チェーホフ序説

――一つの反措定として――

神西清





 チェーホフは自伝というものが嫌いだった。――僕には自伝恐怖症という病気がある。自分のことがかれこれ書いてあるのを読んだり、ましてやそれを発表するために書くなどということは、僕には全くやりきれない。……そんな意味のことを、一八九九年の秋、つまり死ぬ五年ほど前に、同窓のドクトル・ロッソリモに書き送っている。
 これが単なるはにかみであるか、それともほかに何かわけがあるのか、その辺のことはあとで改めて考える機会があるだろう。けだしチェーホフという人間を見ていく場合、これは見のがすことのできぬ根本問題の一つだからである。それはとにかく、彼がそんな但書ただしがきをつけてロッソリモに送った自伝というのは、おおよそ次のようなものである。(あらかじめお断わりしておくが、チェーホフの文章の飜訳ほんやくは版権の関係から今日のわが国では許されていない。従って以下すべてチェーホフ及びその同時代人からの引用文は、大意を伝えるだけにとどまる。)
 ――私アントン・チェーホフは一八六〇年タガンローグに生まれた。一八七九年モスクワ大学の医学部に入学した。学部というものについてこれとった深い考えはなく、どんなつもりで医科を選んだものか覚えがないが、べつにこの選択を後悔しなかった。一年生の頃から週刊雑誌や新聞に書きはじめ、八〇年代の初めには既にこの仕事は職業的性格を帯びていた。一八八八年にプーシキン賞を得た。一八九〇年サガレン島へおもむき、流刑地および徒刑に関する一書をあらわした。その日その日に書きなぐった雑文類を除き、私が文学生活二十年間に発表した小説は、印刷全紙にして三百台分を超える。ほかに戯曲も書いた。医学を学んだことが私の文学上の仕事に重大な影響を及ぼしたことは疑いない。それがどれほど私の観察をひろめ私の知識を豊かにしたかは、医者でなければ分るまい。……
 あとは医学の功能の礼讃になって、自然科学とか科学的メトードとかいうものが彼を慎重ならしめたこと、科学的なデータを常づね考慮に入れるべく努めたこと、それが不可能なときは筆を執らぬことにしたこと、自分は科学に対して否定的な態度をとる文学者には属しないこと、臨床方面では既に学生時代から郡会病院ではたらき、そののち郡会医を勤めた経験もあること、などを述べている。簡潔をきわめたこの履歴書のうち、医学に関する記述が半ば以上を占めていることは、よしんばそれが医師互助会のもとめに応じたものであったにしても、一応は注目すべきであると思う。けだしこれより十年ほど前にも、医学は正妻で文学は情婦だと、チェーホフは述べているからである。ついでにこの情婦性が、帝国学士院からプーシキン賞を与えられた頃のものであったことも、記憶しておいていいだろう。
 彼の言動や手紙に現われている限り、今しがた見たような臨床医家としての誇り、ひいては自然科学者としての矜持きょうじは、チェーホフの生活で意外に大きな場所を占めていたと見なければならない。科学的手法をはじめて文学へ採り入れた人というと、われわれはゾラを思いだしがちだが、その『医師パスカル』はチェーホフを激怒させたものである。――ゾラはなんにも知らない、みんな机上ででっち上げたものだ。このロシヤへ引っぱって来て、わが国の郡会医の働きぶりを見せてやるがいいのだ……と、彼は興奮のあまりせきをしながら語ったとクープリンは伝えている。ゾラだけではない。科学的データを無視した点では、トルストイの『クロイツェル・ソナータ』もブールジェの『弟子』も、ひとしくチェーホフを憤慨させずにはおかなかった。自分の顕微鏡や探針やメスを使える場所でなければ真理を求め得ないのは必然だ――と彼は主張するのである。彼はみずから唯物論者と称していた。――死体を解剖して見たら、いかな唯心論者のこちこちでも、どこに霊魂があるか?――という疑問を起さずにはいられないだろう。肉体の病気と精神の病気がいかに酷似しているかを知り、両方とも同じ薬品で直せることを知ったら、人はもはや精神と肉体を分けて考えはしまい。――唯心論者は学者ではなくて、名誉職にぞくする。……などといった言葉なら、チェーホフの手紙から無数に拾いだせるはずである。
 この自然科学的唯物論者は、その当然の結果として無宗教であった。しかも彼の場合、単に理智的に反宗教なのではなくて、宗教的感覚がきれいに欠けていたのである。いわゆるアテイストではなくて、いわば宗教不感症なのである。これはロシヤの文学伝統の上では、恐らく異例にぞくするであろう。神ありやなしや――という問題は、あのイヴァン・カラマーゾフの執拗な追求を絶頂として、前世紀ロシヤ精神の中心的な課題であった。それは一方に幾多の世界文学大の作品を生みだす母胎をなしたと同時に、その反面また尖鋭なロシヤ的反神論者を簇出そうしゅつさせたのである。その際、当時のロシヤでは宗教と反動とはほとんど区別しがたい同義語をなしていたという指摘(メレジコーフスキイ)は考慮に入れておく値打があるだろう。それはともあれ、チェーホフに見られる徹底した無宗教、つまり宗教的感覚の皆無は、明らかに彼をロシヤ的精神の風土から切り離すものである。そこには鋭い切断がある。それを見落してはいけない。それはまた同時に、彼から一切の政治的感覚を奪ったと想像しても、甚だしい誤りはあるまいと思う。
「神あり」と「神なし」との間には、非常に広大な原野が横たわっている。まことの智者は、大きな困難にえてそれを踏破するのだ。ロシヤ人は、この両極端のうちどっちか一つは知っているが、その中間には興味をもたない。だからロシヤ人は普通まるっきり無知か、乃至ないしは非常に無知なのだ。――そんな意味のことが、チェーホフの『手帖』に書いてある。これは彼のいわゆる「唯物論」的態度の、おそらく最も完璧な表現である。彼の眼からすれば、有神論も無神論もともに科学的根拠のない迷妄にすぎない。彼に言わせれば、現代の全文化は一切の宗教運動とは別個に、従属関係においてではなしにこれと対立する。そして人類は「真の神の真理」を、当て推量したりドストイェーフスキイの中に捜しまわるのではなしに、「二二が四」をあきらかに認識すると同じく明かに認識せんがために、努力しなければならぬ。今日の文化はこの努力の端緒にすぎない。いっぽう宗教運動はどうかと云うと、それは既に生命を終らんとしているものの終末なのだ。……
 チェーホフがドストイェーフスキイに全然興味をもたなかったことは、あらためて断わるまでもないだろう。反撥はんぱつするだけの関心すらなかったことは、この重要な作家についてのまともな言及が、彼の手紙の中にほとんど見当らないところからも知られる。一八八九年版のドストイェーフスキイ全集がチェーホフの蔵書目録に載っているが、恐らくそれを買いこんだ直後のものと思われる感想は、――冗長だ、はったりが多い、などという数語にすぎない。トルストイになると、当時まだ健在で、ひどくチェーホフを可愛がってくれた関係もあるので、別の星の住み手として放って置くわけにいかなかったらしい。だからと云って、彼はこの老人の前でいつも大人しくしていたのではない。こんな挿話がある。――トルストイが「カント的な見方で」不滅を認めて、人間も動物もある神秘な原理(理性、愛)によって生きていると主張したのに対し、チェーホフは、その原理とやらは何かどろどろしたジェリーのかたまりみたいに思えてならない、じぶんの自我や個性や意識がそんな塊りと融合するのが不滅なら、平に御免をこうむると言い放って、ヤースナヤ・ポリャーナの聖者を唖然あぜんたらしめた。一八九七年春のはなしである。
 こんな風に一切の絶対主義の敵として躍りだす際の彼のつらだましいには、われわれが習慣的に抱いているチェーホフの概念とはひどく懸けはなれた、爽快そうかいなまでに不敵なものがある。そこには信念的な実証論者がおり、断乎だんこたる不可知論者がいる。ところでフランス革命のあとでは、「理性」の神像を教会堂へ担ぎこんで祭壇にまつったという話があるが、同様にして科学にしろ「唯物論」にしろ、祭り上げられたら最後すでに宗教に化けてしまうぐらいのことなら、チェーホフは若い頃からちゃんと心得ていた。
『わびしい話』(一八八九)は、周知のように精神的破産に陥った老医学教授の長い独白だが、その中に出てくる解剖助手はちょっと、『ファウスト』のワグネルを思わせる役どころで、この男の「科学の正確さへの狂言」や「権威に対する奴隷的崇拝」は、老教授の顔をしかめさせるに十分であった。のみならず別の登場人物の口には、――科学の命数はもう尽きた、今ではもう錬金術や形而上学や哲学などと同様、偏見から生まれた「第五元素」に成り下ってしまった……などというなど手きびしい宣告までがたくされているのだ。
 とはいえ勿論もちろんこれは、チェーホフが科学そのものに愛想をつかした証拠にはならぬ。彼がしりぞけているのは狂言であり偏執であり成心せいしんであり盲従であって、求めているのは冷静な客観の自由であり、公平な立会人たる権利なのである。事実、すくなくも老教授自身は依然として科学に対する愛を失ってはおらず、百年したらまたこの世に生き返って、その後の科学の成行きを一目なりとのぞいてみたいなどと、悠暢ゆうちょうなことを考えているのだ。ところで『六号室』(一八九二)の中の気の毒な医者は、百万年後の地球には牛蒡ごぼう一本生えまいと考えているが、あれは一体どうなるのだ。それとこれとは結局同じことではないのか? いや、そう先廻さきまわりをされては、話がこんがらかって困る。今のところ話はまだ、チェーホフが科学というものを素直に信じつ愛していたこと、従って一切の先入主や功利観念からの自由を力強く望んでいたことを、きわめて素朴に確かめようとしているにすぎない。それでもなお、とにかく何とか返事をしろと言われるのなら、地球が百万年はおろか僅々きんきん数千年をでずして何かほかの天体と衝突して絶滅することは既定の事実であり、そのあとでは牛蒡という植物は生えないはずだという冷やかな科学的予測を、チェーホフはその作中人物に言わせる自由を確保しているだけにすぎまい――、まあそんな風にでもお答えするほかはない。
 チェーホフには「芸術家の自由に関する宣言」とでも名づけていい文章があって(一八八八年十月、プレシチェーフ宛の手紙)、よく方々に引用されて有名である。それによると、彼は自由主義者でも保守主義者でもない。漸進論者でも坊主でもなく、無関心派でもない。自由な芸術家であるほかに望みはない。偽善や蒙昧もうまいや専横がのさばっているのは、何も商家や監獄にかぎらない。科学にも文学にも青年の間にも無いとは言えない。だから自分は憲兵も肉屋も学者も文士も青年も、べつだん贔屓ひいきにしてはやらない。制服やレッテルは偏見だと思う。自分にとって聖の聖なるものは、肉体、健康、智力、才能、感興、愛、絶対的な自由、一切の暴力や虚偽からの解放……ということになって、誰だかが悪口を言ったとおり、まさしく無い無いづくしの観がある。だが要点は、この素朴ないし可憐かれんな宣言、あるいは願望のうちに、どの程度までチェーホフの本音を認めるか――ということにある。その度合によってチェーホフの像が千変万化することは言うまでもない。僕はこの宣言をそっくりそのまま頂戴ちょうだいする立場に立つ。その結果引き出されるものがペシミストの像であるか、それともオプチミストの像であるかなどということも、差当り心配しないことにする。成心を嫌ったチェーホフを考える場合、やはりなるべく成心を避けた方が自然でもあり、礼儀にもかなうように思われるからである。
 のみならず僕は、チェーホフがその教養において、ダーウィン流の進化論的倫理説の信奉者であったこと、一種のスペンセリアンですらあったことを、率直に認めてかかりたいと思う。大学を出る前の年(一八八三年春)、チェーホフは「性権消長史」ともいうべき労作を思いたって、兄アレクサンドルに共同研究を提言している。これが、当時西欧から北欧へかけて異常な昂揚こうようを示していた婦人問題熱に対するチェーホフの敏感な反応を示すものであることは明らかだが、彼が兄に送った長い手紙によると、それは大よそ次のような構想をもつものだった。――目的は博物学と人類史との間の空白を埋めることにある。一般的方法としては、帰納法より寧ろ演繹法えんえきほうによる。各論の部のプログラムとしては、まず動物学であり、これは自分の大好きなダーウィンの方法による。つづいて、人類学――一般史・科学史・女子大学史――解剖学――比較病理――倫理問題――犯罪統計――売淫――ザッヒェル・マゾッホ――教育問題――最後にスペンサーの名論……という仕組みで、要するに進化論に出でて進化論的綜合そうごう哲学に終るかなり大がかりな体系をなすはずのものであった。この計画は結局着手されずにしまったらしいが、それがもはや単なる滑稽雑文や小品の作者ではなしに、すでに『生きた商品』とか『おくれた花』(ともに一八八二)とか、あるいは後段で触れる機会があるかも知れないがあの『未発表の戯曲』(一八八一)などという重要な作品を書き上げた当時の彼の立案だというところに、見のがせない興味がある。
 一八八九年といえば『わびしい話』を書いた年で、普通チェーホフが最も暗澹あんたんたる精神的危機に瀕していた年代とされているが、その年の手紙の一つ(五月、スヴォーリン宛)には、――知識の諸部門は平和のうちに共存して来た。解剖学も純文学もともに名門の出で、同じ目的をもち、悪魔という同じ仇敵をもっている。互いに争う理由はなく、したがって生存競争もない。つまりわれわれは常にプラスをめざして行くのだ。天才は決して争闘なんかしなかった。現にゲーテのうちには詩人と自然科学者が仲よく住んでいたではないか……という意味のことが述べてある。そして彼は、「戦いのないところに戦いを見るのはつつしみたい」と希望している。進化論がチェーホフの生活にどれほど強い支配力を振るったかは別問題として、すくなくもそれへの信念が彼のうちに根づよく巣くっていた証拠にはなるだろう。


 すでに見たように、彼は自らを語ることも人に語られることも共に嫌いだったが、これは二つとも註文ちゅうもんどおりに行っていない。前者は彼が優に二千通をこえる手紙をわれわれの手に残すことによって彼みずから裏ぎっている観があるし、後者は周囲の人々の手になる親切な回想記がたくさんあって、われわれはその中から好みの肖像を選びだす自由にこと欠かない。もっとも手紙という形式の内的性格は案外複雑で、要するに法廷に出す文書ではないのだから宣誓の手数もいらず、したがって偽証罪を構成しないという不便がある。また、よしんば手紙が何千通とあって、そのことごとくが快活な饒舌じょうぜつにみちているにしても、しょせんニーチェが『善悪の彼岸』の中で言ったように、「自己について多く語ることは自己をかくす方便」という疑いを免れぬかも知れない。のみならず手紙は、退屈病患者にとって甚だ都合のいい形式でもあるに相違ない。相手の素姓も一々洗ってかかる必要がある。といったわけですこぶる面倒だから、これは一応あと廻しにする。
 チェーホフの人柄については、周知のようにコロレンコ、クープリン、ブーニン、ゴーリキイの回想をはじめ、弟ミハイール、妻オリガ、またはスタニスラーフスキイなど芸術座の人々、そのほか殆ど無数といってもいいほどの遠近の知人による証言がある。その内容は一見驚くほど似通っていて、一つの調和あるチェーホフ像を浮びあがらせ、※(二の字点、1-2-22)ややもすればほかのロシヤ作家に見られるような毀誉褒貶きよほうへんの分裂がない。コロレンコは二十七歳のチェーホフの風貌を描いて、やや上背のある方で、線のくっきりした細おもての顔は、知的であると同時に田舎いなか青年の素朴さがあったと言い、クープリンは彼の眼について、青い眼をしていたという定説はまちがいで、実は鳶色とびいろに近かったと述べる。中年から晩年へかけての彼に接したスタニスラーフスキイや友人メンシコフの話によると、人中での態度は控え目で寧ろおどおどしているくらい、率直で上辺を飾らず、絶えて美辞麗句を口にしない。更にメンシコフによれば、彼は進取の気象とユーモアに富んだ生活人であり、潔癖な現実家であって、一切のロマンチックなもの、形而上的なもの、センチメンタルなものの敵として、すこぶるイギリス型の紳士であった、等々。……要するにわれわれはこれらの証言の綜合から、ブーニンのいわゆる「まれに見る美しい円満な力強い性格」の人を表象することに、なんの無理も感じないのである。そこには又しても、ロシヤ的なものからの鋭い切断がある。
 トルストイについてのゴーリキイの回想によると、この老聖者は散歩の時チェーホフに向って、「君は若い頃さかんに道楽やったかね」ときいた。するとチェーホフは当惑そうな微笑をもらし、あごひげを引っぱりながら何やらむにゃむにゃ言った。トルストイは海(黒海である)を見ながら、「わしはきなかったね」と告白した。女の話になるとこの爺さんは夢中になる癖があり、しかもそれを下卑げびた百姓言葉でまくし立てるので、さすがの「浮浪人」ゴーリキイもこれには閉口したらしいが、ましてやチェーホフの迷惑に至っては察するに余りがある。チェーホフの手帖に、――われわれの自尊心や自負心はヨーロッパ的だが、発達程度や行動はアジヤ的だ、という一句があるが、ひょっとするとこれなどトルストイを念頭においての感想だったかも知れない。
 ついでに一言しておきたいことがある。前の節にチェーホフの「自伝」を掲げておいたが、実はその十年ほど前にも彼はもう一つ「自伝」を書いている。それはチーホノフという文士が、まだ交際の初め頃もとめて来たのに応じたもので、大体前掲の自伝の前半に当るわけだが、その中にひょいと、「愛の秘密をぼくは十三歳で知った」という一句が挿まっているのだ。勿論これは「女を知った」という意味に取れる文句であり、これが本当だとするとまさに彼の伝記に一大新事実を加える重大な自供に相違なく、現にある有名なソれんのチェーホフ研究家の如きは、ろくろく交際もない相手に向ってそんな告白をあえてする彼の「率直さ」にひどく感激しているほどである。だが私見によるとこの「告白」は、残念ながらチェーホフ一流のユーモアにすぎない。その証明は頗る簡単だ。『決闘』(一八九一)の第三節にフォン・コーレンがライェーフスキイの唾棄だきすべき人格をこきおろす場面があるが、そこにはこれと同じ文句がちゃんと出ている。しかも上記のチーホノフ宛の手紙の日附は、この章の執筆の日と厳密に合致しているのだ。全くとんだ人騒がせである。
 だが話がいささか横道にそれた。チェーホフのユーモアは大切な問題で、節を改めて別に考察する必要があるだろう。要するに今のところはチェーホフという人が深刻ぶったしかづらからも、百姓的な粗野からも、歯ぐきを見せるような野卑な笑いからも、ひとしく顔をそむけずにはいられないような神経の持主だったことが分ればいいのだ。彼はピーサレフのプーシキン批評を一読してひどく憤慨したことがあるが、それは必ずしもこの批評家のラヂカルな功利主義思想そのものに真正面から反撥したわけではない。そんなことより先に、この批評家の人格の野鄙やひらさ、こせこせした誹謗ひぼうと毒舌、思いあがった冷酷な機智、一口にいえばその発散する「検事みたいな悪臭」に、チェーホフは嘔吐おうとをもよおしたのである。
 ところでチェーホフの人及び芸術に対する礼讃のあらしは、もちろん以上に尽きるものではない。ある人にとっては彼は最も広い意味におけるヒューマニストであり、他の人にとっては彼の手紙には如何いかにも芸術家らしい敏感な魂や人間愛が宿っており、或いはその作品を包んでいる客観のきびしさを透して愛の光が射しており、或いは彼は下積みの人々に目をつけて優しく彼らをいつくしんだのであり、或いはその作品には、「刻々に形成されゆくもの」へのおぼろげなそこはかとない期待が漂っており、或いは純粋無垢な唯美家であるとともに哀憐の使徒であり、人類に代って泣いてくれる人情家であり、乳母のようにわれわれをあやしてくれる温情の人であり、或いは大地のぬくもりであり、乃至は大地をぬらす春のぬか雨である……といった調子で、チェーホフがあれほど苦手とした美辞麗句の行列が際限もなく続くのだ。こうして伝説の聖者チェーホフの像がわれわれの前に立つのである。……


 だが公平を期するためには、反証も考慮に加えなければなるまい。しかも聖チェーホフの像から円光をぎとるような証言は、眼をすえて見れば決して少いどころではないのだ。
 中学や大学の級友たちの証言を綜合すると、少年チェーホフは当時の中学生を熱狂させた社会問題や政治事件に対して全く冷淡であった。つまり附和雷同性が皆無であった。謙遜けんそんではあったが、それは要するに自己批判の過剰から来ているらしく、且つそれは商家の子弟に共通する性質でもあった。大学に入ってからも彼は孤独ずきで、ほとんど誰とも親交を結ばなかった、――ということになる。兄アレクサンドルが『アンクル・トム』を読んで泣かされたと書いてよこしたのに対し、十六歳のチェーホフはやや冷笑的な調子で、――僕もこのあいだ読み返してみたが、まるで乾葡萄ほしぶどうを食いすぎた時みたいな嫌な気持がした、と答えている。彼の非感傷性の早期発生を物語る有力な証拠の一つだろう。
 小説家セルゲーエンコは中学の同級生のうち、チェーホフの死ぬ時まで交際を続けた唯一の人だが、その回想は結論的には、チェーホフはよく調和のとれた性格の人で、その言動には均衡と一致があったとしている。しかもその叙述をもう少し細かく見ると、要するにチェーホフには特に人懐こいところも特に人好きのするところも、友情も熱情も悉く欠けていた――ということを、縷々るる陳述しているにすぎないと云っていい。友人は大勢いたが、そのうちの誰とも親友ではなかった。意志によって訓練され、まるでメトロノームに合せて行動しているような男だった。作品ににじみ出ている人情味を、彼自身がそなえていたわけではなかった、等々。チェーホフが交際ずきでありながら、胸襟きょうきんを開くことにかけてはおのずから一定の限度のあったことは、あれほど彼を褒めあげているメンシコフでさえ認めているし、夢中で彼にれこんでいた情熱漢クープリンでさえ、彼がついぞ完全に心の窓を開いたことのない代りには、誰にも一様の柔和さと親しさをもって接し、同時に恐らく無意識的な大きな興味をもって相手をじっと観察していたであろうことを、やや寒々とした調子で述懐している。
 同様のことが、チェーホフを崇拝していた若いブーニンの場合にも言える。優しい追慕の情にあふれた彼の回想記もやはり、チェーホフの愛想のいい応待には必ず一定の距離が感じられ、いくら話がはずんで来ても或る節度を失わず、ついぞ心の奥を覗かせるようなすきを見せたことがない、おそらく彼の生涯には熱烈な恋など一度もなかったろう、――といった記述を含んでいるからである。この最後の想像も当っているらしい。メンシコフの回想によると、チェーホフは、――小説家にとって女心の知識は、彫刻家における人体の知識と同じだ、と語ったそうである。もっともチェーホフのような人が、こんな文芸講座みたいな文句を真顔で言ったはずがない。その時の随伴表情をわれわれは分に応じて心に描くべきだろうが、とにかくそんな言葉を思い出しながらメンシコフもやはり、結局チェーホフはツルゲーネフと同様恋をしにくい男だったろうと附け加えている。
 この比較は面白い。もっと本質的な方面についても立派に通用する比較である。生まれも気質も時代も生活も作風も、およそ何から何まで正反対といっていいほどの二人ではあったが、おなじく「ロシヤの西欧人」だった点で深く共通するものをもつ。母国の精神的風土からの隔絶をはげしく味わいつづけた彼らの運命にしても、そう外見ほど違ったものではないはずである。
 愛や結婚に関するチェーホフの言葉を少し拾ってみよう。――僕は結婚していないのが残念だ、せめて子供でもあればいいのだが、と二十八歳の手紙には書いてある。――恋ができたらいいがと思う、はげしい愛のないのはさびしい、と四年後の手紙は訴えている。勿論それもこれも例の冗談口調だが、さりとて単純な反語でもなく、そこに現われている憧憬の表情はかなり複雑だ。いわば愛情への直接の憧憬ではなくて、その憧憬への憧憬とでもいった妙に間接的なものが感じられるからである。それから数年後の彼は、――愛とは昔大きかった器官が退化した遺物か、将来大きな器官に発達するものの細胞か、そのどちらかだ、と手帖に書きとめる。これにはまゆをひそめたいらだたしい表情が感じられる。同じ頃の彼はまた、――孤独が怖ければ結婚するな、と手帖に書きこむ。おやおやちょいとニーチェ張りだな、と苦笑でもしていそうな文句だ。更にまた数年後の彼は、――恋とは、無いものがあるように見えることだ、とメンシコフに語る。これは或る夜更けクリミヤの海岸道を馬車に揺られながら、いきなり言いだした文句で、彼はそう言ったなり不機嫌そうに黙りこんでしまった、とメンシコフは書いている。
 以上五つほどの独りごとめいた発言は、だいたい十年間にわたって分布しているのだが、実はそのかげにわれわれは一人の若い女性の姿を、相当の確実さをもって認めることができるようだ。それはメリホヴォの隣人の娘さんで、リーヂア・ミージノヴァというのが本名だが、手紙や弟ミハイールの思出の中では、リーカという愛称で通っている。もしチェーホフがひそかに恋している相手があったとしたら、後にも先にもこの人のほかに心当りはない。二人の交際はチェーホフの三十歳ごろから結婚の前の年まで、やはり十年ほど続いているのだが、そのわりあい初期の一八九四年、リーヂアは声楽の勉強にパリに留学した。その年の秋、チェーホフも医者のすすめで南仏のニースへ転地療養に行っている。あとを追って行くような気持も幾分はあったのではないかと、一応は想像したいところだが、彼がパリへ出かけた形跡は見当らない。パリとニースの間に文通があるきりだ。その中でリーヂアは、チェーホフを冷たいと言ってとがめている。チェーホフはそれに答えて、わざわざ仰しゃるまでもない、と自認している。ほかの手紙を見ても、この調子を破るようなものは一つとして認められない。つまり十年間を通じて熱量(いや寧ろ冷量)に変化はないのだ。愛とチェーホフとの間隔は、終始一貫のびも縮みもしていない。永遠なる二本の平行線が、おそろしく単調な透視図を形づくっているだけなのだ。これが恋なら、よほどおかしな恋である。この単調ななかに何か変化を与えているものがあるとすれば、それはチェーホフの眼の色だろう。但しそれも、ただその時どきの虫の居どころ一つで笑ったり怒ったりしているだけのことで、決して或る軌跡として捉えられるような持続ある変化ではない。知人たちの証言によると、日常のチェーホフは快活と憂鬱ゆううつとが目まぐるしく交替する人だったそうである。それがここにも顔を出しているに過ぎない。それにだまされるとひどいことになる。
 チェーホフは四十一年、芸術座の女優オリガ・クニッペルと結婚した。双方とも初婚である。しかも教会で式を挙げてしまうまで、母も妹も知らなかった。それどころか、その日の朝彼に会った弟のイヴァンさえ何一つ感づかなかったといえば、ちょっとロマンティクに聞えもしようが、真相は恐らくもっと冷やかなものだったろう。そこにはリーヂアへの心遣いのようなものも幾分は働らいていたかも知れない。オリガは三十一だった。舞台の役どころも『三人姉妹』のマーシャとか、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人とか、『どん底』のナースチャとかいった渋い味のものであって見れば、その人柄も大よその見当はつく。秋の恋の相手にはふさわしい女だったろう。だが、そんなオリガでさえ或る手紙のなかで、「情ぶかい優しい心があるくせに、なぜそれをわざわざ硬くなさるのか」と、チェーホフの非情な面を咎めざるを得なかった。これでは秋の恋すら成り立つまい。結局オリガは彼にとって、そのおびただしい手紙の呼びかけが示しているように、「驚くべき可愛い人」であり「母ちゃん」であり「わが良き少女」であり「わが魂の搾取者さくしゅしゃ」であり「愛する女優さん」であり「可愛い仔犬こいぬ」であり「わが事務的で積極的な奥さん」であり……同時にその一切であり、すなわちそのどれでもなかった、ということになるのではないか。彼の求めたものは、自分の晩年のための陽気な看護婦に過ぎなかったとさえ言えるのではないか。
 要するに愛というものがチェーホフにとって、来世とか不滅とかいうのと同じ空っぽな抽象概念にすぎず、それに対して彼の心が完全な不燃焼物であったことは、決して無根の想像ではないわけだ。のみならず、そんな空疎な概念に向っては、憧憬だって働らこうはずはないので、あったものはたかだか、せめて憧憬なりとしてみたいという冷やかな試みであったにすぎない。そしてこの試みのむなしさは、彼ほどの人には最初から分りきっていたはずである。
 チェーホフのめたさについては、興ざめな証拠をまだまだ幾らでも並べることができる。例の『イヴァーノフ』(一八八九)を観て、ピストル自殺を遂げた青年があった。その親がスヴォーリンに手紙をよこした。これを聞いたチェーホフは、この芝居のことでもらったほかの手紙と一緒にコレクションにして置きたいから、それを送ってくれとスヴォーリンに頼んでいる。むろん例の冗談口だが、その隙間からうそ寒い風が吹くだろう。また、こんな話もある。知合いの婦人の若いつばめか何かが死んだ。その男にはチェーホフも好意を持っていたので、悔み状をその婦人へ出したいと思ったが、「自分たちもどうせ死ぬのだし、悔みの百まんだらも結局死人を生き返らせはしまい」と思い直して、まあよろしくその婦人に伝えてくれと第三者に頼むのである。この言訳はむろん彼一流の照れかくしで、そんな中に彼の科学者的冷静だのショーペンハウエル流の厭世観えんせいかんだのを探ろうとしたところで無駄だ。ただ単にこれは冗談なのである。こんな冗談を言わなければならなかったということ、そのチェーホフの当惑が問題なのだ。死への感動もないし、さりとて社交辞令も身につかぬとあっては、誠実な人間は黙りこむか冗談でもいうほかに、打つ手はないではないか。
 事実チェーホフは※(二の字点、1-2-22)しばしば不愛想に黙りこんだ。なかでもシチューキンという司祭の初対面の感想は甚だ特徴的である。まるで当のチェーホフは留守で、誰かが代って相手をしてくれているような気がしたという。対坐している男の眼つきは冷やかで、言葉はぽつんぽつんと切れ、まるでかさかさだった。こんな男に、永年自分が愛読して来たような「人情味にあふれ、もの悲しい歌声さながらの」美しい物語の書けるはずはない、と司祭は心の中で叫ばざるを得なかった。
 チェーホフは大して坊主が好きではなかったろうし、その日は特に機嫌が悪かったのかも知れない。だが要するに五十歩百歩だ。抹香まっこうの代りに香水の匂いをぷんぷんさせた社交婦人が三、四人訪ねて来て、主人とこんな問答をはじめる。――この戦争はどうなることでしょう?――やがて平和になるでしょうな。――まあ本当に。でもどちらが勝つでしょう?――強い方でしょうな。――どちらが強いと思召おぼしめして?――うまい物を食べて教育のある方でしょうな。――でも、どちらがお好きですの、ギリシャ人? それともトルコ人?――好きといえば、僕はマーマレードが好きですね。あなたは?――私も大好き。――私も。――私も。……そこで話は俄然がぜん活気を帯びて、やがて頗る満足した婦人連は、そのうちおいしいマーマレードをお届けしましょうと約束して、いそいそと帰って行く。これはチェーホフ作るところのヴォードヴィルではない。ゴーリキイの回想に出てくる或る日のチェーホフの姿なのである。ところでえさは勿論マーマレードに限ったことはないはずだ。エジソン氏の蓄音器でもよし写真の話でもよし、あるいは病身な小学教師たちのための理想的な療養院の話でも、二百年三百年たった後の地上における素晴らしい生活の話でも、とにかく沈黙の代理をつとめてくれるような話題なら何でも構わない。現にこの婦人訪問客の逸話を伝えている当のゴーリキイにしろ、或いはブーニンにしろクープリンにしろ、おなじマーマレードを振舞われたことがなかったと誰に保証ができるだろうか。
 だが、沈黙の代用品としての饒舌のすばらしい見本なら、勿論あの二千通をこす彼の手紙でなければならない。ドストイェーフスキイも手紙の大家だった。熱っぽい緊張と狂おしい感動とに貫かれたこの巨匠の手紙は、よしんば彼が事実を曲げうそをつきたいという情熱に駆られた瞬間にあってすら、その情熱の烈しさそのもののうちに紛れもなく彼の全人格を投射するという不思議な真実性と信憑性しんぴょうせいをもっている。ところがチェーホフの場合はまるで違う。彼は嘘をつきたいなどという洒落しゃれた情熱には一度だって襲われたことはあるまいし、間違っても嘘だけはつけぬ男であった。にもかかわらず、この素朴なほど誠実な男が、まるで日常の放談さながらのあけっぱなしな調子で、独特のユーモアをふんだんにまじえながら、終始軽快なアレグロのテンポで書き流してゆく手紙のなかに、当人の正体を捕えることは案外なほどむずかしいのだ。そこで彼は、自分について語ることを避けなどしてはいない。むしろ率直に自作の構想や進行状態を語り、自分のあけすけな意見を信仰問題についてさえ開陳してはばからなかった。愚痴ぐちや泣言の類も少いどころではない。自分の日常の動静に至っては、彼の報告は驚くほど精細を極めてすらいる。
 ところが、そこでコンマがはいる。少し意地わるな眼になって、彼の手紙の要所要所を注意してみると、話が自分の急所にふれそうになる度ごとに、巧みにそれを引っぱずす彼を発見することができるはずだ。こうした話頭転換は到るところに見られるが、一例を挙げれば、『六号室』を読んだスヴォーリンが、何かしら物足りない感じがすると言って来たのに対する彼の返事(一八九二年十一月)がそれである。チェーホフは、相手が漠然と感じている不満に、「それはアルコール分の不足だ」という頗る的確な表現を与えるのだが、そこでくるりと身をかわす。まあ『六号室』や僕自身のことはお預かりにして、ひとつ一般問題を論じようではないか。その方がずっと面白いぜ……といった筆法である。さてそれから、いかに現代が理想の黄昏たそがれであり空虚な時代であるかについて、軽快無比のアレグロ調の雄弁が際限もなく展開するのである。だがこれは実のところ、又しても例のマーマレードにほかならないのではないか。この序説の冒頭に引いた「自伝」で、殆ど五分の三に近い行数を占めていた医学の礼讃にしたところで、案外ドクトル・ロッソリモの口に合せたマーマレードだったかも知れないのだ。…… だからと云って、何もチェーホフが嘘をついていることにはならない。
マーマレードは事実チェーホフの好物だったろうし、同様にして医学効用論にしろ現代文化論にしろ、彼としてはあくまで正論だったに違いない。信念ですらあったに違いない。問題はだから彼の誠意の欠乏などにあるのではなくて、むしろ誠意の過剰にあるのだ。言いたいこと乃至ないし言うべきことは、最初の二言三言ふたことみことで済んでおり、あとは不愛想な沈黙があるだけだ。しかしチェーホフは、自分が冷たく見えることをおそれる。相手を退屈させることを怖れ、自分の退屈ももちろん怖い。この窮地に追いつめられたチェーホフは、頗る困難でもあれば嘘をつく可能性も多分にある「自己」という主題をたくみに避けて、誠実で安全な一般論に突入するのだ。――自分の破産を白状するのは容易なことじゃない。まっ正直にやるのはつらい、おそろしく辛い。だから僕は黙っていたのだ。ねがわくは僕のなめたような苦しみを、誰もなめずに済みますように……と、『無名氏の話』(一八九三)の主人公は語る。この言葉はチェーホフの手紙についても、有力な自註の役割をはたすだろう。
 今ではもう、沈黙の一形式としての彼のおしゃべりな手紙の正体が、おおよそ明らかになったことと思う。それはまさにニーチェの言うように、自己をかくす器であった。従ってまた、チェーホフの正体をさがすためには頗る恰好かっこうな場所でもあるわけだ。実際チェーホフの生活は、ほかならぬこの無駄話そのものの中にこそみなぎりあふれているのだ。


 チェーホフの非情アパシーについての証拠がためを一応終ったからには、もはやその発生の歴史をたずねる手続きは無用に帰したように思われる。けだし彼の非情には、なまなかな後天説や環境説などの口出しを一切ゆるさぬ根づよさときびしさのあることを、われわれは既に十分見て来たはずだからだ。
 もちろん文学史的に見れば、彼を八〇年代のとすることは正しいであろう。だがそれは主として彼の芸術の総体が結果としてかもしだす或る気分と、時代の気分との間のアナロジーの問題にすぎないのであって、彼の非情がその時代の枠の中においてこそ発生し、つ形成されたと考うべき根拠はどこにもないはずである。なるほどチェーホフがその生涯の最も大切な時期を生きた八〇年代は、ナロードニキー運動とプレハーノフ的マルクス主義と、この二つのいずれもロシヤの現実から遊離した革命思想が、一はようやく退潮し一は漸く興ろうとしてまだ姿をあらわさぬ空白の時代であった。これを反対側から眺めれば、アレクサンドル二世の暗殺の前後を転機として、ロシヤの反動政治の権柄が法学者ポベドノースツェフの鉄腕を離れて、典型的な老獪ろうかい政治家であるロリス・メーリコフの手に帰した時代である。それはまさしく幻滅と萎微いびと沈滞と無目的と退嬰たいえいと窒息……等々にとざされた灰色の一時代であった。出口はどこにもない。勿論われわれが名さえ聞いたこともない多くの作家たちが、この重圧のもとに空しく窒死しただろう。だがまた同じ条件のもとでも、ガルシンのように狂うこともできれば、ヤクボーヴィチのように革命の歌を歌い抜くことも、コロレンコのように堅実に生き抜くこともできたはずである。しかしこれらの作家は八〇年代人とは呼ばれていない。思うにこの非情な時代の代表的作家の名に値いするためには、よくよくの非情な人間たることを必要としたのだろう。
 このような灰色の空のもとでショーペンハウエルの解脱の哲学が、大いなる救いとしてロシヤ・インテリゲンツィヤの前に現われたことは頗る自然であった。彼はロシヤで「世紀の天才」どころか、まさに神様扱いを受けたのである。トルストイは彼を「人類のうちで最も偉大な者」と呼んだが、ロシヤ正教の凝り固まり屋の眼からすれば、この老聖者も要するにショーペンハウエルの済度しがたき門弟だったに過ぎない。チェーホフが卒業したタガンローグ中学校でも、ショーペンハウエルはバックルと並んで生徒必読の書であった。現にチェーホフの蔵書中には『アフォリスメン・ウント・マクシーメン』の訳本が残っているし、『燈火』(一八八八)にはショーペンハウエルの厭世観のいちじるしい影響が認められるはずである。もしこの影響の気分的余波のことを言うなら、それは彼の殆どすべての作品の隅々に尾を引いていると言っても大して言い過ぎではあるまい。おそらくショーペンハウエルの哲学は、ダーウィン・スペンサー系の進化説とともに、彼の心情の形成に多少とも決定的影響を及ぼした唯二つの外来思想であったかと思われる。
 もう一つチェーホフの上に或る影響を及ぼした「哲学」があったとすれば、それはトルストイズムである。すでに早期からショーペンハウエルの影響がある以上、トルストイの原始教が根をおろす素地は十分あったわけだ。チェーホフ自身の言葉によると、それは思想としてよりは寧ろ一種の「催眠術」として心に食いこんで来たもので、およそ六、七年のあいだ彼を捕えて離さなかったが、一八九四年の春には陶酔は完全にめていたことになる。実際それが道徳理念としてチェーホフを多少なりとも支配した期間は、大して長くはなかったらしい。『決闘』を脱稿した頃の手紙には早くも、金銭や肉食を虚偽とすることの行過ぎが指摘されているし、つづく『六号室』になると、医者ラーギンの破滅という主題そのものにおいて、無抵抗の教養に対する手きびしい揶揄やゆが殆ど自嘲の調子をすら帯びて響いていることは、おそらく衆評の一致するところだろう。『中二階のある家』(一八九六)や『わが生活』(一八九六)では、既にかなり冷却したトルストイ観が、挿話的に顔をのぞかせているに過ぎなくなっている。トルストイズムへの反抗が最後的な爆発を見せている作品は、『すぐり』(一八九八)である。トルストイの民話『人はどっさり土地がいるか』は、結局三アルシン(七尺ほど)で足りるという落ちになっている。チェーホフはそこを捕まえて、それは死体のはなしで人間じゃない、人間に要るのは自由な精神を思うぞんぶん発揮できる全地球だ全自然だと、作中の獣医に叫ばせているのだ。
 では、それでトルストイとは縁切りか。全地球だの全自然だのという景気のいい宣言は、またしても例のマーマレードを思い出させないでもないが、その辺は大丈夫か。……などと念を押されると、やはりそうはっきりと機械的な返事をするわけに行かない事情もあるようだ。トルストイに対するチェーホフの態度には、理念の上の否定ということだけでは割り切れない、一種微妙なものが残っているからだ。比較的晩年ちかくのチェーホフに親近したゴーリキイの回想によれば、話がトルストイのことになると彼は、情合じょうあいと当惑とが半々にまじったような微笑をちらりと浮べ、これは摩訶不思議まかふしぎなことだからうっかりした事は言えぬとでもいったふうに、声を低めるのが常だったそうである。敬遠には違いなかろうが、よほど手数のかかった敬遠だったことがこれで分る。『すぐり』を書いてから二年の後、つまり一九〇〇年の初め、トルストイが患ったことがあった。チェーホフはメンシコフに手紙を出して、胃腸の潰瘍かいようでもあるまい、がんでもあるまいなどと、しきりに病状を案じているばかりでなく、もしトルストイに死なれたら自分の生活には大きな穴が明くだろう、自分は不信心者だが、ほかのどんな信仰よりもあの人の信仰が一ばん身近に感じられる……と、すなおな調子で告白している。そこにはみずからの死を四年後にひかえた肉体的衰弱から来る一脈の感傷はあるかも知れない。だがいずれにせよ、この老人が自分の信念をぐんぐん押し通して行く毅然きぜんたる生活態度に、チェーホフが及びがたく学びがたいものを、痛切に感じていたことだけは争えない。
 多少ともこれに似た畏敬いけいの念を彼に抱かせた同時代人があるとすれば、それはコロレンコだろう。チェーホフはこの七歳の年長である写実主義作家のうちに、均衡のとれ目標のきまった健全な生活者を見、さながら自分を裏返しにしたようなコロレンコの人柄に、やみがたい羨望せんぼうを感じたのである。
 さてそこでどうすればいいか。
 非情がもし何か壁のようなものなら、それを突き破って出て行けばいい。決然として行動人になればいい。ここでわれわれの眼の前に、少くも二つの事件が証拠として提出されるだろう。チェーホフの積極的な行動性を物語るのっぴきならぬ証拠としてである。
 その一つは言うまでもなく一八九〇年のサガレンへの大旅行だ。もう一つはその翌年の秋から次の年へかけての大飢饉だいききんの際の彼の活動である。人によっては更に二つ、――ドレフュス事件およびゴーリキイのアカデミー入り取消し事件の際にとられた彼の態度を、このリストに加えたがるかも知れない。だがこの両事件に際しての彼の態度には、なるほど決然たるものはあったにせよ、一は『新時代』紙との訣別けつべつ、他は自身のアカデミー脱退という否定的な形で現われているにすぎないから、ここでは一応除外するのを至当とするだろう。
 それはともあれ、このうちサガレン旅行だけを取ってみても勿論大したことである。もっとも彼をこの一見無謀とも見える大遠征へ駆り立てた真の動機については、残念ながらはっきりしたことは分っていない。ある人は兄ニコライの死が直接の動機だという。絵かきのニコライは前の年の夏に死んだのである。死因はやはり肺病であった。だが少くもチェーホフの場合このような動機づけは、この大旅行のうちにドストイェーフスキイ流の苦悩愛を見出そうとする試みと同様、基礎薄弱どころか寧ろ滑稽なものをさえ含んでいはしまいか。その位なら、いっそチェーホフの身うちに潜んでいた旺盛な生活力のせいにでもした方が、まだしも話の筋が通りそうだ。実さい海路によるなら話は別だが、鉄道が敷ける以前のシベリヤなど、既に少くも二回は喀血かっけつを経験している男が、雪どけの氾濫はんらん泥濘でいねいと闘い単身がた馬車に揺られどおしで横断して、首尾よく目的地に着いて冷静きわまる科学的データの蒐集しゅうしゅうに従い、帰りの海路では印度インド洋を全速力で航進する汽船の甲板かんぱんから身を躍らせて、船尾に垂らしたロープにつかまりながら海水浴を楽しむのを常としたのみか、パイロット・フィシュに囲まれた一匹のふかを眼前数間すうけんに見いだすというはなわざをまで演じ、その年末モスクワに帰って来ると「咳が出る、動悸どうきがする」などと一しきり泣きごとを並べたくせに、翌年の春にはけろりとしてイタリヤやフランスを遊びまわり、夏の末モスクワに帰ってくると別に神様に助け舟を求める必要も感じずに、相変らずマーラヤ・ドミトロフカ街のアパートにくすぶって、セイロンで買って来た三匹の猫いたちモングースを相手に「退屈だ退屈だ」と御託を並べながら、『決闘』の完成に「神経を一ポンドほどりへらし」たり、『妻』だの『浮気もの』だのという作品を立て続けに書いたりしているチェーホフの行状というものは、なんとしてもわれわれ栄養不良性神経衰弱症の島国人どもの想像を絶するものがあるだろうからである。
 だから結局のところ、ほんとの動機はよく分らない。末弟ミハイールの回想によると、たまたま弁護士試験の準備をしていたミハイールの刑法や裁判法や監獄法などのノートをふと眼にして、とたんにチェーホフは「足もとから鳥の立つように」サガレン視察を思い立ったので、初めは冗談なのか本気なのか分らなかった、ということになる。一見すこぶる突飛なようだが、案外これが一番よく事の真相をいているかも知れない。チェーホフはたちまち「サガレン・マニヤ」にとりかれ、この流刑地に関する文献の渉猟に没頭した。出発前の彼の手紙から、この遠征の意図についての彼自身の証言を集めることは勿論可能である。それによると、彼はこの旅行が文学や科学に大した寄与をするだろうとは思っていない。それには知識も時間も自惚も不足している。まあ百頁かそこらのものを書いて、せっかく学んだ医学に些かの恩返しができればいいと思う。何はともあれこの旅行は、半年ほどにわたる心身二つながらの間断ない労働だろう。自分は典型的な小ロシヤ人で、そろそろ怠け癖がつきだしたから、この際ひとつ根性骨を叩き直す必要がある。まかり間違ったところでこの旅行から、終生忘れられぬような悲喜いずれかの思出ぐらいは得られるだろう。サガレン流刑の実状がゆるすべからざる社会悪であることは勿論で、西欧の文化国なら罪はわれわれ自身にあることがつとに自覚されているはずなのだが、わが国では罪を「赤鼻の獄吏」に転嫁してのほほんとしている。ただし遺憾いかんながら自分は視察者として適任ではない。要するに自分は個人的なつまらぬ動機で行くにすぎない――ということになる。傍点は例のユーモアの所在を注意するために筆者が仮に添えたものだが、いかにチェーホフのはにかみを計算に入れたところで、あれほどの壮図を裏づけるだけの動機をこれらの言葉からき出すことは到底できない相談であろう。
 要するにチェーホフは急に飛びだしたくなったのである。そわそわして満足に口も利けぬのである。この大旅行の突発性や無根拠さは、さらに事後の彼を見れば※(二の字点、1-2-22)ますますはっきりする。なるほど彼は笞刑ちけいの現場を見て幾晩か眠れなかったと告白する。だが結局サガレンに、彼は震憾しんかんもされず圧倒もされなかった。何か良心の重荷をおろしたとでもいった気分も手伝ったのだろうか、かえって元気が出て陽気にすらなった。――僕はのどもとまで食い足り満ち足りて、今や陶然たる気もちだ。もう何も欲しいものはない。中風になろうが赤痢せきりで死のうが悔いなし、というところだ。は生活した、余は満足じゃ、というわけだ。僕はサガレンという地獄も見たし、セイロンという極楽も見たのだからね。……これがモスクワに帰って早々、彼が友人に出した手紙の調子である。この太平楽な詼謔かいぎゃくのなかには、ただの非情と言っただけでは済まされぬ不敵なものがありはしないか。自己革命のためには、結局サガレンは薬が弱すぎたのである。チェーホフは口惜しかっただろう。
 旅行後二年半ほどして、厖大ぼうだいな報告書『サガレン島』が出来あがった。いわゆる「冷厳なること重罪裁判所の公判記録のごとき」調査資料である。サガレン徒刑の制がかれてから十五年になっていたが、その実状についてはお役所の文書のほかには一片の報告も現われず、社会の関心は皆無にひとしかった。チェーホフの著書は、この地獄の扉をあけ放した第一書だったわけだ。それはインテリの一部に徒刑囚の取扱改善の運動をまき起させ、ひいては当局の施策にも少からぬ影響を及ぼした。チェーホフは勿論もちろん満足だったに違いない。彼自身の言草いいぐさにしたがえば「医学部を出て以来の懸案だった学位論文」が、科学にのみならず直接社会に寄与したのである。『死の家の記録』と『サガレン島』のわかれが、ドストイェーフスキイとチェーホフの岐れを端的に示すものと言える。この大旅行はチェーホフの内部に、何一つ痕跡を残さなかったからだ。
 一八九一年から翌年へかけてヨーロッパ・ロシヤの数県を総嘗そうなめにした大飢饉は、社会情勢一変の転機をなしたと言われるほど深刻なものだった。医師として一市民としてチェーホフは勿論たちあがった。だがその活動の総計をとって見ると、妙に焦点のないちぐはぐなものになる。時の内務大臣ドゥルノヴォは政治的考慮から、初めのうち救済への私人の発起を抑えて、赤十字や教会の手にこれを一任した。だがトルストイのようながむしゃら屋は、そんなことにはへこたれなかった。つい一年ほど前までは、慈善などという姑息手段を排撃していたこの老人ではあったが、一たん乗り出したとなると大臣の意向などにはお構いなく、窮民への給食事業をぐんぐん実行して行った。このトルストイの「勇敢と権威」は、いたくチェーホフの心を揺すぶった。彼はこの老人を「神のようだ」とまでたたえたが、さりとて善意も権威もそのまま実行とはなり得ない。その媒介をする素朴な情熱が、なんとしてもチェーホフには欠けていたのだ。結局のところは彼は何をしたか。難民がついにアカザをまで食べはじめたと聞いて、彼はこの草の栄養価について、ひろく専門家の意見を募った。知友のあいだに私信を飛ばして義捐金ぎえんきんの募集に努力した。そのあいだ六週間ほど流感で寝込むといった不利もあったが、要するに大した金額は集まらなかった。自由主義系の新聞『ロシヤ報知』が難民救済のための文集を企画すると、彼はこれと右派の有力紙『新時代』との間の仲介役を買って出、且つみずから『サガレンの脱走者』一篇をこの文集に寄せた。やがて年が改まるとともに、被害の最も甚だしいニジニ・ノヴゴロド県へ出かけ、郡会長をしていた旧友エゴーロフと協力して、難民のため馬匹ばひつ購入の機関を設けた。これは飢えに迫られて馬を手放した農民のために馬匹を買附けて、これを冬のあいだは公費で飼養し、農作期の到来とともに難民に配給しようというのであったが、実際の効果は案外すくなかったと言われる。さらに彼は『新時代』の社主スヴォーリンと一緒にヴォローネシ県を視察したが、これは県当局の歓迎宴などの連続で、彼は自嘲的な微苦笑をうかべて退散せざるを得なかった。……これを要するに、結局なるようにしかならなかったのである。
 それでは、ペンの活動の方はどうだったか? 周知のように小説『妻』は、この飢饉に直接取材した作品である。だがここで注意すべきは、この小説が実は飢饉がまだ本格的な惨状さんじょうをあらわさず、且つ自身で現地を視察に出かける二ヶ月以上も前に書き上げられた、という事実だ。つまり前もって書かれた作品なのである。これを執筆しながら彼は、たとえ半月でもいい、家を逃げ出さなくちゃならんとか、僕が医者なら患者と病院が要るし、僕が文士なら民衆の中で生活する必要がある。社会的・政治的生活のほんの一かけらでもいい、それが入用なのだとか(一八九一年十月、スヴォーリン宛の手紙)、しきりにをあげている。退屈だ退屈だとこぼしている。つまり今度は、サガレン・マニヤならぬ飢饉マニヤに取り憑かれて、そわそわしだしたのだ。ところで小説『妻』は、できあがってみると結局、善意という亡霊が飢饉という現実の前でまごついたり幻滅したり腹を立てたりする滑稽小説になってしまった。それが活字になったあとで(綜合雑誌『北方通報』九二年正月号)、チェーホフは前もって書かれたこの自画像の正確さを確かめるべく、わざわざ現地へ出かけたのである。少なくも結果はそうなった。
 トルストイは有名な『飢饉論』や『怖るべき問題』などの論文を書いて世論に訴え、コロレンコも現地報告『凶作の年に』をあらわして、ナロードニキー陣営最後のホープとしての輿望よぼうに答えた。ところがチェーホフは、スヴォーリンから何べんも催促されながら、結局一行のルポルタージュも書いていない。彼自身の弁明によると、――二十回も書き出したのだが、その都度そらぞらしくなって投げだした。結局ぼくは君(スヴォーリン)と一緒に漫然と旅行して、漫然とピローグを食べただけのことらしい。但しあのピローグはうまかったね、ということに落着くらしいのである。われわれはこの詼謔の裏に、一たい何を読んだらいいのだろうか?


 非情アパシーというものが、そう容易には突き破れぬものらしいことを、われわれは今しがた見た。実際にそれが脱出を頑強にはばむ石の壁の如きものであり、且つ、当人に脱出の情熱があるとすれば、当然期待される行為は、その壁に頭をごつんごつん打ちつけることでなければなるまい。レフ・シェストフの有名なチェーホフ論『虚無よりの創造』は、まさしくこの二重の仮定(石の壁の存在と情熱の存在)の上に展開されたのである。
 この石の壁という比喩ひゆの出所は、いうまでもなくあの『地下室の手記』である。ドストイェーフスキイ自身の定義に従えば、石の壁とは自然の法則であり、自然科学の結論であり、数学であり進化論であり、つまり二二ヶ四ということだ。ところで、なんとしてもこの壁の越権沙汰を黙認できなかったドストイェーフスキイは、人間のいわば主体性の名においてこれに血戦をいどみ、「歯痛の快感」ぐらいならまだしものこと、「クレオパトラの黄金の針」などという奇想天外な武器をまで、反撃のために動員したのである。この必死の血戦ぶりは、「絶望」の頑強な使徒であり、怖るべき超越神の熱烈な探求者であるシェストフをいたく喜ばせた。彼はドストイェーフスキイのうちに、プロティノスにも比すべき神秘的なエクスタシスに陥った「狂暴者」を見、均衡とか完成とか満足とかいうおよそまともな人間の抱き得るかぎりの理想を支えている諸要素への、断乎たる否定者を見た。シェストフがこの発見にどれほど狂喜したかは、もしダーウィンが生前に、ドストイェーフスキイの見たものを見ていたら、自己保存ではなしに自己破壊の法則を説いただろう――とまで極言しているところからも明らかだろう。要するに以上がシェストフの見事なドストイェーフスキイ論の成り立ちである。それは紛れもない傑作であり、完全な勝利ですらあった。
 ところでシェストフは、チェーホフを論ずるに当っても、全く同じ理念と手法を適用する。チェーホフはまず二二ヶ四という石壁に向わしめられ、ついでそれに頭をぶつけるという「運動」を与えられる。科学はチェーホフから一切の希望を奪ったのだから、どうして彼が科学的方法論などを容認するはずがあろうか、というわけである。もっともなんぼシェストフにしたところで、チェーホフがいわゆる実証的唯物論なるものに払っていた敬意をまで無下に否認することはできなかったと見え、チェーホフは「表面は屈従したような振りをしながら、実はこの端倪すべからざる敵への深い敵意をひそめていた」ことにされる。更にシェストフはこの「敵意ある屈従」を独鈷とっこにとって、さもチェーホフが唯物論の苛酷かこくな脅迫のうちに新型の「歯痛の快感」を見出していたかの如き印象を、われわれに生みつけることをも忘れない。さてここまで道具立てがそろえば、あとはシェストフ一流の切れ味のいい直観的論理の跳梁ちょうりょうに任せるのみである。論証はあざやかに次々と展開して、ついにチェーホフは芸術・科学・愛・霊感・理想・未来など、およそ人間の抱くかぎりの一切の希望を、つえの先の一触れで忽然こつぜんしぼませる稀代きたいの魔術師に仕立てられてしまう。いやシェストフによれば、当のチェーホフさえ既にもろもろの希望の枯死と運命を共にしたのであり、今ではその不気味なメドゥサ的芸術が生き残っているだけなのだ。すなわち「虚無よりの創造物」である。……
 シェストフがチェーホフのうちに探ろうと欲し、かつ首尾よく探り出し得たものは、要するに「絶望の神化」であったと言える。そして万事は註文どおりに運んで、チェーホフは結局シェストフの絶望教の使徒たることを完全に承諾した観がある。
あきらめよ、わが心。なれが禽獣きんじゅうねむりを眠れ。
というボードレールの詩句が、さながら凱歌がいかのような誇らしい調子で、この小論のうちに二度三度と繰り返されているのは理由のないことではない。ところで「諦らめよ」と独語している精神は、「曾ては闘争を好んだが今は陰鬱な精神」であり、「大雪が凍死体を埋めてゆくように」刻々に『時』にまれてゆくことを自覚している精神であり、もはや「高みより地球のまるい形を眺めつつ」逃げかくれする気力もなく、「雪崩なだれよ、落ちて来ておれを運び去れ」とつぶやくほかない精神なのである。この『虚無の味わい』という詩が、その頃ボードレールが母への手紙の中で訴えているような脳の廃疾への恐怖と実際どこまで関連があるかは知らない。ともあれここで大切なことは、あくまでこれが「曾ては闘争を好んだ」という前提のもとに立つ絶望の心理だというところにある。それをシェストフはチェーホフのうちに摘発し且つ論証して、さながら検事のごとき威容と満足感とをもって、彼に対して「禽獣の睡り」という「死」を求刑しているのである。
 シェストフが精巧な実証的論理の才と、ポレミスト的説伏力とを兼ね備えた、稀有けうのペシミストであったことは疑いない。従ってその論証のプロセス自体のうちに何かアラを捜そうとしても、しょせんは無駄骨にすぎない。手品のたねは、もしあるとすれば、必ずやその前提の中にひそんでいる。これは相手が峻厳しゅんげんな検事であろうと第一流のポレミストであろうと、共通して言われることである。つまり問題は、水晶宮は果して人間的であるか、人間は果して豚たり得るか、乃至は果してチェーホフには曾て闘争があったか……等々といった頗る素朴な pro et contra に出発し、結局それに帰着してしまうほかはないのだ。
「戦いのないところに戦いを見るな」とチェーホフが言ったことを、われわれは前に見た。ところでチェーホフには、曾て闘争があったであろうか? 彼は果して石の壁に頭をぶつけたであろうか? 絶望という結果を生むための必須条件たる希望を、彼は果して持ったことがあったろうか? 「歯痛の快感」などという洒落たものを、彼が一度でも心に描いたことがあったろうか? ダーウィンは果して彼の敵意の対象であったろうか? いやそもそも石の壁などというものが、彼の世界に存在したであろうか? われわれは結局これらの問いをみずからに課して、みずからこれに答えなければならぬ。そしてもし No! と答えるならば、シェストフの精巧きわまる論証芸術は、一片の蜃気楼しんきろうとして消え失せなければならぬ。及びその逆。
 シェストフがあの『虚無よりの創造』を書いた頃は、まだチェーホフの書簡集が公刊されていなかったという事情は、一応考慮されていいかも知れない。だが仮にシェストフが彼の手紙の写しを全部机上に備えていたにしても、やはりチェーホフにごつんごつんと頭をぶつけさせずにはかなかったにきまっている。けだし悲劇は何らかの運動を前提としなければならず、そしてシェストフは悲劇以外のものには興味がないからである。だがもしチェーホフというものが、本質的に一切の前提を受けつけぬような存在だった場合はどうなるのか?
 シェストフに比べれば、ミハイローフスキイはさすがに社会学者だけあって、精力の濫費らんぴについて甚だ慎重だったと言っていい。レーニンによって、ブルジョア・デモクラシー的見解の最も俊秀な表明者と呼ばれたこのナロードニキーの代表的イデオローグは、文芸時評のはたけでも相手のうちに「悪」をぎつけることにかけて殆ど天才的な鼻の持主だった。まだ『アンナ・カレーニナ』にも筆を着けない頃のトルストイをつかまえて、破壊的なアナーキズムの傾向を予言したのも彼なら、ドストイェーフスキイの墓の土がまだ乾かぬうちに、彼の苦悩愛のうちに病的なサディズムを嗅ぎつけたのも彼である。同じ筆法でミハイローフスキイは、まだ『燈火』も『イヴァーノフ』も『わびしい話』も書いていない新進作家チェーホフにわざわざ私信を寄せて、その無目標無方針の危険を警告したのだったが、これに対してチェーホフが「自分には別にこれといった信念はない」と率直に告白すると、折返して「そういうことならあえて反対もできまい。無いそでは振られぬというからね」と応じ、あっさり見放してしまったのである。事実ミハイローフスキイの『六号室』評を見ても『百姓』(一八九七)評を見ても、かなりお座なりな対社会的警告にとどまっていて、相手の本質をぐいぐいとめ上げなければやまぬ往年の気魄きはくは殆ど見られない。お年のせいなどと言うなかれ。おそらくミハイローフスキイは、チェーホフの「非情」に行き当った最初の批評家だったのではあるまいか。そしてこの鋭敏な批評家は、無い袖を振らせる愚をやめて、顧みて他を言ったのではなかったか。チェーホフが自分の酷評家たちのうちで、ミハイローフスキイにだけはひそかに敬愛の念を抱いていた形跡のあるのも、決して偶然ではないのだ。


 以上二人の優れたポレミストがチェーホフに対してとった両様の態度は、彼の非情のあり方を明らかにする上で、有力な側面照射たるを失わないように思われる。
 非情は勿論プラスの値ではないと同時に、マイナスの値でもない。それはゼロであり無であり空虚であり真空状態であり、もう一つ言い換えれば、主客両体の完全喪失である。有る袖を振らないのが不人情であり冷酷であるなら、もともと袖も壁もない非情はそれとは全く異質のものだ。けっきょく純粋に無色透明な心的状態とでも言わなければなるまい。勿論こうした状態を表象することは大層むずかしい。チェーホフがみずからの自覚症状を表白する必要に迫られる都度、すこぶる頼りない否定詞の連発をもってするのを常としたのは、むしろ理の当然だったかも知れない。有名な「自由宣言」のことは前に言った。同じような無い無い尽しは、もしお望みとあらば幾らでも並べることができる。けだし多少とも重要なチェーホフの発言は、悉く否定詞の連続から成るといっても過言ではないからだ。いわく、われわれが不朽の作家と呼ぶ人たちはそれぞれ身分相当な目標を持っていたが、われわれ(これはチェーホフの例の一般化の癖で、この場合単数ととって少しも不都合はない――)にはそれがない。手近てぢかな所で農奴制の廃止とか、祖国の解放とか、政治とか、美とか、或いは単に酒とかを目ざした作家もあり、高遠な所で神とか、死後の生活とか、人類の幸福とかを目ざした作家もあるが、われわれには遠いにも近いにも目あてというものが一切ない。魂の中はがらん洞だ。政治もない、革命も信じない、神もない、幽霊も怖くはない? 死ぬことも目がつぶれることも怖くない。そのくせ誰かのように泥水で酔っ払うわけにも行かない。ガルシンのように階段の上から身投げもできないし、さりとて六〇年代の連中みたいに他人のボロ布で自分の空虚をおおって澄ましていられるほどお目出度くもない(以上一八九二年十一月、スヴォーリン宛の手紙より)。また曰く、生活の目的は生活それ自体だなどと言うのは、あめチョコであって人生観ではない(同十月、同人宛)。また曰く、連帯性なんていうことは取引所や政治や宗教事業についてなら分るが、青年文士の連帯性なんか出来ない相談だし、要りもしない(一八八八年五月、シチェグローフ宛)、等々。
 否定また否定、切断また切断である。その果てに現像されるのは、清潔なまでに孤独な一人の男の姿でなければならない。実際チェーホフはさすがに頗る巧みな一筆がきで、そうした自画像を描いている――野原の遠景、白樺しらかばが一本。絵の下に題して曰く、孤独(『手帖』)。
 さらにこの孤独者は、なかんずく一切のエクスタシスおよび狂気から切断されているゆえに、必然的に永遠の覚醒状態にありつづける運命をもつ。更にまた一切の目標から切断されているゆえに、闘争もなく行動もなく、従って多少とも本質的な変化というものもあり得ない。それはわれわれが既にあのサガレン旅行前後の事情について、はっきり見たところである。しかも不断の覚醒状態に置かれた人間は、おそらく絶望の権利をも奪われざるを得ないだろう。いや、絶望からの切断――これが人間にとって実は一ばん怖ろしいことかも知れないのだ。
 そこでどういうことになるか。人間的機能のうち、一たい何がチェーホフに残されているのか。おそらくは一対の眼だけではないのか。絶対の透明の中に置かれた絶対に覚醒せる、いわば照尺ゼロの凝視だけではないのか。それにもう一つ、「昔ながらの仕来たりに従って、機械的に書く」ことだけではないのか。尤もこの「書く」ということで、彼はレトリックを一新しはした。恐らくモーパッサンを乗り超えさえした。彼において「印象主義的」文学はその絶頂をきわめた。彼はロシヤ文学のクロード・モネだ。だがこれは恐ろしく退屈な仕事ではないのか。せめてその見るもの、従ってその書くものに、何か美しいものの切れ端でもあればいい。だが彼の照尺ゼロの凝視のなかに見出されるものは、彼がいみじくも「凍原トゥンドラとエスキモー」と名づけたところの、いわゆる八〇年代のロシヤ生活の泥沼だった。「灰色のがらくた」に充満した世界だった。しかも『すぐり』の主人公が言っている通り、――この世の中には自足した幸福人が圧倒的に多いのである。強者の傲慢ごうまん懶惰らんだ、弱者の無学と畜生暮し、どこを見てもおそろしい貧乏と窮屈、堕落と泥酔、偽善と虚偽ばかり。だのにどの家にも街筋にも、静けさと安らぎが立ちこめていて、五万人の市民のなかに誰ひとり声を大にして抗議する者もない。つまり一切は平穏無事であり、ただ「無言の統計」が抗議しているだけなのだ。……
 ではチェーホフは、この「無言の統計」の役割をみずから引受けようというのであるか。発狂したもの何名、酒の消費量いくたる、餓死した子供何名と、ただ帳づらに黙々と記入するだけの仕事――恐らくそれは、手近なところで何かヒューマニズム感覚の漠然たる満足とでもいった報償でもない限りは(しかもチェーホフがそうした漠然たる感覚に甚だ縁遠い人間だったことは明かであるが――)、二十年はおろか三年だってつとおおせる人はないだろう。それは「無言の」統計であるから、実質的に何らかの反作用を期待する「抗議」ですらあり得ない。それは一切の支えを断たれて独り歩きするリアリズムであり、絶対に「公平無私な証人」ないし傍観者でのみあり続けることであり、絶対に心悸の昂進を伴わずしてひたすら持続を強いられる「無償の行為」の恒常化であり、いわば人間が一個の自記晴雨計に化することを意味する。世の中にこれほど非人間的な条件があるものではない。もちろん科学の猛襲の前に理想の王座がぐらつきだして以来、リアリズムの名のもとに分類される作家はフランスの自然派をはじめとして、決して少ないどころではない。ロシヤにはそれとは別に、まるで突発事故のようなゴーゴリの出現があった。だが所謂いわゆるゴーゴリのリアリズムなるものが、実は「十字架」への烈しい畏怖の潜在なしには成り立ち得なかったであろうことは、ローザノフのきびしい摘発以来もはや公然の秘密であるし、チェーホフがその種の畏怖には完全な不感症だったことも既に明らかである。同様にしてゾラには、人間を科学するとでもいった大それた野心が支柱をなしていたろうし、フローベルには芸術の信仰が、モーパッサンには人間獣への復讐ふくしゅうの快感が、そしてわが国の私小説家には卑小の礼拝というまことに手頃な宗教が、それぞれ有力な支えをなしていたはずだ。
 リアリズムなどというとひどく強そうに聞えるが、その独り歩きは案外むずかしいらしいことがこれで分る。純正リアリズムというものが存在するとすれば、それは恐ろしく非人間的な条件――つまり徹底的な非情の上にのみ成り立つものに違いない。チェーホフなら立派にその資格があった。資格があったばかりでなく、実際にも彼は絶対写実のおそらく世界最初の実践者になった。別になりたかったのではないだろう。歌いたい歌はほかにあったはずだ。だが事情やむを得ず、ひとりでにそうなった。まったく透明界に独り目ざめているような人間は、レンズでも磨くよりほかには退屈のやり場がなかろうではないか?
 チェーホフ的リアリズムの種子は西ヨーロッパにもひろく落ちたはずだが、実を結ぶことは案外なほどに少かったらしい。わずかにジェイムズ・ジョイス(特に『ダブリン市井事』)、およびシオドー・ポウイスの諸短篇に、彼の非情にかなり近しいものが感じられるようだ。カサリン・マンスフィールドに至っては、むしろ気分的影響の範囲を多く出ないように思われる。それはともあれ、チェーホフ的性格を帯びた作家が特にブリテン諸島に比較的多く見出されるというのが、もし僕の見聞の狭さから来る錯覚でないならば、少なくも一応は考慮されていい事がらかも知れない。ついでに記して後考をまつことにしたい。
 だがそれにしても、僕はことさらチェーホフの非情を強調している嫌いがありはしまいか。何かしら異説を立てる快感のようなものに酔っている傾きがありはしまいか。なるほど非情は非情にしても、人間まさか機械人形ではあるまいし、やはりそこには何かしら或る信念のようなもの、あるいは夢想のようなものもあって、それが絶えず息抜きの働らきをしていたのではあるまいか。……
 なるほどそう考えてみれば、チェーホフには少くも一つ手近な具体的な信念があった。それは「個人」のうちに救いを見るという思想である。彼によれば、優れた個人はそこここに散らばって、今のところ社会の端役はやくを演じているにすぎないが、しかもその働らきを見逃すわけにはいかない。現に科学は日に月に進歩し、社会的自覚は伸長し、道徳問題は波だちはじめているではないか。それは総体としてのインテリゲンツィヤには一切無関係に行われていくのだ(一八九九年二月、オルロフ宛の手紙)。更にこれを噛み砕いて言えば、『三人姉妹』(一九〇〇)の一幕目でヴェルシーニン中佐が述べるセリフになる、――現在あなたがたのような人がたった三人だとしても、やがて六人になるかも知れない。それが十二人、二十四人とだんだんえていって、二百年三百年たった後の地上の生活は、想像もつかぬほど美しいものに……云々うんぬんという鼠算ねずみざんがそれである。つまり個人のうちに救いを見るということは、結局またしても例の進化論的倫理説に落ちつくほかはない。ただし二百年三百年後は、四百年五百年後であるかも知れず、あるいは千年後であるかも知れず、要するに「時は問題でない」のだ。とにかくわれわれは現にノアの洪水以前の原始人ではないではないか。男女関係一つとってみても、もはや犬やかえるのような単なる獣性の作用ではなくなっているではないか。人間の耳はもはや動かず、全身に毛が密生してはいないではないか。である以上、進化の理法を信じないわけには行かないではないか。……チェーホフは反問するのである。
 ところで、チェーホフは本気でこの二二ヶ四を信じていただろうか。遺憾ながら、彼がそれを信じていなかったという証拠はどこにもない。それのみかダーウィン=スペンサー系の進化論の信奉者として、彼はおそらく突然変異説など念頭に思い浮べもしなかったろう。その辺に彼の「唯物論」の限界が指摘され、初期ナロードニキー思想の残滓ざんしたる生物学的社会観の依然たる持主として非難される立派な根拠がある。いくら非難されたところで一言の申開もうしひらきもないのである。もともと進化説は非情人の哲学にすぎない。だとすれば、何かを信じるとすればさしずめそれでも信じるほかはないという絶体絶命の境に追い込まれた彼の顔附には、やはり言いようもなく非情なものが浮んでいたはずである。
 ――君が「前へ」と叫ぶ時は、必ず方角を示したまえ。ただ「前へ」というだけで坊さんと革命家を同時にきつけたらどんなことになるか? そんな警句めいた文句が『手帖』にある。チェーホフだってその位のことは知らなかったのではない。しかも彼は、「君たちは悪い生活をしている。働らかなくちゃ駄目だ」と口癖のように言いながら、決して方向を示そうとしないのもチェーホフである。もし強いて指してみろと言われたら、おそらく進化の無限の彼方かなたをゆび指したに違いない。そしてまた黙々として「無言の統計」を書きつづけたに違いない。そこには凍土の上に垂れこめた重くるしい空がある。「灰色のがらくた」の息づまるような堆積がある。破産があり盲目があり、怠惰があり狂気がある。とてもいつまでもチェーホフのお附合いをして坐りつづけてはいられない世界である。「ああ諸君、なんて退屈なことだ!」とチェーホフ自身も言った(一八九一年十月、スヴォーリン宛の手紙)。われわれも、なんとかならないものか! と叫ぶ当然の権利があるだろう。
 僕はここでレーニンの言ったことを思いだす。レーニンが『六号室』を読んだのは、おそらくやっと新聞記者生活を始めた青年の頃だったであろうが、その時の印象を次のように記しているのだ、――えて僕は、やけに苦しくなって、とても部屋にじっとしてはいられず、立ちあがって出て行った、と。実に簡明直截かんめいちょくさいだ。さすがはレーニンである。彼は出て行きたいから出て行ったのであり、しかも自分の行先をはっきり心得ていたのだ。おずおずとチェーホフの鼻息をうかがって、あの人が出て行けと言ったから……などと言う人種とは素性がちがう。チェーホフは出て行くレーニンの後姿を、さだめし快い微笑をもって見送ったに違いない。これに反して、他人の指図がなくては一歩も半歩も動けぬ封建むざんな連中に限って、チェーホフの社会的積極性をいたずらに強調し、彼の命令権を確立しようと懸命になる。そうした連中こそ、実をいえばチェーホフの作品の好題目だったのである。
 もっとも次のことは言い添えておく必要があるかも知れない。それは、絶対の非情はしばしば寛容に似た外観を呈するという事実である。彼は、その馬泥坊はこれこれ斯様かようの人間だったとは書くが、馬を盗むのは悪いことだとは口を裂かれても言わない。けだし判決は統計係の受持でないからである。馬泥坊はその作品を読んで、知己を感じて、さだめし随喜の涙をこぼすだろう。同様にして当時のインテリも、ほかならぬ自分たちに関する統計表を見て感涙にむせんだのだ。現実の復権だとか、汎神論はんしんろんだとかいう評言がチェーホフの在世中にも行われ、今なお頗る根づよいもののあるのはそのためである。同様にして彼が封建むざんな連中の庇護者ひごしゃなり同情者なりのように見えたところで、別に不思議はないかも知れない。
 手みじかに言えば非情の作用は輻射熱ふくしゃねつに似ている。草木の繁ろうと枯れようと太陽の知ったことではない。太陽はただその軌道を誤りなく運行するだけのはなしだ。チェーホフの人気の実になだらかな持続も、彼の作品への消えることのない信頼感も、つきつめて言えば単にこの一事にもとづいているのではあるまいか。


 僕の書く人物が陰気だとあなたは言うが、それは僕のせいではない。メランコリックな人間に限って陽気なことを書くし、陽気な連中は却って悲哀を追い求める。ところで僕は陽気な男だ。少くもこれまで三十年の生涯を面白可笑おかしく送って来た男だ――そんな意味のことを、彼は小説道の上でいわば弟子どころに当るアヴィーロヴァ夫人に書いている(一八九七年十月)。
 これは些か瘠我慢やせがまんが勝っているかも知れない。少くも例の快活な冗談口の一種には相違ない。だがそうした冗談口が※(二の字点、1-2-22)しばしば反語的に真相を明している実例をわれわれは既に十分見て来たはずだ。またわれわれは、彼には非常な快活さと非常な暗鬱さとが刻々に交替する癖があった、という友人たちの証言にも接している。この「陽気」さを見すごしては、おそらくどんなチェーホフ論も片輪になるほかはあるまい。
 チェーホフの笑い、あるいはユーモア。――恐らくこれほどしっくりした題目は他にあまり類例がないだろう。レクラム文庫にはたしか『フモレスケン・ウント・ザティーレン』と題する相当分厚なチェーホフ短篇集があったと記憶する。おそらくよその国には見られぬこの破格の優遇も、却って文庫編輯者へんしゅうしゃの並々ならぬ達見を思わせるほどだ。ところがひるがえって考えると、およそチェーホフの笑いほどに世の評伝家から不当な取扱いを受けているものも、あまり類例がないと言うこともできそうである。管見によればチェーホフの笑いは、彼の非情に少くも劣らぬだけの重要性をもつ。それは非情と相俟あいまって、彼の存在を支える車の両輪だったとさえ言っていい。実際もし彼に笑いがなかったら、通常われわれ人間という弱き者にとって最後に残される支えであるところの「憎悪」からも完全に切断されている彼の非情な芸術は、一体どんな形をとることになったか想像も及ばないのである。それは先ほど引合いに出したジョイスにしろポウイスにしろ、畢竟ひっきょうある種の緊張ないしは或る残酷な感じから、必ずしも免かれ得ていないのを見れば、容易にうなずける事がらでなければならない。チェーホフの笑いが彼の生活と芸術において演じた大きな役割については、恐らく別にそれを主題にした一文を必要とするだろう。以下はいわばこの未熟な序説に一応のしめくくりを附ける意味で、問題のありかを二、三指摘するにすぎない。
 通説によればチェーホフの文学生活は、一八八七年『イヴァーノフ』の執筆を境目にして、前後の両時期に分たれる。前者はアントーシャ・チェーホンテという筆名をもって蔽われる一時代で、つまり初期のユーモア作家としての活動期を示す。後期はこれと明白に区別されるいわばアントン・チェーホフの本格的な文学生活であって、この期の特質は絶望と哀感のしらべである……云々。
 だが、このように明らかな一線を引くことは果して正しいだろうか。僕はこれに少からぬ疑問をもつ。さきに僕は彼の非情の発生を考えて、それが必ずしも所謂八〇年代の空気から生まれたものでないこと、むしろ殆ど全く彼の持って生まれた稟質ひんしつによるものであることを、ほぼ突きとめ得たように思う。笑いの問題になると、これはより以上の確率をもって、彼自身の稟質に帰することができるはずである。チェーホフの笑いはよくゴーゴリのそれに比較される。ゴーゴリは周知のようにウクライナ人であったが、チェーホフの出身もやはり南方である。とはいえ彼の血の中に果してウクライナ種の混入があったかどうかについては、もとより確証があるわけではない。祖父はチェーフという姓を名のる農奴で、居住地は中央ロシヤもずっと南に寄ったヴォローネシ県であった。チェーフというのはチェック人という意味の珍しい姓であり、ヴォローネシ県の人口の過半は当時ウクライナ人によって占められていた。この祖父がやがて自由をあがなってウクライナに移住し、ついで父の代になるとロストフに近い港町タガンローグに居を定めて、食料品店を開いた。父はこの町の反物商モローゾフの娘をめとった。アントンはその夫婦の間に生まれた五男一女の第三子である。両親はともに正教徒であった。タガンローグはギリシャの商人なども多数居住する雑居的な商業町であった。……チェーホフの系譜から恐らくこれ以上のデータを拾い出すことはむずかしいだろう。ウクライナ或いはその他の血の混入の可能性はかなり濃いと言えるが、それを断定する根拠も別にないわけである。第四節に引いた手紙のなかで、チェーホフが自分を小ロシヤ人と呼んでいるのをわれわれは見た。もちろん例の冗談であるが、少なくも彼が「南方の出身」ということに或る程度の関心を抱いていた証拠にはなるだろう。同時に以上の諸事実からして、彼が南方系の一種衝動的な天真の笑いに必ずしも無縁でなかったことは、おぼろげながら推察することができようと思う。
 チェーホフは十九歳でモスクワ大学に入り、はじめて北の空気を吸った。翌年の春、最初の短篇小説がユーモア新聞に掲げられたのを手はじめに、彼はアントーシャ・チェーホンテという戯れ名をはじめ、「患者のない医者」、「短気者」、「脾臓フサギノムシのない男」、「放浪者」、「ユリシーズ」等々の名にかくれて、七年間に四百篇を超えるユーモア短篇、小品、雑文、通信記事の類を、いろんな滑稽新聞や娯楽雑誌に書いた。学資かせぎと一家の扶養が本来の目的であったが、勿論この濫作には惰性やジャーナリズムの要求が有力に働らいていたことは疑えない。……これがアントーシャ・チェーホンテ時代のあらましである。通説によれば、この時期は彼の無自覚な嬉々ききとした小鳥の歌声のような時代だったというのだが、この推量の荒唐無稽はあえて当時の彼の手紙を引合いに出すまでもなく、一見して明らかだろう。それは笑いの強制労働であり、語弊さえいとわないなら「売笑」と呼んで差支えないくらいだ。ゴーゴリの場合も、その天成の笑いは若年にして北の空気によって著しく変質せしめられたが、チェーホフの場合はおそらくその比ではなかったにちがいない。勿論その持って生まれた笑いの衝動そのものは消え失せるはずもないのだが、笑いの性格は殆ど旧態をとどめぬまでにゆがまされたと見るのを至当とするだろう。
 のみならずチェーホンテ時代の初期すでに「チェーホフの哀愁」が始まっていたことを証拠だてることも、決してむずかしい仕事ではない。例えば『おくれた花』という小説を見るがいい。これはかなり大型な作品で、二十二歳春の作である。ある令嬢がかかりつけの田舎医者に恋する。さんざん躊躇ちゅうちょしたあげくにやっと意中を打明けるが、その頃は肺病がよほど進んでいる。医者は自分の精神的堕落を顧みて、この令嬢の告白を頗る持てあますが、とどのつまり彼女をつれて南仏へ転地旅行に出かける。ところが彼女は転地先に着いて三日もたたぬうちに死ぬ。「秋もふけては花も咲かない」のである。この物語からわれわれは容易に『イオーヌィチ』(一八九八)という晩年に近い作品を思い出すだろう。これも令嬢と田舎医者の物語である。令嬢がピアノをくのも両者を通じて同じだ。医者の精神的堕落も同じである。ただ片恋の方向が、まず医者から令嬢へ、やがて令嬢から医者へと、イスカのはしになっているだけで、最後に病身になった令嬢が母と二人で静養に出かけるところも同工異曲といえる。『イオーヌィチ』には勿論前者に見られない凝縮と重厚さがあるが、作を支配する暗い気分は殆ど同じであって、要するに後者は前者の改作と言ってもいいほどである。して見れば二十二歳のチェーホンテは、三十八歳のチェーホフの作品をすでに書いていたということになる。これは考えなければならぬ事がらである。
 次に、チェーホフは果して『イヴァーノフ』を転機として、チェーホンテの笑いを失ったか? この説をくつがえす反証を求めることは一層やさしいだろう。『手帖』は一八九二年から死の年に至る間の彼の覚書の類を集めたものだが、その中にはヴォードヴィルの腹案や、その登場人物のための滑稽な作り名の考案が、殆ど一項目おきに出てくるといっても過言ではない。この『手帖』も彼の日常の言動と同じく、快活と憂鬱の間断ない交替と言って差支えないのだ。また作品を眺めても事情は殆ど変らない。笑劇『熊』は一八八八年の作だし、おなじく『結婚申込』は翌年すなわち『イヴァーノフ』と同じ年の作、おなじく笑劇『心にもない悲劇役者』は更にその翌年の作だ。ずっと晩年に及んで、すでに肺患のかなり進んでいたはずの一九〇一年(結婚の年)には、『結婚披露』『記念祭』の二つの一幕喜劇がある。その上なお、以上のうち『熊』と最後の二喜劇が、いずれも所謂初期の短篇小説の脚色であることを知れば、チェーホンテとチェーホフの間に境の線を入れることの無意味さは益※(二の字点、1-2-22)はっきりするだろう。いや笑いの本質から見れば、壮年以後の彼の笑いは、青年期の強制から解き放たれて、却って笑い本来の嬉々たる面目をとり戻しているといってもいいくらいなのである。
 僕は前のどこかの節で、非情人としてのチェーホフを描きながら、彼は一切の目標から切断されているゆえに、多少とも本質的な変動というものもあり得ないと述べておいたが、それがまんざら的外れな言葉でもなかったことが、以上二様の考察からほぼ明らかにされると思う。チェーホンテは初めからチェーホフであったし、アントンは終りまでアントーシャであったわけだ。
 ところでチェーホフの笑いというものは、一体どういう性格のものであったか? それを端的に窺わせるに足る挿話がゴーリキイの回想の中にある。チェーホフはどうかするとひどく上機嫌な時があり、そういう時にはにこにこしながら何かユーモラスな題材を話すのを常とした。ある日こんな話をして聞かせた。主人公は女教師。無神論者でダーウィン(!)の崇拝家で、迷信は撲滅ぼくめつしなければならんと思いこんでいる。ところが彼女は夜の十二時になると、風呂場へ黒猫を持ち込んで煮る。それは鎖骨をとるためなのだ。「いいですか、鎖骨というのは、男に愛情を起させるという骨なのですよ」と、チェーホフはさも可笑しそうにつけ加える。これがつまりチェーホフにとっては陽気な芝居の筋書だったのだ。さすがのゴーリキイもこれには度胆を抜かれたらしい。「これで陽気な芝居を書いているのだと本気で思っているらしい」と、ゴーリキイはわざわざ繰り返している。
 こうしたチェーホフの笑いに親しむにつれて、おそらく『三人姉妹』や『桜の園』が喜劇だという意味が、だんだん分ってくるはずである。チェーホフのつもりでは『三人姉妹』は喜劇であった。それどころか、スタニスラーフスキイの回想によると、『三人姉妹』がロシヤ生活の暗い悲劇だという解釈ほどチェーホフを驚かしたものはなく、死ぬまでついに同意することができなかった。彼はそれを陽気な喜劇、いやほとんど笑劇だと確信していた。これほど彼が熱心に自説を主張したのを、あとにも先にもスタニスラーフスキイは見たことがなかったという。しかもモスクワ芸術座の板にのった『三人姉妹』が完全な「悲劇」になってしまったことは、改めて言うまでもあるまい。
 それにりたものか、『桜の園』はわざわざ「喜劇」と銘うってある。これもチェーホフに言わせると「殆どファース」だったのだが、上演の結果はやはり『三人姉妹』と同じ運命をたどったのである。要するにスタニスラーフスキイやダンチェンコほどの人物にも、チェーホフの意図する喜劇というものが、どうしてもつかめなかったものと見える。ここには又もや、大きな「切断」があったと言っていいだろう。
 なかでも興味のあるのはロパーヒンという人物の取扱いだ。ロパーヒンは「桜の園」の農奴の小伜こせがれからのし上って一かどの商人になり、ついにこの荘園の新しい主人に納まるのであるが、チェーホフのつもりでは、これが『桜の園』という「喜劇」の中心人物なのだった。あんまり彼がこの役を大事にするので、フリーチェのような批評家は、ロパーヒンは実はチェーホフが自分の勝利の歌を托したものに他ならないとまで極言するに至った。事実チェーホフの手紙の中には、自分が父祖代々骨身にしみこんでいる奴隷根性をしぼり捨て、ついに精神的自立と教養をかち得たことを、妙に興奮した調子で、誇らしく述べ立てている一節がある。それを思い合せれば、フリーチェ流の推量の成り立つ根拠は一応ないでもなかろうが、今は差当ってそれが問題なのではない。問題はチェーホフが、このロパーヒン役をスタニスラーフスキイに振り当てようとしたことにある。それほど註文のやかましい役だったのである。
 周知のように、スタニスラーフスキイは『三人姉妹』のヴェルシーニンとか、『村の一月』(ツルゲーネフ)のラキーチンとか、『ヘッダ・ガブレル』のレウボルグとか、或いは『ヴァーニャ叔父さん』その人とかいうふうの、どっちかといえば繊細味の勝った中年の「余計者」型にしっくりする役者で、決して成上り者に合うはずがない。ところが当の商人ロパーヒン自身も、奇怪なことには「画家のようなしなやかな手をした、こまやかな優しい心の持主」として描かれているのだ。のみならずチェーホフがダンチェンコやスタニスラーフスキイに宛てた手紙でくどくどと駄目を押しているところによれば、ロパーヒンは白チョッキに黄色い短靴をはいている、両手をふって大股に歩く、歩きながら考える、髪は短くない、したがってちょいちょい首を振りあげる、考えごとをする時はひげを後から前へ指でしごく――とか、彼は商人とはいえあらゆる意味で立派な人物だ、だから完全に礼儀正しく思慮のある人間として振舞うべきで、こせついたり小手先をろうしたりしてはいけない――とか、チェーホフとしては珍しく微に入り細をうがった註文をつけている。つまり彼は、そうしたロパーヒンこそこの「喜劇」の成功の鍵であると信じ、このデリケート極まる人物をスタニスラーフスキイにこなして貰おうと望んだのだ。これにはどうも何か深い考えがあったに相違ない。
 だが今度もやはりスタニスラーフスキイにはどうしてもこの註文が呑み込めなかった。彼は結局ガーエフ役に廻り、ロパーヒン役はレオニードフという若い役者が持った。レオニードフは『ジュリアス・シーザー』のカッシアスとか、『カラマーゾフ』のドミートリイとか、農民一揆のプガチョーフなどをはまやくとするいわば荒事師である。どんなロパーヒンが出来あがったかは想像に難くない。こうしてチェーホフの意図は完全に裏切られたのだが、芝居は「悲劇」として大成功を収めたのである。
 もちろん僕は、チェーホフのいう喜劇の意味が、完全に分ったなどと自惚れるつもりはない。ロパーヒン役についての彼のおそろしく慎重な態度にしても、底の底まで究めてみる域にはまだ頗る遠いのだ。まあ一生かかっても出来ないだろうと思っている。だがこの人物がチェーホフの註文どおりに演ぜられた姿を、あの第三幕の想像的舞台面にのせてしばらく見つめていると、おぼろげながら或る暗示のようなものだけは受けとれるようである。それを一口に言えば、ロパーヒンが「桜の園」の主人に成り変ったのは、いかなる意味でも暴力的ないしは突発的な行動の結果ではなかった、ということだ。それは主としてラネーフスカヤ夫人あるいはガーエフによって代表される地主階級の自然的衰弱によるものであって、地球がこれまで何千年にわたっていやというほど見て来たところの世代の移り変りの一こまに過ぎない。それは生物進化の理法から見れば当然中の当然であり、いわばほんの家常茶飯事にすぎない。このアンチームな事実、これまで無数回にわたって繰り返され、この先も地球が存続するかぎりは無限に繰り返されるであろうところの常套事に直面して、ある者は泣き沈み、ある者は茫然自失ぼうぜんじしつし、ある者は鍵束を床へ投げつけ、あるものは夢かと驚喜し、楽隊はためらい、万年大学生は「新生活の首途」を祝う。これがどうして「喜劇」として通らないのであるか。チェーホフとしては何としてもに落ちなかったに違いない。なるほどロパーヒンは成上り者だ。彼の身なりは一応ととのっていはするが、その全体としての調和にはおそろしくちぐはぐなものがある。しかし彼には勤勉があり、努力があり、誠実があり、実力がある。どうしてこの愛すべき滑稽な登場者を、拍手をもって喜び迎えてやる気になれないのか。ラネーフスカヤ族もまた、曾てはそのようなちぐはぐな身なりをして、歴史の舞台に登場したのではなかったか。どうしてこれが喜劇ではないのか。チェーホフとしては解けぬ謎だったに違いない。だがやがてそのロパーヒン族にも、「桜の園」から出てゆく日が来るにちがいない。未来の夢にばかりふけっている万年大学生族が、この園の次の主人になれるかどうかは些か疑わしいが、とにかく又してもちぐはぐな恰好をした真面目まじめで滑稽な勤労者が登場して、何代か後のマダム・ロパーヒナはその美しい髪をふりみだして泣き崩れるだろう。だから今こそロパーヒンを祝ってやるがいい。どうしてこれが喜ばしい祝祭劇でないのか。舞台が空っぽになって、そこここのドアに錠をおろす音が聞え、やがて馬車の出る音がし、あとは静かになる。やがてその静寂のなかに、桜の木をり倒すおののにぶい響きが伝わってくる。なぜ人はそれを弔鐘と聞くのだろうか。それは一つの進化を告げる祝祷しゅくとうの調べではないか。なんでそれをわざわざ悲劇に仕立てる必要があるのか。そこがチェーホフには何としても合点が行かなかったに違いない。……
 チェーホフは最後に少なくももう一つ、「喜劇」を書く意図があった。それはオリガ・クニッペルの回想によると、次のような頗る幻想的なものであった。主人公は学者。ある女を愛している。女は彼を愛さず、または彼を裏ぎる。学者は北極へ旅だつ。三幕目は氷にとざされた汽船。オーロラ。学者がひとりデッキに立っている。静寂、安らぎ。その時ふと見ると、オーロラを背景に、愛する女の影が通りすぎる。……僕が第三節に書いたことを記憶しておられる人は、何か思い当ることがあるだろう。
 この戯曲はついに書かれなかった。その代り彼は臨終の床で、最後の「陽気な」セリフを吐いた。彼は一九〇四年ロシヤ暦七月二日、ブーニンの言葉によれば「夏の夜明けの静寂と美しさのうちに」南ドイツの鉱泉地バーデンヴァイラーの旅舎で安らかに死んだ。その臨終のことばは、「イヒ・シュテルベ」だったと未亡人は伝えている。人は又してもここに悲劇を見るだろうか。悲劇の完結を見るだろうか。それとも科学者の冷静さに感服するだろうか。どうやら二つとも違う。彼は医者のくせにドイツ語が頗る不得手だった。その不得手なドイツ語を、わざわざ死の床で、生前の伴侶の前で使ってみせたのである。その時の彼の表情を思い浮べてみるがいい。チェーホンテは最後まで健在だったのである。
30. ※(ローマ数字7、1-13-27). 1948
(一九四八年十一月、『批評』第六十二号)





底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
   2008(平成20)年5月16日第1刷発行
   2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「神西清全集 第五巻」文治堂書店
   1974(昭和49)年発行
初出:「批評 第六十二号」
   1948(昭和23)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:米田
校正:POKEPEEK2011
2014年7月16日作成
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