねてより打合せてありました御泉水の北ほとりに集まり、その北に離れておりますお文倉ふみぐらをそびらにかばうように身構えながら、程なく寝殿やお対屋たいのやの崩れ落ちる有様を、あれよあれよとただ打ち守るばかり。さあ、寝殿の焼け落ちましたのは、やがてうまの一つ頃でもございましたろうか、もうその時分には火の手は一条大路を北へ越して、今出川のかたもまた西のかた小川こかわのあたりも、一面の火の海になっておりました。
 その中を、どこをどう廻って来られたものか、松王さまは学僧衆三四人と連れ立たれて走せつけて下さいました。わたくしはかたじけなさと心づよさに、お手をじっと握りしめたまま、しばしは物も申せなかったことでございました。お文倉にも火の余燼もえさしが落下いたしましたが、それは難なく消しとめ、やがて薄らぎそめた余煙の中で、松王さまもわたくしどもも御文庫の無事を喜び合ったことでございます。松王さまは小半時ほど、焼跡の検分などをお手伝い下さいましたが、もはや大事だいじもあるまいとの事で、間もなく引揚げておいでになりました。
 そのひつじの刻もおっつけ終る頃でございましたろうか。わたくしどもは、兼ねて用意のほしひなどで腹をこしらえ、お文庫の残った上はその壁にせめて小屋なりと差掛け、警固いたさねばなりませんので、寄り寄りその手筈てはずを調えておりました所、表の御門から雑兵ぞうひょうおよそ三四十人ばかり、どっとばかり押し入って参ったのでございます。そのしばらく前に二三人の足軽あしがるらしい者が、お庭先へ入っては参りましたが、青侍あおさぶらいの制止におとなしく引き退さがりましたので、そのまま気にも留めずにいたのでございます。その同勢三四十人のなりすさまじさと申したら、悪鬼羅刹あっきらせつとはこのことでございましょうか、裸身の上に申訳ばかりの胴丸どうまる臑当すねあてを着けた者は半数もありますことか、その余の者は思い思いの半裸のすがた、抜身ぬきみ大刀たちを肩にした数人の者を先登に、あとは一抱えもあろうかと思われるばかりのひのきの丸太を四五人してかついで参る者もあり、空手からてで踊りつつ来る者もあり、あっと申す暇もなくわたくしどもは、お文倉ふみぐらとの間を隔てられてしまったのでございます。刀のさやを払って走せ向った血気の青侍二三名は、たちまちその大丸太の一薙ひとなぎに遇い、脳漿のうしょう散乱してたおれ伏します。その間にもはや別の丸太を引っ背負って、南面の大扉にえいおうの掛声かけごえも猛に打ち当っておる者もございます。これは到底ちからで歯向っても甲斐かいはあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、なだめて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築山つきやまのほとりにおりました大将株とも見えるひげ男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそたちまちばらばらとけ寄った数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失ってしまったのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございましょう、むかつくような酒気が鼻をついたのを覚えているだけでございます。……
 やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなっております。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひょうひょうと中空に鳴っております。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がずきりずきりとんでおります。わたくしはその谷間をようようい上りますと、ああ今おもい出しても総身そうみあわだつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或いは引きちぎれ、或いはつづりをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに数しれず怪しげに立ち迷っているではございませんか。そこここに散乱したお文櫃ふみびつの中から、白蛇のようにうねり出ている経巻きょうかんたぐいも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らずねずみ色の中空へ立ち昇って参ります。寝殿しんでんのお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げているのは、そのあたりへ飛び散った書冊が新たなたきぎとなったものでもございましょう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築地ついじ彼方かなたへ舞ってゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろのあやしい地獄絵巻から、いつまでもじいっと瞳を放てずにいたのでございます。口おしいことながら今こうしてお話し申しても、口不調法ぶちょうほうのわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝えすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついております。いいえ、一生涯この眼から消え失せるのあろうことではございますまい。
 ようやくに気をとり直してお文倉ふみぐらに入ってみますと、さしもうず高く積まれてありましたお文櫃ふみびつは、いずくへ持ち去ったものやら、そこの隅かしこの隅に少しずつ小さな山を黒ずませているだけでございます。青侍あおさぶらいどもはみな逃亡いたして姿を見せません。ふるえながらも居残っておりました仕丁両三名を励ましつつ、お倉の中を検分にかかりますと、そこの山のくまかしこの山の陰から、ちょろちょろと小鼠こねずみのように逃げ走る人影がちらつきます。難民の小倅こせがれどもがまだあきらめきれずに金帛きんぱくの類を求めているのでございましょう。……こうしてさしもの桃華文庫もあわれはかなく滅尽いたしたのでございます。残りましたお文櫃はそれでも百余合ほどございましたが、これは光明峰寺へ移し納め、わたくしもそれに附いてそちらへ引き移りました。わたくしは取るものも取敢とりあえずその夜のうちに随心院へ参り、雑兵劫掠ぞうひょうきょうりゃく顛末てんまつを深夜のことゆえお取次を以て言上ごんじょういたしましたところ、太閤たいこうにはお声をあげて御痛哭つうこくあそばしましたよし、それを伺ってわたくしはしんから身を切られる思いを致したことでございました。光明峰寺へ移されましたお櫃の中には新玉集の御稿本はついに一帖も見当らなかったのでございます。
 いやもう一つ、わたくしが気を失って倒れておりました間に、つい近所の町筋では無慚むざんな出来事が起ったのでございました。翌日になって人から聞かされました事ゆえ、くわしいお話は致し兼ねますが、兼ねて下京しもぎょうを追出されておりました細川方の郎党衆、一条小川こかわより東は今出川まで一条の大路に小屋を掛けて住居しておりましたのが、この桃花坊の火、また小笠原殿の余炎にかかって片端より焼け上り、妻子の手を引き財物を背に負うて、行方も知らず右往左往いたした有様、哀れと言うも愚かであったと人の語ったことでございました。かようにして内裏だいりの東西とも一望の焼野原となりました上は、細川方は最早や相国寺を最後の陣所と頼んで、立籠たてこもるばかりでございます。
 けれども程なく十月の三日には、その相国寺の大伽藍だいがらんおびただしい塔頭たっちゅう諸院ともども、一日にして悉皆しっかい炎上いたしたのでございます。山名方の悪僧が敵に語らわれて懸けた火だと申します。この日の戦さのすさまじさは後日人の口より色々と聞き及びましたが、ともあれ黄昏たそがれに至って両軍相引きに引く中を、山名方は打首うちくびを車八りょうに積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀をうずむるしかばね幾千と数知れなかったとも申しております。
 さあこの報せが光明峰寺にとどきますと、鶴姫様の御心配は筆舌ひつぜつの及ぶところではございません。早々にお見舞いの御消息がわたくしにたくせられます。それをふところにわたくしが相国寺の焼跡に立ったのは、あくる日のかれこれたつみの刻でもございましたろうか。さしも京洛きょうらく第一の輪奐りんかんの美をうたわれました万年山相国の巨刹きょさつことごとく焼け落ち、残るは七重の塔が一基さびしく焼野原にそびえ立っているのみでございます。そこここに死骸しがいを収める西方らしい雑兵どもが急しげに往来するばかり、功徳池くどくいけと申す蓮池はすいけには敵味方の屍がまだ累々るいるいと浮いておりますし、鹿苑院ろくおんいん、蔭凉軒の跡とおぼしきあたりも激しいいくさの跡をしのばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つはまろんでいる始末でございます。物を問おうにも学僧衆はおろか、承仕法師じょうじほうしの姿さえ一人として見当りません。もしや何か目じるしの札でもと存じ灰塵かいじん瓦礫がれきの中を掘るようにして探ねましたが、思えば剣戟けんげき猛火のあいだ、そのようなものの残っていよう道理もございません。わたくしは途方に暮れてたたずんでしまいました。
 その日は空しく立戻り、次の日もまた次の日も、わたくしは御文をふところにしつつあるは功徳池のほとりに立ち暮らし、或は心当てもなく焼け残ったちまた々を探ね廻りましたが、松王様に似たお姿だに見掛けることではございません。そのうちに日数はたって参ります。相国寺合戦の日の色々と哀れな物語も自然と耳にはいって参ります。中でも一入ひとしおの涙を誘われましたのは、細川殿の御曹子おんぞうし、六郎殿のおん痛わしい御最後でございました。当年十六歳の六郎殿は、この日東の総大将として馬廻りの者わずか五百騎ばかりを以て、天界橋てんがいばしより攻め入る大敵を引受け、さんざんに戦われましたのち、大将はじめ一騎のこらず討死うちじにせられたのでございますが、戦さ果てても御遺骸いがいを収める人もなく、犬狗いぬえのこのように草叢くさむら打棄うちすててありましたのを、ようやく御生前に懇意になされた禅僧のゆくりなくも通りすがった者がありまして、泣く泣くおん亡骸なきがらを取収め、陣屋の傍につくえを立て、形ばかりの中陰ちゅういんの儀式をしつらえたのでございます。ところが或る日のこと、ふとその禅僧が心づきますと硯箱すずりばこふた上絵うわえの短冊が入れてありまして、それには、
さめやらぬ夢とぞ思ふきひとのけむりとなりしその夕べより
と、哀れな歌がしたためてあったと申すことでございます。人のうわさでは、これはさる公卿くぎょうの御息女とこの六郎殿と御契りがありまして、常々ふみを通わせられておられましたが、その方の御歌とか申しました。この物語を耳にしましたとき、あまりの事の似通いにわたくしは胸をつかれ、こればかりは姫のお耳に入れることではない、この心一つに収めて置こうと思い定めましたが、なおも日数を経て何ひとつお土産みやげ話もない申訳なさに、ある夕まぐれついこのお話を申上げましたところ、もはや夕闇にまぎれて御几帳きちょうのあたりはおぼろに沈んでおりますなかで、忍びに泣き折れられました御様子に、わたくしも母親も共々に覚えず衣のそでを絞ったことでございました。
 そのような不吉なきざしに心を暗くしながらも、なおもお跡を尋ねてその日その日を過ごしておりますうち、やがて十一月の声を聞いて二三日がほどを経ました頃でございます。わたくしは今出川の大路を東へ、橋を越してなおもさ迷って参りますうち、地獄谷への坂道にやがて掛ろうというあたりで、のそりのそりと前を歩んで参る僧形そうぎょうの肩つきが、なんと松王様に生き写しではございませんか。もしやとお声をかけてみますと、振向かれたお顔にやはり間違いはございませんでした。やれうれしやとわたくしは走せ寄りまして、おうらみも御祝著ごしゅうちゃくも涙のうちでございます。「いや許せ許せ。おれが悪かったよ」と相変らずの御豁達かったつなお口振りで、「俺はあれからこっち、この谷奥のいおりに住んでいる。真蘂しんずい和尚と一緒だよ。地獄谷に真蘂とは、これは差向き落首らくしゅの種になりそうな。あのたぬき和尚、一思いに火の中へとは考えたが、やっぱり肩に背負って逃げだして、あとから瑞仙ずいせん殿に散々に笑われたわい。まあこの辺が俺のよい所かも知れん」などと早速の御冗談が出ます。まあ少し歩きながら話そうとのおおせで、わたくしの差上げました御消息ぶみ七八通を、片はしよりひらかれてお眼を走らせながら、坂を足早に登って行かれます。池田のあたりから右へ切れて、小高い丘に出たところで、さっさとその辺の石に腰をおかけになります。「まあそなたもすわれ。ここからは京の焼跡がよう見えるぞ」とのお言葉に、わたくしも有合う石に腰をおろしました。
 わたくしはあらためて一望の焼野原をつくづくと眺めました。本式の戦さが始まってより、まだ半年にもならぬ間に、まったくよくも焼けたものでございます。ちょうど真向いに見えております辺りには、内裏だいり、室町殿、それに相国寺の塔が一基のこっておりますだけ、その余は上京かみぎょう下京しもぎょうおしなべて、そこここに黒々と民家のかたまりがちらほらしておりますばかり、いらかを上げる大屋高楼は一つとして見当りません。眺めておりますうちに、くさぐさの思いが胸に迫り、覚えずほろほろと涙があふれそうになって参ります。松王様も押黙られたまま、姫の御消息を打ち返し打ち返し読んでおられます。沈黙しじまのうちに小半時もたちましたでしょうか。……
 と、松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押しまれて、そのままふところふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて、「どうだ、よう焼けおったなあ。相国てらも焼けた、桃花文庫ふみぐらも滅んだ、姫もさらいそこねた、はははは」と激しい息使いで吐きだすようにお話しかけになりました。例になく上ずったお声音こわねに、わたくしは初めのうちわが耳を疑ったほどでございます。わたくしが何と申上げる言葉もないままでおりますと、松王様はなおもつづけて、お口疾くちどにあとからあとからあふれるように、さながら憑物つきもののついた人のようにお話しかけになります。それが後では、もうわたくしなどのいることなどてんでお忘れの模様で、まるでわれとわが心に高声で言い聴かすといった御様子でございました。わたくしは何か不気味な胸さわぎを覚えながら、じっと耳を澄まして伺っておりました。いろいろと難しい言葉も出て参りますので一々はっきりとは覚えませんけれど、大よそはまず次のようなお話なのでございました。
「この焼野原を眺めて、そなたはさぞや感無量であろうな。俺も感無量と言いたいところだが、実を云えば頭の中は空っぽうになりおった。今日は珍しく京のどこにも兵火の見えぬのがかえって物足らぬぐらいだ。俺は事にえておる。事がなくては一日半時も生きてはゆけぬと思うほどだ。それを紛らわそうと、そなたはよもや知るまいが、俺は夜闇にまぎれて毘沙門びしゃもん谷のあたりを両三度も徘徊はいかいしてみたぞ。姫があの寺へ移られたことは直きに耳に入ったからな。そしてあの小径こみちこの谷陰と、姫をさらう手立をさまざまに考えた。どういう積りかは知らぬが、仰山ぎょうさん薙刀なぎなたまでも抱えておった。いや飛んだ僧兵だわい。その三晩目に、姫を寝所から引っさらうことは、案外に赤子の首をひねるよりたやすいことが分った。手順は立派に調った。そなたなんどは高鼾たかいびきのうちに手際よくやってのけられる。そこで俺は馬鹿ばか々々しくなってやめてしまった。よくよく考えてみたところ、俺の欲しいのは姫ではなくして事であった。それが生憎あいにく『事』ほどの事で無いのが分ったまでだ。姫のうえは気の毒に思う。だが所詮しょせん、俺が引っさらって見たところであの姫の救いにはならぬ、この俺の救にもならぬ。……
「それ以来、俺は毎日この丘へ登って、焼跡を見て暮した。何か事を見附けだそうとしてだ。どこぞで火煙の立つ日は心が紛れた。それのない日は屈托くったくした。さて、恋が事でなかったとすればお次は何だ。俺はまず政治というものを考えてみた。今度の大乱の禍因をなしたのは誰だ、それを考えてみようとした。それで少しは心が慰さもうかと思ったのだ。世間では伊勢殿が悪いという。成程なるほどあの男は奸物かんぶつだ、淫乱だ、私心もある、猿智慧さるぢえもある。それに俺としても家督を追われたうらみがある、親のかたきなどと旧弊な言掛いいがかりも附けようと思えば附けられよう。だがこの男も結局は俺の心をき立ててはれぬ。小さいのだ、下らぬのだ。あれほどの野心家なら、どこの城どこの寺の隅にも一人や二人は巣喰っておる。それでは蔭凉軒はどうだ。世間ではあの老人が義政公を風流讌楽えんらくそそのかし、そのすきにまぎれて甘い毒汁を公の耳へ注ぎ込んだ張本人のように言う。赤入道(山名宗全そうぜん)なんぞは、とり分けて蔭凉の生涯失わるべしなどと、わざわざ公方くぼうに念を押しおる。それほどに憎らしいか、それほどに怖ろしいか。俺はあの老人とこれで丸六年のあいだ一緒に暮して来たが、ただの詩の好きな小心翼々たる坊主だ。もそっと詩の上手なあの手合は五山の間にごろごろしておる。あれを奸悪かんあくだなど言うのは、奸悪のきばを磨く機縁に恵まれぬやから所詮しょせんは繰り言にしか過ぎん。ではそんな詰らん老人をなぜ背負って火の中を逃げた。孟子もうしは何とやらのじょうと言ったではないか。俺の知った事ではない。……
「とするとこの両名の言うなりになった公方が悪いということになる。成程あまり感服のできる将軍ではない。かしこくも主上しゅじょうは満城紅緑為誰肥と諷諫ふうかんせられた。それも三日坊主で聞き流した。横川景三おうせんけいさん[#ルビの「おうせんけいさん」は底本では「おうせいけいさん」]殿の弟子ぶんの細川殿も早く享徳きょうとくの頃から『君慎』とかいう書を公方にたてまつって、『君行跡しければ民したがはず』などと口を酸くした。それもどこ吹く風と聞き流した。俺は相国寺の焼ける時ちょっと驚いたのだが、あの乱戦と猛火みょうかが塀一つ向うでおこっている中を、折角せっかくはじめた酒宴を邪魔するなと云ってついに杯を離さずすわり通したそうだ。あれは生易なまやさしいことで救える男ではない。政治なんぞで成仏じょうぶつできる男ではない。まだまだ命のある限り馬鹿ばかの限りを尽すだろうが、ひょっとするとこの世で一番長もちのするものが、あの男の乱行沙汰ざたの中から生れ出るかも知れん。……
「そこで近頃はやりの下尅上げこくじょうはどうだ。これこそ腐れた政治を清める大妙薬だ。俺もしんからそう思う。自由だ、元気だ、溌剌はつらつとしておる。障子しょうじを明け放して風を入れるようなさわやかさだ。俺は近ごろ足軽あしがるというもののひげづらを眺めていて恍惚こうこつとすることがある。あの無智な力の美しさはどうだ。宗湛そうたんもよい蛇足じゃそくもよい。だが足軽の顔を御所の襖絵ふすまえに描く絵師の一人や二人は出てもよかろう。まあこれはよい方の面だ。けれど悪い面もある。人心の荒廃がある。世道の乱壊がある。第一、力は果して無智を必須の条件とするか、それが大いに疑問だ。一時は俺も髪の毛をのばして、ほうきやりに持ち替えようかと本気で考えてみたが、それを思ってやめてしまった。……
「ではその荒廃乱壊を救うものは何か。差当さしあたっては坊主だ。俺は東福で育って管領に成り損ねて相国に逆戻りした男だ。五山の仏法はよい加減きの来るほど眺めて来た。そこで俺の見たものは何か。驚くべき頽廃たいはい堕落だ。でなければ見事きわまる賢哲保身だ。それを粉飾せんが為の高踏廻避と、それを糊塗ことせんが為の詩禅一致だ。済世さいせい気魄きはくなど薬にしたくもない。俺は夢厳和尚の痛罵つうばを思いだす。『五山ノ称ハいにしえニ無クシテ今ニアリ。今ニアルハ何ゾ、寺ヲとうとンデ人ヲ貴バザルナリ。古ニ無キハ何ゾ、人ヲ貴ンデ寺ヲ貴バザルナリ。』またこうも言われた。『法隆まさニ季ナラントシ、妄庸ノ徒声利ニ垂涎すいぜんシ、粉焉沓然、風ヲ成シ俗ヲ成ス。』人は惜しむらくは罵詈ばりにすぎぬという。しかしく罵言をなす者すら五山八千の衆徒の中に一人もないではないか。いや一人はいる。宗純そうじゅん和尚(一休)がそれだ。あの人の風狂には、何か胸にわだかまっているものが迸出ほうしゅつを求めて身悶みもだえしているといったおもむきがある。気の毒な老人だ。だがその一面、狂詩にしろ奇行にしろ、どうもその陰に韜晦とうかいする傾きのあるのは見逃せない。俺にはとてもついて行けない。……
「そこで山外の仏法はどうか。これは俺の知らぬ世界だから余り当てにはならぬが、どうやら人物がいるらしい。『祖師の言句をなみし経教きょうぎょうをなみする破木杓、脱底つうのともがら』を言葉するどく破せられた道元和尚の法燈ほうとうは、今なお永平寺に消えずにいるという。それも俺は見たい。応永のころ一条戻橋もどりばしに立って迅烈じんれつ折伏しゃくぶくを事とせられたあの日親という御僧――、義教よしのり公のいかりにふれて、舌を切られ火鍋ひなべかぶらされながらつい称名しょうみょう念仏を口にせなんだあの無双の悪比丘あくびくは、今どこにどうしておられる。それも知りたい。叡山えいざんの徒にしいたげられて田舎いなか廻りをしている一向の蓮如れんにょ、あの人の消息も知りたい。新しい世の救いは案外その辺から来るのかも知れん。だがこれも今のところ俺には少しばかり遠い世界だ。……
「方々見廻しては見たが、まあ現在の俺には、あきらめて元の古巣へ帰るほかにみちはなさそうだ。それそれそなたの主人、一条のおやじ様の書かれた本にもあるではないか。『理ハ寂然じゃくねん不動、すなわチ心ノたい、気ハ感ジテついニ通ズ、即チ心ノ用』……あの世界だ。あのおやじ様は道理にも明るく経綸けいりんもあるよい人だ。ただ惜しいかな名利がてられぬ。信頼のぶより信西しんぜいほどの実行の力も気概もない。そして関白争いなどと云うおかしな真似まねをしでかしては風流学問に身をかわす。惜しい人物だ。それにつけてもあに様の一慶和尚は立派なお人であったぞ。いまだに覚えている、『儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ』などと、幼な心に何の事とも分らず聞いておったあの咄々とつとつとした御音声ごおんじょうが、いまだに耳の中で聞えている。そもそも俺のような下品下生げぼんげしょうの男が、実理をさとる手数をいとうて空理をそうなどともがき廻るから間違いが起る。そうだ、帰るのだ、やっと分ったよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちのまう伝統へ、そうの学問へ、俺は帰るのだ。」
 そこでようやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしはあきれて追いすがり、「ではこの先どこへおいで遊ばす」と伺いますと、「明日にも近江へ往く、あの瑞仙和尚がおられるのだ。何か言伝ことづてでもあるかな」とのお答え。「姫君へお返りごとは」と重ねて伺いますと、「いましゃべったことが返事だ。覚えているだけお伝えするがいい。」そうお言いてになるなり、風のように丘を下りて行かれたのでございます。
 近江へ往くとはおっしゃいましたが、わたくしにはまこととは思われませんでした。なぜかしらそんな気が致したのでございます。ひょっとしたらあのまま東の陣にでもお入りになって、り死になさるお積りではあるまいかとも疑ってみました。これもそのような気がふと致しただけでございます。いずれに致せ、その日以来と申すもの、松王様の御消息は皆目かいもくわからずなってしまいました。地獄谷の庵室あんしつと仰しゃったのを心当てに尋ねてみましたが、これはどうやら例のお人の悪い御嘲弄ちょうろうであったらしく、真蘂西堂しんずいせいどうは前の年の九月に伊勢殿と御一緒にあさましい姿で都落ちをされたなりであったのでございます。ちょっとひそかに上洛じょうらくされたようなうわさもありましたので、それを種に人をお担ぎになったのでございましょう。鶴姫様の御悲歎ひたんは申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるいは老若ろうにゃく沙弥喝食しゃみかっしきの末々まで、多くは坂下さかもと山上やまのうえ有縁うえん辿たどって難を避けておられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまわりました。瑞仙様が景三、周鱗しゅうりんの両和尚と御一緒に往っておられます近江の永源寺、あるいは集九様のおられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周鳳しゅうほう様のお宿、それに念のためたきぎの酬恩あんにおこもりの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方はついに分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまいました。
 そのうち毘沙門びしゃもんの谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなって参ります。明けても暮れても谷の中はかしましい蝉時雨せみしぐればかり。その頃になりますと、この半年ほどやぐらを築いたりほりを掘ったりしてにらみ合いのていでおりました東西両陣は、京のぐるりでそろそろ動き出す気配を見せはじめます。七月のはじめには山名方が吉田に攻め寄せ、月ずえには細川方は山科やましなに陣をとります。八月になりますとようやく藤ノ森や深草ふかくさのあたりにいくさの気配が熟してまいり、さてこそ愈々いよいよ東山にも嵯峨さがにも火のかかる時がめぐって来たと、わたくしどももひそかに心の用意を致しておりますうち、その十三日のまだ宵の口でございました。にわかに裏山のあたりでただならずわめののしる声が起ったかと思ううち、たちま庫裡くりのあたりから火があがりました。かねて覚悟の前でもあり、幸い御方様も姫君も山門のほとりの寿光院にお宿をとっておいででしたから、東福寺の方角にはまだ何事もないらしい様子を見澄まし、折からの闇にまぎれて、すばやく偃月橋えんげつきょうよりお二方ともお落し申上げました。
 残りました手の者たちとわたくしは、百余合のお文櫃ふみびつの納めてあります北の山ぎわの経蔵のほとりにたたずんで、成行きをじっとうかがっております。当夜は風もなく、更にはまた谷間のことでもあり、火の廻りはもどかしい程に遅く感ぜられます。そのうちに食堂じきどう、つづいて講堂も焼け落ちたらしく、火の手が次第に仏殿に迫って参ります頃には、そこらにちらほら雑兵ぞうひょうどもの姿も赤黒く照らし出されて参ります。どうやら西方の大内おおうち勢らしく、聞きれぬ言葉なまりが耳につきます。そのような細かしい事にまで気がつくようになりましたのも、度重なる兵火をくぐって参りました功徳くどくでもございましょうか。やがて仏殿にも廻廊づたいにとうとう燃え移ります。それとともに、大して広からぬ境内けいだいのことゆえ、鐘楼しゅろうも浴室も、南ろくの寿光院も、一ときに明るく照らし出されます。こちら側の経蔵もやはり同じことであったのでございましょう、松明たいまつを振りかざした四五人の雑兵ぞうひょうが一散にせ寄って参りました。その出会いがしらに、思いもかけぬ経蔵の裏の闇から、僧形そうぎょうの人の姿が現われて、妙に鷹揚おうよう太刀たちづかいで先登の者をっててました。その横顔を、ああ松王様だとわたくしが見てとりましたとき、こちらを向いてにっこりお笑いになりました。残兵どもは一たん引きました。そのすきに「姫は」とお尋ねになります。「お落し申しました。」「やあ、また仕損じたか」と、まるで人ごとのような平気なおっしゃりようをなさいます。つづけて、「細川の手の者が隣の羅刹らせつ谷に忍んでいる。ここは間もなく戦場になるぞ。そなたも早く落ちたがよい。俺も今度こそは安心して近江へ往く。これを取って置け」と小柄こづかをわたくしのてのひらに押しつけられたなり、そこへ迫って参りました新手あらての雑兵数人には眼もくれず、のそりと経蔵のかげへ消えてゆかれました。それなりわたくしはあの方にはお目にかからないのでございます。いいえ、今度こそは近江へ行かれたに違いございません。これもわたくしのほんの虫の知らせではありますけれど、これがまた奇妙に当るのでございますよ。
 そののちのことは最早や申上げるほどの事もございますまい。その月の十九日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた様よく御存じのとおり、姫君はおんとし十七を以て御落飾、法華寺の尼公にお直り遊ばしたのでございます。……ああ、あの文庫のことをお尋ねでございますか。あの夜ほどなく経蔵にも火はかかったのでございますが、幸い兵どもが早く引上げて行ってれましたため、百余合のうち六十二合は無事に助け出すことがかないました。それは只今ただいま当地の大乗院にお移ししてございます。先日もそのお目録のお手伝いを致したところでございますが、もとの七百余合のうち残りましたのは十の一にも満ちませぬとは申せ、前に申上げました玉葉、玉蘂をはじめ、お家累代るいだいの御記録としましては、後光明峰寺殿(一条家経いえつね)の愚暦ぐれき五合、後芬陀利花ふだらく院の玉英一合、成恩寺じょうおんじ殿(同経嗣つねつぐ)の荒暦こうりゃく六合、そのほか江次第ごうしだい二合、延喜式えんぎしき、日本紀、文徳実録、寛平御記かんぴょうぎょき各一合、小右記しょうゆうき六合などのつつがなかったことは、不幸中の幸いとも申せるでございましょう。それに致しましても此度このたびの兵乱にて、洛中洛外らくちゅうらくがいの諸家諸院の御文書御群書のたぐいの焼亡いたしましたことは、おびただしいことでございましたろう。それを思いますと、あらためてまた桃花坊のあの口惜くちおしい日のことも思いいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。人伝ひとづてに聞及びました所では、昨年の暮ちかく上皇様には、太政官だいじょうかんの図籍の類を諸寺に移させられましたよしでございますが、これも今では少々後の祭のような気もいたすことでございます。
 ああ、どうぞして一日も早く、このような戦乱はやんでもらいたいものでございます。さりながら京の様子をうかがいますと、わたくしのまだ居残っておりました九月のはじめには嵯峨の仁和にんな天竜てんりゅうの両巨刹きょさつも兵火に滅びましたし、船岡山では大合戦があったと申します。十月には伊勢殿の御勘気も解けて、上洛じょうらく御免のお沙汰さたがありましたとやら、またそのうちさぞかし色々と怪しげな物ごとが出来しゅったいいたすことでございましょう。そう申せば早速にも今出川殿(足利義視よしみ)は、霜月しもつきの夜さむざむと降りしきる雨のなかを、比叡へお上りになされたとの事、いやそれのみか、ついには西の陣へおはしりになったとやら。この師走しわすの初め頃、今出川殿討滅御祈祷きとう勅命ちょくめいが興福寺に下りました折ふしは、いやにぎやかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。お互いにあまりくよくよするのは身の毒でございましょう。はや夜もだいぶん更けました様子。どれお名残なごりにこれだけ頂戴ちょうだいいたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障子しょうじにうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきましょう。……





底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「文藝」河出書房
   1946(昭和21)年3、4月合併号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新仮名にあらためました。
※「稍々」「愈々」の箇所の「二の字点(1-2-22)」は、「々」に書き替えました。
※文中に引用される和歌、文献は、旧仮名のままにしました。
※「太刀たち」と「大刀たち」、「桃華文庫」と「桃花文庫」の混在は、底本どおりにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:佐野良二
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について