雪の宿り

神西清




 文明ぶんめい元年の二月なかばである。朝がたからちらつきだした粉雪は、いつの間にか水気の多い牡丹ぼたん雪に変つて、ひるをまはる頃には奈良の町を、ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七堂伽藍しちどうがらんも、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入つてゐるやうである。人気ひとけはない。さういへば鐘の音さへも、今朝からずつととだえてゐるやうな気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。
 さるの刻になつても一向に衰へを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞ひ下りるが、中ぞらには西風が吹いてゐるらしい。塔といふ塔の綿帽子が、言ひ合はせたやうに西へかしいでゐるのでそれが分る。西向きの飛簷垂木ひえんたるきは、まるで伎楽ぎがくの面のやうなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れてゐる。
 うつかり転害てがい門を見過ごしさうになつて、連歌師れんがし貞阿ていあははたと足をとめた。別にほかのことを考へてゐたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪にめられてゐるので、ちよつとこの門の見わけがつかなかつたのである。入込いりこんだ妻飾つまかざりのあたりが黒々と残つてゐるだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思はぬ深い雪にかえつて手間どつた貞阿は、単調な長い佐保路さほじをいそぎながら、この門をくぐらうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねてゐたのである。
 ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内さんないは、まるで京を縮めて移して来たやうな有様で、連歌師風情ふぜいにはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいつて、連歌友達の玄浴主よくすのところで一夜の宿を頼まうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。
 玄浴主は深井じんじ坊といふ塔頭たっちゅうに住んでゐる。いはゆる堂衆の一人である。堂衆といへば南都では学匠のことだが、それを浴主などといふのは可笑おかしい。浴主は特に禅刹ぜんさつで入浴のことをつかさどる役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大華厳寺八宗兼学けごんじはっしゅうけんがくの学侶のあひだに親しまれてゐる。それほどにこの人は風呂好きである。したがつて寝酒も嫌ひな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあつたのである。

 その夜、客あしらひのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にもつかり、固粥かたかゆの振舞ひにまで預つたところで、実は貞阿として目算もくさんに入れてなかつた事が持上つた。雪はまだむ様子もない。風さへ加はつて、庫裡くりの杉戸の隙間すきまから時折り雪を舞ひ入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲炉裏いろりをかこんで、問はず語りの雑談がしばらく続いた。
 貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条兼良かねらで、去年の十一月に本領安堵あんどがてら落してやつた孫房家ふさいえの安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来てゐる関白のことに移つて、太閤たいこうもめつきりけられましたな、などと玄浴主が言ふ。とつて六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言艸いいぐさだが、事実この矍鑠かくしゃくたる老人は、近年めだつて年をとつた。それは五年ほど前に腹ちがひの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがひの弟の東岳※(「日+斤」、第3水準1-85-14)ちょうきん[#ルビの「ちょうきん」は底本では「ちょうき」]遷化せんげして以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあつたこの二人の禅僧をうしなつて、兼良生来の勝気な性分もめつきり折れて来た。あの勧修念仏記かんじゅねんぶつきを著したのはその年の秋のことである。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、ついでに一慶和尚の自若たる大往生だいおうじょうぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添へさせながら、「即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏」と大書たいしょしたと云ふのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合槌あいづちを打つ。
 客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一献いっこんの振舞ひにあずかつて、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分つて来た。もっとも最初からそれに気が附かなかつたのは、貞阿の方にも見落しがある。第一ほとんど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにゐた。応仁の乱れが始まつて以来の東奔西走で、古い馴染なじみを訪ねる暇もなかつたのである。自分としては戦乱にはもう厭々あきあきしてゐる。しかし主人の身になつてみれば、紛々たる巷説こうせつの入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身をさらしてゐたこの連歌師れんがしの口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違ひない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めてゐる。差当さしあたつては明日にも、恐らく斎藤妙椿みょうちんのところへであらう、主命で美濃みのへ立たなければならぬと云ふではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構へがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
 それにもう一つ、貞阿にとつて全くの闇中の飛礫ひれきであつたのは、去年の夏この土地の法華寺ほっけじに尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心をいてゐるらしいことであつた。世の取沙汰とりざたほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良にしばらく腰を落着けて、鶴姫のうわさが色々とあらぬ尾鰭おひれをつけて人の口ののぼつてゐるのに一驚を喫したが、工合ぐあいの悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕へるやうになつたのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母うばあがつて以来のことであるぐらゐの経歴なら、とうの昔に知り抜いてゐる。……
 主人の口占くちうらから、あらまし以上のやうな推察がついた今となつては、客も無下むげじょうこわくしてゐる訳にも行かない。実際このやうなあわただしい乱世に、しかも諸国をわたり歩かねばならぬ連歌師の身であつてみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝へて置きたい人の上のないこともない。……さうはらゑると、銅提ひさげが新たに榾火ほたびから取下ろされて、赤膚焼あかはだやきの大湯呑ゆのみにとろりとした液体が満たされたのを片手にひかへて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹雪ふぶきの音を虚空こくうに聴き澄ましながら、客はおもむろに次のやうな物語の口を切つた。

        *

 御承知のとほり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷にあがりますまで、東福寺の喝食かっしきを致してをりました。ちやうどその時分、やはり俗体のままのお稚児ちごで、奥向きのお給仕を勤めてをられた衆のなかに、松王まつおう丸といふ方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたらうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついおなつきくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思へば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛火みょうかのなかであわただしいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日向ひなたになり断えずおとり申上げるやうなめぐり合せになつたのでございます。あの方のお声やお姿が、今なほこの眼の底に焼きついてをります。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。
 その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、おとしこそ七十ぢかいとは申せまだまだおさかんな頃で、かねがね五山の学衆の、或ひは風流韻事にながれ或ひは俗事政柄せいへいにはしつて、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百丈清規ひゃくじょうしんぎを衆徒に御講釈になつてをられました。その厳しいおしつけを学衆の中には迷惑がる者もをりまして、いま義堂などと嘲弄ちょうろうまじりにはしたない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられますこともまことにお厳しく、十七年のあひだかつてお脇をむしろにおつけ遊ばした事がなかつたと申します。この御警策の賜物たまものでございませう、わたくし風情ふぜいの眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝たちまさつて見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚こうえんつらなるものが多々ございました。その中には相国寺しょうこくじのあの桃源瑞仙ずいせんさまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱ていしゅの学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であつたと伺つてをります。
 このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児ちごを、お二方ともよくよくの御鍾愛ごしょうあいのやうにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤たいこう殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参つたものでございます。さういふお席で、お伴について来られた松王様が、かたわらにきちんとひざを正されて、易だの朱子だのと申すむづかしいお話に耳を澄ましてをられるお姿を、わたくしどももよく垣間見かいまみにお見かけしたものでございました。
 この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございませう。右兵衛佐うひょうえのすけ殿(斯波義敏しばよしとし)の御曹子おんぞうしで、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役伊勢いせ殿(貞親さだちか)の、奥方の縁故にかされての邪曲よこしまなお計らひがもとで父君が廃黜はいちゅつ[#ルビの「はいちゅつ」は底本では「はいちゅう」]き目にお遇ひなされた折り、一時は武衛ぶえい家の家督をがれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指金さしがねでむざんにも家督を追はれ、つむりをまるめられて、人もあらうにあの蔭凉軒おんりょうけん真蘂西堂しんずいせいどうのもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛はしいお弟子入りについては、色々とこみ入つた事情もございますが、掻撮かいつまんで申せばこれは、父君右兵衛佐殿の調略のにえになられたのでございました。松王様が家督をおすべり遊ばした後は、やはり伊勢殿のお差図さしずで、いま西の陣一方の旗がしら、左兵衛佐さひょうえのすけ殿(斯波義廉よしかど)が渋川家より入つて嗣がれましたが、右兵衛さまとしてみれば御家督に未練もあり意地もおありのことは理の当然、幸ひおてかけの妹君が、そのころ新造さまと申して伊勢殿の寵愛無双ちょうあいむそうのお妾であられたのを頼つて、御家督におん直りのこと様々に伊勢殿へ懇望せられました事のついでで、これまた黒衣の宰相などとはやされて悪名天下にかくれない真蘂西堂にも取入つて、そのお口添へを以て公方くぼう様をも動かさんものとの御たくらみから、松王様を蔭凉軒に附けられたものでございます。いやはや何と申してよいやら、浅ましいのは人の世の名利みょうり争ひではございますまいか。これが畠山はたけやま殿の御相続争ひと一つになつて、この応仁の乱れの口火となりましたのを思へば、その陰にしひたげられて、うしろ暗い企らみ事のただのお道具に使はれておいでの松王様のお身の上は、なかなかお痛はしいの何のと申す段のことではございません。
 このたびの大乱の起るに先だちましては、まだそのほかに瑞祥ずいしょうと申しますか妖兆と申しますか、色々といやらしい不思議がございました。まづ寛正かんしょうの六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜の刻ごろ、その大いさ七八しゃくもあらうかと見える赤い光り物が、坤方ひつじさるより艮方うしとらへ、風雷のやうに飛び渡つて、虚空こくうは鳴動、地軸も揺るがんばかりのすさまじさでございました。たちまちにして消え去つた後は白雲に化したと申します。そのとき安部殿(在貞)などのたてまつられた勘文かんもんでは、これは飢荒、疾疫群死、兵火起、あるひは人民流散、流血積骨の凶兆であつた趣でございます。当時、なんぴとの構へた[#ルビの「ざ」は底本では「ぎ」]れ事でございませうか、天狗てんぐ落文おとしぶみなどいふ札を持歩く者もありまして、その中には「徹書記てっしょき宗砌そうぜい、音阿弥、禅竺、近日此方こちらきたシ」など記してあつたと申します。さきのお二人はわたくしの思ひ違へでなくば、これより先に亡くなつてをられますが、観世かんぜ殿が一昨年、金春こんぱる殿が昨年と続いて身罷みまかられましたのも不思議でございます。それにしましても世の乱れにとつて、歌よみ、連歌師れんがし猿楽師さるがくしなど申すものに何の罪科がございませう。思へばひよんな風狂人もあつたものでございます。
 わたくし風情ふぜいが今更めいて天下の御政道をかれこれ申す筋ではございません。それは心得てをりますが、何としてもこの近年の御公儀のなされ方は、わたくし共の目に余ることのみでございました。天狗星てんぐせいの流れます年の春には花頂若王子にゃくおうじのお花御覧、この時の御前相伴衆ごぜんしょうばんしゅうはしは黄金をもつてべ、御供衆おともしゅうのは沈香じんこうを削つて同じく黄金の鍔口つばぐちをかけたものと申します。その前の年は観世の河原猿楽御覧、更には、これは貴方あなたさまよく御存じの公方くぼうさま春日社御参詣、また文正ぶんしょうの初めには花の御幸。……いやいやそんな段ではございません、その公方さま花の御所の御造営にはいらかに珠玉を飾り金銀をちりばめ、そのついえ六十万さしと申し伝へてをりますし、また義政公御母君御台所みだいどころの住まひなされる高倉の御所の腰障子こししょうじは、一間の値ひ二万せんとやら申します。かみこのやうななされ方ゆゑ、したがつては公家くげ武家の末々までひたすらに驕侈きょうしにふけり、天下は破れば破れよ、世間は滅びば滅びよ、人はともあれ我身さへ富貴ふうきならば、他より一段栄耀えように振舞はんと、このやうな気風になりましたのも物の勢ひと申しませうか。
 その一方に民の艱難かんなんは申すまでもございません。例の流れ星騒動の年には、大甞会だいじょうえのありました十一月に九ヶ度、十二月には八ヶ度の土倉役どそうやくがかかります。徳政とやら申すいまはしい沙汰さたも義政公御治世に十三度まで行はれて、倉方も地下じげ方もことごとく絶え果てるばかりでございます。かてて加へて寛正はじめの年は未聞の大凶作、あくる年には疫病えやみさへもはやり、京の人死ひとじには日に幾百と数しれず、四条五条の橋の下に穴をうがつてしかばねを埋める始末となりました。一穴ごとに千人二千人と投げ入れますので、橋の上に立つて見わたしますと流れ出す屍も数しれず、石ころのやうにごろごろとまろんで参ります。そのため賀茂かもの流れもふさがらんばかり、いやその異様な臭気と申したら、お話にも何にもなるものではございません。いま思ひだしても、ついこのほおのあたりに漂つて参ります。人のうわさではこの冬の京の人死は締めて八万二千とやら申します。
 願阿弥陀仏がんあみだぶつと申されるおひじりは、この浅ましさを見るに見兼ねられて、義政公にお許しを願つて六角堂の前に仮屋を立て、施行せぎょうをおこなはれましたが、このとき公方くぼう様より下された御喜捨はなんとただの百貫もんと申すではございませんか。また、五山の衆徒に申し下されて、四条五条の橋の上にて大施餓鬼せがき執行しゅぎょうせしめられましたところ、公儀よりは一紙半銭の御喜捨もなく、ついえはことごとく僧徒衆の肩にかかり、相国寺のみにても二百貫文を背負ひ込んだとやら。花の御所の御栄耀ごえように引きくらべて、わたくし風情ふぜいの胸の中までも煮えたつ思ひが致したことでございます。
 このやうな天災地妖がたび重なつては、御政道は暗し、何ごとか起らずにゐるものではございません。応仁元年正月の初めより、京の人ごころは何かしら異様な物を待つ心地で、あやしい胸さわぎを覚えてをりましたところ、果せるかなその月の十八日の夜、洛北らくほく御霊林ごりょうばやしに火の手は上つたのでございます。
 もっともわたくしは二三日前より御用で近江おうみへ参つてをりまして、その夜のことは何も存じません。御用もそこそこに飛ぶやうに帰つて参りますと、騒ぎは既に収まつて、案外に京の町は落着いてをります。とは申せその底には容易ならぬ気配も動いてをりますし、桃花坊はその夜の合戦の場より隔たつてをりませんので、すぐさま御家財御衣裳ごいしょうの御引移しが始まります。太平記と申す御本を拝見いたしますと、んぬる正平しょうへいの昔、武蔵守むさしのかみ殿(高師直こうのもろなお)が雲霞うんかの兵を引具ひきぐして将軍(尊氏たかうじ)御所を打囲まれた折節、兵火の余烟よえんのがれんものとその近辺の卿相雲客けいしょううんかく、或ひは六条の長講堂、或ひは土御門つちみかど三宝院さんぽういんへ資財を持運ばれたよしが、載せてございますが、いざそれが吾身わがみのことになつて見ますれば、そぞろに昔のことも思ひでられてまことに感無量でございます。この度の戦乱の模様では、京の町なかは危いとのことで、どこのお公卿くげ様も主に愛宕あたごの南禅寺へお運びになります。一条家でも、御縁由ゆかり殊更ことさらに深い東山の光明峰寺こうみょうぶじをはじめとし、東福、南禅などにそれぞれ分けてお納めになりました。京ぢゆうの土倉、酒屋など物持ちは言はずもがな、四条しじょう坊門、五条油小路こうじあたりの町屋の末々に至るまで、それぞれに目ざす縁故をたどつて運び出すのでございませう、その三四ヶ月と申すものは、京の大路小路は東へ西への手車小車に埋めつくされ、足のんどころもない有様。中にはいたいけな童児が手押車を押し悩んでゐるのもございます。わたくしも、その絡繹らくえきたる車の流れをかいくぐるやうに、御家財を積んだ牛車ぎっしゃを宰領して、幾たび賀茂の流れを渡りましたやら。その都度、六年前の丁度ちょうどこの時節に、この河原にち満ちてをりました数万のしかばねのこともおのづと思ひ出でられ、ああこれが乱世のすがたなのだ、これが戦乱の実相なのだと、覚えず暗い涙にむせんだことでございました。
 室町のお屋敷には、桃華文庫と申す大切なお文倉ふみぐらがございます。これも文和ぶんなの昔、後芬陀利花ごふだらく院さま(一条経通つねみち)御在世のみぎり、折からの西風にあおられてお屋敷の寝殿しんでん二棟ふたむねが炎上の折にも、幸ひこの御秘蔵の文庫のみはつつがなく残りました。かわらき土を塗り固めたお倉でございますので、まあ此度このたび大事だいじはあるまいと、太閤たいこうさまもこれには一さい手をお触れにならず、わざわざこのわたくしを召出されて、文庫のことは呉々くれぐれも頼むと仰せがございました。お屋敷に仕へる青侍あおさぶらいの数も少いことではございませんが、殊更ことさらわたくしにお申含めになつたについては、少々訳がらもございます。それは太閤さまが心血をそそがれました新玉集しんぎょくしゅうと申す連歌れんが撰集せんしゅう二十巻が、このお文倉に納めてありまして、わたくしもその御纂輯ごさんしゅうの折ふしには、お紙折りの手伝ひなどさせて頂いたものでございます。ゆくゆくは奏覧にも供へ、また二条摂政さま(良基よしもと)の莵玖波つくば集の後をけて勅撰ちょくせん御沙汰ごさたも拝したいものとひそかに思定おもいさだめておいでの模様で、いたくこの集のことをお心に掛けてございました。もっともこれは、なまじえせ連歌などもてあそぶわたくしの思ひ過しもございませう。お文倉には和漢の稀籍群書およそ七百余合、巻かずにして三万五千余巻が納めてありましたとのことで、中には月輪つきのわ殿(九条兼実かねざね)の玉葉ぎょくよう八合、光明峯寺殿(同道家みちいえ)の玉蘂ぎょくずい七合などをはじめ、お家累代るいだいの御記録の類も数少いことではございませんでした。
 さうかう致すうち一月の末には、太閤は宇治の随心院へ奥方様とお二人で御座を移されました。御老体のほどを気づかはれたお子様がたのお勧めに従はれたものでございませう。さあさうなりますと、身に余る大役をお請けした上に、大樹とも頼む太閤はおいでにならず、東の御方様はじめお若い方々のみ残られました桃花坊で、わたくしは茫然ぼうぜんと致してしまひました。見渡すところ青侍の中には腕の立ちさうな者はをりませず、夜ふけて風の吹き募ります折りなどは、今にもつわものどもの矢たけびが聞えて来はしまいか、どこぞの空が兵火に焼けてゐはしまいかと落々おちおちまぶたを合はす暇さへなく、しとみをもたげては闇夜の空をふり仰ぎふり仰ぎ夜を明かしたものでございました。
 さいはひ五月の末ごろまでは何事もなく過ぎました。とは申せ安からぬ物の気配は日一日と濃くなるばかり。東西両陣の合戦の用意が日ごとに進んで参る有様が手にとるやうにうかがはれます。その中を、わたくしにとつてただ一つの心頼みは、あの松王丸様なのでございました。いやさうではございません。すでに御家督をおすべりになつて、蔭凉軒にて御祝髪ののちの、見違へるやうな素円そえんさまなのでございます。お歳ははや二十四、ああ世が世ならばと、御立派に御成人のお姿を見るたびに、わたくしは覚えず愚痴の涙も出るのでございました。……実は先刻から申しそびれてをりましたが、この松王さまが(やはり呼び慣れたお名で呼ばせて頂きませう――)、いつの間にやら鶴姫さまと、深いおん言交しの御仲であつたのでございます。母親にたづねてみますれば色々その間のいきさつも分明ぶんめいいたしませうが、そのやうな物好き心が何の役にたちませう。ただ、武衛家の御家督に立たれました頃ほひ、太閤様にぢきぢきの御申入れがあつたとやら無かつたとやら、もとより陪臣ばいしんのお家柄であつてみれば、そのやうな望みのかなへられよう道理もございません。それ以来松王さまのお足も自然表むきには遠のいたのでございます。
 わたくしとしましてはただそのお心根がいぢらしく、おん痛はしく、お頼みにまかせてふみ使ひの役目を勤めてをつたのでございます。お目にかかる折々には、打融うちとけられた磊落らいらくなお口つきで、「室町が火になつたら、俺が真すぐけつけてやるぞ。屈強な学僧づれを頼んで、文庫も燃させることではないぞ」などと、おおせになつたものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思はれましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築山つきやまのあたりからこつそり忍んで参られることもございました。そのやうな折節には、母親のひそかな計らひで、片時の御対面もあつたやうでございました。また時によつては、「文庫を燃させなんだらその褒美ほうびに、姫をさらつて行くからさう思へ」などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどさうなれかしと望んだことで御座いませう。渦を巻く猛火みょうかのなかを、白い被衣かつぎをかづかれた姫君が、ねずみ色の僧衣のたくましいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐつて彼方かなたの闇にみるみるうちに消えてゆく、そのやうな夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹立こだちのざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入つたものでございました。悲しいことに、それもこれもうつつとはなりませんでした。もっともわたくしのまなこの中にゑがいた火の色と白と鼠の取り合はせは、後日まつたく思ひもかけぬすがたで現はれるには現はれましたが、それはまだ先の話でございます。
 忘れも致しません、五月二十六日の朝まだき、おつつけとらの刻でもありましたらうか、北の方角に当つて時ならぬ太鼓たいこの磨り打ちの音が起りました。つづいてそれがどつと雪崩なだれを打つときの声に変ります。わたくしはほとんどもう寝間着姿で、寝殿しんでんのお屋敷にぢ登つたのでございます。しばらくは何の見分けもつきませんでしたが、やがて乾方いぬいに当つて火の手が上ります。その火が次第に西へ西へと移ると見るまに、夜もほのぼのと明けて参りました。見ればさきの関白様(兼良男教房のりふさ)をはじめ、御一統には悉皆しっかいお身仕度を調へて、おひさしの間にお出ましになつてをられます。東の御方(兼良側室)はじめ姫君、侍女がたは、いづれも甲斐々々かいがいしいお壺装束つぼそうぞく。わたくしも、かう成りましては腹巻の一つも巻かなくてはと考へましたが、万が一にも雑兵ぞうひょう乱入のみぎりなどにはかえつて僧形そうぎょうの方が御一統がたの介抱を申上げるにも好都合かと思ひ返し、慣れぬ手に薙刀なぎなたをとるだけのことに致しました。何せこの歳まで、本物の戦さと申すものは人の話に聞くばかり、今になつて顧みますと可笑おかしくなりますが、小半時ほどは胴のふるへがとまりません。いやはやとんだ初陣ういじんぶりでございました。
 そのうちに物見に出ました青侍あおさぶらいもぼつぼつ戻つて参ります。その注進によりますと、今日の戦さの中心は洛北らくほくとのことで、それも次第に西へ向つて、南一条大宮のあたりに集まつてゆくらしいと申すのでございましたが、時刻が移りますにつれどうしてそんな事ではなく、やがて東のかた百万遍ひゃくまんべん革堂こうとう(行願寺)のあたりにも火の手が上ります。これは※(二の字点、1-2-22)やや艮方うしとらへ寄つてをりますので、折からの東風に黒々とした火煙は西へ西へと流れるばかり、幸ひ桃花坊のあたりは火のもかぶらずにをりますが、もし風の向きでも変つたなら、炎の中をどうして御一統をお落し申さうかと、ただもう胸をかれるばかりでございます。頼みの綱は兼々かねがねお約束の松王さまばかり、それも室町のあたりは火にはかからぬと思召おぼしめしてか、或ひはまた相国寺の西にも東にも火の手の上つてをります有様では、無下むげにその中を抜け出しておいで遊ばすわけにも参らぬものか、一向に姿をお見せになりません。やがてその日も暮れました。夜に入つて風は南に変つたとみえ、百万遍、雲文寺のかたの火焔かえん廬山寺ろざんじあたりの猛火みょうかも、次第に南へ延びて参ります。渦巻きあがる炎の末はことごとく白い煙と化して棚びき、その白雲の照返てりかえしでお庭先は、夜どほしさながら明方のやうな妙にあおざめた明るさでございます。ことすさまじいのは真夜中ごろの西のかたの火勢で、北は船岡山ふなおかやまから南は二条のあたりまで、一面の火の海となつてをりました。
 やうやうにその夜も無事にすぎて、あくる二十七日には、朝の間のどうやらときの声も小止おやみになつたらしいすきを見計らひ、東の御方は鶴姫さまと御一緒に中御門なかみかどへ、若君姫君は九条へと、青侍あおさぶらいの御警固で早々にお落し申上げました。やれ一安心と思つたが最後、気疲れが一ときに出まして、合戦のいきおいがまた盛返もりかえしたとの注進もうつろ心に聞きながし、わたくしは薙刀なぎなたつえに北の御階みはしにどうと腰をゑたなり、夕刻まではそのまま動けずにをりました。この日のいくさとりの終までには片づきまして、その夜は打つて変つてさながらきつねにつままれたやうな静けさ。物見の者の持寄りました注進を編み合はせてみますと、この両日に炎上の仏刹ぶっさつ邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるひは洞院とういん殿、冷泉れいぜい中納言、猪熊いのくま殿など、おびただしいことでございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向ひの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村雲の橋の北と西とが悉皆しっかい焼け滅んだとのことでございます。
 さりながらこれはほんの序の口でございました。住むに家なく、口にするかてもない難民は大路小路にあふれてをります。物とり強盗は日ましにしげくなつて参ります。かてて加へて諸国より続々と上つてまゐる東西両陣の足軽あしがると申せば、昼は合戦、夜は押込みを習ひとするやからばかり、その荒々しい人相といひ下賤げせんな言葉つきと云ひ、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思ひでございました。さうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大刀たちを振りかざし掛声かけごえも猛に、どこやらのやしきから持ち出したものでございませう、重たげな長櫃ながびつを四五人連れでいて渡る足軽の姿などは、一々目にとめてゐるいとまもなくなります。築地ついじの崩れの陰などでは、抜身ぬきみを片手に女どもをなぐさんでをります浅ましい有様が、ちよつと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸しとみ蹴破けやぶる物音の、けたたましい叫びと入りまじつて聞えて参ることも、室町あたりでさへ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜生道ちくしょうどう阿鼻あび大城とはこの事でございませう。
 そのやうな怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いてをりますうち、六月八日には、ついに一大事となつてしまひました。そのうまの刻ばかりに、中御門猪熊の一色いっしき殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません。近衛このえの町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放つたとやら、たちまちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風にあおられて、上京かみぎょうの半ばが程はみるみる紅蓮ぐれん地獄となり果てました。火焔かえんの近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまく風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫のかわら屋根にじつと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめてをりますと、その上をふ薄い黒煙のなかに太閤たいこう様のお顔が自然かさなつて見えて参ります。あの名高い江家ごうけ文庫が、仁平にんぺいの昔に焼亡して、とびらを開くいとまもなく万巻の群書片時に灰となつたと申すのも、やはりうまの刻の火であつたことまでが思ひ合はされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸ひこの火も室町小路こうじにて止まりました。さうさう、松王様はその夕刻、おつつけいぬの刻ほどにひよつくりお見えになり、わたくしがおうらみを申すと、
「なに、ついそこの武者の小路で見張つてをつたよ」と、事もなげにおおせられました。
 その日の焼亡はまことに前代未聞の沙汰さたで、しもは二条よりかみ御霊ごりょうつじまで、西は大舎人おおとねりより東は室町小路をさかいにおほよそ百町あまり、公家くげ武家のやしきをはじめ合せて三万余宇が、小半日のに灰となり果てたのでございます。さうなりますと町なかで焼け残つてゐる場所とては数へるほどしかございません。お次はそこが火の海と決まつてをりますので、桃花坊も中御門のお宿も最早これまでと思ひ切りそのあくる日にはさきの関白様は随心院へ、また東の御方様は鶴姫様ともども光明峰寺へ、それぞれお移し申し上げました。
 越えて八月の半ばには等持、誓願の両寺も炎上、いづれも夜火でございます。その十八日には洛中らくちゅうの盗賊どもこぞつてついに南禅寺に火をかけて、かねてより月卿雲客げっけいうんかくの移し納めて置かれました七珍財宝をことごとかすめ取つてしまひます。これも夜火でございましたが、粟田あわた口の花頂青蓮院しょうれんいん、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山ひがしやまの空を焦がす有様はすさまじくも美麗な眺めでございました。
 ……ああ、由玄どの、今あなたはまゆをおひそめなされましたな。いえ、よく分つてをります、美麗だなどと大それた物の言ひやう、さぞやお耳にさわりませう。神罰もくだりませう、仏罰ぶつばちも当りませう、それもよく心得てをります。けれどこの貞阿はじつに感じたままをお話しするまででございます。まことに人間の心ほど不思議なものはありませぬ。火をくぐり、血しぶきを見、腐れたしかばねきもを冷やし、人間のする鬼畜きちくごうまなこにするうち、度胸もついて参ります、捨鉢すてばちすさびごころも出て参ります、それとともに、今日は人の身、明日はわが上と、日ごと夜ごとに一身の行末ゆくすえを思ひわび、或ひははかない夢を空だのみにし、或ひは善きにつけしきにつけ瑞祥ずいしょうに胸とどろかせるやうな、片時の落居らっきょのいとまとてない怪しい心のみだれが、いつしかに太い筋綱にり合はさつて、いやいやが身ひとの身なんどは夢幻の池のにうかぶつかのまの泡沫うたかたにしか過ぎぬ、この怖ろしい乱壊転変らんえてんぺんすがたこそ何かしら新しいものの息吹いぶき、すがすがしい朝を前触れるきよめの嵐なのではあるまいかと、わたくしごとの境涯を離れて広々と世を見はるかす健気けなげな覚悟もいて参ります。ふるき代の富貴ふうき栄耀えようの日ごとにこぼたれ焼かれて参るのを見るにつけ、一掬いっきく哀惜の涙をとどめえぬそのひまには、おのづからこの無慚むざんな乱れをべる底の力が見きはめたい、せめて命のある間にその見知らぬ力の実相をこの眼で見たい、その力のはたらきから新しい美のいのちをみとりたい……このやうな大それた身の程しらずの野心も、むくむくと頭をもたげて参ります。一身の浮き沈みを放下ほうかして、そのやうなまなこであらためて世の様を眺めわたしますと、何かかう暗い塗籠ぬりごめから表へ出た時のやうにまなこえとして、あの建武けんむの昔二条河原の落書らくしょとやらに申す下尅上げこくじょうする成出者なりでものの姿も、その心根のいやしさをもつて一概に見どころなき者とおとしめなみする心持にもなれなくなります。今まではただおぞましいおそろしいとのみ思つてをりました足軽あしがる衆の乱波らっぱも、土一揆つちいっき衆の乱妨も檀林巨刹だんりんきょさつの炎上も、おのづと別のまなこで眺めるやうになつて参ります。まことにわれながらあきれるやうな心の移り変りでございました。……
 その間にも戦さの成行きは日に細川方が振はず、いきおいを得た山名やまな方は九月朔日ついたちつひに土御門万里つちみかどまでの小路の三宝院に火をかけて、ここの陣所を奪ひとり、※(二の字点、1-2-22)いよいよ戦火は内裏だいりにも室町殿にも及ばう勢となりました。その十三日には浄華院の戦さ、守る京極きょうごく勢は一たまりもなく責め落され、この日の兵火に三宝院の西は近衛このえ殿より鷹司たかつかさ殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西園寺さいおんじ殿、転法輪てんぽうりん、三条殿をはじめ、公家くげのお屋敷三十七、武家には奉行ぶぎょう衆のおやど八十ヶ所が一片のけむりと焼けのぼりました。最早やかうなりましては、次の火に桃花坊の炎上は逃れぬところでございます。お屋敷の方はともあれかし、この世の乱れの収まつたのち、たとへ天下はどのやうに変らうとも、かならず学問のかつゑが来る、いにしへの鏡をたづねる時がかならず来る。あのお文倉ふみぐらだけは、この身は八つ裂きにならうとも守り通さずにはかぬと、わたくしは愈※(二の字点、1-2-22)覚悟をさだめ、水を打つたやうなしいんとしたあきらめのなかで、深く思ひきつたことでございました。さりながら、思へば人間の心当てほどはかないものもございません。わたくしがそのやうに念じ抜きました桃華文庫も、まつたく思ひもかけぬ事故ことゆえから烏有うゆうに帰したのでございます。……


 貞阿はほつと口をつぐんだ。流石さすがに疲れが出たのであらう、かたわらの冷えた大湯呑ゆのみをとり上げると、その七八分目まで一思ひにあおつて、そのまま座を立つた。風はいつの間にかやんでゐる。かわやの縁に立つて眺めると、雪もやがてれるとみえ、中空にはほのかな光さへ射してゐる。ああ静かだと貞阿は思ふ。今しがたまで自分の語りふけつてゐた修羅黒縄しゅらこくじょうの世界と、この薄らのやうにすき透つた光の世界との間には、どういふ関はりがあるのかと思つてみる。これは修羅の世を抜けいでて寂光の土にいたるといふ何ものかのひそやかなあかしなのでもあらうか。それでは自分も一応は浄火のさかいを過ぎて、いま凉道蓮台のかどさきまで辿たどりついたとでも云ふのか。いや何のそのやうな生易なまやさしいことが、と貞阿はわれとわが心をしかる。京の滅びなどの眼で見て来たことは、恐らくはこの度の大転変の現はれの九牛きゅうぎゅうの一毛にしか過ぎまい。兵乱はやうやく京を離れて、分国諸領に波及しようとするきざしが見える。この先十年あるひは二十年百年、ふるいものの崩れきるまで新しいものの生れきるまでは、この動乱は瞬時もやまずに続くであらう。人間のたかが一世や二世で見きはめのつくやうな事ではあるまい。してみればいま眼前のこの静寂は、仮の宿りにほかならぬ。今宵こよいの雪の宿りもまた、所詮しょせんはわが一生の間にたまさかに恵まれる仮の宿りに過ぎないのだ。……貞阿はさう思ひ定めると、しばらくじつと瞑目めいもくした。雪が早くも解けるのであらう、どこかでをつたふ水の音がする。……
 やがて座に戻つた連歌師れんがしは、玄浴主よくすの新たに温めてすすめる心づくしの酒に唇をうるほしながら、物語の先をつづけた。


 それは九月の十九日でございました。明け方からすさまじい南の風が吹き荒れてをりましたが、その朝のの刻なかばに、お屋敷のすぐ南、武者の小路のかみの方に火の手があがつたのでございます。つづいてそのしもにもかみにも二つ三つと炎があがります。火の手はたちまちに土御門の大路を越えて、あつと申す間もなく正親町おおぎまちめつくし、桃花坊は寝殿しんでんといはずお庭先といはず、黒煙りに包まれてしまひました。折からの強風にかてて加へて、火勢の呼び起すつむじ風もすさまじいことで、御泉水あたりの巨樹大木も一様にさながらほうきを振るやうに鳴りざわめき、その中を燃えさかつたままの棟木むなぎの端や生木なまきの大枝が、雨あられと落ちかかつて参ります。やがて寝殿の檜皮葺ひわだぶきのお屋根が、赤黒い火焔かえんをあげはじめます。お軒先のきさきをめぐつて火のへびがのたうち廻ると見るひまに、ごうと音をたててしとみが五六間ばかりも一ときに吹き上げられ、御殿の中からは猛火みょうかの大柱が横ざまに吐き出されます。それでもう最後でございます。わたくしは、居残つてをります十人ほどの青侍あおさぶらいや仕丁の者らと、兼ねてより打合せてありました御泉水の北ほとりに集まり、その北に離れてをりますお文倉ふみぐらをそびらにかばふやうに身構へながら、程なく寝殿やお対屋たいのやの崩れ落ちる有様を、あれよあれよとただ打ち守るばかり。さあ、寝殿の焼け落ちましたのは、やがてうまの一つ頃でもございましたらうか、もうその時分には火の手は一条大路を北へ越して、今出川のかたもまた西のかた小川こかわのあたりも、一面の火の海になつてをりました。
 その中を、どこをどう廻つて来られたものか、松王さまは学僧衆三四人と連れ立たれて走せつけて下さいました。わたくしはかたじけなさと心づよさに、お手をじつと握りしめたまま、しばしは物も申せなかつたことでございました。お文倉にも火の余燼もえさしが落下いたしましたが、それは難なく消しとめ、やがて薄らぎそめた余煙の中で、松王さまもわたくしどもも御文庫の無事を喜び合つたことでございます。松王さまは小半時ほど、焼跡の検分などをお手伝ひ下さいましたが、もはや大事だいじもあるまいとの事で、間もなく引揚げておいでになりました。
 そのひつじの刻もおつつけ終る頃でございましたらうか。わたくしどもは、兼ねて用意のほしひなどで腹をこしらへ、お文庫の残つた上はその壁にせめて小屋なりと差掛け、警固いたさねばなりませんので、寄り寄りその手筈てはずを調へてをりました所、表の御門から雑兵ぞうひょうおよそ三四十人ばかり、どつとばかり押し入つて参つたのでございます。そのしばらく前に二三人の足軽あしがるらしい者が、お庭先へ入つては参りましたが、青侍あおさぶらいの制止におとなしく引き退さがりましたので、そのまま気にも留めずにゐたのでございます。その同勢三四十人のなりすさまじさと申したら、悪鬼羅刹あっきらせつとはこのことでございませうか、裸身の上に申訳ばかりの胴丸どうまる臑当すねあてを着けた者は半数もありますことか、その余の者は思ひ思ひの半裸のすがた、抜身ぬきみ大刀たちを肩にした数人の者を先登に、あとは一抱へもあらうかと思はれるばかりのひのきの丸太を四五人してかついで参る者もあり、空手からてで踊りつつ来る者もあり、あつと申す暇もなくわたくしどもは、お文倉ふみぐらとの間を隔てられてしまつたのでございます。刀のさやを払つて走せ向つた血気の青侍二三名は、たちまちその大丸太の一薙ひとなぎに遇ひ、脳漿のうしょう散乱してたおれ伏します。その間にもはや別の丸太を引つ背負つて、南面の大扉にえいおうの掛声かけごえも猛に打ち当つてをる者もございます。これは到底ちからで歯向つても甲斐かいはあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、なだめて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築山つきやまのほとりにをりました大将株とも見えるひげ男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそたちまちばらばらとけ寄つた数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失つてしまつたのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございませう、むかつくやうな酒気が鼻をついたのを覚えてゐるだけでございます。……
 やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなつてをります。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひようひようと中空に鳴つてをります。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がづきりづきりとんでをります。わたくしはその谷間をやうやうひ上りますと、ああ今おもひ出しても総身そうみあわだつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或ひは引きちぎれ、或ひはつづりをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに数しれず怪しげに立ち迷つてゐるではございませんか。そこここに散乱したお文櫃ふみびつの中から、白蛇のやうにうねり出てゐる経巻きょうかんたぐひも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らずねずみ色の中空へ立ち昇つて参ります。寝殿しんでんのお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げてゐるのは、そのあたりへ飛び散つた書冊が新たなたきぎとなつたものでもございませう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築地ついじ彼方かなたへ舞つてゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろのあやしい地獄絵巻から、いつまでもじいつと瞳を放てずにゐたのでございます。口をしいことながら今かうしてお話し申しても、口不調法ぶちょうほうのわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝へすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついてをります。いいえ、一生涯この眼から消え失せるのあらうことではございますまい。
 やうやくに気をとり直してお文倉ふみぐらに入つてみますと、さしもうづ高く積まれてありましたお文櫃ふみびつは、いづくへ持ち去つたものやら、そこの隅かしこの隅に少しづつ小さな山を黒ずませてゐるだけでございます。青侍あおさぶらいどもはみな逃亡いたして姿を見せません。ふるへながらも居残つてをりました仕丁両三名を励ましつつ、お倉の中を検分にかかりますと、そこの山のくまかしこの山の陰から、ちよろちよろと小鼠こねずみのやうに逃げ走る人影がちらつきます。難民の小倅こせがれどもがまだあきらめきれずに金帛きんぱくの類を求めてゐるのでございませう。……かうしてさしもの桃華文庫もあはれはかなく滅尽いたしたのでございます。残りましたお文櫃はそれでも百余合ほどございましたが、これは光明峰寺へ移し納め、わたくしもそれに附いてそちらへ引き移りました。わたくしは取るものも取敢とりあへずその夜のうちに随心院へ参り、雑兵劫掠ぞうひょうきうょりゃく顛末てんまつを深夜のことゆゑお取次を以て言上ごんじょういたしましたところ、太閤たいこうにはお声をあげて御痛哭つうこくあそばしましたよし、それを伺つてわたくしはしんから身を切られる思ひを致したことでございました。光明峰寺へ移されましたお櫃の中には新玉集の御稿本はついに一帖も見当らなかつたのでございます。
 いやもう一つ、わたくしが気を失つて倒れてをりました間に、つい近所の町筋では無慚むざんな出来事が起つたのでございました。翌日になつて人から聞かされました事ゆゑ、くはしいお話は致し兼ねますが、兼ねて下京しもぎょうを追出されてをりました細川方の郎党衆、一条小川こかわより東は今出川まで一条の大路に小屋を掛けて住居してをりましたのが、この桃花坊の火、また小笠原殿の余炎にかかつて片端より焼け上り、妻子の手を引き財物を背に負うて、行方も知らず右往左往いたした有様、哀れと言ふも愚かであつたと人の語つたことでございました。かやうにして内裏だいりの東西とも一望の焼野原となりました上は、細川方は最早や相国寺を最後の陣所と頼んで、立籠たてこもるばかりでございます。
 けれども程なく十月の三日には、その相国寺の大伽藍だいがらんおびただしい塔頭たっちゅう諸院ともども、一日にして悉皆しっかい炎上いたしたのでございます。山名方の悪僧が敵に語らはれて懸けた火だと申します。この日の戦さのすさまじさは後日人の口より色々と聞き及びましたが、ともあれ黄昏たそがれに至つて両軍相引きに引く中を、山名方は打首うちくびを車八りょうに積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀をうずむるしかばね幾千と数知れなかつたとも申してをります。
 さあこの報せが光明峰寺にとどきますと、鶴姫様の御心配は筆舌ひつぜつの及ぶところではございません。早々にお見舞ひの御消息がわたくしにたくせられます。それをふところにわたくしが相国寺の焼跡に立つたのは、あくる日のかれこれたつみの刻でもございましたらうか。さしも京洛きょうらく第一の輪奐りんかんの美をうたはれました万年山相国の巨刹きょさつことごとく焼け落ち、残るは七重の塔が一基さびしく焼野原にそびえ立つてゐるのみでございます。そこここに死骸しがいを収める西方らしい雑兵どもが急しげに往来するばかり、功徳池くどくいけと申す蓮池はすいけには敵味方の屍がまだ累々るいるいと浮いてをりますし、鹿苑院ろくおんいん、蔭凉軒の跡とおぼしきあたりも激しいいくさの跡をしのばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つはまろんでゐる始末でございます。物を問はうにも学僧衆はおろか、承仕法師じょうじほうしの姿さへ一人として見当りません。もしや何か目じるしの札でもと存じ灰塵かいじん瓦礫がれきの中を掘るやうにして探ねましたが、思へば剣戟けんげき猛火のあひだ、そのやうなものの残つてゐよう道理もございません。わたくしは途方に暮れてたたずんでしまひました。
 その日は空しく立戻り、次の日もまた次の日も、わたくしは御文をふところにしつつあるは功徳池のほとりに立ち暮らし、或は心当てもなく焼け残つたちまた々を探ね廻りましたが、松王様に似たお姿だに見掛けることではございません。そのうちに日数はたつて参ります。相国寺合戦の日の色々と哀れな物語も自然と耳にはいつて参ります。中でも一入ひとしおの涙を誘はれましたのは、細川殿の御曹子おんぞうし、六郎殿のおん痛はしい御最後でございました。当年十六歳の六郎殿は、この日東の総大将として馬廻りの者わづか五百騎ばかりを以て、天界橋てんがいばしより攻め入る大敵を引受け、さんざんに戦はれましたのち、大将はじめ一騎のこらず討死うちじにせられたのでございますが、戦さ果てても御遺骸いがいを収める人もなく、犬狗いぬえのこのやうに草叢くさむら打棄うちすててありましたのを、やうやく御生前に懇意になされた禅僧のゆくりなくも通りすがつた者がありまして、泣く泣くおん亡骸なきがらを取収め、陣屋の傍につくえを立て、形ばかりの中陰ちゅういんの儀式をしつらへたのでございます。ところが或る日のこと、ふとその禅僧が心づきますと硯箱すずりばこふた上絵うわえの短冊が入れてありまして、それには、
さめやらぬ夢とぞ思ふきひとのけむりとなりしその夕べより
と、哀れな歌がしたためてあつたと申すことでございます。人のうわさでは、これはさる公卿くぎょうの御息女とこの六郎殿と御契りがありまして、常々ふみを通はせられてをられましたが、その方の御歌とか申しました。この物語を耳にしましたとき、あまりの事の似通ひにわたくしは胸をつかれ、こればかりは姫のお耳に入れることではない、この心一つに収めて置かうと思ひ定めましたが、なほも日数を経て何ひとつお土産みやげ話もない申訳なさに、ある夕まぐれついこのお話を申上げましたところ、もはや夕闇にまぎれて御几帳きちょうのあたりはおぼろに沈んでをりますなかで、忍びに泣き折れられました御様子に、わたくしも母親も共々に覚えず衣のそでを絞つたことでございました。
 そのやうな不吉なきざしに心を暗くしながらも、なほもお跡を尋ねてその日その日を過ごしてをりますうち、やがて十一月の声を聞いて二三日がほどを経ました頃でございます。わたくしは今出川の大路を東へ、橋を越してなおもさ迷つて参りますうち、地獄谷への坂道にやがて掛らうといふあたりで、のそりのそりと前を歩んで参る僧形そうぎょうの肩つきが、なんと松王様に生き写しではございませんか。もしやとお声をかけてみますと、振向かれたお顔にやはり間違ひはございませんでした。やれうれしやとわたくしは走せ寄りまして、おうらみも御祝著ごしゅうちゃくも涙のうちでございます。「いや許せ許せ。おれが悪かつたよ」と相変らずの御豁達かったつなお口振りで、「俺はあれからこつち、この谷奥のいおりに住んでゐる。真蘂しんずい和尚と一緒だよ。地獄谷に真蘂とは、これは差向き落首らくしゅの種になりさうな。あのたぬき和尚、一思ひに火の中へとは考へたが、やつぱり肩に背負つて逃げだして、あとから瑞仙ずいせん殿に散々に笑はれたわい。まあこの辺が俺のよい所かも知れん」などと早速の御冗談が出ます。まあ少し歩きながら話さうとのおおせで、わたくしの差上げました御消息ぶみ七八通を、片はしよりひらかれてお眼を走らせながら、坂を足早に登つて行かれます。池田のあたりから右へ切れて、小高い丘に出たところで、さつさとその辺の石に腰をおかけになります。「まあそなたもすわれ。ここからは京の焼跡がよう見えるぞ」とのお言葉に、わたくしも有合ふ石に腰をおろしました。
 わたくしはあらためて一望の焼野原をつくづくと眺めました。本式の戦さが始まつてより、まだ半年にもならぬ間に、まつたくよくも焼けたものでございます。ちやうど真向ひに見えてをります辺りには、内裏だいり、室町殿、それに相国寺の塔が一基のこつてをりますだけ、その余は上京かみぎょう下京しもぎょうをおしなべて、そこここに黒々と民家のかたまりがちらほらしてをりますばかり、いらかを上げる大屋高楼は一つとして見当りません。眺めてをりますうちに、くさぐさの思ひが胸に迫り、覚えずほろほろと涙があふれさうになつて参ります。松王様も押黙られたまま、姫の御消息を打ち返し打ち返し読んでをられます。沈黙しじまのうちに小半時もたちましたでせうか。……
 と、松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押しまれて、そのままふところふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて、「どうだ、よう焼けをつたなあ。相国てらも焼けた、桃花文庫ふみぐらも滅んだ、姫もさらひそこねた、はははは」と激しい息使ひで吐きだすやうにお話しかけになりました。例になく上ずつたお声音こわねに、わたくしは初めのうちわが耳を疑つたほどでございます。わたくしが何と申上げる言葉もないままでをりますと、松王様はなおもつづけて、お口疾くちどにあとからあとからあふれるやうに、さながら憑物つきもののついた人のやうにお話しかけになります。それが後では、もうわたくしなどのゐることなどてんでお忘れの模様で、まるでわれとわが心に高声で言ひ聴かすといつた御様子でございました。わたくしは何か不気味な胸さわぎを覚えながら、じつと耳を澄まして伺つてをりました。いろいろと難しい言葉も出て参りますので一々はつきりとは覚えませんけれど、大よそはまづ次のやうなお話なのでございました。
「この焼野原を眺めて、そなたはさぞや感無量であらうな。俺も感無量と言ひたいところだが、実を云へば頭の中は空つぱうになりをつた。今日は珍しく京のどこにも兵火の見えぬのがかえつて物足らぬぐらゐだ。俺は事にゑてをる。事がなくては一日半時も生きてはゆけぬと思ふほどだ。それを紛らはさうと、そなたはよもや知るまいが、俺は夜闇にまぎれて毘沙門びしゃもん谷のあたりを両三度も徘徊はいかいしてみたぞ。姫があの寺へ移られたことは直きに耳に入つたからな。そしてあの小径こみちこの谷陰と、姫をさらふ手立をさまざまに考へた。どういふ積りかは知らぬが、仰山ぎょうさん薙刀なぎなたまでも抱へてをつた。いや飛んだ僧兵だわい。その三晩目に、姫を寝所から引つさらふことは、案外に赤子の首をひねるよりたやすいことが分つた。手順は立派に調つた。そなたなんどは高鼾たかいびきのうちに手際よくやつてのけられる。そこで俺は馬鹿ばか々々しくなつてやめてしまつた。よくよく考へてみたところ、俺の欲しいのは姫ではなくして事であつた。それが生憎あいにく『事』ほどの事で無いのが分つたまでだ。姫のうへは気の毒に思ふ。だが所詮しょせん、俺が引つさらつて見たところであの姫の救ひにはならぬ、この俺の救にもならぬ。……
「それ以来、俺は毎日この丘へ登つて、焼跡を見て暮した。何か事を見附けださうとしてだ。どこぞで火煙の立つ日は心が紛れた。それのない日は屈托くったくした。さて、恋が事でなかつたとすればお次は何だ。俺はまづ政治といふものを考へてみた。今度の大乱の禍因をなしたのは誰だ、それを考へてみようとした。それで少しは心が慰さまうかと思つたのだ。世間では伊勢殿が悪いといふ。成程なるほどあの男は奸物かんぶつだ、淫乱だ、私心もある、猿智慧さるぢえもある。それに俺としても家督を追はれたうらみがある、親のかたきなどと旧弊な言掛いいがかりも附けようと思へば附けられよう。だがこの男も結局は俺の心をき立ててはれぬ。小さいのだ、下らぬのだ。あれほどの野心家なら、どこの城どこの寺の隅にも一人や二人は巣喰つてをる。それでは蔭凉軒はどうだ。世間ではあの老人が義政公を風流讌楽えんらくそそのかし、そのすきにまぎれて甘い毒汁を公の耳へ注ぎ込んだ張本人のやうに言ふ。赤入道(山名宗全そうぜん)なんぞは、とり分けて蔭凉の生涯失はるべしなどと、わざわざ公方くぼうに念を押しをる。それほどに憎らしいか、それほどに怖ろしいか。俺はあの老人とこれで丸六年のあひだ一緒に暮して来たが、ただの詩の好きな小心翼々たる坊主だ。もそつと詩の上手なあの手合は五山の間にごろごろしてをる。あれを奸悪かんあくだなど言ふのは、奸悪のきばを磨く機縁に恵まれぬやから所詮しょせんは繰り言にしか過ぎん。ではそんな詰らん老人をなぜ背負つて火の中を逃げた。孟子もうしは何とやらのじょうと言つたではないか。俺の知つた事ではない。……
「とするとこの両名の言ふなりになつた公方が悪いといふことになる。成程あまり感服のできる将軍ではない。かしこくも主上しゅじょうは満城紅緑為誰肥と諷諫ふうかんせられた。それも三日坊主で聞き流した。横川景三おうせんけいさん[#ルビの「おうせんけいさん」は底本では「おうせいけいさん」]殿の弟子ぶんの細川殿も早く享徳きょうとくの頃から『君慎』とかいふ書を公方にたてまつつて、『君行跡しければ民したがはず』などと口を酸くした。それもどこ吹く風と聞き流した。俺は相国寺の焼ける時ちよつと驚いたのだが、あの乱戦と猛火みょうかが塀一つ向ふでおこつてゐる中を、折角せっかくはじめた酒宴を邪魔するなと云つてついに杯を離さずすわり通したさうだ。あれは生易なまやさしいことで救へる男ではない。政治なんぞで成仏じょうぶつできる男ではない。まだまだ命のある限り馬鹿ばかの限りを尽すだらうが、ひよつとするとこの世で一番長もちのするものが、あの男の乱行沙汰ざたの中から生れ出るかも知れん。……
「そこで近頃はやりの下尅上げこくじょうはどうだ。これこそ腐れた政治を清める大妙薬だ。俺もしんからさう思ふ。自由だ、元気だ、溌剌はつらつとしてをる。障子しょうじを明け放して風を入れるやうなさわやかさだ。俺は近ごろ足軽あしがるといふもののひげづらを眺めてゐて恍惚こうこつとすることがある。あの無智な力の美しさはどうだ。宗湛そうたんもよい蛇足じゃそくもよい。だが足軽の顔を御所の襖絵ふすまえに描く絵師の一人や二人は出てもよからう。まあこれはよい方の面だ。けれど悪い面もある。人心の荒廃がある。世道の乱壊がある。第一、力は果して無智を必須の条件とするか、それが大いに疑問だ。一時は俺も髪の毛をのばして、ほうきやりに持ち替へようかと本気で考へてみたが、それを思つてやめてしまつた。……
「ではその荒廃乱壊を救ふものは何か。差当さしあたつては坊主だ。俺は東福で育つて管領に成り損ねて相国に逆戻りした男だ。五山の仏法はよい加減きの来るほど眺めて来た。そこで俺の見たものは何か。驚くべき頽廃たいはい堕落だ。でなければ見事きはまる賢哲保身だ。それを粉飾せんが為の高踏廻避と、それを糊塗ことせんが為の詩禅一致だ。済世さいせい気魄きはくなど薬にしたくもない。俺は夢厳和尚の痛罵つうばを思ひだす。『五山ノ称ハいにしえニ無クシテ今ニアリ。今ニアルハ何ゾ、寺ヲとうとンデ人ヲ貴バザルナリ。古ニ無キハ何ゾ、人ヲ貴ンデ寺ヲ貴バザルナリ。』またかうも言はれた。『法隆まさニ季ナラントシ、妄庸ノ徒声利ニ垂涎すいぜんシ、粉焉沓然、風ヲ成シ俗ヲ成ス。』人は惜しむらくは罵詈ばりにすぎぬといふ。しかしく罵言をなす者すら五山八千の衆徒の中に一人もないではないか。いや一人はゐる。宗純そうじゅん和尚(一休)がそれだ。あの人の風狂には、何か胸にわだかまつてゐるものが迸出ほうしゅつを求めて身悶みもだえしてゐるといつたおもむきがある。気の毒な老人だ。だがその一面、狂詩にしろ奇行にしろ、どうもその陰に韜晦とうかいする傾きのあるのは見逃せない。俺にはとてもついて行けない。……
「そこで山外の仏法はどうか。これは俺の知らぬ世界だから余り当てにはならぬが、どうやら人物がゐるらしい。『祖師の言句をなみし経教きょうぎょうをなみする破木杓、脱底つうのともがら』を言葉するどく破せられた道元和尚の法燈ほうとうは、今なほ永平寺に消えずにゐるといふ。それも俺は見たい。応永のころ一条戻橋もどりばしに立つて迅烈じんれつ折伏しゃくぶくを事とせられたあの日親といふ御僧――、義教よしのり公のいかりにふれて、舌を切られ火鍋ひなべかぶらされながらつい称名しょうみょう念仏を口にせなんだあの無双の悪比丘あくびくは、今どこにどうしてをられる。それも知りたい。叡山えいざんの徒にしいたげられて田舎いなか廻りをしてゐる一向の蓮如れんにょ、あの人の消息も知りたい。新しい世の救ひは案外その辺から来るのかも知れん。だがこれも今のところ俺には少しばかり遠い世界だ。……
「方々見廻しては見たが、まあ現在の俺には、あきらめて元の古巣へ帰るほかにみちはなささうだ。それそれそなたの主人、一条のおやぢ様の書かれた本にもあるではないか。『理ハ寂然じゃくねん不動、すなわチ心ノたい、気ハ感ジテついニ通ズ、即チ心ノ用』……あの世界だ。あのおやぢ様は道理にも明るく経綸けいりんもあるよい人だ。ただ惜しいかな名利がてられぬ。信頼のぶより信西しんぜいほどの実行の力も気概もない。そして関白争ひなどと云ふをかしな真似まねをしでかしては風流学問に身をかはす。惜しい人物だ。それにつけてもあに様の一慶和尚は立派なお人であつたぞ。いまだに覚えてゐる、『儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ』などと、幼な心に何の事とも分らず聞いてをつたあの咄々とつとつとした御音声ごおんじょうが、いまだに耳の中で聞えてゐる。そもそも俺のやうな下品下生げぼんげしょうの男が、実理をさとる手数をいとうて空理をさうなどともがき廻るから間違ひが起る。さうだ、帰るのだ、やつと分つたよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちのまふ伝統へ、そうの学問へ、俺は帰るのだ。」
 そこでやうやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしはあきれて追ひすがり、「ではこの先どこへおいで遊ばす」と伺ひますと、「明日にも近江へ往く、あの瑞仙和尚がをられるのだ。何か言伝ことづてでもあるかな」とのお答へ。「姫君へお返りごとは」と重ねて伺ひますと、「いましゃべつたことが返事だ。覚えてゐるだけお伝へするがいい。」さうお言ひてになるなり、風のやうに丘を下りて行かれたのでございます。
 近江へ往くとはおっしやいましたが、わたくしにはまこととは思はれませんでした。なぜかしらそんな気が致したのでございます。ひよつとしたらあのまま東の陣にでもお入りになつて、り死になさるお積りではあるまいかとも疑つてみました。これもそのやうな気がふと致しただけでございます。いづれに致せ、その日以来と申すもの、松王様の御消息は皆目かいもくわからずなつてしまひました。地獄谷の庵室あんしつと仰しやつたのを心当てに尋ねてみましたが、これはどうやら例のお人の悪い御嘲弄ちょうろうであつたらしく、真蘂西堂しんずいせいどうは前の年の九月に伊勢殿と御一緒にあさましい姿で都落ちをされたなりであつたのでございます。ちよつとひそかに上洛じょうらくされたやうなうわさもありましたので、それを種に人をお担ぎになつたのでございませう。鶴姫様の御悲歎ひたんは申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるひは老若ろうにゃく沙弥喝食しゃみかっしきの末々まで、多くは坂下さかもと山上やまのうえ有縁うえん辿たどつて難を避けてをられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまはりました。瑞仙様が景三、周鱗しゅうりんの両和尚と御一緒に往つてをられます近江の永源寺、あるひは集九様のをられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周鳳しゅうほう様のお宿、それに念のためたきぎの酬恩あんにおこもりの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方はついに分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまひました。
 そのうち毘沙門びしゃもんの谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなつて参ります。明けても暮れても谷の中はかしましい蝉時雨せみしぐればかり。その頃になりますと、この半年ほどやぐらを築いたりほりを掘つたりしてにらみ合ひのていでをりました東西両陣は、京のぐるりでそろそろ動き出す気配を見せはじめます。七月のはじめには山名方が吉田に攻め寄せ、月ずゑには細川方は山科やましなに陣をとります。八月になりますとようやく藤ノ森や深草ふかくさのあたりにいくさの気配が熟してまゐり、さてこそ※(二の字点、1-2-22)いよいよ東山にも嵯峨さがにも火のかかる時がめぐつて来たと、わたくしどももひそかに心の用意を致してをりますうち、その十三日のまだ宵の口でございました。にわかに裏山のあたりでただならずわめののしる声が起つたかと思ふうち、たちま庫裡くりのあたりから火があがりました。かねて覚悟の前でもあり、幸ひ御方様も姫君も山門のほとりの寿光院にお宿をとつておいででしたから、東福寺の方角にはまだ何事もないらしい様子を見澄まし、折からの闇にまぎれて、すばやく偃月橋えんげつきょうよりお二方ともお落し申上げました。
 残りました手の者たちとわたくしは、百余合のお文櫃ふみびつの納めてあります北の山ぎはの経蔵のほとりにたたずんで、成行きをじつとうかがつてをります。当夜は風もなく、更にはまた谷間のことでもあり、火の廻りはもどかしい程に遅く感ぜられます。そのうちに食堂じきどう、つづいて講堂も焼け落ちたらしく、火の手が次第に仏殿に迫つて参ります頃には、そこらにちらほら雑兵ぞうひょうどもの姿も赤黒く照らし出されて参ります。どうやら西方の大内おおうち勢らしく、聞きれぬ言葉なまりが耳につきます。そのやうな細かしい事にまで気がつくやうになりましたのも、度重なる兵火をくぐつて参りました功徳くどくでもございませうか。やがて仏殿にも廻廊づたひにたうとう燃え移ります。それとともに、大して広からぬ境内けいだいのことゆゑ、鐘楼しゅろうも浴室も、南ろくの寿光院も、一ときに明るく照らし出されます。こちら側の経蔵もやはり同じことであつたのでございませう、松明たいまつを振りかざした四五人の雑兵ぞうひょうが一散にせ寄つて参りました。その出会ひがしらに、思ひもかけぬ経蔵の裏の闇から、僧形そうぎょうの人の姿が現はれて、妙に鷹揚おうよう太刀たちづかひで先登の者をつててました。その横顔を、ああ松王様だとわたくしが見てとりましたとき、こちらを向いてにつこりお笑ひになりました。残兵どもは一たん引きました。そのすきに「姫は」とお尋ねになります。「お落し申しました。」「やあ、また仕損じたか」と、まるで人ごとのやうな平気なおっしやりやうをなさいます。つづけて、「細川の手の者が隣の羅刹らせつ谷に忍んでゐる。ここは間もなく戦場になるぞ。そなたも早く落ちたがよい。俺も今度こそは安心して近江へ往く。これを取つて置け」と小柄こづかをわたくしのてのひらに押しつけられたなり、そこへ迫つて参りました新手あらての雑兵数人には眼もくれず、のそりと経蔵のかげへ消えてゆかれました。それなりわたくしはあの方にはお目にかからないのでございます。いいえ、今度こそは近江へ行かれたに違ひございません。これもわたくしのほんの虫の知らせではありますけれど、これがまた奇妙に当るのでございますよ。
 そののちのことは最早や申上げるほどの事もございますまい。その月の十九日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた様よく御存じのとほり、姫君はおんとし十七を以て御落飾、法華寺の尼公にお直り遊ばしたのでございます。……ああ、あの文庫のことをお尋ねでございますか。あの夜ほどなく経蔵にも火はかかつたのでございますが、幸ひ兵どもが早く引上げて行つてれましたため、百余合のうち六十二合は無事に助け出すことがかなひました。それは只今ただいま当地の大乗院にお移ししてございます。先日もそのお目録のお手伝ひを致したところでございますが、もとの七百余合のうち残りましたのは十の一にも満ちませぬとは申せ、前に申上げました玉葉、玉蘂をはじめ、お家累代るいだいの御記録としましては、後光明峰寺殿(一条家経いえつね)の愚暦ぐれき五合、後芬陀利花ふだらく院の玉英一合、成恩寺じょうおんじ殿(同経嗣つねつぐ)の荒暦こうりゃく六合、そのほか江次第ごうしだい二合、延喜式えんぎしき、日本紀、文徳実録、寛平御記かんぴょうぎょき各一合、小右記しょうゆうき六合などのつつがなかつたことは、不幸中の幸ひとも申せるでございませう。それに致しましても此度このたびの兵乱にて、洛中洛外らくちゅうらくがいの諸家諸院の御文書御群書のたぐひの焼亡いたしましたことは、おびただしいことでございましたらう。それを思ひますと、あらためてまた桃花坊のあの口惜くちおしい日のことも思ひいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。人伝ひとづてに聞及びました所では、昨年の暮ちかく上皇様には、太政官だいじょうかんの図籍の類を諸寺に移させられましたよしでございますが、これも今では少々後の祭のやうな気もいたすことでございます。
 ああ、どうぞして一日も早く、このやうな戦乱はやんでもらひたいものでございます。さりながら京の様子をうかがひますと、わたくしのまだ居残つてをりました九月のはじめには嵯峨の仁和にんな天竜てんりゅうの両巨刹きょさつも兵火に滅びましたし、船岡山では大合戦があつたと申します。十月には伊勢殿の御勘気も解けて、上洛じょうらく御免のお沙汰さたがありましたとやら、またそのうちさぞかし色々と怪しげな物ごとが出来しゅったいいたすことでございませう。さう申せば早速にも今出川殿(足利義視よしみ)は、霜月しもつきの夜さむざむと降りしきる雨のなかを、比叡へお上りになされたとの事、いやそれのみか、ついには西の陣へおはしりになつたとやら。この師走しわすの初め頃、今出川殿討滅御祈祷きとう勅命ちょくめいが興福寺に下りました折ふしは、いやにぎやかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。お互ひにあまりくよくよするのは身の毒でございませう。はや夜もだいぶん更けました様子。どれお名残なごりにこれだけ頂戴ちょうだいいたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障子しょうじにうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきませう。……





底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「文藝」河出書房
   1946(昭和21)年3、4月合併号
※「太刀たち」と「大刀たち」、「桃華文庫」と「桃花文庫」、の混在は、底本どおりにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「雪の宿り」(入力:佐野良二、校正:門田裕志、小林繁雄)
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について