鷲の巣

ビョルンステェルネ・ビョルンソン Bjornstjerne Bjornson

宮原晃一郎訳




 ビョルンステェルネ・ビョルンソン Bj※(ダイエレシス付きO小文字)rnstjerne Bj※(ダイエレシス付きO小文字)rnson (1832-1910)。イプセンと並び稱せられるノールウェイの文豪。牧師の子と生れ、詩に、劇に、ジャーナリズムに又演説に、その一生は實にあらゆる方面に於ける活動の連續であつた。けれども、彼は一面ラヂカリストなると共に、他面、守舊的であつた。文學に於て又思想に於て、彼は牧歌的、道義的で、何處かに説教を藏してゐる。
『鷲の巣』はその短かさに反比例して、よく彼の文學者としての全貌をあらはしてゐる。
[#以上、宮原晃一郎による解説]
[#改ページ]

 高い懸崖に圍まれて、淋しく横はる小村はエンドレゴォルと稱ばれた。村が立つてゐる地面は平らで、肥沃であつた。その中を一筋の廣い川が山から流れ落ちて、貫き通つてゐた。此の川は村から遠くない、向ふの方に見えてゐる湖に注いでゐるのだつた。
 昔此の湖に一隻のボートに乘つて一人の者がやつて來た。其者こそは此の谷間に開墾を始めた最初の人間であつた。その名はエンドレであつた。現在の村の住民はその子孫である。
 二三の者は言つた――エンドレは人殺しをして此處へ逃げ込んだのだ。それだから村民の顏が陰慘に見えるのだと。他の者は反對して言ひ張つた――それは懸崖の負ふべき罪だ。ヨハネ祭(中夏)の頃でさへ、もう午後五時には日の光は谷の中にさして來ないのだからと。
 村の上の方に鷲の巣が一つ懸つてゐた。それは山の岩角についてゐた。鷲が卵をかへしにかゝると、誰でもこれを見ることができた。けれども、一人として其の巣にとゞいたものはなかつた。
 鷲は村の上を飛び翔つて、時には仔羊を、又時には仔山羊を襲つた。一度などは小さな子供をさらつて行つたこともあつた。だから鷲がその巣を岩角にかけてゐるうちは、安心がならなかつた。
 村人の間に、こんな話があつた。昔、その巣にとゞいて、滅茶苦茶にこはした二人の兄弟があつたさうだが、近年、それにとゞいた者は一人もないといふことだつた。
 村で人が二人寄ると、鷲の巣の話が出て、上を見あげるのだつた。
 近年、何時、鷲が戻つて來たか、何處を襲つて、損害を與へたか、最近では誰がそこへ登つて行かうと企てたか、などのことはちやんと分つてゐた。青年たちは子供の時分から、山や木に登る練習をつみ、いつかはあの鷲の巣にとゞいて、昔話の兄弟たちのやうに、巣を打ちこはせるやうにならうと、とりわけ角力をとつて身をきたへてゐるのであつた。
 此の話の頃、村一番の立派な青年でライフといふ者があつた。彼は村の始祖エンドレの子孫ではなくて、髮がちゞれ、眼が細く、巫山戲てばかりゐて、女が好きだつた。彼はもう子供の時分から、鷲の巣によぢ登つてみせるぞといひふらした。けれども年寄達は、彼がそんなことを聲高に言ふのは感心できないと言つた。
 これが彼をのぼせ上がらせた。そこでまだ最適の年齡にもならないのに、早くも岩角の登攀を企てた。それは初夏の晴れた日曜日の午前であつた。青年たちは今日こそ直ちに計畫をやらなければならないといふのであつた。多くの人々が懸崖の下に集まつた。老人達はやめた方がよいと言ひ、若い者達はやるがよいと言つた。
 だが、ライフは只自分の望みにだけ耳を傾けた。だから鷲のめすが巣を離れるのを待ち構へて、一跳びに地上數尺の高さにある一本の松の木にとびついて、ぶら下がつた。此の木は岩の裂目から生え出してゐたので、ライフはこの裂目をよぢ登り始めた。小さな石が[#「小さな石が」は底本では「小さなな石が」]彼の足の下に崩れた。砂利や土塊つちくれが轉がり落ちた。その音より外には深い靜寂。只遙かに川の流れが絶えず淙々と音を立てゝその河口へ注いでゐるだけ。
 懸崖はだん/\嶮しくなつた。長いこと彼は片手で下がつて、足で以て、足がゝりをさがしてゐて、よそを見ることはできなかつた。
 多くの者、とりわけ女たちは顏をそむけて、若し兩親が生きてゐたなら、ライフはこんな危ないことをしなかつたゞらうにと云ふのだ。
 けれども、彼はどうやらして、堅い足場を見付けて、又もや登りだした。今、手でもつて、と又、足でもつて――後戻りする、滑る、けれども、すぐに又しつかりと取付く。
 下で立つて見てゐる人達は、お互がはら/\してゐるその息づかひが、はつきりと聞き取れた。
 と、先程から、ひとり寂しく、岩の上に坐つてゐた、一人のせいの高い娘が立上つた。此の娘はもう子供の時分から、ライフと許婚になつてゐた、彼は村の住民とは血族關係がなかつたのだけれど。
 娘は手を高く上げて叫んだ――
「ライフ! ライフ! なんだつて、あんたはこんな事をするのよ!」
 集つてゐる人々はみな娘の方をふり向いた。其處には父親が並んで立つてゐた。けれども娘はそれに氣がつかなかつた。
「降りて頂戴、ライフ! 私、あんたを愛してるわ。そんなところに登つたつて、何の徳もありやしないわ!」
 ライフは思案してゐる樣子であつた。
 それが一二秒つゞいた。
 と又、登りだした。
 彼の手も足もしつかりしてゐた。だから、長いこと、うまい工合に行つた。けれども、程なく彼は疲れだした、さい/\休むやうになつたから。
 凶い前兆まへぶれのやうに、一つの小石がころがり落ちた。其處に立つてゐる人たちは、彼がその下にとゞくまで、彼を目で跟けないではゐられなかつた。
 二三の者はもう堪らなくなつて、見てゐることができないで、行つてしまつた。
 娘だけが石の上に棒立に立つて、手を握りしめて、上の方を見上げてゐた。
 ライフは又もや手で自分の前をさぐつた。此の時、彼女は、突然此の手が外れたのを、はつきりと認めた。と、ライフはすばやく別な手で掴まうとした、が、それも又外れてしまつた。
「ライフ!」と、娘が叫んだ。
 聲が懸崖の上を越して高らかに響き渡つた。他の人達もこれに聲を合せた。
「あつ、辷つた!」
 みんなは叫んで、手をライフの方へ差上げた、男も女も一樣に。
 ライフは本當に辷つた。
 砂、石、砂利などがざら/\と、彼と一緒に崩れ落ちた。彼は辷つた、辷つた、だん/\速さをまして――
 人々は顏をそむけた。彼等は自分の背後うしろに岩石の崩れる音を聞いた。間もなく何か重たい、かたまりのやうなものが、濕つた土にどしりと落ちたやうであつた。
 人々が再びあたりを見廻すだけの勇氣が出たとき、ライフはめちや/\に、見分けもつかぬやうになつて、其處にころがつてゐた。
 娘は石の上に倒れた。父親がそれを抱き起した。
 ライフを一番そゝのかした青年は、今、手を貸して、彼の扶けにならうとはしなかつた。誰も彼を正視することはできなかつたのだ。
 そこで年寄たちが出なければならなかつた。そのうちの一番年長者はライフの方へ手を出しながら言つた――
「これは馬鹿げたことだつた。けれども――」
と、彼は言ひ足した。
「それも善いことだ、誰にもとゞかれない、あんな高い處に、何かゞ懸つてるといふことは――」
(をはり)





底本:「北歐近代短篇集」白水社
   1939(昭和14)年6月30日発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2008年3月21日作成
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