飜訳のむずかしさ

神西清




 飜訳ほんやく文芸が繁昌だそうである。一応は結構なことだ。あの五十年という制限の網の目がだいぶ緩められて、生きのいい魚がこっちの海へも泳いできて、わが文化の食膳にのぼせられる。悪かろうはずはないが、物事には必ず善悪の両面がある。水から揚がるのは、いい魚ばかりとは限らない。お客さんは腹がいているから何でも食う。そこで料理人は転手古舞てんてこまいで、材料の吟味はもとより、ろくろく庖丁ほうちょうも研ぐひまがないという景気になる。つまり濫訳らんやくの弊が生じるわけだ。もっともこれは、何も飜訳文芸に限った話ではない。需要の盛大が粗製濫造の弊をともなわないで済むのは、よほど文化の根づきの深い国のことだろう。
 まあそんな騒ぎの飛ばっちりで、僕にも一つ板前の苦心談をやれという話になったが、実をいうとこれはちょっと困る。苦心談は要するに自慢ばなしだ。お座敷天婦羅てんぷらにしたところで、長いはしでニューッとつまんで出される度に能書がついたのでは、お座も胃のも冷めてしまう。いわんや僕なんかの板前においてをやだ。いずれ僕もあと三十年もしたら浴衣ゆかたがけで芸談一席と洒落しゃれる気になるかも知れないが、今のところはこの不細工な割烹着かっぽうぎを脱ぐつもりはない。
 で問題を少しそらして、一般に飜訳のむずかしさとでもいったことについて、少しばかり書いてみたい。正直のところ僕は、飜訳という仕事がだんだん辛くなって来ている。あながちお年のせいでも、目が肥えてきたせいでもあるまいが、とにかく近頃は一行訳すにも、飜訳という仕事の不自然さ不合理さが鼻についてやり切れない。それで、たまに飜訳をやりだしても、一晩徹夜して三枚なんていうひどいことにもなりがちだ。そう凝っていたのじゃ間職に合うまい、とってくれる友人がある。大そう御苦心で、さぞ名訳が……と迷惑そうにおだててくれる編集者もある。だがこっちは、別に凝りも苦心もしていないのだから困るのである。徹夜の時間の大半は、今いった不自然感、不合理感との組打ちのうちに、ただむなしく流れているだけなのだから。こうなるともう何のことはない、一種の脅迫観念だ。
 世間に、横のものを縦に直す、という憎まれ口がある。けだし飜訳という仕事のからくりをずばりと突いた名言である。なるほど飜訳はつまるところ、It is a book をIt is a bookと書きかえるだけの仕事に過ぎないかも知れない。至極ごもっともな話ではあるが、どうやらわれわれは、この名言の適切さにいい気持になった余り、その底にひそんでいる重大な悲劇に気がつかない傾向があるようだ。横のものを縦に直す、ということが、実は、横坐標に盛られた或る数値を縦坐標に盛り直すという飛んでもない奇術であることに、存外気がつかずにいるわけである。
 Traduttore, traditore. というイタリアの古い警句があるそうだ。その意味は、飜訳者は裏切り者、ということだ。ところが、そう日本語に直したのでは、やはり申訳もうしわけのない裏切りの罪を犯すことになる。なぜなら原句は trad を頭韻とし、tore を脚韻とする大そういきな駄じゃれだからである。まあ一種の語呂合せみたいなものであり、それを一概に「飜訳者は裏切り者」と心得ておそつつしんだのでは、この名句の発案者の折角の笑いが消し飛んでしまう。含蓄されている洒脱味が失せてしまう。いささか苦しいが、飜訳者ホンヤクシャ叛逆者ハンギャクシャとでも言い換えれば、少しは洒落のひびきが通じようというものである。ただしそうすると、下の句が耳遠くなって、意味の通りが悪くなる。飜訳という仕事は畢竟ひっきょうするに、こっちを立てれば向こうが立たぬ千番に一番の兼合いと心得れば、まず間違いはなさそうだ。
 チェーホフも同じような毒舌を「手帳」のなかで書いている。それは「ペレヴォッチクはポドリャッチクの誤植」というので、こう仮名で書いてみても、頭韻と脚韻の関係ははっきり分るだろう。意味は「訳者とあるは請負師の誤植」だが、なるほどそれで一応の意味は通じても、肝腎の洒落の方はさっぱりぴんと来ないことになる。これなど極端な例のようだが、この種の困難は単に詩歌の飜訳の場合ばかりでなく、およそ飜訳という仕事があり続けるかぎり、ぜひとも背負わなければならぬ不幸な宿命である。
 文芸作品は、せんじつめれば人間精神の自由な play(遊び、つまり躍動)だ。そこで縄跳びの縄の役目をつとめるのが、つまり言葉なのだが、飜訳という仕事にとって、およそこの言葉という縄をとび越えるほど厄介なことはない。そこでやむを得ず、色んな便法が講じられることになる。その一例が、単色版式飜訳という方法だ。
 それを一口にいうと、飜訳者は模写だとか原色版だとか何だとかいう身の程知らずな野心をおこさずに、写真屋の役割で満足しろということになる。つまり色だの音だのには目をつぶり耳をふさいで、意味だけを忠実に伝えろというわけである。もっとも今日こんにちでは既にカラー・フィルムも出現しているから話は別だが、そもそも先行条件として、絞りとか照明とかフィルターの選択とか露出の時間とか現像の技術とか、さまざまな人為的操作がいることは誰だって知っている。ただレンズの確かさとかピントの正しさだけを頼みにしていたのでは、報道写真一枚まんぞくに撮れはしない。そんな事情を一切無視して、さも自分が精巧なレンズにでもなったつもりでアグラをかいているのが、世上の単色版式飜訳家どもである。
 今年のはじめ、ある飜訳劇を見物したら、ある幕で姉娘が妹娘を慰めながら、「私はあなたを高く評価します」と言った。電光石火、思わず耳を疑ったほどの名セリフである。失笑の声がそこここで聞えた。また最後の幕で、ある青年が任地を離れてゆくに当って、「さよなら、樹木たち!」と木立に向って呼びかけた。これまたシンミリしたその場面に一種異様な効果をあたえ、見物けんぶつはげらげら笑いだした。見物が笑ったから悪いというのではない。もともと喜劇のつもりで原作者は書いているのだから、見物が笑ってくれれば有難いみたいなものだが、問題はその笑い所である。生半可な直訳口調からくる可笑おかしみ、そんなくすぐりをねらって原作者は芝居を書いたのではなかった。ところが素朴な訳者は原文に忠実なあまり、直訳口調を連発して無用の笑いを強制してしまったのである。
 あんまりレンズを信用しすぎると、ときどきこんな喜劇がおこる。いずれ精巧無比な飜訳機械が発明される日まで、飜訳者はやはり善意の(まさか悪意のではあるまい)叛逆者でありつづけるよりほかにみちはなさそうだ。
(昭和二十五年八月、「書物」)





底本:「大尉の娘」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年5月2日第1刷発行
   2006(平成18)年3月16日改訂第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第六巻」文治堂書店
   1976(昭和51)年発行
初出:「書物」
   1950(昭和25)年8月
入力:佐野良二
校正:noriko saito
2008年5月30日作成
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