灰色の眼の女

神西清





 埴生十吉が北海道の勤め口を一年たらずでやめて、ふたたび東京へ舞戻つてきたのは、192*と永いあひだ見馴れもし使ひなれもした字ならびが変つて、計算器の帯が二本いちどきに回転するときのやうに、下から二た桁目に新たな3の字がかちりと納つた年の、初夏のことであつた。遊んで暮してゆける身分でもないので、ロシヤ語を少々かじつてゐたのをたよりに、小石川にある或る東洋学関係の図書館に、なかば自宅勤務の形でつとめることになつた。蒙古の民俗を扱つたロシヤ語の文献の日録を、整理したり翻訳したりする役目である。
 この仕事を、大して興味をもつでもなしにぼつぼつやつてゐるうち、その夏も峠をこした或る日のこと、学校の先輩でもあり、一部は恩師でもある小幡氏から、至急に会ひたいと電話の呼出しがかかつた。指定された丸の内の何とかいふ倶楽部の一室で待つてゐると、廊下の方で、二三人の連れ――その中にはどうやら外国人もまじつてゐるらしい――と別れの言葉をかはしてゐる聞き覚えのあるきびきびした声がきこえて、やがて白い麻服姿の小幡氏が、相変らずの颯爽たる足どりではいつて来た。
 一口にいへば小幡氏は、日本人にはちよつと珍しいきちりとした紳士である。それもイギリス型の紳士といふと、長身瀟洒しょうしゃのうちにもどことなく燻しのかかつた、悪くいへば些か爺むさい、良くいへば鷹揚な――さうしたところのあるのが定石らしいが、小幡氏のはそれとは裏はらに、小型でぴりりとした生地に、一種のスノビスムの加はつた別様の紳士ぶりである。この種の伊達は、どうしても一味南欧的な頽廃と相通ずる気味のあるのを免れない。小幡氏にもそれはあるが、持ち前の短気と負けじ魂とで、あやふい一線に手綱をひきしめてゐる。
 それまで十吉が接してゐたのは、教師としての小幡氏であつた。とはいへ某銀行のローマ支店づとめを振出しに、やがて河岸をかへてバルカン方面で、永年のあひだ総領事などを勤めて来た半生の経歴は、私立の植民学院の語学と貿易事情の講師でもやりながら一時をしのぐといつた失意の境遇にあつたその頃の氏は、不調和も度をすぎて寧ろ滑稽感をかもし出すほどの水際だつた風貌をあたへてゐた。当時、なにか青春のやり場にこまつて、仲間のうちの流行になつてゐた語学放浪の渦にまき込まれてゐた十吉は、気まぐれに籍を置いてみたその学院の夜間部で、二年ほど小幡氏からセルボ・クロアート語の手ほどきを受けたことがある。
 それなりで切れたと思つてゐた縁が、小幡氏一流のするどい記憶のはたらきで、手ばやく結び直された。それが倶楽部の会見になつたのだ。まだまだ盛んな頃、神戸行特急の食堂車に外交官仲間三人で坐り込んだなり、ビールから始めてウィスキーの最後の一滴に至るまで、文字どほりの棚ざらひをやつてのけて、乗務生活十年といふボーイ頭から最高レコードの折紙を奉られたほどの酒豪でありながら、小幡氏は煙草をいつさい口にしない。にんげん飲む、喫ふ、買ふの三拍子が揃つたらもう駄目だと、妙な持論を振りかざしてゐる。きりりと締つて或るのりえない実際家的な肌合が、そこに現はれてゐる。青年にとつてかうした人物は苦手なものだが、とにかくその面前で、しかもその倶楽部のサロンの重厚な空気に圧倒されながら、てれかくしに安煙草をしきりにぷかぷかやりながら十吉が受けた相談といふのは、手つとり早くいへばJ国の商務館に勤める気はないかといふ話であつた。
 てきぱきと歯ぎれのいい口調で、小幡氏は説明を進めてゆく。――君が将来何にならうとしてゐるかは僕は知らない。恐らく僕などの立入るべき筋でもあるまい。君はフランス語が専門ださうだし、ロシヤ語も相当いけるらしいが、少くも僕が及ばずながら手ほどきをして上げたあの語学に関するかぎり、君の程度まで行つた青年を僕はほかに知らない。(さあ、あんな一風変つた言葉をかじる気になつた男が、この国に果して何人あつたらうと、十吉は苦笑とともに考へる。)その道でなら、君は日本の第一人者になれること請合ひだが、まさかそんなおだてに乗つてくる君でもなかろう。悲しいことに僕にはもう、あんたがた年頃の青年の気持がわからなくなつて来てゐるが、お見受けするところ君はかなり神経質なくせに、どこかふてぶてしい野心家の風貌がある。と云つてもそれは、いづこを指すともさだめのない、曠野こうやの風みたいな粗々しいものには違ひなからうがね。僕はさうした青年の野心を、尊敬はしないが、……尊重はするつもりだ。
 まあ君は多分、あの語学はほんの気まぐれにやつてみただけだと言ふだらうと思ふ。僕としてはその気まぐれついでに、その窓から一思ひに、内部の世界へ跳び込んでみることを勧めたいのだ。青年の弱点は、さうした窓があんまり多すぎて、踏切りがつかない点にありはしないかね。もしさうなら、僕が一つその偶然の代理役をつとめようぢやないか。J国の商務館は、実をいふと僕が引つ張つて来て開かせたやうなものだ。現につい先頃までゐた初代の代表などは、僕がツァラにゐた時代の友人ともいつていい男だつた。僕のゐるかぎり、居心地はさう悪くないと思ふ。もちろん新興国の常として、政情はまだまだ落着きがない。いや、将来ますます然りかも知れない。そのうへ君も知つての通りの、スラヴ国家とはいひ条、色んな民族の寄合ひ世帯だ。この先のことは僕にも保証はできない。また保証しようとも思はない。そんな事は寧ろ、君たち青年の自負心を傷つけるだらうからだ。いや却つて、その将来と不安定といふところに誘惑されるやうな人間であることを、僕は現在の君のために望みたいな。繰返して言ふが、僕はさうした青年の野心を、尊敬はしないが(とそこで小幡氏は、何やら遠いむかしの悔恨とでもいつたものの影に、ふと眉根まゆねを曇らせて)……しかし尊重はする。
 仕事は忙しい。一昨年の政変以来、国のといふか党のといふか、方針はとにかく急激に国内の工業化といふ方向に向ひつつある。日本の物価安が、そこで大きな因子として働きだしてゐるのだ。この貿易はなかなか有望だ。この点は僕のくろい眼をある程度まで信用して貰つていい。まあ差当つては君に書類の整理をして貰ふ、翻訳をして貰ふ、たまには通訳もやつて貰ふ。もちろん国際場裡のことだから、時間はあくまで正確に、十分の責任をもつて行動して貰ふ。どうだね、一つやつてみる気はないかね。……

 二三日して埴生十吉は、白金今里町にあるJ国商務館をたづねて行つた。
 明治末ごろの外交官に巨きな足跡をのこしたN男爵の旧邸だといふ話は、せんだつても小幡氏から聞いてゐたが、なるほどあのあたり一帯の閑静な屋敷町のなかでも、殊さら樹木の多い一郭の、横町をはいつた奥まつたところに斜めに鉄の門をひらいてゐる外構へは、いかにもそれらしく、まともな勤め先といへば丸の内から日本橋辺のビル街のことを頭に浮べて一も二もなく怖気をふるつてゐた十吉のやうな男には、日々の勤め場所としてまづ気に入つた。これは一種の貴族趣味があるせゐでもあるらしい。
 約束の時間にはまだ少し早いので、その横町の砂利のうへを、暫くぶらぶらしてゐた。登館の時刻はすぎてゐるはずだが、それでも時たま一人二人と、悠然たる足どりで門の中へ消えてゆく外国人がある。やがてそれも絶えた。十吉は退屈まぎれに、木蔦のいつぱいに絡みついてゐる古びた石の門柱へ歩み寄つて、それに掛けてある横ながの真鍮しんちゅうの標札を眺めはじめた。
 真鍮の色のまだ真新しい表面に、D※(アキュートアクセント付きE)L※(アキュートアクセント付きE)GATION COMMERCIALE D'※(アキュートアクセント付きE)TAT DES......と型どほりのフランス語の文字が、四五段ほど浅彫りになつてゐる。DES のあとには構成民族の名が三つも続いて、おそらく長い国号である。そのおのおのの頭字であるSとCとSの三字だけが、わざわざ赤で入れてあるところなど、いかにも新興の多民族国家らしい華やかさがある。いやひよつとするとこの色どりは、おととしの政変――それに伴ふ左党の圧倒的進出の、反映であるのかもしれない。……
 十吉が妙に感服しながら門標を眺めてゐるうちに、ふとうしろの方で、思ひなしか何か忍びやかに砂利を踏む新たな靴音がした。なにげなしに振返つてみると、二十歩ほど向ふの隣屋敷の冠木門の軒さきに白服の男が現はれて、こちらへ寄つてくるところであつた。その男全体の気配から、十吉は本能的に或るものを直覚すると、そのまま身を翻すやうに門内へはいつてしまつた。男は追つて来なかつた。
「なんだ、こんなところまで紐がつくのかい!」
 舌うちしたいやうな、それでゐて変に晴れがましい気持だつた。見知らぬ冒険へ乗りださうとする瞬間の、あのスリルに似た感じでもある。わざと砂利をザクザクいはせながら、大股に歩いた。門のなかは、遥か正面にこんもり繁つてゐる馬車廻しまで、両側は鬱蒼うっそうたる樹林だつた。えのき、けやき、しひ、くぬぎ、さくら……そんな樹の名を、わざと念入りに数へたてて行くうちに樹林が尽きて、最後に公孫樹が一本づつ、両側に番兵のやうに立つてゐる。そこで立ちどまつて、腕時計をのぞいた。
 馬車廻しを越えて、建物の正面二階の破風のところにJ国の紋章の打ちつけてあるのに気がつく。ちやうど朝日をうけて、それが金いろに輝いてゐる。記憶を手さぐりして、たしかあれは三頭の獅子を麦の穂でかこつた図柄だつたと思ひだす。さういへば、その麦穂を更にそとから取巻いてゐる国号の文字も、勿論こんな遠くでは見分けられはしないが、思ひなしかやはりあの三つの頭字だけは、赤く彩つてあるやうな気がする。十吉はふとそんなことを考へ、なぜともなく身の引締まる思ひがした。
 黒塗りのキャデラックが勢ひよく砂利を噛んではいつて来た。みるとその窓には、小幡氏の顔が笑つてゐる。その車が馬車廻しをぐるり一まはりして、また風のやうに出て行つてしまつたのを見送つて(その尻尾の標識にはJ国公使館と、白地の文字が鮮かだつた――)、十吉は車寄せの小幡氏と落合つた。
「いやあ、今朝は起き抜けからの大活躍でね、二三軒まはつて来たところさ。……君が待つてやしないかと心配だつたがね。」
 持前のよく徹る声が、玄関の広間にがんがん響く。まるでわが家に帰つて来でもしたような、傍若無人な大声である。
「実は朝飯にもまだありついていない始末なのさ。……」
と言ひ言ひ、そこへ顔を出した何処か東洋種らしい若いボーイに茶の支度を命ずると、ちよつと待つてゐたまへと言ひ棄てて、横手のドアへ姿を消した。

「このかたが輸入部長のミトローニクさん。採用ときまれば、君はこの部で、このかたの下で働くことになる。……一応ぢかに君の人物を見たいと言はれるのだ。君のことはよく話してあるし、別にこはい人でもないから、暫く話をしてみたまへ。固くならないでね。僕はゐない方がいいだらう。……」
 朝の日ざしをカーテンで受けた、明るい小さなヴェランダである。その一隅に大型の事務卓ビュローが据ゑてあつて、何やら統計表のやうなものが一面に蔽ひかぶさつてゐる。小幡氏が隣の部屋へ消えると、ミトローニク氏が入れちがひに中央の藤椅子[#「藤椅子」はママ]セットのところまで出てきて、腰をおろす。そしてじろりと上眼づかひに、十吉にも坐れと合図をした。
 実は鬼が出るかじゃが出るかと思つてゐた。見知らぬ国へ飛びこむのだ。何に出てこられても仕方がないと観念してゐた。ところが案外にも、まづ現はれたこの人物は、ちよつとアングロ・サクソン系の事務家を思はせる、垢抜けのした紳士であつた。まだ若い。やや不機嫌に寄せた眉根のあたりに、ただよつてゐる一抹の陰鬱さはあるが、こけた頬から張りだしたあぎとへかけて、いかにも敏腕家らしいするどさが現はれてゐる。
 坐つたかと思ふとまた腰を浮かせて、事務卓の方へ長い腕をのばすと、例の統計表の下をごそごそ云はせて、スリー・キャッスルの緑いろの缶を取りだした。器用に蓋を使つて中蓋を切る。あの煙草特有のぢかに心にしみ入るやうな地味な香りが、朝の日ざしのなかにかぐはしく立つ。ミトローニク氏の長い鼻が、その香を受けて敏感にうごめく。一本抜いて火はつけずに、指さきで弄びながら、
「ム、ム……」と、何か言ひだしさうにして十吉の方をみた。ふたたび噤んだ口の下辺からおとがいにかけて、その朝のいかにも正銘のレーザーらしい剃りの冴えが、見る目もあざやかだつた。本格的な切れ味だ、ふと十吉はさう思ふ。
「ム、ム。」
 またしても何か口籠ると、今度はマッチをすつて火を移した。ためらひがちだつた視線も、今ではじつと十吉を見てゐる。意外に優しい、なにかしら懐疑的な眼である。……この人には影がある、と十吉は思ふ。妙に口ごもるところ、それは唖に似てゐるといふより寧ろ、十吉には幸四郎の絶句ぶりが思ひだされて可笑しかつたが、この癖もやはり、この人のもつ陰影感を深める有力な因子にちがひなかつた。
「君はセルブ語を話しますか。」
「ええ、少しばかり。」
 やつと話のいとぐちがついたと、十吉がほつとしたのも束の間で、次の瞬間にはたちまち暗礁に乗り上げてしまつた。「少し」話せるはずだつた十吉の語学が、耳も口もともに、さつぱり役に立たぬことが分つたのである。ミトローニク氏は困惑と同情を半々にまじへた微笑を浮べると、硝子ごしに小幡氏の方をちらつと見やつたが、その時ちやうど朝食がはりのサンドウィッチか何かを頬ばりながら卓上電話にかかつてゐた氏を、わざわざ煩はすにも当らぬと思ひ返したらしく、自身ロシヤ語で助け舟を出してくれた。それにせよ、実地を踏んだことのない十吉にとつては中々の難航にちがひなかつたが、どうやら意志だけは通じだした。
「君は文科をやつたさうだが、商業や一般に経済のことに、興味がもてますか。」
「ええ、持てると思ひます。」
「この事務所の仕事は、随分いそがしいが、……時間厳守パンクチュアルに、忠実になつて貰はなければならないが……」
「忙しいのは平気です。」
「健康は? すこし顔色が蒼いやうだが。……」
「病気をしたことはありません。この顔色は生れつきで……」
 ミトローニク氏はニッと笑つた。が真顔になると、いきなりぽつりと、
「君の政治的態度は?」と訊いた。
 十吉ははつとした。みごとに虚をつかれた形で、はじめのうちは質問の意味がつかめないほどであつた。がやがて、ロシヤでは革命の直後、『お前はどつち側か』といふ問が一般民衆のあひだの一種のモードであつたといふ話を思ひだし、J国でもあの革命同然の急激な政変を経た今日では、同じことが問題になるのかしらと思ひ当つたが、今度はそこで返事につまつてしまつた。青年らしい虚栄心が、ちよつと頭をもたげたのである。
 返事に窮した十吉をみて、それが自分の説明不足のせゐと思つたらしいミトローニク氏は、例の「ム、ム……」を繰返しながら、しきりに言葉をさがすやうな恰好で、円テーブルの上に配達してあつたその朝のジャパン・アドヴァタイザーを眼に近づけてみたり、緑いろの缶を掌のなかで廻転させたりしてゐるが、生憎と相手の分りさうな適当な文句が浮んで来ないらしい。
 そこへ、潮どきを見はからつた小幡氏が、わざと戛然かつぜんたる靴音を二つ三つ響かせながら、ヴェランダに降りてきた。それを見たミトローニク氏は、おそろしく早口になつて、何やら熱心に説明しはじめる。十吉が一ことも分らずにぽかんとしてゐると、やがて小幡氏が例の歯ぎれのいい口調で、
「訊いてをられるのは、何も君の信念なんかぢやないのさ。政治的信念は、右にせよ左にせよ各人の自由だ。ただそれをこの事務所の門の中へまで持ち込まぬやうに気をつけて……いはば自重して欲しいと言つてをられるのだ。あの政変以来、この事務所も何か政治的機関のやうに、えて色眼鏡で見られがちになって[#「なって」はママ]ゐる。それが貿易関係の健全な発展を、さまたげようとする気配すらも見えないことはない。なかにはつまらない事で、この事務所に迷惑をかけた日本人もある。……公使館はいざ知らず、商務館はあくまで商務館だ。そこのけじめをはつきりと附けてゆくといふのが、ここの建前だ。まあその辺のことを、くれぐれも注意して置いてもらひたいと言つてをられるのだ。」
 十吉が一々うなづいてゐる様子を、ミトローニク氏は満足さうに見まもつてゐたが、やがて、
「分りましたね」と念を押した。
「ええ、十分気をつけます。……しかし正直にいふと、今のところ別に僕には政治的傾向はないのですが……」
 ふたりの大人は顔を見合はせて笑つた。十吉は顔を赤くした。

 あとはこまこました話になつて、給料も十吉にはちよつと寝耳に水の大まかな額にきまり、来週の月曜から出ることになつた。登館八時半、退館三時半。昼の一時間の休みを抜かせば、これで六時間労働である。十吉はなるほどと思つた。
 ヴェランダの隣の部屋は輸入部の事務室になつてゐる。先代の男爵が客間に使つてゐたものであらう、二十坪は優にありさうな古めかしい洋室である。壁炉が切つてあり、それを背に巨大な人物が、ロココ風の彫りのある古めかしい大デスクに向つて端坐して、しきりに書類を繰つてゐる。長いことヴュランダの光になれてゐた眼には、印象派の世界からいきなりレンブラントの世界へとび込んだやうな感じである。
 小幡氏はそのデスクへつかつかと歩み寄ると、何やら小声で話しかけた。それに耳を借してゐるのかゐないのか、とにかく暫くのあひだは何の反応も示さずにうつ向いたままでゐた顔が、やがて悠然ともちあがつた時、十吉ははつとした。いよいよ鬼が出たと思つたのだ。それほどにその人物は魁偉かいいな面がまへであつた。堂々たる上体におとらず、ずんぐりと太い頸の根、そのうへに載つてゐる顔の下半分は一めん焦茶色の髯で蔽はれ、その尖端はちよいとJの字がたにしやくれた顎鬚をなしてゐる。発達のいい両の顎骨を赤ちやけた皮膚が覆ひ、ひたひは稍々白ばんで、その先はくりくり坊主に剃りあげた頭につらなつてゐる。いや、これはレンブラントどころぢやない、と十吉は思ふ。仮にこの人物が、尖つた冑をいただき、革のよろいと楯とに身をかため、三叉の槍をついて、静々とニーベルンゲンの歌の頁に立現はれたとしても、まづ位負けの心配はないだらう。……その顔で、にこりともせず、まじろぎ一つしないで、小幡氏の顔を真正面から睨み据ゑてゐる。これが、ブラウエンベルグといふドイツ風の名前をもつ、輸入部の次長であつた。年は五十に近いだらう。
 突然その顔が咳払ひをした。咳、また一咳、四つの壁も為に震撼するやうな、おそらく威厳のある咳払ひである。と思ふと、静かにうなづいて、やをら十吉の方へ眼ざしを向けると、破顔はがん微笑した。……
 目のなかへ入れても痛くない孫を、祖父たちの眺めやるあの微笑である。思ひもかけぬ天候の激変に、唖然とした十吉が却つて身を固くしてつつ立つてゐると、向ふは椅子から立ちあがりざま書類挾みファイルを四つ五つ鷲づかみにし、デスクを大きく廻るついでにそれを書類棚へ抛り込んで、空手のまま、十吉の眼の前に仁王だちになつた。そして片手に例のJ字鬚をしごき、片手で胸を撫であげ撫でおろしながら、
「仕合はせだ……仕合はせだ……」
と、十吉と小幡氏の方へしきりに半々にうなづきかけては、ものの十ぺんほども繰返した。かうしてブラウエンベルグ氏は、雷雲たたなはる英雄の座から悠然と降り立つて、今やカラマンケンあたりの山村の瓢々ひょうひょうたる一好々爺こうこうやになりすましたのである。おそらく廻りくどい道ゆきを経てやうやく掘り当てられた、すこぶる古風な、すこぶる雄大な、真情ゆれこぼれんばかりの悦びの表現がそこにあつた。この人の魂にはまだ古代が眠つてゐる。――笑み崩れたその魁偉かいいな顔をつくづくと眺め、十吉はふとさう思つた。そして差し出された巨きな手の平を、心から握り返した。
 軽やかな靴音が、入口の方から小刻みにして来て、はつとしたやうに停つた。ブラウエンベルグ氏は気軽にその方を振返ると、
「ああ、リーリャ!」
と言つて、素早く小幡氏の方へ促すやうな目くばせをした。小幡氏が十吉を紹介しはじめると、リーリャと呼ばれたその女性は、瞬間かくれるやうに楯にとつてゐたブラウエンベルグ氏の巨体のかげから、その小柄な全身を現はした。亜麻あま色の房々した髪を無造作に断髪にした、頬の豊かな娘である。皮膚の色にも表情にも、どこか東洋的な柔らかな曇りがある。
「イリリヤさん、これがわたしたちの新しい仲間……」と言ひかけた小幡氏の口上が終らぬうちに、
「どうぞ宜しく」と流暢な日本語でいひ、はにかむやうにニッと笑ふと、ちよつとためらつてから手を差し出した。
「どうぞ宜しく。」
 十吉も鸚鵡がへしに言つて、その小さなひやりとする手を握つた。人なつこい笑み皺にかこまれた灰色の眼が、近々とまたたいてゐた。……


 ある友人が十吉を評して、「あいつにはあんまり多量の未来がありすぎる」と言つたことがある。これを別の友人が簡略にして、彼を未来過多症と名づけた。実際、現在への無際限の反撥と、未来への無際限な憧憬とが、十吉の本質をなしてゐるらしい。この後のものが善く働くと、彼に一種苦行僧的な忍耐力や寛容やをあたへることになる。前のものが悪く働くと、浮気つぽい一面が強くあらはれることになる。この両面の平衡を見出さうと、彼は彼なりに苦心はしてゐる。その調和の見出される場所が、恐らく彼の「現在」になるのであらう。今のところこの青年には、まだ現在といふものが形づくられてゐないのだ。
 そんな十吉にとつて、この新しい勤め口は、この上もない生活力の発散場所であつた。朝、登館してみると、ミトローニク氏はもう一時間も前から坐り込んでゐるやうな顔で、スリー・キャッスルを横ぐはへにして、ヴェランダでタイプライターを叩いてゐる。その日を未来へと開く合図のやうな新鮮な音である。ついで小幡氏が颯爽と風を切つて登館する。やがてブラウエンベルグ氏が汗を拭き拭き、あたふたと入つて来、暫く間を置いてイリリヤ・ラグーザナが、いたづらつ児のやうに足音を忍ばせて席につく。ブラウエンベルグ氏が十吉を呼んで、その日の仕事を割当ててくれる。給仕が電報や手紙を束にして、イリリヤ嬢のデスクの上に置いてゆく。彼女は発受信のレヂスター係なのである。やがて電話のベルが鳴りだす。訪問者もちらほら姿を見せはじめる。
 これが総勢五人の輸入部の生活の開幕だ。時間が泡だちはじめる。それは急激に熱と騒音をたかめてゆき、タービン内の蒸気圧がほとんど限界に達するかに感じられる頃がちやうど十二時。あの東洋種らしい丸顔の給仕が、大コップに熱い紅茶をいれて、肉入りのピローグなどと一緒に配つて歩くとともに、機関ははたと停止する。そして猫のあくびも聞えさうな、森閑しんかんとした一時間がくる。
 午後一時。ふたたび時のタービンが唸りを立てはじめるが、もはや音色は朝のそれとは違ふ。初めからもう何かカドミウム性の黄色い音色で、やがてしだいに疲れて、三時ちかくなると石黄オークルいろに変つてゆく。そのあひだ、午前のうちに消化しきれなかつた訪問者の応接。それがやつと片づく頃には、電報の文案が手から手へ乱れ飛びはじめる。朝の申込みが遅れて、今ごろになつて立てつづけに通じる長距離電話。原稿の中絶と連絡の乱脈とに、ゐたたまれなくなつた半狂乱のタイピスト連中が、黄いろい声を立てて出入する。給仕に手伝はせて発信文書に封緘ふうかんをしてゆくイリリヤ嬢の、おとがひの汗、手の甲の汗。……それが週に一度のメール・デーになると、文字どほりの火事場さわぎが現出するのであつた。
 さうしたその日その日のめまぐるしい廻転が、事件と人間との実に思ひがけない組合せをその襞々ひだひだに畳んでゐて、さすがのこの未来過多症も、最初のうちは満足を自覚するいとまもないほど、ひたすら送迎に忙殺されてゐた。刻一刻が、新しい未来を孕みつつ泡だち、泡だつたかと思ふと次の刹那には、また盛りあがつてくる新たな瞬間に席をゆづつて、自分は義務の充足感のなかへ快よくはじけ消えてゆく。そこには音楽の節奏に似た、意外さと満足感との涯しない継起があつた……。

 無我夢中のうちにいつしか残暑が過ぎて、影ふかい日ざしのなつかしい十月になつた。その頃になると、十吉は稍々気持のゆとりが出てくるとともに、ときどき眼をつぶつてあたりの物音を聴き澄ましたり、その眼をひらいてまはりをそつと眺めたりするだけの余裕もできてきた。眼のなじむにつれて、急速に旋回する走馬灯のおもての物のかたちが次第に見分けられて来るやうに、日々のあわただしい移りから月々の緩やかなうつろひの方へ、だんだん瞳孔が合はせてゆけるやうにもなつた。刹那刹那のまどはしを超えて、十吉の心象にはそろそろ季節や歴史のかげが萌しはじめたのである。
 またその頃になると、時の推移の表面にゆらいだり、その陰に見えがくれしたりしてゐる人間の顔も、月の光のもとの花々のやうに、次第に朧ろのなかから立現はれ、くつきりと見わけがついてくるのであつた。
 かうしてその勤め場所は十吉にとつて、刻々に無数の発見とメールヘンとにみちた「森の中の家」に変つてきた。それは今ではもう、彼の青春の揺籃ゆりかごと呼んでいいかも知れない。……

 輸入部の入口側の一角を板壁で区ぎつて、そこが法律顧問のキャビネットに当てられてゐた。顧問はユールマンといふ、これまたドイツ風の名前をもつた男で、年配も恰幅もブラウエンベルグ氏と大体おつつかつつだが、猪首で、猫背で、頭がつるつるに禿げ上つて、その艶々つやつやした卵形の顔にいつも剽軽な笑ひを漂はせてゐる人物である。全体の感じはどことなく膃肭獣おっとじゅうに似てゐたが、事実この人は円転滑脱の域をとうの昔に通りこして、寧ろ常規を逸しがちの所が常態になつてゐるやうな人で、輸入部の連中からは「間借人クワルチラント」と敬称されて親しまれると同時に、些かうるさがられてもゐた。
 十吉が勤めだして間もない頃、ある朝まだ人の出揃はないうちに、このユールマン氏がのそりと十吉の傍へやつて来て、何やら間の悪さうな声で、
「アニさん、済まないが一つ重大なお願ひがある。」
と言ひだした(ハニフといふのが呼びにくいらしく、大抵の人はハニさんと呼ぶのだつたが、それがユールマン氏などになると頭のHまでが消えてしまふのだつた)。曲げにくい猪首をかがめながら、しきりに後頸を指すのを見れば、カラー・ボタンが外れて、カラーが一寸ほどもはみ出してゐる。それまで自分でもさんざん苦心したらしいのだが、肥りすぎてゐる上に、昔風の糊の堅いたてカラーをしてゐるものだから、手先がうまく届かないのであらう。顔を上気させ息をはずませてゐるその様子から、氏が盛んに伸びたり縮んだりして努力してゐた恰好を想像し、十吉は心の中で思はず噴き出さずにはゐられなかつた。ボタンがはまると、ユールマン氏はさもほつとしたらしく、肩を大きく一揺りしてカラーの居ずまひを直し、両手を垂らしたままのペンギン鳥みたいな恰好で、
「ども有難う、ども有難う!」
と、押し出すやうな日本語で繰返しながら、大真面目な感謝の眸をじつと十吉の眼につけて、アンコールに呼び出された音楽家よろしくの身のこなしで、後じさりに退場して行つた。この事件以来ユールマン氏は、十吉の心にとつて親しい人の一人になつたのである。
 この人の電話はおそろしく長い。昼間の忙しい盛りだとさほど目立たないが、朝の間のまだひつそりしてゐるうちだと、その大音声の、語尾の端々まではつきりと言ひ切る馬鹿鄭寧な電話の応対は、輸入部ぜんたいの天井に響きかへつて、近所迷惑なこと夥しい。書類に埋もれて沈思黙考中のブラウエンベルグ氏などは、時たま堪りかねて、荒々しく舌うちすると、例の破顔一笑もろとも、
「やれやれ、また韃靼人だったんにんの天気の挨拶がはじまつたわい!……お暑うござい、奥さまの御機嫌は?……ほら、まだやつてゐる、まだやつてゐる……」
などとまぜつ返す。するとユールマン氏は忽ち聞きとがめ、電話はそつちのけで、
「まあ待て、コンスタンチン! これからまだドイツ流の挨拶が始まるところだ。君には懐かしからう、よく聞いてゐろよ!」
といつた調子で逆襲してくる。そして益々大音響の時候の挨拶が、長々とつづくのであつた。こつちは毒気を抜かれて、黙つて拝聴する形になつてしまふ。そんな風で、賑かさを通り越して寧ろうるさい「間借人」ではあつたが、この人のゐるお蔭で、どつちかといふと謹厳きんげんな輸入部の空気が、打つてつけの時機に巧みにもみほぐされることのあるのも事実であつた。……
 その間にも十吉の世界は、徐々にではあるが輸入部の小天地を越えて、しだいに外界へひろがつて行つた。
 さうした外の世界のうちで、十吉がまづ最初に密接な交渉をもつたのは、何といつてもタイピストの部屋であつた。

 日本人の給仕が三人ゐるのだが、うち二人は会計部や、門内の樹林のなかの別館を占領してゐる農産部に、それぞれ半ば専属の形になつてゐるので、本館は客の受付から二階の用向き、それに輸入部の雑用まで、西川といふひ弱さうな青年が一人で受持つてゐる。午前中はそれでも何とかさばいてゆくけれど、午後になるともう、いくらベルを押してもいつかな姿は現はさない。そこで、殊に遠慮ぶかいミトローニク氏などは、急ぎの書類は自分でタイピストのところへ持つて行つたりする。ブラウエンベルグ氏は立つのが大儀らしく、気長にベルを押しつづけてゐるが、やがて、待ち切れなくなつてこれもあたふたと出てゆき、やがて息をせいせい云はせながら戻つてくる。十吉は初めのうち用心してゐたが、間もなくそれが機密の文書でないことの見極めがつくと、気軽にその用を勤めるやうになつた。のみならず十吉自身の作る送状の類もあつて、これはどうしてもタイピストの手を通さなければならない。中には附きつきりで急き立てて、その場で打つて貰はなければならないやうな書類もある。殊にメール・デーの午後がさうである。そんなわけで十吉は、いつの間にかその部屋の常連の一人になつてしまつたのである。
 タイピストたちは、階下突当りの暗い廊下の奥まつたところにある北向きの洋室に、五六人いつしよに詰め込まれてゐた。採光が悪いので、日中から電灯がつけてある。いくら暑くても吹き抜け風をおそれて廊下の扉をしめ切つてゐるから、一あし踏み込むと若い女の汗と脂粉のえた臭ひが、むつと鼻をつき刺す。なんともいへず鋭い酸性の臭ひである。この特有の温気のなかでタイピストたちは、機銃のやうにはじき出される騒音に聴覚をすつかり鈍麻どんまさせ、眼ばかり神経質に光らせながら、あるひはえしをれ、あるひは却つて毒々しく照り映えて、ひしめき揺らいでゐるのだつた。そこは、外来者の神経をたちまち疲労させるばかりか、中の住み手の若い生命をも目に見えてじりじりと蝕んでゆく、熱帯性の「毒の園」にちがひなかつた。
 この女性の園のなかで、寧ろ冷やかな晶質しょうしつの耀きによつて一きは人目を射るのは、ニーナと呼ばれる若いタイピストであつた。長身の、美しいブロンドの女で、線のよく整つた細おもての端麗な顔だちであるが、その口辺にはいつも何かしら嘲りを帯びた薄笑ひをただよはせてゐる。その口で、細巻の煙草を器用にくはへたまま、傍目もふらず十の指を青蛇のやうにキイの上に躍らせてゐる。おそろしく仕事の早い勝気な女で、時たま何か癇にさはることでもあると、キラリと金属質な声で、
「うるさい!」
と仲間を遠慮なしに極めつけ、その余韻のまだ終らぬ白けた空気のなかへ飛びこんた[#「飛びこんた」はママ]外来者を面くらはせることもあるが、手を休めてゐる姿を見たことがない。そのくせ人の出入りに一ばん敏感なのもこの女で、十吉などがはいつて行つても、又かといつた表情できつと眉をひそめ、澄みきつた眼から紫水晶のやうな光をはなつて射とほすやうに人を見る。……
 それが自分のところへ持つて来た仕事でないことを、こちらの気配で見てとると、注意はすばやく再びキイに吸ひとられてしまふが、こちらがその瞬間を捉へて頷きかけるやうな時には、勢ひあまつて五六字ほども打ち継いでしまふや間髪を容れず、むき出しの両の腕を機械のタブレットへぐいと横倒しにもたせかけ、顎ごと乗り出してくるといつたヂプシー女めいた恰好で、こちらのたどたどしい言葉にさももどかしげに耳を貸す。どうかすると語尾の間違ひなどを、意地わるく一々とがめ立てて、その都度ヒステリックな笑ひ声をたてる。それでゐて、確かに急ぎの書類だと納得がゆくと、彼の手から引つたくるやうに原稿をつまみ上げ、傍の予備の機械へくるりと向き直り、その場でばたばたと片づけてしまふ。……ひどく取つつきの悪い相手だが、呑み込みはいいし、第いち胸のすくやうな早業の持主でもあるしするので、十吉は気ごころが分つてくるにつれて、せつぱ詰まつた場合には大抵このニーナに持ち込むやうになつた。
 分つてみれば結句気のいい女で、侠気おとこぎで出しやばりで機嫌買ひで、そのため損ばかりしてゐるやうな性分なのだ。十吉は次第に、この女の歴史には何か不幸があると、そんな風な気がしはじめてゐた。さういへば、まだ秋口の暑さ盛りだといふのに、早くも黄いろつぽい毛糸の袖無しジャケツを着込んで、汗をかきかき決して脱いだ例しのないのも、いかにもその人らしい感じであつた。

 そんな初秋の或る午後、十吉が小幡氏と一緒に事務所を出て、日吉坂の停留所の方へぶらぶら歩いてゆくと、あとからニーナがやつて来て、追ひ抜きざまにニッと愛想笑ひを投げ、そのまま足早やに遠ざかつて行つた。平生から気がつかないではなかつたが、かうして二三十歩を隔てて遠見にながめると、片脚に何か不自由なところのあるらしいのが目につく。その微かに曳くびつこは、きりりとしまつた足どりで蔽ひかくせぬばかりか、腰や肩さきの薄い布地の揺れ方にまで却つてそれが拡大されて、小股のきれあがつた姿全体までがそのため何か刺々と骨ばつてゐるやうな印象を与へる。……
 十吉がそれとなしに小幡氏に注意すると、氏は眼をほそめて注視するらしかつたが、やがて、
「さあねえ、いい子だが可哀さうに……まさか鉛毒でもあるまいがねえ……」
と、意外なことを言つた。
「鉛毒!……」
「いやまさか! 冗談だよ。……あの子は政変前には、フィウメあたりでオペラの歌姫をしてゐたさうだからね。一時はブダペストの劇場なんかにも出たことがあるらしい。……ああ見えて、年は相当くつてゐるだらうが……ひよつとすると日本の湿気のせゐで、神経痛でも出たんぢやあるまいかね。」
 十吉が、角を曲がつてゆく後姿に気をとられてゐると、小幡氏はくるりとステッキを一振りして、
「あれも政変の犠牲者の一人だ……気性の勝つたいい娘なのに!」
と感慨ぶかさうに独りごち、ふと別のタイピストのことに話題を転じた。
 それはソフィヤ・ヴェルホヴェーツカヤといふ老婦人のことであつたが、このひとの前身がダルマチヤの伯爵夫人であることを、この時小幡氏の話から十吉は初めて知つたのである。久しい前から横浜に住みついてゐたのだが、かなり手広く貿易を営んでゐた夫に死別した上に、政変さわぎで本国の財産を失くし、アメリカに留学させてあつた一人息子ともどうした訳か永らく音信不通で、たうとうあの年をしてタイプライターのキイを叩くことになつたのだといふ。
「あの婆さん、老人の気持の分つてくれるのはあんただけだなんて言つてね、よく僕のところに愚痴やら相談やらを持ちかけて来るんだよ。……こつちもピアノのお弟子さんを世話してやつたりなんぞ、できるだけの相談には乗つてゐるけれどね、ただその……あんたなどはアメリカに知人も多いことだらう、領事団や新聞関係にも顔がひろいことだらうから、なんとかその力で草の根をわけても息子の消息を――などと持ち出されるには、いつもながら往生だ。人の親として、その気持は重々わかるけれど、何せアメリカといつても広うござんすのでねえ!」
 わざとおどけてぼやかした小幡氏の言葉のあとにつけて、十吉はしみじみとこの老婦人の風貌を心に浮べた。年はもう六十に近いであらう。いつもあの部屋の奥まつたところに、一人はなれて坐つてゐて、いたはるやうな手つきでキイを叩いてゐる。ニーナの気ぜはしい叩きやうとは違つて、調子のととのつた滑らかな打ち方であるが、なるほどさう言はれてみればあの手ぶりには、そのむかしダルマチヤの貴族屋敷の一室、夕闇せまるサロンの窓辺か何かで、ひつそりと独りクラヴサンを弾いてゐるとでもいつた風情が、たしかに何処となく消え残つてゐるやうだ。……十吉が勤めだした当初、言葉の不自由さからあの部屋へ使ひに行つても、ニーナなどに翻弄されてまごまごしてゐたとき、奥のはうから柔和なフランス語ではなし掛けて、彼の窮地を救つてくれたのもこの老婦人であつた。それ以来十吉は、英文の書類が専門のこの人とは直接の交渉はめつたにないながら、視線の合ふごとに必ず目礼することにしてゐる。向ふもそれに対へて、いたはるやうな眼ざしで頷き返すのである。昼の休み時間など、輸入部に人影のない頃あひを見はからつて、小幡氏のデスクに寄り添ふやうにして、絶えずおどおどと後ろに気をくばりながら、何やら小声でしきりに訴へてゐる姿も、一度か二度は見かけたことがあつた。……
「時勢の波といふものは、かなりその……何といふか……無慚なものだねえ。……一人々々に罪があるぢやなし、気の毒とは思ひはするが、かと云つてどうにもなる訳のものぢやない。……だがその一方、何ともいへず爽やかなところもあるね。古い言草かも知れんが、嵐のあとに芽ぐむもの……か、つまり新旧の交替だな。僕はかう見えてまだまだ血の気の多い方だから、さうした新しい世代の出現に、変に危なつかしい感じはしながらも、一種いふに言はれぬ魅力を感じるがねえ。……」
「新しい世代と仰しやつても……実は僕もそいつにいきなりお目にかかるつもりで、覚悟をきめてゐたんですが、一向にまだ現はれてゐないぢやありませんか? ブラウエンベルグ氏にしても、あのユールマン氏にしても……」
「いやいや、まだ君の見聞が狭いのだ。そのうちに霧がれてくる。クロワチヤの諺ぢやないが、山は山の前触れなのさ。……見えないところで潮は現にぐんぐん満ちて来てゐるよ。僕には殆どその音が聞える思ひがする。それに、これははつきり断言して置くが、今度の政権はああ見えて決して崩壊も挫折もするもんぢやない。……まあその辺は僕の勘を信じて貰ふんだな。そのうち気の弱い君なんぞは怖気おじけをふるふやうな……」
「鬼でも出ますか?」
「まさか、それほどでもあるまいが。……いや僕も、これでもう二十も若かつたらなあ!」
 あとは笑ひにまぎらしてしまつた。


 イリリヤといふ娘は、どうも分らない。デスクは十吉のと直角に向き合つてゐるので、眼をあげればすぐ鼻さきに横顔がある。そのあひだに何の障壁しょうへきもないのである。それでゐて、どうもよく分らない。のみならず、見てゐるうちに益々わからなくなつて来るやうな顔なのである。
 では何かその線に複雑なところでもあるかといふと、さうでもない。背丈の割りにして顔は大きい方で、ゆたかに盛りあがつた両頬は寧ろ東洋風な単調さである。皮膚の色にも稍々黄味を帯びた濁りがある。鼻はふつくらと鈍角をした鷲鼻わしばなだが、それがちよつと団子鼻に近く、彼女がにつと笑みを含むやうな時には(さう言へばイリリヤは、決して声を立てて笑はないたちだつた――)、この鼻すぢに縦に二三本皺がきざまれて、一種ひとなつこい柔和な愛嬌をかもし出す。おとがひは小じんまりと、先の方がくくれてゐる。眼は、彼は横合ひからひそかに観察しつけてゐるのでよく分るが、上まぶたの皮が襞をなして眼球のうへに垂れさがつた、人類学でいふあの蒙古皺襞もうこしゅうへきに似かよつた構造をなしてゐる。それが彼女のまなざしに、何かかう物静かな瞑想と、親しみぶかい慈愛との影を、与へてゐるやうである。
 立ちあがると小柄でしかも小ぶとりの体線は、お世辞にもあまりすつきりした方ではないが、それを隠さうとしてか、いつもだぶついた服をきてゐる。
 さうした彼女全体のすがたが、十吉に言ひやうのない慰めと安堵の念――いや寧ろ憩ひの感じを与へる。殊にあの聴かん気のニーナと渡り合つて来たり、或ひはまた会計部へ何かの使ひにやられて、未だに苦手の長たらしい数詞のどつさり出てくる問答を、悠揚ゆうようせまらぬ楽天的な大人たいじんの風格をもちながら中々の毒舌家であるステファーノヴィチといふ会計課長だの、大の釣道楽でいつも席のうしろの壁に釣道具一式をそつと立てかけてゐるサフローンといふ耳の遠い出納係だのを相手に、汗だくの態で交はして来たりしたあとでは、この憩ひの感じはまた一だんと強かつた。西洋をのがれて、また東洋の隠れ家に帰つて来た、――何かしらさういつた気持さへもするのである。
 彼はヴェランダから彼女の斜めうしろへ射してくる秋の午前の逆光線のなかに、イリリヤの横顔を置いて、時をりさりげなく書類から眼をあげては、そつと偸み見るのが好きだ。そんな時、彼女の長い睫毛はしつとりと影を含んで、例の蒙古襞をひときは瞑想的に見せる。
 どうかすると午後など、ブラウエンベルグ老人が会議か何かで席に見えず、仕事の閑散な時には、彼女は遠慮がちに煙草をとりだして、そつと火をつけることもある。そのけむりが、今では前斜めに移つてゐる日ざしに紫いろに透けて、ゆるく輪を巻きながら断髪の端から半分のぞいた肉のうすい耳たぶをかすめて昇つてゆく。卓上には本がひろげてある。帳簿類の挟み込んである目の前の木立から、時どき彼女が引きだしてそつと読んでゐる鼠色のよごれた表紙の厚い本である。その頁にじつと眼を落してゐる横顔を眺めてゐると、思ひなしかその睫毛に、微笑が宿つてゐるやうな気がしてくる。何といふしつとりと落着いた、真面目な女だらうと十吉は思ふ。女子大学生といつては何かそぐはない、いつそ旧式に女書生とでも呼んでみたいやうな、地味でひたむきな向学心と、その乳房の下に押しつつまれた多情多恨な心臓との、妙に誘惑的な葛藤と云つたものが感じられる。十吉は彼女の国の若さを想つてみる。そして彼女を、明治時代の小説などに描かれた女書生のタイプや、或ひは『寂しき人々』のアンナ・マールの面影などに思ひ較べてみる。ひよつとしたらこれが、この新興国に生まれつつある女性の一つの型なのかも知れないな、とさへ思ふ。……だがこの想像の底には、何かしら割り切れぬもの、腑に落ちかねるものがある。
 ある日、イリリヤが本を開いたままで席を立つて行つたあとで、ミトローニク氏のところへ呼ばれた帰り、十吉はそつとその本を手にとつて見た。意外にもそれは、ロシヤ語版のプーシキン全集であつた。近々と見れば頁の色も黄ばんでゐるうへに、何か飲物をこぼした汚点しみだの手垢だのでよごれ放題、おまけにかがりの糸もゆるんだり切れたりして、何代の人手に転々としたか想像もつかぬほどの大時代物である。十吉はぐいと胸に迫るいぢらしさを感ぜずにはをられなかつた。
 帰つて来て静かに坐ると、また本に眼を落したイリリヤに、頃合ひを計つて、
「プーシキンはお好きですか?」
と聞いてみた。彼女はちらと動揺の色を見せたが、こちらは振向かずに、例の鼻すぢの皺をたたんで謎のやうな微笑みを浮べると、
「さあ……よく分りません。……でもロシヤ語は勉強しなくてはなりませんから。」
と、日本語で独りごとのやうに言ひ、頁を折つてそのまま本立へ戻した。口数のすくない娘だ。……

 イリリヤは変化の多い女である。どうかした拍子に、まるで別人のやうになつてしまふ。
 はじめは亜麻色の髪の毛かと思つてゐた。ところがそれが、光線の当り工合ひとつでぐつと濃くなつて、ほとんど栗色に見えることがある。大体の傾向からいふと、夏のうちはたしかに明色だつたものが、秋ぐちから次第に秋の深まりゆくのにつれて、目だたぬながら段々と色合ひがくすんで、暗色に近づいて来たやうな気がする。本当のところは、彼女の髪は寧ろ茶褐色なので、それが光線の含む影の分量によつて、敏感に影響されるだけの話なのであらう。
 どうかするとイリリヤの顔いろは、平生その表面をうつすらと蔽つてゐる鈍い曇りを吹きはらつて、ぱつと薔薇色に透けて見えることがある。そのとき彼女の額には若さが輝き、十吉はそれを実に美しいと思ふ。がその反対に、時によるとその顔いろが、なんともいへず不愉快な黄土のやうな色に濁つてしまふことがある。あの薔薇いろは一時間かそこらで跡形もなく消えてしまふのに、一たん黄色くなつたら最後、それはどうしても二三日はつづく。眼ざしまでがとろりとして、生気といふものがまるで失せてしまふ。ふだんから無口な彼女が、目だつてむつつりとして、不機嫌に眉根をよせさへしてゐる。彼はさういふ彼女を醜いと思ふ。こちらまでが重苦しい気分に引き込まれてしまふ。最初は風邪でもひいたのかと思つた。或ひはそのため服用したキニーネ剤か何かのせゐかとも思つてみた。そのうちだんだん、どうやらこの現象が大体ひと月くらゐの間において、殆ど定期的に現はれることに気づきはじめた。尤もそれをはつきり確かめるほどには、十吉は閑人ひまじんでも物ずきでもなかつたけれど。……
 さういへばイリリヤの眼も、彼が最初に感じたやうな単純な灰色ではないことが分つた。むしろ灰碧とでも名づけたいやうな色が、基調をなしてゐるらしい。それが刻々の光と影の変化で、微妙なニュアンスを帯びるのである。殊に不思議なのは、どうかした拍子に、その眼が濃い茶色にさへ見えることであつた。すると彼女の顔は、ほとんど完全に東洋人の顔になつてしまふ。……ラグーザナといふ彼女の苗字から、十吉は彼女の生家をあのラグーザの港にむすびつけて考へてゐた。アドリヤ海に臨んで、橄欖樹かんらんじゅにかこまれた、美しい海市である。彼女の眼に一抹の碧の流れをみとめたとき、彼にはそれがいかにも生まれ故郷の海光の照り返しであるかのやうに思はれ、自分の想像に何か有力な保証を得たやうに考へたものである。けれど裏切りはその後あまりに頻々とおこつた。彼はしだいに、彼女の家の血すぢが、アドリヤ海をはなれて徐々に北へ移りゆき、そこの血と混りあひ、つひにはスロヴェニヤの山地を越えて、ハンガリヤの血をすらまじへるに至つた経路を、さまざまに想像してみるやうになつた。彼女の皮膚の色、その面だち、殊には眼の色をふかく究めれば究めるほど、どうやらこの想像が一ばん真相に近いやうに思はれてくる。ひと口に言へば、彼女のもつてゐるのは非常に複雑なまじり方をしてゐる混血の美しさであり、またその醜さなのではあるまいか。……
 暑気のいつになく永びいたその年も、十月が末になると、さすがに朝夕はめつきり肌寒さを感じるやうになつた。そのやうな或る朝、十吉が電車の事故ですこし遅れて登館して、輸入部の入り口の釘に合オーヴァをかけてゐると、部屋の中で時ならぬ賑やかな気配のしてゐるのに気がついた。衝立のかげから半身をのぞけて見ると、部屋の中央の空地にイリリヤが佇んで、トン、トン、トンと足拍子をとりながら、くるりくるりと踵のうへで旋回して、今しも向ふむきに動作を収めたところであつた。
 ブラウエンベルグ老人が、まだ火の気のない壁炉の前に立ちはだかり、腕ぐみをして、例の魁偉な相好をもみくしやに笑み崩しながら、神妙に見物してゐる。見物されてゐるイリリヤはといふと、これまでついぞ見かけたことのない真新しい紺のブラウスを着て、両肘を軽く張り、両手を腰に置いてゐるが、その恰好でもう一ぺん、トン、トン、トンと足踏みをして、軽快とは義理にも言ひかねるが、彼女のからだつきにしてはまづ小器用に、くるりと一旋また一旋した。十吉はあのコサック踊りに似てゐるといふ、クロワチヤの民間舞踊を思ひ浮べた。
 まだ続くかと思つて見てゐると、そこでぱつたりと動作を打ちきつて、両手をおろし、はにかむやうな後ずさりで自分の席へ近づきながら、いつになく晴れ晴れとはずんだ声で、
「いかが、この裁ちやう?……同志的で、よくはありません?」
と批評をうながした。
「は、は、は、同志的か……なるほど、なるほど……いやよく出来てゐる、よく出来てゐる……」
 ブラウエンベルグ氏の讚辞に、ちよつぴり苦笑の色がまじる。それには気づかず、こちらは無邪気に、心配さうに、
「うしろ姿、変ぢやありません?」
「うしろ姿もなかなか上出来だ。イリリヤ。……自分で作つたの?」
「ええ、自分で。……一週間かかりましたの。」
 得意気に言ひ放つた彼女は、ふと十吉の姿をみとめると、ぽつと正直に頬をあからめ、そのまま無言で席に坐つてしまつた。
 その日以来十吉は、この素人細工まるだしの、かなり不恰好な事務服すがたに日夕なじむことになつたが、それを見るたびに、「なるほど同志的か!」と妙に感服もされ、またある朝の束の間の旋回舞踊も記憶に呼びだされて、ますます彼女が分らなくなつてゆくのであつた。

 しかし、そんな平和な日々がいつも続いてばかりゐるわけではなかつた。この事務所は、十吉も初めてその門をくぐつたそもそもの第一日に直覚した通り、外からの風あたりもかなり強いはずだつたし、内部にはまた内部で、大小の低気圧が絶えず発生をつづけてゐるに違ひなかつた。ただ十吉は今のところ、比較的無風帯に身を置いてゐるといふだけのことであつた。勿論それでも、時には彼の面前で雷雨ぐらゐは発生したのである。
 商務代表はKといふ痩せぎすの温厚な紳士で、公使館にも椅子をもつてゐるので滅多にこの事務所には姿を見せない。午後など、ラケットを片手に軽々と自動車から降り立つて、二階へあがつてゆくところなどを見かけることもあつたが、さてその二階のどこに代表の部屋があるのかさへも、十吉はよく知らない。二階はあくまで彼にとつて神秘境であり、また一種のタブーでもあつた。(これに就ては小幡氏があらかじめ或る警告を彼に与へてゐたのである。)
 代表がそんな風だつたから、事務所の日常の全権は、副代表のジルコーヴィチ氏が握つてゐる。見あげるやうな長身で、中肉、禿でた額、こめかみにいつも浮んでゐる癇癖かんぺきの筋、炯々けいけいといふよりは寧ろ冷徹な眼光、とほりのいい幅のひろい声音、独往無礙どくおうむげなその濶歩かっぽぶり、――小幡氏の話では、政変前はアグラムの有名なニーシュ百貨店の総支配人をしてゐたといふことだが、そんな出身とはちよつと受取れぬほどの、見るからに精悍せいかん気魄きはくと武人型の峻厳しゅんげんさが、さすがに円熟の風格のうちにふはりと包まれながら、眉宇びうにも一挙一動にもみち溢れてゐた。そのキャビネットは、例のタイピストの園に隣つた北向きの小さな一室で、十吉も書類をとどけに二三度出入したことがあるが、その都度ひやりと背筋の寒くなるのを禁じ得なかつた。
 土曜日など、十二時すぎても仕事が片づかず、輸入部はじめ各室ともタイピストの金切り声に彩られて湧き返つてゐる最中、このジルコーヴィチ氏が悠揚たる薄笑ひを楚々そそたる口髭にたたんで、追つ立てるやうに手をおよがせながら、
「さあ、お仕舞ひだ、お仕舞ひだ!」
と、部屋ごとデスクごとを廻つて歩くことがある。そんな時の氏は寧ろうきうきと快活で、声も決して威嚇的なものを含んでゐるわけではないのだが、それでゐて机の上を鞭でぴしりぴしりと叩いて廻るくらゐの効果は充分にある。こちらが少しでも愚図つかうものなら、忽ちキラリとその眼が一閃するので、流石のブラウエンベルグ氏ですらこの手に掛つては、にやにや笑ひながら立ちあがつて、早々に店仕舞ひにかからなければならない。おそらくジルコーヴィチ氏は、紀律そのものを愛してゐるのではあるまい。寧ろその秋霜烈日しゅうそうれつじつの命令が立ちどころに履行されてゆく爽快味を満喫してゐると言つた方が、当つてゐるかもしれない。ともあれこの人の通つて行つたあとは、まるで夕立がさあつと通りすぎたあとのやうな爽かさであつた。
 この剽悍ひょうかんな専制君主も、時にすこぶる子供つぽい滑稽な一面をまる出しにすることがあつた。ある日、暫く席をあけてゐたブラウエンベルグ氏が、いつにない興奮の面もちで、床板を踏み鳴らしながら戻つて来た。それからちよつと間をおいて、顔色の蒼い給仕の西川が、一脚の椅子をかかへながらおどおどとはいつて来て、ブラウエンベルグ氏に何やら小声でしきりに懇願しはじめた。その中に、ジルコーヴィチさん、ジルコーヴィチさんといふ名が盛んに出る。老人は見向きもしない。荒々しく書類をめくつてゐるその指が、怒りにわなわなと顫へてゐるのが、遠目にもはつきり分る。しまひに説明の言葉に窮した西川は、老人の坐つてゐる椅子の背に手をかけて、それも今もつて来たのと取替へたいといふ身振りをして見せた。途端に老人は、例の轟くやうな咳払ひを一つすると、憤然と西川の手を振り払つた。西川は、はふはふの態で逃げていつた。
 暫くすると今度は年長で、セルブ語もちよつとかじつてゐる倉本といふ給仕がやつて来た。気転の利くこの青年は、にこやかな微笑をふりまきながら、何とか老人を口説き落さうと懸命の様子だつたが、ブラウエンベルグ氏の剣幕はいつかな柔らがない。やがての果に、烈しく頭を横に一振りすると、
「いや、断じて俺は坐つてゐる!」
と、厳然げんぜんとして宣告した。倉本もこれには辟易して、頭をかきかき退却しながら、十吉のデスクに寄つて、
「弱つたなあ、埴生さん。なんとかなりませんかしら。……実はジルコーヴィチさんが痔が出たといふので、是非ともあの椅子を貰つて来いと、先刻からしきりにおむつかりなんですがねえ。」
 さう聞いては益々、十吉などには手を出せたものではない。
 一体ブラウエンベルグ氏の使つてゐるデスクは、先代の男爵時代からの遺物で、バロックまがひの典雅な彫りのある相当の古物であつた。椅子もそれに合はせて造つてあつて、もたれが高く、脚が優美な彎曲わんきょくをなして、なかなか凝つた意匠である。「バロンの椅子」といへば、このデスクと椅子とを引つくるめた総称でもあれば、また輸入部次長の地位の称号でもあつて、館内一同の揶揄やゆと羨望の的になつてゐたのである。のみならず、その椅子のシートにはクションがなく木膚きはだのままになつてゐるので、夏分はひえびえして坐り心地がいいし、殊に日本のやうな湿度の高い土地では痔除けの護符として、外人にとつて甚だ魅惑的な存在であることを承知して置く必要がある。思ふにジルコーヴィチ氏は、ふとしたこの疾患しっかんの発作をきつかけに、かねてからの侵略の野望を遂げようと思ひついたものであらう。
 それなり給仕も姿をあらはさず、ジルコーヴィチ氏自身も馬を陣頭に進めては来なかつた。わが老人の敢厳たる抗争は、みごとにバロンの椅子をその原位置にとどめ得たわけである。……

 そんな小喜劇を前ぶれに、やがて一陣の颶風ぐふうが輸入部に襲来した。十一月に入つて間もない頃で、朝のうちから電灯をともすほどの薄暗い日だつたが、午後になると寒々と小雨さへ降つて来た。ブラウエンベルグ氏は壁炉にはじめて薪を焚かせると、しきりに豪壮ごうそうな咳払ひをしながら、ひとり満悦の態だつた。
 その午後おそく、ぽかぽかと部屋は温もつてくるし、外にはまだ雨の音がしてゐるしで、退けの時間がきても誰ひとり立ちあがる気になれず、十吉も何かうとうとした気持で先月の輸入統計表に数字を書き込みなどしてゐると、不意にヴェランダで高調子の話声が起つたのである。
 いつの間にかジルコーヴィチ氏が来て、ミトローニク氏と話をしてゐた。ひよつとすると部屋の中の者は、誰もそれに気がついてゐなかつたかも知れない。それほど一同うつらうつらと夢み心地でゐたのである。
 はつと気がついた時には、それはもう怒声であつた。ジルコーヴィチ氏の長身が既に立ちあがつて、温気にくもつた硝子を背景に、狭いヴェランダの敷石のうへを激しく行きつ戻りつしてゐた。一方ミトローニク氏は坐つたまま、きつと首を上げ、相手の顔をたえず視線で追ひながら、低声ではあるがいつにない力づよい調子で、怒声の合間を縫つて抗弁をつづけてゐる。よくよく思ひつめたといつた風の、珍しく決然けつぜんたる態度である。何しろ突然のことなので、争ひの内容は皆目わからない。部屋では一同固唾かたずをのんでゐる。圧へるやうな声と怒声との応酬は、なほ暫くのあひだ続いた。
 そのうちにミトローニク氏も立ちあがつた。みると籐テーブルの上に片手をついて、顔をうつむけ、胸を波うたせて、例の「ム、ム……」を繰返してゐるらしい様子である。そのとき、ジルコーヴィチ氏が戞然かつぜんと靴を鳴らしたかと思ふと、テーブルの上にあつた書類をばりばりと揉みくしやに丸め、力まかせに床へ叩きつけた。はずみにひよいと部屋ざかひのしきいの上へ飛びのつて、向ふを眼下に見くだす仁王立ちで、
「だから俺は……ジューは好かんといふのだ! だから俺は……ジューは好かんといふのだ!」
と、たてつづけに面罵めんばを浴びせかけ、そのまま踵を返すと、大股で部屋を横ぎつて出て行つてしまつた。
 今度は、颱風たいふう一過とは行かなかつた。白け返つた空気のなかで、暫くは一同ひそりともしない。やがて小幡氏が、さも意を決したといふ思ひ入れで席をたつと、ジルコーヴィチ氏のあとを追ふやうに、靴音たかく出て行つた。それが扉のかなたに消えると、部屋はまた重くるしい沈黙に返る。
 とつぜん板壁の向ふから、「間借人」の頓狂とんきょうな声が起つた。それが、
「だから俺は……好かんといふのだ! だから俺は……好かんといふのだ!」
と、厭といふほどアクセントをつけて、鸚鵡みたいに繰返すと、「へつ!」と吐き棄てるやうな奇声を発し、帰宅するのであらう、ビュローの繰り蓋をがらがらつと手荒く閉めた。そして、眼のふちを赤らませた顔を衝立のかげから覗けると、「さよなら!」と取つてつけたやうな挨拶をして、これも靴音たかく出て行つてしまふ。部屋は三たび沈黙に返る。
 いよいよ息づまるやうな、なんともやりきれない静寂である。そのなかで、ミトローニク氏が身じろいだ。足もとに転がつてゐた書類の残骸を拾ひあげると、それを籐テーブルの上にのせ、がくりと椅子に腰を落した。目の前の缶から手さぐりに煙草を一本抜いたが、指にはさんだまま、その手で頬杖をついた。……
 そのとき、今まで煖炉の上の猫のやうに眼をほそめて、じつと前方に見入つてゐたイリリヤが、そつと音もなく席を立つた。十吉は何かどきりとした。彼女は中腰になつて、卓上の書類をかき集めると、そのままヴェランダへ降りて行つた。
 籐テーブルの上に書類をのせ、抑揚も音色もふだんと少しも変らぬ声で、
「レオニード、署名を。」
と言ひ、相手が頬杖を解くのを待つて、テーブルの上の灰皿を引きよせ、何気なくマッチをすつて、ミトローニク氏の方へさしつけた。
 その火影がぽおつと赤く二人の顔を照らし出すほど、室内はもう暗くなつてゐた。十吉は振返つて、やはりその火影を見てゐるブラウエンベルグ老人の顔にほつと安堵の色のうかんだのを、朦朧もうろうたる幽暗の中にみとめた。……


 そらの色が澄みかへつて、美しい秋日和がつづくやうになつた。
 ざつと千坪はあらうと思はれる宏大な庭は、見わたすかぎりの芝生で、その中ほどに互ひに遥か間をおいてヒマラヤ杉が四本、やや不規則な平行四辺形の頂点を形づくつてゐるだけだ。それが何となく、四人対舞の中世の貴婦人が、輪骨のはいつた広い裳すそをちよいとつまみ上げ、高い仮髷つけまげの首をかるくかしげて、対角線どうし会釈をしてゐる恰好を思はせる。五本目の杉はこの群をはなれて、庭の正面のやがて爪先くだりになつてゆく斜面の中途にぽつりと生えてゐる。その先は急な崖をなしてゐるので、庭の中央に立つてみても、その方角には空の色のほかには何も見えない。
 夏から初秋にかけて、昼休みなどにはその四本のヒマラヤ杉の蔭が大賑はひであつた。今ではみんなそこから出てきて、樹かげの繁華はんかは芝生に奪はれてしまつた。杉のひく影が日ましに長くなつて、芝生一めんに秋の日ざしがかぐはしい。
 輸入部の人々はみんな外からかよつて来てゐたが、日本館の方には所員の家族が相当たくさん住んでゐるらしい。それは事務所に使つてゐる洋館と、短い渡り廊下で接続した一郭で、ほとんど総二階になつてゐるうへに、ちよつと天守閣といつた感じの三階までが、屋根の中央に載つかつてゐる。古色蒼然こしょくそうぜんたる建物だが、すこし詰めたら十家族ぐらゐは住めさうだ。
 朝九時、――その日本館の西端の、鍵の手に突き出たあたりの日だまりに、寝台のマットが二枚、かならず乾されるのが例である。それがVの字を逆さに立てたやうな恰好で、まぶしいほどに光を吸つてゐるのが、ヴェランダに出て眺めると目にしみる。あの部屋に住んでゐるのはどの家族だか知らないが、おそらく時間の正確な、きれい好きな奥さんにちがひない。いい習慣のよびおこす快感。
 十時、――おそい朝のお茶をすませ、身じまひを終へた奥さん連中が、西側の二本のヒマラヤ杉を中心にして現はれる。子供づれもある。乳母車を押して出てくるのもある。朝着のさわやかなワンピースで、佇んだり或ひは横坐りのたくましい腰の線が、一ばん純粋なあらはれを示すのもこの時間だ。それは疲れてゐない。それは精気にみなぎつてゐる。熟睡のあとの野蛮な健康感。
 十二時、――奥さん連は出払つて、ほとんど芝生に姿を見せない。唯ひとりの例外はミトローニク氏の奥さんで、尤もこれは遊びに来るのではない。そのくせ三日にあげず、外からヴェランダに廻つてくる。フランス扉がしまつてゐると、細い指さきでこつこつと叩く。そして昼食中のミトローニク氏と何やら小声で話をする。その対談はかなり長くつづくこともあるが、そのあひだミトローニク氏の声は、気のなささうな生返事のほかは聞えない。やがてハンド・バッグの金具がぱちんと鳴つて、奥さんは肩をそびやかして、また庭から帰つてゆく。その肩つきが時に満足を時に不満を、かなりはつきりと現はしてゐる。背の高い、何か硬い感じのする婦人である。
 三時、――芝生はショピング帰りの奥さん連で、さながら遊歩場みたいな華やかさである。あつちに一団、こちらに一団と、その色どりが増してゆく。なかには美容院がへりの、しきりに帽子を気にしてゐるひともある。ブラウエンベルグ夫人も時たま姿を見せる。子供の手を両わきに曳いて、退け時になるとヴェランダの下まで来て待つてゐる。割合に小柄な婦人で、白粉気のないすつきりした顔が、ひどく若く見える。子供を連れてゐなかつたら、ブラウエンベルグ氏の娘にも見えさうである。思ふに氏は、老けて見えるのか晩婚なのか、そのどつちかであらう。店仕舞ひになつて一同が席を立つと、子供は事務室へあがつてくる。女の児と男の児である。その手を今度は氏が両わきに曳いて、相好を崩して何やら話しかけながら、帽子を阿弥陀にかぶつて悠々と帰つてゆく姿は、なんともいへず楽しい観物である。ユールマン氏の奥さんといふのは見たことがない。この人は独身なのかも知れない。

 イリリヤが二週間の予定で神戸へ出張して行つた。神戸はもともとこの商務館の発祥の地なのだが、今では船荷の積込み積卸しや傭船関係の仕事を主として、支部のやうな形で残つてゐる。
 イリリヤの出張中は、自然その仕事の一部は十吉の肩にかかることになつたが、ちやうど大きな買附が一段落を告げて、次の仕事の下準備にそろそろ掛らうといふ時期だつたので、午前中などは頗る閑散であつた。
 その下準備の一つとして、古い書類を整理したり書抜いたりする仕事があつた。開設以来の書類綴りを引つくり返して見て、必要な商品の価格の変動をシーズン別に調べてみたり、当時の取引先や、取引の数量や、その取引のあとで起つた本国の買主側の不服の有無や、それらの店の現在の信用関係を調べたりするのである。ブラウエンベルグ氏からこの仕事を托された十吉は、文書庫で時間をすごすことが多くなつた。
 文書庫には土蔵が当てられてゐた。土蔵は日本館の一ばん西のはづれにある。そこへ往くには、うねうねと曲つた長い中廊下を通つてゆくのである。うす暗い廊下で、おまけに床板がいたんでゐたり踊つてゐたりするので、往復はあまりいい気持ではない。しかし日に何回となく往き来してゐるうちに、しぜん日本館の生活を、今度は裏側から眺めることになる。尤も内側は依然として閉ざされてはゐたけれど。……
 その沿道の風物(十吉にとつてはそんな感じであつた――)は、実に変化に富んでゐた。先づだだつ広い台所がある。横目でにらんで通ると、東洋種の肥つたコックさんが、例の丸顔の少年を相手に、卵の輪切りの山を築いてゐることもある。ピローグを盛んに揚げてゐることもある。キャビアを分厚に塗りたくつたパン片が、三畳敷ほどもありさうな配膳台にぎつしり並べてあることもある。午後おそくだと、料理はもつと複雑で本格的である。よく働く人たちだ。尤も時には、二人で仲よく舟を漕いでゐることもある。
 台所を除けば、あとの部屋々々はどれもみんな、壁や襖でとざされてゐる。建てつけの狂つた襖ばかりで、そのすきまに板ぎれを当てがつたりして、五寸釘で甚だ厳重に打ちつけてある。朝のうちだと、思ひもよらぬ襖のかげから、パンの焼ける芳香がぷんと鼻をつくこともある。珈琲の香りが高く匂つてくることもある。独身ものの学生か何かであらうか。それとも朝寝の夫人連でもあらうか。さういへば十時すぎても、やつと目を覚ましたところと見え、寝台がギイと鳴つたりすることもある。どうかすると、ぱたりとゆかのスリッパへ両足をおろす音も聞える。そんな時には、もしや自分の心ない靴音が、その人のまどかな夢をやぶつたのではあるまいかと、十吉ははつとして、爪先だちに行き過ぎる。行き過ぎながら、心の隅に巣くつてゐる小鬼が、はて今の物おとの主は肥つた人だつたらうか痩せた人だつたらうか、男だつたらうかそれとも女だつたらうか、年恰好は女ならさしづめ……などと、途轍とてつもないことを囁きはじめるのを十吉は感じる。彼は苦笑しながら、この空想にちよつと気を惹かれる。しかも日とともに、だんだんその鑑定力の養はれてゆくのを感じて、何か空恐ろしいやうな気持にもなる。
 廊下ではめつたに人に行き逢ふことはなかつたが、それでもやがて二人ほど婦人の顔を見覚えた。と言ふよりは寧ろ、かねて芝生のうへの遊歩の群のうちで、遠見ながらそれと特徴を見わけてゐた婦人の胴体に、二つだけ首がくつついたといふわけである。一つは色白のぷくりとした丸顔で、それでなくても大きな眼を途方もなくぱつちりと見開いてゐる。寸のつまつた丸まつちいからだをして、歩きつきもゴム人形そつくりの、ブロンドの女である。もう一人は、下ぶくれの大人びた顔をいつも濃いオークルに塗りあげてゐる婦人で、栗色の髪の毛が実にみごとな渦をなして巻き昇つてゐる。ルイ王朝時代の仮髪をもつと大袈裟にすれば、そんな形になるかもしれない。ちよつと明るいところですれ違ふと、径一寸ほどの髪の輪が無慮無数にとぐろを巻いてゐるのが見え、一種不気味な壮観をなしてゐるが、しかもその一つ一つの輪が針金細工ででもあるかのやうに、ぴんぴんしてゐて崩れない。それが天然の髪だとすれば余程ふしぎな髪の毛であるが、あとで思ひ合はせてみると、それは電髪でんぱつなるもののそもそもの原始形態だつたらしいのである。
 一たいJといふ国を形づくつてゐる民族は、東から西へ順に、中世のころバルカン半島を劫掠ごうりゃくして廻つたトルコ軍隊の風俗をとどめてゐる民族と、ギリシャ・トルコ・スラヴの三つの風俗を合体したうへ赤と黒のギリシャ帽をかぶつてゐる民族と、さらにその綜合風俗のうへにハンガリヤ風の広ぶち帽をかぶつてゐる民族と、この三様に大別される。といふ話である。ところが婦人だけは不思議にも、あのけばけばしい色彩の晴着姿と、質素な野良着すがたとを以て代表される昔ながらのウクライナ・スラヴの風俗を未だに固く守つて動かず、これは精神的な節操の正しい証拠だと物の本にもほめてある。それは兎に角、この連中が日本の港に上陸するや否や第一にする仕事は、婦人も男子も競つて最新流行の洋服をあつらへることなのであつた。今さうした欧米型の服を想像のなかで脱がせて、同じく想像のなかであの紳士この淑女に、その本来の着附けをさせてみたらさぞ面白からう。……閑な時など十吉は、ふとそんなことを考へるのだつた。時にはそれを実行して楽しむこともあつた。
 土蔵のなかに一人ひつそり坐りこんで、ちよろちよろする鼠の群と闘ひながら、うづたかい埃を払ひ払ひ、書類綴りをあれこれと選り分けてゐる最中にも、どうかするとそんな空想の続きがふと現はれて、思はず彼を微笑させるのであつた。綴込みの中には神戸時代の書類も多かつた。それを繰つてゐると、自然にイリリヤのことが念頭に翳つてくる。だがこれはどうしたわけか、そんなとき彼の心に描き出される彼女は、ウクライナ娘の風俗をさせた面影などではなくて、あの無造作な仕事着をきた現実の彼女が、現実の神戸の埠頭はとば通りを歩いてゐる姿であつた。……

 或る午後、十吉が書類綴りを一抱ひとかかへ持つて土蔵から戻つてくると、玄関の広間の電話が突然けたたましく鳴り出した。荷物をおろして受話器をとると、交換手が下関から長距離電話だといふ。一たいこの電話は、二階へ直通になつてゐて、いつもは必ずスヰッチが上げてある筈なのだ。十吉はそれが腑に落ちなかつた。しかしあたりに給仕の姿もないので、仕方なく耳をすましてゐると、やがて向ふの人が出てきた。外国人である。
 外国人との電話は、市内通話でも苦手なところへ、相手がひどくきこんでゐて、おまけにクロワート訛りがひどいらしく、最初のうちは殆ど一ことも聴き取れない。もつと悠くり、もつと悠くりと呶鳴どなり返してゐるうちに、やつと代表附き秘書のカウモーヴィチに用があるといふことが分つた。
 二階はもともと禁断にしてゐるので、給仕の名を呼んでみたが、あいにく誰も出てこない。通話時間のきれるのも気になつて、そのまま階段を駈けあがつた。とつつきの大きな部屋は輸出部になつてゐる。そこで秘書の部屋をきくと、左の廊下の突当りだといふ。その扉をノックしたが返事がない。ノブを廻すと錠がおりてゐる。そのすぐ横の扉も、引返すついでに開けてみたが、中はやはり空つぽである。代表のキャビネットらしく、広々とした立派な部屋であつた。廊下を小走りに戻つて、階段の横手の小部屋の扉を叩いた。返事がないので開けてみた。ここにも人影はない。ふと左手の壁に扉のあるのが見えたので、思ひきつてそこまで行つて、その戸をノックしてみた。稍々間をおいて、今度は中から返事があつた。聞きなれぬ男のだみ声で、あとで思へば確かに厭な予感があつた。
 十吉は勢よく扉を押しあけると、とたんに一歩ふみこんで、
「カウモーヴィチさんは?」
とたづね、ぐるりと中を見廻した。そしてはつとたじろぐと、そのまま棒立ちになつてしまつた。それほど、中の空気には只ならぬものがあつたのだ。
 それは小さな部屋であつた。中央に青羅紗をかけたテーブルがあつて、それが床の大部分を占領してゐる。正面に赤ら顔のでつぷりした男が掛けて、十吉の顔をじろりと見た。今の声の男らしい。テーブルの左辺に、細おもての若い男が坐つてゐる。その傍に、青つぽい背広をきた長身の男が直立してゐる。みんな見たこともない顔ばかりである。そして右手の、カーテンをおろした窓の下には――肘掛椅子に身を押し込むやうな姿勢で、一人の男が顔を伏せて掛けてゐる。その脳天の恰好が目に入つた途端に、これは見覚えがあると思つた。茶色のまばらな髪の毛。……
 そのとき、直立してゐる男が手を大きく外へ振つた。出て行けといふ合図である。十吉は吾に返ると、一礼して扉をしめた。中には電灯がついてゐた。……さうした一切がほんの一瞬間の瞥見べっけんであつた。
 階段をおりながら、まるで眉間に一撃を喰つたあとのやうな目まひを感じた。厭なものを見たと思つた。同時にまた、たうとう見てしまつた! といふ感じでもあつた。そのくせ一と所だけ霧がかかつてゐるやうに、咄嗟にはあの疎らな毛の持主の顔がどうしても浮かんで来ないのだつた。
 おりきつて、受話器のはづれてゐるのに気がついた。黙つてそれを元へ戻した。口を利く気がしなかつたのである。がちやりと受話器のかかつた音で、ぱつとその男の顔がひらめいた。出納係のサフローンだ。あの釣道楽の……
 その日は寝るまで、不快な後味が消えなかつた。

 会計部へは十吉も日に二三度は用があつた。大抵はサフローンで足りる用件である。その翌る朝いつて見ると、彼はまだ出てゐなかつた。午後もたうとう姿を見せなかつた。楽天家の会計部長が、
「サフローンさん無い。わたし忙しい。困つた、困つた!」
と、片ことまじりの日本語で大仰に両手をひろげておどけて見せた。サフローンがゐないと、十吉はこのステファーノヴィチ氏を煩はさなければならないのである。
 出納係はその翌日も出て来なかつた。翌々日も。……五日ほどすると、空つぽの椅子のうしろの壁に掛けてある釣道具の袋が、妙に淋しく眺められた。十日ほどすると、その椅子のレザーのシートにうつすらと埃のたまつてゐるのが、冬の日ざしに透けて見えるやうになつた。
 その頃になると、サフローンが失踪したといふ風聞が、十吉の耳にもぼつぼつはいりはじめた。家が釘づけになつてゐるなどと、見て来たやうなことを言ふ人もあつた。まさかと一応は疑つてみたが、現にああした場面に偶然ゆき合はせてゐる以上、噂を否定する根拠を一ばん持たないのは却つて十吉なりに違ひなかつた。査問……制裁……そんな不吉な想像が、その都度うち消されながらも、あの日以来彼の胸のどこかに巣くつてゐることは事実であつた。だがあの男が何をしたといふのだらう? 十吉は仕事が離れてゐるので、別に深い交渉をもつたことはなかつたが、その朴訥な、どことなく飄逸な、耳の遠いせゐか無口な人がらに、いつの間にか好感よりも少しは深いものを抱くやうになつてゐたのだ。そのことが、かうなつてみると今更のやうに顧みられた。あの午後の場面が、果してほんたうに査問の意味をもつてゐるのだつたら、悪くするとあのままそつと帰国させられたのかも知れないと、そんな予感もかすかながらしないではなかつた。その先に待ち受けてゐる運命……。しかし、さうではなかつた。彼は失踪したのだ。どこへ? 何がもとで?……

 冬の朝、ブラウエンベルグ氏と二人きりで十吉が事務室に残つて、うしろ向きになつて書棚のなかを整理してゐると、小刻みな靴音がこつこつと部屋を横ぎつてゆくのが聞えた。老人ががたんと椅子を鳴らせて、
「おお、誰をわたしは見ることか! 誰をわたしは見ることか!」
と、嗄れ声でさけんで、勢ひよく立ちあがつた。十吉が綴りの留金をぱちんと云はせて振向いたときは、霜の息で真珠色にくもつたヴェランダのガラス一めんにきらきら氾濫してゐる朝の光を背景に、外套を着たままのイリリヤの立姿がくろぐろと浮び、大手をひろげて寄つていつた老人の掌を彼女が無言で両手にしつかり受けて、一つは上から見おろしてゐる、一つは下から見あげてゐる二つのシルウエットとして、完成された瞬間であつた。……
 かうして彼女は再び、十吉たちのところへ帰つて来たのだ。やがて外套をぬいで、レースの胸飾りのついた簡素な旅行服すがたになつて、自分の席へ運ばせたキャビアのサンドウィチを指さきにはさみながら、長い匙で紅茶のグラスの底をしづかに掻きまはしてゐる彼女、――眼をほそめ、長い睫毛に微笑をやどらせ、人なつこい皺を鼻すぢによせ、じつと窓の外に見入つてゐる彼女、――横合ひから話しかける彼に、眼ざしの向きは変へずに、
「神戸はきれいな町でした。」
などと、回想にうつとりした人のやうに、言葉すくなに受けこたへをする彼女、――その横顔をながめながら、十吉はまるで自分の方が故郷へ帰つて来たやうな気持がするのであつた。これでまた、もとの生活がはじまるのだ。忙しいけれども落着きのある、平和だけれど新鮮さにみちた、この部屋の生活がはじまるのだ、とつくづく思ふのである。そして、あのサフローン事件このかた、ともすれば彼を誘ひがちだつた暗い心の影が、次第に吹き払はれて、うすらぎ消えてゆくのを感じるのであつた。
 イリリヤの帰りを待つてゐたやうに、ブラウエンベルグ老人は彼女と十吉を呼んで、全く新しい仕事を二人に与へた。一つは日本の人絹工業の内容を調べること、もう一つは日本の生糸機械を本国の或る機関で備へつけたい意向があるので、その購入の下準備を進めることであつた。そのため本国からは、最近とれた生糸の見本が一包みとどいてゐた。
 自然これは二人の共同作業になつた。第一の仕事のためには、まづ文献を揃へることが基本条件であつた。十吉はイリリヤと一緒に、日本橋の丸善や神田の古本街へ三日にあげず出かけて、日本文や英文の文献をあさるのであつた。有力な人絹会社の調査部を歴訪れきほうして、調査上の助言を仰いだり、工程の説明書や事業の考課状の提供を受けたりもする。親切な会社の計らひで、二度ほど静岡県下の工場を見学したこともあつた。二度目にはミトローニク氏も一緒に来て、その頃にはもう一つぱしの専門家きどりの彼等の説明に、熱心に耳を傾けたりした。まあしかし大体はデスク・ワークで、集めた文献類の要約を作つたり、それをセルブ語に翻訳したりするのが主であつた。
 第二の課題になると、機械の購入といふ実際的な興味も責任も加はつてゐるので、イリリヤの態度も一そう真剣であつた。時には執拗なほどの研究心を発揮して、専門的な細かい点を得心のゆくまでつついたりするので、はじめはまんまと先頭をきつた積りでゐた十吉が、息を切らしてやつとついて行くやうな形にもなつた。時には横浜の生糸検査所へ、週に三回も公使館の自転車に乗つて通ふやうなことさへあつた。
 その検査所の地階の研究室へ、妙にびしやびしやといつも水溜りのできてゐる煉瓦だたみの廊下を、飛び石づたひのやうな恰好で通つて行つたり、三階のひろびろとした検査室の、セリプレーンとかセリメーターとか、デュープラン式抱合検査器とかいふ精巧な設備がずらりと並んでゐる間を通り抜けたりする時には、十吉はふとイリリヤと一緒にどこか遠い、アメリカあたりの博物館でも見物してゐるやうな幻想に襲はれるのであつた。本国から送られてきた生糸は、橙色がかつたかなりの下級品であつた。検査所の若い技師は、ちよつと握つてみただけで、苦笑を浮べた。そして、そのくせ御法川みのりがわ式だとか小岩井式だとかいふ高級な繰糸そうし機械にばかり興味をもつてゐる二人を、からかふやうに見較べながら言ふのだつた。
「まあ、蚕種さんしゅの改良が先決問題でせうねえ。……今のところ、もつと原始的な機械の方をお勧めしますよ。さうさう、ちやうど適当なのがある。内田式といつて、工場も鶴見でさう遠くないから、ひとつ行つて御覧になつたらどうです。」
 彼の紹介状を貰つて出かけたその工場で、思ひなしかひどく幼稚でまだるつこく見えるその機械の操作を眺めながら、二人は顔を見合はせてがつかりするのであつた。
 しかしイリリヤは挫けなかつた。彼女はすぐに立直つて、今度は蚕種や繭種けんしゅの研究を真剣にはじめるのである。そしてブラウエンベルグ氏をつかまへて、何やら熱心に夕暮ちかくまでも談じ込んだりする。そんな風で仕事は絶えず傍道へそれて、その道が行きづまりと見きはめのつくまでは、彼女は出て来ないのであつた。彼女の性格の強靭きょうじんさがそこには見えてゐた。それと同時に、新興国民の爽やかな探求心と、そのために残されてゐる無限の可能性の天地が、十吉には何か羨ましいものに感じられるのであつた。……


 公孫樹の葉がすつかり落ちつくした。門衛の爺さんが暇々に掃き集めた黄金いろの葉の山が二つ、砂利道の両側に築かれた。門内の樹林や馬車廻しの樹立ちも大抵は葉を振り落して、朝の登館のときなど、裸か木の枝ごしにずつと遠くの方から、折からの遅い朝日を受けて例の破風はふの紋章のきらめいてゐるのが目にはいる。
 土曜日の正午すぎ、その砂利道を小幡氏と二人で帰つてゆくと、夫婦づれらしい背の高い男女が、門をはいつてゆつくり近づいて来るのが見えた。五六歩のところで男は立ちどまつて、帽子をとつて小幡氏と挨拶をかはし、連れの女を紹介した。
 それはふくよかな薔薇色の顔をした若い女で、背が高いので目だたないが肉づきもゆたか、その堂々たるからだにクリーム色の毛皮外套を長めに着てゐる。その下から更に、ひだの多い白いスカートの裾が一二寸出て、肉色の靴下の先は白鞣のきつちりした靴になつてゐる。深目にかぶつた帽子もやはり純白で、そのかげからブロンドの房々ふさふさした髪がのぞいてゐる。すべてかうした白好みが、その長身やゆたかな腰つきや、殊にはその薔薇いろの顔の色艶と釣合つて、いかにもゆつたりと清楚な感じを与へてゐるが、よく見るとその顔つきはまだ女学生女学生して、物ごしにも、稍々太いアルトで受けこたへをするさばさばした言葉の調子にも、その感じが強く匂つてゐる。
 男はそれにました長身で、これは白絹のマフラーを首に巻きつけてゐるほかは、帽子から外套から全部黒づくめだ。その面長の顔までが、浅ぐろさを通りこして黒々とした血色で、その上に真面目さうにきつと結んだ唇と、おだやかな眼つきとがまづ目につく。おとがひの肉が二重にくびれて、よく見るとなかなか豊かな立派な顔だちである。もしもその顔色がこれほど黒くなかつたら、十吉はもつと容易にこの青年の顔に、ミケランヂェロの刻んだダヴィデ像の面影を見出したにちがひない。
 落着きのある重々しい声だが、頗る鄭重ていちょうな言葉つきで、こんど妻が到着したのを機会に公使館を引払つて、ここに寝泊りすることになつたことなどを小幡氏に話すと、また腕を組んで離れて行つた。
 門を出て停留所の方角へ歩きながら、小幡氏はふつと思ひだしたやうに、
「あ、さうさう、あのサフローン君の行きがたが知れたよ。……どこへ行つたと思ふ?」
「さあ。……」
「上海なのさ。柄にもなく、えらく高飛びをしたものさ。尤もああ見えて、奴さんなかなか利殖の道に長けてゐたさうだけれどね。」
「ぢや、あの原因は……何か費消とか拐帯かいたいとかいつたことでも?」
「いや、それはなかつた。初めはあの暢気なステファーノヴィチ先生も、さすがにその辺を心配したらしいがね。調べてみて、全然そのさへないことが分つた。……だが何しろ変つてゐるよ、夜釣りの大家で、冬でも日曜は暗いうちから釣竿をかついで出かけるといつた男のくせに、その反面すこぶる投機の才があつたさうだよ。そんなことから睨まれて、居づらくなつたんだらうがねえ。……」
 十吉はあの二階の場面のことはわざと黙つて、
「とにかく、一葉落ちて……といつた感じですね。」
「さあね、あの男が葉つぱのうちにはいるかどうかねえ。……それは兎に角、この分ぢや案外はやく一葉また一葉と来るかも知れんな、われわれの身近かでも。……そして、天下の『春』を知るといふことになるわけだ。」
「なるほど、秋ぢやないわけですか。……で差当つては、今しがた逢つたあの青年あたりが、その春の前触れといふ……」
「ああ、あのネステレンコか。……あの男にはつい最近、公使館で二三べん会つたきりだが……いや、大いにさうかも知れん。大いにさうかもしれん。僕なんぞも、そろそろ舵がとりにくくなることだらう。現にもうそんな雲行きが、折にふれて感じられないでもないなあ。……往生ぎはよく、この辺で一つカサッと行くとするか。」
「それは困りますよ。そんな約束ぢやあなかつた筈です」と、十吉はあわてて抗議した。
 小幡氏は白いセーム皮の手袋を振つて、通りかかつた小ぎれいな空車をとめると、ちよつと謎のやうな微笑を浮べて十吉を顧みて、
「どう、これから銀座へ出てみない? 一緒に食事をして、久しぶりで映画でも覗かうぢやないか?……」

 年が明けて、一月も半ばすぎた頃、十吉にはやうやく、そのネステレンコと呼ばれる青年を近々と見る機会が来た。彼の私室へ、ブラウエンベルグ氏の使ひにやられたのである。
 彼は例の天守閣のやうな三階に住んでゐた。そこへ往くには、二階の裏廊下から、ぐらぐらな狭い階段を昇つてゆくのである。傾斜の急な粗末な梯子で、十吉はなんだか屋根裏の物置へでも上つて行くやうな気持がした。
 昇りつめると、そこが小さな板廊下になつてゐる。光は東側の小窓から射してゐるだけで、妙に薄暗い。とつつきに古びた襖が二枚はまつてゐ、廊下の突当りは片開きの襖になつてゐるらしい。森閑しんかんとしてゐる。
 十吉は暫時ためらつてから、とつつきの襖の方をノックしてみた。力の籠つた声で応答があつた。
 建てつけの悪い襖をあけて中をのぞく。北向きに大きな硝子窓があつて、中は寒々とした明るさである。その明るさの中央に、ネステレンコが長い上身を小さなデスクの向ふに聳えさせて、端然たんぜんとしてこちらを凝視してゐる。十吉の顔をみて、ちよつと意外らしい表情を見せたが、すぐ顔色を和らげて、
「どうぞおはいりなさい。うしろを閉めて……」
と招じ入れた。小さは[#「小さは」はママ]石油ストーヴが燃えてゐるが、主人公は外套を着たままである。示された椅子にかけて、用件を切り出さうとしたとき、左手の引つ込んだところで人の身じろぎがした。そこは暗いので気がつかなかつたが、その一隅にあの若い妻が坐つてゐたのだ。黒つぽい外套を、羽織るやうに引つかけてゐたが、立ちあがると例の薔薇色の顔で十吉に目礼して、ゆらりとからだを揺つて出ていつた。
 十吉は、ブラウエンベルグ老人から預つて来たメモを、デスクの上へ差しだした。その返事をきいて来てくれと言はれたのである。青年はそれを手に取ると、訝しさうにかすかに眉をひそめ、やがて頷いて読みはじめた。かなり長いメモである。
 彼が読んでゐるあひだ、十吉はあらためてこの屋根部屋の様子を眺めまはした。デスクの上には、仮綴ぢの大型な本が四五冊、新聞の四つ折りにしたのが数枚、無造作に積み重ねてある。インクの壜が一つ、ペンが一本、赤鉛筆が一本、ころがつてゐる。ブロック・ノートがひろげてあつて、何やらごたごたと書いてある。書き物をしてゐたところと見える。左手に寄せた側机に、茶色の兎の毛皮が五六枚、乱雑に積んである。長細いレッテルが覗いてゐるところを見ると、これは商品見本か何かであるらしい。その奥に薄暗くなつて、外套や洋服がごたごたと掛けてあり、その蔭には、今まで細君の坐つてゐた素木の小さなベンチが見える。その上に黒革のハンド・バッグが置き忘れてある。その傍に、ぼろぼろになつた辞林が一冊、ちよつと場違ひな感じで投げ出してある。
 右手の壁は一めんにアジヤ全図でもつて蔽はれ、そのシベリヤのあたりには、アメリカの映画女優のブロマイドが五六枚、ピンで留めてあるが、これはいづれも相当の古物で、殊に地図のところどころに雨漏りの黄ばんだしみが出てゐるところを見ると、誰か前に住んでゐた人の遺産であるらしい。正面の窓には、鼠色になつた白カーテンが附いてゐるのだが、それは左右にすつかり引かれて、白々と曇つた冬空をいつぱいに見せてゐる。……
「ああ、分りました。……ちよつと返事を書きませう。」
 さうネステレンコは言ふと、ブロック・ノートを引きちぎつて何やら無骨な手つきで走り書きし、それを二つに折つて十吉に渡した。そのまま十吉が立たうとするのを、抑へるやうに逞ましい片手をデスクの上に伸ばして引きとめ、茶色がかつた眼で人なつこくまじまじと見つめながら、
「あなたは何の勉強をしてゐますか?」
ときいた。十吉が些かまごついて、まあ経済か何や……と言葉を濁してゐると、
「ああさう。あなたは大変にセルブ語が上手ですね。……わたしは日本語を勉強してゐます。家内がわたしよりは上手なので、いま新聞を教はつてゐるところです」と、卓上の朝日新聞をひろげて、ぎつしりと朱線のはいつた経済欄のところを見せ、「しかし日本語は大変にむづかしい。」
 その日はそれなりで別れた。

 一週間ほどして、十吉はまたブラウエンベルグ氏に頼まれて、この屋根部屋へ使ひに行つた。先日の調査書類は明日いつぱいに仕上げてくるやうにといふ頼みである。
 梯子の半分ほど昇つたところで、ふと上から、大声でまくし立ててゐる男の声がして来た。これは工合が悪いと思つたが、そのまま昇りきつて、暫く様子を見ることにした。
 初めは分らなかつたが、やがてそれがネステレンコの声ではないことが分つてきた。上ずつた、妙に甲だかい声である。相当興奮してゐるらしい。その調子からして十吉は、一人の若い男が顔色を蒼くして、唇を反らせて弁じたててゐる顔つきを、まざまざと心に描き出すことができた。議論ずきの若者の表情は、大抵は似通つたものである。
 そのうちに、相変らず落着き払つたネステレンコの声も、ちよいちよいまじりだした。なだめるやうな調子で、何か短い言葉をはさむ。時にはその声が皮肉な笑ひを仄かに帯びることもある。相手の声もすこし緩やかになつて、話の内容が十吉の耳にも聴きとれはじめた。
「ねえ、同志N(この名は十吉には聴きとれなかつた)、僕はなにも、農村の機械化そのものに反対なんかしちやゐないよ。ただそれを、自分の国の実状に照らして……。」これはネステレンコの声である。
「だから僕も、その現状のことを言つてるぢやないか。働くためには、君のいふ国民教育とか何とかいふ問題より先に、まづ食はなくてはならん。いいかね。そこで食ふためには耕さなければならん、これもいいね。そこで耕す為には――まづ機械といふことになる。君が、今年の食糧不足はヴォイヴォヂナ地方の大旱魃の生んだ一時的現象にすぎんと言ふのは、或ひは確かにさうだらう。この急場は輸入でしのいで行けるといふのも、いかにも君の言ふ通りだ。だがね、飢饉はなるほど、天災フォルス・マジョールだが、しかも繰返される可能性のあるフォルス・マジョールなんだよ。そこで科学といふものが物を言ひだす。なぜあの東部や南部沿岸の広大な荒地を、あのままに放つて置かなけりやならんのか、なぜ君があの地方の開墾に反対するのか、それが僕には分らんのだ。用心ぶかい君のことだから、平年作に際しての食糧過剰でも惧れてゐるのかね? ぢやなぜ飢饉を怖れないんだ? 僕は繰返して言ふが、科学が万事を解決するんだ。……今や(と一語一語はつきりと切つて発音しながら)、農産物は、人間が、大地に、金属と石油とを、適用する結果、として生ずる――これは第十六回党大会で、同志ヤーコヴレフがいみじくも喝破かっぱした言葉だ。金属と石油、殊に石油、この石油をどうするかと僕は先刻から口を酸つぱくして言つてゐるのだ!」
「同志ヤーコヴレフは僕も尊敬してゐる人物だよ。ただ僕は、彼のあの名言の背景には、やはりあの豊かなロシヤの資源が立つてゐることを、一応冷静に認識したいのさ。……そしてわが国が、石炭といつても主に褐炭かったんをしか産出しない現実、まづそこから考へを出発させたいのだ。」
「だからその石炭、瓦斯化する……更に一歩を進めて、液化する……」
「よし分つた分つた。ねえ同志N、君は科学の可能性をすぐさま現実の可能と信じ込む男だよ。……同じ論法で行けば、プロエスチの油田から一思ひに送油管をひくことも可能だし、またこの方が石炭液化なんかよりずつと手つとり早い。ただあの油田が、ルーマニヤの持物でないのだつたらね。……僕は農民の子だから……或ひは考へが大いに悠長にできてゐるかも知れん。まあその辺はそのうちゆつくり君の忠言を聞くとして。……ところで同志N、僕はこれから出かけなけりやならん。君も公使館へ帰る時間ぢやなかつたかね?」
「あつ、さうだつたつけ!」
 その青年があわてて立ちあがる気配に、十吉はわざと廊下を踏み鳴らしながら近づいて、襖を大きくノックした。
 はいつてみると、果してその相手の男は蒼白な顔をした青年で、漆黒しっこくに近い髪と、まるで紅をさしたやうに赤い唇とが、あざやかに目を打つた。うるんだ大きな眼でちらりと十吉を見ると、そのまま転げるやうに階段を下りて行つた。
「小児病め! 何を言ひ出すやら訳が分らん!」
 立ちあがつてゐたネステレンコは、友人のあとを見送りながら、小声ではき出すやうに言つたが、そこで稍々紅潮した顔を十吉の方へ向けると、おだやかな微笑を湛へた茶褐色の瞳でまじまじと彼の顔を見て、
「ああ今日は、ハニさん、何か御用ですか?」と、デスク越しに手をさし伸べた。
 十吉は、さつきふと耳にした「農民の子」といふ言葉をあらためて反芻しながら、じつとその眼を見返した。……
 それからもちよいちよい、ネステレンコとは顔を合はせる機会があつた。尤も彼は、ただその日本館に起居してゐるといふだけで、事務室の方へは殆ど姿を見せなかつたから、会ふのはまづその三階の小部屋に限られてゐた。その部屋の十吉は、いつも端然たんぜんとデスクの向ふに坐つて、或ひは読書したり、或ひは何か考へごとに耽つてゐる彼を見出すのだつた。ときには傍で、例の薔薇色の奥さんが編物か何かをしてゐることもあつた。
 あの宏大な芝生の庭につづいて、その西のはずれに雑木林があつた。十吉はついぞ行つてみたことがなかつたが、二月もそろそろ終りに近い或る日、珍しくぽかぽかと春めいた暖かさに誘はれて、昼休みの散歩のついでに、その林のなかへはいつて行つた。
 はいつてみると、林は案外に深かつた。はんの木、椎、欅などが多く、大抵は裸か木になつてゐるが、それでもさすがに林間といふ感じで、日だまりがひつそりと明るく匂つてゐる。十吉は小径づたひにぶらぶら歩いてゐるうちに、古い井戸のほとりに出た。ちやんと井桁いげたを組んだ、昔風の撥ね釣瓶である。おそらくこの庭園の一部は、むかし何か茶室などのあつた名残りなのではあるまいか。さういへば小径のつけやうにも、なかなか凝つた趣向のやうなもののあるやうな気がするし、その辺のさながら誘ふやうな小径をわけて、もう少し奥へ行けば、あのしめやかな露路といふものに行き当りさうな気持もする。尤も今では、小枝ごしにぐるりを見渡してみても、それらしい屋根の形も見当らないやうだが。……
 その井桁に腰をかけて、暫くあたりを眺めてゐると、やがて向ふのかやか何かの繁みのかげから、黒い人影が一つあらはれて、ゆつくりと小径を歩いてゆく。片手を半ば上げて、首をすこし落してゐる姿は、本を読みながら歩いてゐるのに違ひない。その背恰好や、外套の襟もとに白いマフラーをしてゐるところから、十吉はすぐにそれがネステレンコの散歩姿だと見分けがついた。
 その姿は、右手の繁みの中へ消えたかと思ふと、暫くしてからまた同じ小径を戻つてくる。同じ姿勢、同じゆつたりした歩度である。その往復運動を三四回ながめてから、十吉はそろそろ一時なのに気がつくと、立ちあがつてその小径の方へ近づいて行つた。
 斜かひに合はさつてゐる径のかどで、十吉はネステレンコに行き会つた。向ふは五六歩のところまで来ても気がつかない。いかにも落着き澄ました、清閑せいかんをたのしんでゐるといつた様子である。十吉はその裾長すそながの外套姿に、ふとカトリックの宣教師に似たものを感じた。あの黒い帽子を、上から平たく押しひしやげたら、そつくりそのままの姿になつてしまふ。……
「今日は、ネステレンコさん! 散歩ですか?」
「ああハニさん、今日は!」
 びつくりしたやうに十吉の顔を見たが、瞳はもう人なつこい微笑を宿してゐる。本を開けたままで脇へおろして、
「ここは静かで気に入りました。誰も来ないやうですね。」
「ええ、実は僕も今日はじめてなんです。あなたは?」
「わたしは一週間まへから。」
 そこで本をまた胸もとまで上げると、ちよつと目礼して、林の奥へ歩みを返して行つた。十吉は、この謹厳でゐながら物やさしい、慇懃いんぎんでゐながら孤独ずきらしい、そして絶えず静かな眸をはるかなものの深みに注いでゐるやうな青年に、次第に引き寄せられてゆく自分を感じた。……

 イリリヤと一緒に、今ではすつかり馴染みになつた丸の内の或る人絹会社の調査部へ往つた帰りに、十吉は思ひきつてこのネステレンコのことを彼女にたづねてみた。
 自動車の窓にあとからあとから条をひく氷雨の脚に、うつとり眺め入つてゐたらしい彼女は、ちらと訝るやうな眼ざしを彼に投げると、すぐまた眼を伏せて、
「さあ、よく知りませんけれど、あの人たしか留学生の資格で来てゐるのでせう。……ちやうどわたしと同じに。」
 イリリヤが留学生だといふことは、十吉には初耳だつた。
「留学生といふと……何か文学か美術の研究にでも?……」
「いいえ、やつぱり経済の方でせう。留学生といふと何だか変に聞えますけど、まあほんの、実地の研究といふくらゐの意味ですわ。……ただ或る期限がついてゐますの。……」
 そこでちよつと口籠つたが、ふと独りごとのやうに、
「さういへば、わたしもそろそろその期限が来ますわ。」
「おや、それは困つた。まだこの仕事が片づかないぢやありませんか?」
 イリリヤは、さつき貰つたまま手に握つてゐた人絹製造用のノズルが、三つほどまるで指貫ゆびぬきのやうに静かな金いろの光つてゐる掌を、思ひ出したやうにあけてみて、じつとそれに見入りながら、
「まあ、この仕事の片づくまでは居るかも知れません。」
「で、帰つたら何をなさるんです。何か仕事がきまつてゐるんですか?」
「いいえ、別に、留学させてくれた機関が決めてくれるでせう。……わたしには別にこれといふ……」
 口をつぐんだ彼女は、折から十字路のストップで停車してゐる車の窓から外を眺めてゐたが、やがて車を動きだすと、急に晴れやかな声になつて、珍しくセルブ語の早口で、
「ああ、さうさう、忘れてゐました。今日は拳闘のある日でしたつけ。あの電柱に貼つてあるビラで思ひだしました。……堀田とゴンザゴの十二回勝負。……あなたは拳闘はお嫌ひ?」
 さう言はれてみると、なるほど今日は土曜日だつたが、イリリヤと拳闘といふ取合はせに十吉は些か度胆を抜かれた形で、
「いや、実は観たことがないのです。……」
「面白いものですわ。初めて観たとき、あの堀田の……ダブル・パンチつて言ひましたかしら、あの片つぽの手で続けざまに撃つ遣り方……あれがきれいにはいつて、相手の人が鼻血を出してしまひましたの。その血が……」と、うつとり思ひ出すやうに天井を振り仰いで、「相手の人の真白な胸に、びつくりするぐらゐ沢山かかつたんです。それを見たとき、わたしは急に胸がむかついて来て、そのまま席を立つて出てしまひましたの。もう二度と見るものぢやないと思ひました。……ところが、暫くすると、またふらりと出掛けてみましたの。そしてたうとう、今ぢやもうあんな面白いものはないと思ふやうになりましたの。堀田さんの出るのは大抵観てゐますわ。……人間、いちど嫌ひにならないと、しんから好きにはなれないものと見えますのね。……」
 この数ヶ月、彼女と同じ車で走り廻つたことは随分と度かさなつたが、彼女が自分から進んで何か話しかけるやうなことは一度もなかつた。ましてこの饒舌、この話題! 十吉は殆ど呆気にとられて、その横顔をぼんやりと眼の端に窮つてゐた。長い睫毛はいつもに変らぬ静かな微笑を宿してゐるらしい。伏眼になつてゐるところも同じである。ただ思ひなしか、その頬にはうつすらと紅味をさしてゐるやうな気がする。……
 暫くして車が白金の公使館の前へ通りかかつたとき、彼女はふつと思ひ出したやうに、
「あのネステレンコといふ人、イアキントといふ名前なんですのよ。イアキント……花の名前、きれいな名でせう? ちよつとあの人には似合はないくらゐ……」
「さうでもないな。」
「イアキントつていふ花、日本語で何といひますの?」
「やつぱりヒヤシンス。支那語では風信子(と字を書いてみせて)といふのでせう。風のたよりの花。……」
「いい名ですこと。……わたしの家の辺りはあの花が一ぱい咲きますわ。ダルマチヤのずつと南寄りの、カヴタットといふ小さな岬ですの。……もう半月もすると、あの花が咲きだす季節になりますわ。……」

    *

 ミトローニク氏がとつぜんニューヨークへ転勤になつて去つた。出発の朝、ヴェランダの降り口で十吉の手を握つた氏は、珍しく元気な声で、
「成功を祈る!」
といひ、ぎゆつと力を籠めて打ち振つた。成功を祈る! 成功といふ字の意味は、進捗しんちょくである。そこには一段々々踏みしめて行く手固い感じがある。日本語だと、どうも功といふ字が目について、何か結果ばかりを当てにするやうな気味があつてよくない……十吉はそんなことを胸の中で繰り返しながら、忙しげに次から次へと部員と握手をしてゐるミトローニク氏の後姿を、じつと見守つてゐた。
『やがてそのうち、やはりこのしきいのあたりで、あのイリリヤと別れの握手をかはすことになるのだらうか?』
 十吉はやがてふとそんなことを思ひ、いつぞやこのヴェランダにみち溢れてゐる朝の光線を背景に、ブラウエンベルグ老人と手をとり合つてゐた彼女の影絵を、あらためて心に呼び返すのであつた。彼はイリリヤの姿を目でさがした。彼女は壁ぎはの一団の人々の一ばん端につつましく立つて、順番を待ちながら、相変らず静かな微笑を含んだ眼ざしで、次第に移動してゆくミトローニク氏の姿を追つてゐた。その顔はさながら、
『まだわたしはここにゐる。』
と、われとわが心に言ひ聴かせてゐるやうであつた。





底本:「雪の宿り 神西清小説セレクション」港の人
   2008(平成20)年10月5日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第三巻」文治堂書店
   1961(昭和36)年10月31日
初出:「思索」
   1946(昭和21)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2012年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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