母たち

神西清




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           ……無常の人間に知られずに
隠れてゐて、わたし共も名を云ひたくない神です。 
その家へ往くには、あなた余程深くり込むのです。
そんな物に用が出来たのは、あなたのせゐだ。   
           ――『フウアスト[#「フウアスト」はママ]』第二部


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 二つの死が私たちの結婚に先立つた。私たちは幼児の心を喪つた婚約者だ。しかし、もはや私たちのあひだには、胸をときめかす何の珍らしい期待もない、といふ君のことばは、正しいだらうか。どうかそれが、君の疲労の語らせた言葉にすぎないことを祈る。
 君の思ひがけない失神、T博士の診断、そしてF高原への転地……つめたい言ひ方かも知れないが、君は自分の生理におどろいたにすぎないのではないだらうか。君や君の母上の最近のたよりによると、君はすでに恢復期を終らうとして、カルシウム注射の痛さもやつと間遠になつたといふ話だけれど、肉体の疲労はまだ君のこころの襞々ひだひだに潜んでゐて、時たまああした言葉をささやくのではないのか。それを死の影響と思ひ過ごしてはいけない。死ののこした痕跡は、もしあるとすればもつと深い場所にあるはずだ。
 だが死の痕跡は君のなかに、ひよつとしたら全く無いのではあるまいか。私はさう信じようとし、また疑ひなほす。実はこの逡巡が、君のたびたびの便りに返事を書けなくさせたのだが、それとても私は気づいてゐなかつたのではない――君をこの眼で見、よし一時間でも一緒に坐つてゐれば、おそらく見きはめはつくだらうことに。……しかもこの三月みつきのあひだ、遠くもないF高原を一ぺんも訪ねずにゐたのには、ほかに訳があつたのだ。
 本当をいふと、私は自分が怖かつたのだ。自分の異常な状態に気づいてゐたのだ。私はつとめて自分の心の硬さを信じようとしながらも、やはり死や死に伴ふ事情の生みだす醜い心の波立ちから、全く免れることはできなかつた。いやそれは、人一倍はげしかつたかも知れないのだ。やがて埋葬のあとに来た東京の烈しい夏が、そのやうな私をいた。なまじ心の硬さといふものは、ある場合にはかへつて逆羽の鱗になつてわが身につき刺さるものだといふことを、私は自分の思ひ知るにまかせて置いた。
 私は自分の異常さによつて君をまで傷つけようとは思はない。
 いま季節は終らうとして、秋口の陽のつよさに、裏の鶏頭が空しく血を吐いてゐる。それはこのひと夏、私が荒々しい日々をともにして来た奴らなのだが、しかし眼をとぢて静かにしてゐると、さすがに四囲の空気は冷え冷えして来たやうだ。これでよい、と私は自分にいふ。次第に澄んでくる心の水面には、成長のなだらかな息づかひ、必然の潮のさしひきのほかには、揺れうごく影も稀だ。ひよつとしたらこの静謐せいひつは、ふたたび間近に迫らうとしてゐる暴風あらしの準備をしてゐるのかも知れぬ。そのひまの片時の安らぎなのかも知れぬ。ともあれ私はいまこの瞬間、ほとんど的確に自分の立つ水高を指示できるやうに思ひ、その水面にうかがひ入つて、私の過去の影像たち――それら死によつて目醒まされた者たちの、現在への投影を集めることができるやうに思ふのだ。
 それをいま君に書き送らうと思ふ。なぜなら私たちには、ふたたび自分たちの婚約を顧みる時が、来ようとしてゐるからだ。のみならず私は、もはや自分が君と婚約をむすんだ当時の私ではないことを知り、また君にせよ多分、病気前の君ではあるまいことを感じてゐる。とすれば、私の父母の喪が私たちにあたへた結婚前のこの長びく時を、私たちはこんな風に使ふのがよいのではないだらうか。……
 私の眼にうつる限りの君について言へば、私たちの身をこすつて羽ばたき過ぎた死の影が君の従順な心をつよく誘つて、ほとんど君に宿命の言葉をすら読みとらせ、さうして結婚へと君を強ひる或る情実が、君の胸に生成されてゆく気配が感じられる。先日来の君の手紙には、さうした女性らしい心の動きが読みとられる。もとより結婚といふものは、何かの情実に頼らなければ成り立ち得ぬものには違ひないが、しかもその情実が屡ゝしばしば人を裏切りやすいところに、結婚の危険はひそんでゐるのだ。たとへば比較的安固な情実として、永らく人間の歴史に君臨して来た恋愛にしても、もはや私たちのまへに神であることをやめてしまつてゐるのだ。だが早まつてはいけない。私は何も盲者の気安さで、恋愛が肉情によつて取つて代られたなどと言ふのではない。恋愛が人を傷つけ苦しませる力は、感傷をもつても肉情をもつてもなほ説き明かしがたい秘密に満ちてゐることを、私は未だに否めずにゐるが、それにせよ明らかな不幸は、成育した人間の意力がそれを殺し得る力をすらそなへて来たことではあるまいか。君は二十六歳、私は三十歳、お互ひにさうした経験は何度かあることと信じる。
 私たちが、さうした不幸ののこした傷痕をそれぞれの身に帯びて、今お互ひの眼の前に立つてゐることは疑ふ余地もない。それらの傷痕をかぞへることによつて、私たちは多分、お互ひの年齢の身丈を測ることができるだらうが、しかし差し当つてはそれをする必要もない。そんな手数をかけずとも、私たちは内心に、お互ひの間にあるものが恋愛ではないことを誰よりもよく知つてゐるはずだ。
 すべての見せかけの情実から放たれることは、実に清冽せいれつなわざではないか。とはいへそれが、決して容易いわざだなどといふのではない。現に私たちの婚約は、私たち二人の共通の友人S夫婦によつて導かれた偶然の出会にもとづくものだが、そんな風にお互ひの目が醒めてゐるといふ意識にもかかはらず、少くも私だけは、すでに偶然の出会に相応しいあれこれの貧しい奇蹟が、見せかけの情実の座へ押し上らうとしてひしめき合ふのを、身のほとりに感ぜずにはをられないのだ。たとへば君の手紙に私が見いだすのも、主としてそれなのだ。君は実に情緒のこまやかな女性で、他人も同然の私の母や義父の看病に、義姉妹たちもひそかに驚いてゐるほどの優しい心遣ひを見せてくれた。君は勿論、私の婚約者としてよりは寧ろ、路傍に死にゆく人間を見いだした女性の純粋な心の動きから、あのやうに振舞つたのに違ひないのだけれど、その行為が今逆に、婚約といふ言葉のなかに証しを求めようとしてゐるのではあるまいか。また父母の死のため、私が孤児の境遇に陥ることになつたといふ事実にも、ともすれば感謝と憐憫れんびんとが、他の座をうかがふ機会が潜むのではあるまいか。だがこれだけは忘れて貰ひたくない、私は彼らの死を俟たずとも、すでに充分孤独な人間だつた。
 そのほかの一般的な事情――君にとつて漸く過ぎようとしてゐる婚期、孤児になつた私の家の小やかな営み、また仮りにそれがあるとしても、所詮は相識になつた若い異性のあひだに生じる漠然たる牽引にしか過ぎぬ、お互ひに棄てがたく思ふ感情、などに至つては、私たちにこの結婚を択ばせるにはもとより力無いものと云はなくてはならぬ。……私は徒らに非情の言葉をもてあそんでゐるのではない。また私の疑ひ深いのを赦してくれたまへ。ただ私の信じるのは、無根の犠牲を君に強ひる権利が、私には無いといふことなのだ。そして私に予感されるかぎり、結婚は最も多く犠牲にこそ似てゐる。
 だがこの婚約を結婚にまで推し進める機会は、まだはつきりと失せたのではない。私たちの犯してゐる大きな過ちは、お互ひにまだ思ひ切つて性格の内奥を知悉ちしつし合はないでゐることにあるのではなからうか。二人の人間のあひだの冷めたい領解りょうげ[#ルビの「りょうげ」は底本では「りやうげ」]の底ひから、浮びあがつて来る親和力といふものは、男性どうしの場合にもよくあるものだ。そして今日、恋愛の生死すらがほとんど私たちの意力のなすがままになり了せたとき、唯一つその支配を免れてゐるものがあるとすれば、それはかうした親和力なのに相違ない。さう、たしかに一縷いちるの望みは残されてゐる。それにとり縋つて見ようではないか。……
 疑ひもなく私は、そのやうな希望に力づけられてこの手紙を書きはじめる。主な目的は、与へられた環境に養はれた私一箇の率直な近似値を求めることにあるが、形の上では恐らく、あの亡くなつた母の像を呼び起すといつた風になるだらうと思ふ。なぜなら私は、現在あの母を媒介とせずには、自分の生命像を考へられないのを感じるし、また一面、君の最近の手紙に、「わたくしに手をとられながら亡くなつたあのお母様は、どんな方だつたのかしら」といふ言葉があり、それがひどく私の心を打つたからでもある。まあ直接には君のあの疑問に答へるつもりで書いて行くことにしよう。本当をいへば、母は君に手をとられながら死んで行つたのではない。医者が正確に絶息を告げたのは、君があのまま気を失つて病室から運び出されてから、およそ八時間後のことだつた。だが勿論これは大切な点ではない。私もまた、あれはどういふ母だつたか知らと思つてゐる。
 ではこれがその物語だ。それはどんな意味にもせよ自伝にはならないだらう。生涯を語ること――それにはそれで、また別の機会と必要とがあることだらう。……

 私は非常に羞恥心のつよい子供だつた。私はいまこの一つの言葉に、色々の意味を仮託かたくして置く。君は君で、君の心の年齢のゆるすかぎり、この言葉のもつ拡がりや深さを見て欲しい。多分そこに君は、数々の意外に醜いものや清純なものを発見することだらうが、それを明らさまに押しつけがましく語らないところに、あるひは私のもう一つ別の羞恥があるのかも知れぬ。
 ともあれ羞恥への回想が、私を母との歴史へ連れて行く。君が多分その二三人に既に会つて、あの由良家の人達のことは知つてゐるだらうが、私は幼いころよくあの家の別荘へ行つて夏の大部分をすごした。その別荘といふのは大磯にあつて、その昔何でも高貴の方の御別邸だつたとかいふ由緒のある宏壮な建物だつたが、震災で潰え、その跡には今ほかの家が建つてゐる。由良の家では毎年の夏、あらかじめ順番をきめて親類の子供たちを代る代る保養に招ぶのが例だつたが、私がよく夜中に悪夢にうなされたりする神経質な子供だつたせゐか、母は特に長目の滞在を私のために計らつてくれたやうに覚えてゐる。
 その別荘には夏になると、伯父夫婦と新婚後間もない従兄夫婦が住んでゐた。それから肥つた女中や痩せた女中が三四人ゐた。そのほかに、ほとんど平生は顔を合はせたこともない親類の子供や大人が、入れ代り立ち代り大抵二三人づつゐた。この別荘の空気が幼い私の心には厳めしい冷たいものに感じられ、私は出掛けるのを厭がつた。母はさういふ私をほとんど引きずるやうにして連れ出すのだつた。別荘では母は愉しさうだつた。意地のわるい――しかも盲目的な愛でかなり私をスポイルした祖母が、そこにはゐなかつたからかも知れない。母は、朝はやく人の起き出ぬうちに砂浜へ下りて、きれいな貝殻をひろふのが自慢でもあり楽しみでもあつた。
 私は平生祖母に叱られてゐる母を見慣れてゐた。それは大抵、母が私の我ままを許してくれないからだつた。だから私は概して母には同情しなかつた。尤ももつと別の、私にはまつたく意味の分らない事柄による場合もあつた。さういふ場合には、母が何か悪いことをしたからだらうと想像した。私は知らず識らず、母の裡に一種の他人を見る習慣がついてゐた。由良の別荘へ行くと、この母の裡の他人がますます際だつて見えた。私には母が、他の別荘の人々と同様につめたく怖かつた。それはまた、母が私の一番いやがる海水浴を強制したからでもある。
 何故そんなに海水浴が嫌ひだつたかといふと、それはまづ私が自分の裸体に感じる羞恥から来てゐる。つまり自分の肉体の醜さや引け目を感じる心、それが非常に早くからめざめてゐたのだ。私はいつも何やかと理窟を並べて、なるべく海水浴をしない算段をした。その代り着物を着て浜で貝拾ひをすることや、夕方庭の裏手から従兄が網打ちに出かけるボートに乗せて貰ふことは大好きだつた。私はむしろ母から逃げ廻つてゐた。
 ある日、母はたうとう私をつかまへて裸にした。そして別荘の押入れに残つてゐた赤ちやけた誰かの海水着を着せ、頭には大きな麦藁帽子をかぶせて顎にくくりつけた。そして「折角海に来たのだからはいつていらつしやい」と、怖い目をしてさう言つた。私はさからつた。その海水着はだぶだぶだつた。のみならず生れてはじめて海水着をきた私の肉体が、どんなにみじめなものかは、鏡に映して見るまでもなかつた。ちやうど二時ごろで、浜は人の出さかる時刻である。私は招魂社の掛小屋で見世物にされる、不具の子供のやうな苦痛を感じた。で私は「やせつぽちだから厭だ」と駄々をこねた。母は「子供らしくない」といつて叱つた。色んな押問答の挙句に、母は私を引きずり起して(私は畳の上をごろごろしてゐた)、縁側まで引立てて行き、そこから私を邪慳じゃけんに突き落した。私は砂地にまばらに生えてゐる芝草の上に落ちた。
 私には母が鬼のやうに見えた。しかし子供心にも、敵しがたい母の決意を感じた。で最早や言葉は返さずに、とぼとぼと洋館に沿つて歩いて行つた。海の音がしてゐた。広い芝生の下はすぐ浜なのである。崖を下りる細い石段がある。それを下りて行く自分の姿を思つて見た。招魂社の見世物が再び頭に来た。私はとても出来ないと思つた。
 洋館の角まで来て芝生の方へ折れると、すぐ眼の前に太い竪樋がかかつてゐた。その下のところに煉瓦を畳んだ下水の受口ができてゐる。私は咄嗟に麦藁帽子をぬいで、その穴へ押し込んだ。そして引き返して行つた。
 縁側にはまだ母が立つてゐた。私はその下まで行つて、「麦藁帽子を溝に落してしまつた」と嘘をついた。あの辺にはもちろん溝なんぞはない。そこまでは考へずにゐたのだが、嘘はやつぱり嘘だ。母は黙つてゐた。私はいそいで、「さつき落ちたので膝のところが痛い」ともう一つ難癖をつけた。母は何も言はずに、やがて、「お湯殿へ廻つて足を洗つておあがり」と言つた。
 私はその日の残りを、言ひやうのない自己嫌悪のうちに過したことを記憶してゐる。母は哀れむやうに私を見てゐたが、子供の心をさいなんでゐた二重の悶えをどの程度まで見抜いてゐたか、私は今なほ疑はしく思ふ。と同時に子供は母の悲しみを全く知らなかつた。私の心は自分の肉体への嫌悪、ついた嘘の醜悪感で一ぱいになり、さういふものを母に見顕はされたことへの羞恥こそあれ、母に済まなく思ふ気持などは這ひこむ余裕はなかつた。
 これはたしか小学校へあがる前年のことだつたと思ふ。ほぼ同じ頃に、もうひとつ一そう消しがたい思ひ出を持つてゐる。そしてこれも大磯であつたことだ。
 母がきれいな貝殻を愛してゐたことは前にも書いた。従兄も少年時代は病身のせゐか主にこの別荘で生活してゐた関係で、貝殻の蒐集ではまづ玄人の域に近かつた。その見事なコレクションは、竹の間と名づけられた五十畳敷きほどの部屋を硝子棚でほとんど埋め尽してゐたが(洋館の方はさういつた風な途方もなく大きな部屋々々から成り立つてゐて、それぞれ亀の間とか鶴の間とかいふ名がついてゐた)、その頃はもう貝殻などは閑却されてゐて、竹の間へはいつてみても先づ感じられるのはおびただしい埃の匂ひだつた。ある日のこと私は、普通「食堂」と呼ばれてゐたが滅多に使ふことのない部屋へ、母と一緒にはいつて行つた。時たま何か宴会めいたことがあるとその部屋を使ふこともあつたから、多分その準備か何かの為ではなかつたかと思ふ。鏡のついた大きな食器棚が一隅にある。母はその抽斗を開けたり閉めたりしてゐたが、そのうちに私を呼んで小さなボール箱を見せた。中をのぞくと、扇貝の一種だらうか、淡紅色の大きな貝殻が二つ、綿の上にきちんと並んでゐた。母は蓋をしめるといたづらつ児のやうに微笑んで、「これはお土産みやに貰つて行きませうね」と言つた。それからもう一つもつと小さなもの――それはポケット・シネマとでもいふのだらうか、一綴ぢの紙を指の先で弾くやうにめくつて行くと、白い寝間着をきた西洋人の蚤取りの光景があらはれる、あの玩具だつたが、それを箱の上に重ねて、「これをお離れへ持つておいで」と命令した。私が不思議さうに母の顔を見ると、「あとで隆さんに断わればいいから」と母はまた言つた。
 母は実際さうする気だつたのかも知れない。あるひは親類ぢゆうでも勝気で通つてゐた人のことだから、従兄のことなど眼中になかつたのかも知れない。とにかくどうせ食器棚などの中に、忘れられて転がつてゐたものである。だが私は少々困つた。で小走りに廊下を通つて、日本館へ通じる渡廊下へかかると、運悪くそこで、ぱつたり従兄に出会つてしまつた。
 私は立ちどまつて、罪人のやうに、おづおづと片手を差し出した。
 従兄は箱の蓋をとつて貝殻を見ると、「ほう、こりや珍らしい」といつた、「何処にあつたの?」私はそれに答へた。「あなたが見つけたの?」私は母が見つけたのだと答へた。そして、あとで断わるつもりだと言はうとしたとき、従兄はちよつと笑つて、「これは私が貰つて置きませう」と言つて、ポケット・シネマだけ返してくれた。そして「ぢや」といつてすたすた歩いて行つてしまつた。私は茫然と一人とりのこされた。(あとで聞いたことだが、このポケット・シネマは、なんでも北京のとある公館の机の中から出たものださうだ。北清事変の小さな記念だと従兄は笑つてゐたが、私はいつのまにか失くしてしまつた。)
 この出来事は私に異常な衝撃を与へた。私は母が私にしてくれた教育や献身については実に頭がさがるし、何ひとつ不満な思ひ出も持つてはゐないが、ただ一つこの日のことだけは、いまだに母を怨めしく思ふ心を禁じ得ない。それは消しがたい良心の汚点として、いつまでも子供の心にのこつた。たとへばこんな風にして。――
 私たちは夏の終らぬうちに東京に帰つたが、その晩夏のある昼間、私は座敷で積木をして遊んでゐた。非常に暑い日で私は元気がなかつたが、さういふ時には尚さら、日頃から屈託の種になつてゐるあれやこれやの想念がつきまとつて、私の脳裡を離れないのだつた。その日はどうかといふと、寝そべつて、畳の臭ひを嗅ぎながら、彩色のついてゐるアーチ形や角形の木を積んだり崩したりしてゐる子供の心には、まだあの日の口惜しい思ひ出が、しつこくかげつて来るのだつた。家の中は静かだつた。そのうち私はうたた寝をしてしまつたらしい。何か苦しい夢を見たやうでもあるが、それは覚えてゐない。
 やがて目がさめて枕もとを見ると、そこにはいつの間には母が来て坐つて、ぼんやりと私の顔を見守つてゐた。もつとも私が眼をあけたのに気がつかずにゐたから、ひよつとしたら積木でも見ながら、何かほかのことを考へてゐたのかも知れない。私はその母の顔を暫くじつと眺めながら黙つてゐた。すると不意に、私はさつき寝入つてしまふ前の、長かつた退屈な時間のことを思ひ出した。そのあひだ私を屈託させてゐた事柄を思ひ出した。(して見ると、それは夢の中にはあらはれて来なかつたと見える。)さうして切れた記憶がやつとつながり合はさつたとき、私には、はつと母の考へ事の内容がわかつた。涙が寝起きの眼に盛りあがつて来た。
かあさん」と私は呼んだ。母はきよとんとした。「御免なさいね、僕……」私は腹這ひになつて、両手で枕もとの崩れてゐる積木を、凱旋門の形に積まうとした。母は黙つてゐた。「……僕、あの貝殻をとられてしまつて。……あれは母さんの大事なものだつたんでせう。御免なさい。……」積木は涙でべたべたになつて、くつついてなかなか離れなかつた。私は母の顔をふり仰いだ。涙の幕の向ふで、母は大きな眼をみひらいて、この奇妙な子供を見守つてゐた。……私は言葉をつづけて、もう一つ心に咎めてゐること、つまり従兄の前で母の名を出したことを告白したいと思つた。が涙が私を遮つてそれを言はせなかつた。私はその後も時折りそれを思ひ出した。たうとう言はずじまひになつてしまつたけれど。
 私は今なほはつきり、この寝起きの甘にがい涙の味を、心に呼びかへすことができる。それは罪と愛の感情の入れまじつた、奇怪な呵責の誕生であつた。のみならずこの日から私は、少年時代を通じて、うたた寝のたびに苦しい夢を見る習慣がついてしまつた。
 もちろんかういふ反省癖は、そののち色々に変化して行つた。しかしつづめていへば私の歴史は、かうした呪はれた反省癖の変化の歴史ではないかと思つてゐる。

 やがて祖母が死に、父が死んだ。私は母と二人きりになつた。私たちは貧しくなつた。親類はさういふ私たちに冷たかつた。私たちは別の伯母の家に寄寓きぐうした。この伯母は親類の中でただ一人の世話好きな女だつた。
 この生活は三年ほど続いたが、とりたてて話すやうな出来事もない。ただ私の反省癖が、底の流れのやうにして、徐々にはつきりした変化を辿つて行つただけである。私はこのあひだの、男の子を抱へて貧しい寡婦になつた母の心労や焦慮しょうりょを、いま君に告げる材料を持たないことを残念に思ふ。私は反省癖のつよい子供として、当然内に籠る子供になつたからである。人には利己的とさへ見える子供になつて行つたからである。私は母の生活を見なかつた。全く母から離れて、自分の中だけで生活してゐた。
 私は自己に対して潔癖な少年だつた。むろん、人の眼にも潔癖に見えるやうに努力した。しかし人はこの潔癖といふ言葉に欺かれてはならないのだ。それは自己のうちの悪に敏感なだけではない、実をいふとそれは、身うちが悪でもつて充ち満ちてゐる人間が、やむを得ず自分に着せる見えざる鎧にすぎないのだから。もし世の中に本当に善人といふものがあるのなら、それは恐らく寧ろ放埒ほうらつな人々の間に見いだされるに違ひない。私は潔癖な少年の常として、他人の悪には非常に寛大だつた。それは他人が私にする意地悪でも、また友達などがふとした感傷に駆られて自分の弱点や罪悪を私に打明けた場合でも、無意識的にその人の行為が、ふとさういふものを裏切り現はした場合でも、ほとんど何の義憤をも感ぜずにその人をゆるすことができた。言ふまでもなく、その都度私はかならずそのやうな要素を自分の中に見出したからだ。私はそんなことがある毎に心のなかで呟くのだつた、「君は、僕にそれを打明けていいことをした。なぜなら僕はそれを心に包んで、決して他人に言ひはしないから、君は安全だ。……」私は子供のよくする告げ口といふことを一切しなかつた。私は口の堅い、あらゆる confidential なものに敏感な少年だつた。そして次第に、信用せられていい自分の資格に、思ひあがりはじめてゐた。他人の弱点に同情し、それを宥すことのできるのは、自分に人の心を見抜く力があるからだと誤認しはじめてゐた。私は自足した、おとなしい、冷たい少年になつて行つた。
 こんなことがあつた。たしか尋常の五年から六年へ上る時だつたと思ふ。私は勉強といふものをした事のない子供だつたから、したがつて成績や席順には恬淡てんたんだつた。通信簿に乙のつくのが不愉快だつたのは、全甲といふ習慣がいつの間にかついてゐたからに過ぎない。したがつて席順といふものを気にかけたことがなく、母が知合ひの人などに、「おかげ様で今度も優等で……」などと話してゐるのを聞くと、不思議な気がする一方、そんな話をすることが母の品性をおとしはしまいかと、内心はらはらしたものである。免状は二枚づつ貰ふものと何時の間にかきめてゐた。さういふ私を、進級式の前に教師が呼んだ、そして「平均点は今度は君が一番なのだが、一学期の地理が大変に悪いのでね……」と、そんな話をしはじめた。私は自分が一番だなどといふことには全く気づいてゐなかつた。教師の話の意味がなかなか分らないで困つた。明かに彼は何か言ひにくさうにしてゐた。「山崎さんは平均点ぢや二番だけれど、特に悪い科目もないし、それに去年も総代をしたんだから……」やがて教師はそんなことを言ひ出した。つまり、卒業生総代は山崎に譲つて、私を優等生総代に廻したいが、それでいいかといふ相談なのだつた。山崎は或る大きな商事会社の重役の息子だつた。私はよくその家へ遊びに行つて、いろんな羨望を感じたのを覚えてゐる。それはとにかく、私は朧ろげながら、教師が言ひにくさうにしてゐる何かの事情を感得した。で紅い顔をして、「僕はどうでもいいのです」と答へて急いで帰つてきた。実際そんなことはどうでもいいと思つてゐた。私をその場に居たたまらなくさせたのは、きたならしい物に触れたくないなどといふ感情ではない。教師がそのコンフィデンシャルなものを私に覚られたと気づきはしまいか、といふ心配なのだつた。私は自分が彼の苦痛の原因になることがやり切れなかつたのだ。私は帰ると母に、投げやりな調子で「今度も総代だつてさ、ちえつ」と報告した。母はそれで満足して何も訊かなかつた。私は烈しい優越感を感じた。
 かうした独善主義にはかならず名誉心がつきまとふものだ。私は内にこもる反面、ひどく他人の思はくが気になるたちだつた。私は人を傷つけるのを怖れたと同様にして、人に傷つけられることを怖れた。自分が傷つけられる要素で一ぱいなのを知つてゐた。こんな記憶もある。――
 小学校の卒業式の前のことだ。私は答辞の練習に放課後、宿直室に居残つてゐた。教師がはいつて来て、一束の帳面をテーブルに置き、練習にかかつたが、やがて壁のベルが鳴つたのであたふたと出て行つた。そして中々帰つて来なかつた。私はちやうどテーブルの前へ進む練習をしてゐたところなので、教師の投げ出して行つた帳面がすぐ眼の前にあつた。退屈になつた私はその表紙の字を読んだ。「児童性格簿、四年女生」と書いてあつた。よく意味が呑み込めなかつたが、やがて好奇心に駆られてそれをめくつて見た。「大澤シゲ……成績優良……小心でよく泣く……」そんな字が眼にうつつた。私は興味を感じた。二冊目を見ると、それには「六年男生」としてあつた。私はいそいで開けて見た。ふとこんな字が眼をとらへた。――「成績中等。競争心強く、稍ゝ盗癖がある……」それは同じ組の井村のことだつた。私は怖くなつて、自分の名から逃げ出すやうに、いそいで帳面をとぢた。自分の所に何が書いてあるか、私はそれをはつきり想像できるやうな気がしたのだつた。……
 母のことを書く材料がないので、つい自分のことで間に合はせてしまつた。が、ただこれだけは言つておきたい。それは、かうした少年だつた私が、次第に身近かの母の存在を煩はしく思ひはじめたことだ。母の監督や干渉を嫌ひはじめたことだ。私は明かに母から離れて廻転してゐる、自分の中の一世界を感じてゐた。私の望みはこの内の世界の完全な王者になることだつた。その世界をみつめ、整理し、統べることだつた。それはすでに子供の手に合はぬくらゐには複雑であり、したがつて私は、母によつて代表せられる外の現実を顧みる余裕はないのだつた。人情を解さぬ不思議な少年が出来あがりつつあつた。……思へばあの貝殻の出来事のあとで味はつたあの甘にがい涙も、果して人間的な涙の萌芽であつたかどうかは疑はしい。恐らくあれは、母のために流された涙ではなく、やはり自己のための、つまり自己の気に咎める行為をした自分への怨恨の涙に過ぎなかつたのではあるまいか。
 ……私は当てもなしにこんな幼少の頃の物語に耽つてゐるのではない。私は、私のかうした傾向が、あんなに易々と母を自分の身辺から失ふことに同意させたこと――つまり、私の生涯で最初の重大なあやまちの動機になるまでに強かつたことを、明かにしたかつたまでだ。実は、非常に奇怪な話であるが、私は母を、けやきの用箪笥と交換したのである。
 母は『出来の悪くない子』である私の学資を保障するため、成績次第では大学へも行かせるといふ条件で、私の尋常六年の秋に再縁した。再縁先は素手で或る電鉄会社に重役の地位を獲た立志伝中の人で、先妻ののこした七人の子供があつた。これが高瀬家だ。私がちやうど中学へ入学する準備期にあつたので、母はそれを私に告げるのを非常にためらつた。ある日、昼休みに食事に帰つて来ると、食卓を挟んで私と対坐した母は、箸をとりあげる前にその決心をはじめて打明けた。私は勿論ひどく驚いた。しかし最初は、ある憤りの方が寧ろ強かつたやうに覚えてゐる。それは学資といふ金の問題に、私たちが膝を屈しなければならぬことへの忿懣ふんまんだ。(私たちの親類にはどういふものか官吏階級のものがほとんど全部を占めてゐた。これが知らず識らず、私のうちに金銭をさげすむ気持を養つてゐたものと見える。)私は母にそれを言つた。母は、父が臨終の床で幼い私に告げた最後の言葉――あの「偉くなれよ」といふ一言を覚えてゐるか、と言つた。「お金のことなんかと、二言目にはお言ひだけど……私の身はどうなつてもいいのです。今さら楽な暮しをしようなどと母さんは思ふのではありません。ただあなたに立派な学校を卒業してもらふことが、お墓の中のお父さんに対する私の務めです」とも言つた。母はいつのまにか泣いてゐた。私は反抗した、興奮した、私は淋しかつた。時間に遅れてはいけないといふ母の注意で箸を取り上げた私の舌に、その時のおかず――つましい鱈の煮つけが、刺すやうににがかつた。(この料理は私にいつまでも母が私のために作つてくれた最後の料理としての印象をのこした。)私も泣いてゐたものと見える。しかしその涙は、たしかに別離の悲哀のためではなかつた。強ひて言へば、私は別離といふものをまだはつきり考へられず、それへの悲哀を金銭への屈服に対する憤りに転嫁してゐたのかも知れない。
 そのうち私は段々落ちついて来た。鼻や舌はまだ塩からかつたが、私にはしだいに自分の身の廻りを見まはす余裕が生じつつあつた。そして、ある阿片のやうな空想が、じりじりと私を酔はせはじめてゐた。……それが何かをはつきり名指すことは、相当の覚悟をしてこの手紙を書きはじめた私にとつてもかなり辛い。一口でいへばそれは、独立のよろこびだつた。私は、母が他家へ行くことによつて私のものになる、自由の世界の内容を思ひ量りはじめてゐた。しかもそれは、前にちよつと言つた欅の用箪笥といふ形に凝つてあらはれた。
 この用箪笥といふのは、最初は亡くなつた父が手文庫がはりに使つてゐたものだつた。それを今では母が手廻りのものを入れて使つてゐた。持ち物を整理することの好きだつた私は(この性癖は今まで書いて来たことから容易に説明される)、随分前からそれを欲しがつてゐた。たびたび母にねだつては、その都度拒絶されてゐた。私はこの用箪笥が自分の支配に帰した時のことを空想した。それにはそれぞれ大きさの違ふ八つの抽斗がついてゐた。私はその抽斗にちやんと区分けをして、学用品やお伽噺の本や遊び道具や、母からもらつて大切にしてゐる曾て父の集めた外国煙草のカアドや、私の幼時の甘いあるひは苦がい思ひ出を秘めてゐるあの積木その他の記念品や、私の空想を善くあるひは悪くそそつて呉れる新聞や雑誌からの切抜きや絵葉書や、さうしたものをそれぞれの品格に応じて、上の抽斗から下の抽斗へと順序よくをさめる自分を想像した。左手の下にある、鍵のかかる底の深い抽斗には、そのうちでも私が最も高貴なものとみなしてゐるもの――その中には、誰にも知られぬやうに当時の或る社交画報からとつて置いた、若くて死んだ或る美しい公爵の若夫人の、顔だけを円く切抜いた小さな写真もたしかあつた――を、うまく仕舞はなければならない。またそれとは逆に、私が「悪いもの」といふ部類に入れて、いはば、自分の弱さや醜さに罰を与へるために保存してゐたもの、たとへば曾て私の涙でべたべたになつたことのある、そしてアーチの内側の青い彩りがいつの間にか褪せて、外側にまでにじみ出てゐるあの積木などは、それとはずつと離れた浅い方の抽斗に入れなければならぬ。それは、もう二度と同じ過ちを犯さぬため、ちよいちよい取出して眺め易くするためだ。……私はそのやうな計画が実現した暁にこそ、自分は純粋になれると信じた。かうした空想が次第に私を暖めて、私は最前の憤りを忘れ、ほとんど幸福でさへあつた。
 母は私がさうひどく悲しまないのを見て安心した。さうして私は母を失つた。あとで、たしか中学の上級に進んだころ、私はこの用箪笥のことをはじめて、世話になつてゐる伯母に告白した。伯母は愉快さうに笑つて、「あの時はあなたの成績にさわりはしまいかと、お母さんはじめみんなで心配したものだけど、まあ本当に子供の気持つて無邪気なものだねえ」と言つた。私はそれを聞いて、もう何も言はなかつた。そののちこの伯母が私のゐる所で、母にこの笑ひ話をして聞かせた。母は「まあ」といつて静かに微笑んだが、それは淋しい笑ひではなかつたやうだ。
 私は伯母の家から中学へ通ひはじめた。その四年あまりは、私が一ばん母から離れて生活してゐた時期だ。いや寧ろ、私にとつて母は存在しないといつた方が当つてゐるだらう。したがつて多くを語ることは避けなければならない。
 前にも言つたやうに、すでに他人に犯されぬ一世界を構へて、そこの専制的な住み手であつた私は、再縁した母のことを殆んど考へなかつた。時々、「お母さんにあんなに苦労をかけてゐるのだから、あなたはよつぽどしつかりしなくちや」などと伯母たちに言はれると、かうした言葉に私はまづ言ひ古された卑俗な人情噺の臭ひを嗅ぎつけ、だから偉くなればいいのぢやないか、と私は内心に昂然と言ひ放つた。母の行為を、母といふものが息子のためにする当然の献身としか考へることをせず、それ以外のあらゆる考へ方を拒否した。私は母を、それ自らの運行をしてゐる別の星のやうに見てゐた。もちろん感謝の念がなかつたわけではない。それどころか感謝は抑圧されてゐるだけ、人一倍に強かつたかも知れない。しかし私はそれを内心に乃至ないしは口に出して表白することに、母を侮蔑するわざとらしい形式以外の何ものをも認めなかつた。断わつておくが、私は何も感謝を虚偽と見たのではない。私はそれを、人間の知力にとつて自明の公理と見てゐたのだ。私は唯、それを他人の前にわざわざ表明する大仕掛な仕草に愚昧ぐまいと虚偽とを見、それへの羞恥感に堪へられなかつたまでだ。したがつてまた私は、他人から礼を言はれることを極度に嫌ひ、ほとんどそこに侮蔑の表白をすら感じとつた。
「君は僕を、君の感謝してゐることがわからぬほどの感の鈍い男と見てゐるのか?」もし許されたなら、私はこんな面罵めんばを相手に加へかねなかつたらうと思ふ、「僕は僕のしたかつたことをしたまでの話だ。何も言はないでくれ!」(この礼の言葉の言へない習慣は青年期の私にも残つて、ひどく私を苦しめた。)
 私は母にたびたび会つてゐた。しかし生活はもう離れ離れになつてゐた。で、母は信じようとしなかつたが、少くも私の平生を知つてゐる伯母だけは、私の心の動きをある程度まで見抜いてゐたらしい。「人一倍情のつよい癖に。……ひねくれた子だね」と伯母は笑つた。さうした伯母の揶揄やゆに遇ふたびに、私は何故かあわてて否定した。私はただ自分が純粋なだけだと信じてゐ、その純粋さを伯母に見透されたことを非常に口惜しく思ふのだつた。私は自分には何か自分自身を誇示するやうな要素があるのではないかと疑つた。私は益ゝ堅固けんごに自分を鎧ふことに努力した。それは今になつて思へば、それは当てどのない反抗にすぎなかつたが、少年時代の私の燃えるやうな野心の在り場は、これを措いて他にはなかつた。
 かうして私の非情の道徳は徐々に形成されて行つたのだ。それはいはば無表情の修練を意味した。また次第に、あらゆる卑俗なものへの反抗を意味した。だんだん私は自分の硬さを信じるやうになつた。それに思ひあがりはじめてゐた。私が涙といふものを醜いと思つてゐたことは、あらためて言ふまでもない。
 さうした中で私のはじめて手にした大人の本は、友人にそつと貸して貰つた『何処へ行く』の訳本だつた。私はそこに物語られてゐるキリストと反キリストの闘争を、ほとんどネロの眼でしか眺めなかつた。あの物語の緯糸よこいとになつてゐる若い男女の恋のいきさつなどは、愚かな戯れとしか見なかつた。言ふまでもなく私を捉へたのは、あのペトロニウスの哲学だつた。わけてもその死に方だつた。私は烈しく、そこに表はれてゐる昇華された肉感に動かされた。その後ほとんど青年期の中ごろまで、ペトロニウスの生き方は私の信条になり、私を最も深く感動させる本は、多かれ少なかれ彼の血統をひくものと私を信じさせる本に限られてゐた。私がはじめて小遣を蓄めて購つた高価な本は、絵入りの贅沢な『アラビアン・ナイト』だつた。
 あるとき母は、私が高瀬家へ行つても打ちとけないで、義父に対しても妙に余所余所しくすると言つて咎めた。そして「一度でいいからお父さんと呼んで御覧なさい。きつとお喜びになるから」と附け加へた。私は戦慄を感じた。私は言下に、「あの家の人は教養がないから厭だ」と答へた。この教養といふ言葉はそのころ非常に気に入つてゐた言葉で、いろんな勝手な意味を含ませてゐたのである。母は蒼ざめて、もう何も言はなかつた。私が義父を『お父さん』と呼んだのは、中学の上級生になつてからで、その時は何かひどく堕落して打算的なことを言つたやうな、気恥かしさを感じたと記憶してゐる。
 その一方、私は中学へはいると間もなく、建築といふものに烈しい熱情を覚えはじめた。そのころ『住宅』といふ薄い雑誌があり、それを或る夏、本屋の店頭でふと手にとつたのが動機だつたやうだ。それは創刊号で、軽井沢にあるといふ別荘のプランや、海辺のサマア・ハウスの設計図などが、ひどく私の空想を刺戟した。それは非情なものに憧れる私の性情が、石や瓦や漆喰やタイルから成る建築に、究極の友を見出したからだつたかも知れない。東京にあるすぐれた住宅の幾つかも、私はこの雑誌から教はつた。私はそれが歩いて行ける場所だと一々見て廻つた。やがて私は方眼紙を買つて来て、自分で設計するやうになつた。そのうちに私の空想は、五十坪か百坪でまとめて、そこに住む人々の数も品格も限定されてゐる、当り前の住宅建築では我慢ができないまでに昂進して行つた。さうした私を心酔させたのは、当時の私の家からあまり遠くない見附に臨んでゐる或るルネサンス風の宮殿だつた。
 もしあの宮殿に番兵が立つてゐたのだつたら、夏休みになると選りに選つて午後二時ごろの日盛りを、中学の帽子をかぶつた下品ではない小柄な色の白い少年が、あの見上げるやうな高い鉄柵の前の篠懸の並木道(それはまだ現在のやうにととのつた小公園をなしてゐなかつた――)を、何気ない振りをしていつまでも往きつ戻りつしてゐるのを不思議に思つたに違ひない。彼はその少年を咎めたかも知れない。あるひは友達になつたかも知れない。それは私の夏休みの日課だつた。私は人目につきはしまいか、咎められはしまいかとびくびくしてゐた。まつたくその附近には、時たま外濠線の小さな電車が白い着物の袖をひらひらさせて通るばかりで、羞かしいほど人影がなかつた。私はなぜもつと大勢の人がここへやつて来て、この美しい建築を歎賞たんしょうしないのだらうかと、不思議でならなかつた。私は自分だけに許された特権をひそかに享楽した。私はあの高い鉄柵の遥か奥、ほとんど霞まんばかりの炎暑の底に甍の緑青の色を煌めかせてゐる宮殿の秘密を、飽かず盗みとるのだつた。私はその内部を想像した。(もつともその幾つかの部屋の有様は絵葉書で見知つてはゐたが。)表広間の階段の幅、その大理石の手欄の傾斜度、天井の穹窿きゅうりゅうの高さ、奥庭に面した廻廊の様式、さういふ細部を私は熱心に思ひ描いた。私はまた車寄せを中心に見事なシンメトリイをなしてゐるあの前庭の設計に見とれた。その芝生を劃つてゐるあらゆる小径の幅やその描く曲線を目で測つた。両側の境をなしてゐる胸壁に、等間隔に並んでゐる壺飾りを歎賞の眼でかぞへた。それは差し出てゐる樹の蔭に青ずんで見えてゐた。また実際にも雨にうたれて、まるでたくみな陰影を施したかのやうにうつすらと苔づいてゐた。私はやがて鉄柵の周囲をぐるりと歩いて見、その歩数から前庭の面積や建物正面の延長を割り出さうとした。……かうした観察を終ると私はいそいで家へ帰つて、その日の印象や新たな発見を、方眼紙の上に再現しようとするのだつた。勿論それは色々に変形され工夫し直された形であらはれた。気に入つてゐる羅馬風の、中庭のある住宅様式も取入れられた。彫像も巧みに排置され、そして私はその家に三人の少女とそれに仕へる奴隷たちを住まはせた。(ダヌンチオの『巌の処女』も当時の私の愛読書の中にあつたのである。)それぞれの部屋はその住み手を完全に外界から遮るやうに工夫されてゐなければならず、またそれぞれの精神や肉体の美しさを、全く他からの拘束なしに解き放ち、伸々と成長させるやうに設計されなければならなかつた。少女たちは夕暮になると奥庭の水盤のほとりで落合つてそれぞれの一日の思念を語り合ふのだつた。その物語の内容も、設計者である私の仕事だつた。かうして私は詩を書くことを覚えた。
 ある年の暮、義父から貰つた歳暮にお小遣を足して、私はついそのころ中西屋の看板を塗りかへたばかりの神田の丸善へ行き、思ひ切つてアメリカ版の高価な建築の本を二冊買つた。これは収入印紙の貼つてある受取を貰つた最初の経験だつた。もちろん今になつて見れば、かうした建築への情熱は、私の羞恥や潔癖によつて抑圧されてゐた少年の肉情が、別の気層に描き出した一種の蜃気楼しんきろう現象だつたことは疑ひもない。だがさうした解釈をしてみたところで、私はあの当時の私の生活の美しさや悩ましさを一寸たりとも上げもおとしもできないことを思ふ。それは存るものが存つたまでだ。そして少年の敏感さで、その存るものの美しさや悩ましさを生きたまでだ。事実私はこのあひだに、幾人かの理想化された少女を恋し、そしてその恋を片つ端から窒息させて行くことに誇りを感じてゐた。
 しかし、私は大急ぎで、さういふ母のゐない私の生活を駈け抜けなければならない。何故なら私が君に約束したのは、母をとほして私の像をとらへることにあつたからだ。もつとも、一応それ以前の私の歴史をかいつまんで話したのは、一人の子供が母を離れてどんな生態を営み得たかを、君に知らせたかつたからに他ならない。するとこれから話すことは、その子供がそのために、やがてどんな罰を受けたかといふ物語になるのだらうか。私は多分さうなるやうな気がする。……

 ここまで書いて、この先の生活について考へてゐたとき、私はちやうど君の手紙を受取つた。それには、君がいよいよ帰京してよいお許しが出たと書いてある。その日まではまだ三週間ほどあるのだけれど、私は内心に妙にそはそはしはじめた。つまり君とふたたび顔を合はせるまでに、私かここに書きたいと思つてゐることを、ぜひともすつかり君に読んで置いてもらひたいのだ。のみならず、君の手紙には別に非難がましい言葉は見当らないが、永い私の沈黙もわれながら少々気がとがめる。さういふわけで私はとりあへずここまでを封じて君に送ることにきめた。私がいまどんなことを考へてゐるかを君に分つてもらへれば有りがたいと思ふ。いま、君の手紙を封筒に返さうと思つたら、底の方に吾木香われもこうの花のはいつてゐるのに気がついた。出して机の上にならべてみると、すつかりしぼれて、沈んだ緋いろがもう黒ずんでしまつてゐるが、それでも君のゐる高原の季節は感じられる。そこにはもうとつくに秋が来てゐるのだらう。その静かな空気のなかで私の手紙が、病後の君をあまりひどく驚かせないやうに祈つてゐる。


 先日の前の手紙は君に不愉快を与へはしなかつたかしら。どうだつたかしらと心配してゐる。とにかく私は、前の手紙では大そう悪い子供のことを話したから、こんどは非常に善い子供のことを書くつもりだ。……
 中学の五年になつた時、私の生活に久しぶりの変動が来た。つまり私は、上級の学校への入学準備をするため、高瀬の家に引き取られたのだ。
 私はそこに再び母を見出した。この頃から、己れの硬さと信じこんでゐたその物によつて傷ついて行く私の歴史がはじまる。いはば私が、大理石の肉体から次第に生身なまみの人間になつて行く歴史がはじまる。しかしその変化は直ぐにはやつて来なかつた。私は当分のうちは、高瀬の家でも、他から犯されぬ境に身を置くことができた。
 一たい母が嫁いで行つた頃の高瀬家のやうな陰惨な家庭が、大正末年ごろの東京に他にあつたかどうか、私は疑はしいと思ふ。君は極端な言ひ方をするといつて咎めるかも知れないが、そこには一すぢの文化の光もささず、あるものはただえた封建の臭ひだけだつたやうな気がする。これはあるひは、農村から単身上京してみごと重役の椅子を占めたばかりか、歌道や書道にも立派な素養を身につけおほせた高瀬の父が、文化の摂取をとりちがへて、旧官吏階級の遺物である封建の遺習にひたすら学ばうとしたせゐかも知れない。そこでは上の四人の女の子は順に義勇奉公ぎゆうほうこうといふ名がついてゐた。父母は父の居間で食事をとり、七人の子供たちは別間で極端な粗食――たとへば冬の朝学校を急ぐ子は、凍つた麦飯に水をかけて食ふといつた類の――に甘んじさせられてゐた。男の子に対する体刑などもかなり極端なことがあつたやうに聞いてゐる。長女はもう女学校をそろそろ出るといふ年頃であるのに、外へ着て出られる着物は一枚も用意してなかつた。ひよつとしたら一年前に亡くなつたといふ彼らの母は、ひどい憂鬱症ゆううつしょうにをかされてゐたのではないかと思ふが、とにかく七人の子供はこの激しいスパルタ式教育の下で、ひどくいぢけて醜くかつた。さうした実業家の家庭に、武士の血をひく官吏の環境にかなり厳しく育て上げられ、しかも清廉せいれんな地方官の妻であつた母が、あべこべにリベラリズムの空気を注入しなければならなかつた。母のしなければならなかつた第一の仕事は、父を子供たちの食堂へ引き出すことだつた。父親の権威の手前容易に承知しなかつた父も、「それでは子供たちの教育はお引受け致し兼ねます」といふ母の言葉にやつと折れた。これを手はじめに、母はあらゆるこの家の習慣を打破して行つた。それは主として父親と子供たちとの間の融和をはかることだつた。七人の子供たちはおびえきつてゐた。彼らはこの継母のすることを不思議さうに眺めてゐた。やがて子供たちも次第に新しい生活様式に慣れて行き、父も家庭の楽しみを、勿論その権威の一部は守りながら、次第にさとつて行つたやうに思はれる。
 私が引きとられて行つたのは、もはやかうした改革が一応終つて、父が全く母を信用するやうになつた後だつた。引きとられた日、父は私を呼んで一場の訓辞を与へた。「もうこれからは君をわが子と見て、他の子供たちと一切区別はしない。したがつて呼び棄てにする」(それまで父はくんをつけて私を呼んでゐた)といふ意味を言ひ、素行上の注意を与へ、さてあらためて子供たちを呼んで私を引き合はせた。この父はさういふ儀式がひどく好きな、子供らしいところのある人だつた。母はいつもそれを可笑しがつてゐたが、やがて子供たちも成長するにつれて、次第に可笑しがりはじめてゐた。つまり父はいつの間にか暴君の座から引きおろされて、好々爺こうこうや式な父に変化して行きつつあつたのだ。もつとも雷雨はかなり頻繁に来た。厳しさも全く失はれたのではなかつた。さうして残された怒りつぽい父の一面は、子供の眼には父の志操しそうとうつり、むしろよい影響を与へてゐたやうに思ふ。
 私は父の訓辞の内容を点検した。それからは、私の解釈によると、無私への意志が抽出された。それはほとんど愛に似てゐたかも知れない。しかし私はこの後者をまだまだ信じなかつたし、よしんば信じたにせよ、たぶん逃げ出したらうと思ふ。が少くも私は、父の非常に深いはずの人間的鍛錬にもとづく無私の可能を信じた。また自分が無私になり得る自信も確かにあつた。私はこの父と男の取引をしようと決心した。その一方で私が、全く同じ無私を母にも要求したことは言ふまでもない。けれどこの方はまづ心配はなかつた。母はその持前の勝気――それは時には侠気に似ることすらあつた――をもつて、この二重の献身をみごとに統御しおほせてゐた。その日以来、絶えず母の行動の不安の眼を注いでゐた私にも、それはほとんど完全なものにうつつた。それは一つには、母を独占しようといふ欲望を全く感じない、少くもそれを完全に窒息させることのできる、私のゆがんだ性格も手伝つてゐたのだらうけれど。……
 もちろん、内心では私は容易にこの新しい父や姉妹と融和しなかつた。明確にいへば、終に融和し得なかつた。にがい自白をすると、「何をこの商人が」といふ肚をどうしても棄て得なかつた。この内心の声は、私の懸命の抑制にもかかはらず、時として表面にあらはれることもあつたらしい。一度、晩食後の雑談の時、父が「もう世話をしてやらん!」と憤然と言ひ棄てて、廊下に荒々しい足音をひびかせながら、書斎へ帰つて行つたことがあつた。私が怒らせたのだ。何を言つたのかは忘れた。その時の母のおろおろした顔をはつきり覚えてゐるだけだ。
 さういふ怒りの瞬間にあらはれる父の半面は、非常に女性的だつた。暗い猜疑さいぎ狭量きょうりょうとが、こつちのはらはらするほど裸かになつて出た。私はそれを見るのがたまらなく厭だつた。これほどの苦労をして来た人に、どうしてその小心さを蔽ふすべすら体得できなかつたのかと、不思議の念に駆られるのだつた。だが父のことはこれくらゐにしておかう。私は賢くなつて、二度と逆ひはしなかつたし、その頃の高瀬の家は、先妻の子が四人のほかに、継母とその連れ子がゐる家庭とは、とても見えぬほどの和やかさがあつた。のみならず私は、志望する建築へ私を導いてくれるはずの上級学校に入学してゐた。それは入学の困難な学校であつた。私は自分の星を信じ、傲慢でさへあつた。そしてこの傲慢が、私にほとんど完全な謙虚さを身につけさせたことは言ふまでもない。
 ただ一人、平和をかき乱す者がゐた。それは二男の嗣二だ。君ももう度々彼には会つたはずだから、あの特異な風貌は忘れずにゐるに相違ない。この嗣二は母の死にも、私はその他の原因たちと一緒にあきらかに関与し、かつ私にはじめて現実(いま私はこの言葉を『世俗の本質』といふ意味に使ふのだが――)を教へて呉れたいはば恩人だから、少し詳しく書いておかうと思ふ。
 最初この嗣二は、ただ奇態な少年として私の眼に映つた。中学の二年になつてもまだ分数が完全に扱へず、知力はほとんど零だつた。その一方では感情――ことに猜疑心が極度に発達してゐた。意思を全く欠き、ムードが絶えず浮動し、涙もろく、同情と憎悪が間断なく交替し、壮士的な正義心が強く――かう数へ立てるまでもない、彼は明かに変質児の徴候を帯びてゐたのである。彼は絶えず家内に敵手を持たずには生活できなかつた。その敵手には父をのぞく他のすべての成員が、一人づつ任意に選びとられた。なかでも被害の最も甚だしいのは女中だつた。彼のために泣かされぬ女中は前後を通じて一人もなく、ほとんどすべての女中の暇をとる原因は彼だつた。しかし父は、嗣二のことを他の子供たちから訴へられるごとに、非常に迷惑さうな表情をした。時には怒りさへした。もちろん三度に一度は折檻を加へるのだつたが、「どうもあの子は子供の頃の俺によく似てゐて、殴らうと思つても殴れん」とよく母に愚痴をいつたと聞いてゐる。
 嗣二の得意としたのは、巧みに相手の急所を衝く術である。自分のことについては白痴のやうに内省を欠く彼が、ひとたび他人の心理になると驚歎すべき的確さを以て弱点を射た。その彼の好適の餌食として、私はよくかういふ目に遇つた。たとへば食事のとき、私が御飯のお代りを出す瞬間を狙つて、彼は顔を庭へ向け、雀でも呼ぶやうな何気ない声で「イ、イ、イ」と発音するのである。もちろん居候の意味である。彼はかうした刹那の微妙きはまる効果を実によく心得てゐた。なほその上に私の敏感さや自尊心を巧みに計算に入れて、次の瞬間にはけろりとして私の名を呼び、何かしら無邪気な問をかけるのだつた。もしくは母の名を呼ぶのだつた。つまり母や私の返事にあらはれる心の波立ちをためさうとするのであるが、それらの呼掛けには贋ひ物ならぬ人懐こさが溢れてゐた。それは天才の仕業に近かつた。些かの隙もないので私は笑つて済ますほかはなかつたが、その私の笑顔がどんなに不自然なものだつたかを思ふと、いまだにやり切れない気がする。下顎部の異常に発達した色の黒い彼の容貌は、人間離れがして醜怪しゅうかいであつた。それは私の胸に弾け返る憎悪を二倍にも三倍にもした。
 さういふ彼が父の偏愛を巧みに見抜いてゐたことは言ふまでもない。また彼は、念入りに父の欠点ばかりを拾ひ、それを父の美点と認識して模倣につとめた。また母については、継子いぢめの物語(その紛本は講談や少女小説や婦人雑誌の告白物などにほとんど無数に見いだされたに相違ない――)を巧妙に創作して、それを隣近所に訴へて廻つた。あとで耳にしたことを綜合すると、さういふ時には父の慈愛や亡くなつたあの陰惨な母親の優しさをくどくどと述べて、涙を流すのださうである。近隣の人々はこの巧みな芝居に貰ひ泣きをした。それはまた嗣二によつて、近所の少女たちの愛を求める卑劣な手段としてさへ役立てられてゐたらしい。現に嗣二は不用意にも私に、この点に触れた或る少女からの手紙を見せたことがあつた。(喜怒哀楽を包むことの出来ない彼は、好んでさういふ手紙の差支へない部分を私に示すのを常とした。)その手紙の一節にははつきりと、「亡くなつたお母様を慕ふあなたのお気持に、母も私も泣けて仕方がありませんでした」と記してあつた。彼はその少女からもらつた写真も私に見せた。それは樹蔭からテニス服の姿をのぞかせた、背の高い美しい少女だつた。顔立はむしろ端麗ですらあつた。
 夜更けには、この嗣二の部屋から、押し殺された実に奇妙な声が、二間ふたまほど隔てた私の部屋にまで伝はつて来ることがあつた。それはある時は嗚咽であり、ある時は忿怒ふんぬの叱声であつた。私はその声をまるで猛獣の呻きのやうに聞き、最初はひよつとしたら彼には二重人格の発作があるのではないかと疑つた。間もなく分つたことだが、それは彼が一日の回想を丹念に記録しながら、われ知らず発する叫びだつたのである。彼はこの記録だけは決して人に見せなかつた。私はこの記録に興味をいだいてゐる。もしやそこには、神と悪魔の怖るべき格闘が見出されるのではあるまいか。よしんばそれほどのことはなくとも、変質といふ現象を研究するうへの、貴重な資料になり得るものではあるまいか。すくなくとも或る種の文学者に豊かな資料を提供するものではあるまいか。
 とまれ私は、当時の彼に変質児をしか見なかつた自分の誤りに、今でもはつきりと気づいてゐる。嗣二こそは『現実の天使』ともいふべき存在ではなかつたらうかと思つてゐる。彼こそはその儘、現実がその底にひそめてゐる原始力の純粋なあらはれではなかつたらうか。私はこのことを非常に後になつて悟つたのだが、おそらく彼は、この不能児として兄妹たちからも蔑まれてゐた嗣二は、母の二重の献身にもかかはらず、また私の幼時から養はれてゐた深い自省癖による高瀬家の平和と秩序への精一杯の努力にもかかはらず、ある異常な眼をもつて、いはば白痴的な敏感さをもつて、私たち母子のつひに気づくことのできなかつた或る宿命的な弱点を、見抜くべく運命づけられた不幸な子ではなかつたらうか。さうした人間意志による構築物が宿命的に担つてゐる或る無力の間隙に食ひこむ、自然力の権化ではなかつたらうか。私は今ではほとんどそれを信じてゐる。嗣二こそは、その父が認めてゐた如く、純粋この上ない父の子であつたのだ。彼は高瀬家を流れる暗い血の最も醇乎じゅんこたる継承者として、盲目の力に押されて私たちの生活面に躍り出、一役買つたに過ぎないのだ。彼の不気味な相貌は、よくこの間の事情を説明してゐる。また父がこの子を憎まうとして、つひに憎み得なかつた事実も、私のこの解釈に荷担する。そして事実、彼が不能児でなかつた証拠には、彼は略ゝ二十五歳の頃には漸くこの変質状態を脱し、それと同時に性格の急激な衰弱を示して、現在では相当の会社の社員として、なんとか世間人に伍して生活してゐる。
 私が前に、彼を私の見いだしたはじめての現実と呼んだのは、野性的な現実の最も純粋なあらはれとしてである。それはともあれ、嗣二が母の大きな失望と心労の因になつたことは、あらためて言ふまでもない。そこには現実に洗はれる人間意志の儚さが早くも見てとられた。さうした母にとつて幸ひなことは、他の子供たちは少くも母の努力を認め、母の立場を理解して、ある程度の同情の涙を惜しまなかつた。そして彼ら自身も嗣二のために傷ついた。常識的な人間の眼からすれば、また私の眼から見ても、母には継母の要素がまづ見られなかつたからである。この間に処しての父の態度は、奇怪なものだつた。父は眼をつぶつて見ない振りをした。父も苦しかつたのではあるまいか。

 私についていへば、私は嗣二が母に加へる様々の残虐によつて間接には傷つけられたが、直接彼に傷つけられはじめたのは数年後のことだつた。言ひかへれば私は、彼の卑小な襲撃に超然としてゐる自分を、まだまだ意識することができたのである。私が彼の襲撃にまともに苦痛を覚えはじめたのは、私の学業の徹底的な失敗に関連してゐる。しかもその失敗は、どんな意味にもせよ、これらの家庭的事情に基づくものではなかつた。これだけは私が一方ならぬ世話を受けたこの家庭の名誉のために、はつきり言つておきたい。私はそのやうな事情は俗界の現象として眼下に見くだしてゐた。私の蹉跌さてつは、私の夢みてゐた建築の詩が、脆くも建築の散文によつて裏切られたのによつてゐる。この裏切りこそ私にとつて怖るべき打撃だつた。星は砕け落ちた。私には高等数学や物理や化学や植物学が、次第にシメエルのやうに感ぜられはじめ、滅多に教室に出ず、それらの学科のノオトを一頁も読まず、その報いとして立てつづけに落第を重ねた。しかも数年のあひだ私がその学校を見棄てなかつたのは、私がそこに共に詩を語り得る一二の友人を見出してゐたからであつた。言ふまでもなく建築から退却した私は、もつと直接な詩――主として青年を昂めるよりは毒する、あの幻想的な文学に耽りはじめてゐたのだ。しかし私はそれについて語るのはよさう。それは貿易商館の一事務員としての私の現在の境涯に、何の実質的な痕跡も残してはゐない。ただかうした私の度重なる落第に私の堕落を認めず、私の潔白を疑はず、そのたびに私を赦してくれた父の寛大に、不思議な感謝と感動とを覚えずにゐられないことを記しておくにとどめよう。またかうした私の学業上の失敗が、どんなに母の自尊心を傷つけ、その立場を困難にし、明かに嗣二の所業とともに母の発病の一因になつたであらうことを、心から懺悔しておかう。
 やがて私の罰を受ける時が来た。在学年限が切れて私はもはやその学校にゐられなくなつたのである。私はふたたび受験準備をして、二流どころの或る商業専門学校に転校した。そしてあらゆる夢と希望を矢ひ、優越感を泥土でいどに委し、はじめて生身なまみになつた自分を意識した。……
 この機微を見抜かぬ嗣二である筈がない。つひに来た私の転校は、彼の嘲笑的態度に油を注いだ。彼はそれまでは主に母に向けてゐた鋒を返して私に迫つた。ありとあらゆる天才的に直感され仕組まれた嘲罵ちょうばが、私を窒息させるのだつた。私は無念の涙をのんで歯をくひ縛つてゐた。が遂に、私の無抵抗に満足し得なくなつた彼は、その頑丈な肉体でもつて私に挑戦しはじめた。それも様々に工夫されてゐたが、一例を挙げると、私が外出しようとして内玄関へ出て行かうとするのを見澄まし、その途中に立ちふさがつて、とつぜん壁を相手に猛烈な拳闘の練習をはじめるのである。適度に私に向つて投げる流し目、その荒々しい壁への迫力、かすれたやうな掛声――私はこれほど巧みに計算し按排あんばいされた生理的憎悪の挑発法を、あとにもさきにも見たことがない。私の最後の一線まで譲歩した自尊心は、なんとしてもその狭い廊下を通つて内玄関へ出ることを私に強ひた。その先は言ふまでもない、当然の醜い乱闘が展開し、あるひは電話室の硝子を破り、下女部屋の障子をくだいた。そして二人とも憎悪に蒼ざめゆがんだ顔をして、おろおろと泣き崩れた姉妹たちの手で引分けられるのだつた。私は嗣二によつてはじめて、自分の血管に潜んでゐる狂暴性をはつきりと認識した。怖ろしい発見だつた。私の中にはもはや天使はゐなかつた。
 間もなく私は暴力によつて彼に抵抗することをやめた。それは自分の非力を悟つたばかりではない。嫌悪感が異常に昂進こうしんして、私はもはや彼の皮膚のみならず、彼の持物の一切、彼の手に触れたものの一切、いや彼の呼吸した空気にさへ、病的な悪感を覚えるやうになつた。私は一つの抵抗術を発明した。それは彼に対する絶対の沈黙と絶対の無表情であつた。私は一さい彼と口を利くことをやめ、彼の顔へ視線をやることを完全にやめた。嗣二はこの敵手の喪失に狼狽した。彼は食事のときなど父の列席を利して、色々と何気ない親しげな話を仕掛けて、私を引出さうとした。さういふ時には私は点頭でわづかに答へ、それが不可能な場合には適当な単綴音の発音で片づけた。父は確かに気づいてゐながら気づかぬ振りをしてゐた。母や他の子供たちは、はらはらしながらこの二人の敵手を見守つてゐた。
 はじめのうちは非常な努力を要した。しかし修練といふものは怖ろしいものだ。ひと月ほどの後にはこの石のやうにつめたい沈黙と無表情とは、私の第二の天性として完成されてしまつた。この仮面が私の面上に凍りついてしまつた。君がもし注意深い女性であるなら、今なほその痕跡を私の面上に発見し得るかも知れない。その代り人中に出ると私は急いでこれを匿さうとした。私は不必要に饒舌になり、不必要に軽薄になつた。私にはいつのまにか、明るい表情や明るい声音の適当な限界の、見当がつかなくなつてゐた。この私の傾向は、多くの学友たちの顰蹙ひんしゅくを買つたに相違ない。中でも或る友人は、私を『軽い』といふ学校仲間の術語で面罵めんばして、その下宿の二階で私に向つて懇々と感激的な忠告をしてくれた。私は大いにまごついた。この今村といふ男は長野の素封家の長男で、非常に頭のいい男ださうであるが、どうしたわけか無責任な翻訳による恐らくでたらめなドストエフスキイ全集を唯一の精神の拠り所として、きたない下宿の一室に陰鬱な生活を営み、深刻の擬態のもとに眉をひそめて酒を飲んでゐた男である。現在では博物館か何かに勤めてゐるさうだが、私はこの男のことを思ひ出すたびに、侮蔑と憐憫の念をいまだに禁じ得ない。
 そのやうな急迫した空気が、ほとんど二年間あの家庭を包んでゐた。その間に傷つかなかつた者は多分嗣二だけだつたらう。父は? 私が当時の父に逃避者を認めて内心に父を責めてゐたのは実は間ちがつてゐた。父は重大な事業上の失敗のため、まつたく家庭を顧みる余裕がなかつたのである。当時の父は母が嗣二の成績のことや素行上のことで相談を持ちかけると、「あの嗣二のことは一切俺の耳に入れんでくれ、俺はあいつの顔を見るのも厭なのだ」と、いらいらしげに言ひ言ひしたさうである。母は父を気の毒に思つて嗣二のことは一切口をつぐんだのみか、ほかの子供たちの訴へも父の耳に入らぬやうに努力してゐた。この夫婦の間には、あの静かな老年の愛が、やうやく生れはじめてゐたのである。父の背負ひ込んだ負債は十万に近かつたらしい。……

 母は私が転校して二年目の晩秋、とつぜん脳溢血に襲はれた。それは木枯しが吹きすさんで、にはかに冬の気配の感じられる晩で、母は風呂からあがつて着物をつけようとしてゐた時であつた。ちやうど運よく遊びに来てゐた私の伯母が一緒に入浴してゐて、母の異様な挙動に気づくといそいで着物をきせ、女中を呼んで、力を協せて寝床へ運んだ。母はよだれを流して昏々と眠に落ちた。
 外出してゐた私は、おそく帰つてこのことを知つた。近所の医者が「どうも難かしさうです」と言つて帰つた後だつた。母の顔に眼を近寄せて見ると、額に冷たい汗をかいて、寝ぐるしさうだつた。父は旅行に出てゐて、電報は打たれたが翌朝でなければ帰れぬはずだつた。間もなく私の義従兄の医者が来て、「お母さんも苦労したからなあ」と、脈をとりながらいきなり医者らしくないことを私に言つた。彼の注意で氷嚢ひょうのうが用意された。私はその夜この従兄の口から、母は三十五で既に月経が閉止してゐたことを初めて知つた。「だが、それだけが原因ではない」と従兄は言葉を続けた、「脳溢血には精神上の苦労が非常に手伝ふのだ。」彼の言葉は、叱責のやうに私の耳を打つた。
 まもなく、約一時間ののち、母の意識が返つて来た。母は起きようとして身をもがいた。従兄が顔を近づけて、「私が分りますか」と聞くと、母は「いやだね、私を病人扱ひにして」とでも言ひたさうに笑つた。もちろん口はまだ利けなかつた。私たちはその口許のひどく歪んでゐるのに注意した。母は利く方の手を上げて頭痛を訴へた。従兄は、「この分なら今日明日といふことはあるまい。あるひは不自由でも一旦は癒るかも知れない」と言ひ、二三の注意を与へて他の往診先へ廻つた。我を張るやうになるから気をつけるやうに、といふことも彼の言葉の中にあつた。
 私にとつて、母が無性に惜しくなつたのはこの晩のことだつた。私は逃げるやうに二階の自分の部屋へあがり、声を忍ばずに嗚咽した。『母』といふものが、初めて私の意識全体にひろがり、私はこの見知らぬ文字の前で身をもがいた。今まで私の硬い全体であつた自己といふものが、この不思議な字の前に微塵に砕け散つて無に帰し、私ははじめて虚空に漂ひ出た無形の自分を意識した。いや、形がなかつたばかりではない、その私には既に存在がなかつた。母がゐなくなる、母が存在しなくなる、この母の力が私を離れる、私がそれと離れて一人この人生に取残される。……私はその状態を一所懸命に思ひ描かうとした。しかしどうしても考へられなかつた。この母の精神が、あらゆる残虐のうちに生きたこの母が、私の感謝の声をつひに耳にせずに、無言の赦しの色を面に浮べたまま消え失せ、私が永遠の悔恨とともにこれから何十年の人生を一人で取残される。さういふ状態があるものか、あつてよいものか。それは私の想像を絶してゐた。私は窒息しさうになつて窓を開けはなつた。
 一体二十五歳にもなつて、かうした身も世もあらぬ、まるで幼児のやうな苦悶に取憑かれることがあり得るものだらうか。私はそれを自分に言ひ、笑つて、この収拾のつかぬ想念を振払はうとした。だができなかつた。窓の外には冷たい星空がひろがつてゐた。私はその闇に見入つた。その時だ、私が突然、奇怪な宇宙音をこの耳ではつきり聞いたのは。私はこの聴音をどう君に伝へたらいいかを知らない。それは無限の彼方を、万物を慴伏しょうふくさせつつ渡つてゐた。轟々と天伝うてゐた。ピタゴラスの説いてゐる天体音楽といふことを、私はたしか心理の講義で聞いたことがある。それは運行する天体たちが一緒になつて大いなる霊妙音を奏するといふ仮説であつたが、私がこの耳で聞いたのはそんなものではない。それはいはば悪魔の哄笑であつた。いや、もし何者か悪魔よりももつと怖ろしい、人智の想像を絶したものがあつて、それを仮に虚無と名づけるとすれば、それは正しくこの虚無の発する名状すべからざる不協和音であつた。この不気味な魔の音楽の存在を、私は未だに物理学的にすら信じてゐるが、もし何かの異変で人間の耳の慣性が消滅し、にはかにこの音が津波のやうに聴覚へ押寄せたらどうだらうか。その時、狂人にもなれず聾にもなれず、ただ一人この地上に取残された人があつたらどうだらうか。さう、母の喪失といふ想念が、私にとつてこの場合、耳の慣性の喪失と略ゝ等値であつたことを私は認めずにはゐられない。それはこの空虚感の底で私の耳を捉へた音だつたのである。この奇怪な宇宙音を私はそれ以来毎年の秋かならず一日二日は耳にする癖がついたが、初めてそれを聞いたこの晩とは次第に性質が違つて来てゐる。その晩は、この幻覚とともに母が肉体の枷を脱け出て、一つの精神として初めて私にまとひつきだした記念すべき一夜であつた。私は今まで言はなかつたが、幼少の頃からあるひは母を肉体的に憎んでゐたのではないかと思ふ。とすれば死の一撃が肉の憎しみを滅ぼしたのだ。……
 やがて少し気の鎮まつた私は、下へ降りて行つた。母の寝室は電灯が消されて、廊下から這ひこむ鈍い光でわづかに照らされてゐた。私はその薄暗がりの中で、今しがた聞いた宇宙音より、ある意味ではもつと怖ろしいものを見いださなければならなかつた。
 廊下の障子をあけると、私は母の枕頭にうずくまる黒い影を認めた。「誰?」と私は聞いた。すると意外にも嗣二の涙声が醜く私の耳に答へた。私は反射的にはいるのを躊躇し、そして次第に闇に慣れて来る私の眼には、やがて嗣二のしてゐることが見えて来た。彼は時どき片袖で涙を拭きながら、両の拳で母の額を軽く叩いてゐるのである。その姿は私にほとんど類人猿の醜悪を感じさせた。だがそれよりも私を驚かしたのは、彼のしてゐる事だつた。私は我を忘れて、「馬鹿」と叫んだ。「脳溢血がどういふ病気なのか知らないのか。頭の中の血管がやぶけて……」私の声はとぎれがちだつた、「血が脳髄の中へ流れ出すんだぞ。大きななりをして、そんなことさへも分らないのか。やめろ、おい、分つたらやめろ!」嗣二はやめなかつた。やがて、とつぜん啜り泣きをはじめたかと思ふと、涙にぬれた怨めしさうな顔を上げて、「僕はお母さんの言ひつけ通りにしてるんだ。僕は……僕が心配ばかりかけたから、お母さんはこんなになつたんだ。お母さんは頭痛がするんだ。……かうしてゐるといい気持だつて言ふんだ。僕にだつて……僕にだつて、これ位のことさせて呉れたつていいぢやないか……」と言ひながら、しきりに涙をこすつては叩きつづけた。私は愕然とした。もちろん一種の滑稽感も胸の底をかすめずにはゐなかつた。私は一言もなく閾の上に棒立ちになつて、その黒い影と対してゐた。それはすでに現実の嗣二ではなかつた。何ものかの化現であつた。私は彼の一打ちごとに、母の脳を這ふ血管が次第に裂目を拡げてゆく光景を心に描きながら、一人の息子のためその身を犠牲にした母が、その息子の眼前で甘んじて虐殺されてゆくこの情景を茫然として見守つてゐた。私は手が出せなかつた。なぜならもし私が身をもつて嗣二を遮つたなら、彼は恐らく逆上して本当に母の頭上に激しい一撃を加へるかも知れないからだ。敵すべからざる運命の手がそこにあつた。私は自分の四肢が醜くわななくのを意識しながら、凝然とその場に立ちすくんでゐた。嗣二は黙々としてその動作を続けてゐる。白く浮いた母の顔は眠つてゐるらしく、かすかな鼾を立ててゐた。
 これは私が生れてはじめて眼のあたりにした悪魔の姿だつた。
 父は電報を京都で受取り、翌朝早く帰京した。その頃は母は舌もつれしながらも漸く片言が利けだし、まづ危機を脱した形だつた。その午後、父は子供たちを別間に集めてかういふ意味のことを言つた。「あの病気は、お母さんの年では滅多に出るものではない。みんなあれは心配のせゐだ。お母さんにはみんなでえらい苦労をかけたからなあ。なかでもこのお父さんが一番悪い。お前たちもみんな胸に手を当てて考へて御覧。みんなでお母さんを病気にしたのだから……」そこで父は言葉をきつて無理に笑はうとした。「もしお母さんがよいよいになつたら、毎月代り番こでお母さんをおぶつて帝劇へ行くのだぞ。」父は泣いてゐた。

 母は間もなく恢復した。口にはかすかな歪みが消えずにゐたが、三ヶ月後には手足の不自由はほとんどなかつた。嗣二も当座は非常におとなしくなつて、しつこいほど母を大切にした。もつとも母の恢復を待つて、「うちのお母さんは中風なんだよ」と近隣に触れまはつたのは中学五年生の他ならぬ彼だつたことも事実である。「こんな口をしてるよ」と母の口の恰好を真似て見せた。私はそんな噂を聞くたびに何か美しい地獄絵を見る思ひがした。
 しかしとにかく、この家をふたたび平和が訪れてゐた。その中で私の困つたことは、母の気持に見られだした変化だつた。脳溢血が我執を強くするのは、従兄も発病当時はつきり予告してくれたことだつた。しかしそれが、母の場合は少し形を変へて現はれた。母のそれまでの立派な操守が崩れて、その無私に稍々ひびが入つたのである。つまり母は目だつて私に頼るやうになり、私の為を計らふやうになつた。この現はれは、他の子供たちの眼にはまだ映らず、最初は私だけが感じてゐたことだつたらうが、それにせよ私はこの処置には困つた。母にその病状をあばいて見せるわけには行かず、やむを得ず私はなるべく母から遠ざかつてゐるやうに努めた。私の薄情には慣れてゐる母は、多分私のこの態度に不自然さを見なかつただらうと思ふ。「もしお父さんが亡くなつたら、あなたは私を引取つてくれるだらうね。お父さんが亡くなつたあとで、この家の世話になるのは厭だからね。」夏の宵など、父の帰りが遅く子供たちが夜店などへ出かけたあとで私が残つてゐると、母は縁側に無邪気に投げ出した両足の蚊を追ひながら、夢みるやうによくそんな話をした。そのからだは以前よりも小さく見えた。私は母に老いの来たことを知つた。
 もう一つのあらはれは生への執着の増したことだつた。勝気で楽天的な女として親類の中でも通つてゐる母が、私や義妹に時たまこんなことを言ふやうになつた。「私にまたこの病気が出て、お医者が死んだと言つても、鼻に綿をつめたりしちや厭だよ。ひよつとして生き返るかも知れないからね。……焼場へ行つてからも、扉の外でじつと聴いてゐておくれね。せつかく生き返つても、そのまま焼かれちや何にもならないからね。」それはほとんど暢気のんきな口調だつた。だが急に真面目になつて、「いいかい、忘れちや厭だよ」と念を押す時もあつた。私はこの母の気持がよく分るやうな気がした。母は生きたいのだ、よし一年でも、半年でも、自分の生活がしたいのだ。……堪へがたい苦渋さが私をさいなんだ。私の硬さの崩れた隙間に、感傷の雑草が来て根を張つてゐた。私はそれをぢた。しかしせめて母が死ぬまでは、この根を引き抜かずにおくのが天の命令のやうな気がした。
 さういふわけだから、間もなく私が学校を卒業し、就職口が北海道に見つかつた時には、私はむしろ喜んだ。母も不思議に反対しなかつた。ただ何ものか私の出発をひきとめるものがあつた。君はそれを何だと思ふ。私は今だからこそ笑つて自白する。それは末の娘の秀子だつた。この秀子は、君が高瀬の家のものの中で一番親しくしてゐるはずだから、その人柄については今さら述べる必要もあるまい。ただ私がこのとき彼女に惹かされた感情の何かを、やや的確に説明するため、一応彼女の成長史を顧みておかうと思ふ。実は私を君との婚約へ導いたのは、君は驚くかも知れないが、ある意味ではこの秀子だつたのだ。
 母が高瀬家の人となつた当時、秀子はたしか三歳だつたかと思ふ。私はその頃の彼女を記憶してゐるが、一口でいへば西洋の婦人が愛玩するとかいふあの懐中猿のやうな感じのする、痩せこけたしなびた子だつた。その顔には皺さへも寄つてゐた。かういふことは、前にちよつと触れた高瀬家の陰惨な空気に考へ合はせれば、たやすく頷けることと思ふが、子供たちのうちで誰よりも先づ母に不安の眉を顰めさせたのはこの秀子だつた。その上にからだも虚弱で、絶えず熱を出した。母は「これで育つかしら」と口癖のやうに言つてゐた。そしてたびたび失望しながらも懸命の努力をした。やがて小学校に上り、それを卒業する迄、この不安は絶えず母につきまとつて離れなかつた。この彼女の抑止された発達の原因は、一部はむろん幼児期の環境に帰せらるべきだが、その後は兄の嗣二に帰せられなければならぬと思ふ。彼女の幼女期は嗣二の悲惨な女奴隷として過された。彼のはげしい嫉妬は、寸時もこの妹の身辺から監視の眼を解かなかつた。彼女に買ひ与へられる新しい文房具ははとんどみんな掠奪された。一挙一動、すべてこの兄の許諾と命令によらなければならなかつた。この怖るべき専制君主の行状を又もやここで一々挙げるのは、私としても堪らないことだからよさう。その暴圧の下で、彼女は全く自由を知らず、いや自由への欲望をすら知らずに成長したのである。彼女は母のいひつけよりも、この兄の命令を恐れた。この惨めな心の動きの前に、母は手の下しやうがなかつた。
 秀子が精神的にも肉体的にも漸く発達の兆しを見せはじめたのは、彼女が女学校に入つてからだつた。その学校は有名なミッション・スクールのFである。母はこの女学校がまだ築地女学校と呼ばれてゐた頃の古い卒業生だつた関係から舎監しゃかんをしてゐる旧友に頼んでほとんど無理やりに秀子を入れてもらつたのだ。この母の冒険は成功した。彼女はそこに新しい環境を見いだした。新しい生き方を見いだした。一年級を終るころには、彼女は見違へるほど伸々として来た。性格も明るくなり、智の眼がはつきりと開いたことが見てとられた。さうした精神の解放につれて、肉体もめざめたやうに発達していつた。それを眺める母の眼はいかにも愉しさうだつた。さうした妹の発達を嗣二がどんな眼で見たかは想像に難くない。彼はともすれば妹の態度に自分への侮蔑を見、暴力をふるつて妹を威圧しようとした。秀子にはしかし、もはや彼を判断する眼ができてゐた。彼女は、驚くべき素直さでこの暴圧を耐へ忍んだ。どんな酷い目にあつても、涙すら見せずにじつと耐へとほした。そして、やがて兄がこの残忍な試みにあきて傍を離れるのを見て、静かに母のゐるところへ帰つて行くのだつた。彼女は登校時間のほかはほとんど母と一緒の部屋にゐた。この家庭も、今や季節はやうやく秋であつた。わたくしはその穏やかな白々とした陽光のもとに、最後の花をひらかうとしてゐるこの末娘の姿を、不思議な気持でじつと見まもつてゐた。ずつと後になつて、私は『田園交響楽』といふ小説を読んだが、その中のジェルトリュードといふ盲目の少女の運命をこの秀子のそれに思ひ合せて、興味が深かつた。そこには精神の発達につれて、魂の磨かれるにつれて、睡つてゐた美が次第に現はれてくる少女のことが書いてある。私はもし母の生きてゐるうちにこの本を知つてゐたら、きつと読んで聞かせただらうと思ふ。
 君も知つてゐる通り、今でも秀子は決して美しいとは言へない。だが多分君は、彼女の表情に漂ふ清楚な輝きを見逃してはゐまいと思ふ。また彼女の心の動きに素直な美しさを認めずにはゐまいと思ふ。むしろ痩せた、すらりとした彼女の容姿や物腰に、ひよつとしたら君は微妙な智の働きをすら見いだしてゐはしまいか。そしてもしそれらを彼女に見るのが私の眼の迷ひでないとするなら、それらはみなあの母によつて睡りから目覚まされた素質なのだ、と少くも私にだけはさう考へさせておいて貰ひたいと思ふ。私は秀子のうへにあの母の愛が、いまだに安らかに憩つてゐるのを感じる。母のもつてゐた教養が静かに息づいてゐるのを感じる。彼女は私にとつて、いはば母の形見のやうなものだ。私は、私がつひに母の子ではあり得なかつたと同じ意味で、彼女こそ母の子であり得たのではないかとさへ疑つてゐる。……
 私が北海道へ発つ前に(彼女は三年生だつた)、彼女に感じた牽引には、今いつたやうな気持がもつと漠然とした形で現はれてゐたのにちがひない。漠然としてゐる代りにそれは強かつた。私が母を惜しがりはじめてゐたことは前にもいつたが、それにつれて母の形見を欲しがる気持の動くことも否定できなかつた。私は母が大切にしてゐる少女時代の記念品――御影ごえいやコンタツや、あるひは母の学生時代の写真などを、秀子と奪ひ合ふやうにしてねだるのだつた。私はその上になほ、秀子をもほしがつてゐたのかも知れない。だがどのやうにして? 私は彼女との結婚を夢みてゐたのか。さういふ夢が微かにあつたことは否定できない。だがその夢は直ちに他の聯想――あの嗣二の面かげによつて次の瞬間には跡形もなかつたことも事実である。私は遺伝の力を信じてゐた。高瀬の家の暗い血の伝統を怖れてゐた。とにかく、私が秀子を惜しがつてゐたことは確かだが、それは恋よりはむしろ愛の方に、もつと正確にいふと惜しいと思ふ気持に、似てゐたやうな気がする。この私の心の動きを君は打算と呼ぶだらうか。その呼び名はどうでも構はないが、少くも私が結婚といふことについて慎重だつたことだけは自ら認めてゐる。
 出発の前日、私は秀子をおいて行くのを非常に辛く感じだした。母の方は、すでに父とのあひだの奥深い老境の愛を信じてゐただけ気が楽だつたが。……私は機会を見て、庭から彼女を呼んだ。彼女は廻り縁をまはつて来て、庭下駄をはいて下りて来た。私は別れが告げたいのだと自分に言ひ聞かせた。また私がゐなくなれば、彼女だけが母の子であるはずだから、母のことを頼んでおかなければいけないのだと。しかし庭下駄を引きずりながら、「なあに」といふ表情をして彼女が近づいたとき、私はいきなり抱き寄せたい衝動に襲はれた。そのとき庭の下を、省線電車が凄まじい震動を伝へながら駅にすべり込んだ。私はたじろいだ。そして自分でも全く思ひがけなかつた詰問の言葉が、私の口をついて出た。「君は忘れてはゐまいね、君がお母さんの実の子同様だといふことを。だのに君は……」私は当然その先につまつた。ゆゑ知らぬ涙がにじみ出たのだ。秀子は謎のやうな笑ひを見せて、駅の構内を越えて向ふに見える森に眼をやつてゐた。私はその笑ひに憎悪を感じた。「だのに君は、どうも他の兄弟たちの味方をしてゐるやうに僕には見える。そりやお母さんにだつて悪いところはある。それがないなどと僕は言ひやしない。だがあれはみんな病気のせゐだ。そこを見なければ間違ひのもとだ。……僕は、だから、この家を出て行く。もう心配はないだらう。……お願ひだ、あんまりお母さんいぢめをしないでくれ給へ。」私は彼女を見すゑながら、大体そんな意味のことを早口に、声をわななかせて、意地わるく述べ立てたと記憶してゐる。とつぜん彼女が顔をうつむけた。唇をかみしめてゐる。その彼女の眼から紫色のものが溢れでた。それは日光にきらめきながら、あとからあとからとはふり落ちた。けれど彼女は我慢づよく両手を下げたまま、それを眼へはやらなかつた。私はほとんど呆れてこの美しい涙を見守つてゐた。彼女はそのすきから何か言つたやうだが、私の耳にははいらなかつた。
 本当をいへば、私はただ、「君のうちにあるあのお母さんのものを大切にしてくれ給へ」と言ひたかつたのに相違ない。しかしこの表現の感傷めいたところが私をいらだたせたのだ。その翌日、私は出発した。

 私は北海道に一年足らずゐて、東京に転勤した。しかももはや高瀬家には入らず、義姉の奉子の嫁いでゐる家に寄寓きぐうすることになつた。その後まもなく母は二度目の脳溢血に襲はれたが、それは非常に軽く、二週間ほど寝てゐて元どほりの体になつた。しかしこれは、やがて三度目といふ不吉な予感を誰の胸にもいだかせずにはおかなかつた。母は割合に平気で、もう呼吸が分つたから大丈夫だといつて笑つてゐた。そして医者の強制する瀉血しゃけつを厭がり、色んな口実を作つて逃げまはつてゐた。
 東京へ帰つて来て私の先づ気づいたのは、高瀬の家の空気に見られる一種の疲労感だつた。何がなしに晩年の匂ひが強くしてゐるやうな気がした。それが父の身辺から来てゐることは言ふまでもない。私が母から聞いたところでは、父はこの頃やうやく例の負債の大半を返済して、その残りは相当の額に上るはずの退職慰労金で悠々と片のつくあてができてゐたさうである。さうした安心も手伝つたのであらう。長い苦闘の一生の末に来た疲労が、よそ目にもあらはだつた。のみならず、そのうちに父は胃の鈍痛を訴へるやうになつた。母が医者に見てもらふことを勧めると、「なに、食ひ過ぎだらう」といつて、我慢づよく電車で出勤するのだつた。肉体の弱まりに応じて、性格も目に見えて折れてきた。しまひには子供たちの部屋へ出かけて行つて、将棋の相手をするまでになつた。私が遊びに行つても元のやうな固苦しさはなく、父は書斎で静かに墨を磨りながら、あるひは自分の歌稿に朱を加へながら、私の話す貿易の事情などをいつまでも興味ぶかさうに聴くのだつた。そして、「まあ、しつかりやれ」と言つてくれた。私は時によると二時間ちかくも父と対坐してゐることがあつた。さういふ時、母は実に楽しさうだつた。そばで眼をくりくりさせて、物珍らしげにこの父子の話に耳をすまし、時々その眼をうるませた。私は「晩年の平和、晩年の平和」と心に呟きながら、この父母を眺めてゐた。もちろん嬉しくなかつたことはない。
 だが或る日のこと、母は私のところへ訪ねて来て、やがて二階の私の部屋で二人きりになつた時、思ひがけない相談をもちかけた。それは、近ごろ父が急に心細いことばかり言ひ出し、後々のことをしきりに案じはじめた。秀子の嫁入りのことが先づ気にかかるらしいが、どうも話の様子で見ると、私に貰つてもらひたいらしく、謎をかけてをられるらしい。まだ正面から言はれないからいいやうなものの、もしさうなつたらどうする気か、といふ話だつた。「こりや信用がつき過ぎたな」と私は苦笑した。だが笑談どころではなかつた。母が父からそれを切り出されて、反対するわけに行かぬことは余りにも明かだ。そして私は? 私は母に答へた。「秀子さんは決して嫌ひではないのです。素直な利口な人だと思つて感心してゐます。」母は満足げに頷いた。「しかし」と私は続けた、「ただあの……」私は母の顔を見た。母はふたたび頷いて、その後の言葉を制した。「もしもの場合には僕が罪を着ませう。僕が忘恩者になりませう。どうせ慣れてるんだから。……」さう言ひ放つたとき、最後にもう一度だけ、秀子のことが焼けつくやうに心に来た。この言葉を言ひ終つたとき、私は何ものかの失はれたことをはつきり意識した。だが私は現在の羈絆きはんの上に更に羈絆を重ねるのは、とてもたまらないと思つた。そしてこの考へが、やがて勝利を占めた。私は破壊の時が来たと思つた。ふたたび十年前のやうにして、自由を購ふ時が来たと思つた。しかしこの決心は何となく痛ましいものだつた。私はいつの間にか父を愛してゐた。……

 だがその時は、一と月たち二た月たつたがなかなか来なかつた。私たちは父が忘れたのか、母のとり違へだつたのかと思ひはじめてゐた。
 私が君を知つたのは、ちやうどこの頃だつた。君はU子さんの開いてゐる手芸の私塾に大分前から通つて来てゐた。そして君に妙に感心した世話好きのU子さんが、かねてから頼まれてゐた君の写真を私に見せたのだ。断わつておくが私はあの時、結婚といふことは全然考へずにゐた。私の欲しいのは自由だつた。いや寧ろ一人ぼつちになることだつた。そして、その時が来さへすれば、高瀬家の羈絆を立派に脱して見せる不逞な自信さへあつた。で私ははじめ、冗談半分に君の写真を手に取つたのだ。
 しかし私は、次第に熱心にそれに見入りはじめてゐた。それは不思議な写真だつた。君は大胆な柄の夏衣を着て、胸から上だけを画面一ぱいに写してゐた。かすかな逆光線の中で、君は妙につめたい微笑を浮べてゐた。眼は一重瞼で理性の光を帯びてゐた。唇はやや左右に引かれて、そこに浮んでゐるのは微笑よりもむしろ冷笑に近かつた。そしてそれら全体を引きしめてゐる或る涼しい気品があつた。……私は君の写真に、あるひは現実の君とまつたく正反対のもののみを見てゐたのかも知れない。なぜなら私がそのとき君の写真から抽き出したものは、ほとんど冷酷に近い冷たさだつたからである。その幻想された冷たさに、私の長いあひだの煩慮はんりょに熱せられた心が流れ入つた。私は或ひはこの女性によれば、自分の身をふたたび冷やし得るかも知れぬと夢想した。この夢想は快いものだつた。私の欲しいのは今やただ冷たさだけであつた。私は君が何気なしに浮べたあの微笑の上に、自分の理想を二重写しにして眺めてゐたのかも知れない。それにせよ、私はまだ自分の残り僅かな意力を信じてゐた。自分の読心術的な才能をすら信じてゐた。つまり君が偶然にもせよ、ああした微笑を浮べ得る女性であるなら、君の上にその偶然の表情だけを見いだすことの出来る――つまりはさうした意志統御の出来る自分の力を私はまだ信じてゐたのだ。……
 その後、私の心にうつる君は変貌した。私の直感は裏切られた。そして私がいま見つめてゐる変貌の後の君は、言ひ解きがたい謎を含んでゐる。ひよつとすると、やがて帰京する君は、さらに変貌してゐる君であるのかも知れぬ。ともあれ私は、その日までに、いま私が捉へたと信じてゐる君について是非とも話しておきたいのだ。それもひと思ひに書いてしまひたいが、今日はもう疲れきつて、次第に冷静を失ひかけてゐる自分を感じる。あとは明日にでも書くことにしよう。


 その後間もなく私は君に会つた。君は君の母上と一緒にU子さんの応接室で私を待つてゐた。私ははいつて行つて君をまともに見た。その瞬間私が、内心かすかではあるが苦々しい失望を感じたことを、君をできるだけ欺かぬため、ここに書いておく。私はあの応接室の一隅に坐つてゐる、母に連れられて幸福さうにしてゐる繊弱い一人の女性に、ほとんど私があの写真に見いだしたものを見なかつた。君はやはり微笑んでゐた。がその微笑は、私の期待に反して何か色彩のある微笑であつた。
 やがて私たちは言葉を交しはじめた。そして私は却つて君の言葉の方に、君のあの表情に近いものを認めるのだつた。君は言葉すくなに受け応へをしてゐた。声は澄んでゐるといふより、むしろ爽やかな涼しさがあつた。抑揚にはためらひがちな落ちつきがあり、私の何よりも嫌ひなわざとらしい技巧がなかつた。それは君の心の素直さと、すでに身についた或る程度の自信を示してゐた。私はそんな風にしてあらためて自分の直感を信じ直した。今から思へば私は、君の謙抑や従順さに冷たさを見てゐたのである。
 私は決心した。君たちの方にも反対はなかつた。二三日して私は、直接父に君のことを話した。母が隣室にゐる時を選んだのだ。父は黙つて私の話を聴き終ると、やがて老眼鏡をかけて、私の差しだした君の写真を眺めた。私は次第に父の面上から、ある種の疑念の消えてゆくのを見守つてゐた。やがて父は「お母さん」と隣室の母を呼んだ。「お前も聞いてゐたらうな。こりやえらいことになつたものだ。」父はさう言つて笑つた。母は何かぎごちなささうに、膝の上に君の写真をひろげた。私は父の態度に、六十歳の老人の物に動ぜぬ立派さを見た。それと同時に、ある諦めと淋しさを。どうしてもその面上に見逃すわけには行かなかつた。私はぢた。私は心の張りの弛むのを感じた。不信! 私はそんな声を心の一隅にありありと聞いた。
 だが父にも母にも、何よりもまづ君の二十五歳といふ年齢が気に入つたらしかつた。これは私がひそかに期待した通りだつた。まもなく君は、母上と一緒に高瀬の家を訪れた。私は父母が君に見出したものの何かを、つひに聞いてみる折がなかつた。ひよつとしたら彼らは、私よりももつと素直に、君の性質を受取つたのではないかと思ふ。とにかく、父は君たちが帰ると、「あれはいいな、なあお母さん」と言つた。母は歪んだ唇にためらひがちの微笑を見せて、「はい」と答へた。そして私たちの婚約は成立した。
 私たちは二た月後には式を挙げるはずだつた。しかし父の突然の入院がそれを延期させた。そしてそれに引きつづいた父母の死が……

 私はどうやら母の死を語る順序になつたのを感じる。だがその話をする前に、父の入院まで約一と月ほどつづいた、最後の静かな時のことを振りかへつておきたい。
 この一と月は母にとつて、そのあわただしい生涯の中では、一ばん幸福な時ではなかつたかと私は思ふ。いや、幸福な時であるべきではなかつたかと思ふ。私は今、言ひ直した。つまり私はそれを信じようとしながら、どうしてもさう言ひ切れぬ妙な逡巡を感じるのだ。君が母の気に入つてゐたことは疑へないと思ふ。しかし私は一ぺんもそのことを母の口から聞いたことはないのだ。母は生来口数のすくない女だつた。父はよくさういふ母を不言実行の例に引いて、子供たちへの訓話(それは一席講話といふ愛称で呼ばれて、晩年になるまで父の特徴をなしてゐた)の材料にした。「お前たちもあのお母さんに見ならへ」と父はよくさう言つた。実際母は思つてゐることを、ことにそれが他人の為を計らふ場合には、滅多に口に出さず、忘れてゐるのかと思ふと何時の間にかちやんと為し終へてゐた。この母の特質を一ばん身に応へて感じたのは恐らく父だつたらう。また既に稼いでゐた四人のうちの上の二人だつたらう。私にはまだ、さういふ母の静かな美徳を体感するだけの資格がなかつたのだ。この口数の少なさは、二度目の脳溢血のあとでは、ひときは目につくやうになつた。嫁いでゐる娘のひとりが従兄の医者に、「お母様お気の毒だけれど、少しここが変におなりぢやないのかしら」といつて、頭を指して見せたといふ話も聞いた。私はこの話をきいた時、何かしらはつとした。私も内心にそれを疑つてゐたからである。母にはかすかな発音の不自由さは残されてゐたものの、それでは説明のできぬ或る微妙な受け応への渋滞があらはれてゐた。何か少し種の変つた話をしかけると、まづ歪んだ唇を少し微笑ませ、稍ゝ考へる間をおいて(そのあひだ母はちらと迷ふやうな表情を見せた――)、それからやつと「そうだね」とか「さあね」とか言つた。この傾向は病気前の母にもあることはあつた。しかしこの傾向は強まつてゐた。
 さういふあらはれが強まる一方、母が第一の発作の後に見せた我執や私への偏愛の傾向は、第二の発作の後ではあまり見られなくなつてゐた。これは何か淋しい感じだつた。そして母自身も、絶えず何か物淋しさうにしてゐた。今では母の相手は秀子に限られてゐた。母は秀子にほとんど頼り切つてゐた。秀子の外出着を揃へるのが何より楽しみのやうに見えた。あるひはこの間、母は何か独りで考へてゐたのかも知れない。自分でそつと平安を楽しんでゐたのかも知れない。どうかさうであつてくれればいいと思ふ。
 君についての母の態度にも、いま言つて来たことと全く同じことが、もつと強い程度で言へると思ふ。私はたうとう一度も母の口から、君に関する批評を聞いたことがない。父のやうに「いい」とも、また「悪い」とも言つてくれなかつた。何かしら頼りない無表情があつて、それが私には不満だつた。もつとはつきり言ふと、不安だつた。
 母が君や私をどう思つてゐるかについての私の知識を顧みると、それが多かれ少なかれみんな君の口から聞いたことばかりなのは、一体どういふわけだらうか。君は別に私が勧めもせぬのに、よく高瀬の家を見舞つてくれた。時には台所へ出て、料理の手伝ひをすることもあつた。母は君の料理を言葉すくなに褒めた。母はあるとき君の実家を訪ねて、君の母上の口から、私がゆくゆくは母を引取ることを結婚の条件にしたといふ話を聞いて、しづかに泣いた。またある日君が高瀬の家から帰らうとすると、母が珍らしく秀子を連れずに送つて出てきて、電車に乗らうとする君を引きとめて一緒に外苑を歩いた。そのとき母はふと「あなたに渡しましたよ」と言つて、淋しく君に微笑みかけた。……いくら考へてみても、頭に浮んで来るのはみんな君から聞いた話ばかりだ。なぜだらうか?
 これは母が私にのこしたどうしても解けぬ唯一つの謎だ。生前にこのことを問ひただしても、母は説明してはくれなかつたかも知れぬ。母にはさういふところがあつた。ただ、あのころ私の眼にはつきりうつつた母の姿は、何ものかを失つた母の姿だつた。いはば急激な生命の退潮に押された母の姿だつた。死がその際につけ入つたのだ。死も理由なしにはやつて来ない――私はこの事を今ではほとんど信じてゐる。

 父が前から訴へてゐた胃の純痛は、胃癌によるものだつた。父もそれを疑つて、二三の医者にも見せレントゲン写真も撮つたが、どうしても病因がわからなかつた。癌は胃の底部に発生し、十二指腸が患部を円状に蔽つてゐたのだ。
 したがつて父が手術を受けたのは、よほど手後れになつてからだつた。手術は六時間を要した。胃の三分の二は切りとられ、ゴム管で横腹に排泄孔がこしらへられた。父は一度退院し、二ヶ月後には再び入院した。癌が残された部分に発生をつづけたのである。衰弱がひどいので、再手術は延期に延期をかさねた。
 父はそのなかで、驚くべき生への執念を示した。第一回の手術の時は神のやうに仰いでゐた医者を、二回目の入院の時は呪ひ殺さんばかりの顔つきで睨んだ。そして性格はにはかに逆戻りをして、またもとの猜疑心の強い暴君になつて身をもだえた。父は母がもはや半ば廃人であることをさへ忘れてしまつたらしかつた。彼は看護婦を信用せず、母を寝台の下に附ききりに縛つてしまつた。子供たちの中では奉子と秀子を近づけ、比較的たやすい、目に立つ用事を彼らにいひつけた。むづかしい厭な用事はみな母にさせ、事ごとに癇癪を起して、「お前は俺に早く死んで貰ひたいのだらう」といふ意味のことを口走つた。さういふ時には、またよく私の名前が引合ひに出された。それは何かの復讐に似てゐた。長男の慎一には会社の用事をいひつけた。私は病室を訪れても手持無沙汰なのを嫌つて、ろくろく顔を出さなかつた。母はそれを咎め、挑むやうな顔つきをした。私は激しい忿懣ふんまんを胸に秘めながら、時たま顔を出すことにした。しかし、結果は予想どほりだつた。私は、おそらく原因の九分通りまでが私の罪であらうところの事情によつて、冷酷な空気の中に終始しなければならなかつた。この冷酷はしかし、ひよつとすると主に私の表情が醸し出すものかも知れなかつた。父の顔はむしろ熱かつた。それは故知らぬ女性的な怒りに燃えてゐた。
 私はこの父を醜いと思つた。私は父を憎悪した。さうした興奮のなかで私はよく、私がこの父から受けた恩顧おんこと、母がこの一家の人々に与へた献身と開発とを、秤にかけて量つた。そして、私にはどうしても、後者の方が重いとしか思へなかつた。「それをまだ母をいぢめ殺す気か」――私はほとんどさう口走らんばかりだつた。その一ぱう私は、母と私のあひだに秤をおいたことは一度もなかつた。
 ある夕方(それは五月だつた)、母は用をたして父の寝台の下へもどつて来た。そしてゆかべたに敷いた蒲団に坐らうとした。そのとき父は寝台の鉄枠にことりと当つた妙な音を聞いて振り向いた。母は寝台の下へもぐり込むやうな姿勢で倒れてゐて、そのまま起きあがらなかつた。……
 内科の病棟へ母を移すことは危険だつた。とりあへず隣接した三等室のドアの直ぐ傍に、たつた一ついてゐた寝台に母は運びこまれた。これが母の死の床になつた。数時間後には意識を回復するだらうといふ一同の期待に反して、母はこんこんと眠りつづけた。歯をくひしばり、冷汗をしきりに掻き、たかい鼾を立てながら。……ただ一度、卒倒して一時間後に、母は薄眼をひらいて何か言ひたさうに口を曲げたことがあるさうだ。ちやうどその時は秀子だけが傍にゐた。彼女がいそいで顔を近づけた時には、もう母はもとの無表情に返つてゐた。「たしかに私の顔を見てらした」と、秀子はあとで言つて口惜しさうに泣いた。さういへば私も、さういふ現象を感じたことがあつた。私の駈けつけたのはその夜の十時ごろだつたらうが、白い屏風を立て廻した母の寝台の足もとを横切るとき、母の瞳が私の姿を一尺ほど追ふやうに移動した。医者が枕頭に立つてゐたので、私はそのことを彼に告げた。その若い医者は、「さあ、何か光に感応するのでせうね」といつて、フラッシュを母の眼に当てて、左右に激しく動かしてみた。母は薄眼を開いたまま眠つてゐて、なんの反応もなかつた。
 かうした幻覚は、おそらく誰もが経験したことにちがひなかつた。誰もが知らず識らず死者の愛情の奪ひ合ひをやつてゐるのだ。それが経帷子かたびらを寸々に引裂く行為であることには気づかずに。――中でも一ばん泣いたのは嗣二だつた。この私大の予科生は泣きはらした真赤な眼をして、「可哀相な僕のお母さん、僕のため一生いぢめられ通して死んでゆくお母さん」などと口走りながら、母の顔の上にぽろぽろと涙を落した。それはおびただしい母の汗と一緒になつて母の顔を流れた。
 四日目ぐらゐから爪は次第に紫色を帯びてきた。足にも紫斑があらはれはじめた。そして絶えず小刻みに顫へる左手が(右手は全く麻痺してゐた)、さまよふやうに胸の上へ這ひあがつた。それは襟元を掻き合せるためだつた。その不思議な片手は、ほとんど利かない伸ばしたままの指を襟にかける。そしてちよつと考へるやうに立ちどまる。やがて動き出して、襟もとを掻き合せようとする。襟はわななく指の下をすべつて、元のまま残される。――この動作は七日目に息を引きとる半時間ほど前まで、五分おきぐらゐに繰りかへされた。それは母の神経が最後までそこにはたらいてゐたことを示し、そして私に日本婦人が昔から承け継ぎ承け伝へた淑徳の在り場を、略ゝさとらせるものだつた。……だがもうやめよう。君もまた、あの失神の瞬間までは、それらのあらはれの目撃者だつたはずだからだ。

 母の病床で(もしそれが病床と呼びうるなら――)、君は優しく振舞つた。すでに死臭を発しはじめてゐた母に、君は深い心遣ひを注いでくれた。それは他の子供たちをさへ涙を誘つた。だが私はさうした君に、私の許嫁としての義務を行つてゐる君をしか見なかつた。私はその君の行為を、私が曾て直感した君の冷たさのさせる業と信じてゐた。
 私を故知らぬ忿怒が捉へてゐた。母のすでに意識のない肉体が、何者かへの復讐を息吹くのを私ははげしく感じた。私はこの歯を喰ひしばり汗を掻いてゐる屍体を(それは実際屍体に違ひなかつた)、掴んで何者かに投げつけてやりたい欲望に絶えず襲はれた。だが、何者に? 隣室のベッドの上で痩せおとろへてゐる父にか、母のベッドのそばで、現実の天使として醜い涙を流してうろついてゐる嗣二にか。私はどちらも違ふと思つた。投げつけらるべき的は、もしあるとすれば、この私の若い額を措いて他にないことを私は知つてゐた。同時に私はさとつてゐた、母がさうすることは欲してゐないことを。私は熱かつた。私は君の冷たさに、自分の心をひたしたいと強く望んだ。
 ある日(それは母の発病後六日目だつた)、私は病室の責苦に堪へず、廊下に出て窓に頬杖をつき、病院の中庭を眺めてゐた。庭には人影がなく、五月の午後の明るい光がふりそそいでゐた。ふと桐の花がはらはらと散りはじめた。それとともに爽やかな音が中庭に満ちはじめた。私は眸を上げた。空にはいつの間にか眩ゆいほどの白い断雲がかかつてゐて、物音はそれが振り落す初夏のひょうだつた。雹は桐の花を散らし、幾重にも張りめぐらされた綱に乾してある白い洗濯物の列をかすめ、ころころと地上を転び走つた。忽ち向ひの病棟の窓々に看護婦や軽症患者の顔が現はれた。看護婦が二三人庭へ降りて、頭にかざしたハンカチをひらひらさせながら、にぎやかな笑ひ声を立てて雹を追ひはじめた。この気象の戯れのもたらした華やかなざわめきのなかで、私はある啓示を受けとつたやうな気がした。私は「母は死ぬな」と思つた。かねて覚悟してゐたことが、はじめて実感として私に来た。私は遠ざかり行く者の微かな足音を聞いた。そして私の魂の最も深所を囲んでゐるきづなが、一時に解け去るのを感じた。私ははじめて、ほつと息のつける自分を感じた。それはひよつとしたら祈りであつたかも知れない。ともあれ、この新しい自由感は全く不思議なものだつた。冷え冷えした夢想の一瞬が私にあつた。
 そのとき誰かが私の肩に触れた。私の夢想は一瞬で破れ、私は振りかへつた。それは見舞ひに来た君だつた。君だといふことはすぐ分つた。だが私は白状しなければならない。きはめて短時間、ほんの二三秒のあひだ、私は君の顔に重なり合つた母の顔を見た。この幻覚は私をおどろかした。だがそれは非常に早く消え失せたので、私の顔をかすめた気配を君に気どられずにすんだ。君は「大きな雹!」と言つて私に微笑みかけた。
 そのとき以来、君は私の心のなかで次第に変貌しはじめた。君の冷たさが次第に何か他のものによつて取つて代られて行くのだつた。私はさういふ君を憎みはじめた。この憎悪はほとんど生理的でさへあつた。またそれは時に私に窒息感をすら与へるものだつた。もはや近々と迫つてゐる、あるなま温かい奥深い縛めを、私に予感させるものだつた。私は自分の中にこの新しい君と闘ひはじめた。私は救ひを、私の裡の最初の君に、あの冷やかな君に求めた。それはすぐ助けにやつて来てくれた。
 かうして、私にとつて君の二重性が始まつた。
 母は七日目の夜、息を引きとつた。その報せを、父は隣室で冥目めいもくしたまま聴いた。そして暫くすると、自分の部屋で告別したいといふ希望を申し出た。やがて死後の処置の済んだ母は運搬車に移され、他の患者たちから死の香を遮るために立て廻らされた白屏風の間を縫つて、父の面前に引いて行かれた。父はいつの間にかきちんと袴を着けてゐて、屍体が位置につくと、看護婦に命じて自分の上半身を起させた。そして低い荘重な口調で感謝と告別の言葉を述べはじめた。奉子と秀子と私と、それから二人の看護婦がその場に立ち会つた。看護婦たちだけが眼をそむけた。私は告別の辞を聴いてゐる母の顔を見てゐた。鼻孔や口からは脱脂綿がはみ出て、私に曾ての母の言葉を思ひ出させた。口許はひどくゆがみ、そこにだけ妙に口惜しげな表情が見られた。が全体の表情は、泥人形のやうに疲れてきよとんとしてゐた。今こそこの泥人形は、もし父が敵であるなら、掴んで父に投げつけらるべき時ではなかつたか。だが私はすでに知つてゐた。眼前の母は、何者か過ぎ往いたものの形骸に過ぎぬことを。……私はむしろ、見えぬとばりの向ふ側に去来するものの、ひそやかな衣ずれに耳を澄ましてゐた。
 二た月ののち、父は他の病院の一室で死んだ。まる一と月、わづかな水をすらもどし続けた父には、ながい地獄苦の償ひに、溶け入るやうな静かな臨終が来た。豊かだつた頬の肉は流れ失せ、そのあとの窩みは嗣二のそれに似て。……
 私はいま、語るべきことを略ゝ語り終へたのを感じる。私がこの手記の筆をとりはじめてから二十日近い時が流れた。私はそのあひだ、母の生活や私の昨日までの生活を、現在私のものであるかのやうにして生きてきた。私は偽らうとしなかつた。もちろん、曾ての硬い心の石壁は崩れたとはいへ、その破片はこの手記の筆をとる私を苦しめ、いはば血脈のなかを転げまはつて私に血を流させるのだつたが、私はもはやそれらに、崩れたものの意義をしか認めようとはしなかつた。ではこれが、君の知りたいと望んだ私の母の像だ。私はこの母の子だ。そして私はもはや君の上に、生まれようとしてゐる一人の母をしか見ない自分に気づいてゐる。……私がもし文学者であつたなら、私は恐らく君を感動させる一篇の物語を作り得たでもあらう。だが私の欲しいのは君の感動ではない。君はこのやうな私に、なほ結婚の義務を感じるだらうか。このような私とともに、生活を築くことを望むだらうか。私によつて子の母となることをよしと見るだらうか。私はこの手記の最後の部分を封じる。それは明後日の朝には君の手で開かれるだらう。その日から三日の後には君は帰京するだらう。私は今この手記を君の手に委ね、君の静かな判断を待たうと思ふ。





底本:「雪の宿り 神西清小説セレクション」港の人
   2008(平成20)年10月5日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 全六巻」文治堂書店
   1964(昭和39)年〜1976(昭和51)年
初出:「文學界」
   1936(昭和11)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2011年12月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード